理由−1−
牛車から降りた花梨は、晴れ上がった空を眩しそうに見上げた。


四方の札のうち二枚を手に入れ、丑寅御霊を封印してから数日間降り続いた雪は、京の町をすっかり雪景色に変えてしまった。千歳が張った結界により止められていた気が巡り始めたことにより、遅れていた冬の季節が漸く訪れたのだ。
しかし、数日間京の空に居座っていた雪雲が去り、久しぶりに見られた青空にも、花梨の表情は晴れなかった。

(泰継さん……。どうしているんだろう?)

花梨の心に影を落とす原因となっているのは、想い人の不在であった。
四日前の物忌みの日以来、泰継は花梨の元を訪れていなかったのだ。


確かに今は西の札を探している最中だから、地の玄武である泰継の力が直ぐに必要という訳ではない。
しかし、泰継は花梨の散策に同行しない日も必ず紫姫の館を訪れ、館の清めと館の周囲に張られた結界に異常がないか、見回りをしてくれていたのだ。
その彼が、この三日間、全く足を運んでいなかった。
物忌みの翌朝、久しぶりに八葉の務めを休んだ泰継に、前日の気まずくなった雰囲気の所為かと考えた花梨だったが、泰継はそのような事を気にする性格ではないと、即座にその考えを否定した。
――きっと、安倍家に依頼された仕事があるのだろう。
そう思い直して、その日は幸鷹と翡翠と共に、西の札を探しに出掛けた。
ところが、その翌日も、そしてその翌日も、泰継は花梨の元を訪ねて来なかったのだ。
それまで、誰よりも熱心に八葉の務めを果たしていたのが泰継だったことは、他の八葉達も認めるところである。
それ故、八葉達の中にも、泰継の足が途絶えたことを訝しく思う者が出て来たのだった。

彼に何か起きたのではと心配になった花梨だったが、残る二枚の札を探している今、龍神の神子としての務めを休む訳にもいかず、先に西の札の手掛かりを探すことに専念することにした。
その西の札の情報収集も終了し、昨日はまだ封印していなかった怨霊を封印することと、土地の力を上昇させることを目的に、勝真とイサトと共に散策に出掛けた。
しかし、いつになく注意力が散漫となっていた花梨を案じた二人に、「今日は早めに帰って休め」と言われ、ほぼ強制的に午の刻下がりには館に連れ戻されてしまった。


そして、夕刻になって、花梨は泉水の訪問を受けたのだった。





◇ ◇ ◇





昨日の夕刻のことである。


「このような時間に申し訳ありません、神子」

紫姫に案内され、花梨の部屋に足を踏み入れるなり、泉水は先ず遅い時間の来訪を詫びた。
これまで泉水が日が暮れる頃になって花梨を訪ねて来たことはなかった。それだけに急用なのだということが判る。
珍しい泉水の行動に、花梨は少し不安になった。

「何かあったんですか? 泉水さん」

部屋に入ってから立ったままだった泉水に円座を勧めながら、花梨が問う。
礼を言い、円座に腰を下ろした泉水は、真っ直ぐに花梨の目に視線を合わせると、来訪の目的を告げた。

「実は、泰継殿のことなのです」

ドキリと鼓動が跳ねる。
嫌な予感がして、花梨は思わず腰を浮かせていた。

「泰継さんがどうかしたんですか!?」

身を乗り出しながら叫ぶように問い掛ける花梨に、泉水は沈痛な面持ちで話し始めたのだった。


「昨日、所用で下賀茂神社に参ったのですが、その帰りに糺の森で、泰継殿をお見かけしたのです」
「糺の森…?」

円座に座り直し、小首を傾げながら、花梨が訊ねる。
安倍家から依頼された仕事にしては、意外な場所だと思ったのだ。
糺の森は下賀茂神社の神域である。そのため、怨霊や物の怪が現れたという噂が全くない場所だった。
安倍本家が泰継に依頼している仕事は、加持祈祷の他、怨霊調伏が多いと聞いている。だから、恐らく仕事以外の何かがあったのだろう。

「泰継さん、何しに行ったんだろう……」

独り言のように花梨が呟く。
彼女の疑問に答えたのは、泉水だった。

「私がお見かけした時、泰継殿は連理の賢木の前にいらっしゃいました」


泉水が泰継の姿に気が付いた時、彼は連理の賢木の前に立っていたのだという。後姿だったため、表情までは確認できなかったが、泰継は賢木の幹に右手を当て、俯き加減で何かを祈っているように見えたのだ。
しかし、泉水が泰継に声を掛けるのを躊躇ったのは、彼が祈りを捧げているように見えたからではなかった。
泰継の背に、いつもの力強さが見られなかったからだ。

その時、泰継が弾かれたように顔を上げ、幹に当てていた手を離した。
暫くの間、賢木に当てていた掌を見つめた後、泉水の気配に気付いた泰継が振り返った。

『今日はこちらにおいでだったのですね。何をしておいでなのですか?』

そう話しかけた泉水に、泰継は答えたのだ。
―――『連理の賢木と話していた』、と――…。


「連理の賢木と…。そう言えば、泰継さんは木とお話ができるって言ってました」
「神子はご存知だったのですね」

泉水は微かに笑みを浮かべた。
だが、その微笑みは直ぐに翳りを帯びた表情に戻ってしまう。
用はもう済んだからと、泰継が直ぐに立ち去ってしまったため、彼とは二言三言、言葉を交わしただけで別れてしまったのだが、泉水は泰継の態度に違和感を覚えた。いつもと同じ超然とした無表情の裏に、何かが隠されているような気がしてならなかったのだ。

「泰継殿は、いつものあの方ではなかったように、私には思えたのです」

理由は分からない。
しかし、泉水は今まで感じたことのない、漠然とした不安を感じていた。

「神子は、何かご存知ではないですか?」

三日前の花梨の物忌みには、いつも通り泰継が付き添ったと聞いている。
一昨日の朝、泉水が此処を訪れた際、控の間に居並ぶ八葉達の中に、珍しく泰継の姿がなかった。
そして、昨日、泉水は出仕後に下賀茂神社を訪れたため、紫姫の館に顔を出してはいなかったが、糺の森で会った時の様子から考えて、泰継は昨日も花梨の元を訪れなかったのだろうと推測することが出来た。
今日此処を訪れた際、紫姫に訊ねたところ、泰継は今日も顔を出していないとのことだった。しかも、紫姫の話では、他の八葉達の中にも、ここ数日、泰継の姿を見かけた者はいないのだという。
つまり、花梨の物忌みの日以降、彼と会ったのは、物忌みの日を共に過ごした花梨と、昨日糺の森で言葉を交わした泉水だけということになる。
物忌みの前日、泉水は控の間で泰継と会い、言葉を交わしているが、その時には特に変わった様子はなかったように思う。もっとも、幸鷹と翡翠と出掛ける花梨を見送った後、泉水はいつも通り館の清めを行うと言う泰継と別れ、彼より先に館を辞したため、その後の事は知る由もなかったのだが――。
だから、もしかしたら、物忌みの日に何かあったのではないかと考えたのだった。泰継はその日を境に、館を訪れなくなったようであるから。

しかし、泉水の問い掛けに、花梨は俯いて小さく首を横に振った。
「私にも判らないんです。最初はお仕事が忙しいのかと思っていたんですけど……」
「そうですか…」
残念そうに泉水が言う。
膝の上で組んだ手に視線を落とした泉水は、やがて何かを決意したかのように顔を上げた。

「神子。貴女にお願いがあるのです」

泉水の真剣な声音を感じ取り、花梨が顔を上げると、紫色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「私に?」
「ええ。――実は、今朝、大内裏で安倍泰長殿にお会いしたのです」
「安倍…泰長さん……?」
花梨が小首を傾げた。
苗字が『安倍』ということは、安倍家の人物なのだろう。しかし、花梨はその名を聞いたことがなかった。
安倍家の人々について、泰継の口から具体的な名前が出たことはなかったのだ。

花梨の仕草から、彼女が泰長のことを知らないらしいと察した泉水が、花梨の疑問に答えて言った。

「泰長殿は、安倍本家の現当主であられるお方です」

泉水の答えに、花梨は目を瞠った。
安倍家の当主と言えば、花梨が西の札探しが一段落したら会いたいと切望していた人物だ。
花梨は思わず腰を浮かせ、泉水の方に身を乗り出していた。

「泉水さん、安倍家のご当主とお知り合いなんですか!?」
「え…、ええ……」

どうしたら泰継に知られずに安倍家の当主に会うことが出来るだろうと、花梨は数日前から頭を悩ませていたのだ。用件が用件なので、泰継に紹介してもらうことは出来なかったからだ。
それなのに、こんなに身近に知り合いがいたとは……。
喜色をあらわにした花梨だったが、続く泉水の言葉は、花梨の顔から忽ちその表情を消してしまうものだった。

「泰長殿のお話では、泰継殿は一昨日、安倍家を出て行かれて、今も帰っておられないとのことです。どうやら、北山にお帰りになったようだと……」
「えっ!?」

花梨は驚きの声を上げた。
北山は泰継が庵を結んでいた場所である。京に召喚された花梨が降り立ち、彼と出逢ったのも北山だった。
花梨と出逢った当初は北山の庵から紫姫の館に通っていた泰継だが、花梨を龍神の神子と認めてからは、何かあった時に直ぐ四条の館に駆けつけることが出来るように、安倍本家の離れを仮住まいとしていると聞いていた。
それなのに、何故、北山に帰ってしまったのだろうか。
あれ程までに力を尽くしていた八葉の務めを放り出して――。
やはり、彼の身に何か起きたとしか思えなかった。

「泰長殿も、心配なさっておいででした。何か事情があったのでしょうが、八葉の務めを疎かにするとは、あの方らしくない、と……」
円座に座り直し、悄然として俯いてしまった花梨を気遣いながら、泉水が言う。
「それで、神子。貴女にお願いしたいことというのは、実は、泰長殿からのご依頼なのです」
泉水の言葉に、花梨は漸く顔を上げた。軽く目を見開いて、泉水の言葉を待つ。

「神子。泰長殿にお会い頂けないでしょうか? 泰長殿が、神子と話したいと仰っておいでなのです」

泉水の言葉に花梨は驚いた。安倍家の当主と話がしたいという希望が、こういう形で実現するとは思ってもみなかったのだ。
花梨は表情を改め、泉水の顔を真っ直ぐに見つめて言った。

「泉水さん。実は、私、安倍家のご当主にお会いしたいって、この間から思っていたんです。どうしても聞きたいことがあって……」
「泰長殿に、ですか?」

今度は泉水が驚く番である。
聞き返す泉水に頷くと、花梨は真剣な表情で告げた。


「会わせて下さい、泰長さんに。――お願いします」


頭を下げる神子に恐縮しつつ、泉水は翌日、花梨と共に安倍家を訪ねる手はずを整えることにしたのだった。





◇ ◇ ◇





「神子、こちらです」

空を眺めながら物思いに耽っていた花梨は、泉水に声を掛けられ、我に返った。
車寄で牛車を降りた二人は、白い潔斎服を身に纏った泰長の弟子らしき人物に先導され、寝殿に向かって簀子縁を歩いていた。

(ここが、安倍家なんだ……)

花梨は心の中で呟いた。
仮住まいとはいえ、此処に泰継が住んでいるのかと思えば、感慨深くもなるものだ。

(そう言えば、私、泰継さんが普段どんな生活をしているのかとか、全然知らないんだ……)

いつもは、泰継が花梨の元を訪れ、散策が終われば館まで送り届けてくれている。そのため、花梨が安倍家を訪れたのは、今回が初めての事だった。
初めて好きな人の家を訪れているのだと思うと、自然と胸が高鳴った。
泰継が住まう場所を少しでも目に焼き付けておこうと、花梨は案内人の後ろを歩きながら庭に目を遣った。

安倍家は賀茂家と並んで陰陽道の大家として知られる一族である。
京では知らぬ者がいないくらいに有名な家でありながら、豪勢な屋敷ではない。朝廷に仕える貴族の屋敷としては、どちらかと言えば質素な部類に入るだろう。庭などは、紫姫の館の方が手入れが行き届いているようだ。荒れているわけではないが、如何にも人が手を入れたというような、人工的な印象は受けない。前栽の木々も、元から其処に生えていたかのようで、至極自然な感じがする、何とも不思議な庭なのである。
何となく泰継のことを思い出した花梨は、いつしか口元を綻ばせていた。出逢った場所が北山の山中だったからだろうか。彼は自然の中に身を置いているのが似合うと思う。


そんな事を考えながら長い簀子を歩き、渡殿を渡ると、寝殿に入る妻戸の前で案内人が立ち止まった。
「泰長様。神子様と源泉水様がお着きになられました」
室内に一声掛けた後、妻戸を潜り、花梨と泉水を庇に設けられた一室に案内する。
几帳の脇で二人に一礼すると、二人を案内して来た人物の姿が掻き消えた。一枚の符が床に落ちる。泰長の弟子と思われた案内人は、どうやら彼の式神であったらしい。
現在、安倍一門で最も力があるのは泰継だという噂であるが、やはり本家の当主ともなれば、それなりの力の持ち主であることが求められるのだろう。
床に落ちた符を拾った花梨は、泉水と共に几帳の向こう側に歩を進めた。
室内には、一人の男が座していた。
二人の姿を認め、男が口を開く。


「よくお越しくださいましたな、神子殿、泉水殿」


微笑みを浮かべながら、安倍泰長はそう言った。
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