はじめてのお食事−1−
先日までの紅葉が嘘のような雪景色――。

崇道神社に置かれていた御霊が龍神の神子により封印されたのは、つい十日ほど前のことである。
京を分断する結界の要の一つが壊されたことにより、それまで留められていた京の気が一斉に巡り始めた。
急激な気の巡りは嵐を呼び、長い間紅葉の季節のままだった京に雪をもたらした。

――京は、一日のうちに銀世界となった。





早朝―――

花梨は、自分にあてがわれた部屋から、見事に雪化粧した庭の風景を眺めていた。
しかし、その目は美しい雪景色を捉えてはいるものの、考え事に沈んでいたため、ほとんど見ていないのと同じであった。

(泰継さん、大丈夫なのかな……)

火桶に手を翳して暖を取りながら、花梨が考えていたのは彼の陰陽師のことであった。


八葉の一人、地の玄武である安倍泰継は、龍神の神子、高倉花梨の想い人である。
京に来て初めて出逢った人間ということもあり、京に来た当初から彼と行動を共にすることが多かったのだが、いつしか花梨はこの美しい陰陽師に想いを寄せるようになっていた。
――京に来て初めて出逢った「人間」……。
花梨はそう思っていたのだが、まもなく花梨は泰継自身から重大な告白を受けることとなる。

『私は人ではない』

さらりと言う彼に驚愕したものの、花梨にとっては泰継の出自が何であれ、そんな事はどうでも良い事であった。彼が彼自身である限り、花梨の気持ちは変わらない。
泰継も花梨のことを大切に想ってくれているらしいことは、花梨自身も感じるようになっていた。

そして先日、泰継は人となった。
あの火之御子社での出来事を、花梨は一生忘れることができないだろうと思う。
あの時泰継が見せた、嬉しそうな、そして幸せそうな、優しい笑顔も……。
稀に微笑みを見せるだけだった彼の満面の笑みを初めて見た花梨は、その美しさに見惚れるのと同時に、本当に良かったと我が事のように喜んだ。
想いを交わした二人は、あの日以来、ほぼ毎日のように一緒に散策に出かけていた。明王の課題などで他の八葉と共に行動する必要がある日も、泰継は必ず一度は花梨の元を訪れて、彼女の身辺に異変が起きていないか確かめていた。

ところが昨日、泰継は花梨の元を訪れなかったのだ。
西の札の行方を掴み、しばらくはまた怨霊の封印と土地の五行の力を上げることに専念しようと思っていた花梨は、泰継と出かけられると思っていただけに、残念に思うと同時に不安になった。
彼に何かあったのだろうか……。
紫姫によると、式神が告げた泰継の欠勤理由は、体調不良とのことだった。
それを聞いて、花梨はますます心配になった。

あの火之御子社での出来事から数日後、花梨は泰継の顔色が優れないことに気が付いた。
あの日の朝の彼の顔色に比べれば遥かに良いと言えたのだが、花梨にとっては最愛の人の変化は、たとえ僅かなことでも見逃せない。
ましてや泰継は人になったばかりなのである。身体に変調があったとしてもおかしくはないはずだと花梨は思うのだ。
実際に泰継自身にその事を話してみたのだが、眠りと目覚めの周期が突然変わったために、毎晩眠ることにまだ慣れないせいだろうというのが彼の見解だった。この九十年来の習慣で、つい明け方まで書物を紐解いてしまい、ほとんど眠らない日が今もなお多いらしいのだ。

――もっと自分の身体を大事にしてほしい……。

そう思った花梨は、一昨日、自分の元を訪れた泰継の顔色がいつにも増して白いのを見て、「今日は一日ゆっくり休んでほしい」と彼に訴えた。
「泰継さんの身体が心配だから……」
心配そうに、縋るような表情で懇願する花梨に負けた泰継は、「明日また来る」と言い残して帰って行った。

――しかし昨日、泰継は来なかった。
いつもの泰継なら、花梨が無理しないよう諌めなくてはならないくらい、体調が悪くても毎日顔を見せてくれる。その彼が自分の判断で休んでいるということは、余程容態が悪いのではないだろうか。
彼が決して約束を違えない人であることを知っているだけに、彼の身に何か起きたのではと心配で、花梨は昨夜眠れぬ夜を過ごしたのだった。


深い溜息を吐くと、花梨は視線を庭の雪景色から自分の手元へと移した。
あの日、火之御子社からの帰り道、ずっと泰継と手を繋いだまま歩いた。
男にしては色白で繊細な手に包まれていた自分の手……。
……とても温かかった。
そして――とても幸せだった……。
あの時、確かに想いが通じ合ったのだと、そう思えた。

火桶に翳したせいで少し赤く色付いた両手を見つめたまま、我知らず口元を綻ばせた花梨の耳に、こちらに近付いて来る衣擦れの音が届いた。
そろそろ女房が朝餉を運んで来る時間だ。


「神子様、おはようございます」
そう言って部屋に入って来たのは、朝餉を運んで来た女房ではなく、紫姫だった。
「おはよう、紫姫。今日は早いね」
沈んだ顔を見せて彼女に心配をかけてはいけないと思い、花梨は笑顔で挨拶した。それでなくても、まだ幼いながらも星の一族としての使命を懸命に果たそうとしている紫姫の負担は、小さくないはずだった。深苑のことも心配だろうに、健気に花梨に仕えてくれている。そんな彼女の負担にはなりたくない。
だが、紫姫の表情を見た花梨は、すぐに笑みを消し、眉を顰めた。心なしか表情が暗い。
何かあったのだろうか……。

「紫姫? 何かあったの?」
自分の顔を覗き込むようにして心配そうに訊ねる花梨に、紫姫は用件を告げた。
「実は、泰継殿がいらしたのですが……」
泰継の名に、花梨は目を見開いた。
いつもなら泰継の訪れを聞くだけで顔を輝かせる花梨だが、紫姫の表情に徒ならぬものを感じ、真剣な表情を浮かべた。

――やはり、彼に何かあったのだ!

「泰継さんに何かあったのっ!?」
火桶に翳していた両手を床に突き、立ち上がろうと腰を浮かせながら、花梨は早口で言った。一昨日からずっと彼の心配をしていたため、思わず強い口調になってしまう。
紫姫は花梨の顔を見つめた。
「わかりません。ですが、神子様に大事なお話があって来たのだと……、そう仰っています」
「大事な話……?」
花梨は首を傾げた。

(何だろうか……)

腰を浮かせて立ち上がりかけた姿勢のまま顔を伏せ、花梨は考え込んだ。
どうしても悪い方に考えが及んでしまう。
胸がキリキリと痛み、鼓動が速くなった。

「それに、具合が悪そうなご様子なのです」

続く紫姫の言葉に、花梨は目を瞠り、伏せていた顔を一気に上げた。
その言葉は、あの火之御子社に行った朝のことを彷彿とさせた。
とにかく、泰継に会って何があったのか訊ねなくてはならない。
具合が悪いのなら、今日はここで休んでもらわなければ――。

「わかった。すぐに会うよ。……しばらく、誰もこの部屋に来ないように言って」

泰継が「大事な話」と言うからには、彼の出生に関わる事かもしれない。
ふと、北の札を取りに訪れた北山で、「化け物」と言われても平然としていた泰継のことを思い出した。
好奇の目に晒されても平然としている……そんな彼を見たくないと思った。
恐らく泰継自身に自覚がないだけで、本当は彼の心は傷付いていたのではないか――。
花梨には、そう思えたから……。
だから、花梨は紫姫に人払いを頼むことにした。
大切な人だから、出生の事でこれ以上傷付いて欲しくなかったのだ。

「かしこまりました。では、泰継殿をお呼びしてまいりますわ」
衣擦れの音をさせて退出する紫姫を見送った後、花梨は改めて茵に座り直した。
さっきから胸の痛みが消えない。
彼の姿を目にしたら、この痛みは消えてくれるだろうか。

そんな事を考えていた花梨の耳に、こちらに近付いてくる足音が届いた。人払いをしていなければ、聞き取ることができないくらい静かな足音と、微かな衣擦れの音――。
――泰継だ。

「失礼する」
いつもと変わらぬ低く静かな声と共に、泰継が部屋に入ってきた。
昨日からとても聞きたかったその声に、花梨の胸は高鳴った。
しかし、泰継の顔色を見て愕然とする。
一昨日よりも、顔色が悪い――。

「朝早くからすまない。だが、神子に話しておかねばならぬ事があるのだ」
泰継は、茵に座っている花梨を見下ろして、立ったままそう話を切り出した。
花梨は思わず立ち上がって、立ち尽くしたまま座ろうとしない泰継に近付いた。
「早く座って、泰継さん。顔色が悪いよ。身体の具合、まだ悪いんでしょう?」
泰継の袖を掴んだ花梨は、心配そうな表情で泰継の顔色を窺いながら言った。座るよう促すように、彼の腕を引く。
しかし、泰継は腰を下ろそうとしなかった。
着物の袖を掴んだまま離そうとしない花梨の手に、自らの手を重ねた。
あの日、手を繋いで帰った時と同じ、温かい手……。
花梨はその温もりを感じながらも、視線は泰継の人形のように美しい横顔に固定したままだった。
泰継はゆっくりと花梨の手を袖から離すと、彼女の顔を見ずに俯いた。


「……すまない、神子……。私は…もうお前を守ることができないかもしれない……」


顔を伏せたまま呟かれた泰継の言葉に、花梨は再び愕然とした。



膝ががくがくと震えた。
心臓が早鐘を打っている。
先程から感じていた胸の痛みが酷くなったのを感じ、花梨は胸の上を手で掴んだ。水干を掴むその手も、小刻みに震えている。

――彼は今、何と言った?


『もうお前を守ることができないかもしれない……』

その言葉が、花梨の頭の中で繰り返し響いていた。
何とか泰継の言葉の意味を理解しようとするのだが、ズキズキと頭が痛んで、上手く思考が定まらない。
今まで、人が発した言葉に、こんな激しい衝撃を受けたことはなかった。
彼に「人ではない」と告白された時ですら、こんなに酷い痛みは感じなかったのだ。

「ど…どうして…そんな……」
震える声で、花梨は何とかそれだけの言葉を発した。
花梨は泰継の顔をじっと見つめていたが、泰継は彼女から視線を逸らせて俯いたままだった。
彼の伏せた長い睫が微かに震えているのに気付き、花梨は目を瞠った。
こんな泰継の表情を、一度だけ見たことがあった。
あの火之御子社で、彼が見せた表情――。


『……終わり、ということなのかもしれない』

あの時の彼の言葉……。
伏せられた睫が微かに震えていた。
あの時と同じ表情を、泰継はしていた。


「力が抜けていくのだ……」

俯いたまま、泰継は呟いた。


「……消える時が来たのかもしれない」




ぱちり、と火桶の炭が爆ぜる小さな音が響いた。
novels' index next top