35 すれ違い−1−
「泰継さんの馬鹿っ! もう大嫌いっ!!」

北山の朝の静寂を破る叫び声を上げた花梨は、バタンッと大きな音を立てて庵の戸を開けると、何処へともなく駆け出した。

花梨が発した言葉に、泰継は一瞬何を言われたのか解らず呆然とした。
彼女の言葉が頭の中をぐるぐると回りながら響いているように聞こえる。
(大…嫌い……?)
ズキリと胸に走った痛みに泰継は我に返った。
こんなことをしている場合ではない。彼女の跡を追わなければ……。
泰継は突然駆け出した花梨を追うべく、慌てて庵から飛び出した。
「待て! 花梨っ!!」
人が訪れることが殆どないため獣道のようになっている山道の少し先に、泉の方に駆けて行く花梨の後姿が見えた。泰継は花梨の跡を追うため、春を迎えて間もない山道を走り出した。
しかし――…
「……っ!?」
走り出した泰継の行く手を阻むものがあったのだ。
それは、下草の蔓だった。
蔓はまるで意思を持つかのように、花梨を追おうとする泰継の邪魔をする。走り去る花梨に意識を集中させていた泰継は、山道の脇から突然伸びて来た蔓を避けることが出来ず、足首や手首を絡め取られてしまった。舌打ちした泰継は力任せに蔓を引き千切ろうとしたが、却ってきつく手首に食い込み、身動きが取れなくなってしまった。
前方には、北山の更に奥へと駆けて行く花梨の姿があった。恐らく全速力で追いかければ簡単に捕まえることが出来るだろうに、思いも寄らず入った邪魔に泰継は唇を噛んだ。
「花梨っ!!」
再び愛する者の名を呼んだ泰継は、唇を噛んだまま、道の先に消えて行く花梨の背中を見送るしかなかったのだった。







泰継の想いを受け入れ京に残った花梨は、無事新年を迎えた後も、暫くはこれまでと変わらず紫姫の館に身を寄せることにした。お互いの気持ちを確かめ合った今、本当はすぐにでも泰継のところに行きたかったのだが、やはりそのためには何かと準備が必要だったのだ。
泰継は現在安倍家の離れを借り受けているが、いつまでも安倍家に頼るわけにもいかないだろう。これから花梨と共に暮らすために、生活を成り立たせる必要があった。幸い八葉の務めを果たし終えた泰継の元には、安倍家からだけでなく、八葉の仲間たちを通して仕事の依頼が舞い込んでいた。それらをこなしつつ、泰継は花梨のために生活環境を整える努力をしていた。
それに対し、花梨には京で暮らしていくために色々と習い覚えることがあった。結婚するからには、泰継に手料理を食べさせてあげたいし、彼の装束も自分の手で縫ってあげたい。それらの夢を叶えるために、もう暫く紫姫のところに世話になり、女房たちから教えてもらうことにしたのだ。
そして雪が融ける頃、すべての準備が整い祝言を挙げた二人は、花梨の希望で、泰継が八葉に選ばれる前に独りで住んでいた北山の庵に居を移したのだった。

花梨が北山の庵に住みたいと言った時、泰継は反対した。
北山の冬は寒い。特に泰継の庵がある辺りは、殆ど訪れる人もない奥地である。本格的な冬になれば雪に閉ざされてしまうのだ。そのような所に大事な花梨を住まわせることは出来ないというのが泰継の意見だった。
「じゃあ、次の冬が来るまででいいから……。それまで、泰継さんの庵で暮らしたいの」
結局、花梨の提案を泰継が受け入れ、次の冬が来るまで庵で生活することになったのだ。
花梨が泰継の庵を新居にしたいと強く希望したのには、実は理由があった。
お互いの気持ちを知ってからもずっと、花梨と泰継は龍神の神子と八葉という立場だったから、如何に二人の関係が周囲の人間に知れ渡っていたとしても、恋人同士として大っぴらに振舞うことは出来なかったのだ。花梨にとっては、初めて出来た恋人とデートも出来ないことが、とても淋しいことだった。
だからせめて結婚後暫くの間は誰の邪魔も入らない場所で、最愛の人と二人きりの甘い新婚生活を送りたいと思ったのだ。
しかし、そんな花梨の細やかな夢は、転居初日から破られることになったのだった。



初めて庵で迎えた夜のこと――

夕餉を終えて寛ぐ二人の元に、客が訪れた。
もう日も落ちて辺りは漆黒の闇に包まれている。ましてや庵のある場所は北山でもかなり奥深い場所であり、昼間でも訪れる人間はいないのだ。それなのに微かに戸が叩かれる気配を感じ、花梨は不審に思った。
「泰継さん…。今何か聞こえなかった?」
「ああ。心配いらぬ」
泰継にはその気配が何であるのか分かっていたようだ。花梨の問いにそう答え、静かに立ち上がると戸口へと向かう。
「お前か……。久しぶりだな。息災だったか?」
戸を開けた泰継は、訪ねて来た何者かに親しげにそう話している。
こんな時間に一体誰がやって来たのだろう。
「泰継さん、お客さま?」
不思議に思い戸口に向かった花梨は、泰継が話していた相手を見て驚いた。
訪ねて来たのは狐だったのだ。四匹いる。どうやら親子のようだった。
泰継の背後から覗き込むように顔を出した花梨に、母狐はぴくりと身体を緊張させた。
「心配いらぬ。私の妻だ」
泰継の言葉に花梨の頬が赤くなる。祝言を挙げ、結ばれたとは言っても、花梨にはまだ泰継の妻となった実感が余りなかったのだ。今日から同じ屋根の下で暮らし始め、漸く実感が湧いて来たところである。
彼が当然のように自分のことを妻として紹介してくれたことが、花梨はとても嬉しかった。
「私が山を下りている間に子が生まれたのか?」
泰継の問い掛けに応えるように、母狐が鳴き声を上げた。
(泰継さん、狐と話せるの?)
陰陽師という仕事柄、死んだ者の霊と話が出来ることは知っていたが、動物とも話すことが出来るとは花梨も知らなかった。
(すご〜い! さすが私の泰継さん!)
花梨は母狐の話を聞いている泰継の横顔を惚れ惚れと見つめていた。
「……何? 子が怪我をしたと? 見せてみろ」
母狐の話を聞いていた泰継が、突然その場に屈んだ。花梨も慌てて彼の手元を覗き込んだ。泰継は母狐が連れて来た子狐三匹のうち一匹の後肢に手を添え、傷の具合を診てやっている。まだ小さく可愛らしい肢が、血に染まっている。深手なのか、まだ血は止まっていないようだ。早く止血しなければならない。
泰継は怪我をした子狐を抱き上げ、立ち上がった。
「とにかく中に入れ。傷の手当てをしよう。――花梨」
庵の中に入りながら、泰継が花梨を呼んだ。返事をした花梨は泰継の指示を待つ。
「水と、何か布を……。私の単で構わぬ」
庵には必要最低限の物しか置いていない事を思い出し、泰継は自分の単を使うことにした。
「はい!」
元気良く返事をした花梨は、泰継の言い付けを果たすべく、唐櫃を置いてある奥の部屋へ急いだ。


結局、その夜は狐の親子を庵に泊めることになった。狐は夜行性の動物なので、深夜になっても眠ろうとはしない。「先に休め」と言われてしまい、花梨は先に眠ったのだが、泰継は怪我をした子狐の様子を看ながら朝までずっと母狐と話していたようだった。途切れ途切れに花梨の耳に届いた泰継の言葉から、話していたと言うよりむしろ、母狐の話を聞いてやっていたと言ったほうが正しかったかも知れない。
狐の親子は毎日傷を見せに来るよう泰継に言われ、翌朝には帰って行ったのだが、泰継に訊ねてみると、こういう事は以前からよくあったのだという。
それを聞いて、花梨は少し嬉しくなった。自分と出逢う前の彼の生活の一端を知ることが出来たからだ。
八葉となる前の泰継が、長い年月をたった独りこの北山の奥地で過ごしてきたのだと初めて聞いた時、淋しくはなかったのだろうかと思ったものだ。しかし後に彼に訊ねると、「話し相手には不自由していない」との答えが返って来たのだ。その時はよく解らなかったけれど、彼の言葉の意味が漸く解ったような気がした。
それに、昨夜やって来た狐は、最初から彼を頼って庵を訪れたようだった。きっと、泰継なら子狐の怪我を治してくれると思って連れて来たのだろう。
(泰継さんって、すごく優しい人だものね……)
泰継は人間も動物も分け隔てなく同じように接する。それは時として他人から敬遠される原因になっていたようだが、動物達には関係ないようだ。
子狐の治療をしてやり、母狐の話を聞いてやっている泰継を目の当たりにし、花梨は結婚した今もなお新たに知った彼の優しさに惹かれている自分に気付き、頬を紅潮させた。
北山の動物達にまで頼りにされている彼が自分の夫であることが、誇らしく思える。
だから、花梨の夢であった二人きりの甘い新婚生活初日に思い掛けず入った邪魔も、花梨にとっては歓迎すべきことだった。


ところが、“思い掛けず入った邪魔”は、それだけに留まらなかったのだ。
北山に居を移してから連日のように、昼は兎や鹿、夜は狐や狸などの動物達が次々と庵を訪れるようになったのだ。それらの動物達すべてを泰継は知っているようだったから、彼らは以前からこうして彼の元を訪れていたのだろう。八葉となってから花梨との祝言までのここ数ヶ月の間、泰継は殆ど庵に帰らず洛中で過ごしていた。その彼が北山に帰って来たことを知った動物達が、順番にやって来ているようだった。
動物だけでなく、深夜この世に思いを残して儚くなった女の霊がやって来たこともあった。その時も泰継は彼女の話を聞いてやり、陰陽師として黄泉の国へ送ってやったのだ。
北山で生活するようになってからの訪問客の多さに、最初のうちは花梨も泰継が沢山の動物達に好かれていることを知って喜んでいたのだが、さすがに連日昼夜を問わずに訪問されると喜んでもいられなくなった。
(ここなら泰継さんと二人きりになれると思ったんだけどなぁ……)
花梨の溜息は絶えなかった。
しかも、以前の泰継なら目覚めの三ヶ月間は眠る必要がなかったから良かったものの、現在の彼は普通の人と同じく充分な睡眠を取らなければ身体を壊してしまうだろう。しかし泰継は花梨のおかげで人となった現在も、以前同様の行動をしていることが多いのだ。だから夜中に訪ねて来た動物達を追い返すこともなく、朝まで話し相手をしてやったりしている。
それが彼の優しさだと言えばそうなのだろうが、身体を壊してはどうしようもない。花梨にはそちらのほうが心配だった。

しかし日が経つにつれ、彼が自分よりも動物達を優先しているように思えてきて、花梨の中に不満が生まれて来たのだった。
実際、紫姫の館に身を寄せていた頃のほうが、泰継と過ごせる時間が長かったように思う。今は同じ屋根の下で暮らしているとは言え、彼が訪ねて来た動物達と話している間、庵の中に花梨の居場所がないのだ。何だか自分が邪魔者のように思えて、いつも疎外感を感じてしまう。せめて泰継のように動物達の話している事が解ればいいのだが、花梨には彼らの言葉は解らないから話の輪に入れない。
だから彼らがやって来た時は、夜は仕方なく先に褥に入り、昼は家事が終われば手習いをしたり紫姫からもらった草紙を読んだりして過ごしている。
そんな時は、すごく淋しい。
訪ねて来る動物達は、泰継にとっては自分と出逢う前からの旧友のようなものだから、これからも彼らとの関係を大切にして欲しいとは思う。しかし、まだ結婚したばかりなのだから、たまには甘えさせて欲しいと思うのは、我が儘な願いだろうか。
一緒に暮らしているのに、最近では離れて暮らしていた頃より泰継と二人で過ごす時間が減ってしまっているのが悲しい。
その大きな原因は、夜も動物達の相手をしてやっている所為で、泰継が眠る時間が不規則になってしまったことだった。
最近の泰継は、花梨が眠った後も翌朝まで彼らの話相手をし、花梨が起きる頃になると眠ってしまうのだ。そして泰継が目覚め、漸く二人きりになれるかと思えば、まるで花梨の夢を壊すかのように、今度は昼行性の動物達がやって来る。夕刻彼らが帰れば、また夜行性の動物達がやって来るか、泰継が仕事に出掛けてしまうかどちらかだ。
そして、花梨はすれ違いばかりの新婚生活を淋しく思いながら、それを泰継に打ち明けることも出来ず、眠れぬ夜を過ごすことになるのだった。


そんなすれ違いの生活を送ること約半月――。
とうとう花梨の我慢が限界に達してしまったのである。







庵を飛び出した花梨は、更に山の奥へ向けて細い山道を走っていた。行き先は全く考えていなかった。ただ、今は泰継の顔を見ているのが辛かったのだ。
走りながらさっきの彼との遣り取りを思い出し、涙が溢れて来た。視界が涙で霞み、花梨は走るのを止めた。手で目を擦りながら、弾んだ息を整える。唇を噛み締め、溢れ出ようとする涙を何とか堪えた。
今朝、また昨夜訪ねて来た狸の相手をしていて一睡もせずに朝を迎えた泰継に、花梨はつい愚痴を零してしまったのだ。最初は仮眠を取る時間もなく、朝餉の後すぐに安倍家から依頼された仕事に向かおうとしている彼の身体を気遣って諌めていたのだが、話しているうちにここ半月の間に溜まっていた不満や淋しさを彼にぶちまけてしまったのだ。
感情的になって半月分の不満や怒りを捲し立てるように話す花梨に泰継が掛けた言葉は、「落ち着いて話してくれぬと解らぬ」というものであった。
確かにかなり感情的になっていたと自分でも思う。しかしその時、いつもと変わらぬ冷静な表情と口調の泰継を見て、更に怒りと悲しみが込み上げてきたのだ。すれ違いばかりでゆっくり彼と話をすることも出来ない日々が続いていることを、自分が淋しいと思っている程彼は淋しいとは思ってくれていないように思えて……。

『そばにいてくれ……』

あの日、確かにそう言われたけれど……。


――泰継さんにとって私は、人形みたいにただ傍にいればいいだけの存在なの?


そう思った途端涙が込み上げてきて、考えるより先に叫んでいた。


『もういいよ……。泰継さんの馬鹿っ! もう大嫌いっ!!』


そして何も考えられずに庵を飛び出し、現在に至る――。




(私って、やっぱり子供だなあ……)

花梨は深い溜息吐いた。
このところ泰継とほとんど話すことも出来なかったことがストレスとなっていたのか、苛々していて思わず心にもないことを口にしてしまった。

「大嫌い」なんて思ったこともないのに……。
家族も友人も、そして自分が生まれた世界さえ捨てても惜しくなかったくらい、好きで好きで堪らない人なのに――…。

花梨は後ろを振り返った。視線の先には、今自分が走って来た山道が庵へと続いている。
だが、そこに泰継の姿はなかった。
泰継なら、きっと追いかけて来ると思ったのに……。
通る者も殆どない山道には、春を迎えて成長し始めた草が風に吹かれて揺れているだけだった。
それを見ていた花梨の瞳がまた潤み始めた。

(「大嫌い」なんて言っちゃって、もう泰継さんに嫌われちゃったかな……?)

――だから、追いかけて来てくれないのだろうか……。

そう思うと、帰るに帰れない。
道の向こうから泰継が現れるかもと期待したが、その気配はなかった。
待ち人が来なくて、待ち合わせ場所でたった一人取り残されたような気分になった。
何だか心細くて堪らない。
吹く風は先日までとは打って変わって暖かいのに、寒さを感じてぶるっと身体を震わせた花梨は、自分自身を抱き締めた。

(これからどうしよう……)

庵には帰りたくなかった。
泰継に嫌われたかもしれないと思うと、怖くて……。
かと言って、紫姫の所に行こうとすると、庵の前を通らなければならない。
「…………」
庵に向かう山道を見ていることが出来なくて、花梨は再び庵と反対方向を振り返った。ふと目の前に広がる風景を見て、花梨の目が大きく見開かれた。見覚えのある風景であることに気が付いたのだ。

(ここは――…)

奇妙な形に枝が曲がって伸びている松の木。
その向こうに広がっている霊水を湛えた泉――…。

(ここ、泰継さんと初めて会った場所だ……)

京に召喚された花梨が降り立った場所――。
飛んでいた小鳥が紙片に変化し、泰継の手の中に収まるのを見て驚いたことを思い出す。
花梨の気配に気付き振り返った彼の瞳を見て、まるで呪縛されたように目を逸らすことが出来なくなった。
翡翠色と琥珀色の瞳――。
信じられないくらい綺麗な人だと思った。
この想いはあの時に生まれたのだと、今になって思う。

二人が出逢った記念すべき場所なのに、そこに独りで立っていることが淋しくて心細かった。
夜が明けたばかりの北山は静かだ。木々が立てる微かな葉擦れの音と、時折山中に響く鳥の声以外に耳に届く音はない。
その静けさが、益々花梨の孤独感を煽る。
「泰継さんの馬鹿……。追いかけて来てくれてもいいじゃない……」
半べそをかいた花梨は、つれない夫にぼそりと小声で悪態を吐いた。
と、その時―――


「その神気――…。お主、龍神の神子か?」


突然、目の前の松の木の上から、しわがれた声がそう話し掛けて来た。驚いた花梨は、慌てて声がした方を見上げた。しかし、松の枝には声の主の姿はなかった。
「誰……?」
辺りをきょろきょろと見回しながら誰何する花梨に、「ふぉふぉふぉ」という掠れた笑い声が応えた。
「儂か? 儂はこの北山に住む天狗じゃよ」
「天狗さん…?」
「そうじゃ」
声は聞こえるが、どうやら花梨には天狗の姿は見えないらしい。そう言えば、この松の木は天狗が腰掛けるのに適しているから「天狗松」と呼ばれているのだと聞いたことがあった。姿は見えないけれど、恐らく天狗は奇妙な形に曲がった枝に腰掛けているのだろう。
「神子。お主、泰継と一緒になったのじゃろう?」
「泰継さんを知ってるの?」
「そりゃあ、あやつが北山に庵を構えてからの付き合いじゃからのう」
そうだった、と花梨は思う。
(私なんかより、天狗さんのほうが泰継さんと付き合いが長いはずだものね……)
天狗の言葉に、花梨は以前泰継が話し相手として天狗のことを話していたことを思い出した。
(庵に来る動物達も、私より余程泰継さんのことを知ってるもの……)
――何だか、悲しい。
天狗松を見上げていた花梨は顔を伏せた。
庵の中だけでなく、この北山の中の何処にも自分の居場所がないような気がして来た。自分が出逢う前の泰継が長い年月を過ごして来た場所だから、彼の家族として受け入れてもらいたいと思うのに……。泰継と共に生きるために京に残ったのに……。それなのに、どうしてこんなに疎外感を感じてしまうのだろう?
――淋しい……。
京に来てから今まで、こんなに孤独だと感じたことはなかった。京にはもちろん知る人はいなかったが、紫姫は最初から花梨を受け入れてくれていた。そして、最初は花梨が龍神の神子であることに懐疑的だった八葉たちから神子と認められてからは、ずっと紫姫なり八葉の誰かなりが必ず傍にいて、慣れない世界で神子として頑張ろうとしていた花梨を支えてくれていたからだ。
(独りでいるのって、こんなに淋しいことなんだ……)
京に来て最初に出逢った人が泰継で良かったと、今更ながらに思う。もしかしたら誰にも出逢うことが出来ず、北山の山中を彷徨っていたかもしれないのだから。
(泰継さん…。淋しい…よ……)
いつしか花梨は肩を震わせていた。
緑色の大きな瞳から次々と涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちて行く。手で拭っても流れは留まることなく、忽ち顎に向かって涙の道が出来てしまった。
しゃくり上げて泣く花梨を松の上から見つめていた天狗は、小さく溜息を吐いた。泰継とは七十年余りの付き合いであるが、どう考えても彼に女人を上手く扱えるとは思えない。神子が今涙を流している原因が泰継にあるであろうことは、容易に想像が付いた。
(まったく……。愛しい女子を泣かせるとは、仕様のない奴じゃ)
とにかく、神子の話を聞いてやったほうがいいだろう。
天狗は堪え切れずに泣きじゃくる花梨に、泉の辺にある大きな石に座るよう促した。



「どれ、落ち着いたかの?」
花梨は泉の辺、ちょうど天狗松の根元近くにあった大きな石に座ったまま、手で目を擦っていた。彼女が落ち着いて来たのを見て、天狗がそう声を掛けた。
「ごめ…なさい……」
「儂に謝る必要はないじゃろう?」
天狗が掛けた言葉に、花梨は俯いたまま小さく首を横に振った。
「……泰継と喧嘩でもしたのかね?」
その言葉に、今度はぴくりと肩を揺らせる。どうやら図星を指したようである。
「儂で良ければ話を聞くぞ? 泰継は儂にとっては息子も同然じゃからの」
「……息子……?」
俯いたままだった花梨は、弾かれたように目の前の松の木を見上げた。涙で潤んだままの瞳が大きく見開かれている。それを見た天狗は、さっきと同じ掠れた笑い声を上げた。
「泰明のことは泰継から聞いておろう?」
天狗の口から突然飛び出した名に、花梨は驚きつつも頷いた。先代の地の玄武、泰明の名は幾度となく泰継が口にした名前だった。泰継と同じ出自を持つ者であり、稀代の陰陽師、安倍晴明の手により生み出された存在なのだと聞いている。
「その泰明を生み出す時、晴明に力を貸したのが儂じゃ」
天狗が口にした事実に驚愕した花梨は、言葉もなくただ呆然としていた。
「だから、儂にとっては二人とも息子のようなものなのじゃよ」
暫くの間呆然としていた花梨は、やがて自分が抱いた疑問を天狗に告げた。
「じゃあ、泰継さんが生まれた時も……?」
「いいや……。しかし、あやつのほうが泰明より付き合いが長いのでな」
――しかもあやつら、同じ顔じゃからの……。
天狗はそう言って再び笑った。ふぉふぉふぉ、というしわがれた声が山中に響く。
「どうじゃ、話してみんか? 話せば少しは楽になるかもしれぬぞ?」
優しい声音で語り掛ける天狗の言葉に、さっきまであんなに強く感じていた孤独感や疎外感が氷解していくのを感じる。
誰かに自分の話を聞いて欲しいと切望していたことに気が付いた。
独りじゃないと思えることが、こんなに嬉しいなんて……。
――胸が温かい……。
こくりと頷いた花梨は、庵で暮らし始めてからの出来事を天狗に話し始めた。
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