連理−6−
左京北辺に位置する安倍本家を天狗が訪れたのは、実に九十五年ぶりのことだった。
懇意であった晴明が亡くなって以来初めて此処を訪れたのだが、彼の子孫である歴代の当主達は、ずっと本家を守ってくれていたらしい。晴明の趣味で自然に近い形で作られた庭も、彼と共に月を眺めながら酒を飲んだ寝殿の濡れ縁も、あの頃と変わらぬ佇まいで其処に存在していた。
何もかも晴明が生きていた、あの頃のまま――。
久しぶりに見る安倍家を懐かしみながら寝殿の庭に降りようとした天狗に、離れの簀子縁の上から泰長が声を掛けた。

「大天狗殿、此方です」
「おお、其方におったか、泰長」

天狗は泰継を抱えたまま、寝殿の庭に羽音のみ残して離れへと方向転換した。
泰継を畏怖する本家の弟子達がこの離れに近付くことはない。万一隠形の術を施した天狗の姿を視ることが出来る力を持つ者がいたとしても、此処ならば安心だ。
そう思い、泰長は八葉の務めの間泰継が逗留している離れに褥を整えさせたのだった。


「泰継殿……? これは……」

離れの簀子縁の上に降り立った天狗に近寄り、天狗に抱かれた泰継の姿を見た泰長は、彼の身に起きている事を一瞥しただけで看破したようだ。

「ほう。さすがは安倍の当主じゃの。一見で判ったか?」
「ええ。……ですが、『安倍の当主』ではなく、『泰継殿の弟子』と言って頂きたいですね」

むすりとした調子で付け加えられた言葉に、天狗は苦笑を漏らした。
(まったく……。こやつも変わらんのう……)
幼い頃から安倍の家に批判的だった泰長にとっては、自分の家より敬愛する師匠の方が大事なのだ。

「さ、早く中へお入りください。まずは暖を取られませんと……」

そう言いながら天狗を室内へと誘う泰長だが、彼が心配しているのは飽く迄も彼の師の身体だけだ。今までの泰継には問題なかった寒さも、今後はそういう訳にもいかないであろうから。
彼の心配が泰継のみに向けられていることを知っている天狗は、苦笑しながら妻戸を潜った。


室内では既に火桶に炭がくべられている。
几帳すらなく文机が一つ置かれただけの殺風景な部屋の中央には、褥が整えられていた。
離れに初めて足を踏み入れた天狗は、室内の様子を見て、何処となく泰継の庵に似ているという印象を持った。
そのまま直ぐには褥に向かわず、天狗は一旦泰継を床の上に下ろした。
雪の上に倒れた泰継の袍や髪は、しっとりと濡れていたのだ。このままでは風邪を引いてしまうだろう。
濡れた着物を脱がせて単姿にすると、天狗は漸く泰継を褥の上に横たえた。髪の結いは解き、濡れた髪は既に泰長の手により、乾いた布で丁寧に拭かれている。周囲の気を敏感に感じ取り、自分の気を馴染ませるため、常に裸足でいる足も同様である。
泰継の身体に衾を掛けると、天狗は枕元に座った。
泰継の着物を式神に持って来させた衣架に掛けていた泰長も、それを終えた後、天狗の向かい、泰継を挟んで反対側の妻戸側に腰を下ろした。
天狗と泰長は暫し黙したまま、褥に横たわる泰継を見つめた。
顔色は相変わらず白かったが、生気の感じられない白さではない。
微かな泰継の呼吸と時折火桶の中で爆ぜる炭の音以外に、耳に届く音はなかった。
静かに時間が流れて行く。
神子と泉水が到着するまで、まだ少し時間があるだろう。


「……晴明と吉平も、さぞ喜んでおるじゃろうなぁ」

それまで黙って泰継の整った顔を見つめていた天狗がぽつりと呟いた。
「晴明……でございますか」
泰長の高祖父に当たる晴明は、泰明の師匠であったということだが、泰継が吉平により人型を与えられた時には既に亡くなっていたはずだ。泰継の核となる陰の気は彼の物であったとは聞いているが、泰継と晴明は直接面識はないはずである。
口に出されなかった泰長の疑問を感じ取り、天狗は今まで泰継自身にも話したことがない事実を泰長に話すことにした。

「晴明はなぁ、『人型を得た泰継の姿を見たことがある』と言っておったのじゃ」
「えっ!? それは、一体、どういう事なのでしょうか?」

晴明が亡くなって五年後、人型を与えられた泰継。その彼の姿を晴明が見たことがあるというのはどういうことか。
驚く泰長に、天狗はニヤリとした笑みを向けた。
「晴明の奴、『もう一つの精髄の行く末を見せろ』と龍神を脅したらしい」
泰長が唖然とした表情でこちらを見ているのを、天狗は面白そうに見遣る。
「あやつ、その時既に泰明を八葉として遣わせておったからの。その代償に願いを叶えろと言われ、龍神も否とは言えなかったのじゃろうよ」
「はあ……」
安倍晴明と言えば、陰陽師の家系として有名な安倍家において始祖的な存在であり、かつ、彼が亡くなって百年近く経つものの、未だ彼以上の力の持ち主は現れていないと言われる、稀代の陰陽師である。その伝説的な存在である晴明が、まさか京の守護神である龍神を脅すとは……。

呆気にとられ、それ以上言葉が続かない様子の泰長を見て笑い声を上げた天狗は、再び泰継に視線を落とした。少し長めの前髪が目の上に被さっていることに気付き、それを手櫛で梳き上げてやる。

「晴明も、吉平も、死ぬ間際までこやつの事を案じておった」

泰明と同じ出自ながら、人型を得て二年で八葉となり、人になった泰明に対し、神子により救われたばかりの京に生まれ、次の神子が現れるまで長い歳月待つことになるであろう泰継。
晴明はそれを憂い、吉平は自分が亡くなった後、泰継が人になれるまで彼を導ける者がいないことを憂えていた。
故に、二人は亡くなる前、共に天狗に「泰継のことを頼む」と遺言した。いつ果てるとも知れぬ長い生を生きることになる泰継と時間を共有するのは、人の身では不可能だったからだ。
しかし、天狗は二人から頼まれたという理由だけで泰継を見守って来た訳ではなかった。
(強いて言えば、父性とやらかのう)
泰継の髪を指先で弄りながら、天狗は目を細めて彼を見つめている。


天狗の優しい眼差しに気付き、泰長は笑みを浮かべた。
(普段からそのような態度で泰継殿に接されれば良いものを……)
天狗の愛情表現は少し屈折している。本人に面と向かって素直に愛情を表せないらしく、つい揶揄うような態度を取ってしまうらしい。そして、その都度、泰継に冷たい目を向けられているのだ。
もし、泰継の意識があったら、髪を弄るなど決して許してもらえなかったであろう。
何とも不器用な方だ、と泰長は思う。

――神子殿たちが来られるまで二人きりにして差し上げようか。

親子水入らず、ではないが、泰継が人になった後、このような二人だけの時間を持つことは難しいであろうから。
泰長は静かに立ち上がった。

「神子殿と泉水殿をお迎えして参ります」

天狗にそう声を掛けて妻戸に向かう。

「まったく……。馬鹿者が……。皆に心配かけおって……」

妻戸を開けて退出しようとした時、泰長の耳に小さな呟きが届いた。
きっと、天狗は先程と同じ優しい眼差しで泰継を見つめながら、彼の髪を梳いてやっているのだろう。
聞こえなかったふりをした泰長は、口元に笑みを浮かべつつ、室内を振り返ることなく静かに妻戸を閉めたのだった。





◇ ◇ ◇





安倍家に着いた花梨と泉水は、泰長に案内され、離れへと足を踏み入れた。
そこには、褥に横たわる泰継の姿があった。

「――泰継さん…?」

花梨は室内に入るや否や泰継の枕元に近付いて膝を突き、小さな声で名を呼んだ。
泰継から返答はない。
しかし、火之御子社では青褪めていた肌や唇が普段の色に戻りつつあることが見て取れる。
ゆっくりと上下する胸と穏やかな呼吸――。
こうしていると、泰継はよく眠っているようにしか見えなかった。

花梨は恐る恐る手を伸ばし、泰継の頬に触れてみた。
――温かい…。
彼の頬に倒れた時には感じられなかった体温を感じ、花梨の瞳は見る見るうちに潤み始めた。

――生きている。
彼は、生きている!

漸くそう確信した途端、花梨の目から涙が零れ落ちた。堰を切ったように、次々と涙が溢れては頬を伝い落ちて行く。
両手で顔を覆い、嗚咽する。

「や…すつ…ぐ…さ……、よかっ……」

言葉では表し尽くせない想いが涙と共に溢れ出そうだった。
――彼が生きている。
今はただそれだけで良かった。
それだけで嬉しかった。

「神子……。ようございました……」

花梨の隣に跪いた泉水が、両手で顔を覆ったまま咽び泣く花梨の背中を擦ってやりながら言った。彼の瞳も既に決壊しそうなくらいに潤んでいる。
そんな二人の様子を優しく見守る天狗と泰長の目も、少し潤んでいるように見えた。




「……もう大丈夫です。ありがとう、泉水さん」
一頻り涙を流して漸く落ち着いた花梨は、目を擦りながら泉水に礼を言った。
「いえ、大した事はしておりませんから。――神子、あまり目を擦られると、赤くなってしまいますよ」
泉水に指摘されて、花梨は顔を赤らめた。人前でこんなに泣いたのは生まれて初めてだ。
顔を上げると、いつの間にか向かいに座っていた泰長と目が合った。彼は微笑ましそうに花梨と泉水の遣り取りを聞いていたようだ。
「落ち着かれましたかな、神子殿」
「は、はい。取り乱したりして、すみませんでした」
花梨は恐縮した様子でぺこりと頭を下げた。
その時、何もない空間から声が掛かった。

「どれ。神子が落ち着いたところで、そろそろ話の続きをしようかのう」

しわがれたその声は天狗だ。
天狗の言葉に、花梨ははっとする。火之御子社で訊けなかったことを訊かなければと思ったのだ。
(泰継さんに何が起きたの? もしかして、眠りの時期が早く来ただけなの? そしたら、泰継さん、三ヶ月眠ったまま…? それに、『私が泰継さんに気を授けた』って、どういうこと?)
疑問は尽きなかった。

「あの、天狗さん」
「何じゃ、神子?」
「『泰継さんが私から気を授かった』って、一体どういうことなんでしょうか?」

他人に気を授けることなど、自分に出来るはずがないと花梨は思う。怨霊との戦闘の際、術を使うため八葉達に五行の力を送ることはあるが、今回の場合はそれに当てはまらないことは明らかだった。

「天の玄武。お主、見ておったのじゃろう? どうやら神子には自覚がないようじゃ。お主がその目で見たことを説明してやってくれんかの」
「は、はい」

突然説明役を振られた泉水は、驚きながらも火之御子社で目撃した事実を花梨に説明した。

「神子。私は火之御子社で、貴女から泰継殿に流れ込む気の流れを感じました。暖かな気が、泰継殿が失った気を補うように、泰継殿の内を満たして……。私が駆け付けた時には完全に停滞していた泰継殿の身の内の気が、それと共にゆっくりと巡り始めたのです」

泉水は一旦言葉を切ると、胸に手を当て、目蓋に焼付いた光景を思い出すように目を閉じた。

「それは、淡い黄金色の光を帯びた温かな流れでした。それが神子と泰継殿を包んで……。それは美しく、神々しい光景だったのです」
「でも、私……、そんな光なんて見ませんでしたよ?」

確かにあの時は泰継を失ったと思い、涙で何も見えないくらいだったが、さすがに光なら明るさの変化を感じ取れただろう。しかし、泉水は見たというのに、花梨は何も感じなかったのだ。
何故だろうと不思議そうに小首を傾げる花梨を見て、泉水は自分の説明が拙かったのかと思ったらしく、戸惑いの表情を浮かべている。
そんな二人を見て、泰長は微笑みを浮かべた。どうやら、泉水は気の流れを感じたものの、その正体までは把握していないらしいと気付き、泰長は泉水の説明を補足することにした。

「泉水殿が見た『光を帯びた気』というのは、陽の気のことでしょう。神子殿、泰継殿は貴女から陽の気を授かったのですよ」
「『陽の気』……?」
「然様」

再び首を傾げる花梨に頷きかけると、泰長は続けた。

「昨日お話した通り、泰継殿は晴明の陰の気を核として造られました。そのため、常に陽の気が不足し、陰の気に偏った不安定な型を持つことになったのです。これまで泰継殿が三月ごとに眠りと目覚めを繰り返して来られたのも、陰の側に大きく偏った気が原因なのです」

花梨は泰長の話を真剣な面持ちで聞いていた。泰継が陰の気に偏った人型を持つため、人と同じ生活が出来ないということは、彼自身から聞いていたことだ。肉体の成長も遅く、それ故安倍家の使用人や弟子達に不審に思われ、師の死後、安倍家を出て北山で独り暮らすことになったのだということも。

「その泰継殿に、貴女は陽の気を授けられた。神子殿の泰継殿への想いが陽の気となって、泰継殿に流れ込んだのです」

泰長のその言葉に、泉水が何かに気付いたように、はっとした表情を浮かべた。彼にはその言葉だけで泰長が言わんとする事が判ったのだ。
泉水の表情の変化に気付いた泰長が微笑みを浮かべて彼を見た。花梨に視線を転じると、まだ釈然としていないらしく、きょとんとした表情を浮かべている。


「神子殿から授かった陽の気により、泰継殿の内の気に均衡が齎されたのです。そして、気の均衡は泰継殿を、不安定な人型から揺ぎ無い存在へと生まれ変わらせた。すなわち――」

「――泰継は人になったということじゃ」


泰長の言葉を天狗が引き継いだ。その声には喜色が溢れている。


――泰継は人になった――。


花梨は直ぐにはその意味を理解出来なかった。夢の中で聞いているような、どこか遠くから微かに聞こえて来るような、そんな感覚で天狗の言葉を耳に捉えていた。
泰長と天狗の言葉を頭の中で何度も繰り返し咀嚼するうちに、漸くその意味を理解する。
(じゃあ、本当に……?)
本当に、泰継はもう消える心配をする必要のない、完全な人になったのだろうか。

「では、泰継殿は……」
「じゃあ、泰継さんは……」

泉水と花梨の声が重なる。

「泰継の気は、今は安定しておる。気が完全に安定するまで、暫し眠っているだけじゃ。もう心配いらん。お主のおかげじゃな、神子」

天狗の声が花梨の耳に優しく響く。
――もう心配いらん。
その言葉を聞いて、目頭が熱くなったかと思うと、忽ちの内に目の前の風景が涙に滲んで見えなくなった。


『神子殿が泰継殿を想われる気持ちこそ、泰継殿を人とならしめる手助けとなるでしょう』


昨日、泰長に言われた言葉の意味が漸く判った。
花梨が泰継を想う気持ちが、泰継に不足していた陽の気を与え、彼を人とならしめたのだ。
恐らく、泰明もそうだったのだろう。
先代の神子を想い、そして、彼女から愛されることにより、気の均衡を手に入れ、不安定な人型から人になったのだ。

「神子……。本当に、ようございましたね……」

ぽろぽろと涙を零しながらしゃくり上げ始めた花梨を、泉水が優しく宥めた。
その様子を、天狗と泰長は微笑みを浮かべて頷きながら、見つめていた。



その後は、泰継が目覚めるのを待ちながら、四人で色々な事を話した。もっとも、話すのは専ら天狗と泰長で、泉水と花梨は殆ど聞き手に回っていたのだが。
天狗と泰長の話は、泰継が北山に庵を結んだ頃の話や、天狗から見た泰明と泰継の違いについて、また、泰長が泰継の元で修行していた頃の事など、泉水と花梨が泰継と出逢う前の知らない話ばかりで興味深く、ずっと聞いていたいと思うほど聞いていて楽しい話ばかりだった。
そして、何よりも花梨が嬉しかったのは、天狗が泰明と彼の神子について話してくれたことだった。泰継が人になった以上、もう隠す必要もないと言って――。
天狗と泰長が今朝から泣きづめの花梨を気遣って、敢えて花梨の興味を引くような話題を選択してくれているのだということは、泉水と花梨にも十分伝わっていた。
実はそれだけでなく、天狗と泰長も、泰継が人になったことをこの上なく喜び、高揚した気持ちを抑えきれずに、泰継の事を話題に上らせていたという事実もあったのだが。


そうして、泰継の枕元で彼の目覚めを待つこと二刻余り――。
午の刻になり、太陽が空高くに昇った頃、遂に四人が待ちに待ったその瞬間が訪れたのだった。










最初に泰継の目に入ったのは、視界のほぼ全てを埋め尽くす天狗の顔だった。


「気分はどうじゃ?」


(……天…狗……?)

天狗に言葉を返そうと口を開いたものの、微かに唇が動いただけで声にならなかった。

(ああ、そうか。北山に帰って来たのだったな……)

八葉の務めの間も、庵に置いていた書物を調べるために、何度か北山に帰って来ていた。その事が、ふと泰継の意識に上って来たのだ。
――しかし、今回何のために北山に帰って来たのか思い出せない。


「泰継殿…? お身体の具合は如何ですか?」


右の方向から泰長の声がする。

(泰長……? 何故北山にいる?)

そう考えながら、天狗の顔の向こうに僅かに見える室内の風景に目を凝らすと、此処が北山の庵ではなく、仮住まいとして借り受けている本家の離れであることに気が付いた。
それならば、むしろ天狗が此処にいる事の方がおかしい。晴明亡き後、天狗が安倍家を訪れることはなかったと聞いている。

(何故、天狗が本家にいるのだろうか……)

まだ頭がぼんやりしている。
記憶が混乱していることを自覚し、小さく息を吐くと、泰継は再び目を閉じた。忘却を持たないはずの自分に有り得ない事が起きている。その事実に益々混乱しながら、泰継は額に手を当て、これまで起きた事を思い出し、今自分が置かれている状況を把握しようと試みる。
――そもそも、何故、私は本家の離れで褥に横たわっているのだろう? まだ、目覚めの時期のはずなのに……。


「泰継殿……」


今度は左側から泉水の声が聞こえた。微かに震えを帯びた声から、目を閉じていても泉水が浮かべているであろう表情が想像出来る。
きっと、今にも涙が零れそうなくらいに、あの澄んだ紫色の瞳を潤ませているのだろう。
――何故泉水が泣いているのか、その理由は全く判らなかったが……。

(しかし、どうして泉水が安倍家に……)

玄武の加護を受ける八葉同士、神子と共に北の札を探す間に随分打ち解けては来たものの、泉水が安倍家を訪ねて来たことはなかった。一方、泰継が泉水を本家に呼んだこともない。
式部大輔である泉水が、現在雅楽頭に任じられている泰長とは仕事柄相識であるということは、泰長から聞いて知ってはいるが――…。
そこまで考えた時、まるで一瞬にして霧が晴れるように、一気に記憶が戻って来た。
記憶が戻るきっかけとなったのは、“神子”という言葉だった。

神子に会うため北山を下り、力の補充をしようと立ち寄った火之御子社で、思いがけず神子に会ったこと。
社の階に並んで座り、神子と話をしたこと。
安倍家に行くため神子が泉水を呼び戻しに行こうとした時、怨霊が現れ、戦うことになったこと。
それらの出来事が脳裏に蘇った。
だが、神子が怨霊を封印したところで記憶が途切れている。

(そう言えば、怨霊との戦闘で気を使い果たし、壊れたはずなのに……)

何故、私は此処にいるのだろう? これは睡眠中に人が見るという夢のようなものなのだろうか。
ふと、そう思った時、泰継ははっとする。
大切な事を忘れていた。

(そうだ。神子…っ! 神子は……、神子は無事なのか!?)

泰継は閉じていた目を見開いた。
その瞳に、先程までの寝不足のようなぼんやりとした色は見られない。
泰継は身体に掛けられていた衾を投げ出すように跳ね起きた。その拍子にゴツンという鈍い音がして、「ぎゃっ!」という声が上がった。泰継の顔を覗き込む姿勢で褥の真上の空中に留まっていた天狗の顔に、突然飛び起きた泰継の右肘が当たり、その勢いで部屋の隅まで跳ね飛ばされたのだ。

「何するんじゃっ! 危ないじゃろうがっ、この馬鹿息子っ!!」

「泉水っ! 神子は!?」

肘鉄を食らった天狗が抗議の声を上げるのと同時に、泰継は珍しく慌てた様子で声を上げた。喚く天狗の声は完全に無視し、恐らく自分の意識が途絶えた後、怨霊の気配を感じて火之御子社に戻って来たであろう泉水に神子の安否を確認する。
左腕を支えに上体を起こして先程泉水の声が聞こえて来た方を向いた時、褥の左手、枕元の一番近い位置に座っている神子の姿が目が入った。
花梨は口元を両手で押さえ、緑色の瞳一杯に涙を溜めて、泰継を見ていた。大きく見開かれた目が瞬きをするたび、大粒の涙が頬を伝い落ちて行く。
周囲の物音は既に二人の耳には入っていなかった。
泰継と花梨は、まるで時間が止まってしまったかのように身動き一つせず、暫くの間ただ互いの顔を見つめ合った。

「神…子……」

先に口を開いたのは泰継の方だった。
普段の彼の玲瓏な響きを持つ声とは違う、呟きのような小さな掠れた声――。
その声が耳に届いた瞬間、花梨の瞳からぽろぽろと涙が零れ出した。

泰継が生きている。
生きて、動いて、名を呼んでくれて……。

泰継の右手が伸びて来て、その存在を確かめるように、涙に濡れた花梨の頬に触れた。
その手のぬくもりに、花梨の目から止め処なく涙が溢れ出す。
天狗が言った通り、彼はもう大丈夫なのだ。
もう、彼を失うことに怯えなくていいのだ。
泰継が自分と同じ想いを抱いてくれているのなら、きっとずっと一緒にいられる。
これ以上ないくらい嬉しいのに……、それなのに、涙が止まらないのは何故なのだろう。

「や…すつ…ぐ…さん……」

何とか声を絞り出し、愛する人の名を紡ぐ。
笑顔を見せようとして失敗したかのように、花梨の顔がくしゃりと歪んだ。
彼の顔をもっと見たいのに、涙で霞んではっきりと見ることが出来ない。

「神子……」

再び泰継にそう呼ばれた時、花梨はもう我慢出来なくなった。

「――泰継さんっ!!」

胸に飛び込んで来た花梨を抱き留めた泰継は、その勢いに片腕だけでは完全には身体を支え切れず、思わず褥に肘を突いた。右腕の中の存在の重さと温かさに、これは夢ではないのだと、漸く確信する。

「神子…?」

左肘を突き、右腕で華奢な身体を抱え込んだ姿勢のまま、腕の中の存在に泰継が呼び掛ける。

「や…すつ…ぐさ……、ひっく。泰…継…さん、泰継さんっ!」

花梨は泰継の胸に抱き付いたまま、泣きじゃくりながら、ただ繰り返し泰継の名を呼んでいる。
今まで抑えて来たすべてのものを吐き出すように声を上げて泣き続ける花梨を、泰継は胸に抱き寄せたまま、暫くの間見つめていた。

「神子。泣くな……」

子供のように泣きじゃくる花梨に戸惑い、声を掛けてみるが、花梨は泣き止みそうにない。
泰継は困惑した様子で、助けを求めるように室内にいた三人に視線を向けた。

最初に目が合った泉水は、目を潤ませながら、ただ穏やかに微笑んでいた。
視線を右にずらすと、ニヤリと笑う天狗の顔がある。

「お主が神子を泣かせたのじゃ。自分で何とかせい、馬鹿息子」

そう言ったきり、天狗はニヤニヤ笑うばかりで、助けてくれそうになかった。
最後に褥の右側、花梨の真向かいに座っている愛弟子に目を向けた。
目が合うと、泰長は柔らかな笑みを浮かべて、無言のままどこか満足げに頷き掛けて来た。

三人から助けは得られないと悟り、泰継は再度花梨に視線を戻した。
花梨は泰継の腕の中でまだしゃくり上げている。
花梨の身体をしっかり抱え直すと、泰継は左腕を支えにして、ゆっくりと身体を起こした。
彼女の涙で単の胸元が濡れていることに気付く。だが、不思議と寒さを感じなかった。むしろ温かいと感じるのは何故だろうか。
褥に座った姿勢のまま、泰継は泣き続ける花梨を抱き締めた。

「神子……。神子、もう泣くな……」

彼女の背に回した手で、宥める様に背中を撫でながら、「泣くな」と声を掛け続けた。


いつの間にか室内に二人きりとなっていたことに、泰継も花梨も気付いてはいなかった。
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