光−1−
―――大切なものを見つけよ。
それが、師が今際の際に、私に残した言葉だったという。
師が亡くなり、安倍の家を出て北山に居を移してからずっと、思索の度にその言葉の意味を考えた。
しかし、何度考えても、その意味を知ることは出来なかった。
――当然だ。
存在意義を持たず、この身体が消え去る日まで、ただこの世界に在るだけの私に、「大切なもの」など出来ようはずもない。
師は一体、私に何を伝えたかったのか――…。
長い歳月を経ても得られなかった答えを、私は思わぬ形で知ることとなった。
それは、私の神子、花梨と出逢ったからこそ齎された答えだったのだ。
◇ ◇ ◇
「天狗さん! 居ますかぁ?」
晩秋を迎えた北山に、天狗を呼ぶ花梨の声が響いた。
龍神の神子の役目を果たし終え、泰継の元に残った花梨は、この春から北山の庵で彼と共に暮らし始めた。
花梨が庵で暮らしたいと希望した時、人里離れた庵では花梨が淋しがるのではと泰継は心配したが、彼の心配を余所に、花梨は自然豊かな北山での生活を満喫していた。確かに北山の奥深くに在る庵を訪ねて来る者は殆どいないが、その分泰継と二人きりで過ごせる時間が増えたのだ。花梨としては、紫姫の館に世話になり、泰継の訪れをじっと待っているより遥かに嬉しいことだった。
それに、北山で暮らし始めて半月もしないうちに、花梨は相談相手を得ることが出来たのだ。それが、泰継の親代わりを自任している天狗であった。
天狗は、安倍晴明が先代の地の玄武、泰明を作る際に力を貸したのだという。だから泰継のことも、彼が人型を得る以前から知っていたらしい。泰継が安倍本家で暮らしていた間は親交がなかったようだが、彼が北山に庵を構えてからは時々庵を訪れて、朝まで話し込むこともあったという。つまり、天狗は最も泰継に近しい存在であったわけだ。
泰継のことを「息子のようなもの」と話していた天狗は、彼と結婚した花梨に対しても、まるで自分の娘のように接してくれた。だから、花梨は泰継との間に何か問題が起きる度に、天狗に相談するようになっていたのだ。
しかし、花梨が天狗に相談事をすることを泰継が嫌っていることに、花梨は気付いていた。それは、親の口出しを嫌う子供の反発心のようなものであって、彼が決して天狗を嫌っている訳ではないことも、花梨は理解していた。そのため、花梨が天狗に相談事を持ち掛けるのは、決まって泰継が仕事で庵を不在にしている時だった。
今朝、花梨が天狗を訪ねて来たのも、昨夜から泰継が安倍家から依頼された仕事の所為で遠出をしているからであった。
庵から更に奥へ入った場所に霊水を湛えた泉が在り、その辺に天狗松と呼ばれる奇妙な形に枝が曲がった松の木が生えている。早朝、天狗は大抵この松の枝に腰掛けて、泉から立ち上る霊気を全身に浴びているのだと、花梨は以前天狗から聞いていた。それで、今日は早起きをして、天狗松までやって来たのだ。
果たして、天狗松に向かって掛けられた花梨の声に、しわがれた声が応えを返した。
「どうしたのじゃ、神子? またあの朴念仁が、お主に何かしでかしたのかね?」
応えが返って来たことに安堵し、花梨はほっと息を吐いた。花梨には、天狗の声は聞こえても、その姿を見ることが出来ないからだ。
「ううん。そうじゃないです」
ふるふると首を横に振りながら、花梨は答えた。
「今日は、天狗さんに訊きたいことがあって……」
「儂に訊きたいこととは、何じゃね?」
泉の方を向いて松の枝に腰掛けていた天狗は、花梨が立っている山道の方に身体を向けながら訊ねた。
「泰継さんのことなんですけど――…」
そら来た、と心の中で声を上げ、天狗は顔を綻ばせた。
花梨が泰継と共に、かつて泰継が独りで暮らしていた庵に住み始めてから、天狗は幾度となく花梨から相談を受けていた。それらは大抵の場合相談と言うより質問で、泰継の好むものに関する事ばかりだった。「泰継の好きな食べ物は何か」とか「『淡香』以外に泰継が好きな色はないか」とか、直接本人に訊けば良いような質問ばかりだが、花梨曰く、泰継に訊ねても「特にない」という回答しか返って来ないらしい。
(全く……。あやつらしい答えじゃな……)
呆れを含んだ溜息を吐きながら、天狗はそう思う。
しかし、花梨の質問は、泰継の親代わりを自任している天狗にとっては嬉しいものだった。彼女の質問にはいつも、泰継を喜ばせたいという彼女の気持ちが表れていたから――。
そんな事を考えながら笑みを浮かべた天狗に気付かず、花梨は松の木を見上げたまま言葉を継いだ。
「泰継さんが欲しい物って、何だと思いますか?」
花梨の質問に、天狗は大きく目を見開いた。彼女の質問は、いつも唐突である。一瞬答えに詰まった天狗は、逆に花梨に問い返した。
「――何故、そんな事を知りたいと?」
「あのね…。もうすぐ泰継さんのお誕生日でしょう?」
予想外の花梨の返答に、天狗は益々目を瞠った。
確かに数日後に迫った重陽の節は、泰継が晴明の息子によって人型を与えられた日だと聞いている。しかし、泰継が人型を得た日と花梨が言う「泰継の欲しい物」に一体何の関係があるのか、天狗には想像が付かなかったのだ。
続く花梨の言葉は、天狗の疑問に答えるものだった。
「京では誕生日を祝う習慣がないのは解っているけど、どうしてもお祝いをしたくて……」
花梨の話では、花梨が生まれ育った世界では、家族や友人など、大切な人や親しい人物の生まれた日を祝う習慣があるのだと言う。
泰継の元に残った花梨が、なるべく京の生活習慣に従うように努力していることを、天狗は知っていた。彼女は、まだ龍神の神子として行動していた頃には短かった髪を伸ばし始め、動き易いからと毎日着ていた異世界の装束も、神子の務めを終えてからは唐櫃に仕舞い込み、動き難くて苦手だと言っていた京の装束を身に着けるようにしているのだ。
元の世界との訣別を意味する花梨の行動に、「無理しなくて良い」と言った泰継に対し、彼女は笑顔で
「これからは、京が私が生きて行く世界だから」
と答えたのだと、泰継から聞いている。
その彼女が「どうしても」と言うのだから、誕生日を祝うことが彼女の世界で如何に重要な習慣であるのか、天狗にも容易に理解出来た。
「私の世界では、誕生日のお祝いにプレゼントを贈ったり、皆でパーティーを開いたりするんです」
「ぷれぜんと…?」
花梨が口にした、京では耳慣れない言葉を、天狗は首を傾げながら呟いた。その呟きを聞いて、花梨は漸く自分が無意識に元の世界でしか使われない単語を口にしてしまったことに気付き、慌てて天狗に説明した。
「あっ、ごめんなさい。私の世界の言葉なんです。『プレゼント』というのは『贈り物』のことで、『パーティー』は『宴』のことなの」
「――なるほど。それで、泰継が欲しがる物を知りたい訳じゃな」
天狗の確認の言葉に、花梨はこくりと頷いた。
「何が良いのか随分考えたんだけど、良い考えが浮かばなくて……。泰継さんが何かを欲しがったりするのって、見たことがないし……」
出逢ってからもうすぐ一年、そして一緒に暮らし始めて約半年――。
その間、泰継が何か物を欲しがったということは、全くなかった。しかし、泰明が残した書付けのように、大切にしている物はあるようなので、物に対する執着心が全くないという訳ではないようだ。
(でも、とっても無欲な人だよね……)
泰継に何を贈れば良いのか悩んでいた花梨は、ふう、と小さく息を吐いた。もちろん彼のそういう部分も大好きではあるのだが、何も欲しがらない人への贈り物を選ぶ事ほど困る事はない。泰継から誕生日を聞き出してからずっと、花梨は何を贈るべきか悩み続けていたのだ。
本当は、彼の直衣を縫ってあげたいと思ったのだが、花梨にはまだ一人で直衣を縫い上げることは出来なかった。新年から泰継とこの庵に移って来るまでの三ヶ月間、引き続き紫姫の館に世話になり、紫姫や女房たちから京で暮らして行くために必要な様々な事を教えてもらったのだが、何分習い覚える事が多過ぎたのだ。
その後、泰継と北山で暮らし始めてからも、泰継が仕事のために山を下りる時は花梨も同行し、彼の仕事が終わるまで紫姫の館で時間を過ごしたので、引き続き直衣の縫い方も教えてもらっていたものの、まだ途中の段階であった。しかも、最近は体調が優れない日が多く、泰継が仕事の日も花梨は一人庵に残っていることが多かったので、教えてもらいながら進めていた直衣作りも、このところ殆ど進んでいないのだ。
その上、泰継に誕生日を聞き出したのはつい先日のことだったので、彼に知られないように作りかけの直衣を仕上げることは不可能だった。かと言って、代わりの物をと考えても、良い考えが浮かばない。
流石にタイムリミットが間近に迫って来たので、花梨は天狗を頼ることにしたのだった。自分より泰継との付き合いが遥かに長い天狗なら、何か知っているかも知れないと思って――…。
しかし、天狗から返って来た答えは、花梨が期待していたものではなかった。
「あやつ、今は欲するものなど、何もないのではないかのう」
「え〜〜? どうしてですかぁ?」
のほほんと呟かれた天狗の言葉に拍子抜けした花梨は、思わず不満の声を上げていた。
縋るような表情を浮かべて答えを待っていた顔が、忽ち非難めいた表情に変化する。軽く口を尖らせた表情が、なんとも可愛らしいと思い、天狗は我知らず微笑みを浮かべていた。
「それはな、神子。あやつは唯一つ欲しいと思ったものを、既に手に入れておるからじゃよ」
「『泰継さんが唯一つ欲しいと思ったもの』って?」
天狗の説明に合点がいかず、花梨が訊ねた。
(本当に、神子は何も解っていないのじゃな……)
小首を傾げながら考え込んでいる花梨を見つめながら、天狗は苦笑した。
花梨と出逢ったお陰で泰継にどれ程大きな変化があったか、彼との付き合いが長い天狗は、この一年間目の当たりにして来た。作られた存在から人となり、そして花梨と暮らすようになってからどんどん表情が増えて来た泰継を見て、ずっと彼を見守って来た天狗がどれ程喜んだことか――。
だが、当の本人は、自分が泰継に変化を齎したとは全く思っていないようだ。
――自分ではそうと気付かぬうちに、周囲の者に良い変化を齎すのは、龍神の神子の特性なのかも知れない。
百年前、この場所で会った、もう一人の龍神の神子のことを思い出した。彼女もまた、人ならぬ存在であった泰明に変化と幸福を齎したにも拘わらず、全くその自覚がなかったようだった。
今頃、神子の世界で幸せに暮らしているであろう泰明に思いを馳せ、天狗は顔を綻ばせた。その後、答えを待っている花梨に視線を戻した。
「――お主じゃよ」
「えっ!?」
天狗の答えを聞いた花梨は、思わず驚きの声を上げていた。緑色の大きな瞳が、瞬きするのも忘れたように大きく見開かれ、輝いている。それを見つめながら、天狗は続けた。
「泰継に欲しい物があるとすれば、神子、お主しかあるまい」
その言葉に、忽ち花梨の顔が真っ赤に染まった。
「じゃが、お主は既に泰継の妻――あやつのものじゃ。元来何かに執着するような奴ではないからの。唯一つだけ欲しいと思った神子を手に入れた以上、他に欲しい物などないじゃろうよ」
「で、でも!」
頼みの綱と思って天狗に相談したのに、「何もないだろう」との回答しか得られなかった花梨は、思わず声を上げていた。
重陽の節には仕事を入れないで欲しいと、花梨は前々から泰継に頼んでいた。泰継を驚かせたいと思い、誕生祝いをすることは彼には一言も言わずに、こっそりと準備をして来たのだ。
折角二人きりで過ごせる泰継の誕生日。もちろん気合を入れて手料理も作りたいとは思うが、やはり何か記念に残るような贈り物をして喜ばせたいと思う。もう時間も余りないことであるし、花梨としてはここで引き下がる訳にはいかないのだ。
「泰継を喜ばせたいのであれば、一日中傍にいてやれば良いのではないかの? それ以上にあやつが喜ぶことなどないと、儂は思うがのう」
「だってそれだと、泰継さんのお仕事がお休みの日と全然変わらな………」
「――ほう。泰継は幸せ者じゃなぁ」
知らず知らずのうちに、結果として天狗に惚気を聞かせていたことに気付き、慌てて話すのを止めた花梨の言葉に、天狗の声が重なった。真っ赤になった花梨は、とうとう俯いてしまった。だが、にやにやと笑いながら揶揄するような口調ではあったが、天狗の口調が明らかに嬉しそうなものだったことに、花梨は気が付いていた。
『お主にしか出来ない贈り物があるぞ』
花梨の後姿を見送りながら、天狗はさっき彼女に告げた自らの言葉を思い起こしていた。
花梨と話していて、天狗はふと彼女の気の変化に気が付いた。いつもの彼女のものとは少しだけ違う気を、花梨が纏っているように思ったのだ。
その事を花梨自身に話してみると、最近体調が優れないことが多いのだという。言われてみれば、今朝の彼女は貧血気味なのか、顔色が少し青白いように見えた。
更に詳しく彼女の気を探った天狗は、ある事実を知ることとなった。
それを花梨に告げると、彼女自身もその事実に驚愕したようだった。花梨の気の変化に敏い泰継も、その事に全く気付いていないようだという。
(あやつ……。さぞ驚くことじゃろうなぁ……)
泰継が知った時、あの無表情な顔に浮かぶであろう驚愕の表情を想像し、天狗は笑みを浮かべた。
花梨の姿が山道の向こうに消え、天狗は再び泉の方に視線を戻した。昇り始めた太陽の光が木漏れ日となって、水面に降り注いでいる。
その様子を眺めながら、天狗は八十年近く前、この場所で交わしたある約束を思い出していた。
神子が傍に在る限り、泰継は幸せでいられるだろう。現在の泰継には、以前のような不安定さはない。陰の気に偏りがちだった気も神子のお陰で調和し、安定したものとなっている。
(そろそろ、あれを渡す時期なのかも知れぬな……)
『泰継が泰明のように大切だと思えるものを得ることが出来た時、これを渡して欲しい――』
泰継が安倍の家を出ることになる直前、天狗はある人物からそのように頼まれていた。
(……儂もあやつに、『ぷれぜんと』とやらを贈ってやることにしようかの)
来たる重陽の節には、泰継と花梨が暮らす庵を訪ねてみようと、天狗は決意した。
◇ ◇ ◇
漆黒の闇が、何処までも続いている。
見渡す限りの闇の中に、泰継は一人立っていた。あまりの暗さに、自分が今足を着けている大地さえ、全く目に捉えることが出来なかった。――いや、大地と呼べるものが、この空間には無いのかも知れない。
(一体、此処は何処なのだろうか?)
印を結び、感覚を研ぎ澄まして周囲を探ってみても、人の気配が全く感じられなかった。それどころか、風の流れや水の匂いなども全く感じられないのだ。
どうやら、此処は現実の世界ではないらしい。
そう思った時、突然何かが動く気配がした。片手で印を結んだまま、気配がした方を振り返ると、そこにはいつの間にか一人の年老いた男が立っていた。漆黒の闇の世界で、彼の周囲だけがぼんやりとした光に包まれている。
その顔を確認した泰継は、大きく目を瞠った。無意識のうちに、結んでいた印を解いていた。
―――泰継……。
生前と変わらぬ声で自分の名を呼ぶ老人を、泰継は呆然と立ち尽くしたまま見つめていた。声を掛けようと僅かに開いた唇が、微かに震えた。
(――お師匠……)
震える唇は、やっとの事でその言葉を紡ぎ出した。自分が発した声が、何処か遠くの方で響いているように感じられる。
その老人は、紛れも無く泰継の師――安倍吉平であった。
稀代の陰陽師、安倍晴明の長子であり、弟、吉昌の力を借りて精髄のまま保管されていた泰継に人型を与え、陰陽道を教え込んだ人物である。
――亡くなって七十年以上になる師が、何故此処にいるのだろうか?
戸惑う泰継に、師なる人が告げた。
―――泰継……。大切なものを見つけよ――。
そなたが守りたいと思い、失いたくないと思うものを……。
その言葉を聞いた泰継の身体が、ぴくりと震えた。
それは、泰継が三ヶ月の眠りから目覚めるのと僅か数日の違いで此の世を去った師が自分に宛てて残した言葉だったと、師の最期に立ち会った安倍本家の者達から聞かされた言葉だったのだ。
人伝にしか聞けなかった最期の言葉を、今何故師が自分に伝えに来たのか解らなかった。
――私は、泰明のような完全な弟子にはなれなかったというのに……。
その事実に、師が落胆していたことを知っている。
泰継は小刻みに震え続ける手で、胸を押さえるように衣を掴んだ。
その様子を見つめていた吉平の表情が、柔らかなものへと変化した。まるで子を見守るような優しい笑みを浮かべ、吉平は言葉を継いだ。
―――それは、そなたを導く光となろう……。
(――お師匠。私は……)
師が残した言葉の通り、「大切なもの」を手に入れたことを伝えようとしたその時―――
目映い光が発せられ、師の身体は忽ちその光に包まれた。師の気配が遠ざかって行く。
(……っ! お師匠!!)
強い光に、泰継は手を翳して目を庇った。
まだ、伝えていない
大切なものを見つけたことを
泰明のように、人になれたことも
そして、陰の気の塊に過ぎなかった自分を、此の世に送り出してくれたことに対する感謝も
まだ、何一つ――…
(お師匠!!)
光が収まったことを感じて、翳していた手を退けた時には、既に師の姿はそこに無く――…。
暗闇の中に一人取り残された泰継の声だけが、虚しく響き渡った。
(――お師匠っ!!)
声を限りに叫んだ瞬間、はっとして目が覚めた。
最初に目に入ったのは、見慣れた庵の屋根裏だった。室内はまだ薄暗い。どうやらまだ夜が明け切っていないようだ。
(――夢…か……)
仰向けに横たわったまま、顔だけを横に向けると、隣には花梨が穏やかな寝息を立てている。
彼女の存在を確認し、泰継はふう、と小さく息を吐いた。
花梨が傍に居る。その事実が泰継を安堵させた。
彼女は、九十年もの歳月を要して漸く手に入れた、泰継の「大切なもの」であり、「守りたいもの」、そして「失いたくないもの」だった。
花梨を起こさないよう、泰継は静かに褥から起き上がった。衾を花梨の身体に掛け直すと、その枕元に座り、暫くの間よく眠っている妻の顔をじっと見つめていた。
最近体調が優れないとよく言っている花梨だが、薄闇の中でも分かる穏やかな寝顔からは、そのような様子は窺えない。彼女の気を探ってみても、いつも通り気は安定しているのだ。泰継には花梨の体調不良の原因が何であるのか、全く見当が付かなかった。心配になって訊ねてみても、いつもの明るい笑顔で「大丈夫!」との答えしか返って来ない。
確かに、ここ数日間、花梨の気は一点の翳りも見られず、むしろ目映いばかりに明るいものだったのだが――…。
泰継の口から小さな溜息が漏れる。
ここ数日の花梨の言動を一つ一つ思い起こして考えた結果、泰継が得た結論は、彼女が何か隠し事をしているらしいということだった。それが何であるかは解らないが、天狗が関係しているらしいことだけは解った。数日前、遠方での仕事を終えて庵に帰った時、留守中庵に残しておいた式神から、花梨が天狗に会いに行き、何か相談事をしたらしいとの報告を受けたからだ。
目を覚ます気配がない花梨に向けて手を伸ばした泰継は、花梨の頬に触れる直前、まるで熱湯に手を触れたかのように、急に手を引っ込めた。
――花梨は一体、天狗に何を相談したのだろう。
(私には、相談出来ぬということか……?)
――私では役に立てないから、天狗に会いに行ったのだろうか。
そう思う度、胸に湧き起こる焦燥にも似た気持ちを、この数日間泰継は持て余していた。何度も花梨に訊ねようとしたのだが、いつもなら口に出来る問い掛けが、楽しげな花梨の顔を見ると、何故か言葉となってくれないのだ。
――その不安が、滅多に夢を見ない自分に、あのような夢を見せたのだろうか……。
深い溜息を吐いた泰継は、静かに立ち上がり、部屋を出た。
戸を開けると、早朝の清冽な空気が肌を撫でた。
ちらりと花梨が眠る褥に目を遣った泰継は、彼女を起こさないよう音を立てずに戸を閉め、濡れ縁に出た。
外は薄明かりに包まれている。間もなく太陽が稜線から顔を覗かせるだろう。
立ったまま木々の間から僅かに見える空を見つめていた泰継は、やがてその場に腰を下ろした。身に纏った単を通して、濡れ縁からひんやりとした冷たさが伝わって来る。
長月に入り、朝晩めっきり冷え込むようになった。特に、京の町中より標高の高い北山では、秋が深まっていくのが早い。夏の間、青々と生い茂っていた庵の周りの木々も、色鮮やかに葉を赤く染めている。
(花梨と出逢ったのは、こんな季節だったな……)
そして、師が亡くなったのも――…。
何十年も見て来た、見慣れた風景を眺めてそんな事を考えた自分に、泰継は驚きを感じていた。
意識のある間に起きた事をすべて完全に記憶していた泰継にとって、記憶とは必要な時に引き出して使用する、蓄積された情報に過ぎなかった。このように、ただ目に映った景色を眺めながら過去の出来事を思い出すことなど、今までなかったことだったのだ。
これも、人になった所為なのだろうか。
(そう言えば、お師匠の夢を見たのは初めてだ……)
夢を見ること自体、滅多に無いことだったから。
と、その時―――
突然、肩に何かを掛けられるのを感じて、泰継は弾かれたように後ろを振り返った。視線の先にあったのは、つい先程まで褥の中で穏やかな寝息を立てていたはずの妻の姿――。
「花梨……」
珍しく驚きの表情を浮かべている夫の顔を見て、花梨は呆れたように言った。
「泰継さんったら。そんな格好で外に居たら身体を壊しますって、いつも言っているのに……」
泰継が振り返ったために肩から落ちかけた着物を掛け直しながら、花梨は溜息を吐いた。それが終わると、泰継の隣に腰を下ろした。
濡れ縁に膝を立てる形で座った花梨は、ちらりと泰継の方に目を遣った。泰継は既に顔を正面に向け、花梨が声を掛ける前と同様、見事に色付いた紅葉を見つめている。その端整な横顔に暫し見惚れていた花梨は、やがて自らも視線を前に向けた。
目の前には、一年前、彼と出逢った頃と同じ風景が在った。花梨は隣に座っている泰継と言葉を交わすこと無く、暫くの間その風景に見入っていた。遠くの方から、百舌鳥の甲高い鳴き声が聞こえて来る。
京に来て一年――。色んな事があったなあと思う。
目の前に広がる秋の景色に目を向けたまま、やがて花梨が口を開いた。
「もう、一年になるんですね……」
「ああ……」
花梨の言葉に、泰継が相槌を打った。それは、さっき泰継自身も考えていた事だったからだ。
「何が?」と問い返されることを覚悟して話し掛けたのに、泰継も自分と同じ事を考えていたらしい。それが、花梨には嬉しい。
ふふふと笑った花梨は、今日、目が覚めたら一番に言おうと思っていた言葉を泰継に告げることにした。
「あのね。私、今日は泰継さんに言いたい言葉があったの」
それを聞いた泰継が、首を傾げて「何だ?」と訊ねた。やはり、彼は気付いていないらしい。今日が自分の誕生日だという事を――。
訝しげな表情を浮かべている夫に、花梨は笑顔で告げた。
「泰継さん。お誕生日、おめでとう!」
突然の花梨の言葉に、琥珀色の瞳が大きく見開かれた。それを見た花梨は、
「今日は重陽の節――泰継さんが生まれた日なんでしょう?」
と、再び嬉しそうに笑った。誕生日を祝う習慣のない京で、泰継の誕生祝いをして彼を驚かせようと思っていたのだから、お祝いの一つ目は大成功である。
「本当は朝起きて直ぐ言いたかったのに、泰継さんったら、また単のままで外に居るんだもの」
――お陰で、お小言になっちゃった……。
そう言って、花梨はくすくすと笑った。
一頻り笑った後、訳が判らないと書いてあるような顔でこちらを見つめている泰継に、元の世界の習慣なのだと説明する。
「お前の世界では、生誕の日を祝うのか?」
訊ねる泰継に、花梨は頷いた。
「大切な人の誕生日にお祝いをするのは、私の世界ではとっても大事な行事なの。だから、京にそんな習慣がないのは知っていたけど、どうしてもやりたくて……」
泰継が気にするかも知れないと思ったから、元の世界のことはなるべく話さないようにしていたけれど、これだけはどうしても実行したいと花梨が思っていたのが、泰継の誕生日を祝うことだった。
「だから、今日は泰継さんが生まれて来てくれたことをお祝いしたいの」
それを聞いた泰継が、花梨に向けていた視線をすっと逸らせた。一瞬だったが、彼が僅かに顔を強張らせたことを、花梨は見逃さなかった。
「――泰継さん?」
「……………」
俯いた泰継は、花梨の呼び掛けにも気付いていないかのように、何事か考え込んでいる。
一瞬だけ硬い表情を見せた泰継。
――やはり、元の世界の習慣に従って誕生祝いをすることは、彼を傷付ける行為だったのだろうか。
泰継の元に残った時、これからは京の習慣に従うと決めたのに、泰継の誕生日だけはお祝いしたいと思ってしまったのは、自分勝手な我が儘だったのかも知れない――。そう考えた花梨は、泰継の気持ちも考えず、ここ数日浮かれていた自分が恥ずかしくなってしまった。
「ごめんなさい……」
膝に載せた手に目を落とし、小さな声で花梨が漏らした謝罪の言葉に、考え事をしていた泰継は弾かれたように顔を上げた。
「何故謝る?」
「え…だって……」
言い淀んだ花梨は、俯いたまま膝の上に載せた手をもじもじと動かした。その様子を見つめていた泰継は、花梨の謝罪の意味を悟った。
二人でこの庵で暮らすようになってから、花梨は龍神の神子だった頃に着ていた元の世界の装束を唐櫃に仕舞い込み、最近では出すことさえしなくなっていた。それに、以前は普通に話していた元の世界の話を、京に残ると決めてからは意図して避けているらしく、全く話さなくなってしまったのだ。
きっと、泰継が気にするかも知れないと思っているのだろう。だから、京にはない生誕の日を祝うという習慣を実行しようとしたことについて、彼女は謝罪しているのだ。
「――そうではない」
突然泰継が漏らした言葉に、今度は花梨が驚いて顔を上げた。
「ただ、今まで私が生まれて来たことを喜び、祝おうとした者などいなかったから……」
自分という存在が此の世に在ることを喜んだ人間が、今までいたとは思えない。だから、もし京に生誕の日を祝う習慣があったとしても、恐らく自分の誕生を祝う人間などいなかっただろう。
――私が、不完全な存在だったから……。
だから――…。
師の夢を見た所為だろうか。今朝はやたらと昔の事を思い出す。
口を閉ざし、再び前方の木々を見つめている泰継の横顔は、何処か苦しそうでもあり、淋しそうにも見えた。
今朝の泰継は、何処かいつもの彼とは違う――。
先程も、庵の周りの紅葉に目を遣ったまま物思いに耽っていたらしい泰継は、肩に着物を掛けられるまで、花梨の気配に全く気付いていない様子だった。気配に敏い彼が近付く花梨に気付かないなど、滅多に無い事だ。
――何かあったのだろうか……。
「――泰継さん。何かあったの?」
首を傾げ、顔を覗き込むようにして訊ねる花梨の視線を感じながらも、泰継はじっと紅葉を見つめたままだった。少し冷たさを含んだ風に煽られて、色付いた葉が舞い落ちて行くのが目に入る。地面に落ちるまでそれを目で追った後、泰継は徐に口を開いた。
「――お師匠の夢を見たのだ……」
「お師匠様…?」
そう言えば、泰継の口から彼の師については聞いたことがなかった。泰継と同じ出自だったという先代の地の玄武、泰明や、彼の師匠であった安倍晴明については以前から幾度となく話して来た泰継だが、彼自身の師について花梨に語ったことはなかったのだ。
鸚鵡返しに問い返す花梨に、泰継は彼女に自分の師について話したことがなかったことに気が付いた。師に関する話を避けていた訳ではなく、単に話題に上らなかっただけなのだが、やはり彼女には話しておくべきだろうと思う。
「安倍晴明の長子、吉平様だ。私に人型を与え、陰陽道を教えられた」
風に揺れる葉に目を遣ったまま、泰継が言う。
「じゃあ、泰明さんにとっての晴明さんが、泰継さんにとっての吉平さんになるんですね」
「そうだな……」
ぽつりと呟くように応えた泰継は、今まで花梨には詳しく話していなかった、自分が作られた経緯について話し始めた。