35 すれ違い−2−
ぽつりぽつりと花梨が語り始めた話を聞きながら、天狗は渋い表情を浮かべていた。
花梨の話から推察するに、どうやら祝言を挙げてこの北山で暮らし始めてから毎日のように泰継を訪ねて来る者があり、ずっとすれ違いの生活を送っていることが喧嘩の原因であるらしい。

「……別に動物達に『来ないで』と言ってる訳じゃないの。むしろ泰継さんが皆に好かれていて頼りにされているんだって思えるから、私も嬉しいの……」
石に腰掛け、自分の足元に生えている雑草に視線を落としたまま、花梨が小声で話す。
「でも、泰継さんが皆と話している間、私には居場所がなくて…。淋しくて…でも泰継さんには言えなくて…。二人だけで過ごしたくて北山に住みたいって思ったのに……」
しかし現実は逆だったのだと語る花梨に、天狗は深い溜息を吐いた。
まだ新婚なのに新妻を放ったまま訪問客の相手ばかりしている夫に、花梨が淋しく思うのも無理はないだろう。彼女はこの世界の人間ではない。泰継だけを頼りにこの京に残った彼女が淋しく思い、甘えさせて欲しいと思うのは当然のことだ。
(まったく……。何をしておるのじゃ、あやつは……)
泰継の庵に北山に棲む者たちが出入りしていることは、天狗も以前から知っていた。意外に面倒見が良い泰継を頼って、動物達が彼の周りに集まって来るのだ。泰継は目覚めの三ヶ月の間は、昼夜を問わず訪ねて来る彼らの相談に乗ったり、怪我の治療といったことまでやっていたらしい。
特にここ数ヶ月間は八葉の務めのために泰継は殆ど北山を留守にしていたから、彼が帰って来たことを知った者たちが次々と押し掛けているであろうことは、天狗にも想像が付いた。そのため泰継は寝る間もなく応対に追われているのだろう。彼の性格から考えて、訪ねて来た旧知の者を追い返すとは思えない。
しかし、様々な困難を乗り越え漸く結ばれたばかりの愛妻よりも訪問者を優先させているとは、女心を解しないにも程がある。
ここは泰継の親代わりを自任する者として、淋しい思いをしている神子のために一肌脱いでやる必要があるだろう。
(先ずは邪魔者どもを何とかせねばなるまいて)
口を閉ざし俯いたまま膝の上に載せた手をもじもじと動かしている花梨を見つめながら、天狗は泰継の庵に出入りしている者たちに、暫くの間庵には近付かないよう言い含めることを決意した。

「……私…、泰継さんに嫌われちゃったのかな……?」

暫しの沈黙の後、花梨が独り言のように呟いた。また泣き出しそうなのを堪えているのか、声が微かに震えている。そんな花梨を気遣い、天狗は出来るだけ優しく話し掛けた。
「何故そう思うのかね?」
「だって、追いかけて来てくれないし……」
その言葉に、天狗はちらりと庵がある方角に視線を向けた。


天狗は夜明け前からこの松の枝に座り、泉から立ち上ってくる霊気に身を任せていた。それは天狗の日課のようなものだった。
ところが今朝はいつもと様子が違ったのだ。
夜が明けて間もなく、突然泰継が住まう庵のある辺りから、強い神気を感じたのだ。
人ではあり得ない神々しいばかりの気――…。
それが何者のものであるのか、天狗にはすぐに判った。
その直後、神子がこの場に現れたのだ。
話すうちに泣き始めた神子を見て、天狗はすべてを悟ったのだった。
恐らく泰継は神子を追いかけなかったのではなく、追いかけることが出来なかったのだろう。
その神気の持ち主に邪魔されて――。
どうやら神気の持ち主は、元の世界も家族も捨てて泰継の元に残った神子の親代わりを自任しているらしい。
如何に泰継の力を以ってしても、彼に抗うことは出来まい。
(泰継……。お主、とんでもない舅を持ったものよのう……)
――恐らく今後も夫婦喧嘩の度に、彼は神子の肩を持つために降臨して来るだろう。
泰継の将来を思い、天狗は嘆息した。


「私……、泰継さんに『落ち着いて話してくれないと解らない』って言われて、悲しくて……。泰継さんに酷い事を言って飛び出して来ちゃったもの。きっと、子供みたいだって呆れられてる……」
「酷い事?」
鸚鵡返しに訊ねる天狗に、花梨は小さく頷いた。
「あやつに何と言ったのかね?」
花梨はすぐには口を開かなかった。足元の草に目を遣ったまま、言おうか言うまいか迷っているかのように膝の上の両手を動かす。やがて花梨は小声で呟いた。
「『泰継さんの馬鹿』って……。それから、『大嫌い』って言っちゃった……」
花梨の言葉に天狗は一瞬言葉を失った。瞠目したまま花梨の顔をまじまじと見つめると、次の瞬間大きな笑い声を上げていた。
「なんで笑うんですかぁ?」
沈黙した後いきなり爆笑した天狗に、真剣に悩んでいた花梨は松を見上げて抗議する。
「すまん、すまん」
まだひいひい言っていた天狗は、花梨の抗議に笑いを堪えながら言った。
「しかし、愛しい女子に淋しい思いをさせて泣かせるような奴は、罵られても仕方あるまいて」
「でも私、何も考えられなくなって、心にもない事を言っちゃったから……」
「だから、泰継がお主に愛想を尽かせたかも知れぬと?」
その言葉にぴくりと肩を震わせ俯いた花梨は、小さく頷いた。
「それはあり得ぬな……」
弾かれたように花梨が顔を上げた。潤んだ瞳が不安げに揺れている。それを確認した天狗は微笑みを浮かべた。
「あやつが八葉だった頃、お主と一緒に京の町を廻っておるのを見かけた鴉どもが、わざわざ儂に報告に来たことがあっての。『安倍の方は龍神の神子といる時はまるで別人のようだ』と言っておったわ」
天狗の言葉に、花梨は目をぱちくりとさせた。
天狗の話によると、まだ神子の務めで毎日京の町を散策していた頃、北山を塒としている鴉たちが町で散策中の泰継と花梨を見かけたのだという。その鴉たちは、泰継のことを知っていた。だから、土地の力を上げることに成功した花梨に満面の笑みを見せた彼を目撃して、非常に驚いたらしい。北山の庵に独りで暮らしていた頃、稀に口端に薄っすらと笑みを浮かべることはあっても、泰継が満面に笑みを湛えることはなかったからだ。それで慌てて天狗の元に報告にやって来たらしいのだ。
「あの朴念仁にそんな表情をさせることが出来るのは、神子、お主だけじゃよ」
花梨はぱちくりと瞬きした後反論する。
「でも、だったらどうして……」
――私を追いかけて来てくれないの?
そう続けようとした花梨は、それ以上言葉を継ぐことが出来ず、声を詰まらせた。
それを口にしてしまったら、益々自分が惨めになるような気がして――…。
しかし、天狗には花梨が何を言おうとしていたのかが判っていたようだ。
「お主には、恐い親代わりが付いておるからの」
「……? 『親代わり』って?」
天狗が言う“親代わり”が誰のことを指しているのか、花梨には皆目見当が付かなかった。首を傾げる花梨を見て、天狗はまた「ふぉふぉふぉ」という掠れた笑い声を上げた。
「庵を出た時、強い神気を感じなかったかね?」
訊ねられた花梨は首を横に振った。早朝の北山は霊妙な空気に包まれている。花梨には今朝もいつもと同じとしか感じられなかった。あの時は何も考えられずに駆け出したから、もしかしたら気が付かなかっただけなのかもしれないが。
そう考えた花梨は、不意にあることに気付き目を見開いた。

(『神気』って……。まさか……)

「『親代わり』って、もしかして龍神様のことなの!?」
「然様」
天狗は花梨の推測が正しいことを認めた。
「恐らく泰継はお主を追いかけなかったのではなく、追いかけることが出来なかったのだろうよ」

――お主の恐い親代わりが、可愛い娘を泣かせた娘婿に仕置きでもしたのではないかのぉ?

のほほんと天狗が口にした言葉に花梨は驚愕する。
「仕置きって……。じゃあ泰継さんは……」
「さて。足留め程度で済んでおれば良いがのう……」
天狗の言葉に花梨は青ざめた。いくら泰継でも、神に敵うはずがない。
「私……。私…、庵にやって来る動物達に焼きもちを焼いていただけなの。泰継さんを取られちゃうような気がして……。淋しくて…。でも泰継さんは気付いてくれなくて…。悲しくて……。私には泰継さんしかいないのに…って……」
花梨のその言葉に天狗は笑みを浮かべた。

「――だ、そうじゃぞ……」

突然自分ではない何者かに声を掛けた天狗に驚き、花梨は思わず腰を浮かせた。
天狗の声が向けられた先に顔を向けた花梨は、庵へと続く道に立つ人影に目を瞠った。

「泰継さん……」

いつの間にかそこに立っていた泰継に、花梨は驚いた。しかし、突然現れた泰継に対する花梨の驚きは、すぐに別の驚きに変化した。
天狗松から離れた山道に立ち尽くしている泰継は、この場所まで全速力で走って来た花梨よりも息を弾ませていた。怨霊との戦闘中、百鬼夜行との戦いの時でも、彼がこんなに呼吸を乱していたことはなかった。
しかも、さっきまできっちりと結わえてあったはずの髪は解け、着物にも刃物で切り裂かれたような跡がいくつもある上、所々土で汚れていた。
泰継は乱れた呼吸を整えながら、無言のままじっと花梨を見つめていた。
八葉の務めを終えた後、琥珀色に揃えられた瞳が揺らいでいるのが遠目でも判る。
迷子のような、今にも泣き出しそうな彼の表情に驚き、花梨は立ち尽くしたまま動かない泰継の方に近付いた。
さっきあんな事を言って飛び出して来てしまったから、彼に拒絶されるかもしれないと思い恐る恐る一歩ずつゆっくりと近付いた花梨は、泰継の右頬に何かで切られたような傷があるのを見て取り、慌てて彼に駆け寄った。
「泰継さん、この傷……! まさか龍神様に何かされたの!?」
泰継の傍らに駆け寄った花梨は、彼の頬に左手を添えながら訊ねた。
色白の肌に、顎から耳のほうに向けて、先刻まではなかった切創が出来ていた。傷口から血が滲み出て、まるで白い肌に赤い一文字が描かれているようだ。
その傷が痛々しく見えて、花梨はまるで自分が痛みを感じたかのように顔を顰めた。
傷は浅いようだが、浅くても切創は傷跡が残る場合が多い。
(もうっ! 龍神様ったらっ! どうして泰継さんの顔に傷なんか付けるのよーっ!!)
花梨が大好きな綺麗な顔に傷を付けた龍神に、怒りが込み上げてくる。
(もし泰継さんの顔に傷跡が残ったりしたら、絶対責任を取ってもらうんだからっ!!)
龍神に激怒しながらも、花梨は泰継の傷から目を逸らさなかった。色白なだけに、赤い血が余計痛々しく見えた。
花梨はいつも持ち歩いている手巾を取り出し、泰継の頬の血を拭おうと左手を伸ばした。しかしその手は傷に辿り着く前に泰継に手首を掴まれ、拘束されてしまった。
自分の手首を掴んでいる泰継の右手を見た花梨は、大きく目を見開いた。手を下ろしていた時は着物の袖で見えなかった彼の手首に、まるで縄で縛られたような痕を見付けたからだ。しかも手の甲にも、頬と同じような創傷があった。
――龍神は、一体彼に何をしたのだろう……?
驚いて泰継に問い質そうとした花梨は、手首を掴まれたまま抱き寄せられ、きつく抱き締められてしまい、身動きが取れなくなってしまった。
「や…、泰継さんっ!?」
花梨の鼓動が一気に跳ね上がる。傍で天狗が見ていると思うと、羞恥に顔が真っ赤になった。泰継の腕から逃れようと身動ぎした花梨は、手で触れた彼の身体ががたがたと震えていることに気付き、目を瞠った。
「……泰継さん…? どうしたの……?」
身動きするのを止めた花梨は、抱き締められたまま訝しげに問い掛けた。手を彼の背に回し、激しく震え続ける身体を抱き締めようとした。
「…帰って…しまったかと……」
花梨の耳元で、搾り出すような掠れた声がそう告げた。その声に、花梨は泰継を抱き締めようとしていた手を止めた。泰継はまだ荒い呼吸を繰り返していた。それを確認した花梨は、泰継が少しでも早く落ち着くようにと彼の背中を手で摩った。
「……帰る…?」
泰継の言葉の意味が解らず一瞬きょとんとした花梨は、鸚鵡返しに問い返した。
その声に泰継の身体がぴくりと反応したかと思うと、花梨は更に強い力で抱き竦められてしまった。
息苦しく思う程強く、まるで何処にも行かせまいと己が腕の中に閉じ込めるように泰継が抱き締めてくる。触れ合った部分すべてから震えが伝わって来る。花梨は泰継が口を開くまで待つことにし、優しくゆっくりと手を動かして、彼の背中を摩り続けた。
逆らうことなく暫くの間されるがままに抱き竦められていた花梨は、自分を抱き締める腕がほんの少しだけ緩められるのを感じた。荒く短い呼吸を繰り返していた泰継が、徐々に落ち着いて来たのが判る。さっきまで伝わっていた震えも収まりつつあった。花梨は小さく安堵の息を吐き、動かしていた手を止めた。
やがて泰継が口を開いた。
「龍神が…お前を元の世界に帰すと……。だから……」
自らが口にした言葉に、泰継は戦慄を覚えた。花梨は今確かにこの腕の中にいるのに、圧倒的な力を持つ龍神に掠め取られてしまいそうで――。
「だから、あのまま元の世界へ帰ってしまったかと思ったのだ……。私を…置いて……」
微かに震える声でそれだけの言葉を搾り出すと、泰継は再び腕の力を強めた。その言葉に花梨は驚く。
――そんなこと、あり得ないことなのに……。
もし龍神が元の世界に帰そうとしたとしても、花梨には帰る気は全くない。この京で、自分が生まれた世界を捨てても生涯を共に生きたいと願う人と出逢ってしまったから――…。
花梨はまた少し震え始めた身体に抱き付き、ぎゅっと泰継を抱き締めた。
「何処にも行かないですよ」
それを聞いた泰継の肩がぴくりと動くのを感じた。
「私はもう、京で……泰継さんの傍で生きて行くって、あの時決めたもの」
幾多の困難を乗り越え、漸く結ばれた人と離れ、独り元の世界に帰ることなど出来ない。もしそうなったら、きっと自分は死んでしまうだろう。
だから、龍神が何と言っても、絶対此処に…泰継の傍に残ると決めている。
「さっきはごめんなさい。私、子供みたいに嫉妬して、泰継さんに酷い事言っちゃった……」
花梨は泰継の胸に顔を埋め、呟くようにそう告げた。
頬に触れた着物から、菊花の香りが漂って来る。
(泰継さんの香りだ……)
花梨はその香りに誘われるように目を閉じた。こうして、菊花の香りに包まれているとすごく落ち着く。目を閉じていても、傍に彼がいてくれることを感じることが出来るから。
自分を抱き締める腕が緩められたのを感じ、花梨は閉じていた目を開けた。自分を見つめる視線を感じ、腕の中から泰継の顔を仰ぎ見た。
琥珀色の瞳が不安げにこちらを見下ろしている。
「何故、お前が謝るのだ……?」

「――そうじゃ、神子。お主が謝る必要はないぞ」
突然頭上から掛けられた声に驚き、花梨は慌てて泰継から離れようとした。しかし花梨の腰にしっかりと回された泰継の腕がそうすることを許さなかった。顔を真っ赤にさせた花梨は、仕方なく泰継の腕の中から天狗松の方を見上げた。
「さっきも言ったが、愛しい女子に淋しい思いをさせて泣かせるような奴は、罵られても仕方ないのじゃよ。――判っておろうな、泰継?」
天狗の言葉を聞いて、泰継はつい先程まで不安げな表情を浮かべていた顔を露骨に顰めた。
「お主が神子を泣かせる度、龍神が降臨して来るじゃろうて」
「龍神」と聞いて、花梨は弾かれたように泰継の顔に視線を移した。
「泰継さん! 龍神様に何かされたんでしょう? こんな怪我して……。ごめんなさい…私のせいで……」
悄然とした面持ちでそう言いながら、花梨は手に持ったままになっていた手巾で泰継の頬から流れ落ちようとしていた血を拭い取った。
「この程度の傷、大したことはない。それに……」
「自業自得じゃからの」
泰継が言おうとしたことを先取りするように、天狗が言葉を継いだ。
それを聞いた泰継が天狗を睨み付けたが、天狗は一向に意に介する様子もなく泰継に言った。
「大体お主がいかんのじゃ。新婚早々、神子をほったらかしにして淋しがらせるなど……。龍神でなくとも『お主には神子を任せられぬ』と思うじゃろうよ」
その瞬間、泰継の身体がぴくりと震えるのを感じ、花梨は泰継の顔を見上げた。泰継は天狗の方に目を遣ったまま動かない。彼が血が出るのではないかと思われる程強く唇を噛み締めているのを見て、花梨は目を瞠った。
「――放っていた訳では……」
「現に神子は涙を流しておったではないか」
力無い反論に、容赦無い叱責が飛ぶ。
それ以上反論することが出来ず、泰継はゆっくりと俯いた。ちょうど泰継の顔を見上げていた花梨と視線が合った。
琥珀色の澄んだ瞳が揺らいでいる。それを見て驚きつつも、泰継に間近で見つめられた花梨の鼓動は速くなった。夫婦となったにも拘わらず、花梨は未だに間近で泰継に見つめられることには慣れない。綺麗な瞳で見つめられることを恥ずかしいと思いつつも、視線を逸らすことが出来なくなるのだ。
じっと泰継に見つめられ頬を赤らめた花梨だったが、彼が何を見ているのかに気付き、顔を真っ赤にさせた。
泰継が見つめていたのは、さっき泣いたため真っ赤になった目と頬に残る涙の跡だったのだ。
羞恥から顔を隠そうと泰継の胸に顔を埋めた花梨は、彼の顔が苦しげに歪んだことに気付かなかった。
それきり泰継も口を閉ざし、沈黙が流れた。


―――淋しかった……。

花梨は天狗にそう話した。
『淋しい』――…。
それは花梨と出逢い、泰継が初めて覚えた感情だった。
龍神の神子としての役目を終えれば、花梨は自分の世界に帰ってしまう――…。
そう考えた時、胸が痛くて苦しいと感じた。
それが『淋しい』という感情なのだと教えたのは、他ならぬ花梨であった。
花梨を想うが故に湧き起こる痛み――。
それは、八葉の務めを終える頃には、耐え難い痛みとなっていた。
だから、あの日、花梨に懇願した。
「京に残ってほしい」と……。
その願いが叶ってから、あの痛みを感じたことはなかった。
特に庵に居を移してからは、すぐ近くに彼女の気を感じていることが出来たから。
神子としての務めを終えた後も、花梨の気は清浄で暖かい。
今まで幾度となく癒されて来た彼女の気を常に感じ取ることで、傍に花梨がいることを確認し、安心していた。
もうあの痛みを感じることはないのだと――…。
しかし……。

(私が庵を訪ねて来る者たちの相手をしている間、花梨はずっとあのような痛みと苦しみを感じていたのだろうか?)

誰かを想うが故に湧き起こる『淋しい』という感情――。
花梨にとっては、泰継を想うが故の痛み……。

『私には泰継さんしかいないのに……』

花梨は先程そう言った。
同じ事を、泰継も思ったことがあった。
あの物忌みの日、花梨の身に龍神が降りた時――。
龍神に呑まれ、花梨が花梨でなくなりそうになった時、思わず口を衝いて出た本音。
あの時襲われた恐怖と胸の痛みは、生涯忘れられそうにない。

――あのような痛みを花梨も感じていたのだろうか…?

ズキリ、と胸に痛みが走り、泰継は秀麗な顔を顰めた。
その痛みに耐え兼ね何かに縋るように、無意識に自分の胸に顔を隠すように抱き付いている華奢な身体を抱き寄せた。


「……すまなかった……」

耳元で呟くように告げられた謝罪の言葉に驚き、花梨は泰継の表情を確かめようとした。彼の声が、苦しそうに聞こえたからだ。
しかし、泰継が抱き寄せた花梨の肩に顔を埋めるような姿勢だったため、花梨には彼の表情を確認することは出来なかった。
「……泰継さん?」
泰継の背に手を回しながら、花梨は声を掛けた。
「……………」
泰継はそれには応えず、花梨の肩に顔を埋めたまま動かない。花梨は彼が口を開くのを待つことにした。
やがて小さく息を吐いた泰継が身体を起こすのを感じ、花梨は抱き付いていた手を緩め、再び泰継を見上げた。
泰継はじっと花梨を見つめていた。唇を噛んだままのその表情が苦しげで、そして揺らいだ瞳に浮かんだ表情が今にも泣き出しそうなくらい悲しげで……。
それを見た花梨は、苛々していて思わず口にしてしまった言葉が酷く彼を傷付けてしまったことに気付き狼狽した。自分よりも遥かに長い年月を生きて来たにも拘わらず、赤子のように純粋で繊細な心を持っている人だと知っていたはずなのに……。
「……泰継さん…?」
花梨は口を噤んだまま開こうとしない泰継の左腕を掴み、心配そうに顔を覗き込むと、再度名を呼んだ。
唇を噛み締めていた泰継は、何か言おうと口を開きかけた。しかし上手く言葉が出て来ない。
暫く花梨の顔を見つめていた泰継は、彼女の頬に右手を添えた。そこには涙を流した跡がくっきりと残っていた。
それを確認した泰継の顔が、まるで痛みを覚えたかのように歪んだ。
花梨の頬を確かめるように撫でながら、泰継は徐に話し始めた。
「私に『淋しい』という感情を教えてくれたのはお前だったのに……。お前に、あの時私が感じたのと同じ苦しみを与えてしまったのだな。……すまなかった……」
その言葉に花梨が目を瞠る。
泰継は花梨の頬に右手を添えたまま、親指で彼女の頬に残る涙の跡を拭った。
「お前と庵に戻ってから、私は常にお前の気をすぐ近くに感じることが出来た。眠っていても、起きていても、私の傍にお前が確かにいるのだと感じていられたから、あの痛みを感じることは無くなっていたのだ」
花梨は頬を撫でる手の温かさを感じながら、じっと泰継の瞳を見つめていた。
涙の跡をなぞるように動いていた指がぴたりと止まる。
「だから、お前もそう思っているものと、思い込んでいた……」

――傍にいるお前の気を感じるだけで、温かい気持ちになれたから――…。

『泰継さんが皆と話している間、私には居場所がなくて…。淋しくて…でも泰継さんには言えなくて…。二人だけで過ごしたくて北山に住みたいって思ったのに……』

龍神から聞かされた、花梨が天狗に漏らした本音――…。
ただ傍にいるだけでは駄目なのだと気が付いた。
こうして花梨に触れて、花梨を見つめて、そして話して――…。
それは自分自身も望んでいた事だったのに……。
北山に戻ってから、殆どそうする機会がなかったように思う。
訪ねて来る者たちの話を聞いてやることに時間を取られ、花梨の話を聞いてやることが出来なかった。
その結果、天狗が言うように、花梨に淋しい思いをさせて泣かせてしまったのだ。

『そなたに神子を任せることは出来ぬ』

龍神がそう言うのも当然だ。
だから、花梨を元の世界に帰すと言われても反論出来なかった。

今、花梨を失ったら、『淋しい』と感じるだけでは済まないだろう。
きっと、壊れてしまう――。

「二度とお前に淋しい思いはさせない。だから……」
頬に触れていた手がゆっくりと離れていく。
「…だから、何処にも行かないで欲しい……」

(私を、置いて……)

その言葉を飲み込んだ泰継は、花梨から目を逸らして俯いた。


じっと黙ったまま泰継の話を聞いていた花梨は、自分の事しか考えていなかったことに漸く気付いた。
自分は彼と話すことが出来ないとすぐに淋しいと感じてしまうが、泰継はそうではない。常に花梨の気を探り、すぐ傍に花梨がいることを感じ取る。余り会話が無くても、泰継にはそれだけで充分だったのだろう。元より口数が少ない人だから。
それに、ここ十日程のすれ違いばかりの生活の中でも、朝餉と夕餉の時間だけは二人きりで過ごすことが出来ていた。すれ違いばかりの新婚生活を、自分が淋しいと思っている程彼は淋しいと思ってくれていないのではないかと思った花梨だったが、常に花梨の存在を感じ取ることが出来る泰継にしてみれば、『淋しい』と認識する以前の問題だったのかもしれない。

「泰継さん」
視線を逸らしてしまった泰継に、花梨は声を掛けた。
名を呼ばれた泰継が、躊躇いがちに顔を上げる。
花梨は泰継の顔を包み込むように、しかし傷には触れないように両手を彼の頬に添え、自分の方を向かせた。
こちらを見つめる琥珀色の瞳が揺れている。
それを確認した花梨は不安げに揺れる瞳に微笑みかけると、両手で包み込んだ泰継の顔を自分の方に引き寄せる。少し背伸びして顔を近付けると、微かに震えていた唇に自らの唇を重ねた。
軽く口付けた後、花梨は泰継の頬に添えていた両手を放した。
驚きの表情を浮かべた美しい顔が見下ろしている。見開かれた瞳に、既に先程の揺らぎはなかった。
「私は、何があっても泰継さんの傍にいますから……」
言いながら微笑みかけた。
それだけを望み、この京に残ったのだから。
「ただ、お願いがあるんです」
「何だ? 言ってくれ」
何でも聞くと言わんばかりの泰継に、花梨は心の中でくすりと笑った。
「訪ねて来る動物達の相手をしないでと言っている訳じゃないの。でも、そのために一睡もしないで仕事に出掛けることだけは止めて欲しいの」
泰継が花梨に仕事の話をすることは殆どない。恐らく、花梨に余計な心配をかけないようにとの彼なりの配慮なのだろう。しかし、泰継が請け負っているのは他の陰陽師の手には負えない怨霊調伏が多いのだと、花梨は安倍家の当主から聞いたことがあった。神子の務めで怨霊と対峙した経験から、彼の仕事が危険を伴うものであることは花梨にもよく分かっている。泰継の能力を疑っている訳ではないが、やはり万全の体調で仕事に臨んでもらいたい。彼に何かあってからでは遅いのだから。
「分かった。……他には?」
花梨の言葉に頷き先を促す泰継に、花梨は頬を赤らめた。まだ彼にして欲しい事があった。口に出して言うのは恥ずかしいけれど、言葉でちゃんと伝えなければ伝わらないこともある。特に泰継が相手では――。
真摯な表情を宿した瞳を見つめた花梨は、この北山での生活で最も望んでいた事を泰継に告げた。
「何日かに一日の割合でも構わないから、泰継さんと二人きりで過ごしたいの……」
口にしてしまってから恥ずかしさが湧いて来て、紅潮し易い花梨の顔は真っ赤になった。
「それは、私も望んでいた事だ」
そう望んではいたが、訪ねて来る者たちを無下に追い返す訳にもいかなかったのだ。長い年月、たった独りで此処で暮らして来られたのは、彼らのおかげでもあったから。
だが今の泰継にとって最も大切なものは花梨だ。今日のように彼女を泣かせるような事があってはならない。もし再びそのような事があれば、今度こそ龍神に花梨を掠め取られてしまうかもしれない。
泰継の返答を聞いて一瞬目を瞠った花梨が、笑顔でこちらを見つめている。
出逢った頃から変わらない、見る者を温かく包み込むような笑顔――…。
この笑顔を守りたいと思う。
「他にはないか?」
泰継が問う。自分はまだ花梨が口には出さず心の中で思っている事を察してやることができる程、人の心を理解できていないのだという自覚が泰継にはあった。だからこの機会に、彼女が考えている事をすべて知りたいと思ったのだ。
「ううん。それだけ……」
ふるふると首を横に振った花梨は、ふと大切な事を思い出して「あっ」と声を上げた。
「何だ? 私に出来る事なら叶えるから言ってくれ」
真剣な面持ちで泰継が問う。
「あのね、さっき言った言葉を取り消してもいいですか?」
その言葉の意味が判らず、泰継が軽く小首を傾げる仕草を見せた。その動きに合わせて、長い髪がさらりと流れた。
その様子を見て微笑んだ花梨は、突然泰継の胸に身体を預けた。彼の背に手を回して抱き付くと、着物に焚き染めた菊花の香りが花梨の鼻腔をくすぐった。
その香りに後押しされるように、花梨は言いたかった言葉を彼に告げた。

「泰継さん、大好き…!」

突然身体を預けて来た花梨を抱き留めた泰継は、花梨の肩に手をやろうとした時聞こえて来た言葉に手を止め、花梨を見下ろしたまま目を瞠った。
―――大好き……。
花梨は繰り返しそう呟いた。さっき思わず口にしてしまった「大嫌い」という言葉を打ち消すように。
言葉には魂が宿るのだという。だから、既に口にしてしまった言葉が元に戻らないのならば、逆の意味の言葉を発して、その言葉に宿る力で先の言葉を取り消したいと思ったのだ。
今口にした言葉こそが、花梨の本当の気持ちでもあるのだから。

「……花梨……」
突然の花梨の言動に目を瞠ったまま呆然としていた泰継は、漸く微笑みを浮かべた。抱き付いて来た身体を抱き寄せ、花梨が確かに自分の腕の中に在ることを確かめる。
清浄で暖かい気が伝わって来る。その心地良さに、泰継は花梨を抱き寄せたまま目を閉じた。
「…ありがとう……」
自分の背にしがみ付くように抱き付いた手が、更に強く抱き付いて来るのを感じた。


「――やれやれ……。仲直りできたかの……」

松の木から降って来た言葉に、花梨の身体がぴくりと反応する。天狗がいたことをすっかり忘れていた。人前でかなり恥ずかしい言動をしてしまったことに、花梨の顔は益々赤くなった。

「泰継。お主、もう少し女心というものを理解する必要があるぞ? 頻繁にこのような事が起きるようであれば、お主の親代わりとして儂は神子に合わせる顔が無いわ」
「何時からお前が私の親代わりになったのだ?」
溜息混じりに言う天狗に、泰継はあからさまに嫌な顔をした。花梨に向けていた声とは全く違う冷たい声で、不機嫌そうにそう言う。しかし天狗は気にした様子もなく答えた。
「お主が精髄の状態でおった頃からに決まっておろう?」
晴明が亡くなってから、天狗が安倍家を訪れることはなかった。それ故、人型を得た泰継と初めて会ったのは、彼が安倍の家を出て北山に庵を構えた時であった。
しかし、天狗は人型を得る前の泰継を知っていた。
晴明に力を貸し、二人の力によって生み出された泰明を息子のように思うのと同様、人型を与えられず精髄のまま保管されたもう一つの核のことも我が子のように思う気持ちが、天狗にはあった。
彼らは共に亡き友の力を継ぐ者であったから。
泰明が姿を消し、数年後に晴明が亡くなり……。それから長い歳月を経て、神子のおかげで人となったあの核が今目の前に立っている。天狗としては世話を焼かずにはいられないのだ。

「泰継さんってば。天狗さんは泰継さんのことを心配してくれているんですよ」
自分が人型を得る前の話を持ち出され、益々不機嫌になり押し黙ってしまった泰継に、くすりと笑って花梨が言った。
天狗を睨み付けていた泰継が花梨に視線を落とすと、嬉しそうな笑みを浮かべた顔が見つめていた。
「やはり神子はよく判っておるのう」
のんびりした口調で天狗が花梨に言う。こちらを向いて微笑む花梨に笑みを返した後、泰継に向かって言った。
「お主のような朴念仁には勿体無い良い嫁じゃ。龍神の仕置きに懲りたなら、大切にすることじゃな」
「お前に言われるまでもない」
むっとして返答する泰継に、天狗は再びしわがれた笑い声を響かせた。
「皆には暫くお主の庵には近付くなと儂から言っておこう。訪問を受けたくない日は、戸口に式でも置いて応対させれば良いじゃろ?」
「………分かった」
天狗の提案を不承不承受け入れた泰継が頷く。


「泰継さん、龍神様に何されたの?」
花梨は泰継の手を取り、手首に残った縄で縛られたような痕を見つめた。
「……お前を追おうとして、足留めされただけだ」
泰継は傷を隠すように花梨に掴まれていた手を引いた。龍神との遣り取りを、花梨に詳しく話すつもりはなかった。余計な心配をかけたくなかったからだ。
「でも、こんな怪我して……。もし傷跡が残ったりしたら、私、絶対龍神様を許せない!」
漸く血が固まりかけた泰継の頬の傷に手を遣り、花梨が言う。その言葉を聞いた天狗が笑みを浮かべる。親代わりを自任する者達の思いは、子供達には中々に通じないものらしい。
「私は別に構わぬが……。お前は嫌なのか?」
「絶対嫌ですっ!!」
自分が傷を負った訳ではないのに何故か龍神に対して怒っているらしい花梨の厳しい口調に、泰継が驚き目を瞠る。浅い傷だから痕が残ったとしても目立たないだろうに、何故彼女が怒るのか泰継には解らなかった。
「早く手当てしなくちゃ……」
心配そうな表情を浮かべた花梨が、頬の傷をなぞるように指で触れた。
その時―――
「えっ?」
自分の手を見た花梨が驚きの声を上げた。泰継の頬に触れていた花梨の手から、光が発せられたのだ。
それは一瞬の出来事だった。
眩いばかりの光が収束した後、泰継の頬にあった傷は跡形も無く消えていた。
「どうして……」
呆然と呟いた花梨は、更に泰継の手を見て驚いた。手首にあった縄で縛られたような痕も手の甲にあった傷も、すべて消えていたのだ。泰継が着ていた着物に残る傷だけが、龍神が彼に対してした仕打ちの名残を残しているだけだった。
「龍神の仕業のようだな」
先程の光に龍神の神気を感じ取った泰継が、手で頬に触れ傷が消え去っていることを確認しながら花梨の疑問に答えた。
「ふぉふぉふぉ。龍神も神子にだけは嫌われたくなかったのじゃろうよ」
「許せない」と言われ、慌てて泰継に付けた傷を治すあたり、京の守護神も自らが選んだ神子には弱いようだ。
「良かった……」
花梨が泰継に微笑みかける。その笑みに、泰継も微笑みを返した。

やがて笑みを消し真顔に戻った泰継は、懐から式符を取り出し呪を唱えた。符は忽ち白い小鳥の姿に変化し、泰継の指に止まった。
「『体調が優れぬ故、今日の祈祷に参じることは出来ぬ』、安倍家の者にそう伝えよ。――行け!」
式神にそう命じて空に放った。白い小鳥は真っ直ぐに安倍家へ向けて飛び去った。
暫しその姿を見送っていた泰継は、突然袖を引かれ、花梨に視線を戻した。心配そうな表情を浮かべた顔が見上げていた。
「どうした?」
「泰継さん、どこか具合悪いの?」
頬や手の傷の他にも龍神に何かされたのではと思い、心配そうに花梨が訊ねた。
花梨の言葉に軽く目を瞠った泰継は、すぐに彼女が誤解していることに気付いた。微笑みを浮かべ、花梨の誤解を解くべく説明する。
「そうではない。だが、今日は仕事は休む。『一睡もせずに仕事には出掛けない』――さっきお前とそう約束したからな」
一瞬きょとんとした表情を浮かべた花梨は、彼の言葉の意味を悟り破顔した。早速自分との約束を果たそうとしてくれていることが嬉しい。
「じゃあ、早く庵に帰って休まなきゃ。泰継さん、最近ほとんど眠っていないでしょう? ゆっくり休まないと、身体を壊しちゃいますよ」
言いながら、花梨は泰継の腕に自身の腕を絡めた。
「帰りましょう。私たちの家に……」
微笑みながら頷く泰継に自らも微笑みを返した花梨は、天狗松の方を振り返った。花梨の目には天狗の姿は見えないが、天狗が座っていると思われる枝を見つめた。
「天狗さん。話を聞いてくれて、ありがとう」
幸せそうな笑顔を向ける花梨に、天狗は眩しげに目を細めた。先刻彼女に声を掛けた時は、まるで萎れてしまった花のようだったのに、今は待ち兼ねた春を迎えて咲き誇る花のようだ。
その笑顔を見つめながら、天狗は鴉たちが告げに来たことを思い起こした。泰継が他の者には決して見せる事がない最高の笑顔を向ける相手が花梨でしかないように、花梨が最高の笑顔を見せるのも泰継の前だけのようだ。
―――神子は心から泰継を愛している……。
それを確認し、天狗は安心した。


「神子。またその朴念仁に何か困った事があったら、何時でも此処に来るが良いぞ。儂はこの刻限には大抵此処におるからの」
泰継と手を繋ぎ庵に向けて歩き始めた花梨に、天狗が声を掛ける。
それを聞いて、花梨は振り向き笑顔で頷いた。彼女とは対照的に、「余計な事を言うな」と言わんばかりの顔で睨み付ける泰継に、天狗は苦笑した。
彼らの姿が見えなくなるまで見送った天狗は、泉の方に目を転じ、物思いに耽る。
幸せそうに歩き去る二人の後姿を松の上から見つめていた天狗の脳裏に、遥か昔同じように手を繋いで北山を後にした泰明と彼の神子の姿が過ぎった。
彼らはその翌日、京を去った。
だが恐らく現在も、神子の世界で二人幸せに暮らしているはずだ。
そして、今は泰継の傍にも彼の神子がいる。
二人の龍神の神子は京に安寧を齎しただけでなく、重い宿命を背負って生み出された彼らにも幸せを齎す存在であったようだ。


(―――晴明……)

天狗は今は亡き友に心の中で呼び掛けた。


――晴明……。お主の息子たちは、自らの力で幸せを勝ち取ったようじゃぞ……。



漸く昇りきった太陽の光が木漏れ日となって水面を輝かせるのを見つめながら、天狗は満足げに微笑んだ。







〜了〜


あ と が き
CD「雪月花」収録のミニドラマ「北山の庵のとある一日。」を聴いて、ふと「花梨ちゃんと住んでいても、庵はこんな状態なのだろうか」と思ったので、泰継さんの天然度を150%アップさせて書いてみました。思い切りニセ入ってます(笑)。カッコ悪いし……。
花梨ちゃんと天狗さんに会話させたいと思っていたので、天狗さんには「夫婦喧嘩の仲裁に入る実家の母」役をしてもらうつもりでしたが、いつの間にやら親バカ天狗に(笑)。天狗さん、気に入ったので今後も創作に登場するかもしれません。
同じく親バカな龍神様もご登場。泰継さんとの会話を入れようかと思ったのですが、結局止めておきました。こちらはそのうちおまけショートとして書くかもしれません。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
themes' index back top