光の道−2−
少し前まで海から吹いていた風の向きが、少し変わったように思われる。
泰継と花梨は、遊歩道から砂浜に下りるコンクリートの階段の上に並んで腰を下ろした。
二人が腰掛けている階段からかなり離れた砂浜で、先程までウインドサーフィンをしていた若者がサーフボードを片付ける姿がある以外には、夕暮れの海に人影はない。
この場所ならば何も遮る物がない。二人は、水平線の彼方に沈み行く夕陽を眺めた。
すっかり傾いた太陽が、うっすらと雲が覆い始めた西の空を真っ赤に染めていた。その光が反射して、薄い雲は所々ピンク色に見える。つい先程まで青く見えていた海も濃いオレンジ色に染まり、夕陽の光を反射してきらきらと輝いていた。
街中では決して見ることが出来ない自然の美しさに、二人はしばし言葉も無く見惚れた。
花梨は右隣に座っている泰継を見た。端整な横顔が夕陽に照らされている。整った輪郭が太陽の光にくっきりと照らし出され、まるで大理石で出来た彫像のように見えた。しかし、血の通わない彫像の冷たい印象とは異なり、そこに浮かんでいる表情は柔らかい。
花梨はまたもや泰継に見惚れている自分に気付き、頬を赤らめた。夕陽に照らされているため、紅潮した頬が目立たないのが少し嬉しい。じっと前方を見据えたままの泰継の視線を追うように、花梨は再び西の空に視線を戻した。

夕陽の下端が、すでに水平線の下に隠れ始めている。
それと同時に、海面に反射していた光が、水平線の向こうに沈み始めた夕陽に向かって伸びていく。
その様子をじっと眺めていた泰継は、まるで光で出来た道のようだと思った。
太陽に向かって伸びる光の道――。
まるで暖かく光に満ちた場所に誘うような……。

「綺麗ですね……」
「ああ……」
花梨の呟きに泰継が短く応える。実際、他にどんな言葉で表せば良いのか、泰継には分からなかったのだ。
花梨が美しいと思うものを見て、自分も美しいと思える。
ただそれだけの事が、こんなにも嬉しい事だとは思いも寄らなかった。彼女と同じ想いを分かち合えたような気がして……。
「良かった……」
花梨が嬉しそうに呟くのが耳に届き、泰継は彼女のほうに視線を移した。
こちらを見つめている緑色の瞳と目が合った。
夕陽に照らされ赤く染まった顔が、柔らかな微笑みを浮かべている。
その笑顔が眩しいくらいに美しく感じられて、泰継は思わず目を細めた。
出逢った頃よりも、そして京で龍神の神子として暮らしていた頃よりも、花梨は遥かに綺麗になったと泰継は思う。それは、彼女と初めて会った頃、そう感じる心が泰継になかったから――という訳ではないらしい。彼女の友人の間でも、花梨が最近綺麗になったと噂されているらしいのだ。
もっとも、その原因が自分にあることには、泰継は全く気付いてはいないのだが。

しばらく見つめ合った後、先に視線を逸らしたのは花梨のほうだった。笑みを消し、花梨はゆっくりと俯いた。
「本当は、少し不安だったの……」
俯いたまま花梨がぽつりと漏らした言葉に、泰継は目を瞠った。
「不安?」
意外な言葉を漏らした花梨に鸚鵡返しに訊ねると、花梨はこくりと頷いた。
「だって、京に比べたら、この世界は自然が少なくて……。海だって、多分翡翠さんが話していた伊予の海のほうが、ここよりずっと綺麗だと思うもの。だから……」

――泰継さんに気に入ってもらえなかったらどうしようって、少し不安だったの……。

花梨は、消え入りそうな小さな声でそう付け加えた。
 
自分が京を好きになったように、泰継にも少しでもこの世界を好きになってもらいたかった。
花梨のために、これまで生きてきた世界を捨ててこの世界で共に生きていく決意をしてくれた彼に、これからは此処を自分の世界だと思って欲しかったから。
身勝手な願いなのは分かっているけれど……。

「だから、泰継さんに『美しい』って言ってもらえて、嬉しかったの」
花梨は再び嬉しそうに微笑んだ。

花梨の言葉を聞いていた泰継は、無言のまま彼女の肩を優しく抱き寄せた。
突然抱き寄せられた花梨が驚いて顔を上げると、泰継と視線が合った。泰継は優しい表情を浮かべていた。空いていた右手を伸ばすと、花梨の前髪を愛しそうに梳く。くすぐったいような心地良い感触に花梨が目を閉じると、泰継は髪を梳いていた手を彼女の顎に移し、唇に軽く口付けた。
花梨がゆっくりと目を開くと、目の前に微笑む泰継の顔があった。

「もし――」
微笑みを消し、おもむろに泰継が口を開く。

「もし、私が伊予の海を見たとしても、恐らく『美しい』とは思わなかっただろう」

真顔で告げられた言葉に驚き、花梨は目を見開いた。泰継に向けられた瞳が「どうして?」と言っている。
それを見た泰継は、再び微笑みを浮かべて花梨を見つめた。右手で花梨の柔らかな髪に触れながら、言葉を継ぐ。

「……お前がいなければ、美しい景色も私にとっては意味の無い物だ」

細く長い指で、花梨の髪を梳く。
大きく見開かれた緑色の瞳が、泰継を見つめている。

「お前と共に見るものは、海も夕陽も、皆美しいと思う」

美しいものを見て美しいと感じる心をくれたのは、花梨だ。
だが、それも、彼女と共に在ってこそ意味を成す。
花梨が美しいと感じるものを自分もそう感じられることが、泰継にとって喜びなのだから。

髪を梳いていた指が、ゆっくりと遠退いて行く。
それを感じながら、花梨はじっと泰継の瞳を見つめていた。
琥珀色の澄んだ瞳に、自分の顔が映し出されている。
この綺麗な瞳に映し出されるものを、彼自身は一体どのように感じているのだろう――…。
この世界が彼の目にどのように映っているのか、とても気になったけれど、花梨はこれまで訊ねる事が出来ずにいた。彼の答えを聞くのが怖くて……。
だから、二人で見たものは美しいと言う泰継の言葉に、花梨は喜びを感じた。自然の少ないこの世界でも、一緒にいれば大丈夫だと言ってもらえた気がした。
それに、長い間ずっと独りで過ごして来た彼が、誰かと共にいる喜びを知ってくれたことが、またその誰かが自分であったことが、とても嬉しい。
花梨ははにかんだ笑顔を浮かべ、右手を泰継の背に回して軽く抱き付いた。そのまま泰継の肩に頬を乗せ、目を閉じる。
肩を抱き寄せる手に、少し力が込められたのを感じた。


「見ろ、花梨」
泰継の声に花梨は目を開き、肩に凭せ掛けていた頭を上げると、彼のほうを見た。
泰継は花梨の肩を抱いたまま、視線を夕陽のほうに向けていた。泰継の視線を追って、花梨も夕陽に目を遣る。
夕陽はすでにその下半分を水平線の下に隠していた。そして水面には、そこに向かって光の道筋が浮かび上がっている。
一日の終わりに最後の力を振り絞っているかのように見えるそのオレンジ色の輝きは、喩えようもない程美しい。
花梨は思わず溜息を吐いた。

「なんだか不思議……」
「何がだ?」
ぽつりと呟いた花梨の顔に視線を戻し、泰継が訊ねる。
「初めて見た時より、ずっと綺麗に見えるの……」
花梨はこちらを見つめている泰継に微笑んだ。
初めて見た時は、あまりの美しさに涙が出た。あの時と同じ景色のはずなのに、何倍も綺麗に見えるのは何故だろうか。
泰継の言葉を聞いて、花梨にもその理由が分かった気がした。

「きっと、泰継さんと一緒だからですね」
花梨の言葉に一瞬目を瞠った泰継は、すぐに微笑みを返した。
「そうだな……」
抱き寄せる手に再び力を込める。

二人で見るものが美しいと感じているのは彼だけではない。自分もそうだと花梨は思う。
好きな人と一緒にいられるということが、こんなに幸せなことだとは思わなかった。目に入る風景すら印象が変わるのだから不思議である。
我が儘な願いを叶えてくれた龍神に感謝した。
そして、何よりも一緒に来てくれた泰継に……。

もう一度視線を絡ませた後、二人は再び前方に視線を戻した。


ゆっくりと太陽が沈んで行く。
泰継はじっと目の前に浮かび上がった光の道を見つめていた。
まるで、暖かく光に満ちた場所に誘うような、光で出来た道……。
それを眺めながら、自分にとっての花梨のようだと泰継は思う。
暖かな光に満ちた場所――それが幸せというものならば、自分をそこに導いてくれるのは花梨以外にはいない。
だから、元の世界に帰る花梨と共にこちらの世界に来ることに、躊躇いは無かった。
彼女と共に在ることが、泰継自身の幸せなのだから。


「泰継さん、あのね……」
海を見つめたまま考え事に沈んでいた泰継の耳に、花梨の声が届いた。花梨のほうを見ると、彼女はじっと泰継の顔を見つめていた。
「この世界に来てくれて、ありがとう……。それから、ごめんなさい……」

――泰継さんに京を捨てさせてしまって……。本当にごめんなさい……。

ぽつりと呟いて、花梨は俯いた。
思いがけない花梨の言葉に、泰継は大きく目を見開いた。何か言おうと口を開きかけるが、泰継が声を出すより先に花梨が言葉を継いだ。
「本当は帰って来た時に言うべきだったのに、今まで言えなくて……」
俯いたまま話す花梨に、泰継は口にしようとしていた言葉を飲み込んで、開きかけていた口を噤んだ。
あの神泉苑での最後の戦いの日、龍神と共に花梨が空に消えるのを目の当たりにした時、彼女を失えば自分は生きていけないのだと痛感した。だから、「一緒に連れて行って欲しい」と彼女に告げたのだ。
それは、泰継自身が望んだことだ。花梨が気に病む必要はないのに……。
だが、いつも自分のことよりも他人のことを気にかける、優しい彼女らしいと泰継は思う。
微かに口元に笑みを浮かべると、泰継は花梨の肩を抱いていた左手を彼女の髪に差し込んだ。柔らかい髪の感触を楽しむように、くしゃっと撫でた。

「花梨。こちらを向け」
俯いたままの花梨を促すように、彼女の頭に乗せていた左手を動かし、顔を自分のほうに向けさせる。
促されるままに顔を上げた花梨の目に映ったのは、間近で柔らかく微笑む泰継の顔だった。

「さっき、お前は私に言ったな。『ここはもう私の世界だ』と……」
「あれは……」
花梨は一瞬目を見開いたが、言い止したまま目を伏せた。
確かに花梨はそう思っている。しかし、泰継の気持ちを考えていなかった。京という、本来在るべき世界を持つ彼に、身勝手な考えを押し付けてしまっているような気がした。自分の都合ばかり考えて……。

「私は、嬉しかった。お前の言葉が……」

その言葉に、花梨は弾かれたように顔を上げた。
琥珀色の瞳が、優しい色を湛えて花梨を見つめていた。

「だから、気にするな」
再び左手で花梨の髪を撫でる。

「お前がいる場所が、私の在るべき場所――私の世界だ」

花梨を得るための代償が京を捨てることであれば、容易いことだ。何度でも、泰継は京を捨てるだろう。
花梨と共にいられるのであれば、生きる場所が何処になったとしても、そんなことは泰継にとっては些細な事だった。

「もし、お前がこの世界でも京でもない何処か別の場所に行くことになったとしても、私は躊躇わずに付いて行くだろう。
私の幸せは、お前と共に在ることなのだから……」

花梨の髪を梳きながら泰継が呟く。

「嫌か?」
笑みを浮かべて泰継が問う。
花梨は大きく首を横に振った。緑色の瞳が微かに潤んでいる。

何処へでも一緒に行く――。

そう言ってくれた泰継の言葉が嬉しくて……。
この気持ちを彼に伝えたいと思った。

「泰継さんっ!」
花梨は両腕を泰継の首に回して抱き付いた。背中に泰継の両腕が回され、抱き締められるのを感じた。

「泰継さん……」

――大好き……。

泰継の耳元で囁くように告げる。
想いを言葉にした瞬間、夕陽に照らされたせいではなく、頬が赤く染まるのを花梨は感じた。それを隠すように、泰継の肩に顔を埋めると、ぎゅっと強く抱き締められた。それに応えるように、花梨も泰継の首に回していた腕の力を少し強め、しがみつくように彼に抱き付く。

(大好き……。だから、傍にいて……)

――ずっと、傍にいて……。

花梨は心の中で強く思った。念じるように。そして、祈るように……。

一度強く抱き締められた後、泰継の腕が緩められるのを感じ、花梨は身体を起こした。
「花梨……」
耳元で名を呼ばれ、花梨は泰継のほうを見た。
微笑みを浮かべた美しい顔があった。
軽く肩を抱き寄せ、花梨の耳元に泰継が顔を寄せる。

「…私もだ……」

耳元で囁くように告げられた応えに、花梨は一瞬だけ潤んだ目を大きく見開いた後、ゆっくりと花開くように微笑んだ。
二人の視線が絡み合う。
しばらく見つめ合った後、どちらからともなく目を閉じ、唇を重ねた。


胸に顔を埋めるように抱き付いてきた花梨の華奢な身体を抱き寄せながら、泰継は薄暗くなり始めた空を見た。
先程まで空一面をオレンジ色に染めていた夕陽は、すでに薄い雲の狭間に少し顔を覗かせているだけだった。海の上に出来た光の道も消えかけているようだ。
――まもなく夕陽が沈む。
泰継は花梨の髪を撫でながら、その様子をじっと見つめていた。
ゆっくりと沈んで行く太陽は、水平線の下にその姿を隠す直前、一瞬だけ目映いばかりの黄金色の光を放ったように見えた。それと同時に、光の道も、夕陽と共に水平線に吸い込まれるように消えていった。それを最後に、辺りは夕闇に包まれていく。

「泰継さん?」
名を呼ばれ、泰継は腕の中の愛しい存在に視線を移した。
花梨が見つめている。
彼女と視線が合うと、泰継の顔に自然と笑みが零れた。

「今日はありがとう。美しいものを見せてもらった」

海も、夕陽も……。
そして――…。

泰継の言葉に、花梨が満面の笑みを浮かべた。


(一番美しいのは、お前の笑顔だな……)


笑顔の花梨に自らも微笑みで応えながら、泰継は思う。



もし、辺りが闇に包まれても、道を見失うことはないだろう。
幸せに続く道は、此処にあるのだから――…。


二人が一緒ならば、必ずそこに辿り着ける。


(きっと――…)




泰継は、花梨の柔らかな髪に、軽く口付けを落とした。







〜了〜


あ と が き
当サイトのバナーを作成して下さいました芙龍紫月様へ、お礼代わりに捧げたものです。「捧げた」と言うよりも、「押し付けた」と言ったほうが正解です(笑)。
この話は、うちでは初めての現代ED後の泰継×花梨作品になります。京を舞台にすると、うちの天然泰継さんは、どうも落ち込みモードに入ってカッコ良くならないみたいなので、じゃあ現代ではどうなのだろうと思って書いてみました。カッコ良くなっているかは謎ですが……。
泰継さんは泰明さんと違って京では天涯孤独な人だったので、現代に連れて帰って来ても、花梨ちゃんはあかねちゃんほど、彼に自分の世界を捨てさせてしまったことを気にしないかなと思っていました。なので、ちょっと意外でした。花梨ちゃんは、どうやら泰継さんが自然から気を得ていた人であるという点を気にしているみたいです。現代は自然が少ないから、人になったとしても、彼にとっては生きにくい世界なのではと思っているのですね。花梨ちゃんが行くところなら、泰継さんは何処へでもついて行くんですけどね。
この話で使っている設定は、「遙か2」を初めてプレイした時、泰継さんが泰明さんの話をするのを聞いて考えた設定です。非常にありがちなのですが、凝っていない素直な設定なので、敢えて使いました。簡単で分かり易いかなと。
この設定で、現代に帰還した後のW泰とW神子、そして「遙か」の現代組の話を書いてみるのも面白いかもしれませんね。泰継さんが花梨ちゃんより一ヶ月早くこちらに着いた訳も、実は設定があります。珍しくシリアスな話です。これもありがちかもしれないのですが、機会があれば書いてみたいですね。
最後になりましたが、芙龍さん、素敵なバナーの使用を快諾頂きましてありがとうございました。こんな物で申し訳ないのですが、私の感謝の気持ちです。ご査収下さいませ。
そして読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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