連理−3−
一体、彼は何と言ったのだろう。


耳で捉えた泰継の言葉の意味を、花梨は直ぐには理解出来なかった。正確に言うと、理解したくなかったのだ。だから、その意味を捉えることを頭が拒絶していたのだと思う。
ただ、自らの鼓動だけが、耳元で大きく響いていた。

「消えるって……。嘘……。嘘でしょ? ねぇ、泰継さん!」

花梨は泰継の両腕を掴み、彼の身体を揺さぶりながら声を上げた。最初は呟くように小さかった声が、次第に悲鳴のように大きくなっていく。

(――嘘だ。そんな事、絶対信じない!)

泰継が嘘を吐く人物ではないことは、誰よりも承知している。しかし、今の花梨には、彼の言葉を事実として受け入れることが出来なかったのだ。

「泰継さんってば! お願い、嘘だって言ってよ!」

今にも泣き出しそうな悲痛な表情で、視線を逸らせて俯いたまま一向にこちらを向いてくれない泰継の顔を見つめた。泰継は花梨に揺さぶられるまま、ただ立ち尽くしている。
その時、花梨は彼の伏せられた長い睫が微かに震えていることに気が付いた。今まで彼が見せたことのないその表情に驚き、目を瞠ると同時に愕然とする。
彼が真実を語っているのだと悟ったのだ。

(じゃあ、本当に……?)

泰継の腕を掴んでいた両手から力が抜ける。がくがくと小刻みに膝が震え始めた。

「嘘……」

呆然としたまま、無意識に紡がれた言葉は、花梨の頭に浮かんだものとは正反対の言葉だった。泰継の言葉が事実なのだと彼の表情から察したものの、まだ、彼が消えるのだということを、事実として受け入れることが出来なかったのだ。



それまで、花梨に揺さぶられるままになっていた泰継は、花梨の手から力が抜けたのを感じて、逸らしていた視線を彼女に向けた。
花梨はそれ以外の言葉を失くしてしまったかのように、呆然としたまま、ただ、
「嘘……、嘘……」
と、小さく震える声で、繰り返しそう呟いている。
花梨の目は何も捉えていないようだった。泰継が自分をじっと見つめていることにも気付いていないようだ。
掴まれた腕から、彼女が震えているのが伝わって来る。

――嘘なら、どんなに良かっただろう。

しかし、神子に告げた事が事実であることは疑いようもない。誰よりも泰継自身がそれを理解している。
最期に一目神子に会えればそれで良いと思っていたはずなのに、自分が消えるのだと知り、強い衝撃を受けたらしい彼女の姿を目の当たりにした今、また別の願望が湧き上がって来るのを、泰継は感じた。
神子を抱き締めたい、自分だけのものにしたいという、人ならぬ身には過ぎた願望――。
最後の機会だと思うからこそ頭を擡げて来るその願望を、泰継は今にも擦り切れそうな理性を掻き集め、何とか押し止めた。

「神子……」

魂が抜けたかのように放心している花梨に呼び掛ける。
花梨の耳にはまだ泰継の声が届いていないらしく、彼女からは何の反応もなかった。

「神子!」

左腕を掴んでいた花梨の右手首を右手で掴み返し、先程よりも強い口調で呼び掛けた。
すると、呆然としていた花梨が漸く泰継の顔を仰ぎ見た。
潤みを帯びた緑色の大きな瞳が、泰継の色違いの双眸に焦点を結ぶ。

「や…すつぐ…さん……?」

初めて会った時、一目で魅了されてしまった琥珀と翠玉の瞳が、じっとこちらを見つめている。
いつもは揺ぎ無い双眸が、今は少し揺らいでいるのが見て取れた。
それを見つめ返しているうちに、花梨は落ち着きを取り戻した。泰継の瞳に、花梨を心配する気持ちが表れていたからだ。
当事者である泰継は、恐らく自分などより遥かに強い衝撃を受けたはずである。それなのに、彼はいつものように真っ先に自分の事を案じてくれる。そんな彼の負担になってはいけないという思いが、予測していた最悪の事態に直面し、取り乱した花梨に、落ち着きを取り戻させたのだ。
そして、花梨は己のなすべき事を思い出した。
彼を失う予感に怯え、悲嘆に暮れているだけではいけない。泰長が言った通り、泰継への想いが彼が人となる手助けになるのなら、この想いは決して諦めない。もちろん、泰継の事も絶対に諦めない。たとえ、彼が消える時が来たというのが真実だったとしても、最後の最後まで彼が人になれる方法を共に探し、傍にいて彼を支えようと決意する。京に召喚された時からずっと傍にいて守り、支えてくれた泰継を、今度は自分が支える番だ。そして何よりも、彼を失いたくないという思いが花梨を駆り立てていた。
(泰継さんを失わずに済むために、私が出来る事って何だろう? 「泰継さんへの想いを決して諦めずに持ち続けることだ」って、ご当主は仰ったけど……)
泰継への想いを捨てる気など元より無いが、他に何が出来るのだろうか。
その糸口を探るため、花梨は先ず泰継が置かれた現状を把握することにした。

「泰継さん。消えるって、どうして? 気の乱れはまだ治まらないの? 力の補充は?」

泰継の腕を掴んだままになっていた手に再び力を込め、縋るように問い掛ける。
花梨が最後に泰継に会ったあの物忌みの日以降、彼は京の町を巡り、五行の力をその身に蓄えるのと同時に、北山に戻り、気の乱れを鎮め、気を整えるために泉で禊を行っているようだと、昨日泰長から聞かされた。
それなのに、“消える”という言葉を泰継が口にしたということは、まだ気の乱れを鎮めることに成功していないのかもしれない。
一体、泰継の身に何が起きているのか――。
彼自身の口から、それを説明してもらいたいと、花梨は思った。


呆然としたまま何も映していなかった花梨の瞳が自分の姿を映すのを確認し、安堵したのも束の間、矢継ぎ早に繰り出される問い掛けに、泰継は一瞬言葉を失くし、息を呑んだ。
神子に告げなければならない。そのために、今日、重く鈍る身体を押して山を下りて来たのだから。
(だが、どんな言葉で説明すれば、神子に先程のような衝撃を与えずに済むのだろうか)
泰継は言葉を探す。
だが、結局適切な言葉を見つけることは出来なかった。先程感じた眩暈の所為なのか、それとも数日来全身に纏わり付いて離れない倦怠感の所為なのか、また思考が散漫になっていることを自覚する。

「泰継さん……?」

心配そうに見つめながら、花梨が泰継の返答を待っている。
気遣いに満ちた花梨の視線を受け止めた泰継は、何故かその視線を心地良いと感じていた。
神子が自分を労わってくれている――。その事実が、泰継の胸に何か甘美なものを齎す。
以前であれば、そのように感じることは決してなかっただろう。これも、神子と出逢った所為なのだろうか。
そんな事を頭の隅で考えながら、泰継は口を開いた。

「この気の乱れは、私の力では鎮めることは叶わぬ。気の乱れは陰陽の力の低下を招き、八葉の務めを果たすことは疎か、力の補充も儘ならぬ」
「泰継さんの力でも鎮められないなんて……。気が乱れる原因は判らないんですか?」

花梨の問いに泰継が瞠目する。
気の乱れが生じる原因は……判っていた。
初めのうちは、それが三つ目の心のかけらを得て以降、頻繁に生じるようになったという事実だけを認識していた。心のかけらが戻ったことが何故気の乱れを齎すのか、その理由までは判らなかったのだ。
しかし、徐々にそれが神子のことを想う時に生じるのだと自覚するようになって来た。自分の内に存在する、人ならざるものが抱くには身の程知らずであろう神子への想い――。気の乱れが生じる原因は、間違いなくそれだ。
そして、四つ目の心のかけらが戻って来た時、泰継は自分の本当の望みを理解した。
――神子の傍にいるために、人になりたいという願い――。
捨てることも、諦めることも出来ない神子への思慕の念がその願いを生み、それにより生まれて初めて生じた葛藤が、気の乱れを齎す結果となったのだ。
だが、それを神子に告げることは出来ない。何故なら、心優しい神子は自分が泰継の不調の一因となっていると捉え、自分を責めるかもしれないからだ。決して神子の所為ではないのに……。

「判らない……」

一瞬言葉に詰まったように沈黙した後、自らが発した言葉に、泰継は驚いた。口が自然とその言葉を紡いでいたのだ。事実と異なる言葉――『嘘』を口にしたのは、神子の物忌みの日に次いで、二度目だった。

(やはり、私は壊れているのだ。無意識に偽りの言の葉を口にするとは……)

ここ数日、生まれてから九十年という長い年月の間、泰継が経験したことのない事ばかりが起きている。これは、やはり壊れる予兆なのだろうか。
内心の動揺を神子には悟らせぬよう、泰継は細心の注意を払った。

「そうですか…。原因が判らないと、どう対処したら良いのか判らないですよね」

視線を僅かに落とし、考え込む仕草を見せながら、花梨が呟く。先程のような取り乱した様子は既になく、その面持ちは真剣だ。
やがて、花梨は顔を上げて泰継を見つめた。
色白の肌が何時にも増して白く透き通って見えた。“白い”と言うより、“青白い”と言った方が正しいのかもしれない。泰継の不調は、その顔色からも明らかだった。

「泰継さん、顔色が悪いよ。立っているのも辛いんでしょう? そこで少し休ませてもらいましょう?」

泰継の腕を引き、社の階に誘う。拒絶されるかと思った花梨だったが、予想に反して泰継は一瞬だけ躊躇いを見せたものの、花梨の提案に従い、社の階に腰を下ろした。
腰掛けた瞬間、目を閉じてほっとしたように小さく息を吐いた泰継を見て、やはり彼の体調が優れないのだということを、花梨は悟った。
泰継の隣に花梨も腰掛け、再び訊ねる。

「大丈夫ですか? どんな具合なの? 泰継さんの身体に起きていること、私にも教えて下さい」

花梨は俯き加減の泰継の横顔をじっと見つめながら、立てた膝の上に置かれた泰継の手に自らの手を重ねた。北山の奥地からの距離を時間をかけて歩いて来た所為か、泰継の手は氷のように冷たかった。
彼の手が少しでも温まるようにと、花梨は重ね合せた手に力を込めた。
すると、泰継は驚いたように閉じていた目を開き、花梨に視線を向けた。
真剣な花梨の表情を、暫くの間無言のまま見つめていた泰継は、観念したように重い口を開いた。

「……心のかけらを得てからこちら、力が失われていくのだ。私の中に在る陰陽の力が失われていく……。そして、その補充を試みても、気の乱れの所為か陰陽の力を上手く使えず、力の補充を行うことも出来ぬ……」

神子に衝撃を与えたくない。
だが、事実は変えられない。たとえどんなに伝え難い事柄であっても、神子には伝えておかなければならない。
そして、神子に詫びなければならない。八葉の任を最後まで果たせないことを。
そう考えた時、秀麗な顔に苦しげな表情が浮かんだ。

「今、私の内に在る気が全て失われた時、私は消える。もっと、お前の役に立たねばならないと思っていたのに……。すまない、神子……」
「そ、そんな……」

泰継の口から告げられた言葉に、花梨は息を呑んだ。
呆然と言葉を失くした様子の花梨を見て、泰継はまた彼女に衝撃を与えてしまったことに気が付いた。
――決して神子の所為ではない。神子が気にすることではないのだ。
それを伝えたくて、泰継は言葉を継いだ。

「だが、私が消えるのは道理。だから、お前が気にすることではないと思う。人が死ぬように、人の手により造られた私も消える――その時が、今、来ただけなのだ」
「そんな事…っ! そんな事、言わないでください!!」

突然、花梨が声を荒げた。
花梨は泰継の顔を睨み付けるように見据えていた。
泰継が口にした「お前が気にすることではない」という言葉は、花梨の耳には、花梨の心配も、想いも、すべてを拒絶する言葉のように聞こえたのだ。
――彼はまだ判っていない。自分がどれ程心配しているか。そして、どれだけ彼を大切に想っているか――…。

花梨の表情に驚いた泰継が目を瞠った。
すると、花梨は一転して心配そうな表情を浮かべた。再び目が潤み始める。

「泰継さんは、本当にそれでいいの? 私は嫌です。泰継さんが消えるなんてっ!」

思わず本音が零れ出る。自分の我儘な願いを泰継に押し付けているだけだという自覚はあったが、花梨は溢れ出た想いを止めることが出来なかった。

「泰継さんを失うなんて、絶対嫌……っ! 泰継さんは? 『道理だから消えてもいい』なんて思っているわけじゃないんでしょう?」

泰継の手を、今度はぎゅっと握り締めた。
泰継は花梨の気迫に圧倒されたかのように絶句したまま、ただ花梨の顔を見つめている。

「貴方の本当の気持ちを教えてください……」

潤んだ目でじっと泰継の顔を見つめながら、花梨は懇願した。端正な顔を見つめているうちに自然と零れ落ちそうになる涙を辛うじて堪える。
自らの存在意義と位置付けている八葉の務めもまだ果たし終えていない状況で、彼がこのまま消えてしまっても良いと考えているとは、花梨にはどうしても思えなかった。
それに、泰継が抱いている泰明に対する羨望の気持ちは、泰明が人になったことに対する思いも当然含んでいるはずだと花梨は思う。つまり、泰継自身も人になりたいと願っているのではないかと考えられるのだ。
泰継が本当はどう思っているのか、自分の事をあまり話さない人ではあるが、彼の口からはっきり言ってもらいたいと花梨は思った。彼自身もそう望んでいるのなら、花梨の願いは自分勝手なものではなく、二人の共通の願いとなる。それに、泰継が望んでいるのなら、その手助けがしたいのだ。ずっと、彼の傍にいるために――。

「神子……」

息を呑んで花梨の言葉を聞いていた泰継は、花梨の声が途切れたところで何とかその言葉だけを発した。

(私の本当の気持ち……)

花梨の言葉を心の中だけで反芻する。
視線を花梨から自分の足元に落とし、考える。
――今、言っても良いのだろうか。少し前から抱いて来た願いを。
もう、自分にはそれ程多くの時間は残されてはいないだろう。神子と二人きりになれるのも、これが最後になるかもしれない。
その思いが泰継の背中を押した。

「神子……。私は、人型を与えられた時からずっと、いずれ私が消えるのは人ならぬものの摂理――、そう考えて来た。そして、それを当然の事と受け止めていたのだ」

泰継は漸く口を開き、自らの思いを話し始めた。

「しかし、お前と出逢い、八葉に選ばれ……、八葉の務めを果たすうちに、少しずつ自分の心持ちが変化して来たことを感じていた。心のかけらが戻って来るたび、自分の内に存在していたある願いを思い出したのだ」

泰継は花梨に視線を戻した。

「糺の森でお前に話したな。『三つ目の心のかけらを得た時、私は自らの欲していたものを思い出したのだ』と……」
「はい……」

相槌を打った花梨は、その時のことを思い出す。
泰継の三つ目の心のかけらが戻って来た翌日、彼に誘われて糺の森を訪れた。その際、自分の事をあまり語らない彼が漏らした言葉は、今も鮮明に覚えている。

「先代のようになりたいという願い――。私はずっと、泰明を羨んでいたのだ。彼が持っていた、私が持ち得なかった強大な力だけでなく、八葉の任を経て人になったということに……」

泰継は花梨から前方に視線を移した。雪化粧した火之御子社の境内が視界に映る。

「神子を守るために人となった泰明のように、私も神子を守るために人になりたいと……、そう願っていたことを思い出したのだ……」

あの時は、ただ京を守るため、そして八葉の務めを果たすために人になりたいと考えていたのだと思う。いつ消え果てるとも知れぬ不安定な身では、神子を守り、役目を最後まで果たすことは出来ないと考えていたからだ。
だが、最後の心のかけらが戻った時、それだけが人になりたいと願うようになった理由ではなかったことに気が付いた。

「そして、四つ目の心のかけらを得た時、私は自分の本当の望みを理解した。私のようなものが望むには大それた望み…。お前のために…お前の傍にいるために、人になりたいという願い……」

泰継は初めて、本当の望みを花梨に明かした。
最後の心のかけらを取り戻した時、本当は八葉の務めを果たすためという理由以上に、花梨の傍に存在し続けるため人になりたいと願うようになっていたことに気が付いた。
本当に願っていたのは、ただ花梨の傍にいたいという、京の命運とは全く関係のない、もっと私情が絡んだ事だったのだ。

「泰継さん……」

泰継の言葉に驚いた花梨が目を瞠る。
泰継が、「龍神の神子を守る」という八葉の務めを最後まで果たすための手段として人になりたいと願っていたということは、あの日糺の森で彼から聞いて知っていた。
しかし、まさか泰継が自分と同じ願いを抱いてくれていたとは、思いも寄らなかったのだ。
彼が自分の事を大切に思ってくれていることは常に感じてはいたが、それは飽く迄も自分が龍神の神子で、彼が八葉であるからだと思っていた。京を救うとされる神子だから、大切にしてくれるのだろうと。
だが、今の泰継の言葉からは、それだけではない、彼の想いが強く伝わって来た。
自分が泰継に対して抱いているのと同じ想いが――。
胸が高鳴るのを感じ、花梨は空いていた手で胸元を押さえた。今まで抑えて来た想いが胸から溢れ出ようとしている。その温かさと何とも言えない心地良さに、こんな時にも拘らず自然と口元が綻んだ。

今なら、言ってもいいだろうか。
彼と同じ願いを自分も抱いているのだと。

花梨の視線の先には、真っ直ぐ前方に視線を向ける泰継の横顔があった。
花梨の表情の変化に、彼は気付いていないようだ。花梨の目には、泰継は境内の雪景色に目を遣りながら、告げるべき言葉を探しているように見えた。
泰継が言葉を継ぐ。

「人ではないものが抱くには身の程知らずな願いだと理解していながら、それを捨てることも諦めることも出来ない。こうなってすら、願いが叶って欲しいと祈らずにはいられないのだ……」

以前の自分なら、八葉としての自覚が足りないと批判したであろう願い。しかし、そんな自分本位な願いをどうしても捨てることが出来なかったのだと、泰継は話す。
その言葉が、花梨に自分の願いを彼に告げる勇気をくれた。
ゆっくりと息を吸い込むと、花梨は今まで泰継には隠していた自らの願いを話し始めた。

「泰継さん…。私にも、どうしても諦められない願いがあるんです。自分勝手な我儘な願いだって思ったけれど、どうしても諦めることが出来なかった……」

泰継が弾かれたように、花梨に目を向けた。驚きの表情を浮かべ、まじまじと花梨の顔を見つめる。
まだ、花梨が京に来てそれ程経っていない頃、泰継は花梨に訊ねたことがあった。
――お前の願いを教えて欲しい、と――。
その時、確か花梨は「わからない」と答えたはずだ。

(では、あの後、願い事が出来たということか……)

神子の願いとは何なのか――。
それについて考えようとすると、泰継の胸は何故かざわめいた。
神子の願いが何であるのか知りたいという思いが強くなった。

「神子にも、諦め切れない願いがあるのか?」
「はい、あります。どうしても叶えたい願いが……」
「神子の願いとは、何だ? 『元の世界へ帰りたい』という願いなのか?」
「違います」

はっきりとした口調でそう答えながら首を横に振った花梨に、泰継が驚く。
元の世界に帰ることは、京に召喚されて以来、花梨がずっと抱き続けて来た願いだったはずだ。泰継が願いを訊ねた際、花梨が何故「わからない」と答えたのか理由は判らなかったものの、彼女がずっと抱き続けて来た願いに違いないはずである。花梨が京に召喚されて暫くの間、彼女と二人きりで行動していた泰継は、他の誰よりもその事を理解していた。
だが、そんな泰継の考えを否定する言葉を、花梨は発した。

「京に来たばかりの頃は、毎日『早く帰りたい』と思っていたけど、今は違う願いがあるんです」
「『違う、願い』……?」

鸚鵡返しに訊ねる泰継に頷いた後、花梨は言葉を継いだ。

「それは――」

一旦言葉を切り、花梨は改めて泰継を見つめた。
琥珀と翠玉のような瞳が間近で瞬いている。
出逢った時から花梨を魅了して止まない、宝石のように綺麗な瞳――。
ずっと見つめていたいと思い始めたのは、いつからだっただろうか。
少し潤んで見えるその瞳を見つめ返し、花梨は告げた。

「――それは、『泰継さんに消えて欲しくない、泰継さんを失いたくない』、という願いです」

泰継が息を呑んだのが、隣に座っている花梨にも伝わって来た。
自分の想いを伝えなければと思い、花梨はあの物忌みの日の夜から考えてきた事を泰継に告げることにした。

「そのために、どうすれば良いのか、私に何が出来るだろうかと、物忌みの日からずっと考えていました。そうして、人になることが、泰継さんが消えずに済む唯一の方法なら、泰継さんに人になって欲しい、そのための手助けがしたい――そう考えるようになったの」

泰継は言葉を失くしたかのように、黙って花梨の言葉を聞いていた。彼にとっては意外な言葉だったのだろう。花梨がそんな事を考えていたとは、想像だにしなかったであろうから。

「昨日、安倍家のご当主にお会いしたことは、さっき話した通りなんですけど……。実は、私……、泰明さんが人になれた理由をご当主に訊ねたくて、安倍家に行ったんです」

泰継が目を瞠った。
それは、泰継が昨日、天狗にしたものと同じ質問だったからだ。

「泰明さんが人になれたのなら、泰継さんもきっとなれると思って……。泰明さんがどうして人になれたのかが判れば、私にも手助けが出来ると思ったの。泰継さんに内緒で勝手な事をしてごめんなさい……」

階に腰掛けたまま、謝罪の意味を込めて花梨は泰継に頭を下げた。

「でも、ご当主も泰明さんが何故人になれたのかは判らないって言っていました。本家でも伝えられていない事だから、多分北山の大天狗さんにしか判らないだろうって……。だから、今日、泰継さんに会いに北山に行ったら、天狗さんにも会おうって考えていました。会って、泰明さんが人になれた理由を教えてもらおうと思って……」

花梨は泰継の手を握り締めた。

「だから、泰継さん。これから一緒に天狗さんに会いに行きましょう」
「……無駄だ、神子。天狗は泰明の事は一切語らぬ。昨日も、私が自分で答えを見つけねば意味がない、と言っていた」

漸く口を開いた泰継は、花梨の提案に否と答えた。
――泰明が何故人になれたのか。
それは、北山で暮らし始めて以降、泰継が幾度となく天狗に問うた質問だ。それに対して、天狗が明確な答えをくれたことはなかった。今更答えをくれるとは、泰継にはどうしても思えなかったのだ。
しかし、花梨は泰継の言葉を聞いても考えを変えることはなかった。

「でも、私、このまま諦めることなんて出来ないよ。貴方が消えるのを何もせずに待つだけなんて、絶対出来ない。一つでも手掛かりがあるのなら、最後まで絶対諦めない――!」
「神子……。どうして、お前は……」

龍神の神子である花梨が、一人の八葉のために何故そこまで手を尽くそうとするのか、泰継には理解出来なかった。八葉は神子の道具だ。役に立たなくなった道具など捨て置けば良いものを、花梨は決してそうはしない。
そして、花梨のその想いは泰継にも伝わり、抜け殻となりつつある泰継の胸に、包み込むような温かさを齎した。

「泰継さん、さっき言ってくれましたよね? 『お前の傍にいるために人になりたい』って……」

花梨は泰継に微笑みかけた。
そして、ずっと抱いて来た一番の願いを初めて口にした。


「――私も同じです。泰継さんの傍にいたい。泰継さんに傍にいて欲しい。神子の務めを終えても、ずっと……」

「神子…っ!」


人になって、神子の傍にいたい。
八葉の務めが終わった後も、ずっと――。

花梨には敢えて伝えなかった、泰継の内のずっと奥深いところに存在した望み。
それと同じ想いを、神子も抱いていたというのか――…。

「泰明さんが何故人になれたのか、天狗さんが泰継さんにも話したことがないっていうことは、昨日ご当主からも聞きました。でも、天狗さんは泰継さんの親代わりだって聞いたから……。親代わりなら、泰継さんが消えるのを、何もせずにただ見ているだけというようなことは絶対しないと思うの」
泰長から聞いた限りでは、天狗は泰継のことを実の息子のようにずっと見守り、可愛がって来たのだろうと思えた。そんな天狗が、泰継が消えようとしているのを黙って見過ごすはずはないと花梨は思っている。泰明のことも知っている天狗だからこそ、きっと花梨と同じく泰継にも奇跡が起きると信じているに違いない。
「天狗さんが泰継さんに話してくれないのだったら、私からもお願いしてみます。話してくれるかどうか判らないけど、手掛かりを知っている人がいるのに、訊ねない訳にはいかないもの」
花梨はもう片方の手も泰継の膝の上の手に重ね、両手で握り締めた。
「私、最後まで諦めない。だから、泰継さんも諦めないで……」
「神子……」
最早泰継には花梨の提案に否と言うことは出来なかった。
いつも前向きな花梨。そんな彼女が龍神の神子に選ばれたのは必然だったのだ。輝きに満ちたその顔を、泰継は眩しげに見つめた。

泰継の表情から、彼が自分の提案に同意してくれたことを感じ取った花梨は、北山に行くことに意識を向けた。
此処、火之御子社から北山の麓までは、それ程遠い距離ではない。しかし、その先はずっと山道を登って行くことになる。
花梨は泰継の顔色をもう一度確かめた。言葉を交わした限りではいつもと変わらないように思えたが、血の気が引いたように青白い顔なのは先程と変わらない。こんな状態の泰継に、徒歩で山を登らせることは出来ないと花梨は考えた。
「泰継さん、歩くの辛いんでしょう? 北山を登るのは避けた方が良いですよね。なるべく力を使わないようにした方が良いし……」
天狗は泰継の庵よりも更に奥に入った辺りを棲家としているらしい。しかし、天狗に会うため其処まで行くには、徒歩で山を登るしか手段がないのだ。
花梨は泰継の手に重ねていた手を口元に遣り、うーん、と唸りながら考えを巡らせる。
北山を登らずして天狗と話す、何か良い方法はないか――。
暫くの間考え込んでいた花梨は、やがて良い考えが浮かんだのか、ポンと手を打った。
「――そうだ。泉水さんに牛車を回してもらって、安倍家に行きましょう。天狗さんは今はもう北山から下りて来ないって聞きましたけど、ご当主に式神を送って頂ければ……。天狗さんに連絡さえ取れれば、直に会えなくてもお話しするくらいできますよね?」
「しかし、泉水はもう……」
「帰っただろう」と続けようとした泰継の言葉を遮り、花梨が応えた。
「大丈夫ですよ! 泉水さんは泰継さんほど歩くの速くないし。それに、泉水さんのことだから、もしかしたら心配して近くで待ってくれているかもしれません。どちらにしても、走れば追い付きますよ! 私、こう見えても長距離走は得意なんだから」
自信ありげにそう言うと、花梨は素早い動作で立ち上がった。

「泰継さんは此処に座って待っていてくださいね。動いちゃ駄目ですよ!」

泰継を見下ろし、そう声を掛けると、花梨は階を下り参道に降り立った。
神子を一人で行動させるわけにはいかぬと考え、泰継が腰を浮かせた。忽ちぐらつく身体を、高欄に手を突いてどうにか支える。

「待て、神子!」

泰継は参道を駆け出した花梨を呼び止めようとした。
しかし、その声に参道の途中で一度立ち止まり、後ろを振り返った花梨は、
「行って来ます!」
と、元気良く言うと、再び前を向いて駆け出した。

その背中を見送るしかなかった泰継は、階に座り直し、溜息を吐いた。
神子はまるで極限まで引かれた強弓から射放たれた矢のようだ。こうと決めたら、躊躇うことなく的に向かって前向きにどこまでも突き進んで行く。
(それが神子の良いところ、か……)
そんな神子に八葉達は皆振り回されてばかりだが、彼女に危険が及ばない限り、微笑ましく見守ることが出来る。
ふっと口端に笑みを浮かべた泰継だったが、目の前の風景にある違和感を覚え、眉を顰めた。
花梨が駆けて行った更に先の空間に、先程まではなかった靄のようなものが立ち込め始めたのが目に入ったのだ。花梨は気付いていないのか、靄のある場所に向かって駆け続けている。
(あれは……)
次の瞬間、泰継は険しい表情を浮かべて立ち上がった。
急に立ち上がった所為で立ち眩みを覚えたが、そんな事に構っている暇はなかった。
懐に手を遣り呪符を取り出すと、泰継は花梨の後を追って走り出した。

「神子っ!! 止まれっ!!」

声を限りに叫ぶと、驚いた花梨が足を止め、後ろを振り返った。
泰継が自分を追って走って来るのを見て、花梨の顔に驚愕の表情が浮かぶ。

「泰継さんっ!?」
「来るぞっ!!」

――動いてはいけないのに……と、自分の言葉を無視した泰継に非難の目を向けようとした花梨は、泰継の言葉に吃驚して彼の視線を追うように前方に目を遣った。

「えっ?」

漸く靄の存在に気付いた花梨が驚きの声を漏らした。

「あれは……」

泰継が何故注意を促したのか、花梨はやっと理解した。
あの靄は呪詛が施された場所でよく見かけたものだ。それだけでなく、靄は怨霊が出現する直前にも現れることがあったのだ。

「怨霊っ!?」

花梨の傍に駆け寄って来た泰継が、靄に向けて呪符を放った。
泰継が投げた呪符は、まるでそこに壁でも存在するかのように、何もない空間に突き刺さるように止まった後、一瞬にして炎に包まれ、消え失せた。
透明な壁の向こうに蟠っていた靄が急速に形を取り始め、やがて大きな禍々しい姿の蜘蛛が現れた。



この地に巣食う怨霊――土蜘蛛が二人の前にその姿を現したのだった。
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