連理−5−
火之御子社に近付くにつれ徐々に強くなっていく邪気に、泉水は怨霊が現れたのはやはり火之御子社だったのだと確信した。
(どうか神子と泰継殿がご無事であられますように……)
心の中でそう祈りながら、泉水は懸命に走り続けた。

生まれて初めてと言えるくらいの距離を駆け続け、やっと火之御子社の近くまで辿り着いた時、泉水は前方にあの老婆と童の姿を発見した。二人の様子から、童が老婆の身体を支えながら倒けつ転びつ何とか火之御子社から逃げて来たものの、その途中で老婆が腰を抜かして座り込んでしまったらしいことが窺えた。
「大丈夫ですか? 何があったのですか!?」
泉水は二人に近付き、今にも倒れ込みそうな老婆の身体を童とは反対側から支えてやりながら、そう訊ねた。
「お社にでっかい蜘蛛の化け物が出たんだ!」
身体を震わせ口も利けない様子の老婆の代わりに、童が青褪めた顔ながらも興奮気味に話し始めた。
「おいら、森の中で雪の山に躓いて転んだんだ。そしたら……」
童曰く、参道の脇から少し入った木の傍に、周囲より少し雪が盛り上がった場所があったのだという。雪掻きに飽きて走り回っていた時、それに気付かず躓いてしまったのだ。
何かと思い見てみると、それは石を積んで作られたものだった。転ばされた腹いせに、躓いた所為で崩れかけていた石の山を完全に崩してしまうべく蹴飛ばしたところ、不気味な靄が発生した。
吃驚して慌てて老婆の元に戻ったところ、靄がどんどん形を取り始め、蜘蛛の化け物が姿を現したのだという。
(“蜘蛛の化け物”……。土蜘蛛のことでしょうか)
土蜘蛛は泉水とは相克関係にある怨霊だ。
――それならば、取るに足りぬ身の自分でも、神子の力になれる。
泉水がそう思った時、童が言葉を継いだ。
「あんたと一緒にお社に来たお姉ちゃんに『早く逃げろ』って言われて、急いで婆ちゃんと逃げて来たんだ」
その言葉に泉水ははっとする。
「その方がどうしたか知っていますか?」
神子のことだ。怨霊と戦う能力のない老婆と童を逃がして、怨霊と戦うことにしたのだろう。
「遠かったからよく分かんなかったけど、一緒にいた男の人がお姉ちゃんを庇って化け物を退治していたみたい」
――あの人、陰陽師なのかなぁ?
そう話す童に礼を言うと、泉水は素早く立ち上がった。
「お二人とも、出来るだけ火之御子社から離れて下さい!」
そう言い残すと、呼び止めようとした童の方を振り返ることもせず、泉水は再び火之御子社へと駆け出した。


泰継は神子を守り、怨霊と戦っているのだ。
では、気の乱れは治まったのだろうか。陰陽師としての力を揮えるほどに。
だが、胸騒ぎが治まらない。
得体の知れない不安に押し潰されそうな感覚に襲われ、泉水は走りながら胸元を押さえていた。

『もっと深刻な事態があの方の身に起きているのではないかと、私は考えているのです』

昨日、泰長はそう言った。
もし、泰長の言う通り、泰継の身に深刻な異変が起きていたのだとしても、彼は神子を守るために自分を犠牲にすることを厭わないだろう。泰継がそういう性格であることを、泉水は彼と共に行動するようになって直ぐに理解した。そして、泰継から安倍家に造られた存在なのだと告げられた時、泉水は彼が自分自身を道具として扱っている理由を察したのだった。そんな自分を大事にしない彼のことを、神子はいつも諌めていたけれど。
八葉の務めだけではない。泰継の神子への想いを考えれば、彼はたとえ満足に力を揮うことが出来ない状態に陥っていたとしても、神子を守るために間違いなく自分を犠牲にするだろう。それだけは避けなくてはならない。泰継を想う神子のためにも、そして、彼を大切に思っている泰長や天狗、八葉の仲間のためにも――。

鎮守の森の入り口に辿り着いた時、泉水は先程まで火之御子社を覆っていた邪気が一瞬にして消え去ったことを感じ取った。
即座に、神子が怨霊を封印したのだと察した。
それでも消えないこの胸の内の焦燥感のようなものは何なのか。
その正体を、泉水は参道の先で知ることとなった。


「いやあぁぁーーーーーーっ!!」


参道に足を踏み入れた時、静寂に包まれた鎮守の森に、花梨の絶叫が響いた。

「神子!?」

嫌な予感がする。
此処まで走って来た疲れも忘れ、泉水は速度を上げて先に進んだ。
この先で弧を描くように湾曲する参道をさらに先に行くと、両脇の木々の陰に隠れていた社が見えて来るはずだ。
湾曲した箇所を通り過ぎた泉水の目に、雪の上に座り込んだ花梨の姿が飛び込んで来た。彼女は何かを両腕で抱えて泣いているように見えた。
いつもの神子とは違うその姿を見て、泉水は驚いた。
花梨が抱えているものが何なのか、ちょうど彼女自身の陰になっていて、泉水からは見えなかった。

「神子っ!!」

普段なら決して出さない大きな声で花梨を呼ぶ。
しかし、花梨は気付いていないのか、こちらを振り返る気配はなかった。
鳥の声も聞こえない静けさの中、すすり泣く花梨の声だけが耳に届いた。
花梨の傍に近付き、彼女が抱えていたものの正体を知った泉水は驚愕し、叫んだ。

「泰継殿っ!?」

慌てて二人に駆け寄り、花梨の傍らに跪いた泉水は、花梨に抱えられ、喉元も露に頭を仰け反らせた状態で力なく横たわる泰継の姿を見て愕然とする。彼のこんな姿を見たのは初めてだった。
泰継の意識は無いようだ。しかし、一見したところ、泰継の身体には怨霊に負わされた傷などは見当たらない。では、彼の意識を奪ったのは怪我ではないのだろう。
だらりと地面に落とされた白い手を取り、泉水はその冷たさに息を呑んだ。

「神子、泰継殿はどうなさったのですか!?」

訊ねてみるが応えはなく、花梨は心を何処かに置いて来たかのように、茫然と泰継の身体を掻き抱いたまま、ただ繰り返し泰継の名を呼びながら咽び泣いている。
花梨から答えを得られぬと考えた泉水は、泰継の気を探った。

(気が…停滞している……? まさか……)

陰の気に偏っているため不安定なのだと泰継自身は語っていたが、出逢ってから今までずっと、泉水は泰継から不安定さなど感じたことはなかった。強いて言えば、あの下賀茂神社からの帰り道、糺の森で彼に会った時に感じた不安が初めてだったのだ。
泰継と初めて会った時、泉水が感じたのは、彼が持つ強大な陰陽の力だった。名を聞いて初めて、彼が予てから噂に聞いていた「北山に庵を結んでいる安倍の方」本人なのだと判り、ならば彼を取り巻くこの気の力強さも当然だと思った。何故なら、現在安倍一門で最も力のある陰陽師は泰継であると、相識であった泰長から聞かされていたからだった。
八葉の務めで泰継と共に怨霊と対峙した際、陰陽術を自在に操る彼から感じたのは、決して揺らぐことの無い気の流れであった。
その泰継の身体から、今は一切の気の流れが感じられないのだ。気に敏い泉水を圧倒するほど泰継の身の内を満たしていた気が殆ど感じられない。
その事実から泰継の身に起きた異変を推察し、泉水は青褪めた。
恐らく彼は気の乱れを抱えたまま、神子を守るために怨霊と戦ったのだ。泰継の属性では得意属性ではないとは言え、土蜘蛛のような弱小の怨霊、普段の彼であれば苦戦するはずもない。八葉の力を使わずとも一人で祓うことが出来ただろう。
しかし泰長が言っていた通り、気の乱れを抱えた泰継は、普段のような力を揮うことが出来なかったに違いない。結果的に神子が封印出来る程度にまで土蜘蛛を弱らせることは出来たものの、自らの気を使い果たしてしまったのだ。
意識を失くし、ぴくりとも動かなくなった泰継は、まるで美しく精緻な人形のように見えた。「安倍家に造られた人形」との噂の通りに。
身の内の気を失くしてしまった泰継は、どうなるのだろう? 昨日神子と泰長が言ったように、“消える”ことになるのだろうか。
自らの考えに寒気を感じた泉水は、ぶるっと身体を震わせた。
「泰継殿……。何故……?」
泉水は泰継の手をぎゅっと両手で握り締めた。

ああ、自分がもっと早く火之御子社に戻っていれば……。
いや、それよりも、あのまま神域の入り口で彼らを待っていれば……。
そうすれば、微力ながら神子を助けて怨霊と戦い、泰継一人に負担を掛けずに済んだはずだ。
どうして自分はいつもこうなのだろう。肝心な時に大切な人々の役に立てない。足を引っ張るばかりの自分を仲間と認めてくれた神子と泰継の役に立ちたいと、常日頃から心掛けていたのに。

後悔の念に苛まれ、泰継の手を握ったまま、泉水はいつしか俯いていた。紫色の瞳が見る見るうちに潤んでいく。
胸に生じた痛みを堪えるように目を閉じた瞬間、涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちて行った。それを拭うことなく、泉水は顔を上げて泰継の手を握り直し、声を上げた。

「泰継殿…、どうかお戻りください! 神子が…、神子が待っておられますっ!!」

泉水は身動ぎすらしない泰継に訴えた。何もせずに諦めることが出来なかったのだ。
頬を流れ落ちた涙は顎に集まり、滴となって手の上に落ちた。
こんなはずではなかった。誰よりも幸せになってもらいたい二人なのに――…。

「泰継殿っ!!」

少しでも温もりが戻るようにと、氷のように冷たくなった手を握り締め、泉水は再度泰継に呼び掛けた。
人の手により造られた存在である泰継だが、この器には確かに万物に宿るという魂が宿っていた。誰よりも神子を想い、神子のために尽くす、高潔な魂が――。
彼の魂がまだ此処に在るのならば、どうか神子を置いて逝かないで欲しい。
泉水は泰継の手を握る手に、無意識に力を込めていた。
それでも、彼からは何の反応も返って来なかった。

もう、駄目なのだろうか? 泰継は、もう、此処にはいないのだろうか?
心の中で誰にともなくそう問い掛け、溢れる涙を拭おうとしたその時、泉水はあることに気が付いた。

「泰継殿…?」

泉水は目を見開き、瞬きを繰り返した。
先程まであんなに冷たかった泰継の手が、少し温かくなったように感じたのだ。
改めて泰継の手を握り締めた手に意識を集中させてみるが、やはり先程までの氷のような冷たさは感じられず、冷たさが和らぎ、僅かではあるが温もりが感じられるのだ。
これは泉水の体温が移った所為ではない。明らかに彼自身の手に熱が戻って来ているのである。
慌てて泰継の顔に目を向けようとした泉水は、隣に座り込んで泣きじゃくっている花梨を見て、吃驚した。
花梨の身体が淡い黄金色に輝く光に包まれていたのだ。
怨霊を封印する際彼女が操る白銀色の神気とは異なる、温かさを帯びた光――。
それが花梨の全身から発せられ、彼女が胸に掻き抱いた泰継の身体をも包み込んでいく。
それが気の流れであることを、気に敏い泉水は感じ取った。
花梨が発した暖かな気が泰継に流れ込み、彼が失った気を補うように彼の内を満たしていくのだ。そのため、完全に停滞していた泰継の身の内の気がゆっくりと巡り始め、彼の手に僅かながら熱が戻って来たのだろう。
ならば、泰継は完全に事切れた訳ではないはず――。
泉水は泰継の手を握り締めたまま、両手を胸元に当てて目を閉じた。

(ああ、良かった……! 泰継殿……、神子……!)

手の中の微かな温もりに安堵し、先程とは違う涙が込み上げて来るのを感じた。
しかし、身体に熱が戻りつつあるとはいえ、泰継の意識が本当に戻るのかどうか、泉水には判断出来なかった。もし戻るとしても、それがいつになるのかも判らない。泰継が目覚めるまで、このまま彼をこの場に寝かせておく訳にもいくまい。
人なら薬師に診せれば良いが、何分泰継は普通の人ではない。泰継の身体のことは、恐らく彼を造った安倍家の者が最も詳しいはずだ。
(では、牛車を呼んで泰継殿を安倍家にお連れし、泰長殿に診て頂くことにいたしましょう)
泉水はそう決意した。
しかし、牛車を呼ぶため、六条に在る自邸や四条の紫姫の館に戻っていたのでは、時間がかかり過ぎる。その間、このような状態の神子を一人にしておくのは心配だった。
――この近くに牛車を借りられそうな知り合いの屋敷などはなかったか。
泉水が考えを巡らせ始めた時――

「泰…継…さん……?」

隣から届いた小さな声に、泉水は花梨の方を見た。
先程泉水が見た光は、既に跡形もなく消えていた。
花梨は泰継の頭を自分の膝の上に載せ直した後、涙に濡れた目を大きく見開き、ぼんやりとした表情で泰継の顔を見つめている。恐らく彼女も気付いたのだろう。泰継の身体に熱が戻りつつあることに――。

「神子……」
声を掛けると、花梨は緩慢な動作でこちらを振り向いた。霧がかかったように曇っていた緑色の瞳が、徐々に泉水の顔に焦点を合わせて行く。
「泉水…さん……?」
漸く泉水が傍にいることを認識した花梨が、茫然としたまま呟いた。
「神子。泰継殿は事切れておられる訳ではないと思います」
「え…?」
花梨は再び自分の膝を枕にして横たわる泰継の顔を見つめた。双色の瞳は相変わらず目蓋に隠されていたが、先刻まで蒼白だった肌に少しだけ赤みが戻って来ているのが見て取れる。
そして何より、泰継の胸元が微かに上下しているのだ。
「どうして……」
答えを求めた訳ではない呟きに、泉水が応えた。

「神子。私は先程、貴女の気が泰継殿に流れ込むのを感じました。貴女の気が、泰継殿が失った気を補充したのではないでしょうか」

泉水が花梨に告げた、その時――


「――ほう。気の流れを読むとは、さすがは天の玄武じゃな」


突然会話に割り込んだ声に驚き、二人は辺りを見回した。しかし、周囲に声の主らしき姿はない。

「どなたですか?」

さり気なく花梨と泰継を庇うように立ち上がった泉水が誰何すると、しわがれた笑い声が境内に響いた。

「儂か? 儂は北山の大天狗じゃよ」
「北山の大天狗さん?」

鸚鵡返しに花梨が呟く。昨日泰長が話していた、そして今日花梨が会いに行こうとしていた、泰継の親代わりだという天狗なのだと悟る。
果たして、姿なき相手から、「そうじゃよ」との返答があった。
晴明の死後、天狗は北山から下りて来ることはなくなったのだと泰長から聞いていた。それなのに、何故この火之御子社に現れたのか――。
そう疑問に思った泉水だったが、直ぐにその答えを導き出した。
泰長の式神だ。
泰継が火之御子社にいることを知らせに来た泰長の式神は、あの後北山に向かったようだった。泉水の推測通り、恐らく泰長は天狗にも知らせたのだろう。神子に会うため山を下りた泰継が火之御子社にいることを。そして、心配した天狗が自ら山を下りて来たに違いない。或いは、泰継と神子の行く末を見届けようとしたのかも知れないが……。
泉水がそんな事を考えている間に、天狗が花梨に話し掛けた。

「――お主が此度の龍神の神子か……」

そう言った後、天狗は黙したまま暫し花梨を観察する。
確認するように発せられた言葉だが、天狗は最初から花梨が神子であると見抜いていた。花梨の全身を包む目映いばかりの神気――それは、紛れも無く龍神のものだ。見間違えるはずがない。同じ神気を纏っていた少女を、天狗は百年前に見たことがあるのだから。
(なるほど。泰継が惹かれるのも無理はない……)
清らかで美しい均衡を保った陰と陽の気。
人の本質を、姿形ではなくその者が纏う気から見抜く泰継にとって、この娘はこの世の者ならぬ美しいものに見えたに違いない。

「天狗さん、お願いです。泰継さんを…、泰継さんを助けて……っ!」

懇願の色を宿して再び潤み始める緑色の大きな瞳――。
天狗は花梨の泣き濡れた顔を見つめた。
花梨には天狗の姿は見えていないはずなのだが、声が聞こえた方向に向けられたと思しき彼女の瞳は、正確に天狗が腰掛けていた木の枝に向けられていた。
彼女は、今、自分が泰継に何を齎したのか、全く判っていないようだ。気を失い動かなくなった泰継を見て、彼が“壊れた”のだと思い込んでしまったのだろうが……。
泰長や鴉達が話していた通りだ。神子は本当に泰継のことを想ってくれている。
自らの目でそれを確かめることが出来た天狗は、満足げに微笑んだ。

「心配しなくとも、泰継は死なんよ、神子」

「え……?」

泰継を想い、涙を流す花梨を安心させるように、天狗は優しく事実を告げる。

「そこの天の玄武が言っておったじゃろう? 泰継は、神子、お主から気を授かったのじゃと……」

天狗の言葉の意味が掴めなかったのか、花梨はきょとんとした表情を浮かべている。
その表情を見て「可愛い」と思った天狗だったが、ふと彼女を雪の上に座らせたままだったことに気が付いた。天狗の可愛い息子はと言えば、彼女の膝を枕にして、これまた身体の大部分を雪の上に置いている。
日が昇ったとはいえ、真冬の早朝のこと、辺りは身を切るような清冽な空気に包まれている。長時間この状態では神子の身体を壊しかねない。そんな事態になれば、泰継はまた自分を責めることだろう。

「このままではお主たちも泰継も風邪を引きそうじゃな。どれ……」

そう言うと、天狗は翼を広げて木の枝から飛び降りた。
バサバサッという羽音を境内に響かせながら地上に降り立つと、天狗は雪の上に横たわる泰継を抱き上げた。

「え……」

突然膝の上に感じていた重さがなくなり、花梨は驚きの声を上げた。
泰継の身体が宙に浮いているのを見て、花梨と泉水が目を丸くする。
驚く二人に構わず、天狗は言った。

「詳しい話は安倍の家ですることにしようかの。――天の玄武……」
「は、はいっ!」

不意に間近から天狗に声を掛けられ、驚いた泉水は思わず声を上げていた。

「すまんが、神子を安倍の家まで送り届けてくれんかの?」
「ですが……」

泉水が躊躇う仕草を見せた。
彼の懸念を察した天狗が先回りして言う。

「泰継は儂が運ぼう」

それを聞いて、泉水は漸く天狗の依頼を受け入れた。

泉水が頷くのを確認し、天狗は泰継に目を落とした。
泰継の内の気がゆっくりと巡り始め、不安定だった彼の身体を変えて行くのが見て取れた。
僅かに残っていた泰継の核を成す陰の気と、神子から授かった陽の気が、泰継の身体を安定させていく。陰陽の気が巡り、さらに陰の気と陽の気を練り始める。
それを確認し、天狗は長い歳月待ち続けた時が漸く来たのだと悟った。

「――泰長!」

先程まで自分が腰掛けていた木の枝に向けて天狗が声を掛けた。
その声につられ花梨と泉水が木の方に目を向けると、白い小鳥が枝に止まっているのが目に入った。
恐らく、火之御子社に来る前に二人が会った泰長の式神だろう。

「急ぎ火桶を用意し、褥を整えよ」
『承知いたしました』

天狗の指示に泰長が応えた。どうやら彼も泰継のことが心配で、天狗と共に成り行きを見守っていたらしい。

「さて――」

天狗は泰継を抱え直すと、真言を唱えた。

「オン・マリシエイ・ソワカ」

しわがれた声が真言を唱えると、泰継の姿は幻のように消え失せた。
それを見て驚いた花梨が立ち上がり、声を上げた。

「泰継さんっ!?」
「大丈夫です、神子。隠形の術のようですから」

天狗が隠形術を用いて自らの姿を消していることを感じ取っていた泉水が説明した。
恐らく天狗は此処から安倍家まで、泰継を抱えたまま自らの翼で飛んで行くつもりなのだろう。夜闇の中ならともかく、夜明け直後の明るさの中、途中誰かの目に付いても面倒な事になろう。そう考えてのことだろうと泉水は考えた。

(ほう。泰継が言っていた通りじゃな……)

自分と対になる八葉である泉水のことを、泰継はこう話していたことがある。
――泉水が生来持つ霊力には目を瞠るものがある、と。
陰陽師でも僧でもない人間が気の流れを読むとは、かなりの霊力の持ち主であることが判る。出家すれば間違いなく高僧になれるだろう。泰明の対であった法親王のように。
そういう人間が泰継の対であることを知り、天狗は安堵した。

「では、二人とも、安倍の家で待っておるぞ」

そう告げると、天狗は飛び立った。

「まったく……。世話を掛けおって……」

羽音を残して飛び去る直前、天狗が小さく呟いた言葉が耳に届き、泉水は思わず笑みを浮かべた。言葉ほど迷惑そうではない優しい声音に、天狗の泰継への思いが溢れていたからだ。
――天狗は泰継の親御を自任しているらしい。
そう泰長は話していたが、本当に天狗は泰継を実の息子のように慈しんでいるようだ。

天狗の羽音が遠ざかるのを見送った後、泉水は花梨に向き直った。

「神子。私たちも安倍家に急ぎましょう」
「はい!」

まだどこか心配そうな表情を崩さない花梨を促し、泉水は再び安倍本家を目指したのだった。
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