連理−4−
花梨を泰継に託した後、泉水は参道を戻りながら、考え事に耽っていた。
取り敢えず、泰継の無事な姿は確認出来た。正確に言うと、泉水自身は間近で泰継の顔色や体調を確認した訳ではなかったが、遠目に見た限りでは、先日糺の森で彼と会った時のような不安な気持ちは生じなかった。
それに、何故か神子が傍に在る限り、泰継は大丈夫だと思えてしまうのである。
(そう思えるのは、泰長殿のお言葉の所為でしょうか……)
もし、泰継が人になれるのだとすれば、それは神子との絆が鍵となる。そして、神子が泰継を想う気持ちこそ、彼を人とならしめる手助けとなる。
――泰長はそう言っていた。
それならば、泰継のことは心配あるまい。
泉水は他の誰よりも、恐らく本人達以上に、泰継と花梨の間に存在する絆――彼らが互いを想い合う気持ちを持っていることを知っていた。当の泰継と花梨は、互いに相手の気持ちには全く気付いていないようではあったが。
歩を進めながら、泉水は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。
泰継の元に真っ直ぐに駆けて行った花梨と、驚きながらも花梨を迎え入れた泰継。
彼らの互いを想い合う気持ちに、何か温かいものを貰ったような気がした。
(お二人の想いが通じ合ったなら、どんなにか素敵なことでしょう)
もちろん、二人が想いを成就させるには、泰継が造られた存在であるということ、そして、花梨が異世界から召喚された人間であるということなど、様々な困難が待ち受けているであろうが、百年前の八葉であった泰明が人になったと伝えられていることと、昨日泰長が話した泰明の行方についての推測は、彼らの今後に光明を齎すもののように思われた。泰明が泰継と同じ出自の者であったということからも、泉水はその思いを強くする。
参道の先、もうすぐ鎮守の森を出ようかという辺りまで来た時、泉水は此処に来た際にも見かけた老婆とその孫と思しき童とすれ違った。彼らは木鋤と箒を手に、夜が明けてからずっと参道に積もった雪を取り除き、清掃しているのだ。この社は、こうして近くに住む氏子達の手により、維持管理がなされているのだろう。森の入り口から此処までの参道は、既に彼らの手で清掃され、歩き易くなっていた。
軽く会釈して彼らと再度すれ違うと、泉水は森の出口に足を向けた。――が、ふと足を止めて、後ろを振り返る。
視線の先には、時折童に話し掛けながら参道を掃く老婆の姿があった。童は雪かきに飽きて来たのか、先程から参道脇の森の中まで駆けて行っては、老婆に呼ばれて参道に戻り雪かきをするということを繰り返しているようだ。
それを見て、泉水が首を傾げる。
(今、確かに何か感じたような気がしましたのに……。気のせいだったのでしょうか……)
参道の風景に特に変わりはなく、夜明けを迎えた森は木の枝から雪が落ちる音が聞こえるくらい静かで、異変など起きているようには見えなかった。
やはり気のせいかと思い、泉水は森の出口に向かった。
一条大路へと続く小路をゆるりとした速度で歩きながら、これから何処に向かおうかと思案する。火之御子社の神域を出た処で花梨と泰継を待とうかとも思ったが、二人の邪魔になるだけだろうと思い直したのだ。
このまま四条の館に戻ることも考えたが、花梨と二人で散策に出掛けるという理由で出て来たので、事情を知っている紫姫はともかく、もし花梨を訪ねて来た他の八葉達がまだいたら、説明のために泰継の事情にも触れなければならなくなり、後々泰継と花梨に迷惑をかけてしまうかもしれない。少なくとも今は四条に戻らない方が良いだろう。
では、安倍本家に向かい、神子を無事泰継の元に送り届けたことを泰長に報告しようかと考える。此処からなら、一条大路に出てそのまま東に向かい、戻り橋を渡って土御門大路に入れば、安倍家は目と鼻の先だ。
泰継が火之御子社にいることを知らせてくれたのが泰長の式神だったので、恐らく彼は既に泰継の現状を把握出来ているだろう。しかし、泉水は泰長と話したいと思った。先程、花梨と泰継から貰った温かいものについて、誰かに話してみたいと思ったのである。そして、その相手は泰長が最も相応しいと思えた。
泉水は安倍本家へ行くことに決め、一条大路へと足を向けた。
一条大路に入り、大内裏の北辺に辿り着いた所で、泉水は空に視線を向けた。既に夜が明け、前方に見える山々の上に懸かった雲の隙間から、陽光が零れるように地上に降り注いでいるのが分かる。
それを確認し、正面に視線を戻した時、ふと泰長の式神が泰継の所在を知らせに来た時のことを思い出した。
(やはり、泰長殿も泰継殿のことを案じていらっしゃったのでしょう)
泰継と親しくなって間もない自分でさえそうなのだから、子供の頃から泰継を師と慕っていた泰長が心配し、式神を遣わせて北山から下りて来た彼を陰ながら見守っていたのも、無理もないことだったのだろう。
あの後、泰長の式神は火之御子社には戻らず、北の方角に向けて飛び去った。式神が向かった先に在るのは北山だ。
それでは、泰長は北山の大天狗に式神を送ったのだろうか。
北山の奥深くで長い間独りで暮らして来たという泰継だが、彼には神子だけでなく、親代わりだという天狗や敬愛すべき師匠と慕っている泰長など、案じてくれる人が存在する。それを、羨ましいと思った。
――と、その時、泉水の感覚に何かが触れた。
「え…?」
無意識に口から驚きの声が零れ出ていた。
(今…のは……?)
その場に立ち止り、慌てて後ろを振り返る。
何か嫌な予感がする。先程まで全く感じなかった、何か得体の知れない禍々しい気が何処かで生じたのを、確かに今感じたのだ。
泉水はこの気配に心当たりがあった。
――これは、呪詛の気配だ。
邪気の源が何処にあるのか正確な場所を探ることは、陰陽師や僧侶として修業を積んだわけではない泉水にとっては、決して容易な事ではない。特に離れた場所が源である場合には。
それでも自分に訴えかけて来るようなこの感覚を信じ、呪詛の気配を探ろうとした時、泉水ははっとする。
火之御子社の鎮守の森で感じた微かな気配――。あれがそうだったのではないかと思い至ったのだ。
通常であれば神社の神域に禍々しい気など生じることはない。しかし、もし何者かが神域に呪詛を施したのだとしたら――。
不意に和仁の顔が脳裏を過ぎったが、泉水は首を横に振った。
誰が呪詛を施したのかを追究している暇はない。参道の掃除をしていたあの老婆や童が知らずに呪詛に触れる前に、神子に祓って貰わなければ……。
慌てて踵を返し、火之御子社に向けて駆け出そうとした時、泉水は禍々しい気が急速に膨らむのを感じた。
先程までとは比べものにならないくらいに強い邪気に、怨霊が現れたのだと悟る。
火之御子社には神子と泰継がいる。
普段であれば、泰継がいれば自分などがいなくても何の問題もないと思ったことだろう。むしろ、自分などがいれば、却って泰継の邪魔になると思ったかもしれない。
しかし、胸騒ぎがするのだ。
その一因は、昨日泰長が話してくれた泰継の身に起きている異変にあった。
すなわち、気の乱れから陰陽師としての力を揮うのに支障をきたしているらしいということだ。
もし、泰継がまだ気の乱れを抱えているのであれば――二人が危ない。
「神子っ! 泰継殿っ!」
泉水は火之御子社に向かって駆け出した。
◇ ◇ ◇
その頃、花梨と泰継は突如現れた土蜘蛛と対峙していた。
「神子、下がれ」
鋭い視線を土蜘蛛に向けたまま、泰継は花梨を背に庇いながら、懐から呪符を取り出した。
「駄目です、泰継さんっ! 今、怨霊と戦ったりしたら……っ!」
――今、私の内に在る気が全て失われた時、私は消える――。
泰継は先刻そう言った。
術を使い怨霊と戦うことは、泰継の身の内の気を大幅に削ることになるだろう。八葉としての泰継が使う術は、花梨が集めた五行の力を使って揮うものだが、泰継自身の気を消耗しない訳ではないのだ。しかも、泰継は怨霊との戦闘に陰陽術も使う。こちらは彼自身の気のみを消耗するものだった。
現在の泰継の状態で怨霊と戦ったらどうなるか――。
想像しただけで、花梨は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
しかし、泰継は制止する花梨の言葉に従わなかった。土蜘蛛が体勢を整え、攻撃を仕掛けようとしているのを感じたからだ。
この怨霊とは何度か戦ったことがあったので、どんな攻撃を仕掛けて来るかは熟知している。蜘蛛の形を取ってはいるが、巣を作り獲物が罠に掛かるのを待つ蜘蛛とは違い、鳥もちのような粘着性の糸を吐き出し、それで獲物を捕らえるのだ。
それを防ぎ先手を打つため、泰継は真言を唱えながら土蜘蛛の口を目掛けて呪符を放った。
呪符は土蜘蛛の口に貼り付き、蜘蛛の糸による攻撃を封じたかのように見えた。土蜘蛛が耳障りな唸り声を上げながら、呪符を外そうと暴れ始める。
泰継は続けて呪符を放った。激しく動く土蜘蛛の周囲に五芒星の形に符を打つ。土蜘蛛を結界に閉じ込め、動きを封じようとしたのだ。
「ノウマクサンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」
真言を唱えると、五芒星の形に打ち込んだ呪符が光を帯びた。忽ち結界が強固なものとなり、土蜘蛛の足をその場に縫い付ける。
その様子を見据えたまま、泰継は印を組んだ。
「泰継さんっ!!」
「ノウマク・サンマンダ・バザラダンカン」
背後で花梨が非難の声を上げるのにも構わず、真言を唱えながら自らの気を込め、再び呪符を放つ。
呪符が体に命中すると、土蜘蛛は不快な叫びを上げて、のた打つように激しく足を動かした。その動きに反応し、結界がビリビリと震動音を立てる。泰継の攻撃は土蜘蛛に多少の痛手を与えたようだ。
しかし、攻撃が成功したにも拘らず、泰継は険しい表情を崩さなかった。立て続けに術を行使した所為で乱れた呼吸を整えながら考える。
(やはり、思い通りには行かぬか……)
いつも以上に術を使った際の気の消耗が激しい。その割に、術の効き目はいつもより小さいようだ。
土蜘蛛は強敵ではない。京の町に現れた怨霊の中では、むしろ戦い易い相手と言えるだろう。そのような雑魚を相手に梃子摺るわけにはいかなかった。土蜘蛛の属性は火――花梨とは同属性、泰継とは相生の関係にある。長引けば長引くほど不利になるのはこちらの側だ。
より強力な術を用いて一気に土蜘蛛の気力を削ぐことが必要だ。怨霊の気が弱まれば、花梨が封印し易くなる。つまり、花梨の負担が最小限で済むのだ。
そう考えた泰継は、漸く花梨に声を掛けた。
「神子。私に土の気を――」
「泰継さんっ!」
泰継の声を遮るように花梨が叫ぶ。花梨の声には、非難と心配の色が滲んでいた。
花梨の目には、痛手を受けたはずの怨霊よりも、泰継の方が消耗しているように見えた。いつもと変わらぬ背中のはずなのに、ずっとこの背中を見つめ続けて来た花梨には、泰継がどんなに装おうと彼の不調が伝わって来るのだ。
彼にこれ以上気を消耗させてはいけないと考えた花梨は、自らの気を掌に込め、それを土蜘蛛に向けて発した。花梨が「えいっ」という掛け声と共に発した気弾は見事に命中し、ほんの少しだけではあるが土蜘蛛の気力を削ぐことに成功する。花梨は火属性の怨霊である土蜘蛛と同じく火属性の力を使うため、土蜘蛛に大きな打撃を与えることが出来ないのだ。土蜘蛛と相克関係にある水属性の力を揮う泉水が此処にいれば――と思わずにはいられなかった。
「神子っ! 何をする!」
「だって……」
「攻撃は私がする。お前は怨霊を封印する時まで、なるべく力を温存しておけ」
突然攻撃を仕掛けた花梨を、今度は泰継が諌めた。
花梨の攻撃に殆ど効き目がないことは、陰陽師である泰継は百も承知している。このような雑魚を相手に花梨の力を消耗させる必要はないのだ。
「でも、泰継さんっ!」
まだ言い募ろうとする花梨に、目の前の怨霊から視線を逸らすことなく泰継は言った。
「今は言い争いをしている場合ではない。――お前にはあれが見えぬのか?」
泰継は土蜘蛛から僅かに視線を逸らし、参道の先を目で指し示した。
彼の視線の先に目を遣った花梨は目を瞠った。腰を抜かしたように参道に座り込む老婆と、老婆に寄り添う子供の姿があったからだ。では、泰継が矢継ぎ早に土蜘蛛に攻撃を仕掛けたのは、彼らから土蜘蛛の注意を逸らす意図もあったのだろう。
「早く逃げてっ!」
二人に逃げるよう促すと、花梨は意を決したように怨霊に向き直った。泰継の言う通り、怨霊を封印するのが先だと悟ったのだ。
花梨の視線の先では、泰継が放った呪符に攻撃を封じられ、結界に閉じ込められた土蜘蛛が、結界を破壊しようともがいている。この怨霊も、龍神の神子が封印することにより浄化され救われるのだ。
「神子」
泰継が再び呪符を取り出し、後ろを振り返らずに言った。
「私は以前、お前に言った。『神子を守るのが私の意味。だからそれを否定しないで欲しい』、と――」
花梨ははっとする。それは、二人だけで糺の森に出掛けた日、彼が花梨に告げた言葉だった。
造られてからの長い年月、泰継が探し続けて来た自らの存在の意味。それは、八葉に選ばれ、龍神の神子を守ることにあったのだと彼は言った。
それを否定することは、彼自身の存在を否定することに等しい。
「神子であるお前を守ることは、私の使命であり、今や望みでもあるのだ」
言葉を紡ぎながら、泰継は呪符を手に構えた。
「何があろうと、神子は私が守る。それを忘れるな」
力強い泰継の言葉を聞いて、花梨は一瞬泣きそうな表情を浮かべた。
これ以上の気を消耗することは、泰継の命を削ることに繋がる。それにも拘わらず、彼は「自分が守る」と言ってくれる。泰継のその言葉が八葉の務めを果たすことだけを意図して発せられたものではないと、今なら花梨も理解出来た。
最早自分に反論の余地がないことを悟り、花梨は小さく頷くと、胸の前で両手を組んで祈った。
(泰継さんに土の気を……!)
この地に宿る火の気を集めて土の気に変え、泰継に送る。彼の負担がこれ以上大きくならないよう、術を行使するのに十分な力を。
暖かな気が自らに流れ込むのを感じ取ると、泰継は透かさず呪文を唱えた。
「急急如律令 呪符退魔!」
花梨から受け取った気は激しい奔流となり、結界に閉じ込められた土蜘蛛を襲った。
耳障りな唸り声を上げて、土蜘蛛がもがく。
(……っ!)
不意に激しい眩暈と倦怠感に襲われ、泰継は目の前が真っ暗になる感覚を覚えた。今にも膝が崩れそうになるのを懸命に堪える。
(まだ倒れるわけにはいかない。神子が怨霊を封印するまでは――!)
ここで自分が倒れれば、結界を維持出来なくなる。怨霊に自由を与えれば、残る力で忽ちの内に攻撃を仕掛けて来るだろう。
そう考えた泰継は、ともすれば飛びそうになる意識を何とか留めようとした。
だが、強力な術の行使により乱れた呼吸が治まらない。身の内から次々と五行の力が抜け落ちて行くのを感じながら、泰継は限界が近いことを悟った。
「泰継さん!? 大丈夫ですかっ!?」
泰継の異変に目を瞠った花梨は、慌てて駆け寄り、立っているのもやっとという状態の身体を支えた。
肩を大きく上下させながら荒い呼吸を繰り返す泰継を見て、花梨は驚く。怨霊との戦闘において、しかも土蜘蛛のような弱小の怨霊を相手にして、彼がこのように疲弊している姿を花梨に見せたことは、未だ嘗てなかったことだ。
「私…に、構うな……! 早く、封印をっ!!」
顔を上げることも出来ないまま、絞り出すような声で泰継が花梨にそう怒鳴った時、パリンと硝子が割れるような音が辺りに響いた。最後の力を振り絞った土蜘蛛が、泰継が張った結界を破ったのだ。それと同時に、土蜘蛛の攻撃を封じていた呪符が剥がれ、ゆっくりと地面に舞い落ちて行くのが泰継の視界に入った。
「いけないっ!」
声を上げた泰継は右手で花梨を背後に押しやると、左手で印を結んだ。
泰継が自らの気を用いて自分たちの前に障壁を作るのとほぼ同時に、土蜘蛛の口から粘り気を帯びた糸が吐き出された。糸が障壁にぶつかり、ギシギシと音を立てる。
術をまともに食らったにも拘らず、相手にまだこれだけの力が残っていたことに驚きながら、泰継は印を結んだ手に力を込めた。
障壁を突き破ろうとする蜘蛛の糸と、それを阻もうとする泰継の力が拮抗する。
(あと…少し……。あと少しの間だけ持ってくれ!)
泰継の術により大幅に気力を削がれた土蜘蛛の攻撃には、既にいつもの力はない。
あと一撃を加えれば、花梨が封印出来るだろう。
泰継は呪符を取り出し、残り少ない力をそれに込めるべく、念じた。
「泰継さんっ!! 駄目っ!!」
彼が何をしようとしているのか悟った花梨が叫ぶ。
嘗てないくらいに疲弊した身体で障壁を維持しながら更なる攻撃を加えることが、どれ程泰継の気を消耗することになるのか想像し、花梨の顔は蒼白になった。
しかし、泰継は花梨の制止を敢えて無視した。
覚悟は疾うに決めていた。
この命に代えても、神子を……、いや、花梨を守るのだと――。
泰継は花梨を振り返った。
そして、告げる。
「今度こそ封印しろ。良いな――」
一度言葉を切り、泰継が浮かべた表情を見て、花梨は息を呑んだ。
こんな時なのに、彼が見せたのは、穏やかな微笑みだったからだ。
そして、泰継は最後に想いを込めて愛する者の名を呼んだ。
「――花梨…!」
「――!」
真名で自分を呼んだ泰継に、花梨は大きく目を見開いた。
その一言に込められた彼の想いが伝わって来る。
出逢ってから暫くの間は名前で呼ばれていた。しかし、花梨が龍神の神子であると認めてからは、泰継は花梨のことをずっと「神子」と呼んでおり、名で呼ぶことは一切なかった。
泰継から久しぶりに名前を呼ばれた花梨は、そこに以前はなかった彼の自分に対する想いを感じ取った。
神子を守る八葉としてだけではなく、一人の男として愛する存在を守りたいのだという、彼の想いを――…。
花梨は思わず両手で口元を覆い、込み上げて来る涙を堪えた。
泰継は直ぐに土蜘蛛に視線を戻した。怨霊と対峙する彼の顔には既に先程の笑みはない。
ふら付きそうになる身体を立て直し、雪に覆われた参道を踏み締めて立つと、呪符を構えた。
「ノウマク・サンマンダ・ボダナン・インダラヤ・ソワカ!」
真言を唱えながら渾身の力を込めて放たれた呪符は、土蜘蛛の頭に命中した。
断末魔の叫びを上げた土蜘蛛には、既に攻撃する余力も長い足を使って暴れる力も残っていなかった。
「……っ!」
すうっと全身の力が抜けていく。気が遠くなる感覚に襲われ、立っていられなくなった泰継は、崩れるようにその場に膝を突いた。印を結んだ左手はそのままに、右手を地に突けて上体が前のめりに傾くのを何とか堪えようとする。しかし、身体を支える腕が小刻みに震え始め、直ぐに片手では支えきれなくなった。腕を折り、前腕全体を使って、それ以上身体が傾き地面に倒れ込むのを辛うじて堪える。
「泰継さんっ!!」
花梨が悲鳴のような声を上げたが、その声に応える余裕もなかった。
僅かに顔を上げ、土蜘蛛に攻撃する力が既にないことを確認した泰継は、漸く印を解き、細く息を吐いた。自由になった左手を突いて身体を起こそうしたが、手に力が入らないことに気付く。
とうとう限界が来たのだと悟った。
泰継が顔を上げることすら儘ならない様子なのを見て取り、花梨は彼を庇うように一歩前に踏み出した。
泰継に代わり、土蜘蛛と対峙する。
土蜘蛛は泰継の攻撃に極限まで気を削られ、今や弱々しく足を動かしているだけだった。その姿が、花梨の目には、まるで土蜘蛛が泣いているかのように見えた。
(もう苦しまなくていいよ…。今、助けてあげるから……)
花梨は胸の前で祈るように両手を組んだ後、掌を上にして両手を広げ、前に差し出した。掌が熱を持ち始め、力が集まって行くのを感じる。
充分に力が集まったところで、花梨は封印の力を発動する文言を唱えた。
「めぐれ、天の声! 響け、地の声!」
花梨の凛とした声が泰継の耳に届いた。
最後に神子の姿をこの目に焼き付けたい――…。
その思いから、泰継は重く沈みそうになる頭を何とか持ち上げ、花梨を仰ぎ見た。
両手を前に広げ、花梨は真っ直ぐに立っていた。
泰継は目を細めてその姿を見つめた。
「――彼のものを封ぜよ!!」
呪文が完成した途端、その華奢な身体から眩いばかりの神気が発せられる。
白銀に輝く神気が不可思議な模様の網を織り成し、光の球となって土蜘蛛を包み込んだ。
温かで慈愛に満ちた気が土蜘蛛を癒していくのが見て取れる。
白銀の目映いばかりの光を纏う神々しい龍神の神子の姿――。
目の前の光景を、泰継は「美しい」と思った。
眩しそうに目を細めて怨霊を封印する花梨の姿を見つめていた泰継は、ゆっくりと目を閉じた。
目蓋の裏に、今見た花梨の姿が残像として焼き付いているのを確認する。
(神子は、もう大丈夫だ……)
京に来たばかりの頃、呪詛に近付くだけで穢れを受けていた花梨は、神子としての力が増すにつれ、穢れを寄せ付けず、跳ね返す程の清らかさを身に着けていた。
もう、自分がいなくても大丈夫だろう。花梨ならきっと、残る西と南の札を手に入れ、京を救うことが出来るに違いない。
出来れば京が救われる日まで神子と共に戦い、神子の傍にいて神子を守りたかったが、最後に残されたこの力を怨霊から神子を守るために使うことが出来たことだけで、充分に満ち足りた思いを得た。
薄れゆく意識の中、泰継の脳裏には出逢ってから花梨が見せた様々な表情が浮かんでは消えて行く。
北山で初めて会った時に見せた、戸惑った表情。
式神が符に戻るのを見て驚く花梨。
周囲の者をも幸福にするような、明るく無邪気な笑顔。
自分の事を顧みない泰継を諌め、涙ぐみながら怒る姿。
そして、最後に浮かんだのは――。
『泰継さん……』
泰継の名を呼びながら浮かべた、嬉しそうな微笑み――。
泰継の口元が僅かに綻んだ。
(神子……。私…の……)
怨霊の気配が完全に消え去ったことを感じ取ったところで、泰継の意識は絶たれたのだった。
光が収束すると、土蜘蛛の姿はまるで幻のように霧散していた。土蜘蛛を封印することに成功したのだ。
これで土蜘蛛は浄化され、救うことが出来たはず――。
そう思いながら花梨がほっと安堵の息を吐いた時、どさりという物音がした。
音がした方を振り向くと、そこには真っ白な雪の上に横たわる泰継の姿があった。
「泰継さん!!」
慌てて泰継の傍らに跪くと、花梨は彼を抱き起こそうとした。しかし、男性にしてはかなり細身の部類に入る泰継でさえ、ぐったりとした身体は非力な少女には重く感じられ、俯せに倒れ込んだ身体を仰向けにするだけでも労力を要した。
「泰継さんっ!? 大丈夫ですか、泰継さん!!」
雪の上に仰向けに横たえた身体を揺さぶりながら叫ぶ。
泰継からの返事はなかった。
力なく横たわる身体からは何の反応も返って来ない。
それどころか、息遣いすら感じられない。
投げ出された手を取った花梨は、その冷たさに思わず息を呑んだ。急いで頬にも触れてみるが、血の気がなく青褪めた肌は、手と同様に氷のように冷たかった。
花梨の背筋を冷たいものが走る。
(まさか――…)
『今、私の内に在る気が全て失われた時、私は消える――』
泰継の言葉が蘇る。
もしや、今の土蜘蛛との戦闘で、彼の身の内の気が全て失われたということなのだろうか?
「嘘……」
真っ青になった花梨の唇から無意識に零れ出たのは、目の前に突き付けられた現実を認められず、否定する言葉だった。
花梨は泰継の首の後ろに手を入れて肩を抱き、再度彼を抱き上げようと試みた。地面から少し持ち上げると、顎が上がって頭が仰け反り、白い喉元が露となった。
普段隙のない泰継が決して見せたことがない無防備なその姿に、花梨は彼の意識が完全に失われていることを悟り、愕然とする。
では、本当に泰継は――…。
がくがくと腕が震え始める。力が抜けて行く手で、何とか泰継の頭を自らの膝の上に載せた。
それでも、泰継は目を開くことも呻き声を上げることもなかった。
「泰継さんっ! お願い、目を開けて…っ!!」
花梨は反応の返って来ない身体を揺さぶりながら、泰継に呼び掛け続けた。
しかし、花梨が魅せられて止まない色違いの澄んだ瞳は、長い睫毛に彩られた目蓋に隠され、どんなに懇願してもその姿を現すことはなかった。
「う…そ……。嘘…っ! 嘘ーーっ!!」
小さな呟きはやがて悲痛な叫びとなり、静寂を取り戻した境内に響き渡った。
胸が張り裂けそうな痛みに襲われると同時に、涙が一気に溢れ出た。
「どうしてーっ!? 泰継さんっ!!」
花梨の目から溢れ出た涙は頬を伝って次々と流れ落ち、泰継の頬を濡らした。
「ずっと傍にいたいって…、そう言ってくれたじゃないっ!!」
泉水に牛車を呼んでもらって安倍家に行こう。
安倍家に着いたら、泰長に天狗と連絡を取ってもらうおう。
そして、天狗に泰明が人になれた理由を訊ねよう。
泰明が人になれたのなら、同じ出自の泰継がなれないはずがない。
泰継が人になれるまで、決して諦めない。
泰継が人になれたら……。
そうしたら、ずっと、傍にいられる。
ついさっきまで、必ずできると信じていた。
彼も自分と同じ想いを抱いてくれているらしいことを知り、飛び上るほど嬉しかった。
彼の想いを知り、九十年もの長い年月、幸せを知らずにただ存在するだけだったという泰継を、自分の手で幸せにする。そして、自分も彼の傍で幸せになるのだ――そう決意した。
あれから、まだ十分程しか経っていない。
それなのに――…。
「私を置いて逝かないでぇーーっ!!」
幸福の絶頂まであと少しというところから、一転して地獄の底まで叩き落された花梨は、一人取り残される恐怖に襲われ、今逝こうとしている泰継を引き止めようと声を限りに叫んだ。
しかし、やはり泰継からは何の反応も返って来なかった。
もう一度泰継を抱き起こし、縋り付くようにぎゅっと抱き締めると、ぴくりとも動かなくなった身体は既にひんやりと冷たくなっていた。その冷たさが、彼はもう此処にはいないのだと、花梨に告げているようだった。
想いを告げることも出来ぬまま、泰継を失うことに耐えられなかった。
全身ががくがくと震え、涙腺が壊れたかのように、止め処なく涙が溢れる。
「いやあぁぁーーーーーーっ!!」
花梨の絶叫が辺りに響いた。
その声に呼応するかのように、冷たさを含んだ風が境内を吹き抜け、木々をざわめかせる。
しかし、周囲の音はもはや花梨の耳には入らず、周囲の風景もまた花梨の目には入っていなかった。
泰継の身体を掻き抱いたまま、花梨はただ繰り返し泰継の名を呼び続けていた。