理由−3−
暫しの沈黙の後、膝の上に載せた自身の手をじっと見つめていた花梨が、意を決したように顔を上げた。
居住まいを正し、真っ直ぐに泰長を見つめながら、花梨は今日、安倍家を訪れた目的を果たすため、用意していた言葉を紡ぎ始めた。
「実は私…、今日はご当主にお伺いしたいことがあって、こちらにお邪魔しました」
「何でしょうか」
花梨の真摯な視線を受け止め、泰長が問う。
背筋を伸ばして坐する姿に、花梨はふと想い人のそれを思い出した。
――師匠と弟子というものは、ちょっとした仕草や立ち居振る舞いまでも似るものなのだろうか。
頭を過ぎった考えに、目の奥に、つん、と軽い痛みを感じた。
それを振り払い、花梨は先日来、最も知りたかったことを訊ねた。
「もし、ご存知であれば、教えて下さい。――泰明さんは、どうして人になれたのでしょうか?」
花梨の問いに、泰長は大きく目を見開いた。
泉水が弾かれたように隣に座る花梨の方を振り向き、今の自分とそっくり同じ表情を浮かべているのが泰長の目に入った。
一瞬後には驚きを消し去り、泰長は花梨に問い返した。
「何故、そのようなことを?」
「以前、泰継さんが言っていました。『“泰明は八葉の任を経て人となり、京から姿を消した”――そう、安倍家では言い伝えられている』って……」
「その通りです」
花梨の言葉に泰長が頷く。
「八葉の役目が関係あるのかどうか判らないけれど、泰継さんと同じ出自だという泰明さんが人になれたのなら、泰継さんにも同じことが起きてもおかしくない――そう思えて……」
一度言葉を切った花梨は、視線を床に落とした。
これは、自分勝手な願望に過ぎない。
それは、誰かに指摘されるまでもなく、自覚している。
それでも――…。
膝の上に載せた手でぎゅっと水干の裾を掴むと、花梨は顔を上げた。
「もし、今、泰継さんの身に起きている異変が、泰継さんが人じゃないということが原因なのだったら……。もしそうなら、泰継さんが人になれれば、消えずに済むということですよね?」
泰長の目を真っ直ぐに見据えて、花梨は自らの想いを語る。
「私、泰継さんに消えて欲しくない……。泰継さんを失いたくないんです」
その真摯な眼差しと瞳の輝きから、泰長は目を逸らせなかった。
彼に消えて欲しくないのだと……。
彼を失いたくないのだと……。
だから、泰明が人となれた理由を知りたいのだ――と、神子は言った。
薄っすらと頬を染めながらも毅然とした態度で話す花梨のその想いが、龍神の神子の務めを果たすめに八葉の一人を失えないのだという義務感や責任感から来ているものではないと、泰長は瞬時に理解した。
(嗚呼、神子殿は泰継殿のことを好いておいでなのだな……)
その考えが胸にすとんと落ちて来た。
それと同時に安堵する。
きっと、この神子であれば、これまで幸せが何であるかを知らずにただ存在していただけの泰継に、幸せを齎すことが出来るだろう。
(今の神子殿の言葉、泰継殿にお聞かせしたかったものだ)
深刻な雰囲気に包まれていたにも拘らず、泰長の口元には自然と笑みが刻まれていたのだった。
――この優しく清らかな気の持ち主に、泰継が惹かれない訳がない。
泰長にはそう思えた。
その瞬間、ある考えが泰長の脳裏を過ぎった。頭に浮かんだ考えに、はっと目を見開く。
(まさか……。もしや、泰継殿の気の乱れというのは、それが原因――か…?)
それを即座に否定しようとして、泰長は思い直した。
(――いや、考えられないことではない)
安倍家で言い伝えられて来た、泰継と同じく人ならぬものであった泰明の話から泰長が導き出した推測と、泰継に今起きている変化を比較してみるならば――。
(これは、大天狗殿に確認せねばならぬ)
元より神子との対面については、今夜にでも式を遣わせて天狗に報告するつもりでいたのだ。その際、己の推測が正しいのか否か、天狗に確認してみることにしようと泰長は決意した。
「泰明が何故人となれたのか――。それについては、現在伝えられている以上に詳しいことは、安倍本家でも伝えられておりません。或いは、吉平は意図的に後世に伝えなかったのかも知れません。
今となっては、大天狗殿だけが知っていることでしょう。しかし、あの御仁はそれについては泰継殿にすら一切話さず、口を閉ざしておいでです」
花梨の表情が落胆の色に染まった。
手掛かりが途絶えてしまったのだ。
残された道は北山の天狗に訊ねることだけとなった。しかし、泰継本人にさえ口を閉ざしている天狗が、龍神の神子であるとは言え、初対面の自分に話してくれるとは思えなかった。安倍家でも意図的に伝えられなかったことであれば、尚更だ。
悄然と俯く花梨を見つめながら、泰長は言葉を継いだ。
「泰明は晴明の弟子であると同時に、陰陽寮に出仕する陰陽師でもありました。しかし、八葉の務めを終えた後、忽然と姿を消し、それ以降、彼の記録は安倍家にも陰陽寮にも残されておりません」
泰明が人となれた理由、そして姿を消した泰明の行き先については、恐らく意図的に隠されたのだろう。
同時に、百年前の龍神の神子の名についても、安倍家だけでなく朝廷の記録にも一切書き残されていない。神子と共に戦った八葉や、彼らと戦ったと言われる鬼の一族についても同様だ。
――そして、龍神の神子と八葉の話は、やがて人々の間で御伽噺の如く語られるようになった。
「ですが、神子殿。私は以前からこう考えているのです。
――泰明は、龍神の神子と共に、神子の世界へ旅立ったのではないか、と……」
花梨が弾かれたように顔を上げ、目を瞠った。
その可能性を考えたことがなかったのだ。
では何故、泰明は京を捨て、神子の世界に行ったのか――。
その答えは、花梨には容易に導き出すことが出来た。
(泰明さんはきっと、先代の神子さんと離れたくなかったんだ……)
思えば、花梨自身、どんな形でも良いから泰継の傍にいたいと思い、元の世界を捨てて京に残りたいと願うようになっていた。
花梨が泰継のことを好きになったのと同じように、もし泰明が彼の神子のことを愛したのなら――…。
そして、もし泰明の神子も彼を愛していたなら――…。
――二人は、一緒にいられる選択をするのではないだろうか?
泰明と先代の神子が互いに愛し合い、だからこそ泰明は時空を越えたのだという考えは、泰継を想い、京に残りたいとまで考えるようになった花梨には、非常にしっくりくるものだった。
恐らく、龍神が彼らの願いを聞き届けたのだろう。
先代の神子が京に残るにしても、泰明が先代の神子の世界に行くにしても、それを叶えられるのは、京の守護神であり、異世界から神子を召喚した龍神以外にはいない。
(もしかしたら、私の願いも龍神様にお願いすれば、叶うかもしれない……)
――京に――泰継の傍に残りたいという、切なる願いを――…。
「それは、本当なのでしょうか?」
言葉を失くしたかのように、沈黙したまま考え事に沈んでしまったらしい花梨の代わりに、それまで黙って二人の話に耳を傾けていた泉水が控えめに訊ねた。
「真実であるか否かは、恐らく大天狗殿しかご存じないことでしょう。しかし、私にはそうとしか考えられないのです」
泉水の方にちらりと視線を向けながら、泰長はそう答えた。そして、再び花梨に視線を戻す。
「神子殿。飽く迄も、私の推測が正しいと仮定しての話ですが――…」
泰長は花梨に問い掛けた。
「泰明が何故、神子の世界へ渡ったのか――。神子殿なら、その理由をどう考えますかな?」
泰長はじっと花梨の目を見つめた。
花梨ならば、自分と同じ答えを導き出すだろう。
彼女が泰継のことを好いているのであれば、きっと――…。
花梨は暫し黙考した後、言葉を選びながら自らの考えを口にした。
「多分、泰明さんは、先代の神子さんと離れたくなかったんだと思います。きっと神子さんも泰明さんと同じ気持ちだったんじゃないかって……。お互いを大切に想っていたから、一緒にいられる道を選んで――。そんな二人の願いを、龍神様が叶えてくれたのではないでしょうか?」
「やはり、神子殿は私と同じお考えだったようですな」
花梨の答えを聞いて、泰長は一つ頷くと、満足そうに笑みを浮かべた。
そして、泰明が人となれた理由を知る手掛かりがそこにある。
誰かを“愛しい”と想う気持ち――。
それは恐らく、神子と出逢うまで、泰明が抱いたことのない感情だったはずだ。
生まれて初めて抱いたその想いこそが、彼が人となれた理由なのではないだろうか。
そして、今、泰継の身にも同じ事が起きようとしている。
泰継が神子をどう思っているのか、泰長には容易に推測できたのだが、それを花梨に告げるのは控えることにした。こういう事は、本人が告げるべきであろう。
「神子殿。もし、泰継殿が泰明のように人となれるのだとすれば、それは貴女との絆が鍵となるのだと、私は考えているのです」
思いがけない泰長の言葉に、花梨は瞠目した。
“絆”、と泰長は言った。
しかし、泰明と彼の神子は互いに想い合っていたのかも知れないが、泰継と花梨に関しては、花梨の一方的な片想いである。――少なくとも、花梨自身はそう思っていた。
「“絆”……」
「然様」
泰長の言葉を噛み締めるように呟く花梨に、泰長が相槌を打った。
「神子殿が泰継殿を想われる気持ちこそ、泰継殿を人とならしめる手助けとなるでしょう」
(私が泰継さんを想う気持ち……。本当に泰継さんの役に立つのかな……?)
自分が一方的に恋情を抱いているだけだ。むしろ、この気持ちは彼の迷惑になるのでは――…。
そう思っていたから、花梨は泰継への想いを誰にも告げず、ずっと隠して来たのだ。
(でも、もしご当主の言う通り、泰継さんを大切に想う気持ちが泰継さんの助けとなるのなら……)
目を閉じた花梨は、胸元に遣った手をぎゅっと握り締めた。
――泰継が泰明と同じ道を辿れるよう、手助け出来るのならばする――。
先日、そう決意したばかりだ。
花梨は閉じていた目を開き、泰長を真っ直ぐに見つめて言った。
「私に、何か出来るでしょうか? 出来る事があるのなら、何でもやります」
――泰継さんを失わずに済むのなら……。
その言葉を花梨は口にしなかった。
しかし、花梨の表情から、泰長は花梨の想いをはっきりと感じ取っていた。
「神子殿の想い、決して諦めずに持ち続けることです」
泰長の知る限り、泰継は常に自分が人ならぬものであることを自戒している。それ故、神子への想いを自覚したとしても、人ならぬものには身に過ぎた想いと、身を引いてしまう可能性があると泰長は考えていた。
常に最善を尽くす性格の泰継は、最善の方法を取るために、自己を犠牲にする傾向がある。自分の意志を貫くために次善の策を取ることを良しとせず、自分を押し殺しても最善の策を取ろうとするのだ。ある意味、頑固と言えよう。
神子への想いが気の乱れを齎し、それが陰陽の力の低下を招いて八葉の務めの妨げとなっていると判れば、泰継は八葉の務めを果たすために神子への想いを押し殺し、神子から寄せられた好意を拒絶することを選ぶかも知れない――。
泰長はそう危惧していた。
神子を愛しいと想う気持ちが泰継を人とならしめるのであれば、その想いを諦められては困る。泰継を失いたくないと考えているのは、なにも神子だけではないのだ。泉水も、そして恐らく他の八葉達もそうだろう。
(そして、大天狗殿は勿論の事、この私も……)
同じ事が神子の側にも言える。
仮に泰継が神子から寄せられた好意を拒絶したとしても、それは彼の本意ではないはずだ。
だから、神子にその事を理解してもらい、泰継への想いを諦めないでもらいたいと泰長は思う。
しかし、泰長の花梨に対する危惧は杞憂だったようだ。
彼の言葉を聞いて、花梨は花開くような微笑みを見せたのだ。
「私がこの想いを捨てることはありません。諦めようと思っても、もう無理だって判っているから……」
はにかんだ笑みを浮かべた花梨は、大切な想いを掴むように胸に当てた手を握り締めると、はっきりとした声でそう言った。
簡単に諦められるような人なら、最初から好きになったりしない。
いずれ生きる世界が分かたれる相手だと判っていても、花梨は泰継を愛しただろう。
北山で初めて逢ったあの日、気配を感じて振り返った彼の色違いの瞳に魅せられた時から、この想いはずっと、花梨の心の奥深くで育まれていたのだ。
それは、泰継と共に北の札を探す間、これまで以上にぐっと近付いた彼との距離を感じ取れるようになった頃には、二度と手放せないくらいに大きく、大切なものとなっていた。
元の世界を捨てて、京に――泰継の傍に残ろうと決意する程に――…。
花梨の隣で、泉水が驚いた表情を一瞬見せた後、優しい笑みを浮かべて、
「神子……」
――と小さく呟いた。安堵したことが判る声音だった。
泰継と共に玄武の加護を受ける八葉として、泉水は花梨と泰継の二人と共に行動する機会が多かった。それ故、花梨と泰継が互いに惹かれ合うようになっていく過程も、具にその目で見て来たのだ。
母にずっと役に立たないと言われ続けて来た泉水を、仲間として最初に認めてくれたのが花梨と泰継だった。
だから、二人の想いが通じ合えば良いと、泉水は思っていた。
昨日、神子の元を訪れたのも、泰長に神子との面会の仲介を頼まれたということももちろんあったのだが、泉水自身が突然姿を見せなくなった泰継を、心の底から心配していたからだった。そして、泰継を想う花梨ならば、彼の身に起きている問題を解決することができるのではないかと期待したからだ。
(神子の想いを、どうか泰継殿が受け入れて下さいますように……)
決して諦めないと言った花梨――。
どんな困難な状況の中でも諦めず、常に前向きに進んで行こうとする龍神の神子の横顔を、泉水は眩しそうに見つめたのだった。
二人の向かいでは、泰長が泉水と同じように、双眸を細めて花梨を見つめていた。
(――やはり、この娘ならば大丈夫だ…)
それを確認し、泰長は微笑んだ。
「昨夜、大天狗殿が仰いました。『神子に会いに行くよう、泰継に話してみる』、と――。大天狗殿の仰せであれば、泰継殿も明日には四条を訪問なさるでしょう」
そう言って、泰長は真顔に戻った。
安倍家の当主として、そして、泰継の唯一の弟子として、龍神の神子に懇願する。
「どうか、泰継殿にお会い下さい。そして、あの方をお救い下さい」
――私の師匠を、どうかよろしくお願いいたします。
床に手を突いて深々と頭を下げる泰長を見つめながら、花梨はこの後安倍家から直接北山にいる泰継の元を訪ねようと考えていたのだった。