驟雨−2−
泰継が戻って来た時、激しい雷雨は既に通り過ぎ、小雨に変わっていた。先程まで厚く空を覆っていた黒い雲が去り、徐々に空は明るくなって来ている。
ぐっしょりと濡れて重くなった袍を脱ぎ、花梨が用意した着物に着替えた泰継は、濡れた髪の戒めを解き、今は背に流していた。
「一体、何があったんですか?」
泰継が円座に座るのを待って、花梨はさっき答えてもらえなかった疑問を再度口にした。彼女の膝の上には、柔らかな布に包まれた子猫が丸くなって眠っている。泰継が出ている間に、濡れた身体を拭いてもらい、温かい牛の乳を与えられて人心地付いたらしい。すっかり安心したように、花梨の膝に小さな身体を預けていた。
その様子に目を遣った泰継の瞳が優しく瞬く。しかし、微かに口端に刻まれた彼の笑みが少し淋しげに見えて、花梨の胸に不安が過ぎった。
「……泰継さん?」
不安げに名を呼ぶ声に、泰継は漸く花梨の方に顔を向けた。その面には既に淋しげな表情は無く、真摯な表情を浮かべた美貌が真っ直ぐに花梨を見つめていた。彼のその表情に、花梨は無意識に居住まいを正していた。
花梨の瞳を見つめたまま、泰継は安倍家からの帰りに遭遇した出来事について、徐に話し始めた。


「じゃあ、この子……。あの猫の子供なの?」
泰継の話を聞き終えた花梨が、膝の上で丸くなっている子猫に視線を落として訊ねた。声が微かに震えている。
花梨の問いに、泰継は頷きながら「そうだ」と答えた。
「お前の元に届けて欲しいと……。そう言っていた」
その言葉を俯いたまま聞いていた花梨の肩が微かに震え始めたことに気付き、泰継は花梨の方に近付いた。
「花梨…?」
「………」
泰継は、呼び掛けても顔を上げようとしない花梨の顔を覗き込んだ。
「花梨……」
再び名を呼ばれ、花梨は漸く顔を上げて泰継の方を見た。間近で気遣わしげに見つめている白皙の美貌が、みるみるうちに霞んで行く。あの猫が、自分に子を見せようと此処に来る途中で事故に遭い、命を落としたと聞いて、花梨は込み上げる涙を堪えることが出来なかった。
さっき見た幻が、脳裏を過ぎる。
「あの猫……。もう、居ないんだね……」
瞬きをした瞬間、透明な雫が頬を伝って流れ落ちた。顎に辿り着いた雫が、きらりと輝きながら、膝に置いた手の上に落ちた。
その美しさに一瞬見惚れた泰継は、花梨の頬を伝う涙を指で拭うと、彼女を胸に抱き寄せた。その拍子に花梨の膝の上で眠っていた子猫が目を覚まし、床の上に下りて「みゃあ」と鳴いた。
「花梨……」
抱き付いて来た華奢な身体を抱き締め、出来る限り優しく名を呼ぶ。
泣くな、とは言えなかった。彼女の悲しみが、触れ合った部分すべてから伝わって来るから。
花梨が落ち着くまで、このまま抱き締めていることにした泰継は、胸に顔を埋めてしゃくり上げる花梨の背に手を回し、無言のまま慰めるように優しくその背を撫で続けた。
室内が静寂で満たされ、耳に届くのは花梨の嗚咽と外で静かに降り続ける雨の音だけとなった。
ふと格子越しに空を見ると、既に夕立雲は去り、陽光が燦々と降り注いでいる。それにも拘わらず、小雨は止む気配が無かった。
(天泣か……)
既に雲が通り過ぎたのに、にわか雨がなかなか止まないのは珍しい事だ。
(花梨の哀しみに共鳴しているのやも知れぬな……)
そんな事を考えながら、泰継は小さく溜息を吐いた。
務めを終えたとは言え、花梨は龍神の神子――。そして、京の守護神、龍神は雨を司る。
それ故、花梨の涙に同調し、京の町に雨が降り続けたとしても、おかしくないように思えた。
再び腕の中の存在に視線を戻した泰継は、花梨の背を撫でながら彼女の気を探った。どうやら随分と落ち着いて来たようだ。

やがて、泰継の胸に縋り付くように抱き付いていた手を離し、花梨が身体を起こした。
「大丈夫か?」
「うん……。ありがとう……」
両手で涙の跡を拭いながら、花梨は呟くように答えた。涙を拭い終えて手を下ろすと、子猫が慰めるように小さな舌でぺろりと舐めた。
「あなたも心配してくれるの?」
漸く微笑みを見せた花梨は、子猫を抱き上げ、背中を撫でてやった。子猫は気持ち良さそうに目を瞑り、されるがままになっている。
暫くそれを見つめていた花梨は、さっき見た幻のことを泰継に話そうと、口を開いた。
「あのね、泰継さん……」
「何だ?」
子猫に向けていた顔を上げ、花梨はまだ潤みを帯びた瞳で泰継を見つめた。
「さっき、あの子の姿を見たの……」
花梨のその言葉に、泰継が目を瞠る。
「さっき、泰継さんが出て行った時、一瞬だけだったけど、あの猫と、それからこの子と同じくらいの子猫が、泰継さんの後を付いて行くのが見えたの」
「そうか……」
小さく息を吐き、泰継は答えた。
花梨に残された子猫を預けた後、式神に先に持ち帰らせた猫の親子の亡骸を、庭の片隅に埋めてやったのだ。もちろん、穢れが花梨に及ばないよう、綺麗に祓い清めて。
しかし、まだあの猫達の魂を送り出してはいなかった。もう一つ、彼らが望んだことがあったのだ。
泰継は、再び格子の向こうに広がる庭を見つめた。どうやら花梨が泣き止むのと時を同じくして、雨は上がったようだ。
「泰継さん…?」
外に目を向けたまま黙り込んでしまった泰継に、花梨が声を掛けた。その声に、泰継が花梨に視線を戻す。
「花を手向けてやってくれるか?」
「え?」
きょとんとした表情を浮かべた花梨に、泰継はさっき何をしに出て行ったのかを説明した。
「お前が弔ってやるのが、一番の供養となろう」
泰継の言葉に再び瞳を潤ませた花梨は、こくりと頷いた。




それは、庭の隅に植えられた木の根元にひっそりと存在した。
二匹の猫の亡骸が埋められた場所には、墓石代わりの小さな石が置かれている。
その前にしゃがんだ花梨は、庭で摘んだ花を手向け、手を合わせた。
その様子を、泰継は彼女の傍らに立ったまま、じっと見つめていた。

「泰継さん、ありがとう……」
やがて立ち上がった花梨は、足元に作られた墓を見つめたまま呟くようにそう言った。
京では血や死体が穢れとされ忌み嫌われていることは、花梨も龍神の神子として京で暮らすうちに理解するようになっていた。そのことを花梨に教えたのは、他ならぬ泰継だったのだ。
その彼が穢れとされる猫の亡骸を屋敷に持ち帰り、激しい雨の中こうして庭に墓まで作ったのは、自分の気持ちを汲んでのことと花梨は理解している。時折此処にやって来る猫を花梨が可愛がっていたことを、泰継は知っていたから。
泰継に預けていた子猫を受け取ろうと花梨が視線を転じると、優しい微笑みを浮かべた顔が見つめていた。
「礼には及ばぬ。お前ならこうするだろうと思ったのだ」
抱いていた子猫を花梨に手渡しながら、泰継が言う。
「でも、穢れを祓い清めてくれたんでしょう? あんなに雨が降っていたのに……」
「穢れを祓い清めるのは、陰陽師の仕事だ。それに、真夏の雨など、どうということはない」
泰継の言葉が温かく胸に降り積もるような気がした。彼はいつも花梨のことを第一に考えてくれる。そのために自分自身を顧みない泰継に、時には諫言することもあるのだが、やはり彼が自分を想ってくれる気持ちが嬉しいと思うのも事実だった。
「でも、ありがとう……」
はにかみながら再度礼を言う花梨に、泰継が微笑み掛ける。「気にするな」と言っているかのような柔らかな表情に、花梨は暫しの間見惚れていた。

不意に腕の中から「みぃ」という鳴き声が聞こえて来て、花梨は我に返った。腕の中の小さな生命に目を転じると、円らな瞳が花梨を見上げていた。
(この子、もう一人ぼっちなんだよね…?)
まだ生まれて間もないのに、母親と兄弟を亡くして……。
胸に擦り寄って来る子猫を見つめながら、花梨はふと京に来た日のことを思い出した。
もし、あの時北山で泰継に出逢っていなかったら――…。
(私も、泰継さんがいてくれなかったら、知らない世界でこの子みたいに一人ぼっちだったかも知れないんだ……)
泰継と出逢ったから、見知らぬ世界でも一人ではなかった。
彼が傍にいてくれたから、龍神の神子として頑張ることが出来た。
そして、彼が生きて来た世界だから、元の世界を捨てて此処に残ることにしたのだ。
自分を見つめる視線を感じて傍らに立つ泰継を見ると、柔らかな表情を宿した琥珀色の瞳と目が合った。
花梨の現在の幸せは、全て今傍らに立っているこの人が齎してくれたものだった。
――親兄弟を亡くしたこの子猫にも、これから、彼らの分も幸せになって欲しい。
花梨は心からそう願った。

「ねえ、泰継さん」
「何だ?」
子猫の背を撫でながら声を掛けて来た花梨に、泰継は先を促した。
「この子、うちで飼ってもいい?」
花梨の言葉に泰継は軽く目を瞠ったが、直ぐに元の微笑みに戻って頷いた。
「無論。そのつもりで連れて来たのだ。母猫にも、そのように頼まれた」
尤も、母猫に言われなくとも、残された子猫が大きくなるまで世話をするつもりだった。何故なら、花梨がそうしたいと願うであろうことを、泰継には分かっていたからだ。花梨の願いを叶えることは、泰継の望みでもあり喜びでもあった。
「ありがとう」
即答する泰継に笑顔を向けた後、花梨は抱いていた子猫に「良かったね」と声を掛けた。
「名前を考えなくちゃいけないね」
花梨が子猫にそう話し掛けているのを、泰継は和やかな表情で見守っていた。
だが、もう一つ、やるべき事が残っている。子猫の世話の他に、母猫に頼まれていたことがあったのだ。その約束を果たさない限り、あの猫の親子は理に反し、現世に留まり続けるだろう。陰陽師として、それを許す訳にはいかない。
花梨を見つめながら柔らかな表情を浮かべていた泰継は、表情を改めた。
「花梨」
子猫を見つめていた花梨が顔を上げるのを待って、泰継は言葉を継いだ。
「猫が、お前に伝えたいことがあると言っている」
「えっ?」
花梨は驚きの表情を浮かべて泰継の顔を見た後、自らが抱いている子猫を見つめた。泰継が言った「猫」が、子猫のことを言っているのだと思ったのだ。
そんな花梨の勘違いを敢えて正そうとはせず、泰継は片手で印を結び、呪を唱え始めた。
突然呪を紡ぎ始めた泰継に、花梨が怪訝そうな視線を向けた。しかし、直ぐに子猫に視線を戻す。泰継が呪を唱え始めて直ぐに、花梨の腕の中で大人しくしていた子猫が足を動かし始めたのだ。その様子は、先程泰継を見送っていた時と同じだった。
「どうしたの?」
「花梨」
何かを訴えるように鳴き声を上げた子猫に花梨が問い掛けるのと同時に、呪を紡ぎ終えた泰継が花梨の名を呼んだ。
「あれを……」
忙しなく動く子猫を抱き直し、自分の方を振り向いた花梨に、足元を見るよう泰継が促した。
促されるまま、不慮の事故で命を落とした猫達の墓を見た花梨は、大きく目を見開いた。
墓の前に、猫の親子の姿があった。
「『神子に礼を言いたい』、とのことだ」
驚きの余り呆然と立ち尽くしている花梨に、泰継が告げた。

自分を見上げている硝子玉のような瞳を暫くの間言葉もなく見つめていた花梨は、やがてその輝きに吸い寄せられるように、再びその場にしゃがみ込んだ。
泰継は「牛車に撥ねられた」としか話してはくれなかったが、彼らの亡骸がどのような状態だったのか、花梨には想像が付いていた。しかし、今目の前にいる猫は、花梨の元を訪れていた頃と変わらず、白い毛並みの綺麗な姿をしていた。
ただ、あの頃と違うのは、身体の向こうの風景が透けて見えることだけだ。
母と兄弟の姿が見えるのか、腕の中でしきりに鳴き声を上げてもがき始めた子猫を、花梨は地面に下ろしてやった。すると、子猫はまだ覚束無い足取りながらも、一直線に母のいる方に向けて歩いて行く。
漸く辿り着いた子猫が母に擦り寄ろうとしたが、相手に実体が無いためすり抜けてしまう。それでも母猫は、悲しげに鳴く我が子を宥めるように、子猫の顔を舌で舐める仕草を繰り返していた。
その姿を見ていた花梨の目に涙が浮かんだ。
もう母親とは住む世界が違ってしまったことに、子猫は気付いているのだろうか。
子猫が今度は兄弟にじゃれ付こうとしているのを見つめながら、花梨は流れ落ちようとする涙を拭った。

「別れは済んだか?」
別れを惜しむように、いつまでも身体を寄せ合っている三匹の猫に、それまで無言のまま見守っていた泰継が声を掛けた。
その声に反応した母猫が、了解したとばかりに泰継の顔を見つめた後、花梨の方に歩み寄った。花梨の手が届く距離まで近付き、彼女の前に行儀良く座る。そのままの姿勢で、花梨の方を見上げた。
生きていた頃と変わらないその行動に、花梨は涙ぐんだまま、笑みを浮かべて手を差し出した。つい先日までよくやったように、猫の頭から背中、そして最後に喉を撫でてやる。正確に言うと、撫でる真似をしたのだ。花梨が差し出した手は、もう決して猫の身体に届くことがなかったから……。
姿が見えているのに触れられないことが、もどかしく、そして切なく感じられた。
そんな花梨の気持ちに応えるように、猫が気持ち良さそうに喉を鳴らしたように見えた。
「花梨……」
猫との別れを惜しむ花梨に、泰継が声を掛けた。名を呼ばれて振り返った花梨は、泰継の表情を見て、彼が声を掛けた意味を悟った。そろそろ時間ということだろう。
黙って見守ってくれていた泰継に頷くと、花梨は亡くなった猫達を撫でていた手で、母猫に寄り添っていた子猫を膝の上に抱き上げた。
「神子に伝えておきたい事があるのなら、今のうちに言っておくが良い」
花梨の前に座っていた猫に、泰継が話し掛けた。すると、猫は今度は泰継の顔をじっと見つめている。
「泰継さん…?」
子猫を抱いて立ち上がり、泰継の方を見ると、猫の視線を受け止めたまま、泰継も目を逸らさずにじっと猫の瞳を見据えていた。
花梨には泰継のような力はない。しかし、まるで何かを訴えるように泰継を凝視している猫の視線に、何かを感じ取った。
肉体を捨て魂だけの存在になった彼らは、恐らく言葉以外の何らかの方法を用いて、泰継に何事かを伝言しているのだろう。
その様子を、花梨は静かに見守った。
やがて、猫に頷き掛けながら「分かった」と短く呟いた後、泰継が花梨に向き直った。
「泰継さん。この子、なんて言ってたの?」
「『神子と出逢えて良かった』、と。それから、『いつも可愛がってくれてありがとう』、と……」
泰継が伝える言葉を聞いて、花梨はもう一度猫を見つめた。
「私も、あなたがいてくれたから、泰継さんが仕事に出掛けている間も淋しくなかったよ……」
猫を見つめる花梨の横顔に笑みが浮かんだのを見て、泰継は言葉を継いだ。
「それと、『その子のことを宜しく頼む』、と――」
残された子を案じる母猫に、花梨は大きく頷いた。
「この子は、大きくなるまでうちで面倒を見るから。心配しなくていいよ……」
そう言うと、花梨は同意を求めるように泰継を見つめた。
その視線を受け止め、泰継が頷く。
それを確認した花梨は、再び猫に微笑み掛けた。
「…もう、良いか?」
泰継の言葉に応えるように、猫が鳴き声を上げた。
「では、行くが良い。道は見えるな?」
確認する泰継に応えるように、猫は子猫を口に咥えた。
すると、その姿が眩い光に包まれ、徐々に見えなくなっていった。
それを見た花梨が、思わず猫の方に一歩足を踏み出そうとしたが、泰継に肩を掴まれ、止められた。
「泰継さん……」
泰継は、心配そうな表情を浮かべた花梨の肩を抱き寄せた。
「行くべき場所に辿り着けるよう、見送ってやるが良い」
その言葉に一瞬はっとした表情を見せた後、花梨は小さく頷き、前方に蟠っている光に目を遣った。其処には既に猫の姿はなく、墓石に見立てた石の上方に、光の球が浮かんでいるだけだった。
その様子を見つめていた泰継は、空いていた左手で印を結ぶと、徐に真言を唱え始めた。
すると、光の球は輝きを増しながら、ゆっくりと上空に上って行く。球から発せられる光は、神々しくもあり、どこか温かい光だった。
その美しさに、無意識に腕の中の子猫を抱き締めた花梨の頬を、涙が流れ落ちた。先程、泰継の腕の中で流した涙とは明らかに違う、温かい涙だった。
(向こうでも、親子で幸せにね……)
上空に上って行く光を目で追いながら、花梨は心の中で祈った。
やがて、光の球は西の空に傾き始めた太陽の光と重なり、まるで別れを告げるように一瞬だけ明るい光を放った後、見えなくなってしまった。
花梨は、光が消えた空をじっと見つめていた。


「無事、旅立てたようだな」
花梨同様、光の球が消えるまで空を見上げていた泰継が、ぽつりと呟く。その声に、花梨は漸く視線を空から戻し、頬を伝い落ちていた涙を手で拭った。
肩を抱いていた手が離れて行くのを感じ、花梨は泰継の方を振り返った。
「あの子たち、向こうでもきっと親子仲良く暮らせますよね?」
「そうだな……」
優しい笑みを浮かべて相槌を打つ泰継に、花梨も涙の跡が残る顔に微笑みを浮かべた。
「じゃあ、この子にも幸せになってもらわないと……。ねえ、猫ちゃん」
ふふふと小さく笑いながら、花梨は腕の中の子猫に視線を落とした。
「『猫ちゃん』じゃ、変だよね。名前付けてあげないと」
うーん、と花梨は考え込んだ。名前を考えるのが苦手なのだ。ちなみに、母猫の方もずっと「猫ちゃん」で通していた。しかし、たまに遊びに来る猫ならともかく、飼うのならやはり名前は必要だろう。
「白い猫だから『シロ』じゃ、芸がないし……」
ブツブツと独り言を言う花梨を見つめながら、泰継がくすりと笑った。耳聡くそれを聞き取った花梨が抗議する。
「もう! 笑ってないで泰継さんも考えて下さい!」
ぷう、と頬を膨らませて言う花梨に、泰継は益々笑いを誘われたように、くくくと笑う。
つい今し方まで泣いていたかと思えば、もう立ち直って子猫の名前を考えていたりする。まるで今日の天気のようだと泰継は思う。
その切り替えの早さは、龍神の神子の務めの中でも遺憾なく発揮されていた。そして何時の間にか、くるくると変わる彼女の表情を見るのが喜びとなっていた。それは、現在も変わらない。
口を尖らせている花梨を見つめる泰継の顔に、柔らかな微笑みが浮かぶ。その微笑みを見た花梨が、今度は頬を赤らめた。
そんな彼女の表情が、堪らなく愛しい。
微笑みを浮かべたままじっと自分を見つめる泰継の視線に、花梨の顔は益々紅潮する。間近で彼に見つめられることには、未だに慣れないのだ。
思わず視線を逸らしてしまった花梨だったが、目に映った光景に、「あっ」と声を上げた。
花梨が目を向けた先、東の空にあったもの――。
それは、大きな虹の架け橋だったのだ。
「わあ、綺麗……」
花梨が歓声を上げた。
夕立の後には、よく虹が見られる。それは、現代でも京でも変わりはない。
しかし、高い建物がない京では、虹の足元近くまではっきりと見ることが出来た。そのため、虹がより大きく感じられたのだ。
「虹、か……」
虹を見ながら、花梨がぽつりと呟いた。そして、抱いていた子猫に目を向ける。
「どうした?」
黙り込んで何事か考えている花梨に、泰継が訝しげに声を掛けた。
「ねえ、泰継さん」
泰継の方を振り返り、花梨が言う。
「この子の名前、『虹』でもいいですか?」
花梨の言葉に、泰継が大きく目を見開いた。
「虹」と言えば、龍の眷属だ。それを猫の名にすると言うのか――…。
「へ、変ですか?」
珍しくあっけに取られたような、きょとんとした表情を浮かべた泰継の反応に、花梨は恐る恐る訊ねた。確かに自分でもセンスがないとは思うのだが、雨が降った後虹が現れるように、生まれて間もなく一人ぼっちになってしまったこの子猫に、これから良い事が起きるようにとの願いを込めようと思ったのだ。
そう話すと、泰継が笑みを浮かべた。
「お前が良いのであれば、それで良いのではないか? 猫も、お前が付けた名なら良いと言っている」
泰継の言葉に同意するように、子猫が「みゃあ」と鳴いた。
「じゃあ、今からあなたは『虹ちゃん』ね」
再び子猫が「みゃあ」と鳴く。返事をしてくれたのが嬉しくて、花梨は子猫を抱き締めた。

『あなたがいてくれたから、泰継さんが仕事に出掛けている間も淋しくなかったよ……』

泰継は、さっき花梨が言っていた言葉を思い出した。
仕事で屋敷を空ける時、やはり花梨に淋しい思いをさせていたのだと思い知らされた。
子猫を飼うことで、少しでも花梨の気が安らぐのであれば、それで良いと思う。

そんな事を考えていた時、花梨が「またお母さんたちのお墓参りに来ようね」などと話しているのが聞こえて来て、泰継は思わず顔を綻ばせた。

「さあ、そろそろ戻るぞ」
「はい」

並んで歩き始めた二人を、空に架る色鮮やかな虹が見送っていた。







〜了〜


あ と が き
「陰陽同盟」の企画コーナーで、芙龍紫月様のイラスト「慈雨」を拝見し、ふと思い浮かんだお話です。(そのイラストはこちら)でも、まさかこんなに暗い展開になろうとは……(^^; イラストのイメージをぶち壊しそうな代物が出来てしまいました〜。芙龍さん、すみません;;
『八葉花伝』に、泰継さんが抱き上げた猫と見詰め合っているイラストがありましたが、実はあのイラストは私的ツボでした。「そうか。京ED後に屋敷で猫を飼っているのね」などと思ったので、それもお話に反映させてしまいました。
しかし、花梨ちゃんよ。もっと他に良い名前がなかったのかい。私と同じく、名前を付けるのが苦手なようですね、うちの花梨ちゃんは……。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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