秘密の呪文
朝のホームルームが終わり、本鈴が鳴るまでの僅かな時間――。


普段は一時間目の担当教師が来るまで騒がしい教室内が、今日は見違えるほど静かである。ほとんどの生徒が席に着き、一生懸命教科書やノートを読み返しているからだ。
そんないつになくピリピリとした空気の中、花梨も自分の席で教科書を開いていた。
今日から中間テストが始まるのだ。
一時間目は花梨の苦手な英語だった。


やがて授業開始のチャイムが鳴り、試験官の教師が教室に入って来る。
花梨は教科書を片付けると、膝の上に手を置いて、試験問題が配られるのを待った。
苦手な英語のテストの前なのに、いつもと違い心が落ち着いているのが分かる。

(泰継さんのおまじないのおかげ……なのかな?)

まじないの効果を疑ったりして、悪い事をしたような気がした。
やはり彼は、あの世界で稀代の陰陽師と呼ばれていた人なのだと、今更ながらに気付かされる。

もちろん、まじないだけが原因ではないとは思うのだが――…。



いつの間にか花梨は昨日の出来事を思い起こしていた。





◇ ◇ ◇





昨日の午後のことである。



「では、その次の文章を訳してみろ。問題3だ」


一問終えて、ふう、と一息吐いた瞬間、間髪を入れずに飛んで来た容赦無い一言に、花梨は情けない表情を浮かべた。
「えぇ?」という抗議の声が聞こえて来そうなその表情に気付き、泰継が秀麗な顔を顰める。



いつもなら二人で出掛けることが多い日曜日の午後、泰継が花梨の家を訪れたのは、月曜日に英語の試験があるので勉強を見て欲しいと花梨に頼まれたためだった。
花梨が試験期間に入れば、学業を優先してもらうため、泰継は花梨に会いたい気持ちを抑えて自分から連絡することを控えている。そして、試験を終えて花梨が連絡して来るのを、じっと待ち続けるのだ。
ところが最近、泰継が連絡を絶っていても、花梨の方から電話を掛けて来るようになった。
用件はいつも今日と同じで、英語を教えて欲しいというものだ。
京にいた頃、「英語のテストが怖い」と言っていたその言葉通りに、花梨は英語が大の苦手らしいのだ。

こちらの世界に来てから、花梨が言っていた“英語のテスト”の意味をより明確に理解した泰継だったが、花梨が何故それを怖がるのかが理解出来なかった。泰継自身も京にいた頃、梵語を学んだ経験があるが、外国の言葉を知ることも、それを習得したかどうか試されることも、花梨が言うほど怖い事だとは思えなかった。それどころか、泰継にとってはむしろ楽しい事だったのだ。
そこで、試みに花梨の中学時代の教科書を借りたり、テレビやラジオの語学講座を視聴したりして、自分自身も英語とやらの勉強をしてみたのだが、泰継にとって英語は梵語と同じく興味深いものだった。
――自分が知らなかった知識を習得するのは楽しいことだ。
そう考える知識欲旺盛な彼は、いつの間にか大学レベルの英語をマスターし、最近では乞われて英語の苦手な花梨の指導をしているのである。

目的が勉強であれ、花梨に会えるのは嬉しい。
だから無償で家庭教師を買って出ている訳だが、花梨に会うための口実に過ぎないとは言え、泰継の性格上、手を抜くことなど出来なかった。教える限りは、花梨に良い成績を修めて欲しいと思うからだ。
おかげで、花梨の英語の成績は、このところ上昇の一途を辿っている。

しかし、当の花梨はと言うと、泰継に呆れられたくなくて何とか付いて行こうとはするものの、一切手加減なしの泰継のペースに置いて行かれそうになり、時折ストップを掛けてしまうのだ。
ちょうど、今がそういう状況だった。



「泰継さん、少し休憩しましょう? ほら、お茶が冷めちゃいますよ!」

つい先程、母親がティー・テーブルの上に置いて行ったティーカップとケーキ皿が載った盆を指差しながら、花梨が言う。
勉強を始めてかれこれ二時間近く経っているのに、泰継はずっとこの調子で、矢継ぎ早に次の指示を出して来るのだ。
如何に大好きな泰継の言う事であっても、二時間も嫌いな科目の教科書や問題集と睨めっこしている状態は、さすがに辛い。しかも自室で恋人と二人きりというシチュエーションでのことだから、花梨には尚更辛く感じられるのだった。
そう思っていた時、タイミングを見計らったかのように、母親が「一息入れたら?」と、紅茶とケーキを持って来た。
それを良い機会とばかりに、花梨はまだ続けるつもりだったらしい泰継にストップを掛けたのだ。


もうすっかり休憩する気満々な表情の花梨を見て、泰継は深い溜息を吐いた。その後、壁に掛けられた時計にちらりと目を遣り、時刻を確認する。
ちょうど午後三時を回ったところだった。
いつの間にか、花梨の勉強を見始めてから、二時間近く経っていたようだ。教えるのに熱が入ってしまい、時の経つのを忘れてしまっていた。
確かに二時間ぶっ通しで苦手な英語に向き合っていたのでは、疲れもするだろう。少し休んだ方が、集中出来るのかも知れない。
そう考え直し、泰継が「分かった」と答えると、花梨の表情がパッと明るく変化した。
いつもなら見惚れるであろう心から嬉しそうなその笑顔に、泰継は苦笑するしかなかったのだった。





「うん、美味しい〜! やっぱり、疲れている時は甘い物が一番ですね!」

チョコレートケーキを頬張りながら、ご機嫌な様子で花梨が言うのを、彼女の向かいで紅茶に口を付けながら聞いていた泰継が苦笑する。

「そんなに疲れたのか?」

そう問い掛けると、花梨はそれまでの嬉々とした表情を消して、わざと疲れた表情を浮かべて答えた。

「だって、二時間休憩なしだったもの。集中力も途切れてしまうし」
「だが、試験は明日なのだろう? 一日で出題範囲全てをやらねばならぬのだから、仕方あるまい」
「それはそうですけど……」
「今まで一体何をしていたのだ? もう少し早くから準備しておけば、慌てる必要もないだろうに」

至極尤もな指摘に、花梨は「うっ」と言葉を詰まらせた。
確かに泰継の言う通り、試験前日になって慌てて勉強しているのは、英語を後回しにして他の科目を先に勉強していたからだ。
それは、いつも通り泰継を当てにしていた所為だった。独りで勉強机に向かっていると全く捗らない英語の勉強だが、彼に教えてもらうとなれば、頑張らなければと気合が入る。その上泰継が手加減しないものだから、苦手な英語の勉強も大いに捗るのだ。
だから英語は泰継に教えてもらおうと考えていた花梨だったが、肝心の泰継は緊急の仕事が入り、一週間前から昨日まで留守にしていたのだった。
その結果、何となく英語を後回しにしてしまったことは否定できない事実であるが、「泰継さんが仕事でいなかったから……」などと本人には言えなかった。彼のことだから、きっと役に立てなかったと自分を責めるに違いない。

(私、京にいた頃も泰継さんに頼ってばかりだったのに……。全然進歩してないなぁ……)

京での三ヶ月半の経験は、少しは自分を成長させてくれたものと思っていたが、つい彼を頼ってしまうところは京にいた頃から全く成長していないようだ。
今日も、昨夜仕事から帰ったばかりで疲れているだろうに、泰継は昨夜花梨が泣き付くように掛けた電話に応えて来てくれた。それを嬉しいと思うと反面、申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。

「ごめんなさい……」

突然謝罪の言葉を口にした花梨に、泰継が目を瞠る。試験前日まで何の準備もしていなかったことを責めたつもりはなかったのだ。
花梨が何故今日まで英語に手を付けなかったのか、その理由は昨夜花梨が掛けて来た電話を聞いて、何となく想像出来たから――。

「何故謝る?」
「だって……。お仕事が終わったばかりで泰継さんの方こそ疲れているはずなのに、私、自分のことしか考えてなかった……」

さっきまで忙しなくケーキを口に運んでいた手を止め、悄然と俯く花梨を見て、泰継は笑みを浮かべた。
「自分のことしか考えていなかった」と花梨は言うが、むしろ彼女はいつも他人のことを気遣い過ぎるくらいだと、京にいた頃から泰継は思っていた。
花梨らしいと言えばそうなのだが……。

「花梨」

名を呼ぶと、花梨が躊躇いがちに顔を上げてこちらを見た。上目遣いにおずおずと見つめて来る恋人に、気にするなと言うように微笑みかけると、泰継は言った。

「私が帰って来るのを待っていたのだろう?」

図星を指され、一瞬目を見開いた花梨の頬が忽ち薄紅に染まる。恥ずかしそうに再び視線をテーブルに落とすと、花梨は一呼吸置いて、俯いたままこくりと頷いた。
その仕草が愛らしくて、泰継の眦は自然と下がる。

「私は、お前の役に立てることが嬉しいのだ」

泰継のその言葉に、花梨は弾かれたように顔を上げた。柔らかな笑みを浮かべて、泰継が見つめていた。

「だから、気にするな」

泰継がそう言うと、花梨の顔に漸く笑みが戻った。



花梨の笑顔を暫くの間目を細めて見つめていた泰継は、再び時計に目を遣ると、いつもの無表情に戻って花梨に告げた。

「十分経った。早く食べてしまえ。時間が惜しい」

泰継にそう急かされて、花梨は一瞬だけ不満気な表情を見せたが、「はい」と答えると、黙々と再びケーキを口に運び始めた。付き合わせているのは自分の方だ。文句を言える立場ではない。
ケーキを食べながら、花梨はちらりと泰継を盗み見た。背筋を真っ直ぐに伸ばして正座する様はもちろん、ティーカップを口に運ぶという何気ない所作も、彼が行うと無駄が無く洗練されていて、まるで一幅の絵のように美しい。

(泰継さんって、何でも出来過ぎだよね)

フォークを咥えたまま、花梨は小さく息を吐いた。
「天は二物を与えず」という言葉は、彼には当てはまらないようだ。
中学校の教科書を貸しただけなのに、泰継は短期間の内に、四年余り英語を学んで来た花梨よりも遥かにレベルの高い英語を身に付けてしまっていた。
京ではいつも彼の世話になっていたから、こちらの世界では自分が力になれればと思っていた花梨だったが、その思いとは裏腹な現状を情けなく思うばかりである。
ふう、と花梨は再び溜息を吐いた。

「……何故そんなに英語が嫌いなのだ?」

突然の問い掛けに、ぼんやりと泰継に見惚れていた花梨が目を見開いた。どうやら彼は、花梨が吐いた溜息を違う意味に取ったらしい。

「どうしてって言われても……」

苦手なものは理屈抜きで苦手なのだ。改めて理由を問われても困ってしまう。
泰継の問いに何と答えたら良いのか解らず、花梨は困惑した表情を浮かべて考え込んでしまった。
そんな花梨の様子を見ていた泰継が更に続けた。

「お前は以前、『英語のテストが怖い』と言っていたな」
「あ…、はい」

京の町を散策中、泰継とそんな話をしたことがあったことを、花梨は思い出した。

「今も怖いのか?」
「……少し…」
「準備を怠らなければ、覚えたかどうか試されることもそう怖いことではないだろう」
「泰継さんはそうかも知れないけど、私には無理です……」

最後の欠片を口に放り込むと、フォークを咥えたまま花梨は唸った。
泰継から「忘却が無い」と聞かされた時、まず最初に思ったのが、自分にもそんな力があれば英語のテストも楽勝なのに――ということだったとは、口が裂けても彼には言えない。
それくらい、花梨は英語のテストが嫌いだった。
泰継に教えてもらうようになってからは、以前に比べれば平気になったと思う。しかし、やはり英語だけは駄目なのだ。

「京を救った龍神の神子が、英語の試験如きに何を言っている。もっと自信を持て」
「だって、『京を救った』って言ったって、私一人の力じゃないもの。泰継さんも、他の八葉の皆も、紫姫もいてくれたじゃないですか。怨霊と戦う時だって、一人じゃなかったし……」

怨霊との戦いは、現代では経験の無いことだったので、最初のうちは怖かった。泰継を始めとする八葉達に守られながら何度も怨霊と対峙するうち、次第に慣れたとは言え、やはり自分一人だったら無理だっただろうと思う。
何かをしようとする時、傍に誰かがいてくれるだけで、どれほど心強く思えることか――。

「でもテストでは一人だし、教室の雰囲気もいつもと違って、何だか緊張しちゃうんです。それに、あまり成績が悪いとお母さんが煩いし……」
「なるほど……」

花梨の言葉を聞いて、泰継は顎に手を遣り考え込んだ。


花梨は京にいた頃、思い立ったら供も連れずに一人で紫姫の館を抜け出すという、無鉄砲な一面を持っていた。だから「英語のテストが怖い」と聞かされた時は、花梨にも怖いものがあるのかと不思議に思ったものだった。

(私のことは、出逢った時から全く怖がらなかったのにな……)

人ではない、造られし者なのだと告げた後も、花梨の態度がそれまでと変わることはなかった。
いつも通り話し、いつも通り笑顔を向け、そして触れて来る。
それは、泰継がかつて持っていた、人では有り得ない身体能力を見せた後も、全く変わることはなかったのだ。

他の人間であれば、考査などより人ではない私を恐れるであろうに……。
安倍家に出入りしている使用人や弟子達と、なんと違うのだろうか。

京で花梨と怖いものについて話した時、泰継が考えたのはそんな事だった。
「怖い」という感情は、あの頃はまだ泰継自身は抱いたことがないものだったのでよく解らなかったのだが、自分を畏怖していた安倍家の弟子達を見ていて、「怖い」という感情を抱いた時、人間は自然と身体が強張り、気も極度に張り詰めるらしいということは知っていた。
だから、あの時彼女に施したまじないは、緊張を取り除くものだった。
きっと、花梨が英語のテストに臨んだ時も、自分と顔を合わせた時の安倍家の弟子達と同じ状態なのだろうと考えたからだ。

(ならば、やはりあのまじないは有効だったということか)

テストで緊張してしまうという花梨の言葉を聞いて、泰継は自らの推測が正しかったことを確信した。



「花梨。ちょっと立ってみろ」
「?」

突然の泰継の指示に、花梨はきょとんとした表情を浮かべた。その間に泰継が立ち上がり、ティー・テーブルの脇を回って花梨の傍らに立つ。どうやら泰継は花梨が立ち上がるのを待っているらしい。それを悟り、訳が分からないまま花梨も立ち上がり、泰継と向かい合った。

「目を閉じろ」
「え?」
「まじないを施しておこう」

その言葉に花梨が目を瞠る。
泰継が何をしようとしているのか、花梨は漸く合点が行った。
京で英語のテストの話をした時、泰継は英語のテストを恐れずに済むようにと、まじないを施してくれた。その時と同じまじないをしておこうと言ってくれているのだろう。
実際のところ、あのまじないにどの程度効き目があったのか京では確かめることが出来なかったし、まじないを施した泰継自身が英語のテストがどういうものであるのかよく解っていなかったと思うので、本音を言うと、花梨はその効き目を疑問視していたのだ。
ただ、片想いの相手が自分の事を気に掛けてくれていることが嬉しかった。
明日のテストに泰継のまじないが効くかどうかは分からないが、彼が自分の事を考えて尽力しようとしてくれていることが嬉しいし、その気持ちに応えられるよう、自分も全力を尽くしたいと改めて思った。

「お願いします」

そう声を掛けると、花梨は目を閉じた。



額に彼の指先を感じる。
それと同時に、玲瓏とした声が呪を紡ぎ始めた。

(あ……。温かい……)

額に触れた泰継の指先から暖かい気が流れ込んで来るのが感じ取れる。その気はやがて花梨の身体を包み込むように全身に広がった。

(なんだかお風呂に入っているみたい……)

温かくて穏やかな気分になれるところが、湯船に身体を浸している時と同じだと花梨は思う。全身を包む暖かな気に、心と身体が癒されていくような気がするのだ。

そんな事を考えているうちに、呪を唱えていた泰継の声が止まった。
もう終わったのだと思い、花梨が目を開けようとすると、透かさず泰継から制止が入った。

「まだ目を開けるな」
「?」

京で同じまじないをしてもらった時は、泰継が呪を唱えて終わりだったと記憶しているのだが、まだ何かあるのだろうか。
疑問に思いつつも、言われるままに花梨は再び目を閉ざした。
同時に泰継の指が額から離れ、前髪を梳き上げられる。

その直後―――…


「!」

額に感じた感触に吃驚し、花梨は思わず閉じていた目を開いていた。
最初に目に入ったのは、彼が着ているシャツだった。それが近付いて来たかと思うと、次の瞬間頬に触れていた。
顔を上げる暇も与えられないまま、抱き寄せられてしまったのだ。

(泰継さん、今の……)

抱き寄せられた弾みで思わず彼のシャツを掴んだ手に、無意識に力が入る。


―――額に触れた柔らかな感触は、間違いなく唇だった――。


その感触を思い出し、額に手を遣ると、花梨はパッと頬を染めた。




「この呪は、このままでは完成しない」

不意に、無言のまま花梨の髪を梳いていた泰継がそう呟いた。
驚いた花梨が、えっ、と言わんばかりに、ぴくりと身体を動かす。
それを感じ取った泰継が腕を緩めたので、花梨は泰継の胸に凭せ掛けていた身体を起こし、彼の顔を仰ぎ見た。
問い掛けるように小首を傾げて見つめて来る花梨に、泰継が告げる。

「完成させるのは、お前自身だ」
「え?」

思い掛けない泰継の言葉に、花梨は驚きの声を上げた。

「でも私、泰継さんみたいに陰陽の力を操る能力なんてないし……。まじないを完成させるなんて、どうやったら良いのか見当もつかないよ」

花梨の反応を見た泰継の顔に笑みが浮かぶ。
戸惑う花梨に「簡単だ」と答えると、泰継は花梨の肩を抱き寄せ、その耳元で何事か囁いた。

「…………」

彼の言葉を聞いて、花梨は大きく目を見開いた。
言い終えて、屈めていた身体を起こした泰継が微笑みながら自分を見下ろしているのを、花梨はただ呆然と見つめていた。

泰継が花梨の耳元で囁いたのは、“まじないを完成させる呪”だった。
確かに呪には違いないのだろう。
しかし――…。

「…………」

花梨の顔が、再び朱に染まって行く。


「他の者にこの呪は使えぬ。お前だけが使える、秘伝の呪なのだ」


そう話す泰継の顔には、誰もが見惚れてしまうような、美しい笑みが浮かんでいたのだった。





◇ ◇ ◇





いつの間にか、花梨の顔には笑みが浮かんでいた。
昨日の泰継の微笑みが脳裏に焼き付いて離れず、無意識に思い出しては顔が緩んでしまうのだ。傍から見ていたらかなり不気味かもしれない。


「ちょっと、花梨。早く取ってよ」

前の席の友人にそう声を掛けられ、花梨ははっとした。突然周囲の音が耳に届くようになり、自分がいつの間にか物思いに耽っていたのだと気が付いた。
その間に、一番前の席から順送りされて来た問題用紙が花梨の席に回って来ていたのだ。
羞恥から顔が薄っすらと赤く染まる。

「あっ、ごめん!」

謝りながら用紙を受け取ると、自分の分を一枚取って、残りを後ろの生徒に回した。
問題用紙を机の上に置き、照れ隠しのように小さく肩を竦めてくすりと笑う。
英語の試験の前に、こんなにリラックスしたのは初めてだ。
昨日はあの後も泰継に見てもらって、みっちりと英語の試験勉強をした。
その上、稀代の陰陽師である彼にまじないまで施してもらったのだ。
ただそれだけで「英語のテストなど怖くない」と思える自分は、単純でおめでたい性格なのだろうか。

(さあ、最後の仕上げをしないとね)

この呪を唱えないと、まじないは完成しないのだと、泰継は言っていた。
花梨は目を閉じて一度だけ深呼吸すると、泰継から教えられた呪を唱えた。

花梨にしか使えないという、その呪を―――。


「泰継さん、泰継さん、泰継さん……」


周囲に聞こえないよう、ごく小さな声で彼の名を唱えた瞬間、ふわりと全身を暖かい気に包まれたような気がした。
ちょうど、背後から泰継に抱き竦められた時と同じ感覚に、微かに頬が紅潮する。
自分を包む暖かい気を逃すまいとするように、そして目には見えない泰継の腕に手を添えるように、花梨は自分自身を軽く抱き締めた。


『私の名を呼ぶだけで良い。そうすれば、お前は一人ではないのだということが解るだろう』


泰継が言った通り、確かに今、傍にいるはずのない彼の気を近くに感じる。いつも花梨を優しく包み込んでくれる、穏やかで暖かな気だ。
京で「英語のテストを恐れずに済むまじない」をかけてもらった時にはなかったこの呪を泰継が加えたのは、恐らく昨日の花梨の話を聞いた所為なのだろう。

『テストでは一人だし、教室の雰囲気もいつもと違って、何だか緊張しちゃうんです』

そう打ち明けた花梨に、お前は一人ではないのだと、自分はいつも傍にいるのだと――…。
泰継はそんな想いをこの呪に込めて、花梨にかけたに違いない。

(泰継さん……)

北山で初めて会った時、「名を与えることは己を与えることだ」と泰継は言っていた。
名は、力ある者が唱えれば、最も短く最も強力な呪となる。例えば、名を呼ぶだけで、相手を呪縛することも可能なのだ。
だから、他人に呪詛を仕掛ける依頼を受けているような陰陽師などは、本名を隠して通り名を名乗っていることが多いのだという。
それを聞いて、花梨は初めて泰継が言った、「名を与えることは己を与えること」という言葉の意味を理解した。
恐らく、陰陽師である彼が自らの名を呪とすることは、本来であれば有り得ない事なのだろう。
それだけに、花梨にとって泰継がかけた呪は特別な意味を持つのだった。

(でも………)

花梨は思う。

彼は知らない。
私が時々、この呪を使っているのだということを。

先日のように、彼が仕事で留守にしていて淋しく思う時
何か困難な事に直面したり挑戦したりする時
今日のように試験前に心を落ち着けたいと思った時

様々な場面で、花梨は想い人の名を心の中で呟いているのだ。
彼の名を呼んだり、彼の姿を思い描くだけで、胸の内が温かいもので満たされるから――…。



前から順送りされて来た解答用紙を机の上に置いた後、花梨は目を閉じて再び呪を唱えた。
今度は心の中だけで。

(泰継さん、泰継さん、泰継さん……)

胸の奥にふわりと温かい何かが舞い降りる。

(きっと、大丈夫……)

―――今日は、一人じゃないから――…。


自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、花梨はシャープペンシルを手に取った。







〜了〜


あ と が き
拍手のお礼画面に置いていた創作です。
この話はサイト開設前からあったネタでした。が、私は思い付いた創作ネタをメモするということをほとんどしないので、書く前に忘れてしまうことが多いのです。仮タイトルを付けていなかった物(タイトルを付けるのが苦手なので、ネタの段階で仮タイトルが付いている物などほとんどありませんが)は、大抵一度忘れてしまいます(^^; そして何かの拍子に思い出すのですが、このネタの場合、お題を見ていて思い出しました。そのため、お題創作として扱っています。
読んでお判りの通り、泰継さんの好きな土地での会話の一つ、「英語が怖くなくなるおまじない」を題材としています。ゲームをしていて「泰継さんが花梨ちゃんにかけたまじないって、結局何のまじないだったんだろう?」と私なりに考えてみた結果、導き出された結論が「緊張を解くまじない」でした。人の心の動きに疎かった当時の泰継さんが「怖い」という感情を知識として知ったのは、泰継さんを怖がっている安倍家の弟子や使用人たちの態度からなんじゃないかなと思ったのです。
このネタは恐らくギャグとして書かれることが多いのではないかと思いますが、うちではいつもの如くラブラブものです。家庭教師な泰継さんが書いてみたかっただけ、という説もありますが(笑)。
読んで下さった皆様、ありがとうございました。
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