晴明の身体から抜かれた陰の気――。
二つに分けられた精髄の内、力が強過ぎ暴走しそうになった精髄の一方には、晴明と天狗により人型が与えられた。
――それが、泰明。
しかし、もう一方の精髄は核に封じられ、人型を与えられることなく安倍本家で保管されることとなった。
――それが、私……。
その五年後、晴明が亡くなり、精髄のまま保管されていた私の管理は、彼の長子であった師に引き継がれた。その時、泰明が既に京から姿を消していたからだ。もし、泰明が京に留まっていたなら、彼が引き継ぐことになっていたのかも知れない。
――泰明は、「晴明の最後にして最大の弟子」と呼ばれていたのだから……。
稀代の陰陽師、安倍晴明の子でありながら、晴明や泰明ほどの力を持ち得なかった師が、どれ程泰明を羨んでいたか、私は知っていた。そして、父、晴明のように、泰明のような優秀な弟子を持ちたいと願っていたことも――。
それを知ることが出来たのは、晴明の死後、私に人型を与えるため、毎日のように術を施しに来る師から、そんな願望が入り混じった思念が伝わって来たからだ。それは時を経るにつれ、「泰明のようになれ」と、私に命じるものへと変化して行った。
そして、五年後――。
師とその弟、吉昌により、晴明が残した資料を元に、私に人型が与えられたのだ。
泰明の複製として――…。
「――だが、私は、お師匠が望んだような弟子ではなかったのだ」
そう語る泰継の横顔に、自嘲を帯びた笑みが浮かぶ。
「陰陽師としての力は泰明に遠く及ばず、人型としても不完全なモノだったから……」
「泰継さん…!」
滅多に出さない低い声音で、花梨が泰継の言葉を遮った。
“不完全なモノ”
人となる前の泰継が、三月ごとに眠りと目覚めを繰り返す自分のことを語る際、幾度となく使った言葉だ。
彼が自分自身をそんな風に思い込んでいることが、悲しかった。大切な人が、自分は取るに足りない存在なのだと、そう思っていることが嫌で……。
泰明が完全で、泰継が不完全だなどと、花梨にはどうしても思えなかった。第一、完全なものなど、有り得ないのだから。
だから、二度と彼に使って欲しくない言葉だったのだ。
「だが事実、お師匠は落胆なさっておいでだった」
今度は泰継が、続けて何か言おうとした花梨を遮る。その言葉に驚いた花梨が目を瞠った。
「私が泰明に及ばないのは事実だ。だから、泰明のような弟子を欲していたお師匠が落胆するのも当然の事だった」
いつもと同じ冷静な声で、泰継が話す。余り感情が表れないその声音が、花梨の耳には痛々しく聞こえた。
「しかし、私のような者をご自分の弟子として迎え入れて下さったことには、感謝している」
感謝していたのであれば尚更、彼はなるべく師の希望に添えるよう、努力したのではないだろうか。だから、自覚しないままに泰明を羨んでいたのだと思う。人になってからは余り口にすることはなかったが、泰明の事を話す時、彼の言葉の端々に羨望の気持ちが表れていたから。
しかし、泰継が泰明と違っていたからと言って、彼の師が彼を疎んじていた訳ではないだろう。彼に「泰継」という名を与え、自分の弟子として持てる知識や技術を教え込んだというのだから。泰継がそれに気付いていないはずはない。
ただ、忘却することがなかった人なだけに、泰明との違いに気付いた師が唯一度だけ見せた落胆の気持ちを、ずっと忘れられずに引き摺って来たのではないだろうか。
だから―――
「だから、今まで泰継さんが生まれて来たことを喜ぶ人がいなかったと思っているの?」
花梨の問いに、泰継は大きく目を見開いた。
「そんなこと、絶対無いよ」
手を伸ばした花梨は、膝に置かれた泰継の手をぎゅっと握り締めた。
「お師匠様も、それから天狗さんも、泰継さんが生まれて来てくれて良かったって、思っているはずですよ?」
泰継が口を開こうとした時、横から口を挟む者があった。
「――神子の言う通りじゃな」
はっとして泰継が顔を上げると、いつの間にか山道を挟んで向こう側の木の枝に、天狗が腰掛けていた。いつもなら、天狗はこの刻限には天狗松に陣取って、泉からの霊気を浴びているはずだ。一体、何をしに来たのだろうか。
「天狗さん! 来てくれたんですね?」
驚きの表情を訝しげな表情に変えた泰継とは対照的に、花梨は立ち上がり、笑顔で天狗を出迎えた。花梨が立ち上がったため、泰継も不承不承立ち上がった。
「なに。儂も可愛い息子に『ぷれぜんと』とやらを贈ってやろうと思うてな」
「ぷれぜんと…? 何だ、それは?」
普段なら、恐らく「可愛い息子」という言葉に反応したであろう泰継だが、知識欲旺盛な性格故か、つい聞き慣れない言葉の方に反応してしまう。
しかし、泰継の疑問に答えたのは、天狗ではなく花梨だった。
「『プレゼント』は、『贈り物』という意味の、私の世界の言葉なの」
つまり、天狗は何か贈り物を持って来たという訳だ。だが、今の泰継には、もっと重要な事があった。
自分でさえ教えられていなかった花梨の世界の言葉を天狗が知っていたことに、泰継は少なからず衝撃を受けた。花梨の隠し事に天狗が関わっているらしいということもあって、説明の出来ない不穏な感情が湧き起こる。自然と、その矛先は天狗へと向かった。
「何故、お前が花梨の世界の言葉を知っている?」
すっと目を細め、天狗を睨みながら不機嫌そうに言う。またいつもの親子喧嘩が始まったと思った花梨は、小さく溜息を吐いた。
一方、泰継から冷たい視線や声を向けられることに慣れている天狗は特に気にした様子もなく、泰継の質問に答えた。
「数日前、神子から聞いたのじゃ」
泰継が細めていた目を見開いた。数日前と言えば、自分の留守中に花梨が天狗に会いに行き、相談事をした日に違いないと思ったからだ。
「神子の世界では、生誕の日に祝宴を開き、贈り物をするのだそうじゃ。だから今日は、お主に『ぷれぜんと』を持って来てやったのじゃよ」
声に続き、天狗の羽音が辺りに響いた。庵のすぐ脇の木に飛び移った天狗は、二人が立っている濡れ縁の正面にある枝に座り直すと、ある物を取り出した。
「ほれ」
掛け声と共にそれを空に投げると、泰継に向けて団扇で扇ぐ。団扇から生じた風に乗り、落葉のようにゆっくりと舞い降りて来たそれを手に取った泰継は、訝しげに首を傾げた。
それは、一通の文だった。
(だが、一体誰からの……?)
泰継の心の中の呟きが聞こえたかのように、天狗がその疑問に答えた。
「――吉平からじゃ」
天狗が差出人の名を告げると、怪訝そうに文を見つめていた泰継は、弾かれたように顔を上げた。彼が手にした文を覗き込んでいた花梨も、驚いて天狗の声が聞こえた方を見上げた。
ちょうど先程まで二人で話していた、泰継の師。
七十年以上も前に亡くなったという人物からの文とは、一体どういうことなのだろうか――…。
続く天狗の言葉は、花梨の疑問に答えるものだった。
「亡くなる一ヶ月程前、あやつ北山にやって来ての。儂に預けて行ったのじゃ。『泰継が泰明のように大切だと思えるものを得ることが出来た時、これを渡して欲しい』、と言ってな――」
ぴくり、と文を持つ泰継の手が震えた。
―――泰継……。大切なものを見つけよ――。
夢の中で師が告げた言葉が甦った。
「それを読めば、あやつがお主のことをどう思っていたのか、解るのではないかの?」
手にした文を凝視したままそれを開こうとしない泰継に向かって、天狗は言った。
晴明の死後、安倍本家を訪れることがなかった天狗だが、晴明の息子達とは彼が生きている頃から懇意だった。晴明が他界した後も、天狗が安倍家を訪れなくなった代わり、修行などで北山を訪れた際、彼らの方から会いに来ていた。
そんなある日、吉平から封じられたまま保管されていたあの精髄に人型を与えたと聞かされた。一族以外の者の目に触れぬよう、泰継が本家から出ることは許されていなかったので、紹介出来なくて残念だと言っていたことを思い出す。
その後も、北山を訪れる度に彼が天狗に話したのは、泰継の話が中心だった。
そして、彼が最後に北山を訪れたあの日―――。
文を預かることを承諾した天狗に「泰継を頼む」と言い残し、吉平は山を下りた。
彼が泰継にどれほどの愛情を注いでいたか、天狗は知っている。それだけに、当の泰継が、自分が生まれて来たことを喜ぶ人間はいなかったと思い込んでいることが、天狗としては許せないのだ。誤解があるなら、それを解いてやりたいと思う。
「泰継さん……」
文を読むよう、花梨が促す。
天狗が見守る中、一度花梨の顔を見つめた後、泰継は漸く文を開いて読み始めた。
文を開くと同時に、菊花の深い香りが仄かに漂って来る。
師が好んでいた香り――…。
いつの間にか自分も好んで使うようになっていた。
目を閉じて、暫し懐かしいその香りを楽しむ。
ふと、この文には術の名残があることに気が付いた。恐らく天狗に託す際、師が掛けたものだろう。だから、書かれてから八十年近く経ているにも拘わらず、まるで昨日認められたかのような状態を保っているのかも知れない。
閉じていた目を開いた時、目に留まったのは、紛れも無い、懐かしい師の手蹟だった。
―――泰継……。
師が、語り掛けて来るような気がした。
泰継。
私は、お前に謝らねばならない。
私に父上程の力が無かった故に、お前に泰明のような完全な型を与えてやれなかったことを――…。
びくっと、泰継の肩が揺れた。
師がそんな事を考えていたとは、思いも寄らなかった。
――何故、お師匠が詫びる必要があるというのだろう。謝らなければならないのは、むしろ泰明のようになれなかった私の方だというのに……。
冒頭の、師の意外な言葉に目を瞠った泰継は、文の続きに目を走らせた。
陽の気を練る術は、晴明だけが使えた術だったこと。
そのため、不足しがちな陽の気を補うため、泰明には施されていたまじないを、吉平の力では泰継に施すことが出来ず、結果として三ヶ月ごとに眠りと目覚めを繰り返す不安定な身体となってしまったこと。
泰明より更に陰の気に偏りがちな泰継が、少しでも陽の気を取り入れることが出来るようにと、泰明が京を旅立つ際、晴明の元に残して行った陽の気を練った玉を使って首飾りを作り、それを与えたこと――。
文の続きには、それらの事実が述べられている。
文字を目で追いながら、泰継は無意識に胸元に手を伸ばしていた。普段はそこに、師から与えられた首飾りが下がっている。それが陽の気を練った物だということは知っていた。しかし、それが晴明が泰明に与えたという首飾りの一部だとは、思ってもみなかった。
私は父上を羨み、泰明のような弟子が欲しいと願って、精髄のまま核に封印されていたお前に人型を与えた。自分に父上程の能力が無いことを知っていながら、それでも弟子を欲し、吉昌にも手伝わせて五年がかりでそれを成し遂げた。
――私は自分の欲求のために、言わばお前を利用したのだ。
人型を得て直ぐ、お前が「私は泰明だ」と口にした時、私は自らの過ちを知った。
お前はお前だ。決して泰明には成り得ぬ。また、泰明がお前の代わりに成ることも出来ぬ。
私の弟子は、泰明ではなく、お前なのだと……。そんな簡単な事実に気付けぬ程、私は泰明に対する嫉妬や父上に対する羨望という浅ましい感情に囚われていたのだ。
だから、名を与え、お前を私の弟子にした。そして、私が持つ知識の全てを教えることで、罪を償おうとしたのだ。
しかし、いつの間にか、私はお前のことを我が子のように思うようになっていた。償いではなく、私の一番弟子として、お前に私が知る限りの知識や術を伝えたいと思ったのだ。だからと言って、私が犯した過ちが消え去ることがないことは解っていたのだが。
それ故、お前が泰明のことを聞きたがる度、そして自分が泰明に劣るものだと気に病んでいるらしいことを感じる度に、私は罪の意識に苛まれることとなった。
泰継。お前は私を恨んでいるだろうか?
お前に完全な型を与えてやれなかった私を――…。
「どうして恨むなど……」
――むしろ、感謝している……。
無言のまま一心に文を読んでいた泰継が呟いた。彼が広げた文を隣から覗き込んでいた花梨が、突然耳に届いた小さな呟きに、心配そうに泰継を見上げた。
それにも気付いていないかのように、文に視線を落としたまま、泰継はふと今朝見た夢を思い出す。
伝えようとして伝えられなかった、感謝の気持ち――。
人型を与えてくれたこと。
こんな自分に、愛情を持って接してくれたこと。
それらに対する感謝の念は、花梨を得てから、今まで以上に感じるようになっていた。
泰明が八葉となり、大切と思えるものを見つけて人になったのを、私は目の当たりにした。
だから、泰継――。お前にも、大切と思えるものを見つけて欲しいと願わずにはいられないのだ。お前のことだから、きっと泰明のように見つけることが出来よう。そう信じて、この文を天狗に託す。
この文を読んでいる今、お前の隣には誰が居るのだろうな。だが、残念だが私には、それが誰であるかを確かめる時間が残されていないようだ。父上が泰明の神子に会ったように、お前が見つけた大切なものを、この目で見ることが出来なかったことだけが心残りだ。
お前が生まれて来てくれたこと、そして十数年間、私の弟子でいてくれたことに、感謝している。――ありがとう……。
そして、幸せに――。
私はいつも、お前の幸せを願っている。
『お前が生まれて来てくれたことに感謝している……』
重陽の節。
人型を得たこの日に、何故師の夢を見たのか、その理由が解ったような気がした。
―――泰継……。大切なものを見つけよ――。
そなたが守りたいと思い、失いたくないと思うものを……。
夢の中で、そう言って微笑んだ師。
まるで子を見守る親のような優しい笑みだったのに。
師が愛情を持って接してくれていたことも知っていたはずなのに……。
それなのに、私は酷い誤解をしていたのだ。
私が生まれて来たことを喜ぶ者はいなかった、と――。
「――お師匠……」
私も、貴方の弟子でいられて幸せだったと……。
泰明ではなく、泰継として生を授けられたことに感謝していると……。
そう、伝えたかったのに――…。
透明な雫が、文を持つ手の上に落ちて砕けた。
泰継のすぐ傍に立って彼の手元を覗き込んでいた花梨がそれに気付き、弾かれたように顔を上げて泰継を見た。それと同時に、天狗も目を瞠る。
泰継は、微笑みを浮かべたまま、涙を流していたのだ。
琥珀色の瞳に透明な雫が溢れている。泰継が瞬きする度、零れ落ちたそれが頬を伝って流れ落ち、文を持つ手の上で次々に砕け散る。
(――綺麗……)
その美しさに、花梨は思わず見惚れてしまう。
初めて泰継の涙を見たのは、彼が人になったあの日。
溢れる涙を拭おうともせず、流れ落ちるままにしていた。まるで泣き方を知らないかのようなその様子に、ただ見惚れていたことを思い出す。
人となって一年近く経った今も、泰継は涙を拭おうとせず、あの日のようにただ立ち尽くしている。
「泰継さん……」
花梨は自らが纏っていた衣の袖で、泰継の瞳から次々と零れ落ちる涙を拭った。
木の上からじっとその様子を見守っていた天狗が、漸く口を開いた。
「どうじゃ? それでも、『お主が生まれて来たことを誰も喜んではおらぬ』、と思うか?」
顔を上げて天狗の方を見た泰継は、首を横に振った。
それを確認した天狗が破顔する。
「儂の『ぷれぜんと』は、喜んでもらえたかの?」
「ああ。感謝する……」
「泰継さん……」
微笑みを浮かべて答える泰継を見て、花梨も嬉しそうに笑った。
「なんて書いてあったのか、後で私にも教えてくれる?」
泰継が文を読んでいる間、隣から覗き込んでいた花梨だが、やはりまだ達筆な文字を読み取ることが出来なかったのだ。
「ああ……」
花梨の願いに、微笑みながら泰継が頷いた。
「――ついでに言っておくが、儂もお主の誕生を喜んだ一人じゃぞ? 何と言っても、儂の可愛い息子じゃからのう」
ふぉふぉふぉ、と天狗がいつものしわがれた笑いを漏らす。
それを聞いた泰継の表情が、急激に不機嫌なものへと変化する。先程は、知識欲に負けて聞き逃していた「可愛い息子」という言葉に反応したのだ。
「誰がお前の息子なのだ?」
「泰継さん!」
不穏な気を纏い始めた泰継の袖を、花梨が慌てて自分の方に引いた。
「何だ?」
むすっとした口調で答える泰継。さっきまで涙を流していたのが嘘のようだ。
(もう、本当は仲が良いくせに、直ぐ喧嘩になるんだから……)
喧嘩と言うより、からかう天狗に泰継が過剰反応を示していると言った方が正しいかも知れない。しかし、だからと言って彼らが仲違いしている訳ではないことも、花梨は知っている。
小さく溜息を吐いた後、花梨は泰継に言った。
「私からのプレゼントもあるんですけど……」
軽く目を瞠った泰継を見つめた後、花梨は天狗が腰掛けている木の方に目を遣った。花梨の目にその姿は見えないのだが、声が聞こえて来た方に向かって意味ありげな笑みを向ける。すると、それに応えるように、天狗がにやりと笑って頷き掛けた。
それに気付いた泰継の機嫌が益々悪くなった。花梨が天狗と隠し事を共有していることを悟ったからだ。
「泰継さん。耳を貸して下さい」
掴んだままになっていた泰継の袖を引きながら、花梨が言う。
口元に両手を当て、背伸びして待っている花梨を見て、渋い顔のまま泰継が腰を屈めた。すると、泰継の耳元に口を近付けた花梨が何事か囁く。
「泰継さん。あのね……。…………」
花梨の言葉を聞いた泰継が、今までに無い位、大きく目を見開いた。
「……………」
伝えるべき事を伝え終えて花梨が背伸びするのを止めると、泰継も屈めていた身体を元に戻しはしたものの、じっと花梨を見下ろしたまま、言葉を発することを忘れてしまったかのように黙り込んでしまった。
天狗と花梨は、それぞれに泰継の表情を確かめる。
信じられない事を聞いたかのような驚きの表情。
それが、今にも泣き出しそうな表情へと変化して行く。
恐らく、いつも冷静な彼が、一生に一度するかしないかという表情――。
それを見た天狗が、満足げに微笑んだ。
「――本当…なのか……?」
震える声で泰継が訊ねると、花梨ははにかんだ笑みを見せて頷いた。
―――あのね…。私、赤ちゃんが出来たの……。
耳元で告げられた花梨の言葉――…。
だから、近頃、花梨は調子が悪いと言っていたのか。
だから――…。
改めて花梨の気を探ると、確かに花梨以外の者の気が宿っているのが感じ取れた。
作られた身の自分に子を作ることが出来るとは、思ってもみなかった。その所為だろうか。花梨の身体に宿る小さな命に気付けなかったのは。
否定する気持ちが、真実を見抜く目を曇らせていたのかも知れない。
驚きから泣きそうに見える表情へと変化した泰継の顔に、喜びの表情も加わった。
喜びの涙という表情――。
「花梨……」
花梨を抱き寄せ、恐る恐るその身体を抱き締めた。
それを確認した天狗は、心の中でかつての友に話し掛けた。
――吉平よ。
泰継はもう大丈夫じゃ。
お主が望んだ通り、大切なものを手に入れた泰継は、人として生きて行けよう。
神子の傍で、生涯幸せに……。
お主の代わりに、儂がそれを見届けてやろう――…。
満足げに微笑んだ天狗は、静かに庵を後にした。
「黙っていて、ごめんなさい……」
花梨の肩に顔を埋めていた泰継が顔を上げた。抱き締められていた身体を解放された花梨は、まだ潤んだままの目で自分を見下ろしている泰継を見つめ、泰継の留守中に起きた出来事を説明し始めた。
数日前、泰継の留守中に天狗を訪ね、誕生日の贈り物を何にしたら良いか相談したこと。
その際、花梨の気の変化から、天狗が花梨に宿った命に気付き、その事実を教えてくれたこと。
そして、天狗に「お主にしか出来ない贈り物だ」と言われ、泰継を驚かせようと今日まで隠していたこと。
「泰継さんが隠し事をされるの嫌いだって解っていたけど、どうしても泰継さんの誕生日に知らせたかったの。ごめんなさ…ん……」
再び謝ろうとした花梨の口を、泰継は自らの唇で塞いだ。突然の事に不意を衝かれた形となった花梨は、一瞬大きく目を見開いた後、ゆっくりと目を閉じた。
「花梨……」
長い口付けの後、漸く花梨を解放した泰継が呼び掛けた。
「もう、謝るな。お前が謝る必要はない。何故なら――…」
一旦言葉を切り、泰継は花梨に微笑み掛けた。
人となったあの日、火之御子社で見せたのと同じ、柔らかで優しい笑顔――…。
その笑顔に、花梨の頬が薄紅に染まる。
その様子をじっと見つめていた泰継は、やがて言葉を継いだ。
「――何故なら、私は、この上なく嬉しいのでな…」
花梨の顔に、笑みが広がって行く。
「最高の贈り物だ。ありがとう……」
次の瞬間、胸に飛び込んで来た花梨を、泰継はしっかりと抱き留めた。
九十年もの歳月を経て、漸く手に入れた私の大切なもの――。
来年の初夏には、それがもう一つ増えるのだ。
―――泰継……。大切なものを見つけよ――。
それは、そなたを導く光となろう……。
(――お師匠……。貴方の仰る通りだ……)
泰継は、明け方見た夢を思い起こす。
花梨と出逢うまでの九十年間、自分はあのような暗闇の中に存在していたようなものだと思う。
前も後ろも、そして足元さえも見えない漆黒の闇の中に、たった一人――。
しかし、そんな闇の中に在っても、常に導いてくれる光があったからこそ、これまで生きて来られたのだと思う。
安倍家に居た頃には、師が。
北山に来てからは、天狗が。
そして、今は――…。
「あっ、いけない!」
泰継の腕の中で大人しくしていた花梨が、突然声を上げた。
「どうした?」
「今日は早起きしてお料理の準備をするつもりだったのに……!」
泰継の肩越しに見える空は、いつの間にか明るくなっていた。そろそろ朝餉の時間だ。折角、紫姫や泉水に尽力してもらって揃えた材料もあることだし、花梨としては朝餉も祝いの膳にしたかったのに、今からでは間に合いそうにない。
「お前の世界で、生誕の日に催すという『宴』のことか?」
花梨がこくりと頷く。
「折角天狗さんも来てくれていることだし、一緒にと思ったんだけど……」
「天狗なら、先程帰った」
「え?」
自分の目には天狗の姿が映らないことが解っているのに、花梨は思わず先程まで天狗の声が聞こえていた木に目を遣った。だが、やはり花梨の目には、さっきまでと全く変わらない様子の木が見えるだけだった。
「先程の礼に、後で酒でも届けさせることにしよう」
残念そうに溜息を吐いた花梨に、泰継が告げる。その言葉に、花梨は漸く笑みを浮かべた。
「じゃあ、急いで朝餉の用意をしますね」
「では、私も手伝おう」
慌てて庵の中に戻ろうとする花梨に、泰継が声を掛けた。
「え? 駄目ですよ! 今日は、泰継さんのお祝いなんだから」
「――お前の祝いもしよう」
「え……?」
泰継の言葉に、花梨はぴたりと足を止めた。振り返った顔には、きょとんとした表情が浮かんでいる。
意味を理解出来ていないらしい花梨に微笑みを向けると、泰継は言葉を補足した。
「お前が母になる祝いだ」
花梨の緑色の瞳が大きく見開かれた。
庵の中へと続く戸口に立って、呆然とこちらを見つめている花梨に歩み寄った泰継は、花梨の肩に先程彼女が持って来た着物を掛けた。
「身重の身体で、このような薄着で外に出るなど……」
さっき泰継に言ったお小言を、そっくりそのまま返されてしまった。
「これからは気をつけろ。もう、お前一人の身体ではないのだから」
だが、心配してくれる彼の気持ちが嬉しい。
そして―――
『もう、お前一人の身体ではない』
花梨は自分の腹に手を遣った。
まだぺったんこで、とても子供を宿しているようには見えない。しかし、そこには確かに泰継の子がいるのだ。
この小さな命を守りたいと思う。
「…はい……」
花梨は、はにかみながら頷いた。
その様子を、泰継はじっと見つめていた。
自分の命より
京より
この世界より
何よりも大切なもの―――。
(お前は、その明るさで行く先を照らし、私を導いてくれる光なのだな……)
―――これからも、ずっと――…。
泰継は、花梨の肩をそっと抱き寄せた。
〜了〜