驟雨−1−
それは、一瞬の出来事だった。


降り頻る雨の中、人通りの途絶えた道を、騒がしく車輪の音を立てながら走る一台の網代車があった。
付き従っていた筈の供人の姿はない。制御を失った車は周囲に注意を払うこともなく、通りを一直線に疾走していた。
その車の前を、子を口に咥えた猫が横切ろうとしたのだ。
雷光に青白く照らし出されたその姿が、突然の鳴神に驚いて暴走する牛の目に入ったかどうかは分からない。
一瞬後に起こったのは、牛車に何かがぶつかる鈍い音と、短く鋭い断末魔の叫び――…。
騒々しい音を立てながら去って行く網代車が通り過ぎた後には、真っ白な体毛を血で赤く染めた二つの小さな亡骸が、大粒の雨に打たれて道端に横たわっていた。





◇ ◇ ◇





夕つ方、突然降り始めた激しい雨に、屋外に出ていた人々は、まるで蜘蛛の子を散らすように慌てて家の中に入り戸を閉ざした。間もなく辺りに響き始めた雷鳴に交じり、あちらこちらから蔀戸を下ろす音が聞こえて来る。
道行く者たちも、激しく降り付ける大粒の雨に追い立てられるように、家路を急ぐ足を更に速めた。
そんな中、傘も差さず、雨が降り始める前と変わらぬ調子で歩を進める人物があった。
三条の外れにある自邸への帰途にあった泰継である。


調べ物をするため、泰継は午後から安倍本家を訪れていた。
北山の庵に独り住んでいた頃は、必要な書物があれば本家に式を打って届けさせていたのだが、八葉の務めを終え、花梨と共に三条に建てた屋敷で暮らすようになってからは、自ら本家に出向いて書庫を使わせてもらうことの方が多くなったのだ。それと言うのも、花梨と暮らすために建てた新居から本家の在る一条までは、それ程遠い距離ではなかったからだった。

急激に厚い黒雲に覆われた空を切り裂くように、稲妻が閃いた。それに少し遅れて、雷鳴が轟く。
何度目かの轟音が去った後、泰継は雨が目に入らぬよう、袖を翳して空を見上げた。
大粒の雨が降り始める少し前から吹き始めていた風の所為か、空一面を覆う暗雲が速い速度で流れて行くのが分かった。この分であれば、この雨は直ぐに止むだろう。雷を伴い短時間に激しく降る、典型的な夏の夕立だ。
今日夕立が来るであろうことは予測してはいたのだが、半刻程度で目的の調べ物は終わる予定だったので、雨が降り始める前に帰宅するつもりで泰継は安倍家に赴いたのだ。ところが、調べ物が終わって書庫から出た所で安倍家の当主に呼び止められ、依頼された仕事の詳細を聞いているうちに、帰途に就くのが予定より遅くなってしまった。お陰で帰程半ばにして、雨に追い付かれてしまったのだった。
小さく息を吐くと、泰継は雨にぐっしょりと濡れて額に張り付いて来る前髪を手で払った。降り始めてからまだそれ程時間が経っていないというのに、既に髪も着物もずぶ濡れの状態だった。
雨が降る中を濡れながら歩くのは、嫌いではない。無論、ぐっしょり濡れて重く感じられる着物や額に張り付いて来る前髪は、煩わしいとは思う。しかし、蒸し暑い日々が続くこの時期には、雨と風に身を委ねるのも心地良いと思えるのだ。
尤も、そんな事を言うと、結婚してまだ半年と経っていない妻には呆れられるだろうが。

『泰継さんったら、またそんな無茶して……。風邪を引きますよ!』

帰宅した時、花梨が言うであろう言葉を想像した泰継の口端が僅かに上がる。雨と風に体温を奪われつつあった身体に、何か温かいものが降りて来るようだ。
花梨のことを想う時、いつもそんな風に感じる。
微笑みを浮かべた泰継の横顔を、再び閃光が照らし出した。それとほぼ同時に、一時だけ小降りになっていた雨が、再び激しく降り始めた。
(早く帰らねば、花梨が心配しているやも知れぬ)
そう考えて歩行速度を上げた泰継は、背後から近付く気配に気が付いた。
時折響く雷鳴にも劣らないくらい騒がしい音が、此方に近付いて来るのだ。雷鳴が途切れた時、その騒がしい音が牛車の車輪の音であることに気が付いた。
その場に立ち止まり、後ろを振り返った泰継の目に、果たして此方に向かって来る網代車の姿が映った。どうやら、車を引いていた牛が暴れて暴走しているようだ。
(牛車が暴走するなど、珍しいこともあるものだな……)
泰継は目を細めて近付いて来る網代車を見つめた。牛車の暴走という滅多に無い事態に、もしや怨霊の仕業かと思ったのだが、妖しのものの気配は感じられない。恐らく、突然の雷鳴に驚いた牛が暴走しているのだろう。
泰継がそう推測している間に、網代車は道に出来た水溜りの水を跳ね上げながら、彼の目の前を通り過ぎて行った。車の勢いは全く収まる気配がなく、一直線に南の方角に向かっている。
檜の網代の表面に描かれた八葉の文様から察するに、恐らく殿上人のものだろう。
誰が乗っているのかまでは分からなかったが、普段遅い速度でゆるゆると進む車があのように供人さえ振り切って暴走し、乗っている者はさぞかし怖い思いをしていることだろう。
このまま放置すれば、乗っている者が怪我をするだけでなく、他の者を巻き込む可能性がある。取り敢えず、興奮した牛を落ち着かせ、足を止めさせる必要があるようだ。
そう考えた泰継は、一度深呼吸して自らの気を整えた後、細く長い指で印を結び、目を閉じた。降り頻る雨が頬を打つのにも構わず、遠ざかって行く牛車に意識を集中させ、呪を紡ぎ始めた。
再び、暗雲垂れ込める空を切り裂くように、稲妻が走った。一瞬だけ目映いばかりの光が辺りを照らし出すのが、目蓋を閉じていても感じることが出来た。
先程までより狭い間隔で雷鳴が轟く。

(………?)

呪を唱えていた泰継が、不意に閉じていた目を開いて顔を上げた。呪を唱える声はそのままに、泰継は前方を見遣った。雷鳴が響くのと同時に、小さな悲鳴のようなものを聞いたような気がしたのだ。轟音に紛れて聞き取り辛くはあったが、確かに牛車が向かって行った先から、短く鋭い声が聞こえて来たように思う。
泰継が呪を完成させた時、遥か前方に牛車が止まった。丁度その時、車を追って来た供人達が、道端に佇んでいた泰継の前を通り過ぎ、漸く停止した車に走り寄って行った。それを見送った泰継は、牛車の方は彼らに任せ、先程耳に届いた小さな悲鳴が何だったのか確かめるため、牛車が通って行った跡を辿った。

大粒の雨が、地面に溜まった水を跳ね上げながら降っている。一面に水が張られたかのような通りに、一箇所だけ遠目に見ても明らかに周りと様子の違っている場所があった。
泰継は早足でその場所に近付いた。
常人の目には見えないものを見ることが出来る泰継には、まるで牛車が落としていったかのように道端に存在していたそれを間近で見る前に、その正体を知ることが出来た。
何故なら、その物体のすぐ傍に、現身から抜け出たばかりの二つの小さな魂が浮かんでいるのが見えたからだ。
そのすぐ傍まで近付いた泰継が歩みを止めるのと同時に、ぼんやりとした丸い発光体だったそれが、生前の姿を形作り始めた。真っ白な毛並みの美しい猫だった。生後それ程経っていない子猫とその親と思われる雌猫。
その姿を確認した泰継が目を瞠る。母猫に見覚えがあったのだ。
「お前……。あの時の猫だな?」
訊ねる泰継に、白い猫は硝子玉のような瞳を向けると、彼の言葉を肯定するように一声鳴いた。


その猫は、花梨と今の屋敷に暮らし始めて暫く経った頃から、屋敷に出入りするようになった野良猫だった。
泰継自身はその猫の姿を二、三度しか見掛けていないのだが、野良猫で、しかも子を身篭っていたにも拘わらず、花梨によく懐いていたことを知っていた。警戒心が特に強い身重の野良猫さえ、花梨の傍には自然に寄って来るのだ。動物にも、龍神の神子であった彼女の清浄な気が分かるのだろう。時々屋敷にやって来るようになったその猫に餌をやったりして、花梨は大層可愛がっていた。
あれは、何時のことだったか――…。
仕事から帰ってみると、いつもなら真っ先に出迎えてくれる花梨の姿が見えなかったことがあった。不審に思い、彼女の気を辿って庭に出てみると、花梨は庭で餌を食べる猫の背を撫でてやっているところだった。その光景が微笑ましく思えて、泰継は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていたのだ。
その時、思った。
仕事で屋敷を空けた時、あの猫が居てくれれば、花梨が淋しがることはないだろうと。
ところが、三日と空けずに来ていた猫が、少し前から屋敷を訪れなくなったのだ。何かあったのだろうかと心配そうに話す花梨に、恐らく子が生まれて別の場所で育てているのだろうと泰継は答えた。
その説明に、花梨は漸く愁眉を開いた。
『子猫が大きくなったら、今度は子猫を連れて遊びに来てくれるといいな』
瞳を輝かせ、嬉しそうにそう話していた花梨の笑顔が脳裏を過ぎった。
その日から、花梨が頻繁に庭を覗いていたことに、泰継は気が付いていた。
それなのに――…。

泰継は目の前の猫を見つめた後、その背後に横たわっている亡骸に目を遣った。
あの日、花梨が撫でてやっていた真っ白な身体が無残にも血で赤く染まり、雨に打たれている。血が雨に流され、小さな屍の周囲に赤い水溜りを作っているのを見た泰継は、痛ましげに顔を顰めた。
その時、泰継の注意を自分の方に向けようとするかのように、母猫が鳴き声を上げた。その声に促されるように泰継が顔を向けると、二匹の猫は物言いたげにじっと彼の方を見つめていた。
「……何故、牛車の前に飛び出したりしたのだ?」
泰継が母猫に問い掛けた。生まれたばかりの子を連れた親猫が、何故そんな無茶をしたのか分からなかったのだ。
暫しの沈黙の後、泰継の顔を見つめていた母猫が、これまでのことを話し始めた。


母猫の話を聞き終えた泰継は、深い溜息を吐いた。
(花梨が知ったら、どれ程悲しむことだろう……)
悲しげな花梨の表情を思い浮かべた泰継の胸に痛みが走る。その痛みを堪えるように、泰継は衣を握り締めた。びしょ濡れの衣から水滴が滲み出て、手の甲を伝って行くのを感じた。

母猫の話によると、やはり花梨と泰継が暮らす三条の屋敷から程近い場所にある廃屋の床下で、二匹の子を産み育てていたのだと言う。
ところがその廃屋に、数日前から人が出入りするようになったらしい。
危険を感じた母猫は、考えた末、花梨の元へ身を寄せることを決意した。其処なら危険はないと判断したのだが、花梨に子が生まれたら会わせて欲しいと言われていたことも、三条の屋敷に一時的に居を移す決意を促したのだ。
そして、今日、転居を実行に移したのだった。
程近い場所にあるとは言え、生まれたばかりの子猫には、まだその距離を歩くことは出来ない。だから、母猫は一匹ずつ口に咥えて運ぶことにした。
ところが、一匹目の子を運ぶ途中、突然雷雨が降り始めたのだ。
生まれて初めて体験する鳴神に、廃屋に残して来た子は、独りで怖い思いをしているに違いない。早く戻ってやらなければ――。
そう考えた母猫は、雷鳴が轟く中、花梨の住む屋敷に向けて、道を横断しようとした。
そして――…。

引っ切り無しに響き渡る轟音に気を取られ、暴走する牛車が立てる車輪の音に全く気が付かなかったのだと、母猫は話した。
子を守ることが出来なかったことだけが悔やまれる――。
そう話す母猫を慰めるように、子猫が擦り寄り母の毛を舐める仕草を見せた。
そんな子猫の顔を舐めてやった後、母猫は泰継に告げた。

――どうか、残された子を、花梨の元に届けて欲しいと――…。

雷鳴に怯え、震えながら独り母が戻るのを待っている子猫を案じる母猫の気持ちが、泰継には痛い程よく分かった。
(子を思う親の気持ちの、なんと優しく温かいことか……)
女人の腹から生まれ出でた者ではない泰継には、親はない。だが、北山で出会った動物達から、子を思う親の気持ちは人も獣も同じだと教えられていた。
「分かった。子が居る場所まで案内出来るな?」
泰継の言葉に母猫が鳴き声で答え、先程と同様、傍らの子の首筋を咥え、直ぐにもう一匹の子が待つ場所へ案内しようと歩き始めた。その背に泰継が声を掛けた。
「暫し待て」
その声に母猫が立ち止まり、訝しげに泰継の方を見つめている。早く子の元へ行きたげな猫を一瞥した後、泰継は一枚の符を取り出した。短く呪を唱えると、それは泰継自身の姿を映した式神に変化する。

「その亡骸を持って、先に屋敷に帰れ。但し、花梨の目には触れぬようにしろ」

屍は穢れだ。しかし、あれ程花梨が可愛がっていた猫の亡骸を、此処に放置する気にはどうしてもなれなかった。庭の片隅に、手厚く葬ってやりたいと思う。穢れは祓い清めれば良い。
一礼した式神が命令を実行に移すのを確認した後、泰継は母猫を促してその場から立ち去った。





◇ ◇ ◇





「ひゃっ!」

激しく降り付ける雨と闇を裂く閃光を格子越しに見ていた花梨は、それに続く雷鳴に、思わず首を竦めて耳を押さえ、悲鳴を上げていた。元々雷は嫌いなのに、京では室内に居てもまるで外に居るかのように、雷を近くに感じるのだ。
轟音が去った後、恐る恐る外を覗くと、大粒の雨が地面を叩くように激しく降り付けているのが見えた。屋根や簀子に落ちた雨粒は、ばらばらと大きな音を立てている。
「泰継さんが言った通りになっちゃった……」
出掛けに泰継が言っていたことが現実になったのを目の当たりにして、花梨は小さく息を吐いた。

『風が吹き始めたら、格子を下ろした方が良い。今日は夕立が来る』

そう言い残して、泰継は安倍家へと向かったのだ。その時は空に雲は無く、真夏の太陽が照り付けていたので、とても雨が降るようには思えなかった。
しかし花梨は、泰継の予測が、気象衛星からのデータや過去の統計を駆使して出される現代の天気予報より、遥かに正確であることを知っていた。だから、少し前から風が強くなり始めたのを確認して、格子を下ろしておいたのだ。その直後に急激に厚い雲が垂れ込め始めたかと思うと、この激しい雷雨である。泰継が九十年もの長きに渡って自身に蓄積した知識と情報は、現代科学を超えるものらしい。
(さすが泰継さん!)
泰継の予言通り降り始めた雨を眺めながら、花梨は何となく誇らしい気分になった。
だが、「雨が降り始める前には帰る」と言っていたのに、雷雨の襲来をぴたりと言い当てた当の本人がまだ帰宅しない。
「遅いなあ、泰継さん……」
真っ暗になった空に再び稲妻が走るのを見つめながら、花梨の表情が曇る。
調べ物をするため、泰継が安倍本家に向かってから、もう随分と時間が経ったように思う。屋敷に独り残り、泰継の帰りを待っていた花梨には、彼の不在は実際に経過した時間よりも遥かに長く感じられるのだ。
閃光が消え、元の闇に戻った途端、雨が更に激しさを増した。
泰継は今、何処に居るのだろうか? もしや、帰り道の途中で、この雷雨に遭ったりしてはいないだろうか?
「雨が通り過ぎるまで、安倍家に居てくれたらいいんだけど……」
ぽつりと独り言のように呟いた時、再び轟音が鳴り響いた。先程までより遥かに近くなった雷に、花梨は慌てて両耳を手で塞いで首を竦めた。思わず目を瞑ってしまう。
(あ〜ん。泰継さん、早く帰って来て!)
厚い黒雲に太陽が隠され、辺りはまるで夜のような暗闇に包まれている。室内も外と同様、真夜中のように真っ暗だった。現代であれば電気を点ければ夜でも昼の明るさだが、京では本当に真っ暗闇になってしまうのだ。京に来てもうすぐ一年になろうとしているのに、暗闇が苦手な花梨は未だにこの暗さには慣れることが出来なかった。
だから、ついそんな事を願ってしまう。
この雨の中を歩けば、傘を差していても間違いなくびしょ濡れになるであろうに……。
矛盾した気持ちに、花梨は思わず苦笑した。
花梨の願いを叶える為なら、途中で雨に降られることが分かっていても、泰継は一刻も早く帰宅しようと帰途に就くだろう。いつも自分のことを第一に考えてくれる彼の気持ちを嬉しいとは思うが、そのために無理をして身体を壊されでもしたら堪らない。
まだ龍神の神子として京中を歩き回っていた頃、幾度となく泰継に「無茶をするな」と言われていたが、花梨に言わせると彼の方が自分より余程自分の身体に無頓着で、無理をする人だった。
ふと、さっきから泰継の事ばかり考えている自分に気付き、花梨はくすりと笑いを零した。彼と結婚し、同じ屋敷で暮らすようになってからも、自分の頭の中は愛する人のことで一杯らしい。
今、この上なく幸せだと思う。
幸せ過ぎて、怖いくらいに……。

花梨が背の君に思いを馳せている間にも、雨は一時的に弱くなったり、雷と共に強くなったりしていた。さっきまであんなに蒸し暑く感じていたのに、この夕立と風の所為か、少し涼しく感じられるようになった。
格子越しに空を見上げると、黒っぽい雲が風に乗り、速度を上げて流れて行くのが見えた。
「もうすぐ止むのかな…?」
天から落ちて来る雨粒を眺めながらそんな事を考えていた花梨の耳に、雨が地面や屋根を叩く音に交じって微かな音が届いた。
(何? 今の音……)
花梨は目を閉じ、耳を済ませて、その音を聞き分けようとした。しかし、雨音に掻き消され、その音を確かめることが出来なかった。
気のせいだったのだろうか……。
そう思った時――

「花梨……」
庭先から突如として聞こえて来た声に、花梨は弾かれたように目を開いた。慌てて立ち上がり、妻戸に駆け寄った。
ガタリと音を立てて開け放った妻戸の向こうには、雨の中、傘も差さずに庭に佇む泰継の姿があった。
頭から水を被ったように全身ずぶ濡れのその姿に、花梨は一瞬息を呑んだ。しかし直ぐにそんな事をしている場合ではないと、我に返った。
「泰継さん! どうしてこんな雨の中を傘も差さずに……! 風邪を引きますよ!」
「問題ない」
簀子に出て駆け寄ろうとした花梨を制しながら、泰継は口元を綻ばせた。想像していた通りの言葉を花梨が口にしたからだ。その柔らかな笑みに、彼を諌めていたことを忘れ、思わず花梨は見惚れてしまう。
階を上り、泰継が此方に近付いて来る。ぐっしょりと濡れた所為で、いつもはゆったりとして見える着物が細身の身体に纏わり付き、一層彼の細さを際立たせているように見えた。
「もう。問題大有りだよ……」
眉を顰め小声でそう呟いた花梨は、泰継が右腕に何かを抱えているらしいことに気が付いた。先程からずっと左腕を上げて袖を翳しているのは、どうやら右腕に抱えたものが雨に濡れないように庇っているためらしいのだ。
(本家から借りて来た書物かな?)
小首を傾げた花梨の耳に、「みゃあ」という小さな鳴き声が届いた。それが、さっき雨音に交じって聞き取れなかった音であることに、この時になって漸く花梨は気が付いた。
戸口に立ち尽くす花梨の前で立ち止まると、泰継は翳していた左腕を下ろした。
まだ生まれてそれ程経っていないであろう子猫が、泰継の胸にしがみ付いていた。
泰継は右腕で抱えていた子猫を両手で持ち直し、花梨に差し出した。
「可愛い〜!」
子猫を受け取りながら、嬉しそうな笑顔で花梨が言った。子猫は暖を求めてか、今度は花梨の胸にしがみ付き、「みぃ」とか細い声を上げている。
「泰継さん、この子どうしたの?」
しがみ付いて来る子猫をあやしながら、花梨は泰継の方に顔を向けた。だが、泰継の表情を見た途端、花梨の顔から笑みが消え、代わりに怪訝そうな表情が浮かんだ。
泰継の顔からは既に先程花梨が見惚れた微笑みは消え、どこか悲しげで痛ましげな表情が浮かんでいたからだ。
「泰継さん…?」
「……その猫を頼めるか? この雨で身体が冷え切っている故、温めてやって欲しいのだ」
花梨の問いに答える代わりに、そう言った。
「え…、はい」
訝しく思いながらも、花梨は頷いた。
「では、頼む」
そう言って踵を返した泰継を、花梨は慌てて呼び止めた。
「泰継さん! 何処に行くんですか!?」
早足で階を下り、再び庭に下り立った泰継は、戸口に立つ花梨の方を肩越しに振り返った。
「まだ、少しやらねばならぬ事があるのだ」
そう言って雨の中を歩き始めた泰継の背中に、花梨は先程より大きな声で言った。
「でも、濡れたままで…! 雨が止んでからじゃ駄目なんですか!?」
「直ぐ戻る」
振り向きもせずに短く答えると、泰継はそれきり足を止めなかった。
雨に濡れながら去って行く背中を見送ることしか出来なかった花梨は、小さく溜息を吐いた。これ以上言っても無駄だと悟ったのだ。泰継が意外と頑固な一面を持っていることを、花梨は知っていた。
(もう少し自分の身体を大切にして欲しいのに……)
仕事前、彼が真冬でも単一枚で泉の水に身を沈め、禊をしていることは知っている。確かに真冬の身を切るような水の冷たさに比べれば、真夏の夕立などむしろ慈愛に満ちたものと言えるのかも知れないが、体温を奪われることには変わりない。
再び息を吐いた時、腕の中の子猫が何やら足をばたつかせてもがいていることに気が付いた。
「どうしたの? 猫ちゃん。寒いの?」
ふと子猫の方を見ると、子猫は遠ざかって行く泰継の方をじっと見つめて足をばたつかせているのだ。まるで行くなと言わんばかりに。今にも雨の中に飛び出して行きそうな子猫の様子に、花梨は抱いていた腕の力を少し強めた。
「あなたも泰継さんに居て欲しかったの?」
ふふふと小さく笑い、子猫の視線の先に目を向けた花梨は、驚いて大きく目を見開いた。
泰継の足元に、ぼんやりとではあったが、二匹の猫の姿が見えたのだ。一匹は今自分の腕の中にある子猫と同じくらいの子猫。そして、もう一匹は……。
不意に最近姿が見えなくなった猫のことが、花梨の脳裏を過ぎった。
(まさか、あの子……?)
目を凝らして確かめようとした時、既に二匹の猫の姿は幻のように消えていた。
庭木の向こうに泰継の姿が見えなくなった後も、花梨は吹き込んで来る雨のことも忘れ、彼らの姿が消えた辺りを呆然と見つめたまま立ち尽くしていた。
novels' index next top