良薬は口に甘し−2−
花梨の文が安倍本家に届けられた暫く後のことである。


「はぁ〜。俺って、なんてついていないんだろう」

盛大に溜息を吐きながら、一人の青年が大路を下っていた。白い潔斎服を身に纏い、太極図を象った首飾りを下げているその青年は、安倍一門に属する見習い陰陽師である。
家柄が物を言う大内裏に於いて、陰陽寮は家柄よりも実力が物を言う職場である。そのため、家柄が然程良くなくとも、少しでも陰陽師としての才を有する者は、安倍家や賀茂家などの陰陽道の大家に弟子入りし、出世の機会を窺うのだ。庶民出身の彼が、父親に勧められ安倍家で修行しているのも、そうした理由からだった。
しかし、才があると言われ、修行してはいるものの、本人に今一つやる気がない所為か、修行を始めて随分経つのに未だ見習いのままである。そのため、修行の合間に雑用を言い付かることも多い。今、彼が大路を下っているのも、師から命じられた届け物をするためだった。
「届け物くらい、式にさせればいいんだよ。なんで俺が、選りに選ってあの泰継殿の屋敷に……」
ぶつぶつと文句を言いながら、再び深い溜息を吐く。そう、彼が向かっているのは、三条の外れに在る安倍泰継邸である。
安倍家の弟子達の例に漏れず、彼もまた泰継が苦手だった。泰継が持つ人並み外れた能力は、僅かな力しか持たない見習い陰陽師でさえ感じ取れるため、思わず萎縮してしまうのだ。しかも会う度、あの「何十年も変わらない」と噂される美貌で冷たい視線を向けられ、余り感情の籠らない低い声で、厳しい事をズバッと言われる。新年の行事で忙しかった頃、師から「気を整えて来い」と言われた時、「気を整えるのであれば火之御子社が良い」と勧めてくれた泰継に、以前よりも話し易くなったとの印象は受けたものの、やはりあのきつい物言いはまだ苦手なのだった。
はぁ、と息を吐いた陰陽師は、手に持っていた包みに目を遣った。包みの中には、更に複数の小さな紙包みが入っている。それらは、花梨の依頼を受けて当主が用意した、桔梗根と甘草を調合した薬だった。
「とにかく、嫌な用事はさっさと片付けるに限るよな」
そう考えた陰陽師は、のろのろと進めていた足の速度を少し速めた。



「あれ、貴方……」
薬が届くのを今か今かと待ち侘びていた花梨は、安倍家からの使いと対面した時、軽く目を瞠ってそう言った。庇の間に通された人物が、まだ龍神の神子だった頃、泰継と二人きりで羅城門跡を訪れた時に出会った陰陽師だと気が付いたのだ。
門前で応対に出た式神に届け物だけ預けてさっさと帰ろうと思っていたのに、主の命令に忠実な式神に奥へと通され、緊張気味な面持ちで泰継を待っていた陰陽師は、庇の間に現れた花梨を見て、驚きを隠せなかった。
「泰継殿は? ……まさか、この薬を必要としているのは、泰継殿なのかい?」
「そうなの。昨夜お仕事から帰って来てから、熱を出して寝込んでいるの。夏風邪を引いてしまったみたいで……」
頷きながら答える花梨は、泰継のことが心配なのか、母屋と庇の間に下ろされた御簾にちらりと目を遣った。
それを聞いた陰陽師は、大きく目を見開いた。「泰継の屋敷にこれを届けるように」としか聞いていなかったので、てっきり寝込んでいるのは花梨だと思っていたのだ。
――まさか、泰継だったとは……。

(鬼の霍乱だよな……)

流石に花梨を前にして口に出しては言えないので、心の中だけでそう思う。何しろ、数日間に及ぶ祈祷の際、泰継が唯一人休むことなく呪を唱え続けたことは、安倍家では語り種となっているのだ。今まで、どんなに長時間に及ぶ仕事の後でも、泰継は疲れた様子すら見せたことがなかった。その彼が夏風邪如きで寝込んでいるとは、意外だった。
花梨の視線につられるように、陰陽師は御簾に目を遣った。御簾に隔てられ、庇の間からは母屋の中を見ることは出来ないが、御簾の向こうに泰継がいるのだろう。
如何に微弱な力しか持たないとは言え、常であればこれ程近くにいれば彼が持つ強大な力が発する気を感じ取ることが出来るのに、今日は御簾の向こうに泰継がいるのかどうかさえ全く判らない。と言う事は、泰継が病に伏しているというのは事実なのだろう。病は人の気を弱めるものだから。
全く予想していなかった事態に驚く一方、苦手な泰継に会わずに済むということが分かり、陰陽師は安堵の溜息を吐いた。

(意外と言えば……)

御簾を見つめる花梨の心配そうな横顔に視線を戻し、陰陽師は思う。
北山の奥に庵を構え、殆ど町に下りて来たことがなかった泰継が、昨年の秋以降安倍家の離れを仮住まいに定め、毎日のように風変わりな少女と一緒に京のあちらこちらを歩き回っていたことも意外な事だった。
しかし、それ以上に安倍家の者達が度肝を抜かれたのが、年が明けて暫く後、その少女を連れて突然当主の元を訪れた泰継が、少女との結婚を宣言したことであった。それから暫くの間、安倍家中がその噂で持ち切りになったことは言うまでもない。

(一体、泰継殿は、この少女の何処が気に入ったのやら……)

泰継と結婚した少女、花梨を間近に見ながら首を捻る。
初めて会った時から、彼女は見掛けも行動も型破りだった。着ている物は素足を惜しげも無く晒す、見た事も無い装束だし、何より京では美人の基準とも言える髪が尼よりも短かった。泰継と結婚してから伸ばし始めたらしい髪は、それでもまだ肩を少し越えた位の長さである。それが見て取れるのも、彼女が御簾越しではなく、素顔を晒して向かいに座っているからだった。裳着を済ませた女性のすることではない。彼女と京の一般的な女性の違いを挙げようとすれば、枚挙に暇が無いだろう。
(まあ、泰継殿も泰継殿だけどさ)
風変わりと言う点では、泰継も似たようなものだ。
女と見紛うばかりの美貌は、全くと言って良い位、表情が動かない。無駄口を好まない端的な物言いは、殆ど感情が籠らない冷たい位に落ち着いた声と相俟って、安倍家の弟子達を震え上がらせるのに十分であった。
――所詮、似た者夫婦ということだ。
勝手に結論付けて、納得したように一つ頷く。
(しかし、彼女も泰継殿の何処に惹かれたのか、不思議だよなぁ。あの人が怖くないなんてさ……)
確かに泰継が“すごい美形”であることは、自分だけでなく誰もが認めることである。しかし如何に見目が良くとも、泰継のあの物言いは、間違いなく女に怖がられる原因となるはずだと思うのだが……。
陰陽師はまじまじと花梨の顔を見つめていた。

「それで、安倍家のご当主にお願いした薬なんだけど……」
その声に我に返った陰陽師は、慌てて包みを取り出した。
「頼まれていた桔梗根はこれだよ。甘草と調合したものだから良く効くだろうと、師匠も言っていたから」
包みを花梨に手渡し、一日三回、一回に就き一包を煎じて飲ませるようにと説明する。
「どうもありがとう! これを飲めば、泰継さん、直ぐに良くなるよね?」
手にした草薬の包みを見つめながら、嬉しそうに花梨が破顔した。
すると、彼女が笑みを見せた途端、主が病に伏している所為で澱んでいた邸内の気が、一瞬にして浄化されたのだ。それは、微弱な力しか持たぬ見習い陰陽師にも感じ取ることが出来た。
驚愕した陰陽師は、大きく見開いた目で花梨の顔をじっと見据えた。周囲の気の変化に気付いていないのか、花梨はやっと手に入れた宝物でも見るように、目を輝かせながら草薬の包みを見つめている。
(この少女……。一体何者なんだ?)
祓の祝詞を唱える訳でもなく、ただ微笑んで見せただけで邸内の気を清めた少女――。
あの泰継と結婚したという事実からも、只者ではないと思ってはいたが、彼女には常人には無い何らかの力があるようだ。

「君さぁ……」
「はい?」
何者?――と続けるつもりだったのに、にこにこと笑いながら応える花梨を見ているうちに、陰陽師は何故かその問いを口にすることが出来なくなった。無意識に、訊いてはいけないような気がしたのは、彼に僅かながら“視る”力があったからかも知れない。
花梨が龍神の神子であったことは、内裏でも中枢部のほんの一握りの人間しか知らない事実である。安倍家の中でも、当主しか知らない事実なのだ。
それは、花梨が泰継の元に残ることに決めた時、彼女のこれからの生活のことを考えて、その事実が限られた人間以外には広まらないよう、龍神が力を働かせていたからだった。
当然の事ながら、花梨が龍神の神子であることは、見習い陰陽師には知る由も無かったのだった。

「あっ、ええと、つまり……」
何か訊きたそうなのに、急にしどろもどろな口調になった陰陽師を、花梨は首を傾げて怪訝そうに見つめた。
元来「落ち着きが無い」と泰継に評されている見習い陰陽師は、目に見えて落ち着きを無くしていた。泰継に見据えられて、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなるのは毎度の事だが、真っ直ぐに見つめて来る花梨の緑色の瞳にも、目を逸らせなくなるような不思議な力が備わっているようだ。
何か言わなくては、と焦った陰陽師は、つい口を滑らせて、さっき心の中で思っていた疑問を口にしてしまったのだった。
それが自分にどんな不幸を齎す結果となるのか、全く予測出来ずに――…。

「君、泰継殿の何処が好きなわけ?」
「えっ…?」

花梨の顔が、瞬時にして真っ赤になった。
(泰継さんの好きなところ…? そんなのあり過ぎて、何から話したら良いのか困っちゃうよ〜〜っ!)
頬を染めた花梨は、心の中とは裏腹に、ちっとも困っている風には見えなかった。

花梨が泰継への想いを自覚したのは、まだ京に来てそれ程経っていない頃だった。その想いに逸早く気付いたのは紫姫だったのだが、やはり京を救うため、幼いながらも星の一族の務めを果たそうと懸命に努めていた紫姫に、想い人の話をするのは憚られたのだ。
八葉達もまた同様であった。但し、それぞれに花梨に想いを寄せていた八葉達が、彼女の口から他の男の話を聞かされては堪らないと、敢えてその手の話題を避けていたことに、花梨が気付いていなかっただけなのだが。
現代では、友達と好きな男の子の話をしたり、片想い中の相手の情報を交換したりしていたのだが、京では周囲に年の近い女友達もなく、そういう話が出来る相手がいなかった。花梨はその事を少なからず淋しく思っていたのだ。
だから、新婚の夫に関する惚気話を聞いてあげると言わんばかりの陰陽師の問い掛けに、花梨が飛び付いたことは言うまでもなかった。

突然顔を赤らめたかと思うと、爛爛と目を輝かせ始めた花梨に、陰陽師は円座に座ったまま、思わず後退りそうになる。
「余計な事を言ってしまったかも」と思った時には、時、既に遅く―――。

「泰継さんの好きなところなら、もう全部だよ!」

緑色の瞳を輝かせながら、花梨が言葉を継ぐ。
「でも一番好きなのは、瞳かな? 初めて会った時、あんまり綺麗だから目を逸らせなかったもの」
北山での泰継との出逢いに思いを馳せながら、花梨はうふふと笑った。
それを皮切りに、花梨は延々と泰継の好きなところについて話し続けた。穏やかで優しい笑みが好きだとか、怨霊と対峙する彼の背中に思わず見惚れただとか、自分の名を呼ぶ彼の声が好きだ、等々。それらは、他の者にとっては聞くに堪えない惚気話であった。

誰かに聞いて貰いたかったのか、はにかみながらも嬉しそうに話し続ける花梨を見て、漸く墓穴を掘ってしまったことに気付いた陰陽師は、引き攣った愛想笑いを浮かべたまま、心の中で嘆息した。
(あ〜ぁ。やっぱり届け物は式に預けて、さっさと帰れば良かった……)
仕方なく、適当に相槌を打ちながらそんな事を考えていた陰陽師は、続く花梨の言葉に度肝を抜かれることとなった。

「笑顔も素敵なんだけど、泰継さんの涙って、凄く綺麗なんだよ」

うっとりとした表情で花梨が話す。
花梨の脳裏に焼き付いて離れないのは、あの火之御子社での出来事――。白磁のような肌の上を、滑るように流れ落ちて行く透明な雫の美しさに、胸が締め付けられるような思いを抱きながらも、ただ見惚れていたことを思い出す。
こんなに綺麗な涙を見たのは初めてだと――あの時そう思った。

一方、陰陽師はぽかんと口を開けたまま言葉を発することも忘れ、呆然と花梨の顔を見つめていた。あまりにも意外で予想もしなかった花梨の言葉が、繰り返し頭の中で響いている。
やがて最初の衝撃が去った後、陰陽師は何とか言葉を発することに成功した。

「な…、涙って…。泰継殿の……?」
「そうだよ。すっごく綺麗なんだから!」

――泰継殿って、泣けるのか?

力説する花梨を呆然と見つめながら、陰陽師がそう思った時――…


「――お前。いつまで此処で油を売っているのだ?」


突然掛けられた声に驚き、思わず背筋がピンと伸びる。低く抑えられたその声には、明らかに怒気が籠もっていた。
恐る恐る声がした方を見た陰陽師は、片手で御簾を上げて立っていた人物に、腰を浮かせて声を上げていた。
「うわっ! で、出た!?」
悲鳴のような上擦った声を上げた陰陽師に、「うるさい」と言わんばかりに顔を顰め、泰継が母屋から庇に下りて来た。見るからに不機嫌そうな泰継の様子を見て取り、陰陽師は青褪めた。
「熱を出して寝込んでいる」との花梨の言葉通り、今まで床に就いていたらしく、泰継はいつもの見慣れた装束ではなく単を身に着けていた。普段きっちりと結い上げられている長い翡翠色の髪は、今は戒めを解かれて背に流されている。少し肌蹴た単から垣間見える胸は確かに男のものなのだが、細身の身体と絹糸のような髪、そして病の所為かいつもより白く透き通って見える肌は、妖艶と言って良い位に美しかった。
その姿を見た花梨の顔は、青くなった陰陽師の顔とは対照的に赤く染まった。他人を相手に惚気ていたところを、有ろう事か本人に聞かれてしまったと思ったからだ。
「この刻限には、本家で修行をしているはずではないのか?」
不機嫌極まりない声に、陰陽師は震え上がった。風邪の所為で掠れた泰継の声は、いつも以上に迫力があったのだ。
「は、はいっ! そうでした! じゃあ、用は済みましたから、俺はこれで!」
そう言うと、陰陽師はあたふたと立ち上がり、逃げるように簀子縁に向かう。
「あっ! ちょっと、貴方!」
安倍家の当主に薬の礼を伝えてもらおうと花梨が呼び止めた時には、既に陰陽師の姿はなかった。

「相変わらず騒々しい男だ」
「泰継さん……」
溜息を漏らしながら呟いた泰継を、花梨が嗜める。呆れと非難を含んだ妻の声を聞いて、陰陽師の姿が消えた簀子縁を見つめていた泰継が、視線を花梨の方に向けた。
「泰継さんってば。あの人、安倍の家の使いで、喉の痛みに効くお薬を持って来てくれたんだよ」
ほら、と手に持っていた包みを見せながら、花梨が言った。
すると、陰陽師を庇う花梨を責めるような目で見た後、視線を逸らして大きく息を吐いた泰継の姿が一瞬にして掻き消えた。一枚の符が、床の上に舞い落ちる。
「もう。具合が悪いくせに、無理するんだから……」
床の上に落ちた符を拾いながら、花梨は深い溜息を吐いた。
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