良薬は口に甘し−3−
「――泰継さん?」


花梨が庇の間から戻ると、泰継は褥の上に仰向けに横たわり、右腕で目を覆っていた。陰陽の力を使った所為で再び乱れた呼吸を整えるため、左手で単の上から胸を押さえている。
部屋を出る前掛け直した衾が臍の辺りまでずれていることから、彼が褥から起き上がろうと試みたらしいことが窺えた。しかし、身体を動かすことが出来なかったので、自分の姿を映した式神を使ったのだろう。
泰継の枕元に膝をついた花梨は、泰継の呼吸が整って来たのを確認してから声を掛けた。
「泰継さん? 大丈夫ですか?」
「…………」
具合が悪いからなのか、それとも機嫌を損ねている所為なのか、泰継は花梨の問い掛けに応えようとしなかった。
はぁ、と小さく溜息を吐いた花梨は、衾を掛け直そうと手を伸ばした。しかし、その手が衾を掴むのと同時に、横から伸びて来た大きな手に手首を拘束されてしまった。驚いた花梨が手首を掴んでいる手から腕、そして肩へと視線を移すと、その先には剣呑な光を宿して見上げている琥珀色の瞳が在った。
花梨と目が合うと、すっと目を細め、泰継が口を開いた。

「あやつと、楽しそうに何を話していたのだ?」

その問い掛けに、花梨の目が大きく見開かれた。

花梨を責めるつもりなどなかったのに、つい詰問するような口調になってしまう。
何故かそうすることしか出来ない自分を苦々しく思いながら、泰継はその美貌から全ての表情を消し去り、驚きの表情を浮かべてこちらを見ている花梨の瞳を見つめ返した。



すぐ傍に花梨の清浄な気を感じながら、暫くの間微睡んでいた泰継が目を覚ました時、枕元にいたはずの花梨がいなくなっていた。
深夜仕事から戻り、そのまま褥に倒れ込むように床に就いてしまった泰継を、花梨は朝まで一睡もせずに看病していた。だから、自分が眠っている間に花梨も休んでいるのかも知れないと思った泰継だったが、母屋には彼女の気配が感じられなかった。
(庭にでも出ているのだろうか)
この屋敷を建てる際、花梨のために造らせた庭を花梨はいたく気に入っているようで、姿が見えない時は大抵庭に出ているのだ。
そう考えた泰継は、褥に横たわったまま顔だけを庭の方に向けた。
庭には真夏の太陽が容赦無く照り付け、眩しいくらいの明るい光に包まれているのが御簾越しでも見て取れる。
(未の刻……いや、まだ午の刻か……)
太陽の位置は分からないが、御簾越しに見える外の様子から、泰継は現在の時刻を推測した。どうやら半刻程眠っていたようだ。
小さく息を吐くと、泰継は庭から視線を戻し、再び仰向けの状態になった。自然と視線が屋根裏に向く。仰向けになったまま、泰継は野地板の木目をぼんやりと見つめた。
普段から静寂に包まれているこの屋敷だが、今日は物音一つ聞こえない。庭から途切れ途切れに聞こえて来る蝉の声が、唯一泰継の耳に届く音だった。
「…………」
褥に横になったまま、泰継は暫くの間蝉の声に耳を傾けた。
――何故か落ち着かない。
人の気配が感じられない静けさの中、独り褥に横になっていると、まるでこの世界に自分だけが取り残されたようで、ひどく心細く感じられた。庭の静寂を破るように響く蝉の声すら、心寂しく聞こえるのが不思議だ。
北山で独り暮らしていた時は、このような心細さなど感じたことはなかった。独りでいることが当たり前のようになっていたため淋しさを感じることもなく、寂寞とした北山に時折響く鳥の声に寂寥感を募らせることもなく――。
北山の静寂は、寧ろ好ましいものと思っていた。書を読むのにも、思索に耽るのにも適している。――ずっとそう思っていたのに、最近では独りでいる時や夜の静けさに心乱されることが多くなったように思う。
以前の自分なら解らなかったであろうその理由を、今では理解している。それは……。
(花梨と、出逢ったからだ……)
身体を横たえたまま、泰継は目を伏せた。

花梨が傍にいることで感じる彼女の気の暖かさ。
一度その暖かさを知ってしまうと、二度と手放せなくなる。そして、その暖かさを求めてしまうのだ。
花梨が傍にいない時、彼女の暖かさを感じられない時に抱く不安や、その不安が齎す落ち着かない気持ちを“淋しさ”と呼ぶのだと泰継に教えたのは、他ならぬ花梨だった。
それと同時に、彼女は泰継に教えてくれた。
誰かと共に在ることの素晴しさ、そしてそれが齎す温かで満たされた気分を。
それを“幸せ”と呼ぶのだと、生まれて初めて知った。

衾の上に手を出した泰継は、いつの間にか胸の上で印を組み、花梨の気を探っていた。たった一人取り残されたかのようなこの心細さを、花梨に消して貰いたかったのかも知れない。
その結果、母屋から御簾を隔てた向こう、庇の間に彼女がいることが確認出来た。話し声は聞こえないが、どうやら一人ではないようだ。
(客か……)
庇の隅の方で客の応対をしているのは、恐らく眠っている泰継を起こさないようにとの花梨の心遣いなのだろう。
花梨の所在を確認し、泰継はほっと息を吐いた。そして、ふと我に返る。
――花梨がいないと自分は駄目なのだという自覚はあるが、これではまるで母親とはぐれた子供のようではないか。
そう考えた泰継は、無意識に取った自らの行動に苦笑した。

その時、花梨の気が大きく変化した。泰継の身を案じ、少し沈んでいた気が、ぱっと明るく輝いたのだ。それは、花梨が嬉しいと思った時や楽しいと感じた時に起きる変化だった。
龍神の神子の務めを終えた後も清浄な花梨の気が、澱んでいた邸内の気を一息に浄化させたのが伝わって来る。
不審に思い客の気を探った泰継は、花梨が話している相手が安倍家の見習い陰陽師の一人だと気が付いた。
(一体、何用だ?)
以前は式神が遣わされることが多かった本家からの使いだが、本家から然程離れていないこの場所に屋敷を構えて以来、本家の弟子達が使いとして訪ねて来ることも多くなった。
ただ、そういう場合は、門前に置いている式神が必ず泰継に知らせて来るのだ。今回それが無かったのは、泰継が眠っていたからではないだろう。
(花梨が呼んだのか?)
この屋敷には必要最低限の使用人しか置いていないため、それを補うために泰継が置いた式神達には、花梨の命令も聞くように命じてあった。そのため、「一人で外出したい」等、泰継が花梨に許可していないこと以外は、式神達は花梨の命令を実行するに当たり、主である泰継に事前に確認して来ないのだ。
だから、恐らく花梨が本家に何かを依頼し、その使いとして見習い陰陽師が訪ねて来たのだろうと推測は出来た。そうでなければ、泰継を畏怖している本家の弟子達が、わざわざ屋敷にまで訪ねて来るはずがない。
一体、花梨は本家に何を頼んだのだろうか。
(…………)
泰継は眉根を寄せた。
喉に痛みを感じたからではない。
胸に湧き起こって来た感情が不快だったのだ。

暫く止んでいた蝉の声が、再び庭から聞こえて来た。
その声に交じり、それまで全く聞こえて来なかった花梨の声が、泰継の耳に届くようになった。話の内容までは聞き取れないが、少しはしゃいだような、如何にも話すのが楽しそうな声音であることは判別出来る。
(何を話している?)
気になった泰継は、様子を見に行こうと起き上がろうとしたものの、身体の向きを変えただけで咳き込んでしまった。
咳が止まった後、何とか呼吸を整え、起き上がろうと床に手をついたが、力が入らない。結局上体を起こすことすら出来ず、泰継はそのまま褥に身体を横たえると、ぎゅっと褥を握り締めた。
普段は軽々と動かせる自分の身体なのに、今は鉛のように重く感じられた。熱の所為か、気が上手く回っていないのだ。その上、咳き込んだ所為で、また喉の痛みが酷くなったように思う。
(病とは、これ程までに体力を消耗させるものなのか――…)
再び仰向けになると、泰継は深い溜息を吐いた。
自分が動けないのならば、自分の代わりに式神に庇の様子を見に行かせればいい。気が上手く回っていなくとも、その程度の力を使ったところで問題ないだろう。
そう考えた泰継は、自らの姿を映した式神に、二人の様子を見に行くよう命じた。
そして、式神を通し、自分以外の男の前で顔を赤らめて嬉しそうに話す花梨の姿を見て、彼らの会話の内容を確認する前に声を掛けてしまったのだった。




花梨の手首を掴んだまま、泰継は無表情を崩さず、じっと彼女を見上げていた。
陰陽の力を使った所為で乱れた呼吸を整えるのと同時に、乱れた気を整えようとしたが、無駄だった。
式神を通して見た庇の間での光景――。
花梨が自分以外の男に向けた笑顔を思い出す度、どす黒い何かが胸の内に湧き起こって来て、それが病の所為で上手く回らなくなっていた泰継の身の内の気を、千千に掻き乱すのだ。
その気の乱れが何を表しているのか、今の泰継には理解出来た。それは、“嫉妬”と言う名の感情だ。
抑えようとしても自然に湧き起こって来るその感情を、泰継は無表情な顔の下に隠そうとしたが、上手くいかなかった。


強く掴まれた手首に痛みを感じることも忘れ、花梨は泰継の顔を見つめて目を白黒させた。明らかに刺が含まれている声音といい、こんな泰継を見たのは初めてだった。

『あやつと、楽しそうに何を話していたのだ?』

彼が急に不機嫌になった理由を考えた花梨は、泰継のその言葉から答えを導き出した。
恐らく泰継は、花梨が何を話していたのか聞いていなかったのだろう。だから、他の者と楽しげに話している花梨を見て、機嫌を損ねてしまったのだ。いつも泰然としている彼が子供っぽい嫉妬をするなんて、珍しいことだと思う。病というものは、やはり人を気弱にさせるものであるらしい。
(でも、何だか嬉しい……)
それは、泰継が自分のことを想ってくれていることに他ならないから。
花梨の顔に笑みが浮かんだのを見て、泰継が眉を顰めた。

「泰継さんのことだよ」

思い掛けない花梨の返答に、泰継は不意打ちを食らったかのような、驚きの表情を浮かべた。彼の顔から不機嫌な表情が消えたのを確認し、花梨は言葉を継いだ。
「『泰継さんの何処が好きなのか』って訊かれたから、答えていたの」
――たくさんあり過ぎて困っちゃった。
はにかんだ笑顔で話す花梨を呆然と見つめていた泰継は、掴んでいた花梨の手を解放した。先程彼女の気が明るく変化したのは、どうやら自分のことを話していた所為らしい。
熱の所為ではなく顔が火照るのを感じた泰継は、それを誤魔化そうと顔を背けてぽつりと呟いた。
「……そういう事は、他人に言わず、直接私に言って欲しいものだな」
自由になった手で衾を掛け直していた花梨は、泰継が漏らした言葉に頬を染めた。
「だって、面と向かって言うなんて、恥ずかしいもの」
「――私は言える」
視線を逸らせたまま、むすりとした口調で泰継が言う。
生まれて初めて得た病の所為か、今日の泰継は拗ねた子供のようで、何だか可愛い。そう思った花梨は、くすりと笑い声を漏らしていた。
「泰継さん…」
声を掛けても頑なにこちらを見ようとしない泰継の頬を両手で包み込み、自分の方を向かせた花梨は、何か言おうと開きかけた泰継の唇に軽く口付けた。不意を衝かれ、大きく見開かれた琥珀色の瞳が見上げている。

「私は、泰継さんのことが、丸ごと全部好きです」

頬を紅潮させながら、花梨は素直な気持ちを告げた。夫が相手とは言え、面と向かって言うのはやはり恥ずかしい。
俄かに湧き上がって来る羞恥心と、じっと自分を見つめている泰継の視線に耐え兼ね、花梨は陰陽師が持って来た包みを手に取り、慌てて立ち上がろうとした。
「じゃあ、お薬湯を作って来ますね。……えっ!?」
立ち上がろうとした途端、突然視界が傾ぎ、驚いた花梨は声を上げた。
「きゃあ!」
バランスを崩した花梨は、そのまま泰継の身体の上に覆い被さるように倒れ込んでしまった。泰継に手を掴まれ、引っ張られたのだと花梨が理解したのは、泰継の胸に鼻を強かに打ち付けた後だった。

「や、泰継さん…?」
病人の上に乗り掛かる形となった花梨は、直ぐに起き上がろうとしたが、腰に巻き付いた腕がそうすることを許さなかった。どうやら抱き寄せられたらしいことを悟り、何とか顔だけを上げた花梨の視線の先にあったのは、優しい笑みを浮かべた大好きな人の顔――。
間近で泰継に見つめられた花梨の胸は、忽ち早鐘を打ち始めた。

「花梨……」
名を呼ばれると同時に、更に強く抱き寄せられる。

「私も、お前が、“丸ごと全部好き”だ」

囁くような声で告げると、泰継は口付けを返した。

仰向けになったまま花梨の身体をぎゅっと抱き締め、目を閉じる。
こうして花梨を抱き締めていると、龍神の神子であった彼女の清浄で暖かな気が直接伝わって来る。
その所為だろうか。先程までとは違い、随分と楽になったような気がした。
自分にとって花梨の存在は、どんな薬にも勝る良薬のようだ。

いつもとは違う体勢で抱き締められて居心地が悪いのか、花梨がもぞもぞと身体を動かし始めたことに気付き、泰継は漸く腕の力を緩めた。

「泰継さん、お薬……」
「今、貰った。――二回も、な……」
今交わした口付けのことを言っているのだと悟り、花梨の顔が真っ赤に染まる。

「――苦い薬より、甘い薬の方が良い」

口元を綻ばせた泰継は、紅潮した花梨の頬に口付けた。







翌朝―――


花梨から貰った甘い薬が効いたのか、それとも紫陽花と桔梗根が効いたのか、一日寝込んだだけで仕事に復帰した泰継は、出仕前に安倍本家を訪れた。花梨に言われ、当主に桔梗根の礼を言うためだ。
当主に挨拶した後、大内裏に向かおうと渡殿を渡っていると、数人の弟子達が雑談をしながら此方に向かって歩いて来るのが目に入った。彼らは自分達の方に近付いて来る泰継に気付くと雑談を止め、道を譲るために簀子縁の端の方に一列に並んで、泰継が通り過ぎるのを待っている。
彼らの横を通り過ぎようとした泰継は、列の最後尾にいた人物の前で、ぴたりと足を止めた。
――昨日薬を持って来た見習い陰陽師だった。
頭を垂れたまま、このまま何事も無く泰継が行ってくれることを期待していた陰陽師は、泰継が自分の前で立ち止まったことを感じ、びくっと肩を震わせた。恐る恐る顔を上げると、無表情な美しい顔がじっと見据えていた。
「お前……。見習いとは言え、陰陽師ともあろう者が、式神と本人の区別も付かぬとは情けない」
氷のように冷たく響くその声と、射抜くような鋭い視線に、見習い陰陽師は震え上がった。
「本家での修行だけでは足りぬのであれば、いつでも私の屋敷に来るが良い。――但し……」
言葉を切り、泰継がすっと目を細めて陰陽師を睨み付けると、陰陽師の口から声にならない悲鳴が漏れた。その様子を傍で見ていた兄弟弟子達も、固唾を呑んで泰継の言葉を待っている。
一呼吸置いた後、泰継が言葉を継いだ。

「――但し、私が居らぬ時は来るな」

泰継はそう告げると、硬直したまま身動き出来なくなった陰陽師には目もくれず、門に向かって歩き去った。


泰継の背中を呆然と見送った弟子達は、彼の姿が見えなくなった後、顔を見合わせ小声でひそひそと話し始めた。

(おい。泰継殿の屋敷って確か、泰継殿と北の方の二人暮らしだったよな?)
(ああ。俺、前に師匠の使いで訪ねたことがあるが、北の方が応対に出て来られたよ。ちょっど出仕する泰継殿と入れ違いになってしまってな)
(じゃあ、北の方が一人でいる時は屋敷に来るなってことか?)

泰継の花梨への溺愛ぶりは、安倍家で知らぬ者はない。何せこの春、安倍家ではその噂話で持ち切りだったのだから。
弟子達は、誰からとも無く、件の見習い陰陽師に視線を向けた。そこには、石のように固まってしまった陰陽師の姿が在った。彼が昨日泰継の屋敷へ使いを頼まれていたことは、ここにいる全員が知っている。
何があったのかは判らないが、何も無ければ普段必要な事しか話さない泰継が、わざわざ「修行が足りないなら自分の屋敷に来い」だの「自分がいない時には屋敷に来るな」などと言うはずがない。
弟子達は師の元に向かう途中だったことも忘れ、簀子縁の上で硬直したままの陰陽師に、いつまでも同情心と好奇心露な目を向けていたのだった。





泰継の屋敷に使いに行った見習い陰陽師が、泰継が何よりも大切にしている愛妻にちょっかいを出したらしいという噂は、その日のうちに安倍家中に広まった。
その後、長の物忌みに入った陰陽師が、本家からの使いとして泰継の屋敷を訪れることは、二度となかったという。







〜了〜


あ と が き
『銀の月』神凪涙様が代表を務めていらっしゃいますサークル『夢雲(MOON)』様発行の、泰明さんと泰継さんのアンソロジー企画本『泰☆泰』に参加するため書き下ろした作品を、サイト掲載用に加筆修正したものです。
この話は元々は、「泰継×花梨でギャグ・テイストの話を書きたいなあ」と思って作り始めた話でした。ギャグ好きの関西人のくせして、私が書くものは何故か甘々ラブラブばかりだったので、「一度でいいからギャグを!」と思ったのですが、結局ギャグになりきれず、最後はいつも通りのラブラブに(笑)。
泰継×花梨ベースでギャグをするなら、やはりサブキャラの陰陽師か和仁さんに登場してもらうのがいいだろうと思い、今回は陰陽師さんに出演して頂きました。序章(帝編)の八葉探しイベントの彼の名(迷?)台詞、「で、出た!?」が非常にツボだったので、その台詞中心に出来た話と言っても過言ではありません(笑)。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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