22 思い出−2−
神子の部屋を出た泰継は、館を清めるため再び庭に下りた。いつの間にか日は落ち、庭には篝火が焚かれている。庭のあちらこちらで、火に焼べられた松材がパチパチと乾いた音を立てていた。
神子の部屋のある対屋の正面に立ち、清めを行おうとしたが、何故か陰陽の力が湧いて来ない。目を閉じて印を組み、集中しようと試みたが、先程の神子の顔が脳裏を過ぎって集中することが出来ないのだ。
泰継は深い溜息を吐いて、印を解いた。
神子の今にも泣き出しそうな顔が、目に焼き付いて離れない。
彼女にそのような表情をさせたのは、自分の言葉の所為だと判っている。
石蕗の葉は薬になり、葉柄は食用となるが、それに反して花が何の役にも立たないことは事実である。しかし、花梨が怪我をしてまで花を摘もうとしたことには、何らかの理由があったはずだ。そうでなければ、同行していた幸鷹と翡翠が止めていただろう。それなのに、理由も聞かず、苛立っていた己の気持ちを彼女にぶつけてしまった。
――何故あんなに苛々していたのだろうか……。
泰継は視線を雪が積もった地面へ落とした。

あの時――…
散策から帰って来た神子が怪我をしたことを知り、散策中に何があったのか問い掛けた時、彼女が怪我をした理由を隠そうとした時からだ。このような苛立ちを感じたのは。
同行していた幸鷹や翡翠が知っている事実を、花梨が自分にだけは話そうとしなかったことが、何故か泰継の気に障ったのだ。
京に来て最初に出逢ったのが泰継だったせいか、花梨の一番近くにいたのはいつも泰継だった。分からない事があれば、花梨は他の誰でもなく、真っ先に泰継に訊ねていた。
それが当たり前のようになっていたので、いつの間にか自分の中に驕りに似た気持ちがあったのかもしれない、と泰継は思う。他の人間には話さなくても、神子は必ず自分には話してくれるだろうと、そう思うようになっていたことに気が付いたのだ。
そして、更に苛立ちを募らせた原因は……。

「――何か用か?」
泰継は地に積もった雪に視線を落としたまま、先程から無言のまま自分を見つめている人物に声を掛けた。庭に立っている泰継から、かなり離れた簀子の上に佇んでいたその人物は、こちらを見もせず如何にも冷たい声を掛けて寄越した泰継に、ふふ、と笑みを零した。
「やはり気付いていたのかい。流石だね」
花梨の部屋を出た後、幸鷹に神子の涙に衝撃を受けたらしい紫姫を自室まで送らせ、翡翠は泰継の様子を見に来たのだ。
泰継がいつもの彼らしくない態度を取った理由を、翡翠は彼自身よりも明確に把握していた。もちろん、自分の振舞いが彼の苛立ちに油を注ぐ結果となったことも、十分理解している。
(少しからかい過ぎたかな)
その結果、花梨を泣かせてしまったのだから、その後始末はすべきだろうと思ったのだ。
翡翠は泰継が立っている方に近付いた。ちょうど泰継の正面まで来ると、翡翠はその場に立ち止まり、簀子の上から彼に話し掛けた。
「そんなに苛立っていては、館を清めるのに差し支えるのではないのかい?」
「用があるなら、早く言え」
顔を上げ、面白そうに言う翡翠に目を遣ると、泰継は更に温度の下がった声でそう言った。
この男のこういうところは苦手だと泰継は思う。
遊んでいるように見えて、状況を把握する事や他人の心を読む事に長けている。自分自身でさえ把握しかねているこの感情を、彼にはすべて見透かされているような気がするのだ。
「ふふ。では、遠慮なく言わせて頂くとしよう」
そう言った後、翡翠は先程から浮かべていた笑みを消した。
「明日が何の日か、覚えているかい?」
「明日……? 明日は神子の物忌みの日だ」
陰陽師である泰継が知らぬはずはない。何故そんな事を聞くのだと言わんばかりの泰継の答えに、翡翠は僅かに口端を上げた。
「では、何故神子殿があの花を摘もうとしたか、判るだろう?」
その言葉に泰継が目を見開く。
花梨の物忌みには、八葉が一人付き添う事になっている。京に来てから何回かあった物忌みの前日、花梨はいつも泰継に付き添いを依頼する文を送っていたのだ。菊花香を焚き染めた淡香色の紙に認めた文に、女郎花を添えて。
翡翠は泰継の瞳を見据えた。そこに驚愕し、困惑したような表情が浮かんだことが、彼から離れた簀子の上からでも見て取れた。
「さっき紫姫が言ったことは、本当の事だよ」
真っ直ぐな長い髪をいじりながら翡翠が告げた言葉に、泰継は先程の紫姫の言葉を思い出した。

『今のお言葉、あんまりですわ。神子様は貴方のために……!』

では、明日の物忌みの文に添えるために、石蕗を摘んで来たと言うのか。
怪我をしてまで……。

(私のために……?)

石蕗が好きだと神子に言ったことはなかった。
しかし――…
泰継は昨日の出来事に思い至った。
――そう言えば昨日、紫姫に問われ、葉が薬になる石蕗が好きだと答えた。

(では、神子は紫姫から聞いて……?)

冬がやって来た現在、女郎花はもう何処にも咲いてはいない。
それで、明日の物忌みに間に合うように、今日石蕗を摘みに行ったのだろうか……。

そう考えた泰継は、翡翠から視線を逸らし、いつしか唇を噛んでいた。
その様子を見ていた翡翠は、再び口を開いた。

「覚えているかい? 蚕ノ社で女郎花を見つけた時のことを……」
翡翠は、視線を逸らしたまま考え込んでいる泰継に話し掛けた。
「あの時も、神子殿は君のために女郎花を摘んだのだよ」
驚きの表情を浮かべてこちらを向いた泰継に、翡翠は蚕ノ社での出来事を話し始めた。


まだ帝側の八葉が揃ったばかりの頃――。
翡翠は花梨と二人で蚕ノ社に出掛けたことがあった。
その時、社の境内に女郎花の花が咲いているのを花梨が見つけたのだ。
女郎花は、翡翠の好きな花だった。
『美しいものを見ると、目の保養になるね』
自分の好きな花をそう賞した。
『京では、文に花を添えるのだよ。文に女郎花を添えたら、雅かもしれないね』
京に来たばかりの花梨に、翡翠はそう教えた。花梨も女郎花を気に入ったようだったから。
しかしその時、花梨は女郎花の花を摘まなかったのだ。
花梨がその女郎花を摘んだのは、それから数日後、翡翠と泰継と三人で再び蚕ノ社を訪れた時だった。
境内に咲いていた女郎花を見つめる泰継の表情がいつになく柔らかいことに気付いた花梨が、その場で数本の女郎花を手折ったのだ。
滅多に表情を動かさない泰継の微かな笑みを見て、彼がこの花を好ましいと思っていることを察したのだろう。
気になっていた人物の好きなものを発見し、嬉しそうに微笑む花梨の表情を、翡翠は鮮明に覚えている。


「神子殿は君が女郎花を好きらしいと思ったから、物忌みの文に添えたのではないのかな?」
そうだ、と泰継は思う。
今まで神子から送られて来た文には、必ず女郎花が添えられていた。
女郎花が好きだと、彼女には一度も言ったことがなかったのに……。
「神子殿から文をもらった時どう思ったのか、思い出してみたまえ」
口を閉ざしたまま呆然と立ち尽くしている泰継に、翡翠はそう促した。いつも面白そうに口端に笑みを浮かべている表情が、真顔に変わる。

「それでも『花は何の役にも立たない』と言えるかい?」

いつになく真剣に、諭すような声音で語る翡翠の言葉が胸に突き刺さる。
不意に、あの日、花梨と交わした会話を思い出した。


『そんなに女郎花を摘んでどうするのだ?』
蚕ノ社で女郎花を手折り始めた花梨に、そう問い掛けた。
女郎花の根を煎じたものは吐血などに薬効があるが、花梨が摘んでいたのは長い茎の半ばより上の部分だった。草薬を作る機会が多い泰継にすれば、花だけを集めたところで仕方がないという思いがあったのだ。
泰継に問い掛けられた花梨は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した後、笑顔で答えた。
『だって、綺麗じゃないですか?』
花梨は手に持っていた、摘んだばかりの黄色い花に、視線を落とした。
『だから、部屋に飾ろうかと思って……』
そう語る彼女の横顔が眩しく見えたのが何故なのか、泰継には判らなかった。
その翌日の夜だった。
神子から物忌みの日に来て欲しいとの文を受け取ったのは。
淡香色の文に添えられていたのは、あの日神子が手折っていた女郎花の花――。
黄色い花に、神子の笑顔が重なって見えた気がした。
何も言っていないのに、自分の好みのものを送って来た神子の優しさに、知らぬうちに口端に笑みを浮かべていたことを思い出す。
その時感じた温かい気持ちは、「嬉しい」という感情だったのかもしれない。


『花は何の役にも立たぬ』

(違う――…)

泰継は目を閉じ、小さく首を振った。
あの時感じた温かさは、神子が文に添えていた女郎花が齎したものだ。
翡翠が言わんとしている事に気付き、泰継は唇を噛んだまま、だらりと下ろした手で拳を作った。
先程、自分の言葉を聞いて泣きそうな表情を浮かべていた神子の顔が、脳裏を過ぎった。

その様子を簀子の上から見つめていた翡翠が口を開く。
「自分がどうしたいのか判ったら、行動に移したまえ」
立ち尽くしたまま動く気配がない泰継にそう言った後、翡翠は控室に向かって歩き始めた。
「――翡翠」
その背中に、庭から声が掛かった。
翡翠は足を止め、ゆっくりと泰継の方を振り返った。
「何かね?」
泰継はじっと翡翠を見つめていた。先刻までの苛立った様子は既になく、いつもの表情に戻っているように見受けられた。
「あの石蕗は、何処で手に入れたのだ?」
「逢坂山だよ」
何故彼がそのような事を訊ねたのかは判らなかったが、翡翠は今日神子と共に出掛けた場所を答えた。
「そうか。感謝する」
泰継の口から出た言葉に一瞬目を瞠った翡翠は、笑みを浮かべると、ふと思い出したように付け加えた。
「神子殿は石蕗の花を知らなかったようだが、一目で気に入ったようだったよ」
ふふ、と微かな笑い声を漏らす。
(想い人の好きな花だから、ね……)
心の中だけでそう付け加え、翡翠は控室に戻って行った。


「おや、聞いていたのかい?」
八葉の控室の手前まで来た時、階の近くに佇んでいる幸鷹に気付き、翡翠は声を掛けた。
「ええ。途中からですが……」
ゆったりとした足取りで近付いて来る翡翠に、幸鷹はそう答えた。
「見直しましたよ」
「私は何もしていないよ。ただ、彼に思い出してもらっただけさ」
「まあ、元はと言えば貴方のせいなのですから……」
「これは手厳しいね」
幸鷹の言葉に翡翠は肩を竦めた。
「だが、私も姫君には笑顔が似合うと思うのでね」
花梨が最高の笑顔を向ける相手が誰であるか、皆が知っている事だ。
翡翠はちらりと庭に目を遣った。泰継がまだ先程と同じ場所に佇んでいるのが見えた。
そのまま空に視線を移すと、漆色の空から白いものが舞い落ちて来た。
雪が降り始めたようだ。
今夜も雪が積もるのかもしれない。
翡翠は空から視線を戻し、幸鷹に訊ねた。
「紫姫の様子はどうだね?」
「ええ。随分と落ち着いたようです。まだ神子殿のことがご心配な様子でしたが……」
「ふふ。まあ後は泰継が上手くやるだろう」
再び庭を窺った後、幸鷹を促し、翡翠は歩き始めた。


翡翠が歩き去った後も、泰継はその場に立ち尽くしていた。
不意に、目の前に白いものが落ちて来るのが目に入り、泰継は空を見上げた。
――雪だった。
漆黒に染まった空を背景に、白銀色の雪が浮かび上がって見えている。
次々と舞い降りて来る雪を眺めたまま、泰継はゆっくりと目を閉じた。

神子に謝らなければ……。
そして、神子に、伝えなければならないと思う。
文に添えられた女郎花を見た時の気持ちを。
そして、今日、神子が物忌みの文に添えるために、自分の好きな石蕗を摘んで来た事を知って、「嬉しい」と思ったことを――…。

――神子に、伝えたいと思う……。

『神子殿は、石蕗の花を一目で気に入ったようだったよ』

式符を取り出そうとした泰継は、翡翠の言葉を思い出した。
もし、そうであるのなら……。
泰継はある事を決意した。





全員が部屋から出て行った後、花梨は込み上げる涙を堪え切れず、声を押し殺して泣いた。
悲しくて…。そして、胸が痛くて……。
花梨は左手で胸の上の水干を掴み、右手で涙を拭った。
京に来てから、涙を流したのは初めてのような気がする。
全く知らない世界に連れて来られ、龍神の神子だと言われて、神子の務めを果たすために今まで苦しいことや辛いこともあったけれど、それでも泣いたことはなかった。
それは、泰継がいたからだ。
彼に「よくやった」と褒めてもらいたかったから、辛くても頑張ることが出来たのだ。
それなのに……。

『花は何の役にも立たぬ』

先程の泰継の言葉と冷たい表情を思い出し、花梨は身体を震わせた。
心が痛くて寒かった。
火桶のすぐ傍に座っているのに寒くて堪らなくなり、花梨は両手で自分自身を抱き締めた。


一頻り涙を流した後、花梨はぼんやりと火桶の炭火を見つめていた。
気が済むまで泣いたら、少し落ち着いて来たように思う。あの時の状況も、冷静に思い出すことが出来るようになった。
あの時――…
泰継は、いつもの泰継ではなかったように思う。
幸鷹と話していた時も、普段の冷静な彼らしくない苛立ちを含んだ冷たい口調だった。
(何故……?)
花梨は泰継の苛立ちの原因が何だったのかを考えた。
白虎の二人と共に此処に帰って来て、部屋に戻る途中で会った時、既に泰継の表情は硬かった。しかしそれは、花梨が怪我をした事を知ったからだったと思う。
花梨は記憶を手繰り、その後の出来事を思い出そうとした。
そして、彼が発したある言葉を思い出した。

『神子は嘘が下手だ。私に何を隠している?』

花梨は顔を上げ、大きく目を見開いた。

――そうだ。
その後からだった。彼が苛立った感情を露にしたのは……。

(じゃあ、私が怪我をした理由を泰継さんに話さなかったから……?)

ただ、今夜泰継に石蕗の花を添えた文を送って、彼を驚かせたかっただけだった。
だから、話さなかっただけなのに……。
それが、普段冷静な彼をしてあんなに苛立ちを露にさせる程、彼を傷付けてしまったことを悟り、花梨は愕然とした。
(どうしよう……。泰継さんに話さなきゃ……)
本当の事を話して、彼に謝らなくてはならないと思った。
彼の言葉に衝撃を受けたのは確かだが、その原因を与えてしまったのは自分の方だったと判ったから。
もう一度館の清めを行うと言い残して泰継が出て行ってから、随分時間が経ったと思う。もう帰ってしまっただろうか。
途方に暮れて周囲を見回した花梨の目が、ある物を捉えた。
それは、文机の上に置かれた石蕗の花――…。
部屋を出て行く時、翡翠が置いていったのだろう。
花梨は立ち上がり、文机に近付いた。
石蕗の花は、淡香の紙の上に揃えて置かれていた。

(泰継さんに文を書こう……)

何故怪我をした理由を話さなかったのかを説明し、謝罪したい。
そして、彼に伝えたいと思う。
明日、来てくれるのを待っていると。
物忌みの日、花梨が傍にいて欲しいと願っているのは、泰継だけなのだから。
花梨は紙を広げ、硯箱の蓋を開けた。



「神子……」
文を書く準備をしようとしていた花梨は、突然背後から掛けられた声に驚いて後ろを振り返った。
「泰継さん……」
いつの間にか、文机から少し離れた几帳の脇に泰継が立っていた。
花梨は突然現れた泰継を呆然と見つめていた。
泰継は何か言おうと口を開きかけたが、言葉を発することなく口を閉ざし、軽く唇を噛んだ。花梨を見つめたままの瞳は、明らかに揺れていた。
その表情を見た花梨は驚いた。
泣き出しそうな表情に見えたのだ。
彼のそんな表情を見たのは初めてだった。
しばらくの間言葉もなく泰継を見つめていた花梨は、火桶の炭が爆ぜる音に我に返った。
文に書こうとしていた事を、今、彼に伝えなければならないと思った。

「ごめんなさい…!」
「すまなかった……」

二人の声が重なった。
驚いてお互いの顔を見つめ合う。

「……何故、神子が謝るのだ?」
先に口を開いたのは泰継の方だった。
驚きの表情を浮かべた神子の目は、涙を流した所為で赤くなっていた。頬にも涙の跡が残っている。
自分の言葉が神子を泣かせたことは明らかだった。苛立ちを彼女にぶつけてしまった事を詫びなければならないと思っていたのに、何故か神子が口にしたのも謝罪の言葉だった。それが泰継には不思議だったのだ。
「だって…!」
叫ぶように言ってから、花梨は一旦言葉を切った。
彼に伝えたいと思った事を頭の中で整理しながら一度深呼吸した花梨は、じっと泰継の瞳を見つめ、徐に話し始めた。

昨日、文に添える花がなくて困っていた時、泰継の好きな花が石蕗だと紫姫が教えてくれたこと。
物忌みの文に添えたくて、今日外出した時石蕗を摘んで来たこと。
どうしても自分の手で摘みたくて、危ないからと代わりに摘もうとしてくれた翡翠の申し出を断ったこと。
泰継を驚かせたくて、石蕗を摘んで来たことを隠そうとしたこと――。

花梨はそれらの事実を、包み隠さず泰継に話した。
「明日の物忌みに、泰継さんに来てもらいたかったから……」
花梨は、驚きの表情を浮かべてこちらを見ている泰継に微笑みかけた。
「でも、そのせいで泰継さんに嫌な思いをさせちゃった……」
笑みを浮かべてそう話す花梨を、泰継は言葉もなく見つめていた。

――何故、そんな風に言えるのだろう。嫌な思いをしたのは自分より彼女のはずなのに……。

「嫌な思いをしたのは、神子の方だろう?」
微笑む花梨を直視出来ず、泰継は視線を逸らして俯いた。
「私の言葉の所為で、お前を泣かせてしまった……」
それを聞いて、花梨は思わず手を頬に当てていた。泣いた後、顔を洗っていなかったから、涙の跡を見られてしまったらしい。頬が羞恥に赤く染まった。
「すまなかった……」
泰継は視線を花梨の方に戻した後、再び詫びの言葉を口にした。
泰継の謝罪の言葉に、花梨は首を横に振った後、微笑みながらこちらを見つめている。
まだ、神子に伝えなければならない事が、いや、伝えたい事があった。
「翡翠に、『神子から文をもらった時の気持ちを思い出せ』と言われたのだ。『それでも、花は何の役にも立たないと言えるのか』、と……」
「翡翠さんに?」
小首を傾げて花梨が問う。
その問いに頷いてから、泰継は言葉を継いだ。
「翡翠の言葉の意味を考えて、そして思い出したのだ。神子から文をもらった時、胸が温かくなったことを。女郎花を見て、神子のことを想ったから……」
それを聞いた花梨は驚いた。蚕ノ社に咲いていた女郎花の花を見つめる泰継の表情を見て、女郎花が好きなのかもしれないと思って文に添えたのだ。京では文に花を添えるのだと、翡翠に教えられたからだった。まさかそれを見て自分のことを想ってくれたとは、思ってもみなかった。
泰継の言葉が嬉しくて、花梨は頬を赤らめた。
それを見て、泰継は今日初めて微笑みを浮かべた。

「……そして、花の役割を知った」

花を見れば心が和むこと。
花を贈られれば、その人を思い心が温かくなること――。

「花は、想いを相手に伝えるために贈るものなのだな」

文に花を添えるのは、そのためなのだと判った。
神子から文をもらって、初めて知った事だった。
彼女と出逢う前、泰継が受け取っていた文と言えば、式神が運んで来る安倍家からの仕事の依頼の文くらいだったから。

「神子が私に贈るために石蕗を摘んでくれたことを知って、嬉しかった。ありがとう……」
花梨は目を見開いた後、嬉しそうに笑った。
その表情を目を細めて見つめていた泰継は、表情を改めた。
それに気付いた花梨が、怪訝そうな表情を浮かべる。
「神子に、渡したいものがあるのだが――」
「何ですか?」
小首を傾げる花梨の前で、泰継は呪を唱え始めた。すると、花梨の目の前で、泰継の姿は掻き消すように見えなくなり、一枚の紙片が舞い落ちた。
「泰継さんっ!?」
驚いた花梨は、慌てて泰継が立っていた場所に近付いた。
そこに落ちていたのは、一枚の符だった。
花梨はそれを床から拾い上げた。
「式神さんだったの……?」
道理で妻戸が開く音がしなかったはずだ。くすりと笑って、花梨は符を胸に当てた。
女郎花を見て胸が温かくなったと泰継は言っていたが、自分はこうして彼の姿を思い浮かべるだけで温かい気持ちになれる。
『神子に、渡したいものがあるのだ……』
笑みを浮かべた花梨は、泰継の言葉を思い起こした。
(渡したいものって何だろう?)
考えてみたが、分からなかった。

その時、入り口の方から何かの気配を感じ、花梨は妻戸に目を遣った。風が戸を叩いた訳ではないようだ。
(庭……?)
花梨は符を持ったまま立ち上がり、妻戸を開けた。
外は既に暗くなり、いつの間にか雪が降っていた。
簀子に出た花梨は、雪が舞い落ちる中、庭に佇む人影に気が付いた。暗い庭に立っていても、花梨が彼の立ち姿を見誤るはずがない。
「泰継さん……」
庭に立っていたのは泰継だった。
いつからそこに立っていたのか、泰継の髪にも肩にも沢山の雪が付いていた。まさか、あれからずっと庭にいたのだろうか。
「泰継さん! そんな所に立っていたら、風邪を引きますよ!」
「問題ない」
慌てて庭に下りようと階に向かおうとした花梨を制し、ゆっくりと泰継が近付いて来た。花梨は高欄に近寄り、こちらに歩いて来る泰継をじっと見つめていた。
泰継は手に何かを持っていた。庭に焚かれている篝火に照らされ、彼が手にしているものが花梨にも見て取れた。
それが何であるかを確認した花梨は、驚いてぽかんと口を開けた。
泰継は、花梨が身を乗り出すように立っている高欄の前で立ち止まると、驚きの表情を浮かべたまま言葉が出ない花梨を見上げ、話し始めた。
「神子も石蕗を気に入ったようだったと、翡翠が言っていた。だから、神子に石蕗を贈りたいと思ったのだ」
そう言って微笑む泰継の顔を、花梨は呆然と見つめていた。

――花は、想いを相手に伝えるために贈るもの……。

さっき泰継が言っていた言葉を思い出し、花梨はゆっくりと花開くように微笑んだ。
彼の気持ちが嬉しかった。
「神子は自分の手で石蕗を摘んで来たと聞いた。それ故、本来であれば私自身が逢坂山に出向かねばならぬところなのだが、遅くなってしまうと思い、式を遣わせ摘んで来させたのだ。すまない……」
言いながら、両手で持っていたものを、花梨に差し出した。
黄色い、石蕗の花の束――…。
花梨は両手を伸ばし、泰継からそれを受け取った。
「ありがとう、泰継さん。とても嬉しいです」
石蕗の花束を見つめ、花梨ははにかんだ笑顔を見せた。
喜ぶ花梨の顔を見て、泰継は漸く安堵の息を吐いた。やはり、彼女には、いつも笑顔でいて欲しいと思う。
「外は冷える。もう中に入ったほうが良い」
泰継の言葉に頷いた花梨は、符を持ったままだったことに気付き、泰継にそれを返した。
「さっき、泰継さんに文を書くところだったんです」
その言葉に泰継が目を瞠る。
「後で改めて文を送ろうと思っているんですけど、今言わせて下さい」
花梨は一旦言葉を切って、泰継を見つめた。泰継は目を見開いたまま、じっと花梨を見上げていた。
それを確認した花梨は、最も伝えたかったことを、彼に告げた。
「明日の物忌みに来てくれますか?」
花梨が告げた言葉を聞いた泰継の顔に、笑みが広がっていく。
「お前が望むなら……」
泰継の答えに、花梨も満面の笑みを浮かべた。



部屋に戻った花梨は、泰継への文を書いた。
石蕗をもらって、とても嬉しかったこと。
もらった石蕗は、紫姫に用意してもらった唐渡りの壺に生けて、部屋に飾ってあること。
そして、明日、来てくれるのを待っていると……。
花梨は書き終えた文に菊花香を焚き染め、今日摘んで来た石蕗の花を添えて、紫姫に託した。
石蕗の花に、想いを込めて――…。

花梨は、部屋の隅の二階棚に置いてある壺に目を遣った。
そこには、泰継からもらった石蕗を生けてあった。
黄色い花に、石蕗の花束を持って雪が舞う庭に佇んでいた泰継の姿が重なった。
胸が、温かい……。

――花を贈られれば、その人を思い心が温かくなる……。

(本当だね、泰継さん……)

石蕗を見つめながら、花梨は想い人の姿を思い浮かべて微笑んだ。





◇ ◇ ◇





微風が石蕗の花を優しく揺さぶっている。


花梨は黙り込んでしまった泰継を見つめた。
彼の横顔には、微かな笑みが浮かんでいた。
恐らく彼も、石蕗を見つめながら、あの日のことを思い出しているのだろう。花梨が今、あの日のことを懐かしく思っていたのと同じように。

あの日以来、こちらの世界に来てからも、泰継は時々花梨に花を贈ってくれるようになった。街を歩いていて、花屋で見つけて買って来ることもあれば、仕事で訪れた家の庭先に咲いていた花を分けてもらったということもあった。
この世界では、特別な時でないと人に花を贈ることがないので、少し恥ずかしいような気もするのだが、やはり花梨にとって泰継から贈られる花は、いつも大切な宝物だった。
何故なら、それらの花には、彼の想いが込められているのだから。

じっと自分を見つめる視線に気付き、泰継が石蕗から花梨の方に視線を移した。
「あの日のことは、私にとっては良い思い出なの」
微笑みながらそう言う花梨に、泰継が驚く。
「……嫌な思いをしたのにか?」
その言葉に、花梨はくすりと笑って頷いた。
「確かに最初はショックだったけど……。でも、そのおかげで大切なものを手に入れることが出来たから……」
あの日、石蕗の花と共に受け取った泰継の想いを、花梨は忘れることはないだろうと思う。
花梨は石蕗の花をもう一度見た後、ゆっくりと立ち上がった。泰継もそれに倣う。
「泰継さんはどうですか?」
「お前を泣かせてしまったのに、良い筈がない」
訊ねる花梨にむすりとした表情で答えた後、泰継は足元に咲く石蕗に目を遣った。
「だが、確かにあの一件で、色々な事を学んだと思う」
花梨はそう言って微笑む泰継の手を取り、握り締めた。それを感じ取った泰継が、花梨を見つめる。
「京では、辛いことや苦しいこともあったけど、今では全部良い思い出になったの」
「『良い思い出になる』のか?」
訝しげな表情を浮かべる泰継に、花梨は頷きかけた。
「辛かったことや苦しかったこと、それから悲しかったこと。全部時間が良い思い出にしてくれたから……」
花梨は泰継を見上げ、柔らかな笑みを向けた。
「これからはこの世界で、泰継さんと一緒に色んな思い出を作っていきたいんです」
そう言って微笑む花梨に目を瞠った泰継は、次の瞬間には微笑みで応えていた。
「そうだな。良い思い出を、沢山作ろう……」
言いながら、泰継は花梨の手を握り返した。

京にいた頃、只の記憶に過ぎなかったものが、今では「思い出」という名のものに変化していることを感じる。
それはきっと、花梨が齎してくれたものなのだろう。
出逢ってから、沢山のものを彼女から貰った。
だから、少しでも花梨に返すことが出来たらいいと泰継は思う。

「折角だから、お参りして行きましょうか」

そう言いながら手を引く花梨に頷くと、泰継は歩き始めた。


二人を見送るように、石蕗の花が秋風に揺れていた。







〜了〜


あ と が き
職場の庭園に咲いていた石蕗の花を見ていて、ふと思い付いたお話です。
私は火属性神子なので、第四章前半の物忌みは、第四章が始まって三日目だったんです。つまり冬の花を手に入れるチャンスは二日目しかない訳で……。毎回明王の課題を放り出して、泰継さんを連れて逢坂山にダッシュしていました(笑)。その経験を元に話を組み立ててみました。
でも、うさぎに餌をやって女郎花を手に入れたり、まろと蹴鞠をして石蕗を手に入れたり、ということは、さすがに創作では書けなかったので(漫画ならともかく)、花梨ちゃんには普通に摘みに行ってもらうことにしました。
「思い出」というお題から外れ気味な話の上、ニセ者揃いで(笑)。それにも拘わらず最後まで読んで下さった皆様、ありがとうございました!

【追記:2004.4.16】
この創作のイメージイラストを芙龍紫月様が描いて下さいました。こちらからどうぞ。
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