良薬は口に甘し−1−
「少し下がった…かな?」
褥に横たわる泰継の額に手を当てた花梨は、そう呟いて溜息を吐いた。
龍神の神子の務めを終えて京に残った花梨が泰継と祝言を挙げ、彼と共に三条に建てた新居で暮らし始めたのは、桜の花が咲く頃だった。
年が明けて暫くの間は、以前と変わらず安倍家から依頼された仕事をこなしていた泰継だが、花梨との祝言の直前、彰紋と泉水から、丁度空席の出来た陰陽寮の陰陽師として出仕しないかとの申し出を受けた。今回の八葉としての働きもあり、帝からも同様の提案があったらしいことは、安倍家の当主から聞いていた。
確かに北山の庵で独り隠遁生活をしていた頃とは違い、今は花梨との生活を成り立たせて行く必要があった。安倍家にすべて援助してもらう訳にもいかないだろう。
そう考えた泰継は、その申し出を受けることにし、春から陰陽寮に出仕し始めたのだった。
元より泰継の陰陽師としての能力は安倍家の当主以上と言われていたのだが、北山から下りて来てからと言うもの、安倍家から依頼される仕事が格段に増えた。しかも泰継の元に舞い込む仕事は、その能力故に、他の陰陽師の手には負えないやっかいな怨霊調伏ばかりだったのだ。その上陰陽寮に出仕し始めたので、泰継は相当の激務をこなすこととなり、朝は日が昇る前から、そして夜は深夜、時には翌朝まで仕事に追われることも多くなった。数日間帰って来なかったことも、一度や二度ではなかったのだ。
花梨はそんな泰継の身体が心配だった。こんな状態が続けば、いつか無理が祟って倒れる日が来るだろうから。
しかし、作られたものとして九十年という長い年月を過ごして来た泰継は、花梨のお陰で人になってからもこれまで通りの行動をすることが多く、花梨はその度に無理をしないようにと彼を諌めていたのだ。
だが案の定、花梨の心配は現実のものとなり、泰継は昨夜遅く仕事から帰ってから、高熱を出して寝込む羽目になってしまったのだった。
花梨は乾いた布で泰継の額から流れ落ちる汗を拭った。それが終わると、再び濡れた布を額の上に置く。
昨夜からずっと寝ずの看病をしているのだが、泰継の熱は一向に下がらなかった。布を浸す水を何度替えても、直ぐに温くなってしまう。
(こんな時、氷があったらなぁ)
現代では冷蔵庫の冷凍室を開ければいつでも手に入る氷だが、京では貴重品である。京にも真冬に取って置いた氷を夏まで貯蔵するための氷室は存在するらしいのだが、それを使えるのは皇族と一部の高級貴族のみだったのだ。
せめて冬であったら降り積もった雪が氷の代用品になるのだが、今は水無月に入ったばかり。夏真っ盛りである。
花梨は小さく息を吐いて、心配そうに褥に横たわる泰継を見つめた。
熱が高い上、時折咳き込む所為で、呼吸がかなり苦しそうだ。汗も酷く、長い前髪が汗に濡れて額に張り付いていた。明け方、泰継の意識が戻った時に彼が着ていた単を替えたのだが、深夜帰宅してからたった二刻程の間に、それはぐっしょりと汗に濡れていたのだった。
着替えた後飲んだ草薬が効いてきたのか、夜中よりは少しだけ下がったように思えるが、まだ熱は高い。
人となってまだ半年しか経っていないため、泰継が病を得たのはこれが生まれて初めてのことらしい。そのため、恐らく今回の発熱で、かなり身体が応えているはずだと花梨は思うのだ。
(安倍家のご当主にお願いして、少し泰継さんのお仕事を減らしてもらわないと……)
人間の体力には限界がある。人になる前の泰継であればともかく、今の泰継は以前のような無理は出来ない身体である。それなのに、安倍家から泰継の元に持ち込まれる仕事は、以前より遥かに多いのだ。
それでなくとも、陰陽師の仕事には危険が伴う。特に泰継が請け負っていたのはやっかいな怨霊調伏ばかりだったから、尚更だ。花梨も神子として怨霊と対峙した経験から、泰継の仕事が危険を伴うものであることは分かっているつもりだ。それだけに、万全の体調で仕事に臨んで欲しいと思う。
だから、毎朝仕事に出掛ける泰継の背中を見送りながら、今日も一日彼に何事も起きないよう、無事に帰って来てくれるようにと祈るのが、花梨の日課となっていた。
自分のために休む間もなく仕事をしている泰継に、それぐらいの事しかしてあげられないことが歯痒くて堪らなかった。龍神の神子の務めを終えた花梨には、既に以前のような怨霊と戦う力は無くなっていた。もし今でもその力があったら、泰継の仕事の手伝いが出来るのに、と思ってしまうのだ。少しでも彼の負担を軽くしてあげたいから。
それなのに、何も出来ない。今、こうして苦しそうにしている最愛の人を前にして、改めて思ってしまう。
「なんだか私って、役立たずだなぁ……」
そう呟きながら、花梨は再び深い溜息を吐いた。
泰継の額に手を伸ばし、額に張り付いていた前髪を愛しそうに指で梳く。絹糸のように細い髪が、汗を滴らせるくらいにぐっしょりと濡れていた。
その時――…
「かり…ん?」
自分の名を呼ぶか細い声に、考え事をしていた花梨は、泰継の髪を梳いていた手を止めた。
いつの間にか、琥珀色の瞳が見上げていた。いつも揺ぎ無く、強い力を宿している瞳が、高熱の所為で潤んでいる。
「ごめんなさい。起こしちゃった?」
「いや……。少し前から目覚めていた……」
掠れた声で言うと、泰継は小さく息を吐いた。熱の所為か、吐息すら熱く感じられる。
幾分乱れていた呼吸を整えるために深呼吸しようとした泰継は、大きく息を吸った途端、激しく咳き込んだ。
「泰継さん! 大丈夫ですかっ!?」
背を向けて咳を繰り返す泰継に驚き、花梨は慌てて彼の背中を擦った。泰継の背に触れた時、朝方替えたばかりの単がもう汗で湿っているのが分かり、花梨は顔を顰めた。
(これって、きっと夏風邪の症状だよね?)
恐らく、春からこちらの激務による過労の所為で、風邪を引いてしまったのだろう。
咳が止まった後も乱れたままの泰継の呼吸が早く整うようにと、花梨は彼の背を撫で続けた。
広い背中を擦りながら、ふと、怨霊との戦闘中、いつもこの背中に守られていたことを思い出す。ピンと真っ直ぐに伸ばされた背筋の凛として美しい様に、戦闘中だということも忘れて思わず見惚れてしまい、「何をしている」と叱られたこともあった。
――あの頃のように、泰継さんと一緒に怨霊に立ち向かえたら……。
そう思わずにはいられなかった。
守られているばかりではなく、自分もこの人を守りたいと思う。
この人の役に立ちたいと思う――。
(誰よりも、泰継さんが大切だから……)
そう思っているのに、自分にもうその力が無いことが悔しかった。
唇を噛んだ時、弾む息を整えた泰継が寝返りを打とうとしているのを感じ、花梨は背に当てていた手を引っ込めた。
再び仰向けになった泰継は、ふう、と大きく息を吐いた。額には玉のような汗が浮かんでいる。
「泰継さん、大丈夫?」
泰継が背を向けた拍子に額から落ちた布を拾いながら、花梨が訊ねた。
「……ああ……」
心配そうに顔を覗き込んで来る花梨に、泰継はまるで吐息のような答えを返した。明らかに先程よりも声が掠れているのが分かる。咳き込んだ所為か、喉が焼け付くように痛い。喉元に手を遣ると、炎に触れているかのように熱かった。炎症を起こしているのは間違いないようだ。
喉に手を遣ったまま顔を顰めた泰継を見て、自分が痛みを感じたように花梨も顔を顰めた。
「お水、飲みますか?」
これだけ汗が酷いと、十分に水分を補給しなくては脱水症状を起こしてしまうと思い、花梨が訊ねた。
横になったまま泰継が頷く。声を出すのが辛かったのだ。
それを確認し、花梨は枕元に置いてあった椀に水を注いだ。さっき汲んで来させたばかりの神泉苑の霊水である。
水を満たした椀を手に持つと、上体を起こすだけでも辛そうな様子の泰継の身体を支えて、それを飲ませた。やはり喉の炎症と発汗の所為で喉が渇いていたらしく、泰継は椀一杯の水を一息に飲み干した。
「もう一杯飲みますか」と問う花梨に頷いた泰継は、結局二杯の水を飲み干した。これで少しは喉の痛みが和らぐだろうかと考えた花梨だったが、泰継は花梨に支えられて再び褥に横になった途端、こほこほ、と乾いた咳をした。
「喉の痛みに効くお薬も、飲んでおいた方が良いんじゃないですか?」
草薬を保管している箱の蓋を開けながら、花梨は訊ねた。箱の中には更に小さな容器が幾つも入っていて、薬の種類毎にきちんと整理して保管されているのだ。
それらの草薬は、すべて泰継が作ったものだった。彼は薬師ではないが、長い年月を生きて来た所為か、並みの薬師よりも遥かに薬に関する知識があるようなのだ。
しかし、花梨には草薬の効能は殆ど分からなかった。
明け方泰継が自ら処方したのは、紫陽花の花を乾燥させたものだった。紫陽花の花は解熱や咳に効くらしい。先月久しぶりに二人で北山に出掛けた折、丁度花の時期を迎えていた紫陽花の花の部分を泰継が摘んでいたのは、この薬を作るためだったのだ。泰継に教えられて、花梨は今朝紫陽花の花を煎じたので、これについては効能が分かった。
もう一つ、花梨にも分かる草薬があった。桔梗の根を乾燥させたものである。これも、先日屋敷を訪ねて来たイサトから、イサトの母が咳と喉の痛みに悩まされていると聞いた泰継が分け与えていたから、花梨もその効能を知っていた。桔梗の根は、喉の痛みや咳止めの薬となるのだ。
だから、花梨が泰継の薬箱を開けたのは、桔梗の根を取り出すためだったのだが……。
「あれ?」
先日泰継がイサトに持ち帰らせた薬が入っていた容器を開けた花梨は、中を見て声を上げた。桔梗の根が入っていた容器は、空になっていたのだ。
「泰継さん。このお薬、もうないの?」
空っぽの入れ物を泰継に見せながら、花梨が訊ねた。
花梨が掲げた入れ物を見た泰継は、口元に微かな笑みを浮かべて頷いた。先日自分が教えた事を、花梨が忘れずに覚えていたことが、嬉しかったのだ。
「桔梗根は、先日イサトに渡したのが最後だったのだ」
「じゃあ、この中に代わりになるお薬はないんですか?」
薬箱を指差しながら問う花梨に、泰継は首を横に振った。
「このところ、薬草を摘みに出掛けることも出来なくなっていたからな……」
掠れた声で泰継が言う。
確かにその通りだと花梨は思った。陰陽寮に出仕し始めてから数ヶ月経つが、その間泰継は殆ど休みを取ったことがなかったのだ。よく見ると、既に空になっている容器が他にも幾つかあるようだ。それらの補充も出来ない程、彼が仕事に追われていたのかと思うと、申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。
花梨の気が沈んだことに気付いて、泰継が微笑みを向けた。白皙の貌に浮かんだ儚げな美しい笑みに、花梨は思わず息を呑んだ。
「案ずるな。暫く休めば直ぐに治る」
熱や喉の痛みで苦しいだろうに、心配をかけまいと微笑む夫に、花梨は何も言うことが出来ず、小さく頷いた。
泰継の枕元に座り、花梨は眠っている泰継の顔をじっと見つめていた。衾の上に出された手を衾の下に直そうとして、そのまま両手で包み込むようにして軽く握る。
泰継が寝入る前、「少し眠るから、お前も休め」と言われたのだが、花梨は首を縦に振らなかった。深夜からずっと看病をしているが、泰継が屋敷に帰って来るまで少し眠ったから、彼が心配している程疲れを感じてはいなかったのだ。
それよりも、生まれて初めて病を得た泰継の身体の方が心配だった。
喉に痛みを感じているのか、眠っているにも拘らず時折顔を顰める泰継を見て、花梨の顔が曇る。
(やっぱり、喉のお薬も飲んだ方が良いよね)
だが、泰継の薬箱には在庫が無かった。八葉となって北山を下りてから、必要としている者に何の見返りを求めることも無く、自ら作った草薬を分け与えていたからだ。
そんな彼らしい優しさに惚れ直した形となった花梨だが、自分自身が必要としている時に薬が無いのでは意味がないと思う。相変わらず彼は自分の事には無頓着のようだ。
花梨は深い溜息を吐いた後、御簾の向こうに広がる庭に目を遣った。
小さいながらも手入れが行き届いた庭には、桜や梅を始め、季節の移り変わりを感じさせる様々な花が植えられている。龍神の神子だった頃のように、頻繁に外出することが出来なくなった花梨のために、泰継が植えさせたものだ。
その庭の片隅に、この屋敷で暮らし始めて間もなく、泰継は薬草として使える花を栽培し始めた。その中には、本家の庭から分けて貰った桔梗もあった。
ふと、そのことを思い出した花梨は、ぽん、と手を打った。
(そうだ。安倍の家にお願いしたら、お薬を分けて貰えるかも……)
泰継と結婚する前、二人で本家に挨拶に行ったことがあるので、安倍家の当主には会ったことがあった。本家の弟子達が泰継のことを畏怖していることは泰継から聞いていたし、花梨自身もその様子を目の当たりにしたことがあった。
しかし、少なくとも現当主はそういう者達とは異なり、泰継のことを陰陽道の先達として敬っているようだった。この屋敷に泰継と二人で暮らし始めた時も、困った事があったら何でも言ってくれれば力になると言ってくれていた。
だから、当主に事情を説明すれば、薬を分けて貰えるのではないかと花梨は考えたのだ。
安倍家を頼ることに決めた花梨は、用件を文に認め、泰継が本家との連絡用に使っている式神に、それを持って行かせることにした。