星月夜−3−
あの日と同じ風が吹いている。

風に吹かれ、前栽の木々が微かに葉擦れの音を立てた。少し離れた場所にある篝火の炎も、風に煽られて時折大きくなり、パチパチという乾いた音を、辺りに響かせていた。
風が、再び白梅の芳しい香りを運んで来る。
幸鷹は目を閉じて深呼吸するように息を深く吸い込み、その香りを味わった。甘い香りが、幸鷹の鼻腔を優しくくすぐった。
ゆっくりと息を吐き、目を開けて空を見上げる。
庭には篝火が焚かれているので真っ暗ではなかったが、それでも満天の星が見えた。幸鷹は、まるで呼吸しているかのように瞬く星々を観賞した。風が吹いているせいか、空気が澄んでいるようだ。
そう言えばこのところ仕事に追われてしまい、こうして夜空を見上げるのは、随分と久しぶりのような気がする。

今宵は新月。
月が出ない、星明りの夜――星月夜だ。

(神子殿……)

あれはいつのことだったろう。今夜のような星月夜に、神子と共に神泉苑まで歩いたのは……。
あれから、もう随分と時が経ったように思う。実際にはまだ三ヶ月ほどしか経っていないのが、不思議なくらいだ。色々な事があり過ぎて、日数感覚がおかしくなっているのかもしれない。
あの頃はまだ、自分が本当は何者なのかも知らずにいた。
ただ、今ここにいる自分が幻のように感じる不安定な気持ちだけがあった。
しかし、彼女と話していると、気が楽になった。そのせいか、それまで誰にも話した事がなかった兄との確執についても、彼女に話してしまった。
星が美しい夜に、女人と二人きりで話す話題ではなかったと思う。翡翠や泉水であったら、もっと風流で気の利いた話をしたかもしれない。だが、神子に話を聞いてもらえて、ほっとした気持ちになった。
あの時、幸鷹は自分の神子への気持ちを自覚したのだ。
彼女の心は、既に泰継の元にあることを知っていたのだが――。

幸鷹は、視線を星空から庭に落とした。庭木の枝が風に揺れる様を見つめながら、物思いに耽る。

もし、神子がこの世界に落ちた時、最初に出逢ったのが自分だったら、彼女は自分を選んでくれただろうか。
そしてもし、彼女が選んでくれていたなら、自分はどうしただろうか。
恐らく、彼女と共に在るべき世界へ帰ることを選択していただろうと思う。

もし――…。

だが、今更だ。
神子は他の男を選び、そして自分は京に残ることを選んだ。
もう二度と、会うことも話すことも叶わないだろう。
幸鷹は自嘲を含んだ笑みを浮かべた。

その時―――


―――…シャン……


何処からか、鈴の音が聞こえて来た。
それが何処からであるのか確かめるため、辺りを見回そうとした幸鷹は、一瞬前まで聞こえていた葉擦れの音が、鈴の音が鳴り響くのと同時にぴたりと止んだことに気が付いた。突然風が止んだのだ。
庭が、不自然な静寂に包まれた。

(今の鈴の音は……)

庭に視線を戻した幸鷹は、庭木の枝に止まっている一羽の白梟に気が付いた。
篝火の灯りの届かない場所に止まっていても、存在感のある白い梟――。
幸鷹には見覚えがあった。

(あれは……。まさか、泰継殿の…?)

まさか、そんなはずはない。なぜなら、彼はあの日、神子と共に異世界へ旅立ったのだから。
だがあの白梟は、泰継が使っていた式神に似ている。

幸鷹が庭へ下りようと階に走り寄ろうとした時、静寂に包まれた庭にバサバサッという羽音が響いた。今向かおうとしていた階近くの高欄の上に梟が止まったのを見て、幸鷹は足を止めた。
篝火の灯りが届く場所に羽を休めた梟は、嘴に何か咥えていた。それを確認した幸鷹は、ゆっくりと梟の方に歩み寄った。
梟は、近付いて来る幸鷹を、じっと見据えている。
幸鷹が数歩の距離を置いて立ち止まると、梟が口を開いた。ぱさりと軽い音がして、梟が咥えていた物が簀子の上に落ちた。

(あれは……文?)

どうやらそれは、結び文のようだった。薄紅色の花が添えられているのが見えた。

「一体、誰が……」

ぽつりと呟き、簀子の上に落ちた文に近付こうとした時――…


『天の白虎……』

幸鷹は足を止め、目を大きく見開いて梟を見た。今の声は、確かに梟の口から発せられたものだったのだ。

(誰だ? 泰継殿の声ではない……)

梟は、真っ直ぐに幸鷹を見据えたまま言葉を継いだ。

『我が神子からの文だ。しかと届けたぞ』

それだけを伝えると、静かな庭に再び羽音を響かせて、白梟は何処へか飛び去って行った。
それと同時に、先程までぴたりと止んでいた風が吹き始め、庭に様々な音が戻って来た。



簀子の上に呆然と立ち尽くし、白梟が飛び去った空を見つめる幸鷹の髪を、風が撫でて行った。

『我が神子からの文だ……』

梟は確かにそう言った。
『我が神子』と……。
では、あれは――…

「まさか…龍神……?」

星が瞬く夜空を呆然と見つめながら呟いた幸鷹は、風に煽られた篝火が立てるパチパチッという高い音に我に返った。
幸鷹は簀子の上に視線を落とした。その先には、先程龍神が置いていった文がある。
一度だけ深呼吸した後、幸鷹はゆっくりと文に近付き、それを手に取った。

この紙は京の紙ではない。
だが、幸鷹には馴染みのある紙だった。
そして、添えられていた薄紅色の花――。

「これは、秋桜…?」

京には存在しない花…。
しかも秋桜は、その名の通り秋の花だ。

(では、やはりこれは神子殿からの……)

幸鷹は文を開いた。
横書きの文字が懐かしい。紙はレポート用紙のようだ。大学に通っていた頃を思い出す。
ボールペンで書かれた文――いや、手紙は、泰継が書いたものと花梨が書いたもののようだった。
京での泰継の達筆な文字を思い出し、幸鷹は我知らず微笑みを浮かべた。どうやら彼は、既に向こうの世界の物も使いこなしているらしい。

まず、花梨からの手紙に目を通した。
それは紫姫や深苑、千歳、そして八葉全員に近況を知らせる手紙だった。
読みながら、幸鷹は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。彼女とこの京の町を歩いて廻った日々を思い出す。彼女の笑顔が脳裏を過ぎった。
元の世界に帰った花梨は、泰継と二人で幸せに過ごしているようだ。
ただ、向こうの世界で百年前の龍神の神子と八葉に出逢ったということには、幸鷹も驚いた。だが、花梨と自分が同じ世界から京に連れて来られた事を考えれば、十分にあり得る事だ。この事は、星の一族である紫姫と深苑に知らせるべきだと思った。
この手紙を見せるため、久しぶりに皆を紫姫の館に集める必要がありそうだ。

しかし、龍神に手紙を届けさせるとは、花梨にはいつも驚かされる。よく泰継が許したものだ。

(龍神も泰継殿も、神子殿の願い事は叶えずにはいられない、といったところでしょうか……)

神子の頼みに抗えず、渋々彼女の願いを叶えたであろう龍神と泰継を想像し、幸鷹は顔を綻ばせた。

花梨からの手紙に続き、泰継の手紙を取り出す。彼のことだから、龍神の力を使ってまで、わざわざ近況を知らせて来るとは思えない。花梨の手紙の最後に、恐らく花梨に言われて仕方なく書いたであろう一言が添えられていたことからも分かる。
そのことから幸鷹は、これは他の者たちには見せることが出来ないことを、別途書いてきたものだろうと推測した。その内容は、間違いなく幸鷹が彼に託した文のことだろう。
幸鷹は表情を改めて、泰継からの手紙に目を通した。


『過日預かった文は、先刻親御の元に届けた』

書き出しの一文に、幸鷹の手がぴくりと震えた。
泰継の手紙には、幸鷹が泰継に託した両親の情報を記した紙を元に、先代の神子や地の青龍の手を借りて両親を捜し出した事や、直接両親に会えばいらぬ追及を受ける可能性があるので、取り敢えず式神を遣わせて文を届けた事など、事実のみが簡潔に記されていた。淡々とした文章が実に彼らしい。
式神を遣わせたという泰継の判断は、正しいと思う。
最初、神子に文を託そうとした時、幸鷹は気付いていなかったのだ。だが、もし何年も行方不明となっていた息子からの手紙を渡されたら、いかにあの温厚な父母でも、手紙を持って来た泰継や花梨を追及することになるだろう。幸鷹は何処にいるのか、何故帰って来ないのかと――。
さすがに彼らに京のことを説明しても、信じてもらえるかどうか判らない。文を書いた幸鷹自身でさえ、もしかしたらこの御伽噺のような話を、両親は信じてはくれないかもしれないと思いながら書いたのだから。

――届けられた文を読んで、家族は一体どう思ったのだろうか……。
   まだ、私の事を忘れず、心配してくれているのだろうか。

手紙を持つ手が微かに震えた。

泰継の手紙の最後には、幸鷹の家族の現在の様子が記されていた。

学者である両親は、日本に帰って来た時客員として呼ばれた私立大学で、今も教授として勤めていること
姉は既に結婚し、兄も近々結婚する予定であること
そして、両親は仕事の傍ら、今も行方不明となったままの幸鷹を捜し続けていること――。


不意に視界が霞んだ。レポート用紙に書かれた文字が、どんどんぼやけていく。
幸鷹は白く曇ってしまった眼鏡を外し、頬に手を遣って驚いた。

――涙が、頬を伝い落ちていた。

京に残る決心をした時、こうなることは分かっていたはずだ。
それなのに、何故涙が出るのだろう。
家族を苦しめていることが分かっているのに。
それなのに……。
今も、自分を捜してくれている事が、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
私には、そんな資格などないというのに。
生まれ育った世界を捨てた私には……。

瞬きをするたび、涙が流れ落ちてくる。
幸鷹は次々と流れ落ちる涙を指で拭った。
手紙を持っていた左手が、だらりと力無く下ろされた。


何故、龍神に願わなかったのだろう。
自分が元の世界に生きていたという痕跡を、すべて消して欲しい、と。
せめて、京に召喚された時、あの事故で死んだことにしておいてもらえば、何年もの間家族を苦しめる事もなかったはずなのに……。
それなのに、出来なかった。
もう二度と帰ることが出来ないけれど、十五年間、確かに自分はあの世界に生きていたのだと、皆に憶えていてもらいたかったから。

信じてもらえるかどうか分からなかったけれども、自分は今も違う世界で生きているのだと、家族にだけは知ってもらいたかったのだ。

そして、伝えたかった。

両親に。
あなた方の息子に生まれて幸せだったと……。

兄と姉に。
あなたたちの弟で良かったと……。

だから、あの文を、泰継に託したのだ。

浅ましいと思う。
自分勝手だとも思う。
それでも……。

幸鷹は右手で両目を覆い、俯いた。
無意識に左手で作った拳に、持っていた手紙がくしゃりと音を立てた。



『元の世界での記憶を手放したいと思うのであれば、安倍家を訪ねるが良い』

不意にあの日の泰継の言葉を思い出して、幸鷹は両目を覆っていた手を離し、目を見開いた。
泰継がそう言った理由は分かっていたつもりだったが、彼が心配していた通りになってしまったことに、幸鷹は口元に自嘲を帯びた笑みを浮かべた。
あの時、泰継にも分かっていたのだろう。
京に残った幸鷹が、元の世界の家族に対して罪悪感を抱くであろう事を。
だから別れ際に、「何も知らなかった頃に戻りたいのであれば安倍家に行くように」と言い残したのだろう。
取り戻した記憶を再び封じるために――。

しかし――…。

幸鷹はゆっくりと顔を上げ、小さく頭を横に振った。涙は既に止まっていた。
何も知らなかった頃に戻れるのであれば、楽だろう。だが、幸鷹にはその気持ちはなかった。
一度取り戻した記憶を再び封じても、それは真実から逃げることに他ならない。この記憶を取り戻すため、神子の手を借りるかどうか決めかねていた時も、自分は逃げていたのだと思う。それまでの自分が築いてきたものが、一瞬にして壊れそうな気がして怖かったから、思わず目を背けてしまいそうになったのだ。
しかし今は、本当の記憶を取り戻せて良かったと思っている。
だから、あの時と同じ事を繰り返したくはなかった。
それに、元の世界の家族に自分の事を憶えていて欲しいと思うのと同様に、自分も実の家族の事を忘れたくないと思ったのだ。
この記憶があるためにどれほど胸が痛んでも、彼らは自分を育んでくれた、大切な家族なのだから……。


幸鷹は頭上に広がる星空を見上げた。
風が、涙の跡が残る頬を優しく撫でて行った。


『空を見上げたら、私たちの事を思い出してね』

風が運んで来た白梅の香りに、ふと、別れの日、京の皆に花梨が告げた言葉を思い出した。

『京に来たばかりの頃、空を見上げるたびに、元の世界の事を思い出したの。私の世界の空は京の空ほど綺麗じゃないけど、この空が向こうの世界の空と繋がっているような気がして……』

だから、空を見上げたら、自分と泰継の事を思い出して欲しいのだと彼女は言った。

『私も、向こうの世界で空を見たら、きっと皆の事を思うから』

そう話す花梨の肩を抱き寄せながら彼女に微笑みかける泰継と、彼に微笑みで応えていた花梨の幸せそうな表情を思い出し、幸鷹は微笑んだ。
彼らの事を忘れることなどないだろう。たとえ共に過ごしたのが三ヶ月余りという短い期間だったとしても、それは幸鷹にとっては、この先二度とないであろう大切な出会いだったのだから。
神子の願い通り、空を見上げるたび、向こうの世界で幸せに暮らしているであろう彼らの事を思うだろう。
この空が、あの世界に繋がっていることを信じて……。

それは、向こうの世界に暮らす家族についても言える事だ。
神子が言っていたように、この空を見上げるたび、きっと家族の事を思い出す。

いつも穏やかだった父
優しかった母
そして、よく勉強を教えてくれた年の離れた兄と姉

目の前に広がる星空に、家族の面影が重なって見えた。
二度と会って話すことが出来なくても、自分の記憶に残る家族の面影にはいつでも会うことが出来る。


この記憶がある限り――…。





幸鷹は改めて決意する。

生涯、この京で生きて行く事を
この記憶は、一生涯手放さない事を
神子が守ってくれた京の平和を守り続ける事を

そして、あの世界に暮らす神子と家族の幸せを祈り続ける事を――…。


あの夜と同じ星月夜に誓う。




白梅の香りを運んで来た風が、幸鷹の手の中の秋桜の花弁を微かに揺らせた。







〜了〜


あ と が き
タイトルは幸鷹さんの障害のある恋イベントから戴きました。しかしこれ、秋の季語なのですよね。まあ、細かい事は気にしない気にしない(笑)。
初めて幸鷹さんの秘密を知った時、非常に興味深いキャラだと思いました。彼の場合、京に残っても現代に帰って来ても、必ず誰かを泣かせる結果となるのですよね。このあたり、同じく現代から召喚されて八葉となった天真くんや詩紋くんとは全く違うと思います。だから幸鷹さんのエンディングは、どちらもどこか切ないように思いました。
でも私が最も興味深いと思ったのは、神子のおかげで記憶を取り戻しはしたものの、神子とエンディングを迎えることが出来ず京に残った場合の幸鷹さんでした。その時の彼の気持ちはどうだったのだろう? そう考えて作ったのがこの話と「秋桜」「神子のお願い」の元となる話でした。花梨ちゃんがお持ち帰りしたのが泰継さんだったという設定も、他の八葉に設定するより劇的かなと思ったので……。泰継さんは、幸鷹さんの秘密を知っている唯一の八葉ですから。
幸鷹さんは大切な恋イベントで、「家族に元気だったと伝えて欲しい」と花梨ちゃんに告げていましたが、それを実行すると花梨ちゃんが幸鷹さんの家族から尋問にあうのでは、と思ったので、今回の話では手紙を託したことにしています。その手紙を託されたのが泰継さんだというのは、一応うちの花梨ちゃんが帝側神子の設定なので、幸鷹さんは障害のある恋の過程を経ているものとされているからです。その割に、話の都合で一部大切な恋イベントの要素も含まれていたりしますが(笑)。
幸鷹さんの元の世界の家族や花梨ちゃんへの気持ちを書きたいと思って書き始めたのですが、なかなか上手く表現することが出来ませんでした。今回は本当に、己の文章力の無さを痛感致しました。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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