山吹の記憶−1−
―――夢を、見た。


今が盛りと咲き誇る、黄色い、小さな花――…。

(あれは……。山吹……?)

其処に咲き乱れる鮮やかな黄色の花が、山吹であることに気が付いた。
どうやら何処かの寺か神社の境内に群生しているらしい山吹の優美な姿に、暫し目を奪われた。

(夢でも色が判るものなのか……)

驚き半ば感心半ばにそう思った時――
風に舞い上げられた無数の黄色い花弁が視界を遮った。
突然の事に、思わず手で顔を庇い目を閉じた。
そのままの姿勢で、風が収まるのを待つ。
暫くして、漸く風が収まったことを感じ、ゆっくりと目を開いた。

何時の間にか、さっき見惚れていた山吹の前に、人影が在った。後姿ではあったが、それが狩衣を来た青年と水干を来た少女であることが判った。彼らは山吹の花を見ながら、何か話しているようだ。
ふと、その場所が見覚えのある場所であることに気が付いた。
其処は、松尾大社の境内だったのだ。

紫色の水干を着た朱鷺色の髪の少女が、左隣に立つ青年の方を向いて、笑顔で何か告げている。その際、左を向いた彼女の横顔を見ることが出来た。
緑色の大きな瞳――…。
その瞳は、色といい大きさといい、自分が知る少女のものによく似ていた。
そして、尼のように短い髪も、素足を惜しげもなく晒す奇妙な装束も。

(あの少女も、異世界からやって来た者なのだろうか?)

そう考えた時、狩衣の青年が少女の方を向いた。少女に返答しているらしい彼の横顔を見て、思わず目を瞠った。

(――似ている…? 私に……)

呆然と見つめていると、柔らかな表情を浮かべていた端整な横顔が、一瞬にして険しい表情に変化した。流れるような所作で、狩衣の青年が少女を庇う姿勢を取って此方を振り返った。

(……!)

翡翠色の長い髪。
そして、何よりも左右色違いの彼の瞳に息を呑んだ。

―――間違いない。きっと『彼』だ。

ずっと憧憬にも似た気持ちを抱いていた、自分と同じ出自のモノ。
離れた場所から彼らの様子を窺っている自分の存在を感じ取っているらしい彼に声を掛けようとしたその時、再び視界が山吹の花吹雪に遮られ、彼らの姿は宙を舞う無数の黄色い花弁の向こうに掻き消されるように見えなくなってしまった。


(……っ!! 泰明…っ!!)


彼の名を呼ぶのと同時に、目が覚めた。





◇ ◇ ◇





「泰継さん…?」

珍しく夜明け前に目覚めた花梨は、褥に泰継の姿がないことに気が付いた。
泰継と結婚し、洛中に新居を構えて彼と共に暮らし始めてからというもの、目覚めた花梨の目が最初に捉えたものが微笑みを浮かべた泰継の顔ではなかったということは、滅多に無いことだった。花梨より先に目覚めた泰継は、花梨を起こさずに早朝から仕事に出掛ける日以外はいつも、花梨が目を覚ますまで彼女の寝顔を見つめているからだ。
ゆっくりと身体を起こした花梨は、室内の暗さに慣れた目で周囲を見回してみたが、室内に泰継が居る気配はなかった。
妻戸が閉じられた室内からは外の様子を窺うことは出来ないが、恐らくまだ空が白み始めた頃だろう。
一体こんな時間に何処に行ったのだろうか。
今日は泰継に仕事を休んでもらって二人で出掛ける約束だから、仕事に出掛けた訳ではない筈だ。しかも、着替えた形跡が無いことから、彼は単のまま部屋から出て行ったようだ。屋敷の中に居ることは間違いない。
そう考えた花梨は単の上に袿を羽織り、もう一枚手近にあった袿を手に取った。それを左腕に掛けると、花梨は外へ出るため妻戸に向かった。


妻戸を開けた途端、早朝の清冽な外気が室内に流れ込んで来る。春とは言え、日が昇り切る前の空気は単の上に袿を一枚羽織っただけの身体には少し肌寒く感じられ、花梨は思わずぶるっと身体を震わせた。
両手で自分自身を軽く抱き締めながら簀子に出た花梨は、なるべく音を立てないよう、静かに妻戸を閉めた。
花梨の予想通り、外はまだ薄闇に包まれている。
(泰継さん、何処に行ったんだろう?)
衣を羽織っていても肌寒く感じられるくらいなのに、何も羽織らずに外に出るなど身体に毒だ。花梨は腕に掛けていた袿が少しでも温まるよう、抱き締めるように自分の身体に押し付けた。
きょろきょろと庭の方を見回し、彼の姿がないことを確認した後、花梨は簀子の上を歩き始めた。
素足に触れる木の感触は、心地良いが少し冷たい。そう感じた花梨は、ふと八葉だった頃雪の上を裸足で歩いていた泰継を思い出し、思わず笑みを浮かべていた。まだあれからそんなに月日が経った訳ではないのに、龍神の神子として彼と共に過ごした日々が、遠い昔の事のように懐かしく思われるのが不思議だった。
そんな事を考えながら簀子上を数歩歩いた後、花梨は突然立ち止まった。少し先にある階に、捜していた人物を発見したからだ。

泰継は階に座り、膝の上に載せた書物を読んでいるように見えた。何もこんな暗がりで、しかもまだ肌寒い外で書物など読まなくても……、と思い、花梨は小さく溜息を吐いた。彼は人となった今も、自分のことには無頓着だ。
(泰継さんったら。あんな格好で外に居たら、風邪引いちゃうよ……)
手にしていた袿を持ち直した花梨は、自分の気配に全く気付いていないかのように俯いたまま顔を上げない泰継に、声を掛けようと口を開いた。しかし、開きかけた花梨の口は、言葉を発することなく閉じられた。
俯いている泰継の顔は、長い前髪に隠されていた上、辺りの暗さに包まれて表情を見て取ることが出来なかったのだが、何となくいつもの彼とは違う雰囲気を纏っているように感じられたのだ。
――何かあったのだろうか。
花梨は階から少し離れた簀子の上に立ち止まったまま、じっと泰継を見つめた。
さっきは彼が書物を読んでいると思ったのだが、よく見るとそうではないことに気が付いた。何故なら、泰継が膝に載せていた書物は閉じられたままだったからだ。彼は膝に載せた書物に手を触れたまま、じっとそれを見つめていたのだ。
何をしているのだろうと思った時、泰継が顔を上げ、ゆっくりと花梨の方を振り向いた。

「どうした?」
泰継が問い掛ける。花梨を見つめる泰継の顔には、花梨が心配したような辛そうな表情や苦しげな表情はなく、いつもの優しい微笑みが浮かんでいた。それを確認した花梨は、小さく安堵の息を吐いた。
さっき泰継の様子がいつもと違うと感じたのは、きっとこの薄闇の所為だろうと思い直し、花梨も笑みを浮かべた。再び歩き始めた花梨は、泰継が座っている階に近付くと、持って来た袿を彼の肩に掛けた。
「目が覚めたら、泰継さんがいなかったから……。そんな格好で外に居たら、風邪を引きますよ?」
言いながら、単を着た背中に流していた泰継の長い髪を、掛けた袿の上に出して整える。さらりと流れる翡翠色の髪から、ふわりと薫香が漂った。泰継の好きな菊花の香りだ。
「ああ…。すまぬ。心配をかけたのだな」
花梨は泰継の隣に腰を下ろした。
「……泰継さん。どうかしたの?」
泰継の顔を覗き込むようにして、花梨が問い掛けた。
泰継はその問いに直ぐには答えず、暫くの間花梨の顔を見つめた後、視線を膝の上の書物に戻した。泰継の視線を追い掛けるように、花梨もその書物に目を遣った。
「泰継さん。それ……」
花梨はその書物が何であるかを見て取った。
それは、昨夜、花梨が泰継に見せてもらった書物だったのだ。




昨夜のこと―――

「泰継さん、それは?」
文机に向かっていた泰継の傍に座った花梨は、彼が開いていた書物が気になってそう訊ねた。
それは、古い書物だった。何度も繰り返し読まれたであろうことが、一目見ただけで花梨にも容易に推察出来た。
その書物を、泰継は大事そうに見つめていたのだ。
一体、何の書物なのだろう?
普段、泰継が書を読んでいる時は、邪魔をしないように声を掛けない花梨だったのだが、いつもと違う泰継の様子を見て、訊ねずにはいられなかったのだ。
「ああ。そう言えば、お前には見せたことがなかったな」
ぱらぱらとそれを捲りながら、泰継が答えた。
「これが、泰明の書付けだ」
その言葉に驚き、花梨は大きく目を見開いた。
先代の地の玄武、泰明が残した書付け――。
それについては、まだ花梨が龍神の神子として泰継を始めとする八葉たちと京の町を散策していた頃から、泰継から幾度となく聞かされていた。
百年前、京の危機を救った先代の龍神の神子。彼女を守る八葉の一人、地の玄武だった泰明は、泰継と同様、安倍家の陰陽師だったというだけでなく、彼と同じ出自を持つ者だったと聞いている。その泰明が百年前の戦いを記録した書付けは、花梨が神子の務めを果たす上でも、色々と役に立ってくれたものだった。
それが、今目の前にあるこの書物なのか――。
緑色の瞳を大きく見開き、呆然と文机の上の書付けを見つめている花梨を見て、泰継は小さく笑った。開いていた書を閉じると、それを手に取り花梨の方に差し出した。
「見るか?」
微笑みながら言う泰継に、花梨は驚いたようにぱちぱちと瞬きした後、こくりと頷いた。両手を出して、恐る恐る彼からそれを受け取った。泰継が大切にしている物だと知っていたから、大切に扱わなければと思ったのだ。
ぱらぱらと頁を捲った花梨だったが、そこに書いてある内容はさっぱり解らなかった。達筆すぎて、手習いを始めてそれほど経っていない花梨には読めなかったのだ。
だが、書付けに記された達筆な文字は、泰継の手蹟とよく似ているように見受けられた。
(きっと、泰継さんによく似た人だったんだろうな……)
だから、先代の神子となった少女の心を捉えずにはいられなかったのだろう。花梨自身がそうであったように。
書付けを捲りながら、花梨の顔が自然と綻ぶ。
泰継や紫姫からの話でしか聞いたことがなかった泰明と先代の神子のことが、身近に感じられたからだ。
そんな花梨の様子を、泰継は優しい笑みを浮かべて見守っていた。

その時――…

「あれ?」
書付けを捲っていた花梨が突然手を止め、声を上げた。
最後の記述が終わった後の白紙の頁の間に、百年前の京を守る戦いを記したこの書付けには相応しくないと思われるものを発見したのだ。
それは、何か小さな花の押し花だった。
しかも一つだけではなく、いくつも同じ花が押し花にされて書付けの空いた頁に挟まれていたのだ。
この花は、一体何の花なのだろう。
気になった花梨は、それを泰継に見せて訊ねた。
「泰継さん。これ、何の花ですか?」
差し出されたものを、泰継が確認する。
「ああ。それは山吹だ」
「山吹?」
山吹というと、山吹色と言われるくらいだから、黄色い花だろう。言われてみれば、百年の年月を経た押し花からも、少し山吹色の名残が見て取れる。
しかしこの山吹は、京を守る戦いと一体どんな関係があったのだろう。
訝しげに小首を傾げた花梨を見た泰継は、彼女が抱いた疑問を見透かしたように言葉を継いだ。
「恐らく、先代の神子が泰明に送った文に添えられていたものだろう」
泰継の言葉を聞いて、花梨は驚いた。
「じゃあ、物忌みの時の…?」
「恐らくな」
頷きながら、泰継が答えた。
先代の書付けを読むと、百年前の龍神の神子が現れた時、季節は春だったようだ。だから、春の花である山吹が神子からの物忌みの文に添えられていたとしても、不思議なことではない。
それに、この山吹からは、微かにではあるが、清らかな神気を感じ取ることが出来るのだ。
そう泰継が話すのを聞きながら、花梨は山吹を見つめていた。

この山吹を押し花にしたのは誰なのだろう?
百年を経てもなお、こうしてその存在が残るように、大切に保存したのは……。

(やっぱり、泰明さんなのかな?)

自らの考えに、花梨の顔が綻ぶ。
「人となって姿を消した」と安倍家で言い伝えられている泰明――。
恐らく彼は神子と想いを交わし、自分の世界へ帰る神子と共に、異世界へと旅立ったのだろう。花梨が泰継と想いを交わし、彼と共に生きるために、元の世界を捨てて京に残ったのと同じように。
だからこそ、花梨には解る。
泰明が、どれ程彼の神子を愛していたか――…。

(きっとこの山吹の花も、とても大事にしていたんだね……)

神子から贈られた物だから――。
そう考えた花梨はふと思った。

(泰継さんは、私が贈った女郎花や石蕗をどうしたんだろう?)

こんな風に、大事に取って置いてくれたのなら嬉しいけれど……。

「……花梨?」

山吹が挟まれていた頁を開いて、それを見つめたまま黙り込んでしまった花梨に、泰継が訝しげに声を掛けて来た。その声に、花梨は我に返った。

「ううん。何でもないです」

慌てて首を横に振りながら、笑顔でそう答えた。訊いてみたかったけれど、敢えて訊くのは止めて置いた。
花梨は書付けを閉じると、泰継に返しながら思った。

もし、泰継が自分が贈った花をこんな風に保存して置いてくれた訳ではなかったとしても、それで彼が自分を想ってくれている気持ちが、泰明の先代の神子への想いに劣るとは思わない。
何故なら、自分は今、こんなに幸せなのだから。

ふふふ、と小さく笑った花梨は、泰継の腕に抱き付いた。




昨夜の記憶を辿りながら、花梨は何時しか笑みを零していた。
ふと隣を見ると、泰明が残した書付けを見つめる泰継の口元にも笑みが浮かんでいる。
幸せそうなその微笑みに、花梨は思わず見惚れていた。早朝から外に出て書を見つめていた泰継に、いつもと違うものを感じ、何か彼に良くないことでもあったのではと心配した花梨だったが、どうやら杞憂だったようだ。彼の表情を見る限り、むしろそれは良いことだったらしいことが判る。
暫くの間無言のまま膝の上に視線を落としていた泰継は、やがて書付けに触れていた手でその表紙を撫でながら口を開いた。
「夢を、見たのだ……」
「夢?」
泰継の答えに花梨は目を瞠り、鸚鵡返しに問い返した。
まだ人になる前、「夢を見ることがない」と彼が言っていたことを、花梨は思い出した。人になった後、毎日睡眠を取り、毎日食事をするようになり、泰継が普通の人と同じ生活を送れるようになったことを、花梨も彼から聞いて喜んでいたのだが、そう言えば夢を見たと聞いたことはなかった。
花梨の顔がゆっくりと綻んで行く。
「じゃあ、初めて夢を見たんですね?」
嬉しそうに訊ねる花梨に、泰継は頷いた。それを見た花梨は満面の笑みを浮かべた。
あの火之御子社での出来事以来、泰継はいくつもの初めてのことを経験した。それは大抵の場合、感情や睡眠といった、他の人間が生きて行く上で当たり前のように体得しているようなことだった。子供時代というものを持たない彼が、まるで人として新たな生を与えられたかのように一つ一つ経験を積んで行くのを見ることが、花梨には我が事のように嬉しかったのだ。
「どんな夢だったの?」
初めて見たという泰継の夢の内容が気になった花梨は、思わずそう訊ねていた。
身を乗り出して顔を覗き込むように訊ねる花梨の視線に、泰継は顔を上げて彼女の方に向けた。期待に満ちた笑顔が泰継の返答を待っている。
それを見た泰継の顔にも無意識に笑みが浮かぶ。好奇心旺盛な彼女のこんな表情は可愛いと思う。
柔らかな笑みを浮かべた泰継は、花梨の顔を暫く見つめた後、空を見上げた。
辺りはまだ薄暗いが、空は先程より確実に白んで来ているのが判る。
それを確認した後、正面の庭に視線を戻し、泰継は口を開いた。

「先代の神子と泰明の姿を見たのだ……」

泰継の言葉に花梨が驚く。思わず泰継の横顔をまじまじと見つめていた。
宝石のような琥珀色の瞳は、前栽を見ているようでいて、何処か遠くを見つめているように見えた。
恐らく、泰継の瞳は、夢で見た先代の神子と泰明の姿を捉えているのだろう。
東雲の薄明かりの中でもはっきりと判るその瞳の輝きに、花梨の目は釘付けとなった。

「あれは、松尾大社だったのだと思う。境内で、二人は山吹の花を見ながら話していた」
花梨にそう話した泰継は、膝に載せた書付けを一瞥した後、花梨に視線を戻した。
「昨夜、お前とこれを見ながら話した所為かも知れぬな」
「それ、解ります。寝る前に考えた事とか見た物が夢に出て来ることって、私もよくあるもの」
現代にいた頃、読んだ本の内容やテレビで見た風景などを夢に見たことがあった花梨は、泰継の言葉に相槌を打った。昨夜、書付けを見ながら泰明や先代の神子、そして書付けに挟まれていた山吹のことを話したから、それが泰継が初めて見た夢に現れても不思議ではないと思ったのだ。
「先代の神子さんが泰明さんに贈った山吹の花が、泰継さんに二人の姿を見せてくれたんですよ、きっと」
ふふふ、と嬉しそうに花梨が笑う。
「どんな人でした?」
泰継が会ったことのない人物だから、夢に出て来たという泰明と神子が、実際の彼らの姿をそのまま映しているとは思えない。だが、特殊な出自の彼らは、共に安倍晴明の陰の気を核に持つと聞いているから、普通の兄弟より強い絆を持っているのではないかと花梨は思うのだ。しかも、二人とも陰陽師として常人とは異なる能力を持っているから、泰継が見たという泰明と神子の姿が、彼の夢の中で作られたものではないのではと、つい期待してしまう。
そしてその思いには、泰明の話をする泰継を見る度に、「会わせてあげたい」と花梨が思っていたことも、そして、花梨自身が先代の龍神の神子がどんな少女だったのか気になっていたということも、間違いなく反映されていた。
「神子は、お前と同じ色の瞳をしていた。髪の色は違ったが、やはり短かったな」
花梨を見つめながら、泰継が答えた。
「それと、装束もお前が京に来た時から着ていた物によく似ていた」
「それって、スカートを穿いていたってこと?」
その問いに泰継が頷くのを見て、花梨は思った。
――やはり先代の神子も、花梨と同じ世界から京に召喚された少女だったのだろうか。
「先代の神子も、お前と同じ世界から来た者なのかも知れぬな」
今花梨が考えていたのと同じ事を、泰継が口にする。
きっと、そうだったのだろう。

(じゃあ、泰継さんと一緒に元の世界に帰っていたら、もしかしたら泰継さんを泰明さんに会わせてあげられたかも知れないんだ……)

花梨自身は京に残ったことを後悔したことなどないが、そう考えると「一緒に行く」と言ってくれた泰継の言葉を嬉しく思いつつも自分が此処に残ることにしたことが、間違いだったような気がしてくる。
「花梨…?」
花梨の気が少し沈んだことに気が付いた泰継が、気遣わしげに声を掛けた。その口調に、花梨は泰継の次の言葉を予測する。

――元の世界に帰りたくなったか?

多分彼はそう訊ねて来る筈だ。
その言葉を泰継が口にする前に、花梨は慌てて話題を変えようとした。
「ううん、何でもないです。泰明さんはどんな人でした?」
訊ねる花梨の気に既に先程の翳りがないことを確認し、泰継は小さく安堵の息を吐いた後答えた。
「私に、似ていた。髪の色や瞳の色も私と同じで……」
言い止して、泰継は目を見開いた。自ら発した言葉に、夢で見た泰明の瞳の色が左右で異なっていたことを思い出したのだ。
では、あれはまだ泰明が人になる前の出来事だったのだろうか。

(あれは、ただの夢ではない……?)

妙に現実的だった夢――。
泰継は、膝の上に載せたままになっていた泰明の書付けを開いた。目的の頁を開くと、じっとそれを見つめた。

「泰継さん? どうかしたの?」
言葉を止めて驚きの表情を浮かべた泰継を見守っていた花梨は、突然書付けを捲り始めた泰継に心配そうに声を掛けた。泰継が手を止めじっと見つめている頁を、花梨も覗き込んだ。
彼が見つめていたのは、あの山吹の花だった。
「お前の言う通りだったのかも知れぬ」
「え?」
泰継の言葉の意味が解らず、花梨は訊き返した。
「山吹が先代の姿を私に見せたのだと言っただろう」
「あ…。うん」
「あれは、只の夢ではなく、この山吹の記憶だったのだろう」
「山吹の記憶?」
「そうだ」
この山吹は、恐らく松尾大社に咲いていたものなのだろう。だから、松尾大社を訪れた泰明と先代の神子を見ていたのだ。それが、夢に見たあの光景なのだろう。
今まで幾度となく紐解いたこの書付け。当然、この山吹も、何度も目にしていた。
それにも拘わらず、山吹が記憶していた光景を見たのは初めてだった。
――昨夜、初めて、花梨にこの書付けを見せた所為だろうか。
そう考えた泰継は、花梨に微笑み掛けた。
(本当に、お前は私に色々なことを齎してくれるのだな……)
じっと自分を見つめている花梨の肩を、泰継はそっと抱き寄せた。

(温かい……)
突然優しい笑みを向けられ、肩を抱き寄せられた花梨は、抱き寄せられるがまま泰継に身体を預けた。こうして身を寄せ合っていると、外に居ることを忘れるくらい温かい。
幸せだなあと思い、花梨は小さく笑って泰継の肩に頭を載せた。視線の先に、山吹の押し花があった。
花梨がじっと山吹を見つめていることに気付いた泰継が、書付けを広げたまま花梨に手渡した。

(ありがとう……)

思わず、心の中で山吹に礼を言っていた。
もし泰継が言うように、この山吹が泰明の姿を見せてくれたのなら、花梨としても嬉しい事だ。
(でも……)
花梨は思う。
(泰明さんの姿を見るだけじゃなく、出来れば泰継さんと泰明さんに言葉を交わしてもらいたかったな)
泰継にとって泰明は、家族のようなものだと思うから。
(やっぱり、泰継さんと一緒に元の世界に帰るべきだったのかも……)
そう考えて花梨が小さく息を吐いた、その時――

―――…シャン……

(え? 今の……)
聞き覚えのあるその音に、花梨は泰継に預けていた身体を起こした。それと同時に泰継が立ち上がり、花梨を庇う姿勢を取った。その拍子に泰継の肩から袿が滑り落ち、階の上に広がった。
「泰継さん?」
まるで怨霊との戦闘の時のような泰継の様子に、花梨も訳が判らないまま立ち上がった。一段下に立つ泰継の隣に並ぼうとした花梨を、泰継は無言のまま手で制した。
「泰継さん。今、龍神様の鈴の音が……」
背を向けたまま庭を見据えている泰継に声を掛けながら、花梨は背後から彼の視線が向けられた先を目で追った。そして、その先に捉えた光景に目を瞠る。

無数の黄色い花弁が、風に煽られて宙を舞っている。
まるで黄色い吹雪のような光景に、花梨の目は釘付けとなった。

(あれは、山吹……?)

黄色い花弁の正体を見て取った花梨は、泰継が手を下ろしたことに気付き、階を一段下りて彼の隣に立つと、さっきから一言も発しない泰継の顔を覗き込んだ。
「泰継さん…。これ、龍神様が…?」
鈴の音を聞いた花梨は、龍神の仕業ではないかと思い、泰継の意見を求めた。しかし、泰継が口にしたのは全く別の事だった。
「……同じだ……」
庭に視線を向けたまま、泰継が呟いた。
「え?」
「私が見た夢と同じなのだ……」
聞き返した花梨に、泰継が呟くように答えた。

突然現れた山吹の花吹雪。
この庭には山吹は植えられてはいないから、別の空間が其処に存在しているに違いない。
花梨の推測通り、これは龍神の仕業だろう。

(一体、何のために……?)

そう思った時、視界を黄色く染めていた花吹雪が収まり、歪んだ空間の向こうに山吹を見つめる人影が見て取れた。
昨夜見た夢と同じ光景に、泰継が大きく目を見開く。
彼の表情の変化に気付いた花梨も、前方に視線を戻した。そして、目の前の光景に、泰継同様目を瞠る。無意識に泰継の傍に寄り添い、彼の腕を掴んでいた。

異空間の先に見えたのは、朱鷺色の髪の少女と翡翠色の髪の青年――。
しかし、彼らが着ていたのは、泰継が見た山吹の記憶とは明らかに違う、京の物ではない装束だった。

「…泰明……」

ぽつりと泰継が呟いた名に、花梨は驚いて泰継の顔を見た後、前方の人影をじっと見つめた。
青年と少女が着ていたのは、紛れもなく現代の服だった。


驚く花梨の目の前で、翡翠色の長い髪を持つ青年が、ゆっくりと此方を振り返った。
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