初めての味−1−
梓が祖父・進之助からの電話を受け取ったのは、その日の夜のことだった。

「――梓。少し良いかい?」
「うん。……何かあったの、おじいちゃん?」

携帯の表示を見て進之助からだと判ったものの、意外に思ったのだ。
そもそも、進之助から電話がかかって来ることは滅多にない。かけて来るのは、大抵の場合祖母である千代だった。それに、今日もいつものように、学校帰りに祖父母の家を訪ねていた。用があるなら、その時に言うはずだろう。――もっとも、最近では祖父母を訪ねているというより、祖父母の家で暮らす恋人に会うのが目的なのだが。
だから、珍しい祖父からの電話に、梓が咄嗟に考えたのは、九段に何かあったのでは――という心配だった。
だが、直ぐにその考えを自ら否定した。九段に何かあったのなら、祖父ではなく祖母から連絡が入るはずだと思ったのだ。なにせ、彼は千代の幼馴染なのだから。

「いや。おばあちゃんや萩尾様に何かあったという訳じゃないんだ」

それを聞いて、梓はほっと息を吐いた。
それが電話の向こうにも伝わったのか、進之助は千代は今風呂に入っており、既に風呂を済ませた九段は自室で今日図書館から借りて来た本を読んでいると思うと話した。

(そう言えば九段さん、昼間図書館に行ったって言っていたっけ。ふふ、本当に本が好きなんだな)

子供の頃から学校に行かず書物から知識を得ていたと話していた九段だが、軍邸で暮らしていた時も、夕食後は何かしら本を読んでいることが多かったことを思い出し、梓は思わず笑みを溢していた。
この世界に来てからも、彼の読書好きは変わらない。
九段と共にこの世界に帰って来た日、祖母が入院中のため祖父が一人で暮らしている家を二人で訪ね、祖父に自分の恋人だと紹介した後、暫く九段を泊めてもらえないかと頼んだ。孫娘の恋人とは言え、見ず知らずの人間を泊めることを、理由も聞かずあっさりと承諾してくれた祖父に感謝したものの、「なんならずっといてくれても構わない」と言った祖父を、有り難く思いつつも少し訝しく思ったものだった。もっとも、その後祖父母の正体を知り、彼らが初対面の時から九段に好意的だった理由を知ったのだが――。
その翌日には、九段は進之助に家から一番近い図書館の場所と行き方を教えてもらい、梓が学校に行っている間は図書館で過ごしていることが多いのだと聞いている。

『書は知識の宝庫だ。我はまだこちらの世界のことがよく分かっておらぬからな。梓の負担にならぬよう、自分で出来ることはしたいのだ。今なら、時間はいくらでもあるからな』

そう言って微笑む彼は、相変わらず梓が舌を巻くほど前向きで行動力があった。この世界に関する知識を深めるために本を読み、自らの足で街を歩いては、社会の仕組みやこの町で暮らす人々の生活様式を理解しようと努めている。
もちろん、図書館の本だけではなく、祖父の家で取っている新聞も、時間をかけて隅から隅まで読んでいるらしい。新聞に掲載されている週刊誌の広告にまで目を通しているらしく、彼が時々梓すら知らなかったことを訊ねて来るので、その知識欲に驚いたものだった。

(芸能人の離婚問題まで真顔で訊ねて来るから、驚いたな……)

一生に一度の恋を実らせ、何もかも捨てて梓の世界にやって来た九段には、こちらの世界では添い遂げることが出来ず別れてしまう夫婦が多いという事実が、何よりも衝撃だったらしい。そうなる夫婦ばかりではないと梓が説明すると、自分たちがそうならなければいいだけだと納得したようだったが。
その時のことを思い出し、梓は思わずくすりと笑っていた。

「…梓? どうかしたのかい?」

突然くすりと笑いを漏らした梓を訝しく思ったのか、進之助が話を中断して訊ねて来た。

「あ、ごめんなさい。ただの思い出し笑いだから」
「それならいいんだが……。――実は、梓に少しやってもらいたいことがあって、電話したんだよ」
「『やってもらいたいこと』って? 私に出来ることなら何でもするけど……」
「ああ、ありがとう。実は――…」

進之助が話し始めたのは、その日の夕食時に起きた出来事だった。
人参嫌いの九段に何とか人参を食べさせようと、策略を巡らせる千代――。
その場にいなかった梓だが、その様子をいとも簡単に思い浮かべることが出来た。
――最終的には千代に軍配が上がったことも――…。

(本当に、九段さんも千代も相変わらずなんだから……)

怨霊討伐の道中や軍邸でも、普段おっとりしている九段は年下の千代に言い負かされていることが多かった。それが今や千代の方が遥かに年上なのだから、九段が千代に勝てるはずがない。
特に食べることに関して千代は九段に厳しく、「好き嫌いをするな」とか「食べ過ぎるな」とか、まるで幼い子供の躾をする母親のように注意していた。仲の良い幼馴染が自分を案じてくれての言葉だと分かってはいても、食べることが何よりも大好きな九段には、やはり窮屈と感じられたのではないだろうか。
それで二人の仲が壊れることはないと思うが、どうやら進之助も二人が目の前で仲違いしそうな雰囲気になることだけは避けたいと考えているようだ。それで、千代が風呂に入り一人になったところで、梓に電話をかけて来たのだろう。
――ここは、幼馴染の二人だけではなく、祖父のためにも何か手を打つべきだろう。
そう考えた梓は、進之助の依頼を受けることにした。

「――わかった、おじいちゃん。私も大好きな二人が喧嘩するのは見たくないもの。九段さんが無理して苦手なものを食べているのも何だか気の毒だし…。九段さんが自分から進んで食べられそうなものを考えてみるね」
「すまないね。頼んだよ、梓」
「うん。じゃあ、また明日寄るから」

通話を切りながら、梓の頭の中には既にいくつか案が浮かんでいた。その中から、九段が最も好みそうなものをピックアップする。

「うん。きっと、あれなら残さず食べてくれそう」

早速インターネットでレシピを調べ、次の土曜日の午後、試作してみようと決意した。





◇ ◇ ◇





日曜日の午後、梓は祖父母の家に行くため、自宅の最寄り駅から電車に乗った。
車窓の向こうを流れて行く風景をぼんやりと見つめながら梓が考えていたのは、やはりこれから会う約束をしている恋人のことだった。

普段は朝から二人で出掛けることが多い日曜日だが、進之助から電話があった日の翌日、「土曜日の午後から日曜日の午前中は用があるから会えない」と、九段に伝えてあった。
そう伝えた時、九段が一瞬だけ見せた残念そうで淋しそうな表情が、ここ数日梓の目に焼き付いて離れなかった。

『だが、日曜の午後には会えるのだろう?』

優しい彼はそう言って微笑んだけれど、会えないことを伝えた瞬間、梓に見せた淋しげな表情が彼の本心だったのだろう。純粋で、素直で、嘘を吐くのが苦手な人だから、梓にも直ぐに分かってしまった。
だから、自分も会えなくて淋しいと思っていることと、用事を済ませたら直ぐに祖父母の家に行くと彼に伝えた。

『ならば、梓が来るのを大人しく待っていよう』

そう言いながら見せた笑みは、心からのものだったと思う。

(でも、これで許してくれるかな?)

梓は手に携えた紙袋に目を遣った。中身は今朝早起きして作ったキャロットケーキだ。
昨日の午後、インターネットで調べたレシピを参考に、材料を買って家で試作してみた。甘い物が大好きな九段の口に合うよう、レシピよりも砂糖を多めに使い、九段が苦手な人参の味を少しでも和らげるよう、すりおろした人参にレモン汁を混ぜてみた。家にホール型がなく、パウンド型を使って焼いてみたのだが、我ながら上手く出来たと思う。出来上がったそれを自分でも味見してみたが、レモンの風味が人参の野菜臭さを消し、爽やかな味に感じられ、甘くて美味しかった。念のため両親にも食べてもらい、「これなら大丈夫」とお墨付きをもらった。

(九段さん、喜んで食べてくれるといいな)

甘い物に目がない恋人の喜ぶ顔を思い浮かべ、紙袋を見つめる梓の横顔には、いつしか笑みが浮かんでいた。





祖父母の家の最寄駅に着き、改札を通ろうとした梓は、改札口の向こうに九段がいることに気が付いた。

「梓っ! ここだ!」

梓と目が合った瞬間、彼は嬉しそうな笑みを浮かべ、声を掛けて来た。
平均よりもかなり背が高い彼は、周囲より頭一つくらい抜けているので、目に付きやすい。しかも、若い男性には珍しく和服を着ているから、改札前にただ立っているだけでかなり目立っていた。
しかし、当の本人は周囲の視線を浴びていることに全く気付いていないのか、手を上げて大きな声で梓を呼んでいるのだった。恐らく、梓と行き違いになってはいけないと思ってのことだろうが――。

(こんな場所で行き違いになることなんてないのに。でも、なんだか九段さんらしい……)

天然過ぎる恋人の振る舞いに、くすりと笑い声を漏らした後、梓は急いで改札を通ると、小走りに九段に近付いた。

「どうしたんですか? 家で待っていてくれて良かったのに」

(『大人しく待つ』場所が違うような……)

心の中でそんな突っ込みを入れていると、九段から思いがけない言葉が返って来た。


「少しでも早くぬしに会いたいと思い、我慢できなくなって迎えに来てしまったのだ」
「え……」


九段の言葉に驚いて目を瞠った梓は、次の瞬間頬を赤く染めていた。
彼の言葉はいつも直球だ。真っ直ぐに自分の気持ちを伝えてくれるその言葉は嬉しいが、やはり公衆の面前で言われてしまうと恥ずかしい思いが先に立つ。

「それとも、早く会いたいと思っていたのは、我だけなのだろうか?」

ここで会えたことを喜び、晴れやかだった表情が、見る間に曇ってしまう。まるで親とはぐれた子供か捨てられた子犬のような九段のこの表情が、梓は苦手だった。慌てて首を横に振り、そうではないのだと彼に伝える。

「そんなことないですよ。私も早く九段さんの顔が見たかったから、迎えに来てくれて嬉しいです」
「そ、そうか? ならば、来た甲斐があったぞ!」

忽ちの内に元の表情に戻った九段を見て、梓は喜んでいいのか呆れていいのか反応に困ってしまう。

(まあ、この単純で切り替えの早いところが九段さんの良いところなんだけど……)

彼の誰よりも前向きな思考は、彼のこういう性格から来ているものなのかもしれない。
そんな事を考えていると、九段が手を差し出して来た。どうやら、梓が手に持っていたトートバッグと紙袋を持ってくれようとしているらしい。

「我が持とう」
「え、でも、軽いから大丈夫ですよ」

トートバッグの中身はいつも持ち歩いている財布、定期入れ、ハンカチ、ティッシュ、ポーチ、手帳、携帯電話の他は、この後祖父母の家でアイスクリンを作る約束をしているので持って来たエプロンが入っているだけなので、教科書やノートがない分、学校に行く時持っている鞄に比べて遥かに軽い。紙袋にはパウンドケーキが一本入っているだけなので、こちらも重くはない。
だから九段からの申し出を断ったのだが、彼は納得しなかった。

「女子に荷物を持たせて、男の我が手ぶらというわけにはいかぬ」

そう言って九段は梓の手から強引に荷物を奪い、それを纏めて片手で持つと、空いている方の手で梓の手を取った。こんな時、九段はとても男らしい。

「では、行こう」
「は、はい!」

人前でいきなり手を繋がれ、羞恥から頬を紅潮させた梓に気付いていないのか、九段が手を引いて歩き始めたので、梓も慌てて彼の隣を歩き始めた。普段おっとりしているのに、やりたいことがある時は持ち前のフットワークの軽さを発揮する人だ。きっと、彼の心は既に“梓が作ったアイスクリン”に飛んでいるのだろう。



駅舎を出て、通い慣れた祖父母の家までの道を手を繋いだまま二人で歩いていると、梓はふと向こうの世界にいた頃皆で行った隅田川の花火大会の時のことを思い出した。

(あの時も、こんな風に九段さんと手を繋いで歩いたっけ……)

花火大会の人混みの中、酔っ払いにぶつかり絡まれていたところを九段が助けてくれた。そして、皆が待つ場所に戻る時、彼とこうして手を繋いで歩いたのだ。
あの時、それまでは優しくて、子供のように純粋で、少し天然でおっとりしている人だと思っていた彼の、意外な男らしさを知った。繋いだ手も男らしく大きくて、いつも傍にいて守ってくれる彼に頼もしさを感じた。今思えば、あの日以来、急速に彼に惹かれて行ったのだと思う。

(あの頃は、まさかこっちの世界で九段さんとこうして一緒にいられるなんて、想像できなかったな)

それも、九段が自分と共に歩む未来を選んでくれたからだ。
だから、彼のために自分ができることは何でもしてあげたいと思う。もっとも、行動力のある九段のことだから、自分の助けなど必要としていないのかもしれないけれど。

『できることなら、もっと我儘を言って欲しい。我にできることなら何でもしてやりたい』

不意に、祖母の退院の日、病院に向かう途中、九段がそう話していたことを思い出した。

(もっと我儘を言って欲しいのも、何でもしてあげたいのも、こっちの方だよ。九段さんには、私のために生まれた世界を捨てさせてしまっているんだし…。本当に、いつも自分のことより他人のことに一生懸命なんだから……)

これも、幼い頃から星の一族の使命を果たすことだけを一心に目指して来た所為なのだろうか。九段は誰に対しても優しく、献身的だ。彼のそんな部分も好きだと思うが、偶には自分のために一生懸命になって欲しいとも思う。

「……梓…?」

黙り込んだ梓を訝しく思ったのか、九段が声を掛けて来た。
隣を歩く彼の顔を見上げると、琥珀色の瞳が真っ直ぐに自分に向けられている。彼のこの優しい目の色が、梓は好きだった。

「ふふ。実は今、花火大会の時のことを思い出していました。あの時も、九段さんと手を繋いで歩いたなって……」
「……ああ、そうだったな。では、家までこのまま歩こう」

一瞬だけ驚いた表情を見せた九段は、直ぐに優しい笑みを浮かべると、そう言った。心なしか嬉しそうに見える。
それを見て、梓も嬉しそうに笑った。





「お帰りなさい、九段。梓もいらっしゃい」

祖父母の家の門を潜ると、庭で鉢植えの花に水を遣っていた祖母から声を掛けられた。

「こんにちは、おばあちゃん。後でキッチンを借りるね」
「ああ、今日は梓がアイスクリンを作ってくれるんだったわね。良かったわねえ、九段。――あら…? あなたたち……」
「うん? 何だ、千代?」

千代が何かに気付いた素振りを見せたものの、九段は何のことだか分かっていないようだ。
しかし、梓の方は自分と九段の顔を往復する千代の意味ありげな視線に気が付いた。
――これは、あの花火大会の時と同じシチュエーションではなかろうか……。
駅舎を出てからここまでの道中は考えないようにしていたから平気だったが、改めて自分たちの今の状況を思い出し、梓は頬を真っ赤に染めた。慌てて手を放そうとするが、千代の視線の意味するところを理解していない九段は、離れようとする手を繋ぎ止めるため、反対に力を込めて来た。

「く、九段さん!」
「どうしたのだ、梓?」

梓が突然身を硬くして顔を赤らめた理由が分からず、きょとんとした表情で九段が訊ねた。
彼の天然さが恨めしくなるのはこんな時だ。
相変わらずな二人を見て、千代がくすくすと笑いながら、梓をからかう。

「あらあら、梓は恥ずかしがり屋ねえ。駅からここまで手を繋いで来たんでしょ? 今更照れることないじゃない」
「お、おばあちゃんっ!」

こうして初心な恋人たちをからかって来る時、梓にとって祖母は、あの世界で出会った、自分の対である千代だ。
しかし、梓はあの頃から千代のからかいの中に、九段と自分に対する千代の愛情を感じていた。
千代は梓と九段が互いへの想いを自覚する以前から、それまで恋愛とは無縁だった幼馴染が初めて知った恋を、全力で応援していた。
特別な役目を担う家に生まれ、幼い頃から使命最優先の生活を送り、それを当然の事と受け入れ、友情も恋も自分には無縁のものと思い込んでいた九段――。そんな彼の姿を昔から最も近くで見て来て、彼の将来を誰よりも心配していたのは、幼馴染である千代だった。当時の彼は、一族の使命を果たすことだけが自分の幸せだと考えている節があったが、その頃既に進之助と恋仲となっていた千代としては、本当の幸せを彼に知ってもらいたかったのである。
その彼が梓と出逢い、恋を知り、星の一族としての役目を終えて、漸く自分の幸せを追い始めたのだ。しかも、九段の恋の相手は千代の対であり、今では孫娘でもある梓である。千代にとってはこれ以上ない喜びだった。

「はいはい。梓をからかうのもこれくらいにしておかなきゃね。――ほら、何しているの、九段。早く梓を連れて中に入りなさいな。梓のアイスクリン、楽しみにしていたのでしょ?」
「うむ、そうだな」

急かす千代に答えると、九段は梓に向き直った。

「さあ、梓、中に入ろう。今日は我にアイスクリンを作ってくれるのだろう? 我はずっと楽しみにしていたのだぞ」

話しながら、手を繋いだまま、梓を玄関へと誘う。好物の話が出た途端、彼の足取りはまた軽くなった。
駅まで迎えに来てくれた時の言葉を疑うわけではないが、アイスクリンと自分のどちらを待っていたのかと拗ねたくなって来る。

「……九段さん…。もしかして、私じゃなくてアイスクリンを待っていたんじゃないですか?」
「何を言う。無論、梓も、梓が作ったアイスクリンも、どちらも首を長くして待っていたぞ」

拗ねた口調で言ってみたが、天然な恋人からはそんな答えが返って来た。
(九段さん…。今、大真面目で答えたよね……)
しかし、梓が心の中で突っ込んでいる間に、玄関の引き戸の前で立ち止まった九段は、不意に思い出したかのように言葉を続けた。

「ああ、だが梓がいないと、『梓が作ったアイスクリン』もないな。ならば、やはり一番は梓だな」

その答えには梓も苦笑するしかない。

「もう。九段さんったら……」
「ん? 何だ、梓?」
「ふふ、なんでもないです。――さあ、早く中に入りましょう。早く作り始めないと、アイスクリンは固まるまで時間がかかるから、おやつ時に間に合わなくなりますよ」
「それは困るな」
「でしょう?」

怨霊討伐が目的の探索中でさえ、おやつだけは忘れなかった九段から予想通りの答えが返って来て、梓は笑みを浮かべた。

「その紙袋の中身は、今日のおやつに出すつもりで今朝焼いたケーキなんです」
「何? 梓が作ったのか?」
「はい。……実は、午前中来られないって言ったのは、それを作りたかったからなの。九段さんを驚かせたかったから…。黙っていてごめんなさい」
「何を謝ることがある? 我は嬉しいぞ。今日のおやつは、ぬしが作ったケーキとアイスクリンか。どちらも楽しみだ」

心から嬉しそうに笑う九段の顔を見つめながら、梓は心の中でもう一度彼に謝っていた。

(本当のことが言えなくてごめんね、九段さん。実はそれ、人参のケーキなの。でも、きっと人参嫌いの九段さんも美味しく食べられるはずだから)

両手が塞がっている九段の代わりに、梓は空いている方の手で引き戸を開けた。
嬉々として足取りも軽く家の中に入る恋人に続いて、梓も通い慣れた祖父母の家の玄関を潜った。
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