願い−1−
「では神子様。今日はごゆるりとお過ごしくださいませね」

そう言って部屋を出て行く紫姫に「そうさせてもらうね」と答えた花梨は、遠ざかって行く衣擦れの音が聞こえなくなったのを確認してにやりと笑った。



「今日はお休みにしたいの」

今朝、いつものように今日の予定を聞くため自分の元を訪れた紫姫に、花梨はそう告げたのだ。
「別に身体の調子が悪いって言う訳じゃないから、心配しないで」
花梨は心配そうな表情を浮かべる紫姫を安心させるため、笑顔でそう言った。
突然休みが取りたいと言い出した花梨の言葉に、紫姫が花梨の身体を心配したのは無理もないことだった。花梨は龍神の神子の務めに熱心で、物忌みの日以外はほとんど毎日のように八葉たちを連れて散策に出掛けていたのだ。毎日出掛けては疲れるだろうと、「たまにはお休みを取られては」と彼女に勧めていたのは紫姫のほうだった。もっともその進言はいつも「大丈夫!」との神子の言葉に一蹴されてしまうのだが。
せっかく花梨が自分から休むと言っているのだから、これからもっと過酷になるかもしれない戦いに備えて、休める時に少しでも身体を休めておいたほうが良いだろう。
すでに東の札を手に入れ、北の札についても玄武の二人と共に金剛夜叉明王の課題も終えて、後は北の祠への道が開く十二月一日に再び泉水と泰継と共に北山を訪れれば良いだけとなっていた。一日くらい神子の務めを休む事には、なんら問題はなかったのだ。
「わかりましたわ」
紫姫は頷きながらそう答え、館に来ていた八葉たちに今日は花梨が休みを取る事を伝えるために部屋を出て行ったのだった。

遠ざかって行く衣擦れの音を聞きながら、花梨は笑みを浮かべていた。

――これでようやく一人きりになれる。


花梨が今日、久しぶりに龍神の神子の務めを休む事にしたのには、実は訳があった。
どうしても一人で行きたい場所があったのだ。
しかし、紫姫や八葉たちが、花梨が一人で外出することを許すはずがなく、考えた末、花梨は休みを取ってこの館を抜け出し、一人で目的地に向かうことにしたのだ。
ちょうど、いつも庭で警護に当たっている頼忠が、昨日から武士団の棟梁に呼び出されて留守にしている。花梨は、この絶好の機会に計画を実行に移すことにしたのだった。

(あそこの怨霊はこの前封印したから、一人で行っても大丈夫だし……)

そんなことを考えていた花梨だったのだが――…


「神子」
「きゃあっ!」
突然掛けられた静かな声に、花梨は飛び上がるほど驚いた。思わず背筋がピンと伸びる。
「やっ、泰継さん!?」
恐る恐る声がしたほうに顔を向けると、いつの間にそこにいたのか、庇に泰継が立っていた。
「私だが……。何故そのように驚く?」
騒々しいと言わんばかりに一瞬だけ顔を顰めた泰継だったが、すぐにいつもの無表情に戻ると、花梨の傍に近付いた。
「だって、泰継さん。気配が全くしないんだもの」
足音も衣擦れの音もほとんどさせない泰継に驚かされることは多い。しかし、今回はそれだけではなく、花梨の心に少しばかりの疾しい気持ちがあったので、突然の彼の登場にいつも以上に驚いたのだ。
――ちょうど、館を抜け出そうと考えていたところだったから。
「神子は私だけでなく、誰の気配にも無頓着だろう」
座っている花梨を立ったまま見下ろしながら、泰継が答えた。その言葉に花梨は返す言葉がなかった。「うっ」と言葉に詰まったまま黙り込む。事実とは言え、大好きな人の口から出た言葉に少し恨めしい気分になる。
「……神子?」
黙り込んでしまった花梨のすぐ目の前に膝をついた泰継は、じっと花梨の瞳を見つめた。
間近で想い人の澄んだ双眸に見つめられた花梨の鼓動は、一気に速くなった。花梨は泰継のこの双色の瞳に弱いのだ。彼に見つめられると、まるで彼の瞳に縫い付けられたように、視線を逸らすことが出来なくなってしまうのだった。
「少し、気が乱れているな……」
呼吸するのも忘れるくらい泰継の瞳に見惚れていた花梨は、続く泰継の行動に我に返り、大きな緑色の目をこれ以上ないくらい見開いた。
「やっ、泰継さん!?」
突然泰継の手が伸びて来て、花梨の額に触れたのだ。驚きの表情を浮かべた花梨の顔が真っ赤に染まる。心臓が早鐘を打った。
自分が触れたことにより更に大きく気を乱した花梨に構わず、泰継は彼女の額に手を触れたまま呪を唱え始めた。
(あ……。温かい……)
額に触れた手から伝わって来る温もりに、花梨の目蓋は自然に閉じられた。耳に心地良く響く声に、さっき乱れた心が落ち着いて来るのが分かる。好きな人に突然触れられて高鳴った鼓動が、次第に収まって来るのを感じた。
花梨の気が落ち着いたのを感じ取り、泰継は呪を唱えるのを止め、彼女の額に触れていた手をすっと下ろした。小さく安堵の息を吐く。
泰継の手が離れて行くのを感じ、花梨はゆっくりと目を開けた。間近で自分の顔を見つめている泰継と目が合った。
「東の祠には強い怨霊が置かれていたと聞く。北の祠も恐らく同じだろう。北の札を取りに行く日に備えて、今のうちに身体を休めておいたほうが良い。今日はゆるりと休め」
「はい……」
泰継の言葉に花梨ははにかんだ笑顔で素直に頷いた。自分の事を気遣ってくれる彼の言葉が嬉しかった。
しかし、同時に少し後ろめたい気持ちになった。休むどころか、こっそり外出しようとしているのだから……。
だが、身体を休める必要があるのは、泰継も同じだと花梨は思う。
北の札を手に入れるために玄武の二人と行動する必要があったのは事実だが、結局「いつでも呼べ」と言ってくれた彼の言葉に甘え、このところ毎日のように朝迎えに来た泰継と共に外出していたのだ。毎日散策に出掛け、怨霊と戦っているとは言え、実際に戦うのは泰継たち八葉だ。疲れていないはずはないだろう。
それに、夕刻館に帰れば翌朝までゆっくり休むことが出来る花梨とは違い、泰継は花梨を館に送り届け、帰る前に館の清めを行った後、安倍家から依頼された仕事に出掛けることも多いと聞いている。
花梨の事はこんなに気遣ってくれるのに、彼は自分の身体には余りにも無頓着なのだ。
それが、彼が常に人ではない自分を自ら戒め、神子の道具たらんとしているせいであることは花梨も知っている。しかし、もっと自分を大事にして欲しいと花梨は思ってしまうのだ。
(泰継さんのことが誰よりも大切だから……。彼の代わりには誰もなれないから……)
泰継の顔を見つめながらそんなことを考えていた花梨は、いつしか我知らず心配そうな表情を浮かべていた。
「……神子?」
神子の様子を見るという目的を達し、退出するために立ち上がろうとした泰継は、花梨の表情の変化に気付いて声を掛けた。再びその場に膝をつくと、花梨の顔色を窺うように見つめた。
「泰継さんも、今日はゆっくり休んで下さいね」
じっとこちらを見つめたまま告げられた言葉に、泰継が目を瞠る。それは思いがけない言葉だったのだ。
「北の札を取りに行く時、泰継さんの力を借りなくちゃいけないから……。休む必要があるのは、泰継さんも同じですよ?」
心配そうに自分を見つめる花梨の視線を受け止めた泰継は、彼にしては珍しく、困惑したような複雑な表情を浮かべた。生まれてこの方、こんな風に誰かから心配されたことなどなかったのだ。
「だが、私は……」
「『人じゃないから休む必要はない』なんて言わないで下さいね」
泰継が言おうとした事を予測したように花梨が言う。
「泰継さんは自分で気付いていないのかもしれないけど、私には最近泰継さんが疲れているんじゃないかって思えるの」
花梨の指摘に泰継が僅かに顔を強張らせた。
「毎日一緒に出掛けてもらっていたし……。それに、夜は自分のお仕事もしているんでしょう? 私より泰継さんのほうがお休みを取る必要があると思いますよ?」
花梨はじっと泰継の双眸を見つめた。泰継が最も感情を表すのは瞳だと、花梨は彼と過ごすうちに気が付いていた。今、彼の瞳はどんな表情を浮かべているのだろうか。
だが、泰継の瞳の奥深くを探るように見つめても、花梨にはそれを読み取ることが出来なかった。その時泰継が双色の瞳に宿していた表情が、余りに複雑過ぎて……。
「無理しないで下さい……」
心配そうな表情で見つめてくる花梨を、泰継はじっと見つめていた。
神子のこの表情は苦手だ。
彼女が本当に自分の事を心配してくれていることを感じ、温かい気持ちにはなるのだが、それと同時に神子にこのような表情をさせてしまう自分が不甲斐無く感じられるからだ。
神子には、いつも笑顔でいて欲しいと思うのに……。
視線を花梨の顔から床についた自身の右手に落とした泰継は、無意識に拳を作っていた。
「……泰継さん…?」
俯いたまま黙り込んでしまった泰継に、花梨が気遣わしげに声を掛けた。
「……わかった」
小さく息を吐いた後、泰継は答えた。その答えに、花梨が微笑む。
「よかった……。今日はちゃんと休んで下さいね」
泰継は頷きながら、ゆっくりと立ち上がった。
「では、私はこれで失礼する。念のため、館は清めておく」
そう言うと戸口へと足を向けた。
「あ…泰継さん!」
遠ざかって行く泰継の背中を見つめていた花梨は、思わず彼を呼び止めていた。さっき彼が瞳に宿していた複雑な感情が何だったのか気に掛かって、考えるより先に泰継の名を呼んでいたのだ。
「何だ?」
名を呼ばれて振り返った泰継の顔には、今は何の表情も浮かんではいなかった。それを見た花梨は、彼に問い掛けることが出来なくなった。もじもじと身動ぎすると、膝の上に載せていた両手で無意識に水干を掴む。
「えっ…えっと……。明日も来てくれますか?」
他に用があって声を掛けた訳ではなかったので、花梨は慌てて取り繕った。慌てたせいか思わず本音が出てしまう。「休んで欲しい」と言いつつ毎日顔を見せて欲しいと思う矛盾した気持ちに、花梨は心の中で苦笑した。
花梨の言葉に泰継が目を瞠る。そんな事は、泰継にとっては言われるまでもない事だった。
「お前が望むなら」
うっすらと微笑みを浮かべてそう答える泰継に、花梨の顔にも笑みが広がって行く。彼が今日初めて微笑みを見せてくれた事が嬉しくて、花梨も笑顔で応えた。
「待ってますから」
嬉しそうな笑顔でそう答える花梨に頷くと、泰継は再び戸口に足を向け、振り向くことなく部屋を出て行った。
その背中を見送りながら、花梨は小さく笑った。
先日の物忌み前夜、花梨が翡翠に文を送ろうとしていたことを知り、初めて嫉妬を含んだ言葉を漏らした泰継に、「もしかしたら」と期待した花梨だったが、あれ以来泰継からは決定的な事は何も言われていなかった。最初から片想いを覚悟していた恋だった上、相手が相手なので、全く進展しない泰継との関係にも焦りを感じた事はなかったが、やはり少し淋しい気がする。
だが、もし彼が自分を「龍神の神子」としてしか見ていなかったとしても、花梨の気持ちは変わることはない。
それに、他の八葉と出掛ける日も休みを取った日も、彼はこうして一度は花梨の元を訪れ、気遣ってくれる。花梨にはそれだけで充分だったのだ。
恐らく彼も自分と同じ気持ちを抱いてくれていると、そう信じられるから……。
すでに花梨の心は決まっている。
だから、今日、一人であの場所を訪れようと決めたのだ。
誰もいなくなった部屋で一人笑みを零した花梨は、館の清めを終えて泰継が帰ったのを確認してから、此処を抜け出すことにした。





◇ ◇ ◇





野宮―――


新帝即位の際、初斎院での精進潔斎を終えた斎王が伊勢神宮に移るまでの一年間、潔斎のために過ごすための宮である。柴垣を廻らし黒木で造られた鳥居を持つ、内親王が住まうには質素な作りの建物だ。
その黒木の鳥居の前に、泰継は立っていた。

今朝神子の部屋を退出し、館の清めを行った後、泰継は気を整えるために火之御子社へ行くつもりだった。
それが、気が付けば此処へ足が向いていたのだ。
何故、この野宮にやって来たのか、自分でも判らなかった。この地の属性は火。土属性の八葉である泰継が力を得るには都合が良い土地ではあるが、やはり玄武の守護地にある火之御子社とでは比べものにならない。
――何故、此処に来たのだろう?
以前の泰継であれば、自らの行動に説明が付かないなど、考えられなかった事だ。目的もなく行動する事などあり得ない事だったから。
しかし最近、自分の行動に自ら「何故」と問うことが多いような気がする。
最近…と言うより、八葉となってから、いや、神子と出逢ってから、と言ったほうが正しいだろう。
そういう時は、大抵の場合、神子が絡んでいるのだ。
京を救うため、龍神により異世界から召喚された少女――…。
最初のうちはただ八葉の務めとして守護するだけだと思っていた彼女の存在が、自分の中で日増しに大きくなっていくのを感じる。
そして、気が付けばいつも神子のことを考えている――。
こんなことは、生まれて初めてのことだった。
泰継は小さく溜息を吐いた。


風に煽られ目に覆い被さるように揺れている前髪を払うこともせず、泰継はじっと鳥居の前に立ち尽くしていた。
微風が鳥居の脇にある竹林を揺らすたび、竹の葉が囁くような音を立てている。


『私には最近泰継さんが疲れているんじゃないかって思えるの』

葉擦れの音を捉えていた耳に、今朝の神子の言葉が蘇る。

――驚いた。

まさか、気付かれているとは思わなかったのだ。最も知られたくなかった人物なのに……。
自分の中で神子の存在が大きくなっていくにつれ、身の内の過剰な陰の気が乱され、力が失われていくような感覚に襲われるようになった。毎日ごく僅かずつではあるが、確実に陰陽の力が失われていっているのを感じる。
「疲れる」という感覚は人ではない泰継にはよく判らないのだが、花梨の言う通り、この感覚はもしかしたら人が疲れるのと同じようなものなのかもしれない。
だから最近泰継は花梨を送り届けた後、毎日のように火之御子社を訪れ、乱れがちな自らの気を整えていたのだ。八葉の務めに支障を来たさないように。そして、神子を守ることが出来るように。
特に北の札を手にするために行動している現在、自分の不調を誰にも、取り分け神子にだけは知られぬよう、いつもと同じように振舞っていたつもりだった。
よりによって、神子に感付かれてしまうとは……。

再び嘆息した泰継は、ゆっくりと空を見上げた。
秋晴れの蒼穹に雲は無く、陽光が眩しいくらいに降り注いでいる。もう雪が積もっていてもおかしくない時期なのに、季節を留められた京に冬はまだやって来ない。
空を仰いだまま、泰継は目を閉じた。

このまま力が失われていけば、八葉としての務めを果たすことも叶わぬまま、消える日が来てしまうかもしれない。


消えたくない――…。


以前は自らの存在が消え去ることに対して、何の感慨を抱くこともなく受け止めていたが、今ははっきりとそう思う。

泰継は閉じていた目をゆっくりと開いた。
数羽の鳥が飛んで行くのが視界に映った。
ぼんやりとそれを見送りながら、泰継は自分に問うてみる。

何故だ?
何故消えたくない?
消えれば、八葉の務めを果たすことが出来ないからか……?

いや、違う。それだけではない。


「神子に、会えなくなるからだ……」


ぽつりと呟かれた言葉が、風に乗って空に広がり消えていった。



『明日も来てくれますか?』

微笑みを浮かべてそう訊ねる花梨に、「お前が望むなら」と答えた自分――…。

嘘だ。
神子が望んでいるからではない。
私が、神子に会いたいと…毎日神子の顔を見、言葉を交わしたいと、そう望んでいるからだ。

つい一刻ほど前に別れたばかりなのに、もう神子の事を考えている。
泰継は自嘲を帯びた笑みを浮かべた。
自らの神子への想いを自覚するのと同時に始まった力の消失――…。
これはやはり、龍神が選んだ斎姫に邪な想いを抱いた者に対して神が下した罰なのだろうか。
それとも、人ではないものが身の程知らずの想いを抱いてしまったせいなのか……。


――それでも、想いは止められない。


ずっと彼女の傍にいて、くるくるとよく表情が変わる顔を見つめ、自分の名を呼ぶ彼女の声を聞いていたい――。
いつの間にか強くそう願うようになっていた。

(今は、何をしているのだろうか……)

これからの戦いに備えて今日は休養を取ると、花梨は言っていた。
ちゃんと部屋で休んでいるだろうか。

「………」

しばらく逡巡した後、泰継は懐から式符を取り出した。
呪を唱えると、式符は白い小鳥に変化し、泰継が差し出した指先に止まった。微かに白い羽を震わせる小鳥を見つめた泰継は、その手を目の高さより少し高い位置に掲げた。

「行け!」

――そして、神子の様子を私に伝えよ。


主の命に応えるように一声鳴いて左京四条の方角へと飛び去る式神を、泰継はいつまでも見送っていた。








その頃、首尾よく紫姫の館を抜け出した花梨は、小走りで目的地に向かっていた。抜け出したのがばれないうちに館に戻らないと、紫姫にまた心配をかけてしまう。自分よりも年下なのに星の一族としての役割を立派に務めている紫姫に、なるべく心配はかけたくない。
だが、彼女が心配すると分かっていても、今日はどうしても一人で出掛けたかったのだ。

(ごめんね、紫姫)

心の中で何度も謝りつつ、それでも足は目的地に向かっていた。


花梨が向かっていたのは、初めて泰継と二人きりで出掛けた場所だった。
京に来てから数日間はずっと彼と二人だけで行動していたので、厳密に言うと初めて二人で出掛けた場所という訳ではない。だが、花梨にとっては重要な場所だった。
それは、八葉の務めに熱心な泰継が、初めて京を救うという神子と八葉の務め以外の目的で、花梨を誘って連れて行ってくれた場所だったからだ。花梨にとっては、言わば初デートのようなものだった。
もっとも、初デートと言うには甘さの欠片もなかったのだが……。

その時の泰継の表情を思い出し、花梨はくすりと笑った。
いつも冷静で滅多な事では表情を動かすことがない、美しくて有能な陰陽師――。
出逢った時からずっと、彼は花梨のことを守ってくれていた。突然違う世界に連れて来られて戸惑う花梨を、いつも傍にいて支えてくれた。彼がいてくれたから、慣れないこの京で、これまで頑張って来ることが出来たのだと思う。
京に来た頃は、ずっと元の世界に帰りたくて、龍神の神子の務めもそのためにやっていたようなものだった。だが、紫姫や八葉たちと過ごすうちに、彼らが生きて来たこの京を守りたいと思うようになっていた。
そして、何よりも――…

『よくやったな、神子』

微笑みながらそう言って労ってくれる泰継の柔らかな表情が見たくて、神子としての務めも積極的に果たしてきたつもりだ。
龍神の神子としては失格なのかもしれないけれど、ただ、彼に誉めてもらいたくて……。
いつの間にか、自分の中で、泰継の存在がどんどん大きくなっていることに花梨は気が付いた。


そして、花梨の中に一つの願いが生まれた。


『お前の願いを教えてくれ』

あの日、泰継にそう問われ、「わからない」と花梨は答えた。
何故「元の世界に帰ることだ」と答えなかったのか、自分でも不思議に思う。あの頃は、ただそれだけが願いだったはずなのに……。
今にして思えば、恐らくその時すでに自分の内にこの想いが芽生えていたのだろうと花梨は思う。その想いが無意識に働いて、元の世界に帰ることが願いだと答えさせなかったのだろう。

元の世界に帰ってしまえば、もう二度と彼と会うことは叶わないから……。

真っ直ぐに見つめてくるあの綺麗な双色の瞳も
絹糸のような翡翠色の髪も
すらりとした姿勢の良い立ち姿も
二度と見ることが出来ない――。

それに――…

『神子……』

耳に心地良く響く、あの低く落ち着いた声も、二度と聞くことが出来ない。

――耐えられない。

そう、思った。


(泰継さんが好き。だから、ずっと一緒にいたい……)


今まで、他の誰に対しても抱いたことがなかった想い。
そして、今では、元の世界に帰ることよりも遥かに大きくなってしまった願い――…。


我が儘な願いなのは分かっているけれど、それでも叶えて欲しいと思ってしまう。


『此処は誓願の地。この地で口にした願いは清められ、守られる……』

あの時、泰継はそう言った。
あの時は、自分が本当は何を願っているのか分からなかったけれど、今は――…。

(泰継さんが言った通りなら、あの場所で祈れば叶うかもしれない……)

気休めに過ぎないかもしれないが、今の花梨にとっては、この願いが叶うのならどんな小さな事でも試してみたいと思う。


目的地が近くなり、花梨の歩行速度が無意識に速くなる。
あと少しで到着すると思うと、自然と顔が綻んだ。
真っ直ぐに前を見据え、自分を奮い立たせるように更に歩く速度を速めた。



誓願の地、野宮へ――…。
novels' index next top