光の道−1−
「泰継さん、こっちです!」

泰継の腕を半ば引っ張るようにして、花梨は彼をある場所に案内しようとしていた。
すでに夕暮れが近付いている時刻ではあったのだが、花梨は泰継にどうしても見せたいものがあって、此処へやって来たのだ。

ある場所――…


――それは、海だった。




異世界『京』に召喚された花梨は、龍神の神子としての役目を果たし終えた後、「一緒に連れて行って欲しい」と告げた泰継と共にこの世界に帰って来た。
京にいる間に自分を守る八葉の一人である泰継と想いを通わせた花梨は、彼のいない元の世界へ帰ることなど考えられず、すべてが終わった後、京に残ろうと考えていたのだった。そこへ泰継のこの申し出である。花梨に否などあろうはずがなかった。
花梨が心配していたこちらでの泰継の戸籍や住居などといったことも、龍神がすべて手配してくれていた。その上、現代で生活していく上での最低限度の知識も、泰継は龍神から与えられたらしい。
ただ、京に召喚されたその同じ日にこちらに帰って来た花梨に対し、泰継はそれよりも一ヶ月ほど早い九月初めにこちらにやって来たらしい。花梨は帰って来た日に再会した泰継からそう聞かされた。
なぜ龍神がそうしたのか気になると言えば気になるのだが、とにかく泰継と一緒にいたいという思いだけだった花梨は深く詮索せず、何もかも手配してくれた龍神に感謝した。
現在泰継は、龍神の導きにより、彼より先に先代の龍神の神子と共にこちらの世界に来ていた先代の地の玄武、泰明の住むマンションで、双子の兄弟として一緒に暮らし、仕事も二人でこなしている。
泰継がこちらにやって来て二ヶ月足らずであるが、その間に彼は真綿に水が沁み込むように、こちらの世界に関する知識を身に付けていった。予め龍神がある程度の知識を与えてくれたとは言え、やはり初めての事にぶつかることは今もなお多い。花梨は毎日のように泰継と連絡を取り、何か困った事が起きていないか確かめていた。泰継の質問や疑問に答えることも、花梨にとっては嬉しいことだ。京にいた頃、花梨はいつも彼に助けてもらっていた。それに、泰継は花梨のために京を捨ててこちらの世界へ来てくれたのだから、「今度は自分が」という気持ちが強かったのである。
泰明を訪ねてくる先代の神子、あかねの手助けもあり、泰継はこの世界での生活に慣れ始めていた。


そんなある日のこと、マンションのリビングで泰継と話していた花梨は、彼から思いがけないことを聞いた。
なんと、泰継は本物の海を見たことがないと言うのだ。

「もちろん書物で読んだことはあったし、翡翠から伊予の海の話を聞いたこともあった。だが私は京から出たことはなかったし、こちらの世界に来てからも、テレビでしか見たことがないのだ」

生まれてから九十年もの歳月を過ごしてきた泰継だが、安倍本家で暮らしていた間は一族以外の者の目に触れないようにしていたため、本家から外へ出ることはなかったのだという。その後北山に庵を結んでからも、安倍家の依頼で陰陽師として仕事をする時以外は山から下りることがなかったということは、花梨も京にいた頃皆から聞いて知っていた。仕事で赴く場所も、洛内若しくは京近郊だったらしい。
北山で隠遁生活をしていた間も、泰継は式神を自分の目の代わりに使い、下界の様子を探っていたらしいのだが、それも主に洛内のことであった。

泰継からその話を聞いて、花梨は子供の頃よく家族で海水浴に出かけた浜辺を思い出した。
そこは海はもちろんのこと、水平線に沈む夕陽がとても美しい場所だった。空を真っ赤に染めながら海の向こうに沈んで行く夕陽を生まれて初めて見た時、その美しさに言葉を失った記憶が花梨にはあった。

(泰継さんに、あの海と夕陽を見せてあげたいな)

すでに夏は過ぎて秋本番である。海へ行くには少々時期外れなのだが、花梨はどうしても自分が感動したあの風景を泰継に見せたくて、泰継の仕事が休みの日曜日を待って、行き先を告げずに彼を海に連れて来たのだった。



「花梨、何処へ行くのだ?」
「内緒です。行けば分かりますから」
ふふふ、と楽しそうに花梨が笑うのを、泰継は怪訝そうな表情で見つめた。
今日は仕事が休みということもあり、朝からずっと二人で過ごしていたのだが、午後になって花梨が突然「行きたい場所があるから一緒に来て欲しい」と言い出したのだ。泰継に花梨の頼みを断れるはずもなく、二人で花梨が行きたいという場所に行くことにしたのだった。
しかし、花梨が何処へ行こうとしているのか、泰継には皆目見当が付かない。言われるままに電車に乗り、その後バスに乗り換える。だがその間、何度行き先を訊ねても、花梨からは同じ答えしか返って来なかった。
小さく溜息を吐くと、泰継は花梨に引っ張られるまま、歩を進めた。

バスを降りてからは徒歩である。
二人が手を繋いで歩いている道の左側には川が流れており、右側は小高い山になっていた。川幅は意外と広く、流れが緩やかだった。一方、山のほうは高さはそれ程ないものの、なだらかな山ではなく、急な斜面が道に迫り出したような形になっていた。
周囲の景色を確かめながら進む花梨の隣を歩きながら川の流れを眺めていた泰継は、ある事に気が付いた。
この川の水は、何かの匂いがする――。
特に水が濁っていたりする訳ではないのに、泰継が良く知っている賀茂川や桂川の流れとは全く違う水の匂い……。
それが何なのか気になり、泰継は足を止めた。

「泰継さん。どうかしました?」
突然立ち止まって川面を見据える泰継に、花梨が訝しげに声を掛けた。
「……この川は、不思議な匂いがするな」
川のほうに視線を向けたまま、泰継は呟くように答えた。川面を撫でるように渡って来た風が、さらりと翡翠色の髪を梳いて行く。
「ああ。ここはもう河口だから、川の水と海の水が混じり合っているんです。すぐそこが海だから」
不思議そうな面持ちで川の流れを見つめる泰継に微笑みかけながら、花梨は彼の疑問に答えた。それを聞いた泰継が、花梨に視線を向ける。
「海?」
「はい。この間泰継さん、『海を見たことがない』って言っていたでしょう? だから、どうしても二人きりで海を見たかったの」
ちょっと季節外れなんだけど――花梨はそう言って小さく笑った。
「海、か……」
では、これが「潮の香り」というものか……。
初めて嗅いだ匂いだが、不快ではない。むしろ、懐かしい感じがする。初めて嗅いだ匂いをそう感じた事に驚いた。
泰継は再び視線を川に戻した。川が流れて行く先を見遣ると、太陽の光に照らされて輝く水の大地の向こうにうっすらと水平線が見えた。
目を細め、じっと遠くを見つめている泰継の手を、花梨は軽く握り締めた。それに気付いて泰継が花梨の顔に視線を移すと、彼女は柔らかく微笑んでいた。
「この先に砂浜があるの。行ってみましょう」
そう言って手を引く花梨に、泰継は微かに口元を綻ばせて頷いた。



遊歩道をしばらく歩くと、その先に砂浜があった。
砂浜の先には海原が横たわっている。

「ここは、私が小さい頃、毎年夏休みに家族と一緒に泳ぎに来た海なんです」
そう説明しながら、花梨は隣に立つ泰継を見上げた。
泰継は、花梨の言葉も耳に入らないかのように、初めて目の当たりにした海に見入っている。
瞳を輝かせて海を見つめる泰継を見て、花梨は彼を此処に連れて来て良かったと思った。
花梨は嬉しそうな笑みを零すと、泰継の端整な横顔に見惚れた。

海から渡って来た風が、潮の香りを運んで来る。
さっき、なぜか『懐かしい』と感じた香り……。
泰継は目を閉じて深呼吸してみた。
耳に届く波の音にも懐かしさを感じて、泰継は驚いた。
この気持ちは何だろうか。

「花梨」
不意に琥珀色の瞳に見つめられ、花梨は思わずドキッとした。横顔に見惚れていたのを、当の本人に知られてしまったかもしれない。花梨の頬は赤くなった。

(また「気が乱れている」とか言われちゃいそう……)

紅潮した頬を彼に見られないように、花梨は慌てて視線を海に移した。
だが、泰継が発した言葉は、全く別の事だった。

「花梨。分からぬ事があるのだが……。お前なら分かるだろうか?」
「何ですか?」
どうやら気付かれなかったらしいことに内心安堵しながら、花梨は泰継のほうに視線を戻した。
「私は今日初めて海を見た。なのに、潮の香りや波の音を懐かしく感じるのは、何故だろうか」
泰継の言葉を聞いて、花梨は一瞬目を瞠ったが、すぐに笑顔を浮かべて答えた。
「その気持ち、分かりますよ。私もそうだもの」
「お前も?」
「はい。私は初めてじゃないけど、海に来るたびに泰継さんと同じ気持ちになるもの」
今度は泰継が目を見開く。
「以前テレビか何かで見たんですけど、この世界のすべての生物は海で生まれて進化してきたから、その記憶が残ってるんですって。だから海を見ると、『故郷に帰って来た』っていう気持ちになるんだそうですよ」
花梨の言葉の意味を泰継は考える。
すべての生物――…。

「だが、私は……」

――私はこの世界の者ではないし、人間でもない。

そう続けようとした泰継は、言い止したまま花梨から視線を逸らして俯いた。
「泰継さんは、人ですよ。私にとっては最初からそうでしたけど」
まるで泰継が言おうとしていたことが分かっていたかのように、花梨は言った。同時に泰継の手をぎゅっと握り締める。泰継が驚いたように花梨を見ると、彼女はじっと泰継の顔を見つめていた。
「それに、ここはもう泰継さんの世界だもの」
――そうでしょう?
微笑みを浮かべて自分を見つめる花梨の瞳が、そう言っているように思えた。

握られた手が温かい。
今まで、何度彼女の言葉に救われてきたことだろう。
彼女を守っているつもりが、彼女に守られているのはいつも自分のほうだった。
いつも、いつも……。
この小さく華奢な手に導かれている。

「そうだったな……」
口元に仄かな笑みを浮かべた泰継を見て、花梨はホッと息を吐いた。

少し湿気を帯びた海風が、二人の髪を靡かせた。

先程からずっと、琥珀色の瞳が、真っ直ぐに花梨の緑色の瞳を見つめている。

(――…綺麗……)

京にいた頃双色だった泰継の瞳は、こちらに来た時に琥珀色に揃えられていた。初めて会った時から、花梨は毎日のように彼の瞳を見て来たが、未だに見慣れるということがないし、見飽きるということもない。
泰継に見つめられると、その澄んだ瞳に吸い込まれそうな感じがする。そして、視線を逸らすことが出来なくなるのだ。気が付けば、いつも泰継の瞳に見惚れている自分がいる。
花梨は、柔らかな表情を浮かべたままじっと見つめてくる泰継に、再び頬を紅潮させた。赤くなった顔を彼に見られるのが恥ずかしくて、視線を足元に落とす。
しばらく砂を見つめているうちに、花梨の頭にある考えが浮かんだ。

(そうだ!)

花梨は握っていた泰継の手を放し、履いていたサンダルを脱ぎ始めた。あっと言う間に裸足になり、海に向かって砂浜の上を歩き始める花梨に、泰継は目を瞠る。見たところ砂浜には足で踏んで怪我をしそうな物はないようだが、流木やガラス瓶の破片などがないとは限らない。泰継は慌てて花梨に声を掛けた。

「待て、花梨! こんなところを裸足で歩いては怪我をする!」

花梨を引き止めようと手を伸ばしかけた泰継は、自分が発した言葉に思わず苦笑した。それは、まだ京にいた頃、泰継自身が花梨に言われ続けていた言葉だ。


『泰継さん! 裸足でそんなところを歩いたりしたら怪我します!』

『もう、泰継さんってば! 裸足で雪の上を歩いちゃ駄目です! 霜焼けになっちゃいますから!』


幾度となく花梨に言われた言葉を思い出し、泰継はくっくっ、と小さく声を上げて笑った。

初めのうちは、不思議なことを言う娘だと思っていた。それまで、泰継のことを心配して諌める人間などいなかったから。
なのに、花梨だけは違っていた。
真っ直ぐに見つめてくる緑色の瞳に、泰継は彼女が本当に自分のことを心配して言っているのだということを悟ったのだ。今にして思えば、その時感じた気持ちは、『嬉しい』という感情だったのだと思う。

(あの時、お前も、今の私と同じ気持ちだったのだろうか?)

花梨が怪我をするのが嫌で……。どんなものからも彼女を守りたくて……。

不意に温かいものが心の中に降りてくるのを感じた。花梨のことを想う時、いつもこんな温かい気持ちになる。
泰継は我知らず微笑みを浮かべていた。


「泰継さん?」
素足で砂地を踏み締めながら波打ち際へと歩いていた花梨が、不意にこちらを振り返った。その動きに合わせて、彼女が着ているワンピースの裾が海から来た風に煽られ、軽やかに宙を舞った。
泰継のほうを振り返った花梨は太陽を背にしていたため、太陽を背景に彼女のシルエットが浮かび上がって見える。泰継には、まるで彼女自身が光を放っているかのように見えた。

――美しい―……。

そう思った。


彼女は美しい、と……。


花梨がこちらを見つめている。
逆光になってはいたが、こちらを振り返った時、花梨が一瞬驚きの表情を浮かべたのは泰継にも見て取れた。泰継が笑い声を上げたのが余程珍しかったのだろう。
そう言えば、声を上げて笑ったのは、生まれて初めてかもしれない。思い出し笑いなども、もちろん初めての経験だ。泰継にとって記憶とは、必要な時に必要な情報を引き出すためにあるだけのものだった。それが今ではただの『記憶した情報』ではなく、『思い出』というものに変化している。
花梨と出逢ってから、自分は変わったと泰継は思う。それが良い変化であることは言うまでもない。
人になるというのは、そういうことなのだろうか?
だとしたら、すべて彼女のおかげだ。
今、声を上げて笑うことが出来るのも、美しいものを見て美しいと感じることが出来るのも……。
泰継は、じっと自分を見つめている花梨に微笑みかけた。
花梨と視線が合うと、彼女は嬉しそうな笑顔を見せた。少しはにかんだような彼女の笑顔が眩しくて、泰継は目を細めた。


「泰継さんも裸足になってみませんか? 気持ちいいですよ」
微笑みながらそう言って寄越す花梨に、泰継も靴を脱ぎ始めた。
素足で砂地を踏み締めて、自分を待っている花梨のほうに歩いてみた。こちらの世界に来てからも、自宅では今も裸足でいることが多い泰継だが、外を裸足で歩いたのは初めてだった。
太陽に少しだけ温められた砂の感触が心地良い。
「真夏だったら裸足で歩くと火傷しそうなくらい熱いけど、今の季節だったらちょうど良い温かさですね」
ふふふ、と楽しそうに花梨が笑う。

その時、海から風が吹き付けて来た。突然の強い風に、花梨は小さな悲鳴を上げて、吹き上げられそうになるワンピースの裾を両手で押さえ付けた。
だがそれも一瞬のことで、花梨が視線を落としていた砂地に影が差すと、風に煽られていた衣服と髪の動きが突然止まった。
後ろを振り向くと、風上に泰継が立っていた。
「問題ないか?」
訊ねながら花梨の頭に手を伸ばし、乱れた髪を指で梳いて整えてやる。
「あ…ありがとうございます」
頬をうっすらと染めて、花梨は泰継に礼を言った。
花梨の髪を梳いていた泰継は、その柔らかくて心地良い感触に、ずっとこうして触れていたいと感じた自分に驚いた。
彼女といると、新しい感情が一つ一つ自分の内に目覚めていくのが分かる。
初めての感覚に戸惑うことも多いが、それを凌駕する喜びがあった。

「……泰継さん?」
髪に触れたまま考え事に沈んでしまった泰継に、花梨が声を掛けた。
「……何でもない」
小首を傾げ、少し心配そうな表情を浮かべて顔を覗き込む花梨を安心させるように微笑むと、泰継は海に視線を移した。
先程よりも随分と傾いた太陽が、空と海を赤く染め始めている。
「…美しいな……」
ぽつりと呟かれた泰継の言葉に、花梨は一瞬驚いたが、次の瞬間には笑みを零していた。出逢った頃の彼からは、絶対に聞くことが出来なかった言葉だろう。
花梨は、さっき聞こえてきた泰継の押し殺したような笑い声を思い出した。
思わず洩れてしまったのを堪えようとしたかのような、微かな笑い声――…。
最近の泰継は、花梨の前では以前よりも微笑みを見せることが多くなっていた。時折ではあるが、あかねや他の人間の前でも柔らかい表情を見せるようになっている。しかし、彼が声を上げて笑うのを見たのは、花梨も初めてだった。
ほんの少しずつだけれど、泰継は確実に自分の感情を表すようになってきている。そのことが、とても嬉しい。
ずっと彼の傍にいて、彼の表情が増えていくのを見ていたいと思った。
次は、一体どんな表情を見せてくれるのだろうか。
花梨は泰継の左腕に自分の右腕を絡めた。そして、それを感じて花梨のほうに視線を戻した泰継に言った。
「これからが一番綺麗なんですよ。あんまり綺麗だから、初めて見た時は涙が出ちゃいました」
ふふふ、と花梨が小さく笑う。絡めた腕に、少し力を込めた。
「だから、泰継さんにも絶対見てもらいたかったの」
自分が心を動かされた風景を、大好きな人にも見てもらいたかったから。
そして、出来れば自分と同じように感じてもらいたいと思ってしまったから。
恐らく、感動して涙するということは、泰継には未だ理解できないことなのだろうが、それでも良かった。
花梨は泰継の腕を引き、夕陽を眺めるのに絶好の場所に移動した。
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