約束
秋が長く続き冬の訪れが遅かった昨年の反動なのか、今年の秋は暦よりも早く過ぎ去ろうとしている。紅葉は既に盛りを過ぎ、名残惜しげに未だ木々に残っている葉も、一足早く初冬の冷たさを含み始めた風に煽られ、次々と舞い落ち始めていた。
初雪の声はまだ聞こえてはいないが、京の町は急速に雪の季節へと向かっている。


そんな晩秋のある朝のこと、花梨は泰継から、行きたい場所があるので一緒に来て欲しいと告げられた。
突然の誘いに、花梨は驚いた。

(泰継さんから誘ってくれるのって、珍しいよね?)

思わず心の中で自分にそう問い掛けてみる。
これまでも、泰継の仕事が休みの日には、二人で京の町を散策することが多かった。しかし、町を見て歩きたいという花梨の希望を泰継が聞き入れて、というのが常であった。
それに、行き先を決めるのもいつも花梨の役目であり、今回のように泰継が行き先を指定することは滅多にない。そもそも、泰継が何かを望むこと自体、珍しい事なのだ。
滅多にない事だけに、泰継が自分に何かを望んでくれることが嬉しいと思う。
だから、驚きが過ぎ去った後、花梨の顔には笑みが浮かんでいた。
泰継と共に生きて行くため京に残った花梨にとって、彼と共に過ごせる時間は、何物にも代え難い大切なものだ。
花梨に否などあるはずもなく、泰継が行きたいという場所を二人で訪れることにしたのである。

ところが――。




「泰継さん、何処へ行くんですか?」
「ついて来れば分かる」

何度目かの問い掛けに、また同じ答えしかもらえなかった花梨は、小さく溜息を吐いた。
二人が暮らす屋敷は京の町の東寄りに在り、屋敷を出て東の方角に少し歩くと、間もなく鴨川に出る。京の町の東限である鴨川を渡り、そのまま東に歩を進めていることから、泰継が行きたいと言う場所が東の方角に在るらしいということは、花梨にも推測することが出来た。
しかし、京で暮らし始めて一年と少ししか経っていない花梨には、その場所が何処であるのか特定することは難しい。泰継が向かっている先は洛外であるらしいから、尚更だ。
だから、屋敷を出てから何度か泰継に行き先を訊ねてみたのだが、何度訊ねてみても教える気がないのか、泰継は同じ返答を繰り返すだけだった。
花梨の質問にはいつも即答してくれる泰継が、こういう態度を取ることは珍しい。
気にはなるが、恐らくこの後何度問い掛けても結果は同じだろう。泰継が意外と頑固な一面を持っていることを、花梨は知っていた。

(一体、何処へ行くつもりなんだろう?)

花梨は、真っ直ぐに前を見据えたまま歩を進める泰継の横顔を見上げた。
一見、いつも通りの無表情のように見えるが、泰継の表情の変化に敏感な花梨には、彼が花梨と共にその場所を訪れることを楽しみにしていたらしいことが見て取れた。
花梨と心を通わせるようになって以来、柔らかな表情を見せることが多くなった泰継だが、彼の感情が最も表れるのが瞳であることは、出逢った頃から変わらない。その琥珀色の瞳がいつもより輝きを増しているのだから、彼がこの外出を心待ちにしていたらしいことは確かなようだ。
それに、いつもならば花梨の歩調に合わせてゆったりとした速度で歩いてくれるのに、今日の彼は花梨が置いて行かれそうになるくらい早足なのである。花梨の息が上がっていることに気付いて歩みを緩めてくれはするものの、いつの間にかまた彼本来の速い歩調に戻っている。それは、屋敷を出てから既に何度も繰り返されていた。
――余程行きたかった場所なのだろう。
いつもと違う泰継の様子から、花梨はそう結論付けた。

(そう言えば、最近お仕事が忙しかったものね)

花梨は泰継の横顔に向けていた視線を足元に落とした。
思い返してみれば、こうして泰継と二人で出掛けるのは一月ぶりである。春から勤め始めた陰陽寮の仕事の他、ここしばらく泰継の元には安倍家から次々と仕事の依頼が舞い込んでおり、なかなか休みを取ることが出来なかったからだ。
花梨と共に暮らすため、北山から洛中に生活基盤を移した泰継は、当代一の陰陽師として多忙な毎日を送っている。そのため同じ屋敷に暮らしながら、八葉として花梨の傍に在った頃よりも、共に過ごせる時間が減っていた。
だからこそ、彼と共に過ごせる時間は僅かな時間でも大切にしたいと、花梨は思っている。
二人で過ごせる時間が大切なだけだから、この際行き先が何処であるかは問題ではない。
それに、滅多に自分の望みを口にしない泰継が一緒に行きたいと告げた場所なのだから、それが何処であれ、花梨がその場所を厭うはずがない。
そう考え直した花梨は、これ以上行き先を問うのを止めることにした。

そんな事を考えているうちに、ふと気が付くと、泰継はまた花梨の数歩先を歩いている。
つい先程まで並んで歩いていたはずなのに、花梨が考え事をしている間に、また彼の歩みが速くなっていたようだ。
その様子に笑みを誘われた花梨は、前を行く泰継に聞こえないよう小さく笑うと、見慣れた背中に声を掛けた。

「泰継さん、待って下さい!」

驚いた様子で足を止めて振り返った泰継に小走りで近付くと、花梨は彼の袖を引いた。

「今日は一日お休みなのでしょう? ゆっくり行きませんか?」

花梨の言葉を聞いて、泰継は目を瞠る。
逸る気持ちを抑えきれず、同道している花梨のことを顧みる余裕すらなかった自分に気付き、泰継は思わず苦笑を浮かべていた。
そもそも花梨と一緒に行きたい場所なのだから、花梨を置いて独りで行ったところで意味がないのだ。

「そうだな……」

苦笑を微笑に変えた泰継は、花梨の手を取ると、花梨に合わせてゆったりとした速度で歩き始めた。







鴨川の東側、寺院や貴族の別荘などが建ち並ぶ地域を抜けると、やがて人通りの少ない山道へと入って行く。そのまま山を登って行けば、その先にあるのは畿内と東国を隔てる関所である。
泰継がその山道を登り始めたところで、花梨はようやく彼が自分を連れて行こうとしている場所が何処なのか見当が付いた。
何故ならこの道は、龍神の神子として八葉達と京の町を巡っていた頃、何度か通ったことがある道だったからだ。

「泰継さん」

花梨は隣を歩く泰継に呼び掛けた。
名を呼ばれ、真っ直ぐに前方を見据えていた泰継が、傍らの花梨に視線を落とす。
その視線を受け止めると、花梨は続けて言った。

「泰継さんが行きたかった場所って、逢坂山だったの?」
「そうだ」

質問というより確認のために発せられた問い掛けに小さく頷くと、泰継は僅かに口元を緩めた。

「どうして逢坂山に?」

泰継の顔を覗き込むように小首を傾げ、再度花梨が問う。
逢坂山には東の札を手に入れる時何度か訪れたことがあるが、いずれも供に付いていたのは青龍の加護を受ける八葉である頼忠と勝真の二人だった。泰継と一緒に来たことはなかったので、彼が何故逢坂山を自分と共に訪れようとしたのか、花梨には皆目見当が付かなかった。泰継が行き先に山を選ぶなら、船岡山か北山を選ぶような気がしたからだ。
だから再び問い掛けてみたのだが、泰継は一瞬怪訝そうに眉を顰めた後、

「ついて来れば、分かる」

と、彼にしては珍しく、目的地に着くまでは教えてやらないという僅かに意地悪さを含んだ笑みを見せ、ここまでの道程で何度も繰り返した言葉を花梨に返しただけだった。
そんな泰継の態度にどことなく楽しげな雰囲気を感じ取り、口元を綻ばせた花梨は、それ以上問うことはせず、黙って泰継について行くことにした。







逢坂山は東国と京の間を行き来する際の交通の要所であり、人の往来がそれなりにあるせいか、同じ山道でも泰継の庵が在る北山とは違い、比較的歩き易くなっている。
それでも履き慣れない草履を履いた花梨は、時々足元を確かめながら山道を登った。京に残ってからは、余程のことがない限り、元の世界の物は身に着けないようにしていたのだ。
上り坂の少し先まで見渡し、つまずきそうな石などがないのを確認した後、ふと空を見上げると、木々の間から小春日和らしい穏やかな青空が広がっているのが見えて、花梨は眩しそうに目を細めた。
ここ数日の肌寒さが嘘のように、日差しが暖かく、吹く風も心地良い。
まさに絶好の外出日和である。

(一年前、初めてここに来た頃は、まさか京に残ることになるなんて、思いもしなかったな……)

龍神の神子として八葉達と京の町を巡った日々に思いを馳せると、花梨の顔は自然と綻ぶ。
あの頃には既に自覚していた泰継への想い。
だが、この恋が叶うことなどあり得ない――そう思い込んでいた。
それに、仮に泰継への恋が叶ったとしても、京に残ることを龍神が許すとは、到底思えなかった。
しかし、叶わぬ夢と諦めかけていた願いはすべて叶い、一年経った現在も花梨は京に――泰継と共にいる。
昨年頼忠と勝真と共に登ったこの道を、今年は泰継と共に登っているなんて、あの頃想像出来ただろうか。

胸に温かいものが満ちてくるのを感じた花梨は、無意識のうちに泰継と繋いだ手に力を込めていた。
間髪を容れず手を握り返されるのを感じ、視線を隣に向けると、泰継が眩しいものを見るように目を細めて見下ろしている。その瞳には、口数の少ない彼が滅多に言葉には表さない、深く静かな愛情が溢れているように見えた。
出逢った頃とは違い、泰継は柔らかな表情を見せることが多くなったと花梨は思う。
彼にそうさせたのが自分との出逢いであれば、嬉しい。
こうして泰継の隣にいることに、そしてこれからもずっと彼と共に歩んで行けることに、花梨自身も幸せを感じていたからだ。
泰継に応えるように、花梨は繋いだ手を握り返した。



そうして二人は手を繋いだまま山を登っていたのだが、あと少し登れば逢坂の関という所まで来た時、突然泰継が立ち止まった。

「――着いた。ここだ」

彼が足を止めたのは、関所へと続く山道の真ん中であった。道端に人が腰掛けるのに丁度良さそうな岩がある他には何もない。
しかし、その岩に見覚えのあった花梨は、大きく目を見開いた。

(ここは……。この岩は、あの時の……?)

花梨の脳裏に一年前の出来事が甦った。


昨秋のある日、一人で外出した花梨は町中で泰継を見かけ、後を追いかけたことがあった。
泰継に用があったわけではない。ただ、彼が何をしているのか気になっただけだった。
しかし、すぐに追い付けると思ったのに、泰継は花梨が思っていた以上に歩くのが速く、なかなか追い付くことが出来なかった。
途中で彼の姿を見失ってしまったが、花梨は諦めなかった。人々の噂を頼りに彼を追いかけて祇園社、宇治橋と移動し、最後に辿り着いたのがこの逢坂山だった。
そして、歩き疲れた花梨は道端に在ったこの岩に腰掛けて休んでいたところを山賊に襲われ、危ういところを泰継に助けられたのである。
もっとも、山賊から花梨を助けた泰継も、その日京の町のあちらこちらで花梨が見かけた泰継も、すべて白虎を呪詛している源を探すために彼が放った式神だったらしいのだが。

(あの後、神泉苑でやっと泰継さんに会えて、すごく嬉しい気持ちになったっけ)

手の届く場所に彼がいることが、ただ嬉しくて――。
はやる気持ちを抑えきれず、朝からの出来事を泰継に話していた。
その時、何故か胸が熱くなるのを感じた。

あの日、あんなに一生懸命泰継を追いかけた理由が、今ならわかる。
やっと会えた時、いつもと全く変わらない彼を見て、何故あんなに嬉しく思ったのかも。
――すべて、泰継に対していつの間にか抱くようになっていた想いによるものだったのだ。

(そうだ。私はいつも泰継さんの姿を追いかけてた……)

まだ、自分の中にあるこの想いに気付いていなかった頃からずっと――。

あの時と同じように胸が熱くなるのを感じて、花梨は泰継を振り返った。
泰継は優しい表情を浮かべ、花梨を見つめていた。
その表情を見て微笑み返そうとした花梨の耳に、ふと泰継があの日、神泉苑で告げた言葉が甦った。


『――わかった。約束だ。いつか共に行こう……』


はっと目を見開いた花梨は、再び道端の岩に目を遣った。そのまま岩に歩み寄る。
そして、岩の向こうに広がる光景を見て取り、花梨は思わず息を呑んだ。
そこに在ったのは、一年前と変わらぬ、鮮やかな黄色の絨毯を敷き詰めたかのような石蕗の花畑だったのだ。

「あ……」

口元に手を遣った花梨は、思わず溜息のような小さな声を漏らしていた。



――泰継が何故、自分と一緒に逢坂山に来たいと言ったのか、その理由がやっと分かった――。



『泰継さんと、一緒に見たかったです……』

一年前のあの日、勇気を振り絞って泰継に告げた、花梨の願い。
それは、逢坂山で目を奪われた石蕗の花畑を泰継と一緒に見てみたい――というものだった。
おずおずと花梨が口にした願いに対し、彼はいつか一緒に行こうと約束してくれた。
ところが、その後京を守るための戦いはますます激しさを増し、のんびりと花見に出掛ける時間など作れなかった。そうこうするうちに、石蕗の花の時期が過ぎてしまったのである。
暫くの間は花梨もせっかく取り付けた約束を実現できなかったことを残念に思ったりしていたのだが、龍神の神子の務めを終え、泰継の元に残ることになって、慌しく日々を過ごすうちにその記憶は薄れてしまい、思い出すこともなくなっていた。
しかし、泰継はあの時の約束を忘れず、今日、果たしてくれようとしたのだ。



「昨日式を放って確認したのだが、そろそろ見頃のようだったのでな」

ゆったりとした足取りで歩み寄りながら、泰継が言う。
石蕗を見つめたまま声も出せずにいた花梨は、泰継が自分の傍らで立ち止まる気配を感じ、顔を上げた。
泰継の顔を仰ぎ見ると、彼は今花梨がしていたのと同じように、群生する石蕗に視線を向けている。その口元には微かに笑みが刻まれていた。

「覚えていてくれたんですか? あの時の約束を……」
「私が、お前との約束を忘れるはずがあるまい」

優しい笑みを浮かべてそう告げる泰継に、花梨もまた笑顔で応える。

「泰継さん、ありがとう……」

微かに声が震え、目頭が熱くなる。
嬉しくて、嬉しくて……。
嬉しさで胸が一杯になるというのは、こういう状態のことを言うのだろう。





少し目を潤ませた花梨を見て、泰継は彼女もまた、一年前に交わした約束を果たせたことを嬉しく思っていることを確認した。

(ならば、良い。)

花梨との約束をこの一年間ずっと忘れずにいたのは、泰継がかつて持っていた、起きている間の出来事をすべて記憶しているという、人ではあり得ない力がその理由ではないことに、泰継は気付いていた。
この季節、花梨と共に逢坂山を訪れようと思ったのは――…

(お前の見る風景を、私も一緒に見たい。――そう願ってしまったのだ……)

心の中だけでそう呟くと、泰継は目を閉じ、花梨と出逢ってからのことを思った。


人ならざるものとして存在したあの頃から、花梨の願いを叶えることが、泰継の望みであった。
しかし、一年前のあの日、泰継自身も願ってしまったのだ。
花梨が一緒に見たいと言った、この逢坂山の石蕗の花だけではなく、彼女の目に映る風景のすべてを彼女と共に見ていたい。
――ずっと、花梨と共に在りたい、と――。


視線を感じて泰継が閉じていた目を開き、隣に視線を向けると、花梨がじっと見つめていた。
彼が自分の方を向くのを待っていたらしく、視線が合うと、花梨はすぐさま口を開いた。


「――これから、毎年此処に、石蕗の花を見に来ませんか?」


花梨のその言葉に、泰継が目を見開く。


「私、泰継さんと一緒に、色んな風景を見て行きたいんです。これからも、ずっと――…」


春は御室の桜や松尾大社の山吹
夏は神楽岡の藤の花や水辺に集まる蛍
秋は神護寺や嵐山の紅葉
そして、冬は逢坂山の石蕗や京の町の雪景色――。


移り行く季節を感じられる京の風景や四季折々の花々を、二人で一緒に見たいのだと、花梨は告げる。

その言葉に込められた花梨の願いを、泰継は感じ取った。
それは、泰継自身の願いでもある。


春夏秋冬、様々な風景を共に見ること――。
――それは、将来を共に生きるという、約束に他ならないから……。


泰継は、花梨の肩を抱き寄せ、告げた。


「ああ、約束だ。来年も、再来年も、二人で此処に来よう」


二人はどちらからともなく、目の前に群生する石蕗に視線を向けた。
来年も、再来年も、これからもずっと、こうして花を咲かせてくれるよう、石蕗の花に願いながら……。







〜了〜


あ と が き
オンラインノベル「遙かなる時空の中で2〜龍神絵巻〜」の泰継さんの3つ目の恋愛シナリオ「京巡り」を基にしたお話です。
「京巡り」は、オンラインノベルのシナリオの中で私が最も好きで、何度も読み返したお話でした。一時期、ビューアーを開くたびに読んでいたくらいです(笑)。
初めてこのシナリオを読んだ時、「きっと次の泰継さんのシナリオで『一緒に石蕗を見に行く』という約束が果たされるのだろうな」と思いました。ところが当時の事をご存知の方にはご承知の通り、泰継さんの4つ目のシナリオはなかなか配信されず、やっと配信されたのは最終回の前々回だったのです。その頃には本筋の方が佳境に入っており、とても逢坂山デートができる状態ではなかったのですよね。当然、石蕗を見に行くという約束は果たされず……。継花が大好きな私にはそれが非常に残念で、不満に思っていました。
「それなら自分で作ってしまえ」と思って書き始めたのが、このお話です。完成までえらく時間がかかってしまいましたが、あの頃私と同じく「約束が果たされなくて残念だ」と思った方に、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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