連理−7−
花梨を泰継に任せ、離れを後にした三人は、寝殿へと移動した。


「あの…、泰長殿……」

南庭に面した階を上がろうとした時、泉水が泰長に声を掛けた。

「何でしょうか」

階の一段目に足を掛けたまま振り返り、泰長が問う。
泉水はいつの間にか龍笛を取り出し、それを持つ手を胸元に当てていた。その表情はいつも通り優しく穏やかでありながら、いつになく嬉しそうに見えた。

「実は、神子を火之御子社へ――泰継殿の元へお連れした後、私は貴方と話がしたくて、此方をお訪ねしようと思っていたのです」
「私…、ですか?」
「はい」

意外そうに問い返した泰長に、泉水は頷きながらそう答えた。

「互いを想い合うお二人の気持ちに、私も何か温かいものを頂いた気がして……。それを誰かに話してみたいと思ったのです」
「それで、私に?」
「はい」

再び頷いた後、はにかむように俯いた泉水を、泰長は珍しいものを見るような面持ちで見つめていた。
泉水とは仕事上の繋がりはあったが、親交を持つほどの間柄ではなかった。龍笛を得意とする者同士、互いの噂を聞いていたこともあり、親しみは覚えていたものの、泉水は院や帝とも縁続きの上級貴族の子息である上、年齢が離れていることもあり、これまでは仕事上の付き合いしかして来なかったのだ。
その決して多くはない付き合いの中でも、泉水がかなり控え目な性格であることは直ぐに判った。泰継から彼の対となる八葉が泉水だと聞かされた時、果たしてあの大人しい泉水が泰継と上手くやっていけるのだろうかと心配になったくらいである。
常に他人に迷惑を掛けないよう、目立たぬようにと心掛けているらしい泉水が、こうして自分から行動を起こそうとすることは珍しい。しかも、彼が話したいと思っていたのが、控え目な彼が自分の対として上手くやっていけるのかと心配していた、泰長が敬愛して止まない師に関する事であったから、尚更意外に感じてしまうのだ。
だが、泰長は泉水が自分を話し相手に選んでくれたことを嬉しく思った。
そして、同時に思う。
――泉水が泰継の対の八葉で良かった、と――。

泉水が言葉を継ぐ。

「泰長殿にお話ししたいと思っておりましたのに、今は、この想いを言葉にすることが難しくて……」

俯いたまま、泉水は龍笛を握り締めた。歌口の周囲に施された水仙を模った美しい螺鈿細工が、雲間から薄く差し込んで来た太陽の光を反射して、きらきらと輝いている。

「……笛に託さずにはいられないのです」

そう言いながら顔を上げた泉水を、泰長は目を細めて見つめた。


「ほう。式部大輔の龍笛と言えば、其処彼処の管弦の宴で持て囃されておるという噂じゃな」

それまで黙って二人の遣り取りを聞いていた天狗が口を挟んだ。

「どれ、儂にもひとつ聴かせてくれんかの。なんせ、山には楽を解そうともしない朴念仁しかおらんかったからのう。――泰長、お主も久しぶりにどうじゃ?」
「そうですね。泉水殿にお許し頂けるなら、ご一緒に」

泰継を当て擦る天狗の言葉に思わず苦笑を漏らした泰長は、既に聴く気満々な体勢で階の上段に陣取っている天狗にそう答えた後、泉水に視線を戻した。

「あの、私などが泰長殿とご一緒してもよろしいのでしょうか」
「それは、私の台詞ですよ、泉水殿」

泰長の言葉に驚き、恐縮したように訊ねた泉水に、悪戯っぽく笑いながら泰長が応える。

「実は、私も今のこの想いを楽で表現したいと思っていたのです」

そう話すと、泰長は懐から愛用の龍笛を取り出した。

「なんじゃ。お主、呪符ではなく未だ笛を懐に忍ばせておるのか」
「無論、呪符も持っておりますよ。私は楽人である前に陰陽師ですから」

初めて北山で会った子供の頃のことを思い出し、揶揄するように言う天狗に、泰長は呪符の在り処を示すように胸の上を手で軽く叩きながら、当然の事のようにそう告げた。
今、そう思えるのは、泰継と出逢ったからだ。この人のようになりたいと思える師匠と出逢えたから、今の自分がある。そうでなければ、親に逆らい、疾うに家を出奔していたことだろう。だから、泰長は言葉では表せないほど泰継に感謝しているし、今日という忘れ得ぬ日を心から祝いたいと思うのだ。
泰長は再び庭に下りた。

「では、主旋律は泉水殿にお願いいたしましょうか」
「は、はい」

畏まった様子でそう答えると、泉水は一度深呼吸して龍笛を構えると、歌口に唇を当てて目を閉じた。
泉水が歌口に息を吹き込むと、美しい旋律が流れ始める。泉水にしては珍しく、明るい調子の双調の楽曲である。その選曲からも、神子と泰継から温かいものを貰ったのだと話した泉水の想いを感じ取ることが出来た。
天狗がほう、と感嘆の溜息を吐くのが泰長の耳に届いた。噂通りの素晴らしい音色に、天邪鬼な天狗も素直に聞き惚れているらしい。
序の楽章が終わる頃、泰長が龍笛を構えた。
泉水が奏でる主旋律に、泰長が副旋律を絡ませていく。時には優しく、時には強く響く二つの音色が絡み合い、まるで美しい織物を織るように旋律が紡がれていく。
泰長と泉水は互いの技量に感嘆しながら、胸の内から溢れ出ようとする温かな想いを音色に載せて、龍笛を奏で続けた。





◇ ◇ ◇





「……笛の音…?」

漸く泣き止んだ花梨が僅かに身動ぎ、小さく呟くのが耳に届いて、泰継は安堵の息を吐いた。

「……神子…?」

腕を少し緩め、花梨の顔を覗き込む。
呼び掛ける声に花梨が顔を上げると、間近に端正な顔があった。
(泰継さん…?)
普段きっちりと結い上げられている長い髪が解かれ、背に流されている。見慣れないその姿もやはり綺麗で、花梨は思わず見惚れてしまう。
室内には泰継以外の人間の気配が感じられなかった。いつの間にか二人きりになっていたらしい。
心配そうに見つめる泰継の顔をぼんやりと見上げているうちに、花梨は漸く自分が置かれている状況を思い出した。泰継が目を覚ましたことが嬉しくて、彼の胸に縋り付いて子供のようにわんわん泣いてしまったのだ。

「きゃあ! ごめんなさいっ!!」

花梨は慌てて離れようとした。――が、腰に巻き付いた力強い腕に、直ぐに抱き寄せられてしまった。

「や、泰継さん…?」

泰継の単が頬に触れ、少し肌蹴た単から垣間見える白い肌が花梨の直ぐ目の前にあった。細身の泰継だが、花梨の頬と手が触れた胸には綺麗に筋肉が付いていて、意外と逞しく感じられる。
そんな事を考えていると、不意に強く抱き締められ、花梨の頬は忽ち薄紅色に染まった。それと同時に、胸が早鐘を打ち始める。
泰継にまで聞こえてしまいそうだと思った時、単越しに彼の鼓動を感じた。とくんとくんと一定の速度で刻まれる心音を聴いているうち、花梨の心も落ち着いて来る。
彼が生きている証――。
それをもっと近くに感じたくて、花梨は泰継の背に腕を回し、彼の身体を抱き締め返した。背に流した長い髪から、菊花香の匂いが微かに漂って来る。
(ああ、泰継さんの香りだ……)
その香りに誘われるように、花梨は目を閉じた。

暫くの間、二人は言葉を発することなく、ただ互いの存在を確かめ合うように抱き締め合った。
火桶の炭が爆ぜる小さな音と互いの鼓動、そして外から微かに聞こえて来る美しい笛の音色のみが耳に届く。
やがて小さく息を吐くと、泰継が意外な言葉を口にした。

「お前は、本物だな?」
「え?」

その言葉の意味が解らず、花梨が問い返す。
泰継は花梨を腕の中に閉じ込めたまま、言葉を継いだ。

「夢を見ているのかと思ったのだ。壊れてしまう前に、一度だけで良い、こうしてお前を抱き締めたいと、そう願ったから」

泰継の直截的な言葉に、花梨は真っ赤になった。
だが、珍しく感情が込められたその言葉が堪らなく嬉しい。
やがて腕の力が緩められたのを感じ、花梨は名残惜しげに泰継の胸に預けていた身体を起こした。

「――私は、何故眠っていたのだろう…? 火之御子社で壊れたものと思っていたのに……」

ぽつりと泰継が呟いた。
彼はまだ自分の身に起きた事実を完全には把握できていないようだ。
答えを求めた訳ではない独り言のような呟きに、花梨が答えた。

「天狗さんが言っていました。『泰継は人になった』って……」
「私が、人に?」
「はい」

大きく目を瞠り、鸚鵡返しに問い返した泰継に、花梨はこくりと頷いた。
驚愕した表情が一瞬にして消え、琥珀と翠玉の瞳が頼り無げに揺れている。こんな彼の表情は初めてだ。
どこか心細そうな、不安げに見えるその表情を見て、花梨は安心させるように泰継に微笑みかけた。そして、泉水と泰長と天狗に説明された、火之御子社で泰継の身体に起きた事を彼に話すことにした。



「――では、この偏りの無い気の均衡は、神子の陽の気が私の中に流れ込んだ所為だと……?」

花梨が説明し始めて間もなく、泰継がそう訊ねて来た。
花梨が泰継に陽の気を授けたのだと断言した泰長の言葉を伝えただけで、泰継は自分の身に起きた事のほぼ全てを察したようだ。
さすがだなと感心しながら、花梨は続けた。

「はい。私自身はよく分からなかったんですけど、泉水さんが気の流れを見たって言っていて……。それをご当主が説明してくれました。『気の均衡が、泰継さんを、不安定な人型から揺ぎ無い存在――人へと生まれ変わらせた』って」

泉水や泰長の言葉を聞いて、何が起きたのか大方の事を推察した泰継だったが、俄かには信じ難かった。
――泰明に劣る自分が、彼と同様に人になったなどとは……。
だが、確かに気は安定している。

「では、私は……、眠りの中で変化したのだろうか?」

気を極限まで使い果たし、訪れた眠り。二度と目覚めることはなかったはずなのに、花梨から流れ込んだ陽の気が、枯れ果てようとしている泉に降り注ぐ雨の如く、泰継の内を満たした。だからこそ、目覚めることが出来たのだ。

「気が完全に安定するまで、泰継さんは少しの間眠っているだけだって、天狗さんが言っていました」
「……私はどれくらいの間、眠っていた?」
「そんなに長い時間じゃないですよ。今、午の刻らしいですから……二刻ほどの間…かな?」
「二刻……」

花梨の言葉を噛み締めるように泰継は呟いた。
これまでの自分であれば、一旦眠りに入ってしまえば、たった二刻で目覚めることなど有り得なかった。三月続けて目覚めの中に在り、続く三月は眠りの中に在る――人型を得てから九十年間、その周期が崩れたことは一度としてなかったのだ。
何かが、今までとは違う。
考えられる理由は一つだけだ。

「では、私は本当に人になったのだろうか……」
「はい。だって、こんなに温かいもの。これって、泰継さんの中の陰陽の気が偏りなく巡り始めた所為だって、ご当主から聞きました」

泰継が自らに問い掛けた言葉に、泰継の手に自らの手を重ねて花梨が答えた。
花梨の言う通り、あれ程大きく陰の側に偏っていた自分の中の陰陽の気が調和している。それは疑いようのない事実だ。
気の調和は、これまで泰継が得たことのない充足感と大きな陰陽の偏りがないという安心感を齎した。

(これが人、ということなのか?)

何か温かいものが胸を満たしていくのを感じ、泰継は目を閉じた。神子の気に触れた時に感じるような心地良さが、全身に広がっていく。
――“感極まる”というのは、こういう気持ちを指すのだろうか。
そう考えた時、重ねられていた花梨の手がぴくりと動き、離れて行くのを感じた。

「泰継さん?」

驚いたような花梨の声に、泰継は目を開いた。
目を開いた瞬間、涙が頬を伝い落ちて行くのを感じ、泰継は驚いた。思わず頬に手を触れると、瞬きをするたび次々と流れ落ちる滴が指先を濡らした。

「……っ!」

涙に濡れた指先を見つめ、泰継は息を呑んだ。
どうして自分が泣いているのか分からなかった。この胸から溢れ出ようとしているものは何だろう。神子のことを想う時に感じるものと似ているが、異なるようにも思う。
溢れる涙と胸を満たす温かさ。その正体を知りたくて、泰継は花梨に問い掛けた。

「何故、私は…泣くのだ? この涙はどこから生まれて来るのだろう? 私は壊れてしまったのだろうか?」
「違うよ、泰継さん」

花梨の目にも、再び涙が浮かんでいる。

「人は、『嬉しい』と思った時も泣くんですよ……」
「『嬉しい』……」

泰継は花梨の言葉を反芻した。

「では、これが…、この胸を満たす温かいものが、『嬉しい』という感情――。人の手により造られ、本来感情を持たぬはずの私に、感情が生じていると……?」
「それって、泰継さんが人になった証拠でしょう?」

花梨はまだ信じられない様子の泰継に告げた。

「私も、泰継さんと私の願いが叶ったから……。だから、嬉しくて涙が出るんです」

目尻に溜まった涙を指で拭いながら、花梨は言った。

「神子と…私の願い……」
「はい。火之御子社で話しましたよね、私の願い」

泰継は花梨の言葉を思い出す。

『泰継さんに消えて欲しくない、泰継さんを失いたくない』

彼女は火之御子社でそう言った。
それが花梨の、諦め切れない願い、どうしても叶えたい願いなのだ、と。
それは、泰継が人になったことにより叶えられたのだと花梨は言う。
そして、自分の願い――泰明のように人なりたいと願った、その願いも――。

「私が、人に……」

確かめるように、もう一度泰継が呟いた。
胸を満たす温かなものが、出口を求めて溢れ出して来る。涙という形を取って――。
色違いの宝石を埋め込んだかのような美しい目から次々と透明の滴が溢れ出て、白磁のように滑らかな肌を流れ落ちて行く。
泰継はそれを拭おうとはせず、溢れ出る想いをあるがままにさせていた。
花梨はその美しさに、言葉もなくただ見惚れていた。

「神子…。お前が私の願いを叶えてくれたのだ。感謝する、神子……」

感謝の言葉を口にした泰継の顔には、今まで花梨が見たどの表情とも違う、優しい笑みが浮かんでいた。
嬉しそうなその表情に、花梨の顔にも自然と笑みが浮かぶ。

「泰継さんが嬉しいなら、私も嬉しいです」

涙を拭いながら、花梨は素直な気持ちを告げた。


二人は暫くの間言葉を発することなく、胸に溢れる温かな想いをただ感じていた。
静寂が戻った室内に、笛の音が届く。
「笛の音……。泉水さん、かな?」
「泉水と泰長だろう」
花梨の呟きに泰継が即答した。
(そう言えば、昨日泉水さんが言ってたっけ。ご当主も龍笛の名手だって……)
花梨が昨日の泉水と泰長の遣り取りを思い出していると、泰継が静かに立ち上がった。
「泰継さん?」
「……外に出たい。確かめたい事があるのだ」
訝しげに問い掛ける花梨に、下された格子越しに外に視線を投げながら泰継はそう答えた。答え終わる前に、彼の足は既に妻戸に向かっている。
「ちょっと待ってください、泰継さん! そんな恰好で外に出たら、風邪を引いちゃいます!」
素肌に単を纏っただけの姿で妻戸を開いて屋外へ出ようとする泰継に驚き、花梨は慌てて衣架に掛けてあった袍を手に取り、泰継の跡を追って外に出た。


簀子縁に出た泰継は、外の明るさに思わず眩しそうに目を細めた。
寝殿の庭の方から、龍笛の音色が流れて来るのが聞こえた。二つの音色が重なっていることから、やはり泉水と泰長が奏でているのだろう。いずれ劣らぬ技量の持ち主であるだけに、その澄んだ音色は美しい。
そう感じた自分自身に、泰継は驚いていた。
泉水が奏でる笛の音はこれまで何度か聴いていた。泰長に至っては、彼がほんの子供の頃からその音色を聴いて来たのだ。それなのに、今まではこんな風に感じたことはなかった。
室外から聞こえて来る音色を「美しい」と感じたことに驚き、それを確かめるために外に出てみたのだが、やはり今まで感じたことがなかったこの感覚は、思い違いではなく本物だったようだ。
泰継は空に視線を向けた。太陽の位置を確認し、今、午の刻だと言った花梨の言葉が正しかったことを確認する。
(では、やはり私は二刻だけ眠っていたということか……)
そう考えながら、庭に目を遣る。
庭木の上や地面に降り積もった雪が太陽の光を反射して、何とも形容し難いほど美しく輝いている。
そして、そう考えたことに泰継はまた驚きを覚えた。
人になると、こうも物の捉え方が変わるものなのか。以前は目に見えるものをあるがままに受け入れるだけで、「綺麗」とか「美しい」などと感じたことなどなかったというのに。
やはり自分は人になったのだと実感した。

と、その時、背後から肩に何かが掛けられるのを感じて、泰継は後ろを振り返った。
「神子……」
「泰継さんってば。そんな恰好で外に居たら風邪を引くって言っているのに……」
背伸びして泰継の肩に掛けた袍がずれ落ちて来ないように押さえながら、呆れたように花梨が言う。
「ああ、すまない。だが、私は生まれてからこの方、病を得たことがないから……」
「今までは、でしょう? これからは駄目ですよ。――寒くないですか?」
「……問題ない」
花梨の言葉に初めて気付かされたかのように一瞬目を瞠った後、泰継は微笑みながらそう答えた。そして、花梨が押さえている袍を手に取り、自分の肩に掛け直す。
単一枚で外に居るというのに、不思議と寒さを感じなかった。むしろ心地良いくらいだ。神子が労わりと心配の言葉を掛けてくれたことが、胸に温かさを齎したからだろう。
泰継はその場に腰を下ろした。南に面した簀子は、眠っている間に穏やかな太陽の光に温められたのか、あまり冷たさを感じなかった。

泰継が座ったのを見て、花梨も隣に腰を下ろした。
こうして泰継と並んで座るのは今日二度目であるが、火之御子社での時とは心境が全く違っていた。彼とこうしていられることが嬉しくて、そして温かくて――自然と笑みが零れる。
そうした花梨の心の内を表しているかのように、雪晴れの空に庭全体が明るく輝いている。
そして耳に届く、泰継の目覚めを慶ぶような明るい曲調の音色。
室内にいた時よりもはっきりと聞こえて来る笛の音に、花梨は耳を澄ました。
「綺麗な音色……」
心が洗われるような笛の音に、花梨が溜息交じりに呟いた。泰継が言った通り、泉水と泰長が奏でているのだろう。二つの音が絡み合い、独奏とはまた違う美しい旋律が紡がれていることが判る。
「泉水さんが、ご当主は龍笛の名手だって言っていましたけど、本当ですね」
「私には楽のことは分からぬが、泰長の龍笛は子供の頃から周囲の者達に称賛されていたようだ」
泰長は安倍家の当主となった現在も、宴の席で乞われて龍笛や琵琶を奏でることがあると聞いている。泉水と同等の腕を持つのであれば、恐らくそういう席でも称賛されているのだろう。
「『綺麗な音色』、か……。神子もそう思うのか?」
続く泰継の言葉を聞いて、花梨はきょとんとした表情を浮かべた。そして、一呼吸遅れて気付く。
(今、泰継さん、『神子も』って言ったよね?)
ということは、彼も泉水と泰長が奏でる音色が「綺麗だ」と感じているということだ。
それが、なんだか嬉しい。
「はい。泰継さんもそう感じているんですね?」
「それを確かめたかったのだ。今まで感じたことのない感覚だったから、自分が本当にそう感じているのかどうか、確かめてみたかった」
「それも、泰継さんが人になった証拠ですよ、きっと」
ふふふ、と、嬉しそうに花梨が笑う。
泰継はそれには答えず、庭に視線を移した。
それにつられたように、花梨も前方に目を向ける。
今朝、初めてこの離れを訪れた時は、泰継のことが心配で庭を見る余裕もなかったが、改めて見てみると、昨日泰長に会う際案内された寝殿の庭と同じように、人が手を入れたようには感じられない不思議な庭だ。その中には、梅や桜など、春になれば美しい花を咲かせてくれるであろう花木も見られた。
暫くの間、言葉を交わすことなく、二人は並んで庭を見つめていた。



「――神子…」


庭を見つめたまま何事か考え込んでいた泰継が、徐に口を開いた。
呼び掛けられ、花梨が泰継の方を見ると、彼は見慣れた無表情に戻っている。
その感情が読み取れない表情に何かを感じた花梨は、無言のまま彼の横顔をじっと見つめることで先を促した。
泰継は花梨と視線を合わさず、庭を真っ直ぐに見つめたまま、言葉を継いだ。


「――物忌みの日のお前の問いに対する答えを、今、訂正しても良いだろうか」


泰継の言葉を聞いて、花梨は大きく目を見開いた。
物忌みの日に自分が泰継にした問いと、それに対する彼の答えが頭を過った。

『泰継さんは、八葉の務めが終わったらどうするんですか?』
『元通り北山の庵で暮らしていくことになるだろう。――あとは、このまま消えるまで在るだけだ』

何気なく問い掛けた花梨に、泰継はそう答えた。
泰継の答えを聞いて、そして、その後感じた彼との距離に、その質問をしてしまったことを、あの後どれほど後悔したことだろう。
しかし、あの質問によって、花梨はそれまで無意識に目を背けていた問題と真剣に向き合うことになったのだ。
そして、そのおかげで今日という喜びの日を迎えることが出来た。
人となった彼が、人ならぬものとして消えることは、もうないのだ。


「私は……」

泰継は庭木に向けていた視線を僅かに下に落とした。これから告げる事に少しばかりの疾しさを感じ、花梨の反応が気になったからだ。

「私は、あの時、生まれて初めて嘘を吐いた」
「え……」

泰継の告白に花梨は驚きの声を漏らした。『泰継』と『嘘』というのが、花梨の中ではどうしても結びつかなかったのだ。
花梨は一瞬呆然とした後、訊ねた。

「嘘って……、泰継さんが?」
「……そうだ……」

泰継が肯定の言葉を発するまで、少しの間があった。
花梨の気分を害したかもしれぬと考えたからだった。

「偽りを告げられて腹を立てぬ者はいない。だから、お前が私に怒りを覚えても当然だ」

しかし、これだけは言っておかねばならないと思い、泰継は続けた。

「神子の務めを懸命に果たそうとしているお前の重荷になるかもしれぬと思い、私は生まれて初めて嘘を吐いた。八葉の務めを終えた後、もう、お前と出逢う以前の生活は出来ぬと知りながら、『元通り北山の庵で暮らしていくことになる』と答えたのだ。――もしかしたら、自分に言い聞かせたかったのかもしれぬ。『これ以上、この願いを持ち続けてはならぬ。八葉の務めに専念せよ』、と……」

一旦言葉を切った泰継は、自らを鼓舞するように膝の上で組んだ手を握り締めた。

「だが、私には、もう出来ぬ。八葉の務めを終えた後、お前と離れて北山で独り暮らしていくことなど……」

泰継は逸らしていた視線を花梨に向けると、泣き止んだ後もまだ少し潤んだままの緑色の瞳をじっと見つめ返した。
ずっと花梨の傍にいて、この生き生きと輝く瞳を見つめていたいと思った。
八葉の務めを終えた後も、ずっと――…。
このような想いを抱いているのは自分だけだと…、一方的な自分勝手な願いだと考えたからこそ、彼女には告げず嘘を吐いたのだ。
しかし――

『泰継さんの傍にいたい、泰継さんに傍にいて欲しい。神子の務めを終えても、ずっと……』

夜明け直後の火之御子社で、花梨は確かにそう言った。
人となった今、花梨もそう思っていてくれるのならば、互いの務めを終えた後もずっと彼女の傍にいたい。
そう思った瞬間、胸の内に何か温かいものが生じるのを感じた。

(そうだ。神子のことを想う時に生じる温かさ。これが、きっと、『愛しい』という感情――…)

そして、確信する。

――恐らく、泰明も神子を愛しいと思い、神子の傍に在るために、神子と共に神子の世界へ旅立ったのだろう、と――。

天狗が今まで決して答えてくれなかった質問に対する答えを、自らの経験を通して得ることが出来た。
恐らく天狗が「自分で答えを見つけよ」と言い続けたのも、泰明が人になった理由を知っていたからこそ、泰継も必ず人になると確信していたからだったのだろうと、今なら泰継にも理解することが出来た。
これまでも、天狗は泰継自身が気付いていない自分自身の気持ちや思いといったものを見抜いていることが多かったから、泰継の花梨への想いも、泰継自身が自覚する遥か以前から気付いていたに違いない。

(天狗には敵わぬ……)

父親気取りの天狗に反抗期の子供のような複雑な感情を抱いている泰継だが、完敗を認めざるを得ない。
素直に敗北を認めると、自然と口元が綻んだ。


「あ、あの…、泰継さん……!」

泰継の瞳に思わず見惚れてしまっていた花梨は、無表情だった秀麗な顔に柔らかな笑みが浮かぶのを見て、言葉を挟んだ。まだ、大切な事を彼に伝えていなかったことを思い出したのだ。

「私、泰継さんが嘘を吐いていたことを怒ってなんかいませんよ? むしろ嘘だったほうが嬉しいっていうか……」
「『嘘だったほうが嬉しい』…?」

鸚鵡返しに問い返した泰継は、意味が解らないという表情を浮かべた。
「嘘を吐いていた」と告白したのに、花梨が気分を害した様子は見られなかった。それどころか、「嘘だったほうが嬉しい」とはどういうことなのか。嘘を吐かれて喜ぶ者など、今まで見たことがない。
泰継の疑問を察した花梨が説明する。

「だって、泰継さん、さっき言ってくれましたよね? 『八葉の務めを終えた後、お前と離れて北山で独り暮らしていくことなどもう出来ない』って。それが泰継さんの本当の気持ちなんでしょう?――私も同じです。火之御子社で話した通り、私も『神子の務めを終えても、泰継さんの傍にいたい、泰継さんに傍にいて欲しい』――そう思っているから……」

そして、花梨は一度深呼吸すると、泰継に最も告げたかった言葉を口にした。


「私……、泰継さんのことが好きです。他の誰よりも……!」

「……神子…っ!」


頬を染めて花梨が告げた言葉に、泰継が息を呑んだ。
火之御子社での花梨の言動から、彼女も自分と同じ想いを抱いているのではと薄々感じてはいたが、まさか花梨の方から先に告げられるとは思ってもみなかったのだ。ちょうど、この胸に溢れんばかりの想いを彼女に伝えたいと思っていたところだったから。

勇気を出して告白したにもかかわらず、目を瞠ったまま黙り込んでしまった泰継を見て、何だか急に恥ずかしくなった花梨は、それを誤魔化すように早口で捲し立てるように続けた。

「あ…、あの、本当は火之御子社で泰継さんに言おうと思っていたの。それなのに出来ないまま怨霊との戦闘になってしまったから……。泰継さんの意識がない間、もしこのまま泰継さんが目覚めなくて、伝えられないままになってしまったらどうしようって、すごく後悔しました。――ちゃんと泰継さんに伝えられて、本当に良かった……」

花梨の目には、再び薄っすらと涙の膜が張り始めたようだ。しっとりと潤んだ所為で、緑色の瞳がキラキラと輝いている。そこに映る自らの顔に柔らかな笑みが浮かぶのを、泰継は見て取った。

(ああ、本当にお前は……)

先程と同じ温かいものが胸に込み上げる。
それは、『愛しい』という感情――…。

溢れ出る想いをもう止めることが出来ないと感じた泰継は、花梨の肩を抱き寄せ、自らの腕の中に閉じ込めた。

「や、泰継さんっ!?」

突然抱き寄せられた花梨は、簀子縁に座った姿勢のまま、泰継の胸に倒れ込んだ。忽ち頬が紅潮する。
驚く花梨には構わず、泰継は抱き寄せた身体をぎゅっと抱き締めた。こうしていると、龍神の神子が持つ清らかな神気に包まれ、癒される思いがする。
暫くの間、花梨を抱き締めていた泰継は、やがて小さく溜息を吐いて腕の力を緩めた。
それを感じた花梨が身体を起こし、泰継を見上げた。
顔を上げた花梨と視線を合わせると、泰継は口を開いた。
自分も、この想いを言葉で彼女に伝えなければならないと思ったからだ。

「神子。いや、花梨……」

この想いは『龍神の神子』に対するものではなく、『高倉花梨』という名の異世界から京に召喚された少女に対するものだ。そのため、この想いを彼女に告げる際は、『神子』と呼ぶより『花梨』と呼んだ方が相応しいと思い、泰継は言い直した。
火之御子社で久しぶりにこの名を呼んだ時、これが最後になるだろうとの思いがあった。だから、今こうして再び彼女の名を呼ぶことが出来ることに、泰継は無上の喜びを感じていた。
腕の中の存在に目を遣ると、真名を呼ばれた花梨が驚きの表情を浮かべてこちらを見ている。
その様子を愛しげに見つめると、泰継はずっと抱き続けて来た想いを花梨に告げた。


「――私も、お前が愛しい……」

「……泰継さん……」


一瞬だけ目を瞠った花梨の目から、涙が零れ落ちた。
以前の自分であれば、彼女が何故泣くのか判らず、理由を訊ねていたことだろう。
しかし、今は彼女の涙の理由を察することが出来た。

『人は、“嬉しい”と思った時も泣くんですよ』

先程自分自身も経験し、花梨にそう教えられたばかりだ。
涙を零しながらも笑顔を見せようとしている花梨の表情からも、自分と同じく想いが通じ合ったことを「嬉しい」と思っていることが伝わって来た。そして、その事実を「嬉しい」と感じている自分がいる。
泰継はもう一度花梨を抱き締めた。すると、それに応えるように、花梨も泰継の背に腕を回し、抱き締め返して来た。
腕の中の存在が、堪らなく愛しい。
もう、離したくない。いや、離せない――そんな思いが湧き上がるのを、泰継は感じた。

「……泰継さんの気持ち、とても嬉しいです。私だけが好きなんだって、ずっと思っていたから……。夢を見ているみたい……」
「それは、私も同じだ。お前が私などを想ってくれているとは、夢にも思わなかった」
「じゃあ、私たち、知らずにずっと『自分の片想いだ』って、互いに思い込んでいたんですね」
くすくすと花梨が笑う。

「あの、泰継さん」

泰継に声を掛け、背中に回した手を解くと、花梨は泰継の胸に両手を当てて、身体を離そうとした。これから話すことは、彼の目を見て話したいと思ったからだ。
花梨の声に何かを感じ、泰継は花梨の身体を解放した。
花梨は泰継の胸に預けていた身体を起こして簀子縁に座り直すと、泰継の目を真っ直ぐに見つめ、話し始めた。

「泰継さんが眠っている間に、天狗さんが話してくれたんです。泰明さんと、先代の神子のこと……」

泰継が瞠目するのを見つめながら、花梨は言葉を継いだ。

「泰明さんが人になれた理由は、えっと…、もう泰継さんにも判ったと思うけど……」
「泰明も先代の神子と想い合い、神子から陽の気を授かったのだな?」

言葉にするのが恥ずかしいのか、顔を赤らめ言葉を濁した花梨の後を引き継ぎ、泰継が答えた。
躊躇うことなく紡がれた言葉に、赤くなった顔が一層熱を帯びるのを感じながら、花梨が頷く。

「泰明さんは、京が救われた後、元の世界に帰る先代の神子と一緒に、神子の世界に旅立ったそうです。それが二人の達ての願いで、それを龍神様が叶えてくれたんだって、天狗さんは言っていました。だから、安倍家でも、泰明さんが突然姿を消したことになっているんだそうです」

花梨が話す天狗の説明から、泰継は先程の自らの推測が正しかったことを知った。
そして、花梨のお陰で人になり、花梨と想いが通じ合った今、泰継には新たな願いが生じていた。
それは、すべてが終わった後も花梨と共に在るために、花梨と共に、花梨の世界に渡ることだ。
先代の泰明と同様に――…。
以前ならば考えられなかったことだが、泰明と同じ奇跡が起きた今なら、彼と同じく神子の世界に渡ることも可能だと信じることが出来た。この願いはもはや自分一人のものではない。花梨と共に叶えるべき、二人の願いであったから――。
そう考えた泰継だったが、続く花梨の言葉は全くの予想外のものだった。

「泰明さんが神子の世界に行くことを龍神様が許してくれたのだったら、神子の務めを終えた私が京に残ることも、きっと許してくれると思うんです。だから、私――」

花梨が何を言おうとしているのか察した泰継が目を瞠る。
驚きを表した色違いの瞳を見据え、花梨は宣言した。

「――私、京に残ります。泰継さんの傍にずっといたいから……」

「神子…! 何を……」

彼女の言葉に息を呑むのは、今日何度目の事だろう。
しかし、花梨が何故その決意を今語ったのか、判ったような気がした。
きっと、花梨は元の世界とあまりに違うこの京に召喚されて自分が経験した苦労を、私にはさせたくないと考えているのだ。心優しい花梨のことだから、天狗や泰長とも会って言葉を交わした今、彼らを私から奪いたくないと考えているのかもしれない。
だが、家族と呼べる者がいない自分とは違い、花梨には元の世界に家族がいる。彼女のことだから、友人も多くいるに違いない。務めを終えた後も共に在るために、どちらが自分の世界を捨てるべきかは明白であろう。
そう思うのに、彼女の言葉を「嬉しい」と感じている自分がいる。花梨が自分の事を気遣ってくれている――その事実が再び胸に温かいものを齎したからだ。
彼女の言葉を受け入れてはいけないと思いつつ、そう感じてしまった自分に、泰継は小さく息を吐いた。
花梨の言葉を「嬉しい」と感じたからと言って、花梨が京に残ることを承諾する気などないが――。

「まだ神子の務めの途中なのに、こんな事を口にするのは気が早すぎるのかもしれないけど。でも、今日、言っておきたかったから」

泰継に反対される前に言いたい事を言ってしまおうと思い、矢継ぎ早に言葉を継いだ花梨だったが、泰継が呆れたように溜息を吐くのを見て、慌てて言い訳する。

「急に思い立った訳じゃないんですよ? 少し前から真剣に考えて――」
「――花梨――」

再び泰継に名を呼ばれた花梨は、ドキリと鼓動が跳ねるのを感じた。間近で見つめられながら泰継から名を呼ばれることに、当分の間慣れそうにない。
泰継の意見も聞かず、勝手な事を喋ってしまったから叱られるかもと考えたが、花梨の予想に反して、泰継は柔らかな笑みを浮かべた。

「お前が私の事を思い、『京に残る』と言ってくれたことは感謝する。だが、私にはそれを承諾することは出来ぬ」
「どうして!? だって、この京には泰継さんの……」

――大切なものがたくさんあるのに……。
そう続けようとした花梨の言葉を理解した上で、泰継はそれを遮るように、首を横に振って花梨に告げた。

「花梨。お前は分かっていない。私には、失って困るものなどない。――お前以外は……」
「泰継さん……」
「だが、お前はそうではないだろう?」
「そんなこと…っ!」

花梨は否定の言葉を口にしたが、泰継に僅かに生じた迷いを見透かされていることにドキッとする。
泰継のことが他の誰よりも大切で、彼と離れたくないから京に残ろうと考えたのは、花梨の本心からの気持ちだった。
しかし、元の世界に全く思いを残していないかと言えば、そうではないことも自分自身よく判っている。家族や友人に二度と会えなくなることを思えば、心が揺れた。
そんな花梨に、泰継は無理をする必要はないのだと微笑みかける。

「だから、私がお前の世界に行く」

きっぱりと泰継が告げる。

「私の在るべき場所は、お前の隣だけだ。それが何処であれ、私はお前の傍にいられさえすればよい。むしろ、お前から家族を奪うことの方が恐ろしい」
「そ、それは、泰継さんだって同じでしょう? 天狗さんやご当主や、八葉の仲間だっているじゃないですか!」
「私がした選択に、天狗と泰長が『否』と言うはずがない。泉水も、他の皆も同じだろう」
同じ八葉として出会った当初は、立場の違いから打ち解けられなかった院側の八葉達とも、今では信頼関係を築けている。皆、かけがえのない仲間だと、今なら言える。きっと、それは、二つの世界に別れたとしても変わることの無い絆となるだろう。
「お前に無理をさせたと知れれば、私は皆に責められるやもしれぬ」
仲間達の反応を想像し、泰継の顔に笑みが浮かぶ。

「花梨」

やがて、泰継は笑みを消して真顔に戻ると、改めて花梨に告げた。

「迷いがあるなら、残るべきではない。お前の在るべき場所は、お前が生まれ育った世界だ。――京ではない」

そう言うと、泰継は花梨の両肩を掴み、花梨に自分の目を見るように促すと、また少し潤んで見える緑色の瞳を見つめながら、優しい微笑みを浮かべた。

「そして、私の在るべき場所は、お前の隣――。この思いは決して変わらぬ。私の大切なものは――花梨、お前以外にはないのだから」

花梨の顔がくしゃりと歪む。
この人はいつもそうだ。人じゃないから――心がないから人の心が分からないと言いつつ、花梨がわざと目を背けようとした自分自身の小さな心の揺らぎや迷いといったものを、いとも簡単に見抜いてしまう。

「ずるいよ……。泰継さんにそう言われたら私、何も言えなくなっちゃう……」
「すまない……」

微笑みを苦笑に変えて、泰継は謝罪の言葉を口にした。花梨の言葉から、彼女が自分の意見を受け入れたことを悟ったからだ。
再び涙を浮かべた花梨を抱き寄せ、胸の中に閉じ込める。
縋り付いて来た華奢な身体を抱き締めると、ほうと息を吐きながら、泰継が呟いた。

「……やはり、勝てぬな……」
「え…?」

泰継の言葉の意味が解らず、花梨が問い返した。
誰に勝てないと言うのだろう。今、花梨がされたように、彼はいつも易々と相手を納得させ、説得してしまうのに。
顔を上げると、泰継が微笑みながら言葉を継いだ。

「――お前に……」

きょとんとした表情を浮かべた花梨を、泰継は愛しげに見つめる。
彼女はいつも前向きで、泰継には思いも寄らないことを口にしたりする。それだけではなく、泰継の内に存在する秘めた思いまで引き出してしまう。
先程も、まだ八葉の務めも終えていない段階で告げるつもりがなかった思いまで、花梨は簡単に引き出してしまった。
そう話すと、花梨は驚いたようだ。きっと、花梨自身は全く意識していないのだろう。
愛しいという想いが胸に広がり、溢れ出る。

「私は、お前にも勝てない……」
「『お前にも』って? 他に誰か――…」

再び泰継が口にした言葉の意味が解らず、小首を傾げて問い掛けようとした花梨は、突然伸びて来た手に顎を捕らえられ、驚いて目を見開いた。

「やす……」

端整な顔が近付き、影が差した時、花梨は漸くこれから起きるであろうことを悟った。
次の瞬間、柔らかな唇が花梨の唇に重ねられる。
軽く触れるだけの口付けだったが、それでも初めての経験だった花梨は、顔を真っ赤にして放心してしまった。一瞬にして跳ね上がった鼓動がドキドキと煩い。

柔らかな笑みを浮かべて、泰継がじっと見つめている。
恥ずかしがり屋の花梨は、大好きな人の顔を直視することが出来なかった。


「花梨……」

恥ずかしさと照れくささから俯いてしまった花梨の頬に手を遣り、泰継は顔を上げるよう促した。
おずおずと顔を上げた花梨の瞳を見つめながら、泰継は改めて自らの願いを告げる。

「花梨。私は、明日から大晦日までは、龍神の神子であるお前を守る八葉として、お前の傍に在ろう。――だが、今日だけは、お前に焦がれる一人の男として、お前の傍に置いてくれ」

明日からは互いに与えられた務めに戻る。しかし、決して叶わぬと思っていた願いが叶った今日だけは、神子を守護する八葉の一人、地の玄武としてではなく、花梨に恋する一人の男として、傍にいることを許して欲しい。大晦日を半月後に控え、京を守るための戦いも今後益々激しさを増すだろう。そうなれば、こうして想い想われる恋人同士として過ごすことは出来なくなる。だから、せめて今日一日だけ、二人きりで過ごす時間が欲しいのだ。

「そして、京が救われ、新年を迎えることが出来たら、その時は――」

一旦言葉を切り、花梨の瞳を見つめ直すと、そこには、自分でも驚くくらいに優しい笑みを浮かべた自分が映っている。
その表情を崩さぬまま、泰継は花梨に懇願した。


「――その時は、お前の世界に、私を連れて行って欲しい……」


そして、ずっとお前の傍に居させて欲しい。人となった私が、人としての生を終えるまで、ずっと――…。

その言葉を、泰継は辛うじて飲み込んだ。
この想いを花梨に告げるのは、まだ早い。
それは、紛れも無く、求婚の言葉であったから――。


泰継の言葉を聞いた花梨が、涙で目を潤ませながら、はにかむような笑みを浮かべた。

「……はい…」

短く返答すると、今度は花梨の方から胸に抱き付いて来た。
その背に腕を回し、泰継は彼女の身体を強く抱き締める。


――もう、離さない。


その思いが揺るぎ無いものとなっていることを自覚しながら、泰継は花梨の髪に口付けを落とした。







〜了〜


あ と が き
「物忌み」から始まった、泰継×花梨のゲーム第四章前半の連作が、ようやく完結いたしました。
このシリーズは、元は2005年の生誕企画用に作ったお話で、大筋はほぼ当初作成したままだったりします。「二次創作の原点とも言える、原作の穴埋め的なお話を作ろう」というのが当初の目標だったのですが、「物忌み」のあとがきに書いた通り、予定外な展開もありました。一番の予定外は、「積極的過ぎる花梨ちゃん」だったりします。「普段書いている花梨ちゃんよりも、この話の花梨ちゃんは前向きで行動力がありそうだなぁ」と思いながら書いていました。告白も、本当は泰継さんからする予定だったのに、彼が考え事をしているうちに先にしてしまうし。おまけに、エンディングも迎えていないのに、「京に残ります」宣言まで……(^^; これは継さん勝てないわって、私も思ってしまいました(笑)。
また、泰継さんが人になり、花梨ちゃんへの想いが成就するまで見守る天狗さんと泰長さん、そして二人の恋を応援する泉水さんも書きたいと思っていたので、書くことが出来て満足です^^ 泰継さんと花梨ちゃんが京を去った後、泰長さんと泉水さんは仲良くなりそうですね。八葉の務めを終えた後、泉水さんが出家したとしても、二人の交流は続きそうな気がしています。
まだ西の札も入手していない段階で、自分たちの将来を決めてしまった気の早い二人(ちなみに、この流れも完全に予定外!)。これから京を救わなきゃいけないのに、こんなにラブラブしていて良いのか?、等、突っ込みどころ満載な話ではあるのですが、最後まで書けて良かったです。
本編は完結しましたが、このシリーズには番外編があります。今のところ、お題「酔」と「迷惑」の二作の予定です。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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