連理−1−
安倍家を訪れた翌日、花梨はまだ日が昇る前に目を覚ました。
正確に言うと、泰継のことが心配で、昨夜は殆ど眠れなかったのだ。
これ以上眠れそうにないと悟り、花梨は褥から起き上がった。単を一枚纏っただけの身体が真冬の朝の冷気に晒され、思わず身体を震わせる。
手早く服を身に着け、花梨は妻戸を開けて簀子縁に出た。
外に出ると同時に、清冽な外気に頬を撫でられる。『寒暁』という言葉が相応しい、寒い冬の明け方だ。
妻戸を閉めて高欄に歩み寄った花梨は、空に目を向けた。
京では遠くから聞こえて来る梵鐘の音でしか時刻が把握できないため、今何時なのかよく分からなかった。だが辺りはまだ薄暗く、完全に夜が明けるまでにはまだ時間がありそうだ。
視線を庭に戻すと、夜半、雪がちらついたのか、昨日の陽光ですっかり雪が解けていた階の上に、薄っすらと雪が積もっているのが目に入った。
花梨は簀子縁の上に腰を下ろした。一晩中外気に晒され冷え切った板からひんやりとした冷たさが伝わって来たが、そのまま座り続けていると、やがて冷たさを感じなくなった。
薄闇の中、まだ影絵のような風情の木々をぼんやりと見つめながら花梨が思うのは、やはりここ数日姿を見せない泰継のことだった。


『泰継殿も明日には四条を訪問なさるでしょう』


昨日、安倍家の当主、安倍泰長はそう言った。北山の天狗がきっと泰継を説得するだろう、と。

(泰継さん、本当に来てくれるのかな……)

花梨が最後に泰継と会ったのは、五日前の物忌みの日だ。あの日、彼と別れた際の気まずい雰囲気から、もしかしたら顔を出してくれないのではないかと心配になった。

(やっぱり、昨日北山に行った方が良かったのかな?)

昨日、泰長との面会を終えた花梨が泰継に会うため直ぐに北山に向かいたいと言った時、安倍家に同行していた泉水と泰長の二人から、今からだと遅くなってしまうので今日は止めておくようにと説得されたのだ。
北山には四方の札を探すために何度か行ったことがあるので、道は知っていた。だから、花梨としては独りでも良いから行きたかったのだが、日が暮れると山には妖しのものが跋扈すると言われ、諦めたのだった。
だが、今はそれを少し後悔していた。
こうしている間にも、泰継はどうしているのかと、彼の身が案じられてならない。
泰継の身体に生じたという異変は、少しは治まったのだろうか。

(泰継さんが来てくれるのを待ってるだけなんて、やっぱり出来ないよ)

現在泰継が抱えている、泰継の力を以ってしても鎮めることの出来ない気の乱れが最悪の事態を齎すかもしれない、と泰長は言っていた。
泰長が、そして花梨が想定する泰継の身に起きる最悪の事態――。それは、人ならぬ身である泰継が“消える”ということだ。泰継が自身について話す際に使う“消える”或いは“壊れる”という言葉は、造られし者である彼にとっての“死”を意味する言葉に他ならない。
寒さの所為ではなく、花梨は身体を震わせた。思わず自分自身を強く抱き締める。

(泰継さんが“消える”なんて……。嫌だ。そんな事、絶対させない)

ぎゅっと自分を抱き締めた時、昨日、泰長が言った言葉が耳に蘇った。

『神子殿が泰継殿を想われる気持ちこそ、泰継殿を人とならしめる手助けとなるでしょう』

花梨は自分を抱き締める手に込めた力を少し緩めた。
泰長は「花梨の泰継への想いが彼が人になる手助けとなる」と言ったが、花梨にはその言葉の意味を今一つ捉えかねていた。
本当に、この想いが彼の役に立つのだろうか。泰継に対するこの想いだけは、他の誰にも負けないという自信はあるけれど。
だが、もし本当に役に立つのであれば、何でもやりたい。もし、今まで誰にも告げず、心の奥底に秘めて来たこの想いを彼に打ち明けることが必要だというなら、躊躇わずにする。
手遅れにならないうちに。
彼を、失ってしまわないうちに――…。


薄暗かった空が、夜明けが近付くにつれ、徐々に明るくなっていく。
そろそろ朝の早い舎人や女房達が仕事を始める刻限だ。

(北山に……、泰継さんに会いに行かなきゃ)

意を決して、花梨は立ち上がった。誰も見ていないのを確認し、階へと向かう。
(良かった。今朝は頼忠さん、いないみたいだ)
花梨が院に対して施された呪詛を祓うことに成功し、院からも龍神の神子として認められて以来、それまで院御所と武士団の棟梁の邸宅の警備を優先させていた頼忠は、八葉として紫姫の館で花梨の警護に当たることが多くなっていた。彼が庭で寝ずの番に当たっている夜であれば、こうして部屋を抜け出すのも困難だっただろう。
館を抜け出す際に第一関門となるであろうと思われた頼忠が不在と知り、花梨は思わずほっと息を吐いた。
しかし、安堵したのも束の間、京に来てからもずっと履いているショート・ブーツを履き、庭に下り立ったまさにその時――

「――神子。このような朝早く、どちらに行かれるのですか?」

突然声を掛けられ、花梨はびくっと肩を揺らせた。
穏やかで優しいその声の持ち主は、恐る恐る視線を向けた花梨を安心させるためか、微かに笑みを浮かべている。

「泉水さん……」

いつものように控え目な態度で歩み寄って来た泉水を見て、花梨は目を見開いた後、小さく息を吐いた。八葉達がまだ訪れないような朝早い時間に出掛けようとしていたのだから、花梨が館を抜け出そうとしていたことは泉水に気付かれたことだろう。
見つかってしまっては仕方ない。だが、泉水はどうしてこんなに早く訪ねて来たのだろうか。他の八葉達と同じく、泉水は普段は花梨が朝餉を終える頃に此処を訪れていたはずだ。

「泉水さんこそ、どうしてこんな早くに?」
「昨日、神子をこちらにお送りした後、泰長殿から私宛に文が届いたのです」

泉水によると、泰長は昨日花梨と泉水が安倍家を辞する際、泰継に会うため北山に向かおうとしていた花梨を無理に引き留めたことから、花梨が独りで館を抜け出すのではないかと危惧していたのだという。

『泰継殿からお伺いしていた神子殿の性格と実際にお会いした印象から、神子殿は行動力がある御方のようですから、泰継殿の訪れを待たずにお独りで北山に向かおうとなさるかもしれません』

――だから、明朝、なるべく早く四条の館を訪ねてもらえないか。
泰長からの文にはそう書かれていたのだと、泉水が説明する。

「ですから、今朝は早めに参上することにしたのです」

それを聞いて、花梨はがっくりと項垂れた。
一度会っただけなのに、すっかり自分の行動を読まれていたことを驚くと共に、やはり泰継の弟子というだけのことはあると感心してしまう。
(“行動力がある”って……。きっと泰継さんはご当主に、“神子は無手法すぎる”とか話していたんだろうなぁ……)
思い当たる節があり過ぎて、返す言葉もないけれど。

「神子。泰継殿にお会いするためとは言え、独りで北山に向かわれるのは、私も賛同出来ません。第一、泰継殿がこちらに来られるのと入れ違いになったらどうするのですか?」
泉水の言葉に、花梨は弾かれたように顔を上げた。
「でも、泉水さん。私っ……!」
手遅れになる前に、一刻も早く泰継に会いたいのだ。来てくれるかどうか分からないのに、待ってなどいられない。もしかしたら、泰継は今、動けない状態にあるのかもしれないのに――。
そう説明しようとした花梨だったが、泉水には花梨の気持ちなどお見通しだったようだ。
「どうしてもと仰るのであれば、私が同行いたします」
「え…? 良いんですか!?」
驚く花梨に、泉水はいつもの穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「貴女ならそう仰ると思っていました。――実は、泰長殿が式神を遣わせて下さったのです」
そう言うと、泉水は背後の庭木を振り返った。木の枝に一羽の白い小鳥が留まっているのが見て取れる。
「泰継殿と入れ違いになってしまった場合、泰長殿の式神が知らせて下さるそうです」
花梨の顔に喜色が溢れた。
「ですが、神子。出掛けるのは紫姫にお知らせして、朝餉を済ませてからですよ」
直ぐに出掛けられると喜びを露にさせた花梨に釘を刺すような泉水の言葉に、花梨は一瞬言葉を詰まらせた。
正直なところ、昨日から泰継のことが心配で食欲が無かったので、出来ればこのまま北山に向かいたかったのだ。だが、確かに紫姫に知らせずに外出したのでは、花梨が独りで館を抜け出したと勘違いされかねない。今、花梨が館を抜け出すとしたら、その理由が最近姿を見せなくなった泰継にあることは、紫姫だけでなく八葉達にも容易に察することが出来るはずである。
ここ数日、泰継が花梨の元を訪れないことを訝しく思っていたのは、何も泉水だけではないのだ。他の八葉達に知れたら、きっと大事になるだろう。そうなった場合、泰継が戻って来難くなるのではないか――花梨はそう心配していた。
だが、泉水が付いて来てくれるのであれば、紫姫や他の八葉達に余計な心配をかけることはないはずだ。二日続けて泉水と二人きりで外出することについては、いらぬ詮索を受けるかもしれないが、いつもの散策だと説明することが出来るだろう。
そう考えた花梨は、泉水の意見を受け入れることにした。

「分かりました。直ぐに朝餉の準備をしてもらいますから、少しだけ待っていて下さいね」

花梨は泉水に朝餉の後二人で外出する旨を紫姫に伝えてもらうことにし、自らは朝餉の準備を急いでもらうため厨に向かったのだった。





◇ ◇ ◇





花梨が目を覚ます半刻程前のこと――。


泰継は四条の館を訪れるため、麓に向けて山道を下っていた。
普段は苦にならない四条までの道程が、今日は非常に長く、そして遠く感じられた。気の乱れは昨夜も治まらず、今朝は何とか起き上がれはしたものの、かつてないくらいに身体が重く感じられたのだ。
この分ではいつも通りに行動することは不可能だと感じ、泰継は常よりもかなり早い時間に庵を出ることにした。
庵から出た時、外はまだ真夜中のような漆黒の闇に包まれていたが、長年住み慣れた北山の山道は、目を閉じていても歩けるくらいに熟知している。
泰継はただ神子に会いたい一心で、重く鈍る身体を引き摺るように暗闇の中を歩き続けた。

思うように動いてくれぬ身体を励ましながら山道を下り、麓まで辿り着いた頃、漸く東の空が白み始めた。それを遠く眺めながら、泰継は立ち止まって乱れた呼吸を整えた。山を下りただけでこのように息が乱れたのは初めてのことだった。
冬の朝の冷たい空気の中、吐く息は白い。
呼吸を整え終えると、泰継は再び歩き始めた。平地に下りると、身体が一層重く感じられた。

(この器は、果たしていつまで持ってくれるだろうか)

呼吸が乱れるたび、身の内の五行の力が抜け落ちて行くのを感じる。
昨日は夕刻まで起き上がることが出来ず、力の補充も行っていなかった。禊を行い、泉の霊気で幾許かの気を養いはしたが、それ以上の気が此処までの道程で抜け落ちて行ったと思う。

(神子に会う前に、力の補充を行わなくてはならぬ)

この数日間力の補充を試みて、現在の泰継の状態では力の補充を行えたとしても、それはごく一時的なものに過ぎないということが判った。しかし、ただ歩くだけでこのように気を消耗してしまうのであれば、一時的なものであれ、力の補充を行わなければ四条に辿り着く前に動けなくなる可能性も考えられた。神子の元に辿り着くまでは、何としても倒れるわけにはいかない。
幸い、玄武の加護を受け、土属性の力を揮う八葉である泰継の力の補充に最も相応しい場所が、比較的近くに在った。
――火之御子社である。

泰継は空に視線を向けた。
曙色に染まり始めた東雲の空を背景に、都の東に連なる山々の稜線がくっきりと浮かび上がっている。山の端に雲が懸かってはいるものの、太陽の光を遮るほど厚くはない。もう間もなく稜線の向こうに太陽が顔を覗かせることだろう。

(そろそろ神子が目を覚ます頃だろうか)

花梨は四神を解放したり御霊を封印したりといった大きな力を使った日の翌朝以外は、余程疲れた日でない限り、女房達が起こしに行く前には起きているのだと聞いている。
これから舎人や女房達が仕事を始め、神子は朝餉を摂る。八葉達が訪れるとすれば、花梨の朝餉が終わる頃だから、まだ半刻以上の時間があった。
空から視線を戻した泰継は、火之御子社へと足を向けた。





火之御子社――。
内裏の北西、天門に鎮座する火雷神を祀るこの社は、朝廷だけでなく庶民にも広く信仰されており、森の中に存在する小さな社にも拘らず参拝に訪れる者は多い。
しかし、まだ夜明け前のこの刻限、社の周囲に人影は見られなかった。
丑寅御霊を封印した後数日間降り続けた雪は其処彼処に降り積もり、昨日久しぶりに顔を見せた太陽の光にも解けることなく、周囲の木々は元より参道の上にも残っていた。その上に昨夜降った雪がまた積もり、社の周囲は一面真っ白に染まっている。

参道に積もった雪を素足で踏みしめながら社に歩み寄った泰継は、社の正面で立ち止まった。
社の前に立ったまま、暫し物思いに耽る。
この場所には、神子と共に何度も訪れた。特に神子が京にやって来て間もない頃は、まだ穢れに弱かった神子のために遠出はせず、洛内を中心に散策していたため、比較的よく訪れた場所だったのである。土地に宿る五行の力を強めたり、この地に現れた怨霊を鎮めたりといった神子と八葉の務め以外に、ただ京の町を見物するという花梨に付き添って此処を訪れ、彼女の他愛無い話に付き合っただけのこともあった。
先日来、神子の事ばかり考えていた所為か、京の町の何処を訪れても、頭を過るのは彼女と過ごした記憶ばかりだ。

(本当に、私は壊れかけているのだろうな。神子のことばかりが頭に浮かぶとは……)

泰継は自嘲を帯びた笑みを浮かべた。敬うべき神の前で何をしているのだろうと考えたからだ。

(己のなすべきことをなさねばならぬ)

そうでなければ、神子には会えない。
泰継は一度深呼吸すると、集中するため両手で印を結び、目を閉じた。
火之御子社は火属性の力を宿す土地である。この地に宿る火の気から、五行相生に則り八葉としての泰継の属性である土の気を生じさせるのだ。
目を閉じたまま集中しようとした泰継は、間もなく目を見開き、呆然とした表情を浮かべた。土の気を生じさせようと試みたが、出来ないことに気付いたのだ。
印を解き、愕然とした表情のまま、己の両掌を見つめた。
一昨日まではいつも通りとは行かないまでも、力の補充は出来ていたはずだ。補充した力が夜間に抜け落ち、結果的に徒労に終わってはいたのだが、少なくとも日中補充した気を夕刻まで身の内に留めることは出来ていた。
しかし、今や身の内に気を留めるどころか、土の気を生じさせることすら出来ない。
此処から四条までの半刻にも満たない短い時間だけ行動出来る程度の、僅かな気を補充出来るだけで良いのだ。神子に会い、自分が置かれた現状を説明する、その間だけこの身体が持ってくれれば、それで良かった。
それなのに……。

(終わり、ということなのか……?)

視線の先で掌が震えているのが目に入る。いや、今や掌だけではない。全身が小刻みに震え始めたのを、泰継は自覚した。

「っ……!」

言葉にならない声が漏れた。
前屈みの姿勢になりながらも膝が崩れるのを何とか堪え、両手で自分自身の肩を抱いた。身体の震えがなかなか治まらない。
今、身の内に存在する全ての気を失った時、自分は消えるのだ。
近いうち――と覚悟は決めていたはずだが、いざそれが今日となると恐怖心が湧き上がった。
消えることが怖いのではない。
本当に怖いのは――

――怖いのは、二度と神子に会えなくなることだ。

(もう、神子に会えぬのか…?)

そう考えた時、背筋に悪寒が走り、ぶるっと身体を震わせた泰継は、震えを抑えるように自分自身を抱き締める手に力を込めた。
(―――嫌だ!)
このまま、此処で、神子に会えないまま消えてしまうのは。

――ただ、もう一度だけでもいい。神子に会いたい――…。

もう、望むのはそれだけだった。
最期に唯一つだけ抱いた願いすら、神は叶えてはくれないのか。

泰継は両手で肩を抱いたまま、崩れるようにその場に両膝を突いた。雪化粧した地面に突いた膝から、じわじわと雪の冷たさが伝わって来る。その冷たさに、身体だけでなく心までもが浸食されたかのように感じた。
――絶望感が広がっていく。

「神子……。神子…っ!」

無意識にその名が泰継の口から零れていた。
目の前が真っ暗になるような絶望感に苛まれながら、泰継は縋るように、ただ繰り返しこの場にはいない愛しい存在の名を呼んだ。
その様子を社の脇の木の上からじっと見つめていた白い小鳥に、泰継は気付いてはいなかった。
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