願い−2−
紫姫の館に着いた式神の目を通し、泰継は館の騒ぎを知ることとなった。


「神子様が……。神子様がお部屋にいらっしゃらないのです……!」

紫姫は、今にも泣き出しそうな表情である。

『何時抜け出したか分かるか?』
白い小鳥の姿をした式神が、泰継の声を紫姫に伝えた。
「泰継殿が館を清めて下さっていた時は、確かにお部屋にいらっしゃったことは女房が見ておりますから、恐らく……」
『私が館を辞した後、か……』
紫姫の言葉を引き継ぐように、泰継が呟く。
紫姫には泰継の表情までは判らないが、式神が伝える彼の声から、泰継が今険しい表情をしていることが感じられた。いつもと変わらぬ落ち着いた声のように聞こえるが、そこには確かに微かな苛立ちが込められていたのだ。普段は何事にも動じない泰継であるが、花梨が絡むと少々事情が異なっていることに紫姫は気付いていた。花梨の泰継に対する気持ちを誰よりも早くから察していた紫姫には、そんな泰継の変化が嬉しく感じられた。
そんな事を考えていた紫姫であるが、今はそんな事をしている場合ではないと気付く。
今朝、最後まで館にいた泰継が帰った後抜け出したということは、花梨が一人で行動している可能性が高い。龍神の神子としての力が強くなるにつれて随分平気になったとは言え、花梨は穢れに弱いのだ。一人で外出して、もし何かあったら……。
紫姫の顔が曇る。
八葉たちはすでに館にはいない。今から使いを遣っても掴まるかどうかは分からない。今、頼れるのは泰継だけだ。
「泰継殿、どうか神子様を……」
『わかった。神子は必ず捜し出す。見つけたら連絡する』
式神はそれだけを伝えると、「よろしくお願いいたします」と頭を下げる紫姫にはもう目もくれず、再び何処かヘ飛び去って行った。
「神子様……。どうかご無事で……」
式神が飛び去った方角を見つめながら、紫姫は小さな両手を胸の前で組んで祈った。








紫姫から花梨の脱走を知らされた泰継は、右手を額に当てて溜息を吐いた。

(神子は私の言葉を聞いていなかったのだろうか……)

自分が紫姫の館から帰るのを見計らって一人で外出したという事であれば、計画的だったことは明白だ。恐らく今日休みを取ることにしたのも、そのためだったのだろう。

(外出したいのであれば、何故私を呼ばぬのだ)

花梨が危険を顧みず一人で外出した事以上に、彼女が自分に声を掛けずに一人で外出してしまった事に対して苛立っていることに、泰継は気付いてはいなかった。
いつの間にか、いつもは殆ど表情に変化のない美貌に、険しい表情を浮かべていた。
とにかく、何事も起こらないうちに、神子の身柄を確保しなければならない。説教はその後だ。

『今日はちゃんと休んで下さいね』

式符を取り出すために懐に手を遣った泰継は、ふと今朝の花梨の言葉を思い出した。
神子はいつもそうだ。他人の事は気遣うのに、自分の事には無頓着だ。
神子らしいと言えばその通りだが、彼女に何かあってからでは取り返しがつかない。
――神子の代わりには、誰もなれないのだから……。
泰継は懐から数枚の式符を取り出し、呪を唱え始めた。
だが、流れるように紡がれていた呪は、間もなく途切れた。

(神子……!)

紫姫の館に遣わせた式神が此方に戻る途中、此処から目と鼻の先の地点で神子の姿を捉えたのだ。
どうやら彼女は野宮に向かっているらしい。
何のために神子が野宮に来ようとしたのかは判らないが、此方に向かっているのならば好都合だ。
泰継は安堵の息を吐いた。








野宮まであと少しという所を早足で歩いていた花梨は、鳥の鳴き声に気付き空を見上げた。すると、頭上を飛んでいた白い小鳥が、花梨のほうに舞い降りて来た。

(可愛い〜っ!)

その場に立ち止まり、雪のように真っ白な小鳥に手を差し出した花梨は、ある事に思い至りギクリとする。

――この鳥……、泰継さんの式神に似てる……。

そして、花梨は自らの予想通り、差し出した手に止まった白い小鳥の口から、いつもは会いたくて仕方がないけれど今は最も会いたくなかった人の声を聞くこととなった。


『神子』
いつもと変わらぬ落ち着いた声が響いた。しかし、その中に呆れているようでいて怒っているような響きを感じ取り、花梨の肩がぴくりとはね上がった。
「泰継さん……! どうして……」
驚く花梨に、指に止まった小鳥が溜息を吐いたように見えた。
『紫姫から聞いて、お前を捜していたのだ』
泰継の言葉から、花梨は黙って館を抜け出したことが紫姫にばれたことを知った。今にも泣き出しそうな表情の紫姫の顔が目に浮かぶ。
しかも捜しに来たのはよりによって泰継である。後でたっぷりと説教されるのは火を見るより明らかだ。
花梨は肩を窄めた。
『とにかく、今行くから、そこにいろ』
「え? 今から?」
泰継の言葉に花梨が首を傾げた。八葉となってから泰継が離れを借り受けているという安倍家は、左京一条にある。此処まではかなりの距離があるはずだ。
「泰継さんは、今何処にいるの?」
指の上で小首を傾げるような仕草を見せる式神に訊ねてみたが、式神はそれきり泰継の言葉を伝えなかった。元の物言わぬ小鳥に戻った式神は、花梨の手から肩に飛び移り、嘴で花梨の髪を引っ張った。花梨が肩を見ると、式神は花梨を促すように前方に目を遣って一声鳴いた。
式神の視線を追うように、花梨も前方を見遣った。
今立ち止まっている道の前方、自分が向かおうとしていた先に、此方に走って来る泰継の姿を見つけ、花梨は大きく目を見開いた。
「泰継さん……」
何故彼が此処にいるのだろうと不思議に思いつつ、花梨は近付いて来る泰継を呆然と見つめていた。


「神子。怪我は無いか? どこか不具合は?」
花梨の元に着いた泰継は、まず彼女の安否を気遣った。訊ねながら、彼女の気を探る。此処に来るまでに穢れにあった形跡はないようだ。泰継は胸を撫で下ろした。
「……大丈夫です」
泰継の顔を呆然と見つめたまま、花梨は答えた。すぐにやって来たことと、走って来たようなのに殆ど息を乱していない彼の様子から、泰継はすぐ近くにいたのだろうと花梨は推測した。
「何故供を立てずに一人で外出した? 穢れや怨霊にあったら、どうするつもりだったのだ?」
険しい表情で矢継ぎ早に捲し立てるように話す泰継に、花梨は目を丸くした。いつも冷静な泰継のこんな様子を見たのは初めてだった。
心配してくれていた事を嬉しいと思う反面、普段余り感情を顔に表すことの無い彼をこれ程怒らせてしまった事を反省した。
「ごめんなさい……」
花梨は俯いた。
「謝れとは言っていない」
すっかり悄気返ってしまった花梨を見て、泰継は深い溜息を吐いた。


「……何故、私を呼ばなかった?」
「え?」
呟くように訊ねる泰継の声に、花梨は伏せていた顔を上げた。こちらを見つめる泰継と目が合った。
「外出したいのなら、何故私を呼ばなかったのだ?『いつでも呼べ』と言ったはずだ」
その言葉に花梨は目を瞠る。
向かい合った泰継の顔にはすでに先程の険しい表情はなかった。
そこにあったのは、あくまでも真摯な表情――。
その表情と言葉に、花梨は頬がうっすらと赤く染まるのを感じた。「自分を呼べ」と言ってくれた泰継の言葉が嬉しい。
叱られている事を忘れ、思わず顔を綻ばせた花梨だったのだが……。


「やはり、私ではお前の役には立たないか?」


視線を逸らして泰継が漏らした言葉に、綻びかけた花梨の顔は一瞬にして凍り付いた。
泰継は、花梨が彼を頼らずに黙って外出したという事実から、自分は神子に頼りにされていないと誤解しているのだ。

『神子を守るのが私の意味。だからそれを否定しないで欲しい』

不意に、以前泰継が言っていた言葉を思い出した。
八葉としての役目に自らの存在の意味を見出している泰継にとって、神子に必要とされていないという事は、自らの存在を否定された事に等しいのだ。
それに気付いて、花梨は慌てた。

「ちっ…違いますっ!」
花梨は泰継の言葉を強く否定した。思わず胸の前で両手を握り締めて泰継に訴えていた。
確かに「いつでも呼べ」と言ってくれた彼の言葉に従わず、一人で館を抜け出したのは事実である。だが、花梨はいつでも泰継と出掛けたいと思っているのだ。物忌みの日もずっと一緒にいたくて、常に泰継に文を送っていたくらいなのだから。
今回一人で外出したのは、花梨の願いが当の泰継に関わることだったからだ。

花梨の否定の言葉を聞いた泰継が、ゆっくりと逸らしていた視線を花梨のほうに戻した。
その瞳に在ったのは、今朝彼が見せた複雑な色合いとは違う揺らぎのようなものだった。どんな感情を宿していても決して揺らぐ事の無い瞳だと思っていた花梨は、それを見て驚いた。
泰継の誤解を解こうと口を開いたが、彼の瞳の揺らぎを見た途端、何と言ったらいいのか分からなくなり、花梨は言葉を呑み込んだ。
泰継は無言のまま、じっとこちらを見つめている。
向かい合い、見つめ合ったままの二人の間に沈黙が流れた。


「……違うよ、泰継さん……」
先に沈黙を破ったのは花梨のほうだった。
泰継の誤解を解くには本当の事を話すしかないと悟った花梨は、言葉を選びつつ今日一人で外出した理由を話し始めた。
「今日は、どうしても一人で出掛けたかったの……」
「…………」
花梨は一旦言葉を切り、泰継を見つめた。泰継は花梨の顔を見つめたまま、じっと花梨の言葉に耳を傾けていた。彼が口を開く気配が無いのを確認してから、言葉を継ぐ。
「龍神の神子の務めと関係ない用事だったし……」
「……何故、野宮に?」
ようやく口を開いた泰継に、花梨は一呼吸置いてから続けた。
「まだ私が京に来たばかり頃、私を野宮に連れて来てくれたことがあったでしょう?」
「ああ……」
そう言えば、そんな事があったなと泰継は思い出す。
「あの時、泰継さん、私に教えてくれましたよね。『野宮は誓願の地だから、野宮で口にした願いは清められ、守られる』って。だから……」
「……誓願のために、一人でこの地を訪れたと言うのか……?」
花梨の言葉を聞いた泰継が目を瞠る。確かに彼女にそんな事を話したが、あの時神子は「願いがわからない」と言っていたはずだ。では、この誓願の地で清められ守られることを望むほどの願いが出来たと言う事なのだろうか。
こくりと頷く花梨を見つめながらそんな事を考えていた泰継は、胸の内に今まで感じた事のない、不可解な気持ちが湧き起こって来るのを感じた。
――何だろう。このもやもやとした、不可解な気持ちは……。
泰継は顔を伏せて、まるで自分の内に湧き起こった感情を掴もうとするかのように、無意識に胸の上の衣を手で掴んだ。
「……泰継さん……?」
再び口を閉ざした泰継に、花梨が声を掛けた。俯いていても、彼女が気遣わしげな表情を浮かべているのが分かり、泰継は小さく息を吐いた。
「そういう事であれば、神子の務めでなくとも、呼べば供に付いたものを……」
胸に当てていた手を放し、顔を上げて泰継が言う。
花梨はその言葉を嬉しく思った。花梨とて、出来ればそうしたかったのだ。最近は神子の務めに追われて、泰継と二人きりで過ごせるのは物忌みの日くらいになっていたのだから。だが、今日はそう出来ない事情があったのだ。
こちらをじっと見つめている泰継を見つめ返し、花梨は頬を赤く染めた。
「だ…だって、『口にした願いが清められ、守られる』っていうことは、口に出して言わないと駄目なんでしょう?」
「神子の願いは、私がいては口に出せない事なのか?」
泰継が訊ねる。
その余りにも直截な問い掛けに、花梨の顔は益々真っ赤になっていく。

(泰継さんがいるところで、「泰継さんが好きだからずっと一緒にいたい」なんて言える訳ないじゃない!)

小さく頷きながら花梨は思わず心の中で叫んだ。真っ赤になった顔を見られるのが恥ずかしくて、花梨は泰継から視線を逸らすように俯いた。
花梨の泰継への気持ちは、花梨がそうと告げた訳ではないのに、いつの間にか紫姫をはじめ周囲の人間に知れ渡っていた。花梨自身、自分が感情を隠す事が下手だという自覚はあるが、そんなに自分は分かり易い人間なのだろうかと思ってしまうくらいだ。
しかし、どういう訳か、肝心の想い人は花梨の心が自分の上にある事に、全く気付いていないのだ。
他の事には敏いのに、泰継はこういう事には非常に鈍いらしい。
それはもしかしたら、彼が常に人ならぬものとして周囲の人間から恐れられていたせいなのかもしれない。
畏怖を帯びた目や、好奇の目を向けられることに余りにも慣れ過ぎていて。そして、他人から好意を寄せられることに慣れていなくて……。
――お前は私が恐くないのか?
花梨は泰継からそう訊ねられたことがあった。そして、「お前は私を恐れてもいい」と言われたこともある。
彼が自分は人から恐れられて当然なのだと思い込んでいることが、とても悲しい。
決してそうではないのだと何とかして泰継に伝えたいと思うのだが、花梨にはまだ彼に自分の気持ちを告白する勇気はなかったのだ。泰継が自分のことを大切に思ってくれている事は感じるけれど、彼が「龍神の神子」として自分を見ているのか、それとも「高倉花梨」として見てくれているのか、はっきりとした判断が出来なかったから、もしこの気持ちが彼の迷惑になったらと思うと躊躇してしまうのだ。
それに、今は龍神の神子として京を救うことのほうが先だ。そうでないと、彼が生きるこの世界自体が滅んでしまうことになるのだから。

そんな事を考えていた花梨は、泰継が再び口を噤んでしまったことに気付き、伏せていた顔を上げて泰継のほうを見た。
自分を見つめている双色の瞳に傷付いたような表情が浮かんでいるのを見て、花梨は慌てて言葉を補足する。
「あっ、あの…、別に泰継さんにだけ聞かれたくなかったんじゃなくて、誰にも聞かれたくなかったんです。だから一人で此処まで来たんだし……」
もちろん一番聞かれたくなかったのは、今目の前にいる人だったことには違いないのだが……。

花梨の言葉に、泰継は軽く目を瞠った。先程感じた不可解な気持ちの正体が判った気がした。
以前「願いがわからない」と言っていた花梨が抱くようになった、わざわざ野宮まで一人で誓願のためにやって来る程叶えたい願いとは何であるのか気になったのだ。しかも、その願いは誰にも聞かせたくないのだと言う。

――神子の願いが、もし「早く元の世界に帰りたい」というものであったら……。

そう考えると、胸に痛みが走った。
泰継は痛みを堪えるように再び胸の上を手で掴み、目を伏せた。
あの日、花梨が「元の世界に帰ることが願いだ」と答えなかったことを内心安堵していたことに、泰継は今になって気が付いた。
異世界から来た神子が元の世界に帰るのは当然のことだ。
それは分かっているのに、いつの間にか傍らに神子がいることが当たり前のようになっていた。
そして京を守るこの戦いが終わった後も、ずっと彼女と共にいられるような気がしていた。
それ程までに、神子の存在は自分の中で大きなものとなっていたのだ。

八葉の務めを終えた時、私は一体どうすればいいのだろう?
すべてが終わった後、神子は元の世界に帰り、私はまた独りになってしまう。
神子も、そして神子を守るという自らの存在意義も失ってしまう。

――耐えられない。

存在意義を失って、またいつ果てるとも知れぬ長い生をただ存在し続けることなど出来そうもない。もう、神子と出逢う前のように、自らの存在の意味を探し求めることすら出来ないのだから。
神子と出逢い、私は変わったのだと思う。
以前は、自分と同じ出自を持つ先代の地の玄武、泰明のようになりたいと望んでいた。
彼が残した書き付けからも判る、彼の優れた能力に憧れていた。
八葉に選ばれ、その任を果たして人となったという彼を、羨ましく思っていた。
自分には泰明ほどの力はないから、自らの存在の意味を与えられることもなく、決して人になることは出来ないだろうと諦めていた。このまま消える日が来るまで、ただ存在し続けるだけだと、ずっとそう思っていた。
しかし、花梨が現れた。
何事にも前向きで、この停滞した京の気を再び動かす力を持つ、私の神子……。
彼女と出逢い、存在の意味を与えられた。
そして、いつの間にか強く願うようになっていた。
彼女と共に在ることを――。


――人に、なりたい――…。
   人となって、元の世界に帰る神子と共に、神子の世界に行くことが出来たら……。


そうすれば、ずっと神子といられるのだろうか?


(もし、神子が許してくれるのであれば、私は……)



「……泰継さん……?」
苦痛を堪えるかのように僅かに顔を顰めたまま俯いてしまった泰継に、花梨は心配そうに声を掛けた。彼に黙って一人で外出したことは、それ程までに彼を傷付ける行為だったのだろうか。
「ごめんなさい……」
花梨の声に、考え事に沈んでいた泰継の意識が浮上する。再び謝罪の言葉を口にした花梨に目を瞠り、泰継は顔を上げた。
「何故、神子が謝る?」
「だ、だって、勝手に一人で出掛けちゃって、皆に心配かけちゃったし……」
「確かに、思慮が足りぬ行動だな」
そう言う泰継に、花梨はぐうの音も出なかった。しかし、泰継の表情を見て、少し安心する。さっき彼が浮かべていた苦しそうな表情が、すでに消えていたからだ。
「だが、無事で良かった……」
優しい笑みを浮かべ、心底安堵したように話す泰継に、花梨は申し訳ない気持ちで一杯になった。
「ご…ごめんなさい……!」
「もういい」
泣き出しそうな表情で謝る花梨に、泰継が言う。
「しかし、二度はするな。外出したいのであれば、必ず私を呼べ」
真摯な表情で告げる泰継に、花梨は言葉もなくただ頷くだけだった。
緑色の瞳が潤んでいる。少しは反省したという事だろうか。
神妙な表情で花梨が頷くのを確認した泰継は、小さく息を吐いた。
「では、行くぞ」
花梨を促すと、泰継は踵を返して歩き始めた。
それを見た花梨は驚いた。てっきりこのまま紫姫の館に連れ戻されるものと思っていたのに、彼は野宮に向って歩き始めたのだ。
「えっ? 泰継さん!?」
一瞬ぽかんとして泰継の背中を見つめていた花梨は、慌てて彼を呼び止めた。数歩歩いたところで泰継が立ち止まり、花梨のほうを振り返る。
「何だ?」
「館に帰るんじゃなかったんですか?」
「願いがあって、此処に来たのだろう? 私は神子が供も連れずに一人で行動したことを諌めているだけだ。祈願することを止めろと言っている訳ではない。それとも、せっかく此処まで来て、このまま帰りたいのか?」
つまり、付いて来てくれるということだ。それは嬉しいのだが……。
「で、でもっ!」

(泰継さんがいるところで言えないよ〜っ)

花梨は再び頬を赤らめた。
「心配いらぬ。私は離れているから、存分に祈願してくれば良い」
花梨の心の中の叫びが聞こえたかのように泰継が言った。
花梨の願いが何であっても、やはり彼女が望むのであれば叶えてやりたいと泰継は思うのだ。
微かに笑みを浮かべた泰継の顔を見つめたまま、ぱちぱちと瞬きした花梨は、やがて花開くように微笑んだ。
「ありがとう……」
頬をうっすらと赤らめて微笑む花梨を、泰継は眩しそうに目を細めて見つめた。
この笑顔を自分だけのものにしたいと、他の誰にも見せたくないと、そう思った自分自身に、泰継は苦笑した。
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