22 思い出−1−
十一月のある日曜日のこと―――


泰継と花梨は、泰継が住むマンションの近くにある神社への道を歩いていた。
今日は泰継の仕事が入っていないということもあり、花梨は朝から彼のマンションを訪れた。お茶を飲みながらしばらく室内で話をしていたのだが、窓の外に見える空が余りにも青く澄み渡っていたので、花梨が泰継を外に誘ったのだ。
「今日は天気も良いし、たまにはお散歩するのもいいでしょう?」
花梨の提案を泰継が承諾し、二人で近くの神社に行くことにしたのだ。
今までも何度か二人で訪れたことがある神社だが、花梨がそこを行き先に選んだのには理由があった。

『此処は、火之御子社に似ているのだ』

以前、泰継がそう言っていたからだ。もちろん、彼が「似ている」と言ったのは社の形のことではない。この地の持つ力が、あの京に在った火之御子社に似ていると言うのだ。この神社には、土地の力など殆ど無くなってしまったかのような現代には珍しく、五行の力が宿っているのだと泰継は言う。だから泰継は、仕事の前によく此処を訪れて、気を整えているらしい。
花梨が初めて知った、現代での泰継の好きな場所である。
北山の奥深くで長い年月を独りで暮らして来た泰継は、人の集まる場所がやはりまだ苦手なようだった。もちろん彼はそんな事は一言も言ったことはないのだが、ずっと彼を見つめて来た花梨には分かるのだ。
現代は京より遥かに人口が多いので、人がいない場所のほうが少ないのだが、まだこちらに来て間がない彼が慣れるまで、花梨は泰継と出掛ける時は、なるべく自然が多く静かな場所を選ぶようにしていた。
それで今日も、近所の神社に行ってみることにしたのだった。



鳥居を潜り抜けて参道に入った途端、周囲の空気が清々しく感じられるのは、やはり境内の樹木のせいだろうか。それとも人の気配がしないせいだろうか。
そんな事を考えながら泰継と並んで歩いていた花梨は、やがて見えてきた手水舎にある手水鉢の近くに、黄色い花を発見した。京でもよく見かけた花に「あっ」と声を上げ、花梨は手水舎の方に駆け寄った。
それは、石蕗だった。
花梨にとっては特別な花――…。
なぜなら、石蕗は泰継が好きな花だったからだ。

「花梨、どうしたのだ?」
突然駆け出した花梨に追い付いた泰継は、手水鉢の脇にしゃがみ込んだ花梨に訝しげに訊ねた。
「泰継さん。ほら見て、石蕗が…!」
泰継の方を振り向いた花梨は、石蕗の黄色い花を指差した。
「お寺や神社に多いって聞いていたけど、此処にもあったんですね」
「そうだな。私も今まで気付いていなかった」
笑顔で話す花梨に、泰継は微笑みかけた。まだ京にいた頃、花梨が物忌み前夜に泰継の元に送って来た文に添えられていた花だ。
「こっちも、もうそんな季節になっていたんだ……」
花梨は石蕗の花に視線を戻し、黄色い花に手を触れた。
泰継の好きな花がこの花だと知り、物忌みの前日慌てて摘みに行ったことが、今となっては懐かしい。
京に召喚され、泰継と出逢い、秋と冬を京で過ごして来た。そして、泰継と共にこちらの世界に帰って来て秋を過ごし、今再び冬を迎えようとしている。何だか不思議な感じがした。
こうして、京でも見かけた花を見ただけで、京での思い出すべてが鮮やかに蘇る。
花梨は石蕗を見つめたまま、小さく笑いを零した。
「……どうした?」
石蕗を見つめる花梨の横顔を眩しげに目を細めて見つめていた泰継は、突然笑い声を漏らした花梨に、訝しげに問い掛けた。花梨の傍に自分もしゃがみ、彼女と同じ視線の高さで顔を覗き込む。
それに気付いた花梨は、泰継の方に顔を向けた。
「思い出しちゃったの」
「何を?」
くすくすと笑った花梨は、一呼吸分の間を取ってから答えた。
「京に雪が降って初めての物忌みの時のこと……」
悪戯っぽい笑みを浮かべて答える花梨に、泰継は一瞬何のことか判らず目を見開いた。しかし、すぐに彼女の言葉の意味を悟り苦笑する。
「あの時は、本当に傷付いたんだからね」
茶化したようにそう言う花梨に、泰継は苦い笑みを浮かべたまま彼女の肩を抱き寄せ、石蕗の黄色い花に目を遣った。意識のある間に起きた事はすべて記憶していた泰継には、あの日のことを容易に思い出すことが出来る。
但し、記憶した情報としてではなく、懐かしい思い出として――…。





◇ ◇ ◇





京に遅い初雪が降った数日後のことである。


「えっ!? 明後日が物忌みなの!?」
夕刻、白虎の二人と西の札を手に入れるための散策を終えて館に戻った花梨は、紫姫から聞かされた事実に驚きの声を上げた。
(どうしよう。まだお花を用意してないよ……)
花梨は物忌みのたび、泰継を呼んでいた。秋の間は彼が好きな女郎花を添えて文を送っていたのだが、正しい季節が巡って来た現在、既に秋の花である女郎花は何処にも咲いていないのだ。
(それに、泰継さんの好きな花って、女郎花しか知らないのよね……)
花梨は困り果ててしまった。
「ねえ、紫姫……」
「何でしょう、神子様」
叫び声を上げたまま俯いて何事か考え込んでいた花梨を見守っていた紫姫は、顔を上げて自分を見つめる花梨に小首を傾げた。
「泰継さんの好きな冬の花、何か知らない?」
縋るような目でこちらを見ている花梨に、紫姫は「ああ」と納得する。明日の夜送る文に添える花のことだと気付いたのだ。
「それでしたら、今日泰継殿にお伺いしておきましたわ」
「本当!?」
花梨の顔が忽ち明るい表情に変化する。彼女は本当に分かり易い少女である。
花梨の気持ちに誰よりも早く気付いた紫姫は、花梨の強い味方だった。今回の物忌みは冬が来て間もない上、西の札を手に入れるために行動し始めたところだったので、紫姫は恐らく花梨がまだ文に添える花を用意していないだろうと思い、今日花梨が幸鷹と翡翠と共に外出した後、館を清めるため訪れていた泰継に、直接訊ねておいたのだった。
「はい。泰継殿は石蕗がお好きだそうですわ。何でも葉がお薬になるのだとか」
「ふ〜ん。石蕗、ね」
花梨はその名前を記憶する。どんな花なのかはよく知らないけれど、明王の課題のために明日も同行することになっている幸鷹と翡翠に訊けば、教えてくれるだろう。
「ありがとう、紫姫」
「いいえ。神子様のお役に立てたなら嬉しいですわ」
花梨の喜ぶ顔を見た紫姫は、やはり今日泰継に訊いておいて良かったと思った。花梨の幸せそうな表情を見ると、紫姫も嬉しく思うのだ。心から幸せそうに笑う彼女の笑顔は、周囲の人間を温かい気持ちにさせるから。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
そう言って部屋を出て行く紫姫を見送った花梨は、明日の散策の帰りに、白虎の二人に石蕗を探す手助けをしてもらおうと決意した。




翌日の夕刻―――


泰継はいつものように神子が住まう屋敷の清めを行うため、紫姫の館を訪れた。館の清めを行うことは、八葉となってからの泰継の日課のようなものだった。普段は朝早くに此処を訪れるのだが、今日は安倍家から依頼された仕事があったため、来るのが遅くなってしまったのだ。
清めのために雪の積もった庭に下りた泰継は、ふと空を見上げた。昨夜から降っていた雪は日中は止んでいたが、夕刻になって空はまたどんよりとした雪雲に覆われている。しかし、僅かな雲の切れ間から沈みゆく太陽の光が漏れていて、得も言われぬ程美しい。
(そろそろ神子が帰って来る頃か……)
雲間から僅かに漏れている陽光から太陽の位置を確認した泰継は、そう考えた後苦笑する。
意識しているつもりはないのだが、気が付けばいつも神子のことを考えている。
先日京を分断する結界の要の一つを壊し、今度は西の札を得るため、神子はここ二、三日ずっと白虎の二人と行動を共にしている。つい先日までは北の札探しをしていたため、毎日のように神子と散策に出掛けていたのだが、今はそういうわけにもいかないだろう。しかし、大威徳明王の課題を終えるまで、自分の力が必要ないことは分かっているのだが、日に一度は神子の無事な姿を見ないと何故か落ち着かないのだ。
神子と出逢ってから、本当に自分は変わったと思う。
再び苦笑した泰継は、一度大きく息を吸って吐いた後、館の清めを始めた。


清めを終えた後、神子が帰るのを待つため八葉の控室に向かおうと歩き始めた時、渡殿の方から賑やかな声が聞こえて来た。
どうやら、神子が帰ったらしい。
花梨が帰ったことを知り、無意識に口端に薄っすらと笑みを浮かべた泰継の表情が、次の瞬間訝しげな表情へと変化する。こちらへ近付いて来る神子の気を探り、彼女の気がいつもと少し違っていることに気が付いたのだ。浮ついているようでいて、気に少し翳りが見られる。
散策中に何かあったのかもしれない――。
更に詳しく気を探り、花梨が怪我をしたらしいことを知った泰継は、険しい表情で足早に階へと向かった。



残っていた幸鷹への大威徳明王からの課題を終え、白虎の二人の協力で石蕗の花を手に入れた花梨は、傍目から見ても上機嫌だった。
元々花梨は龍神の神子の務めには熱心だったのだが、今回ばかりは明王の課題を終えたことより、石蕗の花を手に入れられたことのほうが遥かに喜びが大きかった。明王の課題の期日にはまだ余裕があったが、物忌みは明日に迫っていたからだ。
(間に合って良かった…。ちょっと痛かったけど……)
幸鷹と翡翠に付き添われ、自分の部屋に戻るために簀子を歩いていた花梨は、歩きながら膝に視線を落とした。京に来てから散策時にいつも着ている水干の裾が、泥で汚れている。動き易いからと、こちらに来てからもずっと着用していた制服のスカートも、その下に剥き出しになっている膝頭や脛も同様だった。しかも膝頭は僅かだが出血している。
実は斜面に咲いていた石蕗の花を摘もうとして、太陽の光に融けかけていた雪に足を取られ、滑って転んでしまったのだ。危ないからと、同行していた翡翠が摘んでくれようとしたのだが、物忌みの文に添える花は自分で用意しなければと思い、その申し出は断ってしまった。その結果、石蕗は手に入れたものの転んで膝頭を擦り剥いてしまったのだが、痛み以上の喜びがあったのだ。
(泰継さん、喜んでくれるかな?)
淡香の紙に書いた文に菊花の香を焚き染め、女郎花を添えて送った物忌みの朝の泰継の微笑みを思い出し、花梨は独りほくそ笑んだ。
ふふふと独り笑いする花梨を見て、彼女の後ろを歩いていた幸鷹と翡翠は、顔を見合わせ苦笑した。
明王の課題を終えた後、幸鷹と翡翠は花梨から「石蕗を摘んで帰りたい」と言われた。察しの良い翡翠が明日の物忌みの文に添える花のことと気付き、彼女をからかって幸鷹に睨まれたことは言うまでもない。花梨が物忌みの日に呼ぶのはいつも同じ人物だったから、彼女が怪我をしてまで手に入れた石蕗が誰の好みの花なのか、容易に見当が付いたのだ。
他の男に贈る花を摘みに行く付き添いをさせられた二人は、花梨のことを憎からず思っているだけに、石蕗を手にして嬉々としている花梨の様子に、複雑な気持ちで苦笑するしかなかったのだった。
(まったく……。罪な姫君だね……)
それでも花梨の笑顔が見たいがために、彼女の手助けをしてしまう。龍神の神子だからというわけではなく、そうせずにはいられない不思議な魅力が彼女にはあったのだ。
後ろを歩いている二人の気持ちなど露知らず、花梨の足取りは軽かった。
(これで明日の物忌みの準備も出来たし、後は今夜文を書くだけね)
もっとも、その文を書くのが、筆に慣れない花梨には大問題なのだが。


「あっ、泰継さん!」
階を上りこちらへ歩いて来る泰継の姿に気付き、花梨の顔が綻んだ。しかし泰継の表情を見て、花梨が浮かべていた微笑みは、訝しげな表情に変わった。ふと石蕗の花を手にしたままだったことに気付いた花梨は、慌てて手を背後に隠した。今夜泰継の好みの花を贈って、彼を驚かせたかったのだ。
簀子の向こうから、泰継がこちらに近付いて来る。
普段余り感情を表さない彼にしては珍しく、今ははっきりと険しい表情を浮かべているのが見て取れた。それを見た翡翠が、面白いものを見るような視線を送った。泰継はそれに気付いたようだが、翡翠には一瞥を与えただけで、すぐに視線を花梨の方に戻した。
「何があった?」
三人の元に歩み寄った泰継は、短くそう訊ねた後、花梨の膝頭の傷に目を遣った。血は出ているが、大した傷ではなさそうだ。
「これは、怨霊にやられた傷ではないな?」
腰を屈めて花梨の膝頭に手を翳して傷の状態を見た後、泰継は確認するように呟いた。小さく息を吐いて身体を起こすと、じっと花梨の瞳を見据えた。その真剣な眼差しに、花梨の目は暫し釘付け状態となった。
「えっと……。雪が融けかけている所で滑って転んじゃって……」
泰継の色違いの瞳に見惚れて呆然としていた花梨は、我に返りそう答えた。石蕗を摘もうとして転んだことは、言わないでおいた。明日の物忌みに贈るための花を摘むために怪我をしたと言えば、泰継に呆れられるような気がしたのだ。
花梨の答えを聞いた泰継が、目を伏せて小さく嘆息する。答える時、花梨の視線が彷徨っていたことから、彼女が何かを隠そうとしていることに気付いたのだ。
やがてゆっくりと顔を上げると、泰継は三人に告げた。
「とにかく、早く手当てをした方が良い」
「では、私は紫姫にお知らせして来ます」
そう言うと、幸鷹は傷を洗う水や布を用意してもらうため、先に紫姫の部屋へ向かった。
その後姿を見送った泰継は「行くぞ」と言って踵を返し、花梨の部屋へと歩き始めた。その跡を慌てて花梨が追う。
二人の背中を面白そうに見ていた翡翠は、口端に笑みを浮かべると、ゆったりとした足取りで二人の後ろを付いて行った。



幸鷹の知らせを聞いて、慌てて花梨の部屋に駆け付けた紫姫が心配そうに見守る中、泰継は手早く花梨の傷の手当てを終えた。大した怪我ではないが、傷口に泥が入り込んでいたため、綺麗に洗い流しておく必要があったのだ。
「それで、一体何があったのだ?」
手当てを終えた泰継は、改めて花梨に向き直り、そう訊ねた。その問いに、花梨はぴくりと肩を揺らした。
「それはさっき……」
「神子は嘘が下手だ。私に何を隠している?」
異色の双眸に射るように見つめられ、花梨は膝に載せた手をもじもじと動かした。いつもなら見惚れてしまう泰継の瞳だが、何もかも見透かされるような気がして、花梨は目を逸らして俯いてしまった。
「泰継殿。神子殿をお守り出来なかったのは、私たちの落ち度です。責めるのなら我々を……」
「私は責めているわけではない」
何も言えずに俯いてしまった花梨を庇おうとした幸鷹に、泰継が冷たく言い放つ。
何故こんなに苛立っているのか、自分でも判らなかった。
普段何事にも動じず冷静な泰継らしからぬ苛立ちを含んだ口調に、花梨は弾かれたように顔を上げて目を瞠った。ふと紫姫の方を見ると、紫姫も驚いたのか、大きな紫色の瞳をこれ以上ないくらいに見開いていた。
「まあまあ、二人とも。その辺にしておきなさい」
幸鷹と泰継の遣り取りを面白そうに聞いていた翡翠が割って入った。幸鷹と泰継が、同時に翡翠の方に視線を向けた。自分を見つめる幸鷹に、翡翠が意味ありげな視線を送る。それを見てその意味を悟った幸鷹は、翡翠に小さく頷きかけた。「ここは私に任せなさい」ということだろう。
幸鷹の了解を得て、翡翠は泰継に向き直った。泰継はじっとこちらを見据えていた。一見普段通りの無表情に見えるのだが、彼の瞳を見た翡翠は、そこに彼の感情を見て取った。伊予の海賊を束ねる頭目として、沢山の人間に接して来た翡翠は、他人の表情を読むことに長けていたのだ。感情表現に乏しいと言われている泰継でさえ、翡翠の目には実に表情豊かで素直な人物と映っていた。
(本当に……。神子殿のこととなると、普段の冷静さは何処へやら、だねぇ……)
花梨が泰継に想いを寄せていることは、既に紫姫を始め八葉全員の知るところとなっているのだが、泰継が花梨を想う気持ちも、次第に周囲の者にも感じられるようになっていたのだ。彼は「隠す」という事を知らないので、神子を見つめる表情が、最初の頃とは違い柔らかなものとなって来ていることが、誰の目にも明らかだったからだ。
初々しさが感じられるその想いに、翡翠はついつい二人をからかいたくなってしまうのだ。自分には既にないものを持っている彼らを、羨む気持ちがあったのかもしれない。
「さて、泰継。君の大事な神子殿に怪我をさせたことは、確かに幸鷹殿と私の落ち度だから、そのことについては謝っておこうか」
「翡翠殿!」
翡翠の言葉に泰継が眉を顰めたのに気付き、幸鷹が翡翠を嗜めた。「君の大事な神子殿」とは、当て擦り以外の何ものでもない。翡翠の場合、皮肉と言うより面白がって言っていると分かっているだけに、真面目な幸鷹には黙って聞いていられなかったのだ。
自分を睨む幸鷹の視線を軽く躱し、翡翠はふふ、といつもの笑いを漏らした。
「ちょっと待って下さい!」
翡翠の「君の大事な神子殿」という言葉に頬を染めて、暫しその余韻に浸っていた花梨は、翡翠の笑い声に我に返った。怪我をしたのは自分の不注意だ。彼らの所為ではない。
「怪我をしたのは、幸鷹さんと翡翠さんの所為じゃないです!」
花梨は翡翠が言った事を否定して、怪我をしたのは自分の所為だと泰継に訴えた。
泰継が無言のままこちらを見つめている。
その視線を受け止めた花梨は、それ以上何も言えなくなってしまった。その時の彼の視線が、責めるような、それでいて傷付いたような、複雑な感情を孕んでいたからだ。
「あの時君を止めていれば、怪我をする事もなかったのだから。止めなかった我々に責任があるよ」
口を閉ざしてしまった花梨に、翡翠は優しく言った。そして再び泰継の方を向く。
「姫君は『どうしてもこの花を自分で摘みたい』と言って、滑りやすい斜面で転んだのだよ」
くすくすと笑いながら、翡翠は後ろ手に持っていた花の束を泰継に見せた。それを見た泰継が目を瞠る。
「石蕗、か?」
「ひっ、翡翠さんっ!!」
花梨は慌てて翡翠の手から石蕗の花を奪おうと、腰を浮かせた。さっき部屋に戻る途中、泰継に見つからないようにと、花梨は摘んで来た石蕗を翡翠の手に預けたのだ。これでは何のために預けたのか分からない。
「翡翠さん! 返して下さい!」
花梨は真っ赤になって翡翠の手から石蕗を取り戻そうと手を伸ばしたが、翡翠は人の悪い笑みを浮かべて、花梨からは届かない位置に手を移動させた。

その様子を見ていた泰継の顔に、不快そうな表情が浮かぶ。
何かどす黒いもやもやとしたものが、胸を満たしていくのを感じる。
目の前で神子が翡翠と戯れているのを見ていると、先程から感じていた苛立ちが、益々募っていくような気がした。
泰継は無意識に膝の上に置いた手で拳を作り、花梨をからかっている翡翠を睨むように見据えて言った。


「石蕗の葉は薬となる。だが、花は何の役にも立たぬ」


その言葉に花梨は目を大きく見開き、弾かれたように泰継の方を見た。
こちらを見つめる泰継の冷たい視線に、花梨はぴくりと肩を揺らした。出逢った頃でさえ、彼のそんな表情は見たことがなかった。いや、泰継が少しずつ感情を表すようになってから、花梨に向けられていたのが大抵の場合柔らかな表情ばかりだったから、と言ったほうが正しいかもしれない。
花梨は泰継の顔を見つめたまま、何も言えずに呆然としていた。
幸鷹が泰継に何か言っているのも、翡翠が幸鷹を制しているのも、紫姫が心配そうに掛けて来る声も、花梨の耳には届かなかった。彼女の耳には、ただ泰継の言葉だけが、木霊のように繰り返し響いていたのだ。

『花は何の役にも立たぬ』

彼の言葉が胸に突き刺さる。
胸に痛みを感じた花梨は、呆然と泰継の顔を見つめたまま、胸の上を手で掴んだ。
霧がかかったように真っ白になった頭の中が、時間が経つにつれてはっきりとして来る。それに伴い、泰継の言葉の意味が、ゆっくりと理解出来るようになった。
彼の笑顔が見たくて摘んで来たのに……。
それなのに、怒らせてしまった。
(……何故?)
不意に目の前が霞んで見えた。瞳が涙で潤んでいく。
皆が心配するから泣いてはいけないと思い、花梨は泰継から視線を逸らし俯いた。込み上げてくる涙を堪えようとしたが上手くいかなった。
「神子様…?」
俯いてしまった花梨の肩が微かに震えているのに気付いた紫姫が、気遣わしげに声を掛けた。

『泰継さんの好きな冬の花、何か知らない?』
『それでしたら、今日泰継殿にお伺いしておきましたわ』
『本当!?』

ふと、紫姫は昨日花梨と交わした会話を思い出した。泰継が石蕗が好きだと言っていたことを話した時、花梨はとても喜んでいた。今日、彼女が怪我をしてまで石蕗の花を摘んで来たのは、他ならぬ泰継のためであったのに……。
それなのに「役に立たぬ」とは――。
花梨の気持ちを考えると、紫姫は居た堪れない気持ちで一杯になった。

「泰継殿! 今のお言葉、あんまりですわ。神子様は貴方のために……!」
「紫姫!」
紫姫の言葉を遮るように、花梨は声を上げた。紫姫の方を見つめ、笑顔を作る。
「ありがとう……。もう、いいから……」
花梨の表情を見た紫姫は絶句した。皆を心配させないよう、泣きたいのを堪え、無理に笑みを作っているのがよく分かったからだ。
何も言えなくなってしまった紫姫は、そのまま俯いてしまった。
部屋の中に沈黙が訪れ、張り詰めた空気が室内に満ちた。



「泰継殿、どちらへ?」
しばらくして静寂を破って発せられた幸鷹の声に、紫姫は顔を上げて泰継を見た。彼は既に立ち上がり、皆に背を向け妻戸の方に向かって歩いていた。
妻戸に辿り着いた泰継は、戸に手を掛け、声を掛けた幸鷹の方に肩越しに視線を向けた。
「館を清め直す。血は穢れ故、放置しておけばよからぬものが入り込むやも知れぬ」
泰継はそれだけを答えると、妻戸を開け、振り返ることなく部屋の外へ出て行った。
それを見送った幸鷹が、妻戸が閉じられたのと同時に嘆息する。泰継が出て行った途端、室内に張り詰めていた空気が解けたことが判る。周りの空気にさえ影響を及ぼす程、彼自身がぴりぴりしていたということだろうか。
珍しいことだと幸鷹は思う。
同じ八葉として出逢ってから、泰継のあんなに苛立った様子は初めて見た。常に冷静で客観的に的確な判断を下すという点では、自分を始め八葉の誰も彼には及ばないと思っていただけに、幸鷹の驚きは大きかった。
泰継の苛立ちの原因を考えた幸鷹は、顔を翡翠の方に向けた。神子が何か隠し事をしていることを察して苛立ちを示した泰継を更に苛立たせたのは、恐らく翡翠の言動だったのだろうと推測したからだ。先程の「君の大事な神子殿」発言にしても、泰継の前で神子をからかって見せたことにしても、いずれも傍で見ていた幸鷹でさえ静観していられなかったくらいだから。
幸鷹の視線の先の翡翠は、泰継が出て行った妻戸を眺め、面白そうな笑みを浮かべている。
「翡翠殿。貴方は何故あんな事を……」
幸鷹に非難めいた視線を向けられても、翡翠は相変わらず余裕の表情だった。
「おや、心外だね。私はいつも通り振舞っていただけだよ」
翡翠の言葉に、幸鷹が溜息を吐いた。確かに翡翠の言動は、いつもと変わらなかったと思う。だが、泰継が普段の彼と違っていたことに、察しの良い翡翠が気付かなかったはずはない。
(本当にこの人は……)
幸鷹はそれ以上翡翠に構わず、花梨の方に視線を向けた。
石蕗の花を摘んで此処に戻る道中もずっと、傍目にも浮かれて見えるほど嬉しそうにしていた花梨は、泰継の言葉に今にも泣き出しそうな表情をしていたが、今は俯いているため表情までは分からなかった。何と声を掛けて良いのか分からず、幸鷹は開こうとした口を閉ざした。
泰継が出て行った後、紫姫が気遣わしげに花梨の傍に侍っている。
「神子様……?」
紫姫が心配そうに声を掛ける。
「ごめんね……。しばらく、独りにしてくれる……?」
「神子様……」
微かに震える声でそう言われ、紫姫はおろおろして両手を胸の前で組んだ。
その時、微かな衣擦れの音が耳に届き、紫姫は音がした方に視線を向けた。
――翡翠だった。
翡翠は手にしていた石蕗の花を傍に在った文机の上に置くと、静かに立ち上がった。
「幸鷹殿、紫姫。行くよ」
自分を見つめている二人に声を掛け、妻戸の方に向け顎をしゃくる。
「今は、独りにしてあげなさい」
翡翠はそう言うと、妻戸に向かって歩き始めた。小さく嘆息した後、幸鷹もそれに倣う。
二人が離れて行くのを見ていた紫姫は、もう一度花梨を見つめた。花梨は俯いたまま、出て行こうとする翡翠と幸鷹の方を見ようともしなかった。肩が微かに震えている。
「……お願い……」
再び震える声でそう言われ、紫姫は心配そうな視線を向けながらも立ち上がった。衣擦れの音をさせながら、二人が待っている戸口へと向かった。途中何度も振り返り花梨の方を見たが、彼女は涙を堪えて俯いたまま、顔を上げようとしなかった。
妻戸を閉めて三人が簀子に出た時、部屋の中から漏れ聞こえて来た微かな嗚咽に、紫姫は胸に痛みを感じ、衣を握り締めていた。
themes' index next top