星月夜−2−
すべての戦いが終わった神泉苑――。


先程まで空を覆っていた厚く不気味な黒雲は、神子が龍神を呼び、百鬼夜行が完全に祓われたのと同時に消滅し、神泉苑の広大な泉に今は太陽の光が燦々と降り注いでいた。

京の平和を象徴するかのような陽光は、役目を終えた神子と別離の時を迎えようとしている彼らの上にも、優しく包み込むように降り注いでいた。



別れの挨拶をする花梨の周りに、皆が集まっている。
幸鷹は、その輪の中からこっそりと抜け出した。察しの良い翡翠がそれに気付いたようだが、何も言わず気付かないふりをしているようだった。
彼らに背を向けた幸鷹は、懐に手を入れ、文の所在を確認した。
神子が元の世界に帰る時、向こうの世界にいる実の両親に渡してもらおうと、書き認めておいた訣別の手紙――。
彼女に渡す機会を狙って、ここ数日の間ずっと持ち歩いていたのだが、とうとう渡せずにこの日を迎えてしまった。
本当は、神子にこの文を託したかったのだが、この状態では、他の者に知られないように彼女と話すのは無理のようだ。
そこで幸鷹は、花梨と共に向こうの世界へ旅立つ決意をした泰継に、文を託すことにした。彼なら、自分の事情をよく知っている。それに、一度約束した事は決して違えない人物だ。それはこの三ヶ月余りの間、彼と共に行動してよく判った。彼ならきっと、この文を届けてくれるだろう。
幸鷹は、泰継の方に目を遣った。
泰継は花梨を囲む皆の輪の中には入らず、離れた場所に独り佇んでいた。其処から、皆と別れを惜しんでいる花梨を静かに見守っている。
その表情を見て、幸鷹は目を瞠った。
そこに浮かんでいたのは、いつもの人形のような無表情ではなく、幸鷹が終ぞ見たことのなかった柔らかな、愛する者を見守る優しい微笑みだったのだ。
それを見た幸鷹の口元が綻んだ。
神子と出逢い、彼は変わったと思う。いや、彼だけではない。彼女と出逢って自分も、そして他の八葉たちにも良い変化があったようだ。
彼女は、やはり龍神の神子――。
京だけでなく、京に住まう者すべてを救うため、この世界に舞い降りた存在だったのだろう。ちょうど、彰紋が彼女のことを「天女」に喩えたように。
その天女の心を捉えたのが泰継だった。
昔話では、天女に心を囚われた男は、天女の羽衣を奪い自分の元へ引き止めたというが、彼はすべてを捨てて天へ還る彼女に付いて行くと言うのだ。
この世界に生まれながら、愛する者のために異世界へ旅立つ決意をした泰継と、異世界に生まれながら、此処に残る決意をした自分――。
幸鷹は、己の生と彼の生を思った。
なんという数奇な巡り合わせであるのか、と……。

幸鷹は口元に微かに浮かべていた笑みを消して、表情を改めると、静かに泰継の方に歩み寄った。
幸鷹が声を掛ける前に、泰継が幸鷹に視線を向けた。こちらを振り向いた美貌には、既に先程の微笑みは無く、いつもの無表情に戻っていた。幸鷹は、何故かそれを少し残念に思った。
「泰継殿。話があるのです。少しよろしいでしょうか」
幸鷹の言葉に、泰継はちらりと花梨たちがいる方を見て、誰もこちらを気にしていないのを確認してから「分かった」と短く答えた。幸鷹が自分に話があるとすれば、彼の秘密に関わる事だと思ったのだ。
泰継が促し、二人は皆から離れて泉のほとりに移動した。


つい先程まで不吉な風に波立っていた水面は、今は穏やかに凪ぎ、陽光を反射してきらきらと輝いていた。
それに一瞬だけ目を遣った後、幸鷹は隣に立つ泰継に向き直った。
「泰継殿。あなたにお願いがあるのです」
真剣な面持ちでそう切り出した幸鷹に、泰継は怪訝そうな表情を浮かべた。
それを見た幸鷹は懐に手を入れ、両親宛ての文と、自分の家族を探し当てるための情報を書き記した紙を取り出した。
「あなたは神子殿と共に、神子殿の世界に旅立たれる。――無事向こうに着いたら、向こうの世界にいる私の両親に、この文を届けて頂けないでしょうか」
幸鷹の言葉に、泰継は目を瞠った。
「このような願いは、もしかしたら龍神は許してはくれないかもしれません」
幸鷹は、一度手の中の文に視線を落とした後、顔を上げて泰継を見た。
「ですが、もし、あちらの世界にこの文を届けることを龍神が許してくれるのであれば……」
「――お前は、自分の世界に帰らぬつもりなのか?」
左右色違いの瞳が、真っ直ぐに幸鷹を見据えていた。
幸鷹は、その強い視線から目を逸らすことなく受け止めた。
「…はい……」
「何故だ?お前は神子と同じ世界から来たのだろう。帰りたくはないのか?」
頷きながらはっきりと答える幸鷹に、間髪を入れずに泰継が問う。幸鷹はその視線から逃れるように目を伏せ、無意識に手にした文を握り締めた。

幸鷹が京に残るということは、自分が生まれ育った世界を捨てるということだ。自分の世界を捨てるという点では、今日を限りに京を捨て、神子の世界で生きて行こうとしている泰継も同じだった。
しかし、やはり泰継には、自分の場合とは違うような気がしてならなかったのだ。
幸鷹は自分の意志で京に来た訳ではない。黒龍の神子の力により、無理遣りこの世界に引き摺り込まれたのだ。京に残る必要などないはずだ。
此処は、彼の在るべき場所ではない。
当然、幸鷹も自分の在るべき世界へ帰るものと思っていた泰継は、彼の決意に疑問を感じたのだった。

「……帰りたくない訳ではありません」
泰継の問い掛けに、しばらくの間沈黙した幸鷹は、目を伏せたまま答えた。
「では、何故?」
さらに追及してくる泰継に、幸鷹は伏せていた顔を上げ、再び泰継の真っ直ぐな視線を受け止めた。
幸鷹の心を見抜こうとするかのように、琥珀と翡翠の瞳がじっと見つめている。
不躾とも言えるその鋭い視線を受け止めながら、幸鷹はこれまでの事を思った。

生まれた世界で、幸鷹は十五年間過ごした。しかし学者だった両親の仕事の都合で、その大半を日本ではなくヨーロッパで過ごしたのだ。そして十五歳の時、日本の大学に客員教授として招かれた両親と共に日本に帰国した直後、この京に召喚されたのだった。
京に来た当初、記憶に混乱を来たしていた自分に、異世界での記憶を封じ、京で生まれ育った人間としての作られた記憶に塗り替えるまじないを施したのが、今目の前にいる陰陽師だ。
彼と共に自分が八葉に選ばれたのも、自分と同じ世界の少女が京を救う龍神の神子に選ばれたのも、すべて龍神の計らいだったのだろう。
神に作られし運命に、皆翻弄されて……。
しかし、そんな中でも、父母が注いでくれた愛情は本物だったと幸鷹は思う。
自分を息子にと望んでくれた父と母――…。
彼らは、知らない世界に迷い込んだ幸鷹を拾い、自分たちの子供として愛情を持って育ててくれた。安倍家に依頼し、幸鷹の記憶を操作したのも、自分を思ってのことだったのだろうと幸鷹は理解している。
だからこそ、母を置いては行けないと思った。
昨年父を亡くし、力を落としている母を置いては……。
血の繋がりがないとは言え、母の子は自分しかいないのだから。

沈黙したまま向かい合う二人の間を、水面を渡って来た風が吹き抜けて行く。
穏やかだが冬の冷たさを含んだ風は、京を守る戦いを終えたばかりの身体には心地良く感じられた。
その風に煽られ乱される髪を押さえようともせず、幸鷹は徐に口を開いた。
「母を置いては行けません……」
幸鷹の言葉に、泰継が訝しげな表情を見せた。幸鷹が言う「母」が、彼の生みの母ではないことを知っているからだろう。泰継の疑問に答えるように、幸鷹は言葉を継いだ。
「あなたもご存知の通り、私は十五の時に京へやって来ました。あれから八年――。藤原の父母は、本当に自分たちの息子のように、私を育ててくれました。そして、この京が、今の私を育んでくれました……」
幸鷹は一旦言葉を切り、泉の方に視線を遣った。
神子と共に守った京――。
穢れが祓われ、明るい新年を迎えようとしている京を象徴するかのように、水面も、そして辺りの雪景色も、太陽の光を反射して輝いている。
眩しげに目を細めてそれらを眺めながら、幸鷹は言った。
「私にとっては、向こうの世界も京も、どちらも大切な故郷です。そして、向こうの世界にいる実の両親も、今の両親も、どちらも大切な私の両親なのです」
「それでも、京に残ることを選ぶと?」
そう問い掛ける泰継に、幸鷹は泉を見つめたまま答えた。
「私がこの世界で生きてきた時間は、本当の記憶を取り戻した後も消えたりしません。元の世界に帰ったとしても、恐らく忘れることはないでしょう。……記憶を取り戻した後、ここに残るかそれとも帰るか、随分悩みました。どちらかを選べば、もう片方を裏切り傷付けることになってしまいますから……」
独り言のように語る幸鷹の横顔を見つめたまま、泰継は彼の言葉を聞いていた。

風が、二人の髪を揺らす。
不意に、何処からか甲高い鳥の鳴き声が聞こえて来て、幸鷹は口を閉ざし空に視線を向けた。
遠くの空に、北山の方角へと飛んで行く数羽の鳥の姿が見えた。
あの鳥たちは、自分たちが帰るべき場所へ帰るのだろうか。

――自分が帰るべき場所……。

(私が帰るべき場所は……)

幸鷹は、ゆっくりと泰継の方を振り向いた。

「この京にいる間に、私は様々な責任や義務を負いました。それらを放って元の世界に帰ってもいいのかと考えて……。そして気付いたのです。今では、此処が私の帰る場所なのだと」
幸鷹は微かに口元を綻ばせた後、真顔に戻って言った。


「――私は、京に残ります」


泰継は幸鷹の瞳を真っ直ぐに見つめ、彼の言葉を聞いていた。
水面を渡って来た風が、泰継の瞳を見据えて決意を語る幸鷹の髪を揺らしている。
眼鏡越しに見つめるその瞳の揺るぎ無さに、泰継は幸鷹の決意の固さを見て取った。目を伏せて小さく息を吐く。
「本来であれば、お前が京に残ることは理を乱すこと故、陰陽師として見逃すわけにはいかぬのだが……」
泰継の言葉に幸鷹が目を瞠った。
それを見た泰継が、僅かに笑みを浮かべて言葉を継ぐ。
「京を捨て、神子と共に行こうとしている私には、お前を説得する資格はないな」
「泰継殿……」
幸鷹の顔に笑みが広がっていく。
それを見つめながら、泰継は笑みを消し真顔に戻って告げた。
「その文は、私が預かろう。時間がかかるかもしれないが、必ずお前の親御に届けると約束する」
言いながら右手を差し出す泰継に、幸鷹は頭を下げた。
「ありがとうございます……」

幸鷹は泰継に文を手渡し、両親の手掛かりを書いた紙についても簡単に説明した。これを見れば、恐らく向こうの世界の人間には通じるはずだからと。
「よろしくお願いします」
幸鷹は再び深く頭を下げた。
それを見た泰継は、渡された文を懐に入れながら、顔を上げた幸鷹に頷きかけた。そのまま、幸鷹の瞳をじっと見据える。
「……泰継殿? 何か?」
無言のままじっとこちらを見つめ、何事か考え込んでいる様子の泰継を不審に思い、幸鷹が声を掛けた。何か言いたい事があるのだが、言おうか言うまいか迷っている様に見えたのだ。泰継のこんな様子は珍しい。普段の泰継であれば、他の人間なら言い難い事もはっきりと口にするだけに、幸鷹は彼が何を言おうとしているのか気になった。

「もし――…」
やがて、泰継がゆっくりと口を開いた。
「もし、京で生きて行くために、再び元の世界での記憶を手放したいと思うのであれば、安倍家を訪ねるが良い」
泰継の言葉に、幸鷹は大きく目を見開いた。
「お前はそのような事は望まぬかも知れぬ。だが、もし、元の世界の記憶を持ったまま此処で生きて行くことが辛いと思うのであれば――」
その言葉に更に目を見開いた幸鷹は、やがて笑みを浮かべて目を伏せた。
彼は、本当に変わったと思う。
「お気遣いありがとうございます」
幸鷹は、再び視線を泰継に戻した。
「ですが、私は二度とこの記憶を封じる気はありません。元の世界のことも、実の両親のことも、今後はこの京で想って行きたいのです」
「そうか……」
軽く息を吐いて泰継が応えた。
幸鷹がそう答えるであろうことは、問い掛ける前から分かっていた事だ。それでも問わずにはいられなかった。「どちらかを選べば、もう片方を裏切り傷付けることになる」と幸鷹は言った。元の世界の記憶を保ったままでいては、彼は実の両親を裏切った事で、一生自分を責めることになるのでは、と思ったのだ。
本来であれば、此処に残るべきなのは自分のほうで、異世界へ帰るべきなのは彼のほうであったのに。
皮肉なものだと泰継は思う。
だが彼なら本当の記憶を持ったままでいても、京の人間の前で不用意に異世界の話を持ち出したりはしないだろう。龍神も、恐らく幸鷹の希望を聞き入れてくれるはずだ。京に残る事も、異世界の記憶を封じない事も。
幸鷹と泰継は、どちらからともなく視線を逸らし、泉に目を遣った。


「泰継さ〜ん! 幸鷹さん!」
名を呼ぶ声がした方を振り返ると、花梨が手を振りながら、こちらに駆けて来るのが見えた。彼女の笑顔に釣られ、幸鷹も笑みを浮かべた。
「神子殿!」
幸鷹は片手を上げて、花梨に応えた。
つい先程百鬼夜行と戦い、龍神を呼んだばかりだと言うのに、彼女はいつもと変わらず明るく元気だ。
いや、いつも以上と言ったほうが正しいかもしれない。
それは、龍神が彼女の願いを叶えたからだ。
最愛の人と共に、元の世界へ帰ることを、神が許したから……。

(良かったですね、神子殿)

花梨に淡い想いを抱いていた幸鷹だったが、今は心からそう思えた。
ふと、傍らに立つ泰継の方に視線を戻した幸鷹は、大きく目を見開いた。
元気に駆けて来る花梨を見つめる泰継の顔に浮かんでいたのは、先刻幸鷹が見たのと同じく、彼が花梨以外の誰にも向けたことのない、優しい微笑みだったのだ。
二人の元に辿り着いた花梨と泰継が見つめ合う。二人は言葉を交わさず、ただ視線を絡ませているだけだったが、幸鷹には彼らの間に存在する、神であっても切ることの出来ない絆が見えたような気がした。
二人なら、向こうの世界でも上手くやって行くことだろう。生まれた世界が違うという、人の手ではどうしようもない障害すら神を味方に付けて乗り越え、想いを成就させた二人なのだから。

(どうか、お幸せに……)

他の者たちが近付いて来るのを視界の隅に捉えながら、心の中でそう思った幸鷹は、口元を綻ばせた。




風が、別れを惜しむ者たちの間を、穏やかに吹き抜けて行った。
novels' index next back top