初めての味−2−
午後三時になり、この家に住む三人と梓が食卓に集った。


「私たちも御相伴にあずかっても良いのかな、梓?」

進之助が恐縮したように梓に訊ねた。てっきり九段のためだけに梓が用意したものと思っていたのに、千代と自分も「一緒に食べよう」と呼ばれたからだ。

「もちろんだよ、おじいちゃん。そのために多めに作ったんだから」
「あら、九段は残念がっているんじゃない? ――九段。あなた、梓が作ったものは全部食べるつもりだったんじゃないの?」

ケーキを切り分ける梓の横で、出来立てのアイスクリンを人数分のガラスの器に盛り付けながら、既に食卓の前に座って食べるのを待つばかりの九段に千代が話を振った。からかうようなその口調に、声を掛けられた九段が顔を顰める。

「むう。確かに我は何よりも食べることが好きだが、独り占めするほど食い意地は張っていないぞ、千代」
「もう、おばあちゃんったら! ……残った分は全部九段さんが食べてくれていいですからね」

九段の皿に二切れ、祖父母と自分の皿に一切れずつ載せても、ケーキはまだ半分近く塊のまま残っていた。それを指差しながら梓が言うと、忽ち九段の表情が明るくなった。

「そ、そうか? 分かった。梓の言う通りにしよう」
「はいはい。だけど九段、食べ過ぎないようにしなさいよ。放っておくと、あなたは自分が食べたいと思うだけ食べるんだから……」
「む………分かった……」

九段の向かいに座り、三人の会話を黙って聞いていた進之助が笑みを浮かべた。
先日梓に電話した時、進之助は人参嫌いの九段が食べられそうな人参を使った料理があれば作ってもらえないかと依頼した。九段の好き嫌いを巡って幼馴染の二人が言い争う姿を見たくなかったからだ。
――梓が作ったものなら、彼は何でも喜んで食べてくれると思うから。
そう話すと、梓は快く引き受けてくれた。
そして、今日、梓が作って持って来たものを見て、進之助は感心してしまった。いかにも甘い物が大好きな九段が好みそうなケーキを選ぶとは――。
(そう言えば、千代さんはケーキは作らないからなぁ。やっぱり、好きな人のことは良く見ているんだな、梓も……)
孫娘の成長が嬉しくて、思わず笑みが零れた。

「おじいちゃん、どうしたの? なんだか嬉しそう……」

切り分けたケーキを載せた皿を九段と祖父の前にそれぞれ置きながら、梓が声を掛けて来た。

「いや、なんでもないよ。…どれ、梓が作ってくれたケーキを頂こうかな」
「どうぞ。――ただ、九段さんの口に合うよう少し甘めに作ってあるから、そのつもりで食べてね」

祖父も祖母も甘い物が苦手というわけではないので大丈夫だとは思うが、念のためレシピより甘めであることを伝えた。
(蠱惑の森の皆やシベリア好きの秋兵さんなら大丈夫だけど、有馬さんや村雨さんだったら一口で食べるのを止めそうな甘さだものね……)
ふと、向こうの世界の仲間たちのことを思い出し、そんな事を考えながら千代と自分の分の皿を置くと、梓は九段の隣の席に座った。
すると、梓が腰掛けると同時に九段が訊ねて来た。

「我の好みに合わせてくれたのか、梓?」
「もちろん。だって、九段さんに食べてもらうために作ったものだから……」
「梓……」

薄っすらと頬を染めて答える梓に、感極まった声で九段が呟く。
見つめ合う二人の間に、甘やかな空気が漂った。

「あらあら。ケーキよりこちらの方が甘そうねえ」

アイスクリンの器を配りながら、千代が小さな声で進之助に言った。進之助の方は優しい目で若い二人を見つめている。

「二人とも、早く食べないとアイスクリンが溶けるわよ」

放っておくといつまでも見つめ合っていそうな二人にそう声を掛けると、千代も梓の向かいに座った。

「うむ。アイスクリンは盛りたてが一番だからな。溶けないうちに頂こう」

千代の言葉に我に返り、九段が早速スプーンを手に取った。一口食べると、満足そうな笑みを浮かべる。

「うむ、美味だ。先日千代が作ってくれたものも美味だったが、梓が作ってくれたものもそれに勝るとも劣らず美味だな」
「そうですか? なら、良かった」

嬉しそうに梓が微笑む。九段のために作ったものだから、他の誰よりも彼が「美味しい」と言ってくれることが、やはり一番嬉しいのだ。
だが、傍で聞いていた千代は九段の褒め言葉が気に入らなかったようだ。呆れたように嘆息すると、彼の口真似を交えて言った。

「九段……。そこはやっぱり、『梓が我のために作ってくれたものが一番美味だ』――と言うべきでしょう?」
「ん? 心配しなくとも、この前千代が作ってくれたアイスクリンも美味だったぞ?」

アイスクリンを食べる手を止めずに、九段は千代が言わんとしたことを理解していないかのような、少しずれた返答をした。世間知らずで天然な性格の彼は、時折人とは少しずれた反応を示すことがあるが、今の場合は既に好物を食することに意識が向いていて、半ば上の空の状態だった所為だろう。
そんな彼の性格を知っている他の三人は、彼の言葉を聞いて笑いを誘われた。当の本人だけが何故皆が笑ったのか分からず、きょとんとしている。
「なんだ?」と問い掛けるような視線を向けて来た九段に答える代りに微笑むと、梓はスプーンでアイスクリンを掬いながら千代に話しかけた。

「そう言えば、日比谷公園で三人で食べたよね、アイスクリン。まだそんなに経っていないのに、何だか懐かしい」
「ふふ。そうだったわねぇ」

暫くの間軍邸で共に暮らした三人には、共通の思い出があった。残念ながら、その頃帝都にいなかった進之助の知らぬ話ではあったが、彼らが龍神の神子と星の一族として帝都のため共に行動していたことは知っていたので、その頃の思い出話なのだろうと想像は出来た。

「千代さんにとっては何十年も前のことだろう? 覚えているのかい?」

梓が話した事を千代が覚えていたことに驚き、進之助が訊ねた。梓と九段にとっては数か月前の話なのだろうが、千代にとってはこちらの世界に来る前の話ならば数十年前の出来事だ。

「もちろん覚えているわよ。あの日は確か、天気雨が降ったわよね。じきに上がったけれど……」
「よく覚えているね、おばあちゃん」
「そりゃあね。帝都で梓や九段と過ごした頃のことは、忘れたことはなかったわ」

そう言って笑う祖母に、梓はあの頃の千代の面影を見た気がした。

「梓はきっと九段を連れてこの世界に帰って来ると思っていたから、その日が来るのをずっと楽しみに待っていたのよ」
「おばあちゃん……」

――ああ、そうだった――と梓は思う。
黒龍の神子として召喚される時に聞いた、祖母の声。
そして、千代の時空移動に巻き込まれ、禍津迦具土神と対峙する九段や皆を置いて、一度この世界に帰って来てしまった時にかけてくれた言葉――。
何もかも知っていながら、梓が生まれた時から、千代はずっと黙って梓を見守ってくれていたのだ。
そして、梓がもう一度あの世界に戻り、九段と共に帝都を救うために戦いたいと望んだ時、必要な助言をしてくれた。
そのおかげで、梓は今、九段と共に幸せな時間を過ごせている。

そう考えた時、不意に九段のことを意識し始めた頃からずっと頭のどこかで燻っていた疑問が再燃してきた。
――彼と二人、幸せな未来を歩もうとしている今なら、それを訊ねてみてもいいだろうか。
梓はスプーンを置くと、膝の上に両手を置いた。そして、一呼吸置いてから祖母に呼び掛けた。

「おばあちゃん…ううん、千代……」

梓は久しぶりに祖母を名で呼んだ。祖母の正体が対の存在であった千代だと知ってからも、梓はこれまでと変わらず「おばあちゃん」と呼んでいたので、呼ばれた千代と隣に座る進之助が軽く目を瞠って驚きを表した。ちょうどアイスクリンを食べ終え、ケーキに手を伸ばした九段も驚いたのか、一切れ目を手に取ったまま動作を止めて梓に視線を向けた。

「向こうにいた頃、聞きたかったけど聞けなかったことがあるの。今、聞いてもいい?」
「あら、改まって何かしら?」

梓は自分自身を励ますように一度手を握り締めると、大好きな祖母であり、九段の幼馴染でもある千代を真っ直ぐに見つめ、ずっと心に引っかかっていたことを初めて口にした。


「――私が九段さんの傍にいること、嫌じゃなかった?」


梓の思いがけない問い掛けに、梓と同じ色をした千代の目が大きく見開かれた。傍で聞いていた進之助と九段も一様に驚いている。

「梓、何を――…」

手にしたケーキを皿に戻し、口を挟もうとした九段だったが、進之助に制止された。九段が物問いたげな視線を向けると、進之助は無言のまま静かに首を横に振った。進之助の視線を「千代に任せよう」という意味だろうと察した九段は、開きかけた口を閉ざし、二人の会話を黙って聴くことにした。
その間にも梓は言葉を継いで、千代に重ねて質問した。

「――九段さんは千代の大切な幼馴染で、昔からずっと九段さんの幸せを祈っていたのでしょう? 千代はずっと私たち二人の初恋が実るよう応援してくれていたけれど、私みたいな違う世界から来た子が九段さんの恋人になること、嫌だと思ったことはなかったの?」

梓は視線を下に向けた。食べかけのアイスクリンが盛られた器が視界に入るが、梓の瞳はそれを捉えてはいなかった。

「だって、あの時は千代が私のおばあちゃんだなんて、千代自身はもちろん、誰も知らなかったわけだし……。九段さんがこっちの世界に一緒に来てくれたら、千代とは二度と会えなくなっていたかもしれない。それに、黒龍が願いを叶えてくれなかったら、九段さんと別れて私一人で元の世界に帰ることになって、九段さんに悲しい思いをさせていたかもしれないもの。――だから、異世界から来た私なんかより、あの世界の女の子を恋人にした方が良いんじゃないかって……」

実際、梓自身もそう考えたことがあったのだ。だから、最初のうちは、自分の中に芽生え始めた九段への想いから、わざと目を背けようとしていたように思う。好きになってはいけない人だと、無意識に自分に言い聞かせていたのかもしれない。自分はいずれ元の世界に帰るのだから――と。
だが、いつの間にか大きく育っていた想いを抑え、自分を誤魔化すことはもう出来ないと、あの夜――九段から千代紙で作った花束を贈られた夜に自覚した。
それでも気になっていたのだ。自分が彼の傍にいても本当に良いのか、と――。
それを、千代に訊ねてみたいと思っていたが、向こうではその機会がなかった。千代の意見を聞いて、背中を押してもらいたかっただけなのかもしれないが――…。

話しているうちに俯いてしまった梓を驚きの表情で見ていた千代は、やがて小さく息を吐くと、笑みを浮かべた。千代の横顔を見つめていた進之助の目には、その笑みが仲の良い友人か妹にでも向けるような親しみを込めたもののようでもあり、孫娘を思い遣る祖母の慈愛に満ちた笑みにも見えた。

「まあ、梓ったら、何を言うのかと思えば……」

千代はふふふ、と笑い声を漏らした後、俯いたままの梓に優しく語りかけた。

「どうして私が、梓が九段の恋の相手になることを嫌がるなんて思ったの? 傍で見ていたら相思相愛なのが明らかなのに、いつまでも自分の気持ちに気付かない、鈍感なあなたたちを、何とかくっつけようとしていたのは私なのにねえ」

そう言うと、千代は当時のことを思い出したのか、くすくすと笑った。

「だから、梓が『一緒に戦わなくちゃいけない人がいる。傍にいないと駄目なの』って言ってくれた時、本当に嬉しかったのよ。九段の気持ちは、あの日、一緒に凌雲閣へ向かった時に確かめていたから、『ああ、これで二人は大丈夫だ』って安心したわ。だから、あの手紙をあなたに託したの。『梓はきっと九段と一緒に帰ってくる――』、そう確信したから……」

弾かれたように梓が顔を上げ、千代を見た。彼女の隣の幼馴染も千代が話した手紙に心当たりがあった所為か、梓に向けていた視線を千代に移した。
千代は、漸く顔を上げて視線を合わせた梓に微笑みかけると、

「ひとつ、昔話をしようかしらね」

と言った。そして、先程から物言いたげな様子で梓の隣に座っている九段に目を向ける。

「――あなたは覚えているかしら、九段?」
「……何を、だ?」

突然話を振られたものの、千代が何を話そうとしているのか見当が付かず、九段が問い返す。
すると、千代はどこか悪戯めいた表情を浮かべ、普段の彼女らしくない、ゆっくりとした口調で答えた。

「『そんなに神子が大事なら、あなたの恋人にしてしまえばいいのに』って、昔、私が言ったこと――」

千代の言葉に向かいの二人が目を見開いた。――が、九段が目を瞠ったのは一瞬だけで、直ぐにその記憶を手繰り寄せたようだ。

「…あ、ああ。覚えているぞ。もう五年以上前の話だったか……」

まだ京都で暮らしていた頃――確か、村雨と出会う前のことだったはずなので、それくらいの年月が経っているだろうと推測しながら、九段が言った。

「そうね。あなたにとってはそれくらい前かしら? 私にはもうかなり昔の話だけれど……」

ふふふ、と千代が笑う。幼馴染でありながら、運命のいたずらから、二人の間に流れた時間が数十年ずれているため、昔話をすると少々話がややこしくなるのだ。
千代は、今度は梓に目を移した。

「ねえ、梓。あなたなら分かっていると思うけど……。九段はほんの子供の頃から、お役目第一でね。私も友達になって以来、龍神と神子に関する伝承について、耳にタコができるほど何度も聞かされたのよ」

九段が語る龍神と神子に関する伝承は、星の一族が代々伝えているものであり、世に出ている書物よりも詳しいものだったので、千代も最初の内は興味深く聞いていたのだ。自分とたった二歳しか違わないのに重要な役目を担い、幼い頃からほぼ全ての時間を来たる日のために費やしている彼が自分の幼馴染であることを、誇らしく思ったことさえあった。
だが、さすがに同じ事を何度も聞かされていると、うんざりする時もあった。一族の使命を第一と考える九段の前で、それを表に出すことはほとんどなかったけれど。

「村雨さんが九段の家から黙って出て行った理由、聞いたでしょ? あれ、嘘じゃなく本当のことよ、きっと」

くすくすと千代は笑った。
行き倒れたところを九段に助けられ、約一ヶ月の間萩尾の邸に下宿していたという村雨が、毎日九段から龍神と神子の話を聞かされ、煩わしさから逃げ出したという話は、帝都を散策していた時、村雨本人から聞いたことだった。
九段には悪いが、昔から九段の話を聞いて来た千代には、村雨がそう思う気持ちも全く理解出来ないわけではなかった。九段の話は熱心な分、結構しつこいのだ。それも彼が役目を第一と考えていた所為だと、理解してはいたが。

(確かに、九段さんって口数は多い方じゃないけど、自分が好きな事や興味を持っている事はとても熱心に話してくれるものね)

千代の話を聞きながら、梓はそんな事を考えていた。
「他人の話を聞かない」と村雨が言っていたが、自分が話したい事は熱心に話すところが、マイペースな九段らしいと思う。それが時に熱心の度が過ぎて、相手に煩わしい思いをさせてしまうのかもしれない。
ふと隣を見ると、九段が悲しそうな、しゅんとした表情を浮かべている。

「――九段。そんな表情しないの。別にあなたの話を聞くのが嫌だったわけじゃないのよ。ただ、余計なお世話だったかもしれないけれど、あなたが余りにお役目に熱心過ぎて、幼馴染として心配していたのよ。『九段はこのまま恋も知らず、お役目に殉じてしまうんじゃないか』って……」

重要な役目を果たすため、日々邁進している幼馴染のことを誇らしく思いつつも、思春期を迎えても、九段が好きな人どころか自分以外の友人も作らず、役目を果たすことにのみ没頭していることを、幼馴染として心配する気持ちが生じて来たのだ。
それも星の一族としての宿命だと九段は語ったが、互いに兄弟のいない一人っ子同士、子供の頃からまるで兄妹のように接してきた大切な幼馴染だったから、誰よりも幸せになって欲しかった。

千代がそう話すと、九段は漸く微笑を浮かべた。

「あの頃は、確かに使命に殉じると決めていたから、恋や友情など我には不要なものだと考えていたな。……いや、最近まで、と言った方が良いのかもしれない。正直なところ、梓の平手打ちを受けても、梓が何故怒ったのか、まだ完全には分かっていなかったからな」
「あら、『梓の平手打ち』って何? 初めて聞くわね」

そう言えば、あの場に千代はいなかった。千代が怒って立ち去った後、九段と話していて梓が平手打ちを喰らわせたのだから。
そのことを思い出し、梓は千代に説明した。

「うん。九段さんが千代に嘘を吐いたことがあったでしょ? あの時、九段さんと話したんだけど、『使命のためなら何を失っても構わない』なんて言うから、つい……」
「あらあら」

苦笑する千代の隣で進之助も驚いている。九段が千代に嘘を吐いたことも、梓が九段を打ったということも、進之助にとっては意外なことだったのだ。
梓の言葉を聞いて、九段自身も苦笑したが、直ぐに表情を改めた。

「だが、凌雲閣の地下で邪神の鱗を頭から外した時、使命などとは関係なく、ただ、梓と千代を守りたいと思ったのだ。二人は、我が星の一族として仕えるべき龍神の神子である前に、我の大切な想い人と幼馴染であったからな」

話しながら九段が微笑む。

「『自分たちは龍神の神子と星の一族だからという理由だけで一緒にいるわけではない』――そう言ってくれた梓の言葉――。あの時、初めて理解したのだと思う」

そして、失いたくないと思った。
梓との恋も、千代との友情も――。
そのためなら、幼い頃から殉じると決めていた一族の使命すら投げ打っても良いと、生まれて初めて思ったのだ。

そう話すと、九段は梓の方を見た。

「気付くのが遅すぎると、ぬしは呆れただろうか?」
「九段さん……」

梓はゆっくりと頭を振った。
彼がどれほど一族の使命を大切に思い生きて来たか知っている。一族の中でも役目を担うのに相応しい、強い力を持って生まれたが故に、両親や一族からの期待を一身に背負い、使命を第一と考えて生きるよう育てられたであろうことは、幼い頃の彼を知らない梓にも想像できた。もちろん、九段自身も星の一族に生まれたことを誇りに思い、自らの意志で一族の使命に殉じる決意をしたのだろうが。
使命を果たすために自分を犠牲にしても構わないという考えには賛同できなかったが、星の一族であることに誇りを持ち、役目を果たすため常に前向きに努力していた彼のことも好きだったから、自分の考えを理解してくれたことに対して嬉しいという思いしか浮かばなかった。

「九段がお役目以外のことに目を向けるようになったのも、梓のおかげね」

二人の会話が途切れたところで、千代が口を開いた。

「本当に、九段ったらお役目ばかり大事にして、自分のことには無頓着だったから……。それである日、九段があんまり使命、使命って言うものだから、『そんなに神子が大事なら、あなたの恋人にしてしまえばいいのに』って言っちゃったのよね、私。本当にそうなるとは露知らず……」

声を上げて千代が笑う。あの頃は、自分がふとした思い付きで発した言葉がこうして現実のものとなるとは、全く予期していなかったのだ。

「神子を守ることが星の一族の使命なら、守るべき神子をあなたの恋人にしてしまったら一石二鳥だと思っただけなのよ。大切な人なら使命じゃなくても守りたいと思うでしょ?」
「ぬしにそう言われた時、『何を言うのだ』と思ったものだが、現状を考えるとな……」

千代の言葉を聞いて、九段も苦笑を浮かべた。
仕えるべき神子に懸想するなど有り得ないとあの頃は考えていたが、梓に恋をして梓の世界にまで一緒にやって来た現在の状況を思うと、苦笑いしか浮かばなかったのだ。

「それに、梓を黒龍の神子として召喚したのは、九段、あなたでしょう?」
「いや、梓を神子と定めたのは黒龍だ。我は龍神の意を受けて、星の一族として召喚の儀式を執り行ったまでのこと」
「同じことよ。選んだのは龍神でも、梓はあなたが執り行った儀式でこの世界から呼び出されたんだから」

千代はふふ、と意味ありげな笑いを漏らすと、言葉を継いだ。

「あなたは子供の頃からの念願だった龍神の神子だけでなく、自分の恋人まで召喚したのね」
「……まあ、そうとも言えるな……」
「ち、千代!」

千代の言葉に応え、薄っすらと頬を染めながら九段が呟くのと同時に、梓が頬を紅潮させて千代に抗議する。まだ他の人間から九段の恋人扱いされることに慣れていないので、恥ずかしいのだ。
初心な孫娘とその恋人の反応が微笑ましくて、進之助の頬も思わず緩む。
梓の慌てぶりを目を細めて見遣った九段は、優しい笑みを浮かべて言った。

「ならば、我は黒龍に感謝せねばなるまいな。『よくぞ梓を神子に選んでくれた』、と――」

――この広い世界の中から、他の誰でもなく梓を神子に選び、二人が出逢うきっかけを作ってくれたことを、心から感謝したい。
梓と二人、幸せな未来を歩んで行こうとしている今、本当にそう思う。

「己が仕えるべき神子に懸想するなど、星の一族としては失格なのかもしれぬが……」
「失格なんて、そんなことないです。私、前に言いましたよね? 『九段さんが星の一族で良かった』って」

そう言えば、梓から言われたことがある。帝都で最後に過ごした日、凌雲閣に向かう直前、突然襲われた激しい頭痛を和らげるため、梓が抱き締めながら言ってくれた言葉だ。守るべき神子の手を煩わせる己の不甲斐無さに、思わず吐いた弱音に応えて。
あの言葉に、どれほど励まされたことだろう。梓の言葉があったから、最終的には恋と友情を選びながらも、星の一族としての使命も全う出来たのだと思う。

「……ああ。そうだったな」
「それに、私も、神子に選ばれて良かったって思っています。帝都に行って、皆や九段さんと出逢うことができて、本当に良かった……」

召喚された当初は何故自分がこんな目に遭わなければならないのかと、理不尽な運命を恨んだりもした。だが、鬼の一族や帝国軍の皆と共に帝都の町を歩き、神子として怨霊討伐の任務に当たるうちに、考えに変化が生まれた。自分はこちらの世界ではただの高校生だけれど、帝都で自分にしか出来ない役目を与えられ、人を助けるためにそれを遂行することを、いつの間にか喜びと感じるようになっていたのだ。
それに何よりも、かけがえのない人々と出逢うことができた。今は生きる世界を分かたれているけれど、彼らと過ごした日々を忘れることはないだろう。

「だから、私も、黒龍に感謝しないといけませんね」
「梓……」

梓が自分と同じ思いを抱いてたことを知った所為か、嬉しそうに九段が微笑む。
幼子のように素直に感情を表した九段の顔を見つめ、梓も微笑んだ。

(ふふ、本当は黒龍だけじゃなく、九段さんにも感謝してるから……)

心の中だけでそう呟く。
先程千代が言った通り、帝国軍に進言して神子召喚の儀式を行ったのは九段だから、彼がいなかったら二人は出逢えなかったかもしれない。
それに、九段は千代と梓を神子として召喚したことを自らの責任と考え、二人が快適に過ごせるよう、常に心を配ってくれていた。彼にとっては一族の使命として当然の事だったのかもしれないが、それまで世話になっていた鬼の一族と袂を分かったばかりだった梓には、彼の気遣いと優しさが嬉しかったのだ。
二人の遣り取りを聞いていた千代が口を挟んだ。

「本当に、黒龍に感謝なさいな、九段。あなたみたいに世間知らずで、子供っぽい部分があって手を焼く人とも上手く付き合ってくれて……。梓じゃなきゃ、あなたの相手は無理だったでしょう?」
「むう。だから、黒龍には感謝していると言っている」
「はいはい」

拗ねた口調で反論する九段が可笑しくて笑った千代だったが、すぐに笑いを収めると、今度は何やら意味深な笑みを浮かべて自分の前に置かれた皿の上のケーキを指差しながら、梓に向かって言った。

「ねえ、梓。このケーキ、人参嫌いの九段のために作ったのでしょ?」
「……?」

何故ここで千代が“人参嫌い”という言葉を口にしたのか直ぐには理解できず、九段が怪訝そうな表情で千代を見た。

「お、おばあちゃん!」

慌てたように梓が叫ぶと、今度は千代がきょとんとしている。
それを見て、梓が狼狽した理由を察した進之助が助け舟を出した。

「千代さん、梓は萩尾様には内緒にしていたんじゃないのかい?」

進之助の言葉を聞いて、千代は漸く梓が慌てた訳を理解した。驚いたように目を瞠ると、本人に確認する。

「あら、九段に内緒にしていたの、梓?」
「う…うん……。九段さんには、後でちゃんと言うつもりだったんだけど……」
「何の話だ?」

一人だけ話についていけず、九段が三人の顔に順番に視線を遣りながら訊ねた。
しかし、千代は九段の問い掛けに答える代りに、小さく溜息を吐きながら梓に言った。

「一口食べれば分かるでしょうに……。これ、キャロットケーキでしょう? 人参嫌いの子供に少しでも人参を食べさせるために母親が作る、定番のお菓子だわ」
「キャロット…ケーキ…?」
「そう。人参を使ったケーキのことよ」

キャロットケーキのことを知らない九段に千代が説明する。
九段は大きく目を見開いて、自分の前に置かれた皿の上の物体を凝視した。目の前の物体は、どう見ても九段が苦手とする人参が使われているようには見えなかった。強いて言えば、色が少し橙色っぽく見えることくらいだ。これに人参が使われているとしたら、恐らくすりおろされたものだろう。
九段がそんな想像を巡らせていると、梓が少し沈んだ声音で説明し始めた。

「……ごめんね、九段さん。何のケーキか先に言っちゃったら食べにくいかなと思って黙ってた……。この前、人参が原因で九段さんがおばあちゃんと喧嘩したっておじいちゃんから聞いたから、人参が苦手な九段さんにも美味しく人参を食べてもらえそうなものを考えて、今日このケーキを作ったの」
「なに? 我のために、わざわざ……?」

こくりと頷いた梓は、進之助から電話をもらったことや、昨日会えなかったのはキャロットケーキを試作するためだったことなどを説明した。

「私もおじいちゃんも、九段さんとおばあちゃんには仲の良い幼馴染のままでいてもらいたいと思っているから……」

梓の言葉に進之助が微笑み、千代と九段が目を瞠った後、互いの顔を見つめ合った。二人にとってあのような言い合いはいつものことなので、喧嘩したつもりは全くなかったのだが、進之助には喧嘩しているように見えたのだろうか。

「でも、このケーキは九段さんにも食べられると思うから。人参が入っていると思わずに、甘いケーキだと思って食べてみて」

梓にそう言われ、九段は再び皿の上に視線を落とし、ごくりと唾を飲み込んだ。
アイスクリンは先に食べてしまったから、先日のように口直しに使うことは出来ない。こんなことなら、ケーキを食べ終えるまで冷凍庫で冷やしておいてもらえば良かったと後悔する。

(……なに。梓の言う通り、甘味だと思って食せば良いのだ)

人参の味は苦手だが、全く食べられない訳ではない。それに何より、梓が自分のことを思ってわざわざ作って来てくれたことが嬉しかった。
九段は覚悟を決めると、再び一切れ目を手に取った。

「う…うむ。梓が我のために作ってくれたものであれば、たとえそれが人参の塊であっても、我は嬉しく食べるぞ!」
「九段……。梓があなたに人参の塊なんて出すわけないでしょう?」

決意表明のような九段の物言いに、呆れたように千代が言った。
すると、透かさず九段が反論する。

「千代は出したではないか」
「肉じゃがのこと? あれは“塊”なんて言わないの」

そんな幼馴染二人の遣り取りを、進之助と梓は笑って見ていた。天然な九段の言動に千代が鋭く突っ込むという場面は、帝都でも何度も見て来た。実に彼ららしい関係だと思うから、ずっとこのままでいて欲しいと梓は思う。進之助もきっと同じ考えだろうと思い、祖父の方を見ると、祖父は梓と視線を合わせ、微笑みながら頷きかけて来た。
――ああ、やっぱり……。
そう思いながら、梓も祖父に笑いかけた。

「では、いただく……」

九段がケーキを口に運ぶのを、他の三人は黙って見守った。
一欠片、ケーキを口に入れて咀嚼した九段は、驚いたように目を瞠った。

「……どうですか? 食べられそうですか、九段さん?」

恐る恐るといった様子で、梓が九段に問い掛けた。彼の口に合う味にしたつもりなのだが、やはり当人がどう評価するのか心配だったのだ。
ゆっくりと咀嚼した後それを飲み込み、漸く梓の方を向いた九段の顔には笑みが浮かんでいた。

「うむ。甘くて美味だ。これなら、いくらでも食べられそうだぞ!」
「本当ですか!? 良かった…!」

九段の言葉を聞いて、梓は嬉しそうに笑った。二人を見守る千代と進之助も互いの顔を見合わせ、微笑んでいる。
梓が喜ぶ顔を見つめた後、九段は手にしたケーキに視線を落とした。

「このケーキは檸檬の味がする所為か、あまり人参の味が感じられないのだな。初めて食す味だが、今まで食べたどんな甘味よりも、梓が我のために作ってくれたこの人参のケーキが一番美味だ」

意識的なのか無意識なのか、九段は先程千代に言われたのと同じ言葉を口にした。それに気付いた千代と進之助が微笑みながら若い二人を見守っている。

「九段さんが気に入ってくれたのなら、私も嬉しいです。たくさん食べてくださいね」
「ああ、喜んでいただこう」

話しながら、九段は既にケーキを齧っている。それを笑顔で見ていた梓は、祖父母がまだ一口もケーキを食べていないことに気が付いた。

「おじいちゃんとおばあちゃんも早く食べてみて。自信作だから」
「そうね。九段の反応が気になって、食べるのを忘れそうだったわ。――じゃあ、いただきます」

梓に促され、ケーキを一口食べた千代が、微笑みながら感想を口にした。

「美味しいわ、梓。確かに、これなら人参が苦手な九段でも食べられるわね」
「本当? おばあちゃん」
「ええ。本当に美味しいわよ」

祖母の褒め言葉に梓が破顔する。梓にとって祖母は幼い頃からの料理の師匠なので、祖母に褒められるのはやはり嬉しいのだ。

「このケーキ、梓が言った通り、九段に合わせて甘めに作ってあるのね」
「本当だ……。でも、レモン風味で美味しいよ」
「だろう?」

同じくケーキを食べ始めた進之助が千代の言葉に賛同すると、九段が二人に言った。明らかに嬉しそうだ。
梓が自分の好みに合わせて作ってくれたケーキを他の人間が褒めたのが嬉しかったのだろう。やはり素直な人だなと進之助は思う。

「梓!」

祖父母に向けていた視線を自分に向け、突然呼び掛けて来た九段に、梓は内心ドキリとする。

「何ですか?」
「先程我はこのケーキが一番美味だと言ったが、今日梓が作ってくれたアイスクリンも甲乙付け難い美味しさだったからな! 念のために言っておく」
「え…?」

九段の言葉を聞いて驚いた梓に対し、くすりと笑いを漏らしたのは千代だった。

「片霧さんの真似をして今の『九段語』を翻訳するなら、九段はまたキャロットケーキとアイスクリンを作って欲しいそうよ、梓」

遠慮したのか、珍しく直球な物言いを避けた九段の言葉を、言葉足らずで誤解されやすい「有馬語」を分かり易く言い直していた秋兵を真似て、千代が翻訳する。それが懐かしく思えて、梓は笑った。

「ふふふ。もちろん、九段さんが喜んでくれるのなら、また作るから」
「当然だ。梓が我のために作ってくれたものであれば、我は何でも嬉しく食べる」

九段のその言葉が嬉しいと思う。
好きな人が喜ぶ顔を想像しながら料理すると、初めて作ってみたものでも上手く出来るのだと、今回のキャロットケーキで自信が持てた。

(九段さんが喜んでくれるのなら、今度はまた別の料理にも挑戦してみよう)

再び美味しそうにケーキを食べ始めた恋人の横顔を見つめながら、梓はそんな事を考えていた。





◇ ◇ ◇





「今日はありがとう、梓」


夕方になって自宅に帰る梓を見送るため駅に向かう道すがら、話が途切れたところで九段が改めて礼を言った。

「梓のおかげで、我は今日、生まれて初めて人参を美味だと感じながら食べることができた」
「初めて…ですか?」
「そうだ。人参を甘味として食したのは初めてだったからな。人参を使った菓子があんなに美味だとは思わなかった。――新たな発見だ。ぬしのおかげだな」
「そんな風に言ってもらえるなんて、頑張って作った甲斐がありました。ケーキの他にも人参を美味しく食べられそうな料理の案がいくつか浮かんだので、今度作ってみますね」

梓がそう答えると、優しい笑みを浮かべていた九段は不意に笑顔を真顔に変え、何事か考え始めたようだ。それに気付いた梓は、邪魔をしないよう口を閉ざした。
暫くの間口を開くことなく歩いた後、九段は彼にしては珍しく溜息を吐いた。

「九段さん…? どうかしましたか?」
「いや、どうもしないが……」

梓の問い掛けにそう答えたものの、やはり引っ掛かることがあるのか、九段は言い止したまま再び沈黙する。何か言いたいことがあるのだろうかと思い、梓は彼が口を開くまで待つことにした。
やがて、再び溜息を吐くと、九段が呟いた。

「我は…不甲斐ない。この世界に来てからというもの、ぬしに甘えてばかりだ……」
「え…?」

九段が漏らした呟きを聞いて、梓が驚く。
帝都で彼が自分に対して示してくれた心遣いに比べて、自分は彼に何もしてあげられていないと悩んでいたのは梓の方だったからだ。
梓の反応に気付いていないのか、正面に視線を向けたまま、九段は言葉を継いだ。

「我は、ぬしと共にこの世界に来ることができて、嬉しかった。この世界に来て以来、毎日のように初めての経験をしたり新たな発見をすることが楽しいのだ」

元より好奇心の強い性格で知識欲もある方だから、自分が生まれ育った世界とは違うこの世界に来ても、然程困ったと思うことも戸惑うこともなかった。
むしろ、もっとこの世界のことを知りたいと思う気持ちの方が強かった。梓が生まれ育った世界であり、自分がこれまでいた世界と違うが故に、興味を掻き立てられるのだ。
そう思えたのは、進之助と千代という先達がいたことも大きかった。彼らのおかげで、こちらに来たその日に住む場所も確保できたのだから、どんなに感謝しても感謝し足りないくらいだと思う。いつまでも彼らの厚意に甘えるつもりはないが、今はまだこちらの世界の占術を学びながら、この世界で自分に出来ることは何か、探しているところだった。
そんな飽くなき好奇心と知識欲を満たしてくれるこの世界での毎日が、楽しくてならないのだ。

「だが、ぬしはどうだろうか? ぬしはいつも黙って我の傍にいてくれるが、ぬしの優しさに甘え、我だけが今の生活を楽しんでいるのではないだろうか?」

ずっと胸に秘めていた思いを、九段は初めて吐露した。
梓と共に歩む未来を選択し、こちらの世界にやって来たが、梓には学校があるから、軍邸で暮らしていた頃とは違い、常に一緒にいられるわけではない。それでも彼女は、学校が終わると毎日のように会いに来てくれる。それが重荷になっているのではと思い、梓に直接訊ねてみたことがあるが、元々祖父母の家には頻繁に来ていたから問題ないとの答えだった。
だが、先日梓から土曜日と日曜の午前中は来られないと言われて、改めて梓には梓の生活があるのだと気付かされた。彼女を自分だけに縛り付けてはいけないと悟ったのだ。
もっとも、梓が今日の午後まで来られなかった理由は、自分のためにケーキを作ってくれていたからだったのだと、彼女自身の口から明かされたのだが――。


そんなことを考えながら、心ここに在らずといった様子で機械的に歩を進めていた九段は、突然左袖を引っ張られるのを感じ、その場に立ち止まった。
後ろを振り返ると、隣を歩いていたはずの梓がいつの間にか足を止め、着物の袂を掴んでこちらを見つめている。

「梓?」

訝しげに声を掛けると、梓は掴んでいた袂を離し、無言のまま背に抱き付いて来た。

「あっ、梓!?」

往来での梓の今までにない大胆な行動に、九段は焦ったように声を上げた。頬が熱を持ち始めたことを自覚する。
次の瞬間、軽い振動が左肩に伝わって来た。九段の慌てた様子に構わず、梓は九段の背中に抱き付いたまま、肩に額を着けたようだ。
恥ずかしがり屋の梓が人前でこのような態度を取ったことは今までなかっただけに、彼女の行動の意味が分からず、九段はされるがまま、その場に立ち尽くすしかなかった。
焦る恋人を余所に、九段の背に抱き付き、肩に額を当てた姿勢のまま暫くの間じっとしていた梓が、やがてぽつりと呟いた。

「もう、九段さんったら。いつも自分のことより先に他人のことを心配するんだから……」

小さく溜息を吐くと、梓は身体を起こした。
それを感じて身体をこちらに向けた九段の正面に立つと、梓は彼の目を真っ直ぐに見つめて言った。

「私が九段さんと過ごす毎日が楽しくないと感じているなんて、どうして思ったんですか? そんなの、あり得ないことなのに……」

一度言葉を切った梓は、不意に何かに気付いたような表情を見せた後、再び口を開いた。

「あ、でも、『楽しい』のとは、少し違うかな?」

梓が自らに訊ねるようにそう言うと、九段の顔が僅かに強張ったように見えた。本当に、他人の言葉を真っ直ぐに受け止める人だなと思う。
きっと、自分が今考えたこととは全く違うことを、彼は想像しているのだろう。早く種明かしをして安心させてあげよう。
そう考えた自分が可笑しく思えて、梓はくすりと笑い声を漏らした。梓が何故笑ったのか分からず、九段は困惑した表情でこちらを見つめている。
梓は深呼吸するように大きく息を吸った後、彼の目を真っ直ぐに見つめたまま言った。


「この世界で九段さんと一緒にいられることが、私は『楽しい』というより、『幸せ』なんです」

「梓……」


九段が驚くのを見つめていた梓は、やがて視線を逸らすように俯き、話し始めた。

「私、帝都から帰ってから、ずっと考えていました。『私は九段さんに何が出来るだろう?』って……」

意外な言葉を漏らした梓に、九段は再び驚きの表情を見せた。

「私は自分の世界で九段さんと一緒にいられて幸せだけど、そのために九段さんに故郷も家族も、何もかも捨てさせてしまって……。その償いに私に何が出来るかなって、ずっと考えていました」
「それは我が望んだことだ! 梓が気に病む必要は……」

顔を上げると、梓は反論する恋人を手で制した。

「九段さんだけじゃなく、私自身も望んだことだから、責任はあると思っています。軍邸で暮らし始めた頃、九段さんも私に同じことを言ってくれましたよね? 『神子召喚の儀式を執り行ったのは自分だから、千代と私に対して責任がある』って」
「確かにそうは言ったが、神子召喚はぬしの意思によらず行われたものだった。無理矢理連れて来られたぬしと、自ら希望してこちらに来た我とでは、話が違うであろう?」
「それでも、やっぱり気になってしまいますよ。私は九段さんと違って、何も失っていないんだから……」

だから、二人が一緒にいるために彼が捨てたものの埋め合わせは、必ず自分がしようと考えていた。

「さっき、九段さんは私に『甘えてばかりだ』って言っていたけど、いつも九段さんの優しさに甘えているのは私の方です。『九段さんのために私に出来ることがあるなら何でもしてあげたい』――そう思っていたのに、それすら先に言われてしまうし……」

そう話すと、梓は苦笑いを浮かべた。
知らない世界に来たばかりの彼のサポートも、祖父母に頼るばかりではなく、出来る限り自分がしたい。帝都にいた頃、彼がしてくれたように。
そう思っていたのに、当の本人はと言うと、梓の思いとは裏腹に、「梓が望むことなら何でもしてやりたい」と言ってくれる。優しくて献身的な彼らしい言葉が嬉しかったけれど、同じことを自分も考えているのだと知っていてもらいたい。自分のために何もかも捨ててこちらに来てくれた彼に対して自分が出来ることは、それくらいしかないのだから。

「これでも、少しは不安だったんですよ? 『九段さんが私の世界を気に入ってくれなかったらどうしよう』って。――だから、九段さんが『毎日が楽しい』って言ってくれて、本当に嬉しかった……」
「ぬしが生まれ育った世界だ。我が厭うはずがなかろう?」

当然のように九段が答えるのを聞いて、梓は笑顔を見せた。
九段の性格から、こちらの世界に来ても比較的直ぐに馴染めるのでは――と考えなくもなかったが、彼がこの世界を好きになってくれなかったらと不安に思う気持ちがあったことも事実だった。だから、「毎日が楽しい」という彼の言葉が嬉しかったのは、梓の本心だ。
そして、出来れば彼がこちらでの生活を楽しんでいることを、自分も間近で感じていたかった。毎日のように彼に会いに来たのは、もちろん会いたいという思いがあったからなのだが、それとは別に、彼が毎日をどのように過ごし、こちらでの生活をどのように感じているのか確かめたいという思いもあったからだった。

「――以前、九段さんは私に『もっと我儘を言って欲しい』と言ってくれたけど…。その言葉に甘えて、一つだけ、我儘を言っても良いですか?」
「無論だ。ぬしが我に甘えてくれるのは、嬉しいと思う。一つと言わず、いくつでも言ってくれ」

何でも叶えると言わんばかりの九段の言葉に、梓は嬉しく思いつつも笑いを誘われる。
「いくつでも」と彼は言ってくれるが、今、梓が望むのは、ただ一つだけだ。


「九段さんがこの世界で経験する初めてのこと、私も一緒に経験したいんです。九段さんの傍で……」


――我にできることなら何でもしてやりたい。
そう言ってくれた九段に、梓は初めて彼にやってもらいたいと思っていることを告げた。
「初めての経験をすることが楽しい」と言った彼の傍で、その場面に立ち会うことで、彼がこちらでの生活を楽しんでいることを感じたい。そして、自分も彼がいるこの生活を楽しみ、幸せだと感じていることを彼に知らせたかった。
そして当然の事ながら、ずっと彼の傍にいたいという願いも、その言葉に込めている。
自分の想いはちゃんと伝わっただろうかと梓がじっと見つめていると、九段は少し考えた後、意外な言葉を口にした。

「それなら、今、この瞬間にも経験しているぞ」
「え…?」

彼の言葉の意味が分からず梓が思わず驚きの声を漏らすと、九段は微笑みながら続けた。

「梓を駅まで迎えに行くこと、駅まで送って行くこと。そして、ぬしが作ってくれたアイスクリンと人参のケーキを食したこと――。今日だけで、これだけの『初めて』を、我はぬしと共に経験したぞ」

――帝都では同じ邸に暮らしていたから、残念なことにぬしを送迎する機会はなかったからな。
そう言いながら、九段が笑う。
そう言えば、学校帰りに毎日のように祖父母の家に寄ってはいるが、いつもは「駅まで送って行く」という九段の申し出を断っていた。断ると彼は決まって残念そうな表情を見せ、「我に力が残っていれば、ぬしのためにまた腕輪を作るのに」とぼやいていたが、祖父母の言いつけに従い明るいうちに帰宅の途に就くことにしていたので、特に危険のない通い慣れた道を帰るためだけに、彼に家と駅の間を往復させるのが申し訳ないと思ったのだ。
それなのに、今日に限って彼の申し出を受けたのは、もう少しだけ一緒にいたいと思ったからだった。いつもなら、「明日また会える」と思うのに……。
きっと、昨日会えなかった所為なのだろう。少しでも早く会いたかったからと、彼は駅まで迎えに来てくれたけれど、会えなくて淋しいと思っていたのは、どうやら自分の方だったらしい。

「ふふふ。言われてみればそうですね」
「だろう?」

彼らしい前向きな捉え方に梓が同意すると、九段は嬉しそうな笑みを見せた。

「それと……」

言葉を継ごうとした九段が一旦言葉を切った。
改めて梓と視線を真っ直ぐに合わせると、九段は続けた。


「ぬしはさっき、『この世界で我と一緒にいられることが幸せだ』と言ってくれたが、我も同じ言葉をぬしに返そう。――我も、ぬしと共にいられることが、何よりも幸せだ……」


九段の言葉に、今度は梓が破顔した。自分の想いがちゃんと彼に伝わっていることを感じたからだ。
恋人の満面の笑みを目を細めて見つめると、九段は続けて言った。

「『幸せな未来をぬしと共に紡いでいく』――。ぬしと交わした約束は、我にとって、かつての一族の使命よりも重いものとなっているのだ。これは必ず叶えるぞ」
「ふふ。九段さんがそう言ってくれると、何でも叶う気がします」

帝国軍内に怨霊討伐のための専門組織を設立するよう軍のトップである参謀総長に直訴し、説得したことや、精鋭分隊隊員の選抜試験まで彼自身が行ったというエピソードを聞いて、穏やかでおっとりとした普段の彼からは想像できない行動力と実行力に驚いたものだった。
それに、怨霊討伐のため共に行動する間にも、彼が一族の者が記したという帝都終焉の予言が現実のものとならぬよう、決して諦めず常に前向きに努力し、終には予言を覆したことを傍で見て来たので、梓には彼の言葉を疑う余地はなく、むしろ頼もしいものに感じられたのだ。
九段が叶えると言うなら、必ず実現する――そう信じることが出来るから。

「当然だ。どんなに困難なことでも、我は決して諦めぬ」

果たして、九段から力強い言葉が返って来た。

「だが、この願いはぬしの協力なくして実現は不可能だ。二人で叶えるべき願いなのだからな」
「もちろん、私にとっても絶対に叶えたい願いですから、二人で叶えましょう」
「うむ。ぬしがそう言ってくれるなら心強い」

梓の答えに満足した様子で頷くと、九段は微笑んだ。
禍津迦具土神が顕形し、現実のものとなると思われた帝都の終焉の未来ですら、想いの力で覆した二人だから、この先何が起きても必ず二人で乗り越えて行けるはずだ。

九段が梓に手を差し出した。


「さあ。では、取り敢えず今日はぬしを駅まで送ることを完遂させてくれぬか」
「はい!」


差し出された手を躊躇うことなく取ると、二人は並んで歩き始める。



明るく、幸せな未来に向かって――。







〜了〜


あ と が き
「オトメディア」の婚姻届の「妻に作って欲しい料理」の項の九段さんの回答に、「ぬしの手製ならなんでもうれしく食べる」と書いてあるのを読んで、「人参の塊が入っている料理でも本当に嬉しく食べられるのか、九段さん?」と、少し意地悪な妄想をしたのがきっかけで出来上がった話です。梓は意地悪じゃないので、ちゃんと九段さんが食べられそうなものを用意してくれましたけど(笑)。
当初、九段さんにキャロットケーキを食べさせるだけの話だったのですが、書いているうちに梓と九段さんがそれぞれに悩みというか、自分の思いを話し始めたので、予定外の長さと終わり方になってしまいました。6のキャラたちも、思い通りには動いてくれなさそうです(^^;
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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