雪花
「うわあ、綺麗……」

庭に出て空を見上げた花梨は、空から舞い降りて来る大粒の雪に感嘆の声を上げた。
京に正しい季節が巡って来てから見慣れたつもりの雪だったのだが、今まで以上に美しく見えるような気がするのが不思議だ。あの頃は、神子の務めを果たす事で精一杯だったからだろうか。
目を閉じて一度深呼吸した花梨は、空を仰いだまま口を開けて舌を出した。子供の頃よくやったように、雪を食べようとしたのだ。
「あ、冷たい!」
ひとひらの雪が舌に舞い降り、すぐに融ける。心地良い冷たさに、花梨はふふふと笑った。
「――神子。何をしている?」
背後から掛けられた声に、花梨は声がした方を振り返った。声の主が階から庭に下りて来るのが目に入る。
「泰継さん……」
花梨は近付いて来る泰継に、嬉しそうに微笑みかけた。




龍神の神子の務めを終えた花梨は、泰継と共に生きて行くため、京に残った。
しかし、お互いの気持ちは固まってはいるものの、結婚はまだである。
龍神の力により京の穢れは祓われたものの、年が明けてからも新年の行事などで泰継は多忙であった。八葉の務めがあった頃は、安倍家から依頼された仕事より八葉の務めを優先させていた泰継であるが、さすがに繁忙期である新年に本家の手伝いをしないわけにもいかず、以前のように毎日花梨の元を訪れることが困難となっていたのだ。
それに、花梨のおかげで人となり、彼女と共に生きて行くと決めた今、以前のように北山の庵で隠遁生活を送るわけにもいかず、生活環境を整える必要があった。
現在、花梨と共に住むための新居を建てている最中である。完成次第、そちらで新婚生活を始める予定となっていた。
新居が完成するまでは、花梨は今まで通り紫姫の館に世話になり、紫姫や女房たちから京の風習を学んだり、手習いなどをする毎日である。
そんな中、今日は午前中で仕事を終えて自分の元を訪れた泰継に、彼が八葉だった頃から住んでいる安倍家の離れを見てみたいと花梨は強請った。「何もないぞ」と泰継は言っていたが、彼が住んでいるのがどんなところなのか見てみたいと思ったのだ。
花梨の願いを泰継が断るはずもなく、二人で泰継の部屋にやって来たのだった。




花梨の元に歩み寄った泰継は、手にしていた衣を彼女の肩に掛けた。
「雪など食して、腹を壊しても知らぬぞ」
「大丈夫ですよ!」
微笑む花梨に泰継は苦笑した。
「本当に、お前は目が離せぬな」
花梨の肩に掛けた衣で包み込むようにして、背後から彼女を抱き寄せる。
泰継の言葉に抗議しようとした花梨は、頬を紅潮させたまま何も言う事が出来なくなってしまった。
「満足したか?」
「はい!」
泰継の問い掛けに花梨が頷く。初めて泰継が暮らす部屋を訪れたのだが、彼の言う通り、本当に無駄な物が一切ない殺風景と言ってもいい部屋だった。しかし、花梨はそういうところが泰継らしいと思うのだ。神子と八葉という立場だった頃は、こうして彼の部屋を訪ねたりは出来なかったから、花梨としては大満足である。今まで自分が知らなかった普段の泰継の生活が垣間見られたようで、嬉しかったのだ。
泰継の腕の中で花梨は微笑んだ。幸せだなあと思う。
花梨は自分を抱き寄せる腕に手を重ねた。
「……どうした?」
小さく笑いを漏らす花梨に、訝しげに泰継が問い掛けた。
「何でもないです」
花梨はそう答えて舞い落ちる雪を見上げた。
次々と空高くから舞い降りて来る雪は、まるで白銀色の花弁のようだった。
「何だか花弁が舞っているみたいで、綺麗ですね」
「雪は、『六花』とも呼ばれているからな」
「『六花』?」
「雪の結晶を六弁の花に喩えてそう呼ぶのだ」
「綺麗な呼び名ですね」
花梨は空いていたほうの手を前に出し、掌で雪を受け止めた。体温で雪はすぐに融けてしまうが、確かにその結晶はまるで氷で出来た花のようだ。
そんな事を考えながら、花梨は庭を見回した。
離れに付属する庭なので広くはないが、それでも梅や桜の木が植えられているのが分かる。
「このお庭も綺麗ですね。雪景色も綺麗だけど、出来ればあの桜が咲く頃見たかったな」
目の前の桜の木を指差しながら、残念そうに花梨が言う。花梨が京に来たのは秋だったので、京の紅葉と雪景色は見たものの、桜は見たことがなかったのだ。
「私も、桜が咲く頃は毎年眠りの時期だったから、見たことはないな」
花梨を抱き寄せていた腕を広げながら、泰継が言った。
そうだった、と花梨は思い出す。人になる前の泰継は、三ヶ月ごとに眠りと目覚めを繰り返していたから、ちょうど桜の季節は眠りの時期で、山々や京の町を彩る桜の花を見たことがないのだ。
泰継の腕から解放された花梨は、背後に立っている彼の方を振り返った。
「じゃあ、桜が咲いたら、二人でお花見しましょう」
微笑みながら花梨が言う。
「私も京に来て初めて迎える春だから、泰継さんと一緒に色んなところを見てみたいです」
泰継の傍で生きるために、花梨は京に残ったのだ。これから、二人で色々な事をやってみたい。自分が初めての事は泰継に教えてもらい、泰継も初めての事は二人でやってみればいい。
そうして、彼と共に歩んで行けたらいいと、花梨はそう思う。
「そうだな」
花梨の言葉に一瞬だけ目を瞠った泰継は、彼女の笑みにつられるように微笑んだ。

彼女に、何度救われてきたことだろう。
その微笑みに
その言葉に
その暖かで清浄な気に――…。
出逢ってから何度癒されてきたか分からない。

微笑みを浮かべたままじっと自分を見つめる泰継に気付き、花梨は再び頬を赤らめる。

「桜が咲く頃なら、今建てている邸も完成する頃だろうな」

――そうすれば、お前は私だけのものだ……。

優しい笑みを浮かべてそう言う泰継に、花梨の顔は一気に真っ赤になった。

(もう、泰継さんってば……)

恥ずかしがり屋の花梨は、泰継の無自覚な口説き文句に赤面させられることが多かった。嬉しいのだが、面と向かって言われると、何と言っていいのか分からなくなる。
真っ赤になった顔を見られるのが恥ずかしくて、花梨はくるりと彼に背を向けた。
ちょうど視線の先に、桜の木があった。

桜が咲く頃、泰継と一緒に暮らせるようになる……。
最近は彼とは以前のように毎日は会えなくなっていたから、早く桜が咲く季節になって欲しいと思ってしまう。泰継が忙しいのは分かっているから我慢してはいるが、やはり彼の訪れをただ待っているのはとても淋しいことなのだ。
少しでも長い時間、彼と共に過ごしたい。
紫姫や深苑もいるし、他の八葉たちも時々様子を見に来てはくれるが、やはり花梨が一緒にいたいと願うのは泰継一人なのだから……。

花梨はまるで引き寄せられるように桜の木に近付くと、その幹に手を触れた。

(早く咲いてね……)

桜が早く咲いたからと言って新居の完成が早くなる訳ではないが、そう祈ってしまう自分に花梨は苦笑した。


その時―――


―――…シャン……


「え?」
「神子!」

花梨が驚きの声を上げるのと同時に、異変を察知した泰継が駆け寄って来た。

(今の…龍神様の鈴の音……?)

あの神泉苑での最後の戦いの日以降、花梨が龍神の鈴の音を聞いたことはなかった。思わず辺りを見回してしまう。

「神子、その手を離せ!」
泰継は桜の幹に掌をつけていた花梨の手首を掴むと、引き剥がすように幹から手を離させた。
「え…、泰継さん……?」
突然、乱暴とも取れる行動を取った泰継の意図が分からず、花梨は彼の方を振り返った。
泰継は険しい表情を浮かべていた。それを見た花梨が目を丸くする。
自分の行動の何が悪かったのか分からず、花梨は泰継の顔を見つめたまま呆然としていた。

龍神の神気を感じる。
あの、最後の物忌みの日の出来事を、嫌でも思い出してしまう。

(神子は…、いや、花梨は誰にも渡さぬ……)

龍神が何の用で花梨にちょっかいを出して来たのかは判らないが、花梨だけは渡せない。


そう思った時――…


「泰継さん!あれ見て!!」
花梨に袖を引っ張られ、彼女の方を向くと、花梨は空を指差したまま、呆然と空を見つめていた。
花梨の視線の先を追うように、泰継も空を見上げた。

次々と舞い降りて来る白銀の花弁のような雪。
それに混じって舞う薄紅色の花弁――。
それを確認した泰継が、大きく目を瞠る。

「桜…か?」
舞い落ちて来る薄紅のそれを掌で受けてみると、それは確かに桜の花弁だった。
「何故……」
再び空を見上げた泰継は、そう言いかけたまま口を閉ざした。
周囲の気を探り、龍神の神気以外の気配を感じ取る。
空から舞い降りて来る氷の花と薄紅色の桜の花弁を言葉もなく見つめていた花梨は、無言のまま呆然と空を見上げている泰継に気付き、彼の顔を窺った。
端整なその横顔に浮かんでいたのは驚きの表情――…。
「……泰継さん?」
気遣わしげに掛けられた花梨の声も聞こえないかのように、泰継はただ空に舞う白銀と薄紅の花弁に視線を遣ったまま、微動だにしなかった。やがて泰継は空を仰いだまま目を閉じた。





―――……す……ぐ…


声が、聞こえる――…。

その声は、耳で捉えているものではなかった。頭に直接響く声……。

(……誰だ? 龍神か?)

泰継は目を閉じ、意識をその声に集中した。

―――泰継……。

それが自分の名を呼んでいるのだと気が付いた。
どうやら、龍神ではないらしい。
龍神が花梨に何かしに来たわけではないと知り、泰継は安堵の息を吐いた。
表情を改め、声の主に誰何する。

(誰だ? 私に何用だ?)

―――やれやれ……。そういうところは、やはりあやつと似ておるな……。

瞬時にして温度の下がった声で誰何する泰継に、声の主が溜息交じりに応える。

―――私は何代か前のこの邸の主だ。お前に伝えたい事があって、龍神の力を借りて声を送っている。――これで良いかな?

(では、お前は安倍家の者か。私に伝えたい事とは何だ?)

いかにも冷たい声で問いただす泰継に、数代前の安倍家の当主と名乗った人物は微笑んだようだ。表情は見えないのに、何となくそんな感じが伝わって来る。
声の主は一呼吸置いて、優しい声音で語りかけた。

―――幸せになるがいい。泰明が神子殿のおかげで幸せを知ったように……。

泰継は目を瞠った。この者は先代の神子と泰明の事を知っている。そして恐らく泰継が八葉であった事も、そして神子である花梨と共に生きて行こうとしている事も。
泰継は驚きに呆然とする。

―――その娘が、お前の神子か?

その言葉に泰継は我に返った。

(神子には手を出すな!)

声を荒げる泰継に、声の主はくくく、と笑い声を上げた。

―――やはりお前、泰明に似ておるな。あやつも人になってからというもの、独占欲が強くてな。私は神子殿と話もさせてもらえなかったものだ。

(まさか……)

泰継はある可能性に思い至った。
泰明の事も、先代の神子の事も、そして泰明と泰継の出自の事も知っているらしいこの人物……。
泰継の師匠であり、人型を与えた人物の声とは違うが、よく似ている声――…。

(まさか、お前は……)

―――幸せになりなさい。お前の神子が、お前を導いてくれるだろう……。

自分の考えを確かめようとした泰継の声を遮るように、声の主はそう言った。
それと同時に龍神の神気と声の主の気配が、まるで潮が引いて行くように自分の内から遠ざかって行くことに泰継は気付いた。

(待てっ!)

―――私とお前が出逢うことはないだろう。だが、私はいつもお前と泰明の幸せを願っているよ……。


最後にそれだけを言って、声の主の気配は消えた。





「泰継さんっ!!」

花梨は目を閉じたままぴくりとも動かなくなった泰継が心配で、彼の袖を引いて名を呼んだ。
叫ぶように自分を呼ぶ花梨の声に、泰継は閉じていた目を開いた。空を見上げていた顔を、傍らに立ち心配そうに見つめている花梨の方に向ける。
「大丈夫ですか?」
気遣わしげな表情で自分を見上げている花梨に、泰継は安心させるように微笑んだ。
「問題ない……」
「何があったんですか?」
更に問いを重ねる花梨に微笑みかけると、泰継は再び視線を空に向けた。
そこには、まだ桜の花弁が雪と共に舞い落ちていた。白銀の雪に鮮やかな薄紅色が映えて、喩えようもないくらいに美しい。
花梨は泰継が口を開くまで待つことにし、彼の視線を追うように自分も空を見上げた。

しばしの沈黙の後、泰継が口を開いた。
「――声を、聞いたのだ……」
呟くように語り始めた泰継の顔を、花梨は見つめた。空を見つめたまま微笑みを浮かべている端整な横顔に、花梨はさっき泰継の身に起きたのが彼にとって悪い事ではなかったのだと悟った。むしろ良い事だったのだろう。彼がこのような柔らかな笑みを見せることは滅多にないことだから。
「……誰の…ですか?」
再び口を閉ざしてしまった泰継を促すように、花梨が訊ねる。
「名乗りはしなかったが、あれは恐らく……」
泰継は一旦言葉を切り、花梨の方に向き直った。
「以前、お前にも話したことがあったな。泰明と私は、ある男の陰の気を集めて作られたのだと」
「『安倍晴明』さん…でしたよね?」
まだ龍神の神子として京を守るために行動していた頃、泰継から聞いた話を思い出しながら花梨が言った。安倍晴明は、現代でも小説や漫画で取り上げられているため、花梨も名前だけは京に来る前から知っていた。もっとも、京は異世界なので、同一人物とは思えないのだが、知った名前だったせいかはっきりと記憶でき、すぐにその名を口にする事が出来たのだ。
花梨の言葉に泰継が頷く。その優しい笑みを見て、花梨ははっと気が付いた。
「もしかして、晴明さんの声だったんですか!?」
「恐らくな……」
目を見開いて驚きの声を上げる花梨に、泰継は再び頷きながら答えた。

先代の地の玄武、泰明を作り、泰明の師匠であった人。
泰継の核となる陰の気も、彼のものだったと言う。

(と言うことは、泰継さんのお父さんみたいな人なんだよね?)

花梨はそう考えた。泰継を作ったのは晴明の息子だと聞いているが、泰継の身体を作っている陰の気が晴明のものだとすれば、晴明は泰継の父に当たる人物と言えるのではないだろうか。

『私には、そのようなものはない。どんなものかもわからない』

かつて、物忌みの日に付き添ってくれた泰継に家族のことを訊ねてみたところ、泰継はそう答えていた。安倍一門に属しながら、安倍家の人々は自分の家族ではないと言い切る泰継の表情が辛そうに見えたのは、花梨の見間違いではないだろう。
天涯孤独だと思われていた泰継が、晴明の声を聞けたということだけで、花梨は嬉しかった。
異変が起きる前、鈴の音を聞いたから、恐らく龍神が力を貸したのだろう。
花梨は龍神に感謝した。

「晴明さんは何て?」
訊ねる花梨に、一呼吸置いて泰継は答えた。

「『幸せになれ』と……。『神子がお前を導いてくれる』と……」

白銀と薄紅の花が舞い散る中にそう告げた声の主を捜すように、泰継は空を見上げた。
「……それから、『いつもお前と泰明の幸せを願っている』と……」
そう語る泰継の横顔が幸せそうで……。
「良かった……」
花梨は泰継の手を取り一度だけ握り締めると、彼に凭れ掛かるように身体を預けた。
それに気付いた泰継が、そっと花梨の肩を抱き寄せる。
「晴明さんは、泰継さんの家族だもの。きっと、それを伝えたくて、龍神様の力まで借りて声を届けてくれたんですね」
「私の家族?」
大きく目を瞠り、泰継が訊ねる。
「だって、そうでしょう? 晴明さんは泰明さんの事も泰継さんの事も、自分の息子のように思っているんだと思いますよ?」

いつも泰明と泰継の幸せを願っている――。
晴明はそう告げたのだという。
我が子の幸せを願うのが、親というものだ。

「それなら、泰明さんは泰継さんの兄弟ですね」
嬉しそうに微笑み、花梨は言った。
「家族…か。私にそのようなものがあるとは思ってもみなかった」

(この世に存在し続ける間、決して私が手にすることが出来ないものだと、そう思っていたから……)

「だが、自分の事を思ってくれている誰かがいるというのは、嬉しい事なのだな」
花梨と出逢い、生まれて初めてそう思った。
花梨が教えてくれた事だ。
出逢ってからずっと、花梨は自分の事を思い、時には心配し、そして人となった時は我が事のように喜んでくれていた。
花梨がいてくれたから、今、そう思えるのだ。
泰継は花梨に優しい笑みを向けた後、空に視線を向けた。彼の笑顔に見惚れていた花梨も、同時に空を見上げた。


雲の間から少しだけ差し込んで来る陽光を降り続ける雪が反射して、きらきらと輝きながら空から舞い降りて来る。それに混じって舞っている花弁がその反射光を受け、薄紅色がより鮮やかに見えていた。
「綺麗ですね……」
感嘆の溜息を吐きながら、花梨が呟いた。
「でも、どうして桜の花弁が? 龍神様の力なのかな?」
「何だ。気付いていなかったのか?」
呆れを含んだ溜息を吐いて、視線を花梨の方に戻し、泰継が言う。
「え? どういうこと?」
花梨は泰継の顔を見上げ、訝しげに問い掛けた。
「確かに龍神の力も多少は作用したようだが、龍神の神気はすでに此処には感じられぬ」
泰継の言葉に花梨が目を瞠る。晴明が龍神の力を借りたのであれば、確かに龍神の力はすでに働いていないのかもしれない。晴明の気配はもうないのだから。
しかし……。
花梨はちらりと空を見た。そこには変わらず桜の花弁が雪と共に舞っている。
「じゃあ、どうして?」
視線を泰継の瞳に戻した花梨は、彼の答えを待った。
泰継は抱き寄せていた肩から手を下ろし、彼女の疑問に答えた。
「神子はこの桜に何事か語りかけたであろう? この木に宿る木霊が神子の声に応えたのだ」
「えっ!?」
「龍神も力を貸したようだがな」
驚きの声を上げた花梨は、この桜の花弁が出現する直前の事を思い出した。

(確か、木の幹に掌をつけて……)

――早く咲いてね……。

「あっ!」
花梨は声を上げた。
「思い出したのか?」
「で、でもっ! 私、『散って』なんて言ってないよ! 『早く咲いて』とは思ったけど……」
言ってしまってから「しまった!」と思い、花梨は慌てて右手を自分の口元に遣った。
その直前、桜が咲く頃には新居が完成して一緒に暮らすことが出来ると話していたのだ。「早く咲いて欲しいと思った」などと言ってしまっては、如何にこういう事に鈍い泰継でも察してしまうだろう。
花梨が、一刻でも早く、彼と共に暮らしたいと願っている事を――…。
「…………」
顔を真っ赤にして俯いてしまった花梨は、自分の言葉を聞いた泰継が一瞬目を見開いたことを知らなかった。
黙り込んでしまった泰継が気になり、花梨は恐る恐る顔を上げ、彼の方を見た。
泰継は柔らかな微笑みを浮かべ、じっと花梨を見つめていた。
その美しい微笑みに見惚れる花梨に、泰継は徐に話し始めた。
「お前はさっき私に言ったな。『晴明と泰明は私の家族だ』、と。――しかし、晴明も泰明も、すでに京にはおらぬ」
その言葉に、花梨は顔を曇らせ俯いた。確かに彼らは現在の京にはいない。彼らが泰継の家族だとしても、言葉を交わすことも出来ないのでは意味がない。何だか無責任な事を言ってしまったような気がしたのだ。
「だが……」
泰継は言葉を切った。それを不審に思った花梨が顔を上げるのを待って、泰継は言葉を継いだ。
「だが、この桜の木が花を咲かせる頃、お前が私の家族になってくれるのだな」
それを聞いた花梨が目を瞠る。
「だから私も、早く桜が咲けば良いと、そう思っていた」
泰継の言葉を聞いた花梨の顔に笑みが広がって行く。彼も自分と同じ気持ちでいてくれる事が嬉しい。
「だが、今は……」
花梨の笑みを見た泰継は、彼女に微笑みかけた後真顔に戻り、呪を唱え始めた。
すると、それまで雪と共に舞い落ちていた薄紅色の花弁の姿がどんどん薄くなっていき、泰継が呪を紡ぎ終えた時には、すでに空を舞っているのは白銀の雪花だけとなっていた。
それをしばらく無言のまま見つめていた泰継が、花梨の方に向き直った。

「そう言えば、私はまだお前に言っていなかったな。――今言っても良いか?」
「え? 何ですか?」

泰継の言葉に花梨がきょとんとした表情を浮かべた。
すると、それを見て微笑みを浮かべた泰継の顔が、一瞬にして真剣な表情に変わった。

(え、何?)

まるで百鬼夜行との戦闘前のような、泰継の真剣な面持ちに、花梨は戸惑った。
何を言われるのだろう……。

「神子…いや、花梨……」

真名を呼んだ泰継に、花梨は驚いた。神子と認めてくれてから、神泉苑での戦いが終わってからも、彼はずっと花梨の事を今まで通り「神子」と呼んでいたから。


「この桜が咲いたら、私の元に来てくれるだろうか?」


驚きに大きく見開かれた緑色の瞳が、見る見るうちに潤んでいく。
瞳から溢れ出た涙が、ひとすじの流れとなって、嬉しそうな笑みを浮かべた花梨の頬を伝い落ちた。

「……花梨? 何故泣く?」
花梨の涙を見た泰継が狼狽する。
「私と一緒になるのは嫌なのか?」
不安げにそう問う泰継に、花梨は首を横に振った。
「違うの……」
涙を指で拭いながら、花梨は答えた。
「嬉し過ぎて……。他にどうしようもないから、涙が出てくるの……」
涙で顔をくしゃくしゃにしながら、花梨は再び泰継に微笑みかけた。

今まで、こんなに嬉しいと思った事があっただろうか。
幸せ過ぎて……。

花梨は泰継の胸に飛び込んだ。
突然身体を預けて来た花梨を抱き留めた泰継は、彼女の背に手を回し、一瞬だけ躊躇った後、花梨を抱き締めた。
「私…。泰継さんと一緒にいたいから京に残ったの……」
自分の腕の中でそう言う花梨に、泰継は抱き締めていた腕を緩め、彼女を見下ろした。
涙の跡の残る顔が、満面の笑みを浮かべて見つめていた。

「だから、泰継さんの傍にいさせて下さい……」

花梨の言葉に、泰継の顔にも笑みが戻る。
腕の中の存在が、堪らなく愛しい。


『幸せになりなさい。お前の神子が、お前を導いてくれるだろう……』


花梨の応えに、何故か先程の晴明の言葉が重なった。


花梨が傍に在る限り、私は幸せでいられるだろう。

(ああ。必ず……。花梨と共に、幸せになろう……)

晴明の言葉に応えるように心の中で呟いた泰継は、腕の力を強め、花梨の華奢な身体を強く抱き締めた。



いつまでも抱き合う二人を、桜の木と空を舞う雪花だけが、そっと見守っていた。







〜了〜


あ と が き
「幸せのかたち」の泰継さんバージョンです。
この話は、このサイトを開設する三ヶ月ほど前、「幸せのかたち」を書き上げた後、元ネタができました。「幸せのかたち」は、神子と共に異世界へ旅立つ泰明さんの幸せを祈るお師匠を書きたくて作ったものだったのですが、何だか泰継さんが可哀想な気がしてしまって……。それで同じ設定を使って作ったのでした。お師匠はきっともう一つの精髄だった泰継さんの事も、泰明さん同様思ってくれていたのではないかとの希望を込めて(笑)。
それから九ヶ月もの間放置されていたこのネタを急遽書いてみようと思ったのは、私も参加させて頂いている「陰陽同盟」様の企画に投稿されていた、芙龍紫月様のイラストがきっかけでした。ちょうどこの話と同じシチュエーションの素敵なイラストだったのですよ。フリーだったので即攫ってきて(笑)、拙宅にUPさせて頂くのに合わせて、眠り続けていたこの話も発表させて頂く事にしたのです。だからこの話が日の目を見たのは芙龍様のおかげです。訳あって、このままボツにするつもりでいましたから。
しかし……。
泰継さん、プロポーズをしてしまいました……。元ネタにはこんなシーンはありませんでした。単に晴明様の声を聞くだけで。相変わらず好き勝手な言動をするうちの継×花。手綱を取るのが大変です(笑)。でも、やはり通い婚は嫌だったみたいですね、二人とも。継さん、非常にストレートな妻問いをしていますし。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!

頂いた芙龍様のイラスト&綺羅様の創作はこちら。

【追記:2003.11.28】
この作品は、「陰陽同盟」様の企画「冬」に投稿させて頂きました。
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