連理−2−
朝餉を終えた花梨は、泉水と共に北山へと急いでいた。
洛外へ向かう際、牛車を出してくれることが多い泉水だが、今日は目的地が北山の奥地であることと、花梨の気が急いていたこともあって、二人は緩々と進む牛車を使わず、徒歩で紫姫の館を出た。
早朝、しかも昨日に引き続き泉水と二人きりで外出することを、紫姫に訝しく思われるかと考えた花梨だったが、紫姫は何も聞かずに笑顔で二人を見送ってくれた。自らの泰継への想いが、昨日安倍家で泰長と話した際同席していた泉水以外の人間には知られていないと思っていた花梨は知らなかったのだが、花梨の泰継への想いは、紫姫を始め泉水以外の八葉達にも既に知れ渡っていたのである。

一方、紫姫が花梨の想いに気付いていることを知っていた泉水は、昨日泰長から文を受け取った後、花梨と共に安倍家を訪ね泰長と会ったこと、泰継がここ数日八葉の務めを休んでいるのは、気を整えるために北山に篭っているためだと泰長から教えられたこと、そして彼から「明日なるべく早く神子の元を訪れて欲しい」と依頼されたことを文に認め、紫姫に送ったのだった。但し、この文の内容を、他の八葉達には伝えないで欲しいとの注意書きを付けて。八葉全員を巻き込み事を大きくすることを、泰継はきっと望まない――そう考えたからだ。
出逢った当初は、その端的な物言いから何を考えているのか泉水には全く把握出来ない人物であったが、同じ玄武の加護を受ける八葉として北の札を探して共に行動するうちに、徐々に安倍泰継という人物を理解出来るようになっていた。
隣を歩く花梨に視線を向けると、彼女は先程から黙々と歩を進めている。普段散策する時は、歩きながらずっと他愛無い話をしたり、道端に咲く花を見つけては立ち止まり、時には摘みに走ったりする彼女にしては珍しい。歩く速度もいつもより心持ち速いようだ。
(神子は泰継殿のことが心配でならないのでしょう)
神子のことだから、恐らく自分や他の八葉が同じ状況に陥ったとしても心配してくれるだろう。だが、口を開くこともせず、足早に歩を進める神子を見て、やはり神子にとって泰継は特別な存在なのだと思い知らされる。
神子にそこまで想われている泰継が、少し羨ましいと思った。
(どうか、泰継殿がご無事であられるように……)
泉水は祈るように胸元に遣った手をぎゅっと握り締めた。

その時、何処からか鳥の鳴き声が聞こえて来た。
空を見上げると、前方から白い小鳥が此方に飛んで来るのが目に入った。遠目にも判るその鳥が纏う清らかな気に気付き、泉水はその場に立ち止まった。

「神子!」
歩きながら考え事に没頭し、近付いて来る小鳥に気付いていないらしい様子の花梨を呼び止める。
「泉水さん?」
突然立ち止まった泉水の方を訝しげに振り向きながら、花梨が漸く歩みを止めた。
「神子。泰長殿の式神のようです」
「えっ?」
泉水の言葉を聞いて、花梨はやっと小鳥の存在に気が付いたらしい。
泰継が自らが放った式神が戻って来た際よくしているのを真似て、花梨が自分の元に舞い降りて来た小鳥に手を差し出すと、小鳥は花梨の指先に留まった。

『――神子殿、泉水殿……』

聞こえて来た声は、紛れもなく泰長のものだった。
「泰長殿。泰継殿が館にお出でになったのでしょうか?」
泰継と入れ違いになった場合の連絡用として泰長から式神を借り受けた経緯があったため、泉水は紫姫の館に残して来た式神が自分達と入れ違いに泰継が館を訪れたことを知らせに来たのだと思ったのだ。しかし、この鳥は紫姫の館が在る方角からではなく、北の方角から飛来したようだった。その事に泉水が疑問を感じていると、果たして泰長から返って来た答えは泉水の言葉を否定するものだった。
『いいえ、そうではございません。泰継殿は火之御子社におられます』
「火之御子社?」
鸚鵡返しに花梨が問う。火之御子社であれば、此処からは目と鼻の先である。

『神子殿。どうか火之御子社へお急ぎ下さい』
「泰継さんは大丈夫なのでしょうか? 火之御子社で何をしているんでしょうか?」

北山から下りて来られたということから、泰継が動くことは出来るようだと判り、花梨は少しだけ安堵した。しかし、動けるのであれば、何故四条の館に真っ直ぐに来てくれないのだろうという疑問が湧き起こったのだ。
続く泰長の言葉は、花梨のその疑問に答えるものだった。

『恐らく、泰継殿は四条に向かわれる途中、気の補充のために火之御子社に立ち寄られたのだと思います』
「気の補充……」

泰長が口にした言葉を鸚鵡返しに呟いた花梨は、次の瞬間ある事に気付き、「あっ」という表情を見せた。以前、泰継が火之御子社が最も気を整えるのに適しているのだと話していた事を思い出したのだ。
花梨は泉水の方を見た。視線が合うと、泉水は花梨に頷き掛けた。火之御子社へ向かおうという花梨の考えを読み取り、それに賛同したのだ。

「分かりました。直ぐに火之御子社へ向かいます」

花梨がそう告げると、式神は「よろしくお願いいたします」との泰長の言葉を残し、再び北の方角に飛び去った。
それを見送り、花梨は泉水に向き直った。

「泉水さん、火之御子社に行きましょう!」
「分かりました」

短く言葉を交わすと、二人は急ぎ火之御子社へと向かった。





◇ ◇ ◇





雪の上に膝を突いたまま、どれくらいの時間が経ったのだろう。
既に山々の稜線から太陽が顔を出し、京の町は夜明けを迎えていた。社の周囲からも、夜明けを告げる鳥の鳴き声が聞こえて来る。
普段の冷静さを取り戻し、嵐が通り過ぎた後のような凪いだ心持ちで、泰継はその場に跪いていた。

(此処でこうしていても埒が明かぬ……)

四条までこの身体が持ってくれるかどうか判らないが、このまま此処にいても何も始まらない。
館に式神を送るという手もなくはないが、陰陽の力を行使した場合どの程度の気を消耗するのか、歩くだけで著しく気を消耗してしまった今となっては、泰継には既に予測不能となっていた。最悪の場合、式神が四条に辿り着くまでに、力尽きてしまうことも考えられるのだ。
(四条に向かうのが無理ならば――)
泰継は思案する。
(此処からであれば、四条より本家の方が近い、か……)
本家には泰長がいる。数年前に亡くなった彼の父、有行に依頼され、彼が子供の頃に泰継自身が陰陽道を手解きした、唯一人の弟子と言える人物だ。
「…………」
少しの間逡巡した後、泰継は泰長の力を借りることを決意し、安倍家に向かうため立ち上がろうとした。しかし次の瞬間、軽い眩暈を感じ、泰継は額に手を当て目を閉じた。
再び膝が崩れそうになるのを堪え、ふらつきながらもなんとか立ち上がる。立ち上がるという日常的に行っている動作を行っただけで、また気が抜け落ちて行くのを感じた。
立ち上がった後もふらつき傾ぐ身体を立て直し、体勢を整えると、泰継は小さく息を吐いた。
今日は一段と気の消耗が激しい。普段軽々と動かすことが出来る身体が酷く重く感じられた。
直ぐには歩き出すことが出来ず、眩暈が治まるまで暫くの間、そのままの姿勢で社の前に立ち尽くした。
早く一条に向かわなければと考えた、ちょうどその時――。


「泰継さんっ!!」


突然、背後から聞こえて来た声に、泰継は大きく目を瞠った。
まさか――と思った。
それは、この数日間、泰継が切望していた声だったからだ。
幻聴まで聞こえるくらいに自分は壊れてしまったのだろうか。
後ろを振り返るのが怖かった。それが幻聴であることが確定的となることが。

「泰継さん!」
「泰継殿!」

名を呼ぶ二つの声が重なった。
待ち望んだ声と聞き慣れた穏やかな声が自分を呼んでいる。
泰継は声の主を確かめるため、何時に無く緩慢な動作で後ろを振り返った。

「神子……! 泉水……!」

雪の残る参道の先に、泰継が求めて已まない存在と対の八葉である泉水の姿があった。

(何故、神子が此処に……)

泰継は言葉を発することも忘れ、呆然とその場に立ち尽くした。泉水が神子の供をして此処まで二人でやって来たであろうことは推測出来た。しかし、神子が散策に出掛けるにしてはかなり早い時間だ。
泉水が花梨に何事か告げている。彼らが立っている場所までは距離があったため、泉水が花梨に何を言ったのか、泰継の耳には届かなかった。
泉水の言葉を聞いて頷いた花梨がこちらに向かって駆けて来る。
その背を見送りながら、泉水は泰継に視線を向けた。

「泰継殿! 神子は貴方にお任せいたします!」

大人しく控え目な性格の泉水にしては珍しい大きな声で、そう呼び掛けて来た。彼の顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。
そして、泉水は花梨が泰継の傍に辿り着いたことを確認すると、後ろを振り返った花梨に微笑みながら頷き掛けた後、踵を返して参道を戻り始めた。その背中が、自分の役目は神子を泰継の元に送り届けるところまで、後は二人の問題だと言っているかのようだった。



泉水の姿が参道脇の木々の向こうに消えるまで見送った後、泰継は傍らの花梨に目を移した。泰継と同じく泉水を見送り視線を戻した花梨と見つめ合う形となった。

「――神子。何故此処に来たのだ?」

何故、彼女がこんなに早い時間に、しかも自分がいる火之御子社にやって来たのか、泰継には判らなかったのだ。
(まるで私が火之御子社にいることが判っていたかのようではないか)
神子のほうから訪ねて来るなら、通常はまず本家に向かうだろう。現在、本家の離れを仮住まいとしていることは、既に神子にも話していたのだから。だが、夜明け直後のこの刻限に此処にいる神子が、本家に寄って来たとは思えない。
(「もう一度だけ会いたい」という私の願いが神子を動かしたわけでもあるまい。神子は私がこのような邪な想いを抱いているとは、露ほども思っていないはずだ)
最期にもう一度だけ会いたいと切望した存在が目の前に現れたことに、泰継は歓喜する以前に戸惑っていた。
神子は何故此処に来たのか。
自分を捜しに来たのであれば、その理由は何か。
八葉が数日間神子の元を訪れなかったことは、これまで何度かあったことだ。しかしその際、神子が八葉を訪ねたことはなかった。仕事等、八葉の務めを休んだ理由が明らかだったからだろう。
理由を告げずに八葉の務めを休んだことを神子が訝り、捜しに来たのか。それとも他に理由があったのか。
自分でも何故だか判らなかったが、その理由が知りたいと、泰継は思った。

一方、何故自分が此処に来たのか泰継が疑問に思って当然だと考えた花梨は、彼の質問に答えるべく口を開いた。
「私、今日は泰継さんに会いに北山へ行くつもりだったんです。その途中で、安倍家のご当主から泰継さんが火之御子社にいるって聞いて……」
「――泰長が?」
眉を顰め問い返した泰継に、こくりと花梨が頷いた。
「昨日、泉水さんと二人で安倍家を訪ねて、ご当主にお会いしたんです」
花梨の言葉に、泰継が双色の目を見開いた。
泰継の視線を真っ直ぐに受け止めると、花梨は一昨日の夕刻、泉水が館を訪れてからの出来事を説明した。

一昨日、大内裏で泰長に会った泉水が、彼から花梨との面会の仲介を頼まれたこと。
そのため、昨日泉水と二人で安倍家を訪ね、泰長と会い、彼から泰継が気を整えるために北山に帰ったらしいということを知らされたこと。
泰継のことが心配で、今日は北山に訪ねて行くつもりだったこと。
その途中、此処から然程離れていない場所まで来た時、泰長の式神が泰継が火之御子社にいると知らせてくれたこと――。

花梨がそれらの事実を簡潔に説明すると、泰継は小さく溜息を吐いた。
八葉となってから本家の離れに身を寄せてはいるが、母屋で生活している泰長とは毎日顔を合わせていたわけではなかった。夜、泰長が離れにやって来て、陰陽師としての仕事の相談や世間話をしていくことは時折あったが、なるべく本家の弟子や使用人達の目に触れぬようにしていたため、泰継が母屋に行くことは殆どなかったのだ。だから、泰継が北山に帰ったことに泰長が気付いていなくても不思議ではなかったのである。
しかし、彼は泰継が離れに帰っていないことを知っていただけではなく、気を整えるため北山に滞在していることまで知っていたのだという。その理由を、泰継は容易に推測することが出来た。

(天狗か……)

――余計な事を…。

恐らく、天狗が泰長に知らせたのだろう。子供の頃、泰長が泰継に弟子入りし、北山の庵に留まり修行していた縁で、天狗は泰長とは懇意である。
天狗が心配してくれていることに感謝すべきなのだろうが、泰継は天狗に対してはどうも素直に感謝する気にはなれなかった。親代わりを自任する天狗の、しばしば押し付けがましくなる親心に、辟易していたからだ。
長い年月を北山の奥地で共に過ごして来た泰継と天狗の関係は、そのようなものであった。

『明日、神子に会いに行け』
『神子の傍にいたいのであれば、今回だけは儂の言う事を聞くのじゃ』

ふと、昨日の夕刻、北山の奥深くに在る泉で会った時に、天狗が告げた言葉を思い出した。
では、今日泰継が神子の元を訪れるであろうことも、泰長には伝わっているのだろう。だから泰長は泰継を心配し、式神を遣わせたのかもしれない。彼が自らの師として自分を敬愛してくれていることを、泰継は知っていた。
(それにしても、泰長の式神が近くにいたことに気付かなかったとは……)
その事実に、泰継は衝撃を受けた。それ程までに力を失くしたのかと愕然とする。
今、この場に怨霊が出現したらどうなるのだろうか――。
不意に、そんな疑問が頭を過った。
この偽りの命を懸けて神子を守る心積もりではあるが、この状態では神子を守り切る前に力尽きる可能性がある。特に、強い力を持つ怨霊が相手では。
(泉水を帰さない方が良かったのかもしれぬ)
今、火之御子社に怨霊の気配はない。しかし、泰長の式神の気配を感じ取れなかった以上、自分の感覚が正しいのかどうか、泰継には判断がつきかねた。


「泰継さん……?」

溜息を吐いたまま黙り込んだ泰継に戸惑い、花梨が声を掛けた。八葉の務めに熱心な泰継のことだから、花梨が神子の務めを怠けて自分を捜しに来たことを良く思わないのではないかと考えたからだ。
しかし、花梨の考えに反して泰継は何も言わなかった。常であれば指摘するであろう事柄に気が回らないほど深く、考え事に耽っていたからである。

「泰継さん。もう大丈夫なんですか? 力の補充は出来たの?」

心配そうな表情で花梨が見つめて来る。その視線を痛いと感じ、泰継は視線を逸らし俯いた。
――神子に何と告げれば良いのか――…。
神子に、告げなければならない。八葉の任半ばにして消える時が迫っているのだと。
そして、それは恐らく今日なのだと。
そう告げれば、神子はどんな反応を見せるだろうか。
驚くだろうか。それとも泣くだろうか。
真実を告げた時、花梨が見せるであろう表情を思うと、泰継は花梨と視線を合わせることが出来なかった。

「泰継さん!」

目を逸らし俯いたまま黙り込んでしまった泰継に焦れた花梨が、泰継の腕を掴み袖を引きながら、もう一度名を呼ぶ。
逸らされた視線がいつもの彼らしくない。そんな何時に無い泰継の態度に、花梨は自分の内に生じた不安が大きくなっていくのを感じた。
それを彼自身に解消してもらいたくて、泰継の腕を掴んだ手の力を少し強めた。
しかし、花梨の思いに反して、暫しの沈黙の後泰継が口にした言葉は、花梨が想定していた彼の身に起こりうる最悪の事態が起きつつあることを予感させるものだった。


「すまない、神子。私は、もう、お前の役に立てそうにない」
「……え?」


視線を逸らしたまま呟かれた言葉の意味を捉えかねた花梨は、一呼吸置いた後、思わず訊き返していた。

「どういう意味…ですか?」

聞きたくない言葉を聞かされる予感に、無意識に声が震える。
早鐘を打つように、鼓動が早くなった。



「――消える時が来たのだ」



その声が遠く聞こえた。
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