所有格
「あれ、シリン?」

松尾大社で舞を奉納し終え、本殿を出たところで声を掛けて来た人物を見て、シリンは目を瞠った。
何故なら、その人物は今現在京にいるはずのない人物だったからだ。
その人物――高倉花梨は、シリンの姿を見て一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに笑みを浮かべてこちらに駆け寄って来た。
無邪気なその様子にシリンは驚いた。
花梨が龍神の神子としてこの京に滞在していた間、シリンはずっと彼女の敵であったからだ。

「あんた、こんなところで何してるのさ。自分の世界に戻ったんじゃなかったのかい?」
「うん。そうなんだけど……」

昨年の大晦日――。
神泉苑で龍神を喚び、百鬼夜行から京の町を救った花梨は、恋仲になった八葉の一人と共に、元の世界に帰ったはずだった。
それが、何故この松尾大社に現れたのか。
(大方、また人使いの荒い龍神にでも呼ばれたんだろうがねぇ……)
そう推測したシリンだったが、わざと茶化したような口振りで言ってみる。

「おやまあ、たった二か月余りで、もう自分の世界を追い出されて来たのかい」
「そ、そんなんじゃないよ! ちょっと事情があって……」

慌てたように花梨が応えた。
自分の言葉を真に受けた様子で言い訳する花梨を見て、シリンは笑いを誘われた。

「フフ、冗談だよ。どうせ、また龍神にでも呼ばれたんだろ? ご苦労なことだねぇ」
「えっ、どうして分かったの?」

驚いたように答える花梨を見て、シリンは呆れたように言った。

「元の世界に帰ったはずのあんたが京に現れたってことは、龍神が呼んだという以外の理由なんて考えられないだろ?」

百鬼夜行により滅びようとしていた京は、龍神の神子と八葉に救われ、無事新年を迎えることが出来たのだ。それなのに、救われたはずの京に花梨が現れたということは、再び神子の力を必要とする事態が起きたと龍神が判断したということだ。
神子の力を必要とする事態――。
それは……。

シリンはちらりと道端に視線を遣った。
人々が通る参道の真ん中は既に雪が融け地面が見えているが、端の方は未だ雪が融けずに残ったままだ。
既に弥生――。暦の上では春真っ只中である。この時期の京に雪が残っていることは珍しいと言えた。

(まあ、確かにもう弥生になるというのに、雪がまだ残っている。それに例年ならもう咲いていてもおかしくない花が、まだ咲く気配もない。ちょうど、昨年の長い秋と同じ状態だしねぇ。龍神が神子を呼んだとしてもおかしくはないかもしれないね)

心の中でそう推測したシリンだったが、花梨にはそれを告げることなく、話の向きを少しだけ変えた。花梨の反応が面白かったので、もう少しからかってやろうという悪戯な考えが湧いて来たのだ。

「――それとも、お前の地の玄武と喧嘩でもして、一人で自分の世界を飛び出して来ちまったのかい?」
「えっ!? そんなこと、あるわけないじゃない!」

焦ったように花梨が反論する。

(そんなにムキにならなくたって、お前とお前の地の玄武の仲が良いことくらい、誰だって知ってるよ)

まだ想いが通じ合う以前から、周囲の者達がうんざりするくらい仲睦まじい様子を見せつけていたのに、こんなからかいに本気になるなんて――。
そう思ったシリンだったが、ふと花梨の様子がおかしいことに気が付いた。
シリンのからかいに反論した後、花梨は何かに気付いたかのように一瞬目を瞠った後、顔を紅潮させて百面相をしているのだ。

(な、何なんだい、一体!?)

明らかに挙動不審な花梨を前に、シリンは困惑したが、僅かに眉を顰めただけで、それをあからさまに面に出すことはなかった。内心はどうあれ、余裕の態度を崩さず相手に対することで優位を保つことは、長きにわたる人と鬼との抗争の中で学んだことだった。戦いが終わった現在、そうすることに意味はないのだが、相手が元・龍神の神子であるだけに、つい癖が出てしまったのである。
しかし、花梨が何故突然妙な振る舞いをし始めたのか分からない。龍神の神子として行動し、敵対していた頃から、花梨はシリンには理解しがたい行動をとることがよくあったが、それは彼女が異世界の人間であるからだと思っていた。何故なら、百年前に花梨と同様、異世界から召喚された神子も、そうだったからだ。

花梨が顔を真っ赤にした理由は、実はシリンの言葉にあったことを、当の本人は知る由もなかった。





『――それとも、お前の地の玄武と喧嘩でもして、自分の世界を飛び出して来ちまったのかい?』


花梨の頭の中では、シリンの言葉がぐるぐると回るように繰り返し響いていた。正確に言うならば、その中のたった一つの単語だ。

――『お前の地の玄武』……。
――『お前の地の玄武』……。

(お……、“お前の”って……)

所有を示すその言葉に、花梨の胸は高鳴り、忽ちの内に頬が熱を持ち紅潮する。

『私はお前のものだ』

確かに泰継からは何度もそう告白されているが、他の人間からそう言われると、気恥ずかしい思いがする。泰継と恋人同士になったことを他人からも認められたのだと、改めて実感してしまうからだ。
しかし、それと同時に嬉しいという気持ちが湧き上がるのも事実だった。

(で、でも、恋人になったからと言って泰継さんは別に私の所有物ってわけじゃ…。そりゃ、私の恋人なんだから他の誰にも取られたくないし、私は泰継さんだけのものだって思っていたりするけど……)

そこまで考えた花梨は、紅潮した頬に手を遣った。今自分が考えていたことが非常に恥ずかしいものだと自覚したのだ。

(私ってば、何考えてるの〜〜っ!!)

シリンの言葉を聞いて感じた気恥ずかしさと嬉しさが合わさり、恥ずかしがり屋の花梨の思考は忽ちショートする。
そんな自分が目の前のシリンの目にどう映っているかなど、既に考えが及ばなくなっていた。


シリンが『お前の地の玄武』と、八葉としての泰継の属性を示す“地の玄武”という言葉だけではなく、わざわざ“お前の”という所有を示す言葉を付けたのには理由があった。
シリンが知る地の玄武は二人いたからだ。
百年前の龍神の神子の地の玄武であった安倍泰明と、花梨の地の玄武であった泰継である。
だから、シリンとしては泰明と区別するために、“お前の”という言葉を付けただけに過ぎない。
しかし、花梨はシリンが先代の神子と泰明を知っていることを知らなかった。アクラムが百年前からやって来た鬼の首領だということは、アクラム本人から聞いてはいたのだが、シリンのことにまで考えが及ばなかったのだ。
その結果、シリンの意図は花梨には正確には伝わらず、シリンが発した“お前の”という言葉を別の意味に取った花梨は、頬を真っ赤に染めて見るからに怪しげな態度をシリンに見せることとなってしまったのである。


「――それであんた、松尾大社に何しに来たのさ」

花梨の百面相を暫くの間呆然と見ていたシリンは、このままでは埒が明かぬと思い、気を取り直して問い掛けた。
龍神の力が最も及ぶ場所は神泉苑である。花梨が再び龍神に召喚されたとすれば、神泉苑に降り立つ可能性が最も高いとシリンは考えた。実際、彼女も百年前の神子も、神泉苑から元の世界に帰ったと噂に聞いている。
だとすれば、花梨は何か用があってこの松尾大社までやって来たということだ。

(第一、この娘がまた京に召喚されるのを、あの地の玄武が黙って見ていたはずはないだろうしねぇ……)

泰継の顔を思い浮かべながら、シリンは思う。
あの、いつも涼しい表情をした美貌の陰陽師は、京を捨て、異世界までついて行くほど、この娘にべた惚れなのだ。そんな彼が、花梨が独りで京に召喚されるのを見過ごすはずがない。どういうわけか、他の八葉達も彼女のことを憎からず想っていたようだから、尚更恋人を独りで京に寄越すことは有り得ない。恐らく、龍神を脅してでも、彼女と共にこちらに来ているはずだろう。
それなのに花梨が独りで行動していることを、シリンは訝しく思った。
そんなシリンの疑問は、シリンの問い掛けに我に返った花梨の答えにより解消された。

「そ、そうだった! シリン、泰継さんを見なかった?」

――やはり、地の玄武も京に帰って来ているらしい。
予想通りの展開に、シリンはフッと笑い声を漏らした。

(全く、こんな小娘のどこが良いのか……。そう言えば、前の地の玄武もそうだったねぇ)

泰継と瓜二つの先代の地の玄武、泰明も、先代の神子と想い合っていた。花梨と同じくらいの年齢だったと思われる先代の神子も、シリンから見れば小娘だ。
――安倍家の陰陽師の女の趣味は、どうも理解しがたい。
不意に、泉殿で泰継を色仕掛けで籠絡しようとして失敗したことを思い出し、シリンは顔を顰めた。だがそれは一瞬のことで、再び余裕の笑みを浮かべ直す。
――あの陰陽師達、いや、八葉達に、女を見る目がないのだ。自分のような良い女に靡かないなど……。
そう納得すると、シリンは漸く花梨の問いに答えた。

「おあいにくさま、あたしは見てないよ。――で? お前の地の玄武が此処に来るっていうのかい?」

(あまり顔を合わせたい相手ではないね。用も済んだし、早々に此処を立ち去るとしようか)

シリンがそんな事を考えている間に、花梨はまた驚いたように目を見開いていた。真っ赤になった顔はまだ赤みが引かないどころか、益々赤みを増している。
ここに至り、シリンは漸く花梨が突然挙動不審に陥った理由に思い至った。
どうやら、花梨はシリンが口にした「お前の」という修飾語に反応しているらしい。シリンが意図した意味とは違う意味にとって誤解していることは、花梨の態度からも明らかだった。

(全く……。そんなことでこんなに真っ赤になれるとはねぇ。龍神の神子ってのは、相変わらず理解できないね)

まじまじと花梨の顔を見つめると、シリンは呆れたように溜息を吐いた。
それに気付いた花梨が漸くこうしている場合ではないことに気付く。

「えっと…。確実じゃないんだけど、深苑くんから『洛西にあるお社にいる』って言われて……」
「洛西に社なんていくらでもあるじゃないか! なんでもっとちゃんと聞かないのさ!」

要領を得ない花梨の返答に、苛立ちも露わにシリンが言った。
花梨は突然苛立った言葉を発したシリンに驚き、肩をびくりと揺らせた。しかし、直ぐにシリンの言うことはもっともだと思い直した。それに、シリンの言葉から、かつては敵だった自分の問いに真剣に答えてくれようとしていることが分かり、嬉しく思ったのだ。
花梨は改めて再び京に召喚されてから此処に来るまでの出来事を、シリンに説明することにした。

「それはそうなんだけど、深苑くんにも具体的な場所は分からなかったらしくて……」

花梨の言葉を聞いて、シリンは片眉を上げた。どうやら花梨は既に星の一族と接触したらしい。
花梨の話によると、龍神に召喚されて神泉苑に降り立った時、深苑が出迎えたのだという。深苑もまた京の気に導かれ、神泉苑にやって来たのだ。再び召喚された龍神の神子に事情を説明し、今一度力を借りるために。
深苑が告げた花梨が再び召喚された理由は、先程シリンが推測した通りだった。つまり、暦の上では既に春であるにもかかわらず京に春がやって来ないため、暦通りの季節がやって来るよう京の気の巡りを正せ、ということだ。龍神の神子の務めとして、昨年花梨が行ったように。
その方法として、深苑は花梨に「春の訪れを告げる花を見つけなくてはならない」と話したのだという。
手掛かりとなるのは、花梨が現れるのを感じた時に深苑が垣間見た光景――。
――洛西の社に咲く、日を受けて輝く黄金の花――。
それを、花梨は見つけなくてはならないのだ。

「泰継さんは私より先に深苑くんに会ったらしくて。深苑くんは同じ話を泰継さんにしたって言っていたから……」
「だから、洛西の社のどこかに地の玄武がいるっていうことかい」

花梨の言葉をシリンが引き継ぐと、花梨は頷くことでシリンの言葉を肯定した。
深苑が垣間見たという漠然とした光景だけが手掛かりなのであれば、場所が特定できないというのも合点がいった。洛西に在る社と判っただけでも上等と言うべきなのだろう。
シリンは首を傾げて少し考えた後、再び口を開いた。

「そうだねぇ。洛西の社というと、此処以外だと野宮か蚕ノ社あたりだろうね。――とはいうものの、野宮は今日は立入禁止らしいからね。残るは蚕ノ社じゃないかい?」
「蚕ノ社か……。ありがとう。行ってみるよ」

松尾大社から蚕ノ社までの道筋を思い出しながら、花梨は答えた。
泰継が向かった場所が推測できると、今度は何故シリンが松尾大社にいるのか気になって来た。シリンが神社に参拝しに来たようには見えなかったからだ。

「ところで、シリンは此処で何をしているの?」
「お前には関係ないよ…と言いたいところだけど、隠すほどのことじゃないしね。話してやるよ」

そう前置きすると、シリンは艶然と微笑みながら松尾大社に来た理由を答えた。

「此処には、舞を奉納しに来たんだよ」
「え…、舞?」
「断られるかと思ったけど、許されてね。さっき、内々で納めてきたのさ」

昨年シリンが犯した罪は、花梨や八葉であった東宮の口添えもあり、千歳や和仁、時朝と同様に既に許され、今も京の町の片隅で静かに暮らしている。
最初の内こそアクラムを失ったが故の絶望感に打ちひしがれていたが、それでも月日は流れて行く。時の流れが心に負った傷を癒してくれたのか、今では何か物足りないと思うくらいに穏やかな毎日だ。
そんな毎日を送るうちに、次第に自分に出来ることをしようと思う気持ちが湧いて来たのである。罪滅ぼしをしているつもりはないが、何かしたいと思ったのだ。
そうして思い付いたのが、かつて千歳が怨霊を置いた神社に舞を奉納することだった。
しかし、神社側がそれを許してくれるかどうかは分からなかった。シリンが院と帝に取り入り、京の町を混乱に陥れた白拍子であることは、広く京の民に知られていたからだ。
――断られても構わない。言うだけ言ってみよう。
そう決意して、今日、松尾大社にやって来たのだが、シリンの予想に反し、宮司は舞の奉納を許可してくれた。
ただそれだけのことなのに、今まで感じたことのない胸の奥が温かくなるような、不思議な感情を抱いた自分に驚いた。その思いを抱いたまま、心を込めて舞ったつもりだ。
それが伝わったのか、宮司から「良かったらまた舞を奉納しに来てくれ」と言われた。
それで、かつて怨霊が置かれた地を順に巡った後、また来ることを約束したのである。
まったく、自分らしくない――そう思いつつ……。

「すごいね。私も見たかったな」

無邪気な花梨の声が、シリンの物思いを中断する。
我に返り花梨の方を見ると、好奇心旺盛な瞳がこちらを見ていた。
あまりに無邪気なその様子に、シリンはからかってやりたくなり、わざと意地悪な言い方をした。

「あたしの舞は高いよ。お前なんかには勿体無くて見せられないね」
「え〜〜っ!? ずるいよ!」
「なんてね。冗談だよ。――それより、そろそろ蚕ノ社に向かった方が良いんじゃないのかい? 早く行かないと、行き違いになるかもしれないよ」
「あっ、そうだね。もう行くよ。――ありがとう、シリン。またね!」

笑顔でそう言うと、花梨は踵を返して駆けだした。
その背中を見送り、シリンは呆れたように嘆息した。

「『またね』って……。龍神の用が済んだら、あんたはまた自分の世界に帰るんだろ? あんたの地の玄武と一緒にさ」

そうなったらもう会うこともあるまいに、明日また会えるような気軽さで別れの挨拶をした花梨にシリンは驚いた。

(あの前向きさが龍神の神子の資質なのかもしれないね)

何故だか分からないが、笑いが込み上げて来る。
含み笑いを漏らしたシリンは、やがて空を見上げた。
先日までとは打って変わり冷たさの緩んだ風が、肌を撫でるように吹き抜けて行く。
「春の訪れを告げる花を見つけなければならない」と深苑は言ったそうだが、この分では春は間もなく訪れることだろう。
恐らく、龍神の神子の再来と共に――。
シリンは花梨が向かった先に視線を戻した。視線の先には既に花梨の後ろ姿はなく、隅の方に雪が残る参道が伸びているばかりだ。
再び空を仰ぐと、シリンは目を閉じた。
どんなに忘れようとしても忘れられない面影が目蓋の裏に蘇る。

(アクラム様……)

金糸のような髪と氷のように冷たい印象を与える青い瞳を持った、シリンが憧れて止まなかった一族の首領。
アクラムを救うためなら、この身がどうなろうと構わなかった。だから、百年前のあの日、黒龍に我が身を差し出したアクラムを追って、自分も黒龍に飲まれることを選んだのだ。
それを後悔したことなどなかった。
しかし、結局、彼は一人逝ってしまった。黒龍に飲まれたあの日から百年後の京で、今度は百鬼夜行の供物として自分自身を差し出して。
黒龍に意識を奪われた自分はアクラムに見捨てられたのだと知った時、自分の人生は終わったのだとまで思った。

(アクラム様への想いはあたしのすべてだった。アクラム様がいなければ生きていけない――そう思っていたのに……)

それなのに、自分はまだ生きている。
あれ程想った人を失っても生きていける自分が、悲しいと思った。
いっそ、この想いを断ち切ってしまいたいと思い、宇治橋を訪れたこともあった。
宇治橋の橋姫には様々な言い伝えがある。その中に、すべてを水に流し、縁切りを手伝ってくれるという話があった。縁切りの伝承を信じ、すべてを宇治川の流れに捨て、忘れてしまおうと思ったのだ。
それでもやはり完全には忘れることが出来ず、時々こうしてアクラムのことを思い出してしまう。
だが今は、この想いを胸に抱いたまま生きて行こうと思っている。もう、あの人を覚えている一族の者は、自分しかいないのだから。

泰継がいる蚕ノ社へ向けて、何の躊躇いもなく真っ直ぐに駆けて行った花梨――。
その姿を思い起こし、シリンは誰もいない参道の先に向かってぽつりと呟いた。

「馬鹿だね。神子の務めを終えてもまだ龍神の言うことを聞くのかい。本当にお人好しだねぇ。だけど、あたしは、あんたが羨ましいと思ったんだ」

泰継は何もかも捨てて、花梨の世界へ旅立った。花梨もまた、泰継の傍にいるために、元の世界を捨てる覚悟があった。
そんな風に、愛し、愛される二人が羨ましい。

あの方は、あたしを追いかけてはくれなかった。
あの方は、誰のものにもならない。誰にも支配されない。
追いかけるのは、いつもあたし。

だが、何者にも支配されない、孤高を貫くアクラムだからこそ、シリンは一途に愛したのだ。
その愛に殉じ、一族から離れて百年後の京にまで共にやって来たことを、後悔してはいない。


「あんたは幸せになりなよ、龍神の神子。あんたの地の玄武とさ……」


かつては敵だった白龍の神子だが、戦いが終わった今、心からそう思う。


『違う人生を歩き始めるのは…駄目かな』


不意に、以前花梨に言われた言葉が耳に蘇った。
西の札が白龍の神子の手に渡るのを阻止しようとして失敗し、鬼の一族の力さえ失い、呪詛返しを受け消えようとしていたシリンを救ったのは、他ならぬ花梨だった。
その際、花梨に言われたのだ。
――自分の世界に来ないか――と。
ついさっきまで敵対していた者にそんな提案をするとは、本当に信じられないくらいにお人好しだと思った。
百年前の神子もそうだったから、きっとこれも龍神の神子の資質の一つなのだろう。

「…違う人生、か……」

あの時まで、ただアクラムの指示に従い、アクラムの望みを叶える手助けをすることが、シリンの人生のすべてだった。たとえ、アクラムが自分に振り向くことがなくても、ただ傍にいて手助けできる――それだけで幸せだった。
違う人生など、アクラムに見限られたと判ったあの時まで、考えたこともなかった。
だが、今日こうして松尾大社に舞を奉納しに来ただけで、今までとは違った人生に向かって、一歩踏み出せたような気がする。
その記念すべき日に再び召喚された神子と出逢ったのは、もしかしたら龍神の導きだったのかもしれない。

――もし、もう一度花梨と会うことがあったら、その時は違う人生を歩む自分を、彼女に見せられるだろうか。

ふと頭を過った考えに、シリンは微笑みを浮かべた。
何故だろうか。
もう会うこともないだろうと思うのに、心の何処かでまた会うことがあるかもしれないとも思っている。
――今日のように。

「フフ…。あたしも、あの娘の能天気さに毒されたのかねぇ……」

だが、そういう自分も嫌いではない。
アクラムのことしか見えていなかったシリンが今までとは違う人生を歩もうと考えるようになったのは、間違いなく花梨の言葉がきっかけであったから。


「またね、花梨……」


既に姿の見えない相手にそう返すと、シリンは歩き始めた。


新たな人生に向かって――。







〜了〜


あ と が き
おまけイベント「はるたどり」をベースにした、花梨とシリンのお話、シリン視点です。同じくエンディング後を扱ったおまけイベント「京の小正月」の内容も少し絡ませてみました。
ツッコミ広場で書いたツッコミをネタに、お題創作として仕立ててみようと書き始めたものなので、当初の予定では花梨視点のギャグでした。でも、書き始めて続きを書かずに何年か放置している間に、新年を迎えた後のシリンをメインに書きたくなったので、プロットを変更。結局今の形に落ち着きました。
ゲーム本編で、アクラムに見捨てられたと知った時のシリンがすごく可哀想で……。それまで敵だったことも忘れて、彼女の幸せを祈ってしまいました。だから、PC版で初めて「はるたどり」のシリンを見た時、アクラムが去った世界でも彼女が前を向いて生きていることを知って、嬉しかったことを覚えています。「はるたどり」より時間軸が前に当たる「京の小正月」では、シリンはまだアクラムのことが忘れられず、苦しんでいるように見えましたから。
そんなシリンを救ったのは、やはり花梨ちゃんの言葉だったのではないかと思います。あの時代、女が一人で生きて行くのは大変だと思いますが、シリンならきっとしたたかに生きて行けるでしょうね。できればアクラム以外の人と幸せになれたら良いんでしょうけど、一途にアクラムを想い続けるシリンも好きなので、いずれにせよ彼女らしい人生を歩んで欲しいなと思います。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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