はじめてのお食事−2−
花梨は呆然としたまま、泰継の言葉を聞いていた。

信じられない
信じたくない
この人が消えるなんて
この人を失うなんて……!

「そんなことないよ、絶対っ! だって、泰継さんはあの時人になったんだものっ!」
花梨は両手で泰継の両腕を掴み、泰継の身体を揺さぶりながら叫んだ。
今にも泣き出しそうな、悲痛な表情で、泰継の顔を見つめた。
泰継は、花梨に揺さぶられるままになっていたが、やがて逸らしていた視線をゆっくりと花梨のほうに向けた。
いつも揺ぎ無いと思っていた異色の双眸が、今ははっきりと揺らいでいるのが見て取れた。
それを見た花梨は息を呑んだ。

一体何が原因なのだろう。
ズキズキと痛む頭を働かせ、花梨は何とか考えようと試みた。
あの日、確かに泰継は人になったのだ。
彼の眠りと目覚めの周期が正常に戻ったのがその証拠――。
ではやはり、充分な睡眠を取れていないのが、彼の体調不良の原因なのではないだろうか。

「泰継さん、一昨日と昨日は、ちゃんと休んでいましたか? また一晩中起きていたりとか、してないですか?」
泰継の両腕を掴んだまま、花梨は縋るような表情で訊ねた。
それが原因であってほしい……。
――そう思わずにはいられなかった。
もしそうなら、今日はこのままここで眠ってもらえばいいだけだ。彼がちゃんと休んでいるかどうか、自分が監視していればいい。
だが……

「休んだ」

泰継は答えた。
一昨日の花梨の心配そうな顔を見て、これ以上神子に心配をかけることはできないと思ったのだという。
それに、昨日は起き上がろうとすると酷い眩暈に襲われ、結局起き上がることができなくて、一日中横になっていたのだと……。
二日間ゆっくり休んだせいか、今日は昨日よりは体調が良いのだと泰継は話した。
眠って少し体調が戻ったのであれば、睡眠不足も原因の一つだったのだろう。しかし、まだ他にも原因がありそうだ。
「昨日よりは良い」と言われても、花梨の目には、とても泰継の体調が良いようには見えない。第一、顔色が悪い。色白の肌が蒼白に見える。ちょうど貧血を起こした時のような顔色だ。
立っているのも辛そうな泰継の様子に、花梨は両手で支えながら、彼を座らせようとした。
今度は泰継もそれに従う。花梨に支えられながらゆっくりと、だが最後は頽れるようにその場に膝をついた。
これで「昨日よりは良い」と言うのなら、昨日は一体どんな調子だったのだろうか。

(いつも守ってもらってるのは私のほうなんだから、こういう時くらい頼ってくれても良いのに……)

座り込んでしまった泰継の身体を支えながら、心の中で花梨は思った。
いつも彼に何かしてもらうばかりで、自分は彼に何も返していないことに気が付いた。
とにかく、今日はこのまま泰継を休ませて、看病させてもらうことにしようと決心する。
原因が分からないことには泰継の体調は戻らないだろうが、人となった彼が消えるはずなどない。

(――絶対に……!)

花梨は胸の内の不安を打ち消すように、自分にそう言い聞かせた。


「今日はここで休んで下さい。私、泰継さんの傍に付いていますから」
泰継の瞳を見つめて、花梨はそう告げた。
しかし、花梨の言葉に泰継は首を振った。
「駄目だ。神子には神子の務めがある。八葉である私が、神子の妨げとなるわけには……」
「今の私には、泰継さんのほうが大事なんですっ!」
泰継の言葉を遮り、花梨は叫ぶように言い放った。
その言葉と何時になく強い口調に、泰継は驚いて目を見開いた。
今にも泣き出しそうな、潤んだ緑色の瞳が、泰継を射るように睨み付けている。
彼女のそんな瞳は、龍神の神子としての務めの中で、幾度か見たことがあった。
不思議だ……。
自分を射るような眼差しなのに、「嬉しい」と感じるのはなぜだろうか。
ずっと、見ていたい――。
そう思った。

(まだ、消えたくない……)

まだ、神子の傍にいて、彼女を見ていたい。
自分の名を呼ぶ、彼女の声を聞いていたい。

「……わかった」

小さく息を吐いた後、泰継はゆっくりと頷いた。







「昨日はどうしてたんですか?」
袍を脱ぎ、結いを解いて長い髪を流した泰継の背中に手を回し、褥の上に横になるのを手助けしながら、花梨は訊ねた。
「泰継さん、今は本家の離れで独りで暮らしてるって言ってましたよね。具合が悪い時は、独りだと不便でしょう? 食事の用意とかは、やっぱり式神さんがやってるんですか?」
横たわった泰継の身体に袿を掛けてやりながら、暗に「そんな時は私を呼んでくれれば良いのに」という気持ちを込めて言う。


「私には、食事の用意は必要ない」
「えっ!?」


何気なく問い掛けた質問に対する泰継の答えを聞いた花梨は、整えようとしていた袿を手にしたまま、思わず硬直してしまった。
聞き間違えたのかと思った。しかし、続く泰継の言葉に、それが聞き間違いではなかったことを確認する結果となった。

「私は、生まれてからこの方、食べ物を食したことはないのだ。その必要が無かった」

大きな目をこれ以上ないくらい見開いて、まじまじと自分の顔を見つめる花梨の視線から逃れるように、泰継は褥に横たわったまま目を伏せた。

(……神子を怖がらせてしまったのだろうか……?)

――人が人ならざる者を恐れるのは道理。

ずっとそう思ってきた。
だから、あの時、彼女に言った。
『お前は私を恐れてもいい』、と……。
それは自然なことだから。

だが、今は違う――。
神子にだけは、人外の者である自分を恐れないで欲しいと思ってしまう。
もし、神子に恐れられたら……。本家の弟子たちのような、畏怖を帯びた目で、神子が私を見るようになってしまったら……。

不意に痛みを感じて、泰継は僅かに顔を顰め、胸の上を手で掴んだ。


暫くの間すべての動作を止めて硬直していた花梨は、手にした袿を掛け直すと、泰継の枕元にさらに膝を進めて近付いた。

『生まれてからこの方、食べ物を食したことはない……』

(まさか、人になってからも?)

泰継の事だ。あり得ないことではない。
何でも知っているくせに、肝心な事が欠落しているというところが、彼にはあるから。
では、彼の体調不良の原因は……。

(ずっと食事をしていなかったからなの?)

あの火之御子社での出来事があったのは、一週間ほど前だったはずだ。
一週間もの間、食事をしていなかったのであれば、身体に力が入らなくなるのも頷ける。眩暈がして当然だろう。
花梨はそう結論付けた。

「泰継さん……。あの日から…えっと…つまり、眠りと目覚めの周期が変化してからも、もしかしてずっと食事していなかったんですか?」
念のために本人に確認してみる。
「無論」
当然の如く即答する泰継。「なぜそんな事を聞くのだ」と書いてあるような、怪訝そうな表情で花梨の顔を見つめ返している。

(そう…だったの……?)

花梨は、さっきまで張り詰めていた緊張の糸が緩んで、体中の力が抜けていくのを感じた。泰継の枕元で正座していた足を崩して、そのままへたり込んでしまった。
安堵の気持ちが込み上げてくる。

(……良かったあ)

気が緩んだせいか涙ぐみそうになるのを何とか堪え、花梨はホッと息を吐いた。


「……神子?」
潤んだ目を手で擦る花梨の仕草に、泰継は心配そうな表情を浮かべ、褥から起き上がろうとした。
その動きに、袿が泰継の身体の上からずれ落ちた。
それを見て我に返った花梨は、慌てて泰継の両肩を押さえ、褥の上に引き戻した。
再度褥に横たわることとなった泰継は、物問いたげな表情で花梨のほうを見ている。
普段冷たいと感じさせるくらい無表情な彼が滅多に見せないその表情に、花梨は安心させるように微笑みかけた。
「すぐ戻りますから、待ってて下さいね」
花梨は泰継の身体に袿を掛け直すと、そう言って部屋から出て行った。部屋を出る前、横になっているよう釘を刺すことを忘れない。
花梨が出て行った後の部屋には、訝しげな面持ちの泰継が取り残された。







花梨からの依頼を女房に伝え終えた紫姫は、部屋に戻るべく簀子の上を歩いていた。
ふと庭のほうに目を遣ると、ようやく昇った太陽の光を降り積もった雪が照り返し、何とも形容し難いほど美しく輝いている。
簀子の途中で立ち止まり、目を細めてその光景を眺めながら、紫姫は先程の花梨の言葉を思い浮かべた。

『朝餉の用意、二人分お願いできるかな。できれば汁粥がいいんだけど……』

そう言う花梨の目は微かに潤んでいたようだが、明らかに嬉しそうな表情だった。紫姫の目には、ちょうど今目の前に広がっている庭の風景のように、輝いて見えた、幸せそうなその笑顔――…。
花梨を慕っている紫姫には、花梨の笑顔を見られるのはとても嬉しい事である。

(でも……)

今朝ここを訪れた時の、深刻そうな泰継の様子を思い出し、紫姫は首を傾げた。

(泰継殿の「大事な話」とは、神子様と朝餉をご一緒したいということだったのかしら?)

泰継の来訪の目的が何であれ、花梨の笑顔を見られるのは良いことだ。

(神子様のあのようなお顔を拝見できるのでしたら、泰継殿には今日から夕餉も神子様とご一緒して頂かなくてはなりませんわ)

早速手配しなくては……。
――紫姫はそう思った。


再び歩き始めようとした紫姫の耳に、渡殿のほうからこちらに近付いてくる賑やかな話し声が届いた。
勝真とイサトだった。

「おはようございます、お二人とも。今朝はお早いですわね」
「おはよう、紫姫」
「よお! 今朝は、少し冷えるな」
こちらに辿り着いた二人に軽く会釈する紫姫に、二人の八葉もそれぞれに挨拶を返した。
「花梨は、今日も外出するのか?」
勝真が訊ねる。
「それが……」
「何だ。花梨の奴、まだ朝餉を済ませていないのか?」
勝真の問いに答えようと口を開いた紫姫の言葉に、イサトの声が重なった。
訝しげにイサトの顔を見た勝真は、イサトの視線の先に目を遣った。
そこには、朝餉の膳を運ぶ女房の姿があった。三人が見ている前で、花梨の部屋に入っていく。
「あいつ、細いくせに意外と食い意地の張った奴なんだな」
どう見ても二人分はあった朝餉の膳に、驚き半分、呆れ半分という微妙な表情を浮かべて、イサトが言った。
「一つは泰継殿の分ですわ」
「食い意地の張った奴」と言われてしまった花梨のために、紫姫がイサトの誤解を解く。
「何だ。泰継の奴、もう来てたのか?」
今朝はいつもより早めにここを訪れたつもりだった勝真は、先客がいた事に驚きを隠せない。
「なんで泰継が花梨と一緒に朝餉を食べるんだよ」
花梨のことを憎からず想っているイサトは、僅かに口を尖らせた。泰継以外の男が花梨の眼中にないことは分かっているのだが、やはり面白くない。
それを察して、紫姫は微かに口元を綻ばせた。
「実は……」
紫姫は、勝真とイサトに、さっき花梨自身から聞いた今日の予定を説明した。

――泰継の体調が優れないので、今日はこのまま花梨の部屋で休んでもらうことにしたこと。
   彼が無理をしないように、花梨が付き添うことにしたこと――。

「……という訳ですので、神子様は今日は外出なさいませんわ」
紫姫の言葉に、二人は肩を落とした。花梨が外出しないのであれば、ここに居る理由もない。
「泰継はどんな具合なんだ?」
紫姫のほうに向き直って、勝真が訊ねた。
勝真もイサトも、心配そうな表情で紫姫を見ている。
「今朝ここにいらした時はお顔の色がとても悪くて……。でも神子様が仰るには、ちゃんとお食事を取ってお休みになれば、すぐ良くなられるだろうとのことでしたわ」
紫姫の言葉に、二人の八葉はほっとした表情を浮かべた。

「じゃあ、俺は見回りの仕事に戻る。花梨も無茶する奴だからな。泰継の看病をするのもいいが、看病疲れで今度はあいつが倒れたりしないよう、見張っててくれ」
紫姫にそう告げて踵を返そうとした勝真の腕を、イサトが掴んだ。
「泰継を見舞わなくていいのかよ、勝真」
せっかく朝早くからやって来たというのに、花梨の顔を見ないで帰るのも馬鹿馬鹿しい。それに、いつも涼しい顔をしている陰陽師の具合が悪いというのも珍しく、どんな具合なのか気になった。
北の札はすでに入手しているため、地の玄武である泰継の力が今すぐ必要という状況ではないが、やはり怨霊と対峙した時、最も頼りになるのはこの陰陽師である。万一彼の不在が長期になれば、それは痛手となるのではないだろうか。
それに……

(やっぱり、花梨の暗い表情は見たくないよな)

イサトはそう思う。花梨には、笑顔が似合うから……。

「やめとけ」
非難混じりの視線をイサトから向けられた勝真は、イサトの顔を見ながらそう言った。
その言葉に顔を顰めたイサトに、勝真は小さく溜息を吐いて言葉を続ける。
「当てられたきゃ、俺は止めないけどな」
それだけ言うと、腕を掴んだままのイサトの手を外させて、勝真は渡殿のほうに歩み去った。

呆然としたまま勝真を見送ったイサトは、勝真の姿が見えなくなると、溜息を吐いた。
「じゃあ、オレも帰るな。明日の朝、また様子を見に来るから」
紫姫は、なんとなく肩を落とした様子のイサトの後姿を見送った。
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