星月夜−1−
龍神の力により、京の穢れが祓われて約一月――…。

昨年の大晦日を以って務めを終えた龍神の神子は元の世界へ帰り、同じく務めを終えた八葉たちも元の生活に戻った。
昨秋、気の流れを留められ、ずっと冬が来ない状態が続いた京の町にも今は正しく季節は巡り、例年通り春の足音が聞こえつつあった。


京には以前と変わらぬ平和が取り戻されていた。




早春のある夜――

幸鷹は検非違使庁の一室で、部下からの報告書に目を通していた。
検非違使庁は、その長官である検非違使別当の私邸に置かれるのが慣例である。そのため、現在の検非違使庁は、幸鷹の実家である藤原家の別棟に置かれているのだ。もっとも、夏になるまでには、幸鷹はこの家から独立して邸を構えるつもりなので、その際には検非違使庁も移動させることになるのだが。
正月から立て続けに行われた宮廷儀式も一段落し、通常の仕事に戻ったとは言え、中納言と検非違使別当を兼任している幸鷹は日々忙しい。今日も朝から内裏に出仕し、中納言として朝議に参加した後、午後からは検非違使別当としての職務に当たっているのだった。
部下からの報告書に目を通すのは、毎夜の幸鷹の日課である。日中は自らも市井に出ることが多いため、書類の作成や確認は、どうしても夜になってしまうのだ。
しかし、幸鷹は、書類に目を通すのは夜のほうが良いと思っている。誰も居なくなった静かな部屋で読むほうが捗るからだ。
今宵も既に部下たちの姿はなく、室内に居るのは幸鷹だけとなっていた。



「幸鷹殿。失礼致します」

書類に目を通していた幸鷹は、室外から掛けられた声に顔を上げ、視線を妻戸の方に移した。
妻戸を開けて室内に入って来たのは、頼忠だった。

「遅くまでご苦労でしたね、頼忠」
「いえ。これも仕事のうちですので」
幸鷹の労いの言葉に軽く一礼をしながら、頼忠が答えた。幸鷹が向かっていた文机の傍に近付いた頼忠は、持って来た書類を幸鷹に手渡した。読んでいた書類を一旦机の上に置き、それを受け取りながら幸鷹が訊ねた。
「市井の様子はどうですか?」
「はい。最近は特に問題も起きていないようです」
「そうですか」
幸鷹は頼忠から受け取った書類をぱらぱらと捲った後、文机の上に置いた。その時起きた僅かな空気の動きが、文机の傍に置かれた燈台の炎を幽かに揺らせた。

頼忠が所属している源氏の武士団の仕事は、院御所の警備と院の警護が中心だが、貴族や要人の護衛も請け負っている。そしてその他にも、院の命令で検非違使たちと連携して、京の町の治安維持に当たることもあるのだ。
今夜頼忠が幸鷹の私邸を訪れたのも、その報告のためであった。


「そう言えば、昼間の見回り中に勝真と会ったのですが……」
報告書を提出し終え、すぐに棟梁の館の警備に戻ると言う頼忠を見送ろうと、幸鷹が彼と共に部屋を出て歩き始めた時、頼忠がそう切り出した。
勝真は八葉の務めを終えた後も以前と変わらず、京職として京の町の見回りを自主的に行っているのだ。幸鷹も検非違使たちと共に市井に出た時、何度か彼に出会った事があった。同じ青龍の加護を受けた八葉同士、頼忠と勝真は今も共に行動する事があるとも聞いている。
「『白河に入っても見咎められる事がなくなった』と言っていました」
まだ帝と院が対立していた頃、貴族を始め京の町全体が帝側、院側に分かれて対立していた。勝真は帝側に属する貴族だったので、以前は白河など院の勢力地に入ると、警備をしている武士たちと揉め事になることが多かったのだ。それは、院側に属していた頼忠や幸鷹が帝の勢力地を訪れた時も同じだった。
「そうですか。実は今では私も、自由に図書寮を訪れることが出来るようになったのですよ」
二人並んで簀子の上を歩きながら、幸鷹は答えた。
「内裏の貴族の間でも、徐々に以前の対立が収まってきているようです。帝と院が直接お話になったということが、やはり大きな影響を与えているようですね。すぐに対立がなくなるとは思えませんが、時間が解決してくれるでしょう」
「――神子殿のおかげ…ですね」
頼忠が漏らした言葉に、幸鷹は頼忠の顔を見上げた。神子の事を話す時だけ、この無口で表情の変化の少ない武士の瞳が優しく輝く事を、幸鷹は知っていた。今も彼の表情は、一瞬だけ柔らかくなったのだ。
恐らく彼も、自分と同じ想いを抱いていたのだろう。
神子に、叶わぬ想いを……。
幸鷹の視線に気付いた頼忠が、こちらを振り向く。二人は同時に立ち止まった。
「そうですね。神子殿が帝と院に仕掛けられた呪詛を祓い、京の穢れを祓って下さいましたから、在るべき方向へ物事が落ち着いたのでしょう」
「あの方が、この京を、そして京の民を救って下さいました」

(そして、私自身をも……)

頼忠は、心の中でそう付け加える。
あの事件以来、死ぬために生きてきた頼忠に「生きたい」と思わせたのは、花梨だった。
だからこそ――…。

「だからこそ、神子殿が守って下さったこの京を、これからも守って行きたいと思うのです」
「私もそう思っています。皆、同じ気持ちでしょう。勝真殿も、彰紋様も、紫姫も、皆……」
真剣な面持ちで話す頼忠に、幸鷹が相槌を打つ。
龍神の神子としての務めを終え、花梨が元の世界へ帰ってから一ヶ月――。その間、新年の忙しい時期を過ごしていても、彼女のことを忘れた事などなかった。
彼女と共に行動したのは、たった三ヶ月ほどの短い間のことだったが、恐らくどれほどの月日が経ったとしても、誰の心からも彼女の面影は色褪せる事はないだろう。
幸鷹と頼忠は、どちらからともなく空を見上げた。
今宵は星の輝きが美しい夜だ。
「我々に出来る事は、神子殿が残して下さったものを守ることと、神子殿の幸せをお祈りする事ぐらいしかありませんから」
頼忠の言葉に、幸鷹が口元に笑みを浮かべた。花梨が京にいた頃、紫姫の館の警備に当たっていた頼忠は、ずっと傍で彼女を守っていた。だが神子がいなくなった今となっては、彼女自身を守る事は出来ない。
「神子殿はお一人ではありませんから、きっと大丈夫ですよ」
「そうですね」
頼忠も微笑みを浮かべた。
花梨は一人ではない。この京で出逢い、共に京を守るために戦ってきた泰継との恋を成就させ、彼と共に元の世界に帰ったのだから。向こうの世界でも、泰継が花梨を守るだろう。
風が木々の葉を揺らし、ざわざわと葉擦れの音を立てた。


「見送りは此処までで結構です」と、一礼して去って行く頼忠の背中をしばらくその場で見送った後、幸鷹は再び元の部屋に戻るために踵を返した。まだ今夜中に目を通さねばならない書類が残っている。
簀子を歩きながら、幸鷹はふと庭に目を遣った。
まだ雪が残る庭に、篝火が焚かれている。その灯りが雪に反射して、闇の中できらきらと輝いていた。
風が、微かに花の香りを運んで来る。
その香りに誘われるように、幸鷹は簀子の上で立ち止まり、庭に植えられた白梅に目を遣った。八重咲きの白梅が、今が盛りと咲き誇っている。
梅は早春、百花に先駆けて咲く花である。馥郁たるその香りは、春の訪れを知らせてくれる。梅はこの世界でも、逸早く春の到来を告げる花なのだ。
京では紅梅を愛でる者が多いが、幸鷹は白梅のほうが好きだった。自分にあてがわれたこの棟の庭に、元々植えられていたのが白梅だったのだが、白く清楚な花が好ましいと思ったのだ。
少し離れた場所にある篝火に薄っすらと照らし出され、白い花弁が夜の闇に浮かび上がって見える。
白く小さな梅の花に、神子の笑顔が重なって見えた。

(神子殿はお元気だろうか……)

頼忠と神子の話をしたせいだろうか。ふと、彼女のことを思った。
花梨は、幸鷹と同じ世界から召喚されて、京にやって来た。
それを知ってから、幸鷹は時々考えるのだ。

――自分は、彼女と出逢うために、この京に召喚されて来たのだろう、と……。

胸の内に今も残るこの想いは叶わなかったけれど、今はそう思いたい。
もし京に来ていなかったら、同じ世界に生きていたとしても、花梨とは出逢えなかったかもしれないのだ。

風が、幸鷹の髪を揺らせた。
あの日と同じ、穏やかだが冬の冷たさを含んだ風だ。


――あの日と同じ……。


幸鷹は目を閉じ、そして思い起こす。



京の穢れが祓われ、幸鷹が自分の世界を捨てたあの日のことを……。
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