山吹の記憶−2−
「うわあ……!」
目の前の風景の余りの美しさに、あかねは感嘆の声を上げた。


今日、あかねは泰明と二人で松尾大社にやって来た。
天真、詩紋、蘭、そして泰明と共に現代に帰って来たのは、丁度一年前のこと。
昨年の春は、早く泰明にこちらの世界に慣れてもらえるよう、天真たちにも協力してもらって、あちらこちらに出掛けた。しかし、外出の目的が京には無かったものを見聞きすることだったため、寺社には余り出掛けたことがなかったのだ。
今日、あかねが此処に泰明を連れて来ようと思ったのは、テレビで見たニュースがきっかけだった。それは、松尾大社の山吹が五分咲きだという事を伝えるものだった。
テレビ画面に映る松尾大社の楼門や咲き始めた山吹の花を見るうちに、あかねは京で過ごした日々を思い出していた。松尾大社の山吹の花には、特に思い入れがあったのだ。
何故なら、松尾大社はあかねが初めて泰明の笑顔を見た場所であり、山吹は初めて見つけた彼の好きなものだったからだ。

『自然から生まれ出づるものはいつも美しい……』

そう言って微笑む泰明の美しい笑顔に、思わず見惚れてしまっていた。その時、この想いが生まれていたのだとあかねは思う。

(そうだ。次の日曜日に泰明さんと松尾大社に行こう)

昨年の春、泰明はまだこちらの世界に来たばかりで、ゆっくり花を楽しむことも出来なかったから、今年こそはとあかねは思ってしまう。自然が少ないこの世界にも、京に負けないくらい素敵な場所があることを、彼に知ってもらいたいから。
泰明が花を愛でるタイプの人物ではないことは知っているが、山吹なら話は別だ。
京で彼が見せた笑顔を再び見たいと思ったあかねは、短いニュースが終わり天気予報が始まった時には、泰明に電話をするため携帯電話を手に取っていた。



そろそろ盛りを過ぎて舞い落ちた桜の花弁が、境内を流れる小川をゆったりと流れて行く。小さな薄紅色の小舟を浮かべたかのようなその光景だけでも充分風情があるのだが、今年は更に小川の両岸に植えられた山吹が水面を黄色に染め、喩え様もない程に美しい。
例年であれば、桜が終わってしまってから山吹が見頃を迎えるのだが、今年は好天続きだった所為か山吹が早めに開花し、桜と山吹という二つの春の花を同時に楽しむことが出来たのだ。

「綺麗ですね」
暫くの間、感嘆の声を上げたまま目の前の優美な景色に見入っていたあかねは、隣に立つ泰明にそう声を掛けた。
「ああ。そうだな……」
呟くように泰明が応えた。いつも落ち着いた調子で冷たいと感じさせられることが多い泰明の声だが、今は明らかに感嘆の気持ちが込められていることが判る。その証拠に、泰明の顔には優しい笑みが浮かんでいた。
それを確認し、あかねは今日此処に来て良かったと思った。
「まだ満開じゃないのが残念だと思っていたけど、まさか桜と一緒に見られるとは思ってなかったから、ちょっと得した気分……」
嬉しそうにあかねが笑う。その笑顔を、泰明は眩しげに目を細めて見つめていた。
「確かに此処の山吹も美しいが、私にとっては、お前が物忌みの文に添えて贈ってくれた山吹が最も美しい」
柔らかな笑みを浮かべてそう言う泰明に、あかねは薄っすらと頬を染めた。
(もう、泰明さんったら……)
相変わらず無自覚な殺し文句を口にする泰明に、あかねは赤面させられることが多い。
面と向かって言われると恥ずかしいが、彼の言葉がとても嬉しい。泰明はお世辞で物を言う人ではないので、心からそう思ってくれていることが判るからだ。
「あの山吹、不思議でしたよね。夏になっても枯れなくて」
龍神の力が働いていた所為か、京に来て間もなく手に入れた山吹の花は、不思議なことにずっと枯れることなく、何時までも瑞々しい姿のままだったのだ。

(そう言えば、泰明さんは私が贈った山吹をどうしたんだろう?)

ふと、そう思った。木と話が出来ると言っていた泰明が、まだ咲いている花を捨てたりすることはないと思うが、あの山吹がその後どうなったのか気になった。
その疑問を口に出せずにじっと泰明の顔を見つめていたあかねに、彼女が考えていた事が判っていたかのように泰明が言った。
「お前が贈ってくれた山吹は、春の間はずっと私の部屋に生けていた。だが、夏になってお前が藤を添えて来るようになった頃、あれらが押し花にして欲しいと希望したので、望む通りにしてやったのだ」
思いも寄らなかった泰明の言葉に、あかねは驚いた。
「今も、私が記した書付けと一緒に、お師匠が保管されている筈だ」
「書付けって?」
「お前が京に召喚された日からあの神泉苑での最後の戦いの前日までの、鬼との戦いを記したものだ。あかねの次に神子となる者が現れた時、参考となるように」
そんなものを泰明が残していたとは知らなかったあかねは、大きな目を見開いて、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。彼があの戦いを書付けとして残していたことに対する驚きは、彼の言葉を最後まで聞いた時には別の驚きに変化していた。

(龍神の神子って、京に危機が訪れた時に現れるって、藤姫が言ってたよね? じゃあ……)

「じゃあ、京はまだ救われていなかったってことなの!?」
あかねは驚きの余り、思わず泰明に詰め寄っていた。あの日、あの神泉苑ですべての戦いが終わり、京は救われたものと思っていた。
――もしかしたら、自分は中途半端にしか神子の務めを果たせていなかったのではないか……。
そんなあかねの心の内を見透かしたように、泰明が彼女の考えを否定する。
「いや、そうではない。だが、百年前のこともある。京に、また別の危機が訪れないとは限らない」
「二度あることは三度あるってこと?」
自分が神子として京に召喚される百年前にも、龍神の神子が京に現れたことがあるとは聞いていた。確かにあかねが神子として京にいた百年後くらいに、再び龍神が神子を召喚する可能性がないとは言えない。
あかねの言葉に、泰明は小さく頷いた。
「将来起こり得る可能性があるのであれば、布石を打って置くべきだと考えただけだ。あの書付けが役に立つ日が来なければ、それに越したことはない」
将来を見越して手を打って置く周到さが、如何にも泰明らしい。
あかねは、くすりと笑い声を漏らした。何故あかねが笑ったのか解らない泰明が、怪訝そうな表情で此方を見つめている。
それに気付いたあかねは話題を変えた。
「次の神子さんって、やっぱりこの世界から選ばれるのかな? どんな人なんだろう」
その言葉に、泰明は僅かに口端を上げた。
「そうかも知れないな。だが、お前のように思慮が足りず、供も連れずに独りで飛び出すような神子であれば、次の八葉たちも苦労することだろうな」
「え〜? 酷いよ、泰明さん!」
からかうように言う泰明に、あかねは口を尖らせて抗議する。確かに京での行状を考えれば言い返す言葉がないのだが、面白そうに言う泰明の顔を見ていると、お返しをしたくなってしまう。
言葉で返せなかったあかねは、泰明の胸をぽかりと叩こうとした。しかし、振り上げられたあかねの右手は、泰明の胸に届く前に拘束され、そのまま抱き寄せられてしまった。
「事実だろう?」
耳元でそう囁かれ、あかねは頬を紅潮させた。言葉に詰まってしまい、そのまま大人しく身体を泰明に預けた。

(でも、私だって泰明さんのこと、最初怖い人だって思っていたもの。無表情だし、必要以上に喋ってくれなかったし。次の地の玄武が泰明さんみたいな人だったら、きっと次の神子さんだって最初は戸惑うと思うけど……)

あかねは心の中で言い返した後、小さく笑った。

「何を考えている?」
またもや心の中で考えていた事を見透かされたように問い掛けられ、あかねはドキッとして慌てて泰明に預けていた身体を起こした。
「え…、えっと……。泰明さんの次の地の玄武って、どんな人なのかなあって……」
泰明が掴んでいたあかねの手を放した。
「やっぱり陰陽師なのかな?」
「怨霊と対峙するのであれば、八葉の一人に陰陽師がいたほうが都合が良いことは確かだ」
泰明の言葉にあかねが頷く。
京に居た頃、泰明がいてくれたお陰でどれほど助けられたか判らない。八葉たちはそれぞれに優れた人たちではあったが、やはり怨霊の話となれば最も知識が豊富だったのは陰陽師である泰明だった。
「でも、泰明さんや晴明様ほどの力を持っている人って、滅多にいないだろうし……」
惚れた贔屓目ではなく、率直な意見をあかねは述べる。晴明の跡も、安倍家の当主にはそれなりの力を持った人物が立つだろう。しかし、やはり稀代の陰陽師と呼ばれる晴明や、その愛弟子と言われていた泰明ほどの力の持ち主が今後現れるかどうかは疑問だった。
あかねの意見を聞いた泰明は、暫くの間何事か考えているようだった。それに気付いたあかねは、邪魔をしないように、黙って泰明が口を開くまで待つことにした。
やがて、泰明は躊躇いがちに口を開いた。
「……心当たりがない訳ではないが……」
「え!? 誰ですか?」
沈黙の後泰明が漏らした言葉に驚いたあかねは、思わず大きな声を発していた。いつもなら「騒々しい」と言わんばかりに顔を顰める泰明だが、今は真摯な表情が浮かんでいるだけだった。
泰明は一呼吸分の間を置いて、あかねの問いに答えた。
「私がお師匠の陰の気から作られたものであることは、お前にも話したことがあると思うが……」
あかねが頷く。彼が自分にだけ話してくれた重大な秘密だ。忘れる筈がない。
それを確認した後、泰明は山吹の方に目を向けた。
「私と同じものが、もう一つあったのだ」
初めて聞かされた事実に、あかねは緑色の瞳を大きく見開いて絶句した。隣に立つ泰明の横顔を、まじまじと見つめていた。
小川沿いに吹き抜けて来た微風が、泰明の長い絹糸のような髪を微かに揺らせている。
あかねの視線に気付いていないかのように、泰明は山吹に目を遣ったまま言葉を継いだ。
「お師匠の陰の気は、お師匠の身体から抜かれた後、二つの精髄に分けられたのだ。その一つに人型が与えられた」
泰明はあかねに視線を戻した。丁度見上げていたあかねと目が合った。
「それが私だ……」
「……じゃあ、もう一つは…?」
「人型を与えられず、精髄のまま核に封印された。その核は、今もお師匠が保管されていると思う」
泰明の言葉に、あかねは彼の言う「心当たり」が誰であるのかを察した。
「つまり、晴明様が保管しているもう一つの精髄に人型が与えられたら…ってことですか?」
「そうだ」
泰明はあかねの推測を肯定した。
「お師匠はそのために精髄の一つを封印なさったのかも知れぬ。もし再び龍神の神子が現れるような事態に京が陥った時、その封印を解き、神子の力となれるように……」
話しながら泰明は、微風に煽られて目に覆い被さって来る前髪を手で払った。
「その者なら、恐らく次の神子の八葉となれるのではないかと思う」
そう話す泰明の顔に、柔らかな微笑みが浮かんだ。
「そうですね。私もそう思います」
笑みで応えたあかねは、ふと思う。
次の神子が現れるような事態にならなければ良いとは思うが、核のまま保管されているという泰明と同じものに、人型が与えられる日が来れば良いと――…。
(「二つに分けられた」ということは、その人、泰明さんの双子の兄弟みたいなものなんだよね?)
きっと、泰明のように綺麗で有能な陰陽師になるのだろうなと、あかねは思った。
恐らく、次の神子が心惹かれずにはいられないような……。
そして、泰明がそうであったように、人となって人として生きて行ければ――…。
そうなれば良いと思ってしまう。
「どうした?」
考え事に沈んでしまったあかねに泰明が訊ねた。
「ううん。京に危機が訪れることを望む訳じゃないけど、泰明さんの兄弟が泰明さんみたいに人型を得られたらいいなって思ったの」
「私の兄弟?」
泰明が怪訝そうな表情で訊き返した。
「だって、泰明さんと同じ出自を持つ人でしょう? だったら兄弟じゃないですか」
「…………」
あかねの言葉に泰明が目を瞠った。
自分の身体を作っているものと同じ、もう一つの精髄の存在を知りながら、どうやら泰明には「兄弟」や「家族」という認識はなかったようだ。
あかねには、そのことが少し淋しく感じられた。
確かに特殊な出自を持つ泰明には、人のように血の繋がった親もなければ兄弟もいない。しかし、もし泰明と同じく晴明の陰の気から作られた者がいるのであれば、それは彼の兄弟と言えるとあかねは思うのだ。都合の良い解釈かも知れないけれど、そうであって欲しいと願ってしまう。

もし、泰明と一緒に、或いは泰明があかねと共にこちらの世界に来る前に、その精髄に人型が与えられていたならば、二人は兄弟として過ごす事が出来たのだろうか?
あの時代から百年後でも二百年後でもいい。もし泰明と同じ出自を持つ陰陽師が京に誕生していたのなら――。

(その人と泰明さんを会わせてあげたかったな……)

心からそう思ったあかねは、叶うことのない願いに、小さく溜息を吐いた。
その時――

―――…シャン……

(え? 今のは……)

聞き覚えのある鈴の音は、紛れもなくあかねが京で何度も聞いたものだった。
同時に泰明が異変を感じ取った。

(この気配……。龍神、か?)

その気配が龍神のものだと気付いた泰明が身体を緊張させた時、背後から誰かの呟きが耳に届いた。


『…泰明……』


自分のものとよく似たその声に、泰明はゆっくりと後ろを振り返った。





◇ ◇ ◇





「…泰明……」

泰継が呟いた名に驚く花梨の目の前で、翡翠色の長い髪を持つ青年が、ゆっくりと此方を振り返った。
振り返った彼の顔を間近に見て、花梨は驚愕の余り言葉を失った。

絹糸のような翡翠色の髪
宝石のように輝く琥珀色の瞳
そして、白磁のように白く滑らかな肌――…

それらは全て泰継と瓜二つだったのだ。

花梨は掴んでいた泰継の腕を、無意識に握り締めていた。

黄色い、山吹の花弁が、はらはらと舞っている。
その向こうで、泰継と瓜二つの青年――泰明の隣に立つ少女が、泰明の視線を追うように此方を振り向いた。彼女は花梨が泰明を見て驚いたのと同じく、泰継を見て驚きの表情を浮かべた。泰明を凝視したまま動かない彼を暫し見つめた後、少女は花梨に視線を移した。

緑色の瞳が、花梨を見つめている。
何時の間にか、隣に立つ泰継の存在も、彼女の隣に立つ泰明の存在もなく、其処に居るのは二人だけとなっていたことに花梨は気が付いた。握り締めていた筈の泰継の腕の感触も、今はなかった。
恐らく龍神の計らいなのだろう。ならば泰継のことは心配ない筈だ。
そう考えた花梨は、目の前の少女と言葉を交わすことにした。

「あなたは、先代の龍神の神子?」
誰何する声が微かに震えた。
その問い掛けに、朱鷺色の髪の少女は驚いたように軽く目を瞠った後、花梨に微笑み掛けた。
「あなた……。私の次の神子なのね?」
確認する少女に、花梨は頷くことで応えた。
「私は元宮あかね。あなたは?」
「花梨……。高倉花梨。私はあなたの百年後の京に、龍神の神子として召喚されたの」
説明しながら、花梨もあかねに微笑み掛けた。
「そして泰継さんと出逢って……。神子の務めを終えた後、彼の元に残ったの」
「あの人、泰継さんって言うのね? あなたの地の玄武…でしょう?」
こくりと花梨が頷く。
「もしかして、泰明さんと同じ出自を持つ安倍家の陰陽師?」
あかねの問いに花梨が目を瞠る。泰明があかねに話したのだろうが、彼が京を去った後に人型を与えられた泰継のことを知っているとは思わなかったからだ。そんな花梨の反応を見て、あかねは小さく笑った。
「さっき、その話をしていたところだったの。泰明さんに兄弟って呼べる人がいるのなら会わせてあげたいなと思ったら、龍神様の鈴の音が聞こえて……」
「私もそうだよ!」
あかねの言葉に驚いて、花梨が叫ぶように言った。
「さっき、あなたが物忌みの時泰明さんに贈った山吹の花を見ながら、泰継さんと二人であなたたちの話をしていて、泰継さんと泰明さんを会わせてあげたいって思ったら……」
今度はあかねが大きく目を見開いた。
お互いに驚きの表情を浮かべたまま見つめ合った。
暫くの間そうした後、二人の龍神の神子は、どちらからともなく吹き出した。
どうやら龍神は、二人の神子の願いを聞き入れてくれたらしい。
「龍神様のおかげだね」
「後でまた『龍神は神子に甘過ぎる』って泰明さんに言われちゃう」
「泰継さんも絶対そう言うよ!」
二人は顔を見合わせたまま笑った。
一頻り笑い合った後、花梨はあかねに訊ねた。
「じゃあ、やっぱり安倍家で言い伝えられている通り、泰明さんはあなたと一緒に現代に行ったのね?」
「そうよ。あなたは人になった泰継さんと京に残ったのね」
「ええ」
あかねの言葉を花梨は肯定した。

頷きながら答える花梨に、あかねは彼女と自分の選択を思った。
自分の世界に泰明を連れて帰った自分と、泰継のために京に残る決意をした花梨。
最愛の人と共に生きるために、正反対の選択をした自分たち。
慣れない異世界に残った花梨の方が自分より大変であろうことは、京に居た三ヶ月間の経験から、あかねにも容易に想像出来た。
しかし、目の前の花梨の笑顔からは、慣れない世界での苦労など、微塵も感じられなかった。

「花梨ちゃんって言ったっけ。今、幸せ?」
突然の問いに、花梨は目を見開いた。しかし、直ぐに花開くように微笑んだ。
「ええ。とっても!」
心からそう答えることが出来た。泰継の傍で、花梨は今、これ以上ないくらい幸せだったから。
そして、泰明と共に京を旅立った彼女もきっと……。
「あかねちゃんも…でしょう?」
「ええ。幸せよ」
幸せそうな笑みを浮かべてあかねが答えた。
二人が笑顔で見つめ合った時――

―――…シャン……

再び聞えて来た鈴の音に、二人の神子はこの逢瀬の終焉を感じ取った。

「あなたに逢えて、良かった……」
「私も……」
触れ合うことは出来なくても、少しの間でも言葉を交わし、そしてお互いが幸せであることを確認出来たから。

山吹の花弁が、黄色い吹雪のように舞い始めた。

「幸せに、ね」
「うん。あなたも……」

――生きる世界が違っても、京を守り、京で大切な人を見つけた、二人は龍神の神子だから……。


やがて、無数の黄色い花弁の向こうに、互いの姿は見えなくなってしまった。





◇ ◇ ◇





「…泰明……」

突然名を呼ばれ、泰明は後ろを振り返った。
振り向いた先には、翡翠色の長い髪を背に流した単姿の青年が立っていた。
驚きの表情を浮かべたままこちらを凝視しているその青年は、まるで鏡を見ているかのように、泰明に瓜二つだった。そしてその傍らには、あかねと同じ緑色の瞳を持つ少女が立っていた。彼女の手には、見覚えのある書がしっかりと持たれていた。
それは、つい今し方まであかねと話していた、次の神子の参考になるようにと、泰明が京に残して来た書付けだった。

ではこの清浄な気を持つ少女は、あかねの次に龍神の神子となった者なのか。
ならば、この青年は――…。

泰明は、再び視線を自分にそっくりな青年の方に向けた。
何時の間にか、二人だけになっていた。しかし、近くにあかねの気配を感じることが出来る。恐らく龍神の仕業だろう。二人きりで話せるようにとのお膳立てなのかも知れない。
あかねが願った事を、龍神が叶えたというところか……。
(全く……。龍神はあかねに甘い)
小さく溜息を吐いた泰明はあかねが望む通りにしようと、身動きすることも声を掛けることもせず呆然と自分を見つめている青年に、話し掛けた。

「お前、私と同じモノだな? いや、同じモノだったと言うべきか……」
目の前にいる青年が、彼の神子のお陰で人となったであろうことを察し、泰明は言い直した。
「如何にも、私は安倍泰明だが。お前の名は何と言う?」
「安倍泰継」
先程までの驚きの表情を消し、彼はそう名乗った。
「晴明が亡くなった後、五年経ってから人型を与えられた、お前と同じ出自のモノだ」
「何!? お師匠が亡くなられたのか!?」
泰継の言葉に、泰明が声を上げた。泰明にしてみれば、師、晴明に祝福されながら京を後にしてから、まだ一年しか経っていない。当然、晴明はまだ存命だと思っていたのだ。
「私は今、お前が生きた時代から百年後の京に生きている。人型を得て九十年になるから、晴明が亡くなったのは、お前がそちらに行ってから五年後ということになるな」
「そうか……」
呟いた泰明は、顔を伏せた。どうやら泰継が今生きている京は、自分が生きた京とは遥かに歳月を隔てているらしい。それなら、師が既に亡くなっていても仕方がないと納得する。
泰明は再び顔を上げ、泰継を見据えた。
「『人型を得て九十年』と言ったな」
「そうだ。私は私の神子に出逢うまで、九十年という歳月を要した」
泰継は視線を逸らし、空を見上げた。
空から、山吹の花弁が舞い落ちて来る。
「だが、長い年月の果てに、神子を得ることが出来た……」
神子のことを話す時、泰継の表情は柔らかな笑みへと変化する。
それに気付き、泰明は口元に微かな笑みを浮かべた。自分もそうだからだ。

暫く空に舞う山吹色の花弁を見つめていた泰継は、泰明の視線に気付き、彼の方に視線を戻した。
自分と同じ顔をした者が、此方を見据えている。

自分より強い力を持ち、核に封印することが叶わず、人型を与えられた泰明――…。
彼が残した書付けからも判る彼の優れた能力に、ずっと憧れていた。
花梨が現れ、彼女のお陰で人となるまでずっと、自分には決して越えることが出来ない壁だと思っていた。
その彼が、今、目の前に立っている。
越えることが出来ない壁であった泰明と、今自然に話すことが出来る自分に、泰継は驚いた。

「――お前は、今、幸せか?」
突然の泰明の問い掛けに、泰継は目を瞠った。
「私が神子と共に京を去る時、お師匠が仰ったのだ。『幸せになれ』と……。幸せが何であるかを理解出来なかった私にそれを教えたのは、私の神子、あかねだった」
泰明が微笑む。
「お前の神子も、お前に教えたのではないか?」
その言葉に、泰継はゆっくりと頷いた。顔を上げた時、泰継の顔には微笑みが浮かんでいた。
「ああ。私は、今、幸せだ……」

――花梨が傍に居てくれるだけで。
   彼女の存在が、九十年間の孤独を埋めてくれたから……。

「そうか。ならば良い」
柔らかな笑みを浮かべた泰継の顔を見て、泰明が頷く。


『だって、泰明さんと同じ出自を持つ人でしょう? だったら兄弟じゃないですか』

不意に先程のあかねの言葉を思い出した。

(兄弟、か……)

――悪いものではないかも知れない…。

そう思った自分自身に、泰明は驚いた。


その時――…

周囲の気が動くのを感じ取り、泰明と泰継は同時に身体を緊張させた。
龍神の気配が、急速に遠退いて行く。
それと共に風が巻き起こり、無数の花弁を散らせた。
二つの世界は、その黄色い花弁の薄衣に分かたれ、短い邂逅はそれで終焉となった。





◇ ◇ ◇





「泰明さん?」

あかねの声に我に返り、泰明はゆっくり彼女の方を振り返った。
微笑みを浮かべたあかねの顔が見上げていた。

「泰明さん。泰継さんとお話したんでしょう?」
その言葉に泰明は軽く目を瞠った。
「何故その名を知っている?」
泰継と話している間、泰継と自分の周りには、龍神が結界を張っていたようだった。泰継との会話は、あかねには聞こえていない筈だ。
「花梨ちゃん……泰継さんの神子さんと話すことができたの」
「そうか……」
泰明は視線を目の前の小川に戻した。其処には何事もなかったかのように、山吹の花が咲き乱れていた。
山吹を見つめたまま考え事をしている泰明の口元には、笑みが浮かんでいた。それを確認して、あかねも微笑みを浮かべた。
彼があかねに向ける以外に、こういう笑みを浮かべることは珍しい。
「良かった……」
あかねは泰明の手を取り、軽く握り締めながら言った。
再び泰明があかねに視線を戻す。「何が」と言いたげな顔が見下ろしていた。
それを見たあかねは、くすりと笑い声を零した。
「泰明さんと泰継さんが会えて良かった……」
「……龍神に願ったのか?」
泰明の表情が、忽ち不機嫌なものに変化する。
「龍神様にお願いした訳じゃないですよ。そうなったらいいなって思っただけで……」
顔を顰めた泰明を気にした様子もなく、あかねは続けた。
「花梨ちゃんも、丁度そう思った時に、突然時空が繋がったって言ってました」
つまり、二人の神子の願いを叶えるために、龍神が自主的に時空を繋いだと言う事か。
泰明が小さく息を吐く。
「龍神はお前たちに甘過ぎる」
むすりとして泰明が漏らした言葉に、あかねはぱちぱちと瞬きを繰り返した後、声を立てて笑っていた。さっき予想した通りの言葉を彼が口にしたからだ。
「何だ?」
益々不機嫌そうな口調になった泰明が訊ねる。
「ううん。何でもないです」
笑いを堪えながら答えるあかねを、泰明はまだ釈然としない表情で見つめていた。
「そろそろ行きましょうか」
言いながら、あかねは繋いでいた手を引いて促した。溜息を吐いた泰明が頷くのを確認してから、あかねは歩き始めた。
ふと小川の方を見ると、山吹の花が微風に揺れているのが見えた。

(幸せにね……)

黄色い山吹の花に、京で暮らす花梨と泰継の姿が重なって見えた気がした。





◇ ◇ ◇





「泰継さん?」

花梨に名を呼ばれ、泰継は我に返った。夢から醒めたばかりのような表情で、花梨の方を見た。
泰継を仰ぎ見る花梨の顔には、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

「泰継さん。山吹が見せてくれた夢じゃない、本物の泰明さんとお話できたんでしょう?」
「ああ……」
頷きながら、泰継は微笑んだ。その優しい笑みに、花梨はまたもや見惚れていた。
暫く花梨を見つめていた泰継は、やがて庭に目を遣った。其処には、既に山吹の花弁はなかった。異世界と結ばれていた時空の繋がりは、既に解かれたようだ。
庭を見つめていた泰継は、背後から肩に何か掛けられるのを感じた。さっき立ち上がった拍子に滑り落ちた袿を花梨が拾い、再び泰継の肩に掛けたのだ。
「泰継さんが泰明さんに会えて良かった……」
「お前のおかげだな」
泰継の言葉に、花梨は首を横に振った。
「ううん。私だけじゃなくて、あかねちゃんも泰明さんと泰継さんが会えたらいいのにって思ったらしくて……。二人が同時に願ったから、龍神様が叶えてくれたみたいなの」
花梨の話を聞いた泰継は、小さく溜息を吐いた。
「相変わらず龍神はお前に甘いようだな」
神子が望んだだけで時空を繋ぐなど――…。
泰継が漏らした言葉に、花梨はくすくすと笑った。
突然笑い声を上げた花梨を、泰継は訝しげな表情で見ていたが、口にしたのは別の事だった。
「あかね、と言うと、泰明の神子の名だな?」
確認する泰継に、花梨はこくりと頷いた。
「泰継さんが泰明さんと話している間、私はあかねちゃんと話していたの」
「何を話したのだ?」
泰継に問われ、花梨は考え込む仕草を見せた。あかねと話した内容を、最初から順に思い出そうとしたのだ。
「あかねちゃんは、やっぱり私と同じ世界の人だったみたい」
「…………」
嬉しそうに、そしてどこか懐かしそうに話す花梨に、泰継の表情が曇る。

もう二度と会う筈がなかった自分が生まれ育った世界の者と会って、花梨は向こうに帰りたいと思ったのではないだろうか。京に残ったことを、後悔してはいないのだろうか。
花梨の口から何度否定の言葉を聞いても、泰継には恐れにも似たその考えを完全には消し去ることが出来なかった。それはいつも、ふとした拍子に頭をもたげて来るのだ。その都度花梨が否定し、一時的に恐れは消え去る。その繰り返しである。
花梨に元の世界を捨てさせてしまったことは、生涯自分が負わねばならない負債なのだと泰継は思っていた。

一方、あかねとの遣り取りを思い出すことに集中していた花梨は、泰継の表情の変化に気付くことなく話を続けていた。
「それからね。あかねちゃんに今幸せかどうか訊ねられたの」
その言葉に泰継が目を瞠る。同じ事を、自分も泰明から訊ねられたからだ。
「…それで、お前は何と答えたのだ?」
訊ねる泰継に、花梨はきょとんとした表情になった。しかしそれも一瞬のことで、直ぐに満面の笑みに変わった。
「『とっても幸せ!』って答えました」
言うなり泰継の腕に抱き付き、小さく笑う。
――泰継さんったら、知ってるくせに……。
頬を染めて小声で呟く花梨の肩を、泰継は抱き寄せた。

こうして、彼女はいつも、泰継が抱く恐れをいとも簡単に払拭してくれる。
その笑顔と言葉で――…。

『幸せが何であるか――。お前の神子も、お前に教えたのではないか?』

不意に泰明が言っていた事を思い出した。

(その通りだな……)

口端を僅かに上げた泰継は、花梨の髪を指で梳いた。

「あかねちゃんも幸せだって言ってました」
髪を梳かれ、くすぐったげに肩を竦めた花梨は、泰継にそう話した。
「泰明さんが傍に居てくれるから…ですよね」
花梨は泰継を仰ぎ見た。
「私も、泰継さんが傍に居てくれるから、幸せです」
はにかみながらも、自らの想いを花梨ははっきり言葉にする。
今まで、彼女の言葉がどれほど泰継を救って来たか判らない。

(本当に、お前は……)

「私も、お前が傍に居てくれるから、幸せだ……」
泰継は花梨を抱き締め、彼女の耳元で囁くように告げた。


何時の間にか空は明るくなっていた。朝を告げる小鳥の囀りが聞こえて来る。
また、一日が始まる。

「ねえ、泰継さん」
腕の中の花梨が身動ぎするのを感じ、泰継は彼女の身体を解放した。
「何だ?」
訊ねる泰継に手に持ったままになっていた書物を返しながら、花梨が言った。
「泰継さんは、山吹の花が好きですか?」
唐突な質問に、泰継は一瞬驚いた表情を見せたが、少し考えた後返答した。
「そうだな。自然から生まれ出づるものは美しいと思う……」
泰継の答えを聞いた花梨は、忽ち笑顔になった。
「じゃあ、今日は松尾大社に行きませんか?」
今日は二人で京の町を散策することになっていた。行き先はまだ決めていなかったのだが、花梨はどうしても松尾大社の山吹が見たくなったのだ。
泰継が泰明に会って話すきっかけを作ってくれたのが、山吹の花だったから……。
花梨の提案に泰継が目を瞠る。
「そろそろ山吹が見頃なんでしょう?」
朝の日差しを浴びて、一層明るく見える笑顔で花梨が言う。
その笑顔につられ、泰継も微笑みを浮かべた。
「ああ。では、そうしよう」
その返事に「やった」とばかりに花梨が手を打った。
「じゃあ、早く出掛ける用意をしなくちゃ」
花梨は階を軽い足取りで上り、簀子を歩き始めた。
その後姿を見つめる泰継の顔に笑みが浮かぶ。花梨に遅れて泰継も階を上った。
簀子に立ち花梨の跡を追って歩き始めようとした泰継は、ふと手にした泰明の書付けに目を遣り立ち止まった。


『お前は、今、幸せか?』

泰明が問うたのと同じ質問を彼にしたいと思っていたが、訊くまでもなかったことが、会ってみて判った。
恐らく、泰明も神子が傍に在る限り、幸せでいられるだろう。
花梨が傍に在る限り、自分が幸せでいられるのと同じように……。

この世でたった一人だけの、自分と同じ出自のモノ――…。
彼にも、幸せであって欲しいと思う。


「泰継さん! 早く!」

簀子の途中で立ち止まり、花梨が手招きしている。

「ああ、今行く」


手を振る花梨に笑顔で応え、泰継は歩き始めた。







〜了〜


あ と が き
サイト開設一周年を記念して、泰明×あかねと泰継×花梨の両方を書こうと思って作ってみたお話です。毎度お馴染みの神子バカな龍神様のおせっかいネタですが(笑)。
「雪花」を書いた時、「次は現代ED後の泰明さんと京ED後の泰継さんに話をしてもらいたいなあ」と思ったので、同じ設定を使いました。まだ書いていないのですが、「幸せのかたち」のお師匠サイドのお話「六花の伝言」と併せて、私の中では四部作のようなものになっています。
最初からフリーにするつもりで書き始めたのに、こんな長いものになってしまいました(苦笑)。でも泰明さんと泰継さんだけでなく、あかねちゃんと花梨ちゃんにも話してもらえたので、まあいいかと自己満足に浸っています(笑)。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!

【追記:2004.6.28】
この創作のイメージイラストを神奈様が描いて下さいました。こちらからどうぞ。
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