父親似の女の子
桜の季節が終わり、京の四方を囲む山々が新緑に萌え始めた頃のことである。



その日、勝真とイサトは久しぶりに四条の館を訪れた。
八葉の務めを終えて既に一年半近くの月日が流れた現在、勝真もイサトも八葉に選ばれる前の生活に戻っているため、殆ど会う機会はない。
その二人が今日こうして連れ立って四条を訪れたのは、東寺への使いの帰りに久しぶりに花梨の顔を見に行こうとしていたイサトが、東寺を出た所で京の町を見回っていた勝真とばったり出会い、一緒に行かないかと誘ったからだった。
元より勝真の仕事は誰かに依頼されている訳ではなく、自分の意志で行っているものである。時間の都合なら幾らでもつけようがあった。
即座に勝真がイサトの誘いに乗り、久しぶりに二人で紫姫の館を訪ねることになったのだった。



「なんか信じられないよな。あいつが母親になるなんて」

二人並んで朱雀大路を北に向かって歩きながら、イサトがぽつりと呟く。
その横顔に、勝真はちらりと視線を遣った。その胸中には少しばかり複雑な思いが去来する。

(こいつも、きっと俺と同じ気持ちだったんだろうな……)

イサトの横顔から視線を前方に戻すと、勝真は「ああ」と短く答えを返した。



龍神の神子の務めを終えた花梨は京に残り、昨年の春、泰継と結婚した。
花梨が京に残って暫くの間は、時折彼女の様子を見に四条の館を訪れていた八葉達だが、それから程無くして泰継が建てさせていた新居が完成し、花梨がそちらに移り住んでからは、やはり訪ねることを遠慮して以前ほど足を運んではいなかった。
特に昨年の秋、花梨が泰継の子を宿したことを聞いてからは、二人とも何となく足が遠退いていたのだ。
しかし出産を間近に控え、花梨は現在紫姫の館に身を寄せているのだという。仕事で屋敷を空けることが多い泰継が心配していたこともあり、以前から「お産は是非うちで」と勧めてくれていた紫姫の言葉に甘えさせてもらうことにしたためらしい。
それを人伝に聞いて、イサトは使いの帰りに四条を訪ねてみようと考えたのである。





勝真とイサトの久しぶりの来訪を喜ぶ紫姫が二人を通したのは、花梨が龍神の神子としてこの館に身を寄せていた頃に使っていた、西対に在る一室だった。

「勝真さん! それにイサトくんも!」

満面に笑みを浮かべて花梨が二人を出迎えた。

「よう、久しぶりだな」
「元気そうじゃんか」

あの頃と変わらぬ笑顔で出迎える花梨に、勝真とイサトもそれぞれ声を掛けながら、久しぶりに見る花梨の顔を観察するようにじっと見つめた。
あれから一年半近く経ち、花梨は以前と比べ随分と京の女らしくなっていた。龍神の神子だった頃着ていた異世界の装束ではなく京の装束を纏い、短かった髪も京に残ってからはずっと伸ばしているからだ。最初のうちは京の装束に慣れなくて、袴の裾を踏んでは転びそうになっていた花梨だが、今では袴の裾捌きも様になっているようだ。
そして――…。
花梨の笑顔を確認した二人の視線は、自然と彼女の腹へと移った。
産み月に入った花梨の腹は、はち切れんばかりに大きくなっていた。元々華奢な身体なだけに、余計にその大きさが目立って見える。
あの中に泰継と花梨の子が――と、幼馴染二人はしばし感慨に耽った。

「勝真殿、イサト殿、ようこそお越し下さいました。お二人ともお元気そうで、安心いたしましたわ」

改めて紫姫が挨拶する。
花梨が三条の新居に移ってからは、此処を訪ねる理由もなくなってしまい、勝真もイサトも紫姫や深苑とも全く会っていなかったのである。

「そうだよ。二人とも、三条のお屋敷の方には全然来てくれないんだもん」
「まあ、そうでしたの?」

ぷうっと頬を膨らませた花梨に対し、紫姫はくりっとした大きな目を見開き、驚きの表情を浮かべた。
元・龍神の神子と星の一族の末裔の姫君と向かい合って座った元・八葉の二人は、互いに顔を見合わせると、無言のまま相手の表情を読み取り、心の中で会話した。

(いや、そう言われてもな)
(だよなぁ……)

――他の男のものになった好きな女の元になど、どうして行けようか。

わざわざ自分が失恋したのを再度確かめに行くほど自虐的な趣味は、二人にはなかった。
第一、花梨の夫はあの泰継だ。
当代一の陰陽師として広く知られるようになった泰継は、八葉の務めを終えて北山から洛中に生活基盤を移して以降、次々と持ち込まれる仕事に忙殺され、屋敷を留守にしていることが多いと聞く。泰継の留守中に花梨に会いに行き、あらぬ誤解を受けて、泰継の恨みなど買いたくもなかった。彼の力のほどは、同じ八葉として京を守るため共に戦った自分達が一番よく知っている。怨霊の代わりに泰継に調伏されては敵わない。
常に泰然としていると思われている泰継だが、意外と嫉妬深い面も持ち合わせているのだ。但し、花梨が絡んだ場合のみではあるのだが。
花梨が屋敷に独りでいるところに単独で会いに行き、花梨にちょっかいを出したと泰継に誤解された場合起こり得る事態を想像し、イサトは寒気を感じてぶるっと身震いした。
(もしそんな事になったら、オレ達生きて帰れないぜ、勝真……)
同意を求めるように勝真を見遣ると、勝真も複雑な表情を浮かべてこちらを見ていた。彼がイサトと似たような事を考えているであろうことは、その表情からも明白だ。

何とも言えない複雑な表情を浮かべたまま、無言の会話を交わす二人を見て、紫姫は大方の事情を察した。泰継以外の男が目に入っていなかった花梨は全く気付いていなかったようだが、今目の前にいる二人を含め殆どの八葉が花梨に淡い思いを寄せていた事を、紫姫は知っていたのだ。
花梨の言葉に二人は正直に応えることは出来ないだろうと考えた紫姫は、さり気なく話題を転換すべく言葉を継いだ。

「神子様はお産を終えられた後も、暫くの間はこの屋敷で養生されることになっているのです。お二人もまた以前のように訪ねて来て下されば嬉しいですわ」

そして、花梨の方に顔を向けると、紫姫は同意を求めるように花梨に向かって、「そうですわよね、神子様」と言った。

「他の八葉の皆様にも文をお送りして、お知らせいたしましょうか?」
「うん!」

紫姫の提案に、花梨は膨らませた頬を元に戻し、笑みを見せた。
その笑顔を見て、乳兄弟の二人は互いに顔を見合わせた後、花梨に気付かれないように安堵の息を吐いて、漸く表情を緩ませたのだった。





「それで、お前は男の子と女の子のどっちがいいんだ?」

勝真が花梨に問う。
もう間もなく生まれるであろう赤子の性別がどちらなのか、イサトと二人で此処に来る道中、話題に上ったことを思い出したのだ。
――男の子であれば、将来泰継の跡を継いで優秀な陰陽師になるかもしれないし、女の子であれば、将来きっと花梨に似て、京ではあまり見かけないような明るく活発な女性になることだろう。
生まれて来る赤子の将来を想像し、二人でそんな事を話した。

「う〜ん。元気に生まれて来てくれるなら、どっちでもいいよ」

話しながら、花梨は膨らんだ腹に手を遣り、愛しげに撫でた。その仕草が既に母親らしく見えて、勝真とイサトは眩しげに目を細めた。
だが、続く花梨の言葉に、二人は細めた目を大きく見開くこととなった。

「でも、欲を言えば泰継さんに似て欲しいかなぁ、なんて……」

頬を薄紅に染め、うふふと笑い声を漏らす。
勝真とイサトの反応に気付かないまま、花梨は恥ずかしそうに視線を逸らせて俯くと、まだ見ぬ我が子の頭を撫でるように再び腹を擦った。
花梨にとって、最愛の人との間に授かった初めての命である。

『お前のお陰で人になれたとは言え、私は元は安倍家に造られた者だ。だから、子を作れるかどうか判らぬ』

泰継と結婚する時、花梨は彼からそう告げられた。
しかし、泰継と共に生きるために元の世界を捨てて京に残った花梨にとっては、そんな事は些細な事だった。
もちろん彼と結婚する以上、その出自故に血の繋がった家族を持ち得なかった泰継に、血の繋がりのある家族を作ってあげたいという思いがなかったわけではない。そして、花梨自身も愛する人との子供が欲しいと思わなかったわけではないが、花梨にとって何よりも大切な事は二人が一緒にいることだった。もし子供が出来なくても、二人が共に在る限り、いつまでも幸せでいられる――そう信じていた。
ところが、泰継の危惧を余所に、彼との間に子供を授かることが出来た。
妊娠が判ってからと言うもの、花梨も腹の中の子が男の子か女の子か、何度か考えてみたことがある。しかし、結局いつも、泰継に似てくれればどちらでも良いという結論に至るのだ。男の子なら、当代一と言われる泰継にも引けを取らない、優秀な陰陽師になることだろう。女の子なら、きっと京で一番の美人になるに違いない。生まれて来る前から、花梨はこの子の将来がとても楽しみだった。
もっとも、泰継に似て欲しいという花梨の希望を、彼には話したことはなかった。泰継が造られし者であった自分自身について、無自覚なまま複雑な感情を抱いていたことを知っていたからだ。特に容姿については、自らを泰明の模造品であると思い込んでいる彼がより一層複雑な思いを抱いているらしいことを、花梨は感じ取っていた。花梨としては、いつも見惚れてしまう彼の端整な顔立ちやすらりとした体躯こそ、子供に受け継がれて欲しいと思ってしまうのだが。

腹を撫でながらそんな事を考えていた花梨がふと顔を上げると、勝真とイサトがぽかんとした表情を浮かべて自分を見つめていることに気が付いた。明らかに驚いた表情の二人に、何故そんなに驚くのだろうと疑問に思った花梨は、自分より泰継に似た子であって欲しいと思う理由を二人に説明することにした。

「だって、泰継さん、綺麗だし、頭も良いし、優しいし……。時々厳しい事も言われるけど、そんな時はいつも泰継さんの方が正しいもの。だから、泰継さんに似てくれたら、きっとすごい美形で賢くて優しい、良い子になると思うの」

惚気以外の何物でもないが、花梨は真剣だ。
しかし、花梨の熱意が二人に伝わったとは言い難い。
もし男の子が生まれたら、将来安倍一門に属する者として、父親の跡を継いで陰陽師になるのだろうというのは、勝真とイサトも考えていた事だった。しかし、女の子の場合は、二人とも花梨に似た子になるのだろうという予想しかしていなかったのだ。泰継に似た女の子について想像することを、無意識に拒否していたのかもしれない。

「……まあ、確かに泰継に似たら、男でも女でも美形にはなるだろうがな」

泰継の完璧に整った、人間離れした美貌を頭の中で思い描きながら、勝真が言う。
女の子だったら、将来絶世の美女になることは間違いない。ただ、問題は――。

(見かけは泰継に似ても問題ない――どころか、そっちの方がむしろ良いんだろうが、性格は花梨に似た方が良いよな。男ならともかく、いくら美人でも、無口な上ににこりともしない女ってのもなぁ)

そこまで考えたものの、泰継に対してだけでなく、花梨に対しても失礼過ぎる考えだという自覚があったので、勝真はそれを口にするのを躊躇い、結局口を閉ざした。
花梨が泰継にべた惚れなのは、まだ龍神の神子として行動していた頃から変わらない。むしろ結婚後の方がべた惚れ度が増しているように思えるのだ。ここで、「泰継に似た子が欲しい」との花梨の希望に水を差すようなことを言ったらどうなるか――。花梨の怒りを買うことは火を見るよりも明らかだろう。
ところが勝真の配慮も空しく、同じ事を考えたらしいイサトがそれを口にしたのである。

「でもよぉ、泰継に似た女の子だったら美人には違いないだろうけど、中身まで似ちまったら大問題だと思うぜ?」
「どういう意味よ」

遠慮のないイサトの言葉にムッとしながら、険のある声音で花梨が問う。
その問いに、イサトは視線を上に向け、頭の中で泰継にそっくりの娘を想像しながら、話し始めた。

「いや、だってさ。あいつ何が起きても無表情じゃん。男なら『無愛想な奴だな』って思うだけで済むけどよ。女だったら可愛げがないのを通り越して、ちょっと怖いと思うぜ? 顔が整っていれば整っているほど余計にさ」

一旦言葉を切ると、イサトは腕を組んで考え込む仕草を見せた後、矢庭に可笑しそうに笑い始めた。顔も性格も泰継に似た娘のことを想像するのが楽しくなって来たのだ。

「表情に全く変化がない女ってのがなぁ。女に無表情で『問題ない』なんて言われてみろよ。怖いだろ?」

興に乗って来たイサトは、泰継の口癖を彼の口調を真似て言ってみる(但し、余り似ていない)。天井に視線を向けたまま話し続けるイサトは、花梨の表情の変化に全く気付いていなかった。

「おい、イサト!」

眉根を寄せて不快感を露わにした花梨に気付き、自分もイサトと全く同じことを考えていたのを棚に上げて、勝真はまだ言葉を続けようとしていたイサトを制止した。が、時、既に遅く――。

「イサトくん……」

地を這うような低い声で名を呼ばれ、漸くイサトが口を閉ざして花梨の方を見た。
俯いたまま、わなわなと震え始めた花梨の隣で、紫姫が「あらあら」という心の声が聞こえて来そうな呆れた表情を浮かべている。
それを見て、勝真とイサトは瞠目した。
花梨の表情を見てやっと言い過ぎたことに気付いたイサトは、いつになく怒りを露にしている花梨に驚き、声を掛けた。

「か…りん……?」

恐る恐る声を掛けて来たイサトを、顔を上げてキッと睨んだ花梨は、次の瞬間、耳を劈くような大きな声で怒鳴り付けた。


「泰継さんは表情の変化が『無い』んじゃなくて、『控え目』なの! 全然違うんだから、間違えないでっ!!」


突然の大声にキーンという耳鳴りを覚えたイサトは、耳を押さえてこくこくと繰り返し頷くことしか出来なかったのだった。
その様子を見て紫姫がくすくすと笑い、勝真が呆れた表情を見せた。




「――私がどうかしたか?」

突然掛けられた声に一同が驚き、声がした方向に目を向けると、片手で御簾を上げて泰継が庇に立っていた。

「泰継さん!」

直前までぷんぷん怒っていたにも拘らず、泰継の声を聞いた途端、瞬時に怒りを消して笑顔になった花梨が、嬉しそうな声で夫の名を呼び、立ち上がる。
その豹変ぶりに、勝真とイサトは思わず脱力しそうになる。相変わらず、花梨は泰継のことしか目に入っていないようだ。
ふと紫姫の方を見ると、慣れているのか微笑ましそうに笑顔で二人の様子を見守っている。

今にも駆け寄って来そうな花梨をその必要はないと手で制し、泰継が御簾を潜って室内に入って来た。その一連の無駄の無い動作は洗練されて美しく、何度見ても花梨は見惚れてしまうのだ。

「おかえりなさい。お仕事、お疲れ様でした」

自分の傍に辿り着いた夫に、花梨は笑顔で労いの言葉を掛けた。泰継と結婚してから、仕事から帰った彼を笑顔で出迎えることを、花梨は自分の仕事と位置付けていたのである。
「ああ」と短く応えると、泰継も微笑みを浮かべた。

「泰継さん、暫く来られないかもって言っていたのに……。お仕事を早く終えるために、無理していない?」

心配そうに花梨が問う。数日前に花梨に会いに館を訪れた際、次の仕事が長引きそうな厄介なものなので、暫く来られないかもしれないと泰継が言っていたのだ。彼がそう言い置いて仕事に出掛ける時は、大抵七日以上屋敷を留守にしていた。しかし、今回は五日で仕事を終えられたようなので、もしかしたら早く仕事を終えて自分の元に来られるよう、無理をしたのではないかと思ったのである。実際に、そのようなことが今まで何度かあったのだ。
泰継は花梨の心配はし過ぎるほどしてくれるが、自分の事は全くと言って良いくらい顧みない。人となって疲れを感じることも病を得ることも経験した泰継だが、それでも以前と同様の行動を取ることが多く、八葉の務めを終えてからの多忙な日々の中で彼が身体を壊すことなどないよう、花梨は常に気を配っていた。自分の事に無頓着な泰継の体調管理も妻である自分の大切な仕事だと、花梨は考えていたのである。

「問題ない。それに、お前の顔を見れば疲れが癒される」
「もう、泰継さんったら」

臆面も無く口にされた夫の言葉に、花梨は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
それを愛しげに見つめながら、泰継が言った。

「五日間、来られなくてすまなかった。息災だったか?」
「はい。私もこの子も元気に過ごしていました」
「ならばよい」

安堵の気持ちを含んだ優しい笑みに思わず見惚れた後、花梨も笑みを返した。見つめ合う二人には既に周囲の人間は目に入っておらず、二人だけの世界に浸っているかのようだった。

「あっ!」
「どうした?」
「この子がよく動いて……。きっと泰継さんが来てくれて、この子も嬉しいんですよ。ほら!」

泰継の手を取り、自分の腹に触れさせる。
生れ出る前の赤子は純粋無垢で、清らかな気を纏っている。陰陽師である泰継には、こうして花梨の腹に手を触れているだけで、それを感じ取ることが出来た。
触れた手から伝わって来る命の鼓動――。それは、女人の腹から生まれることのなかった泰継に、深い感慨を齎した。
人の手により造られた身である自分に、こうして子を成すことが出来たことは、奇跡としか言えなかった。

「本当だ。お前に似て元気な子だな」

花梨の腹を盛んに蹴っているのを感じ、笑みを浮かべながら泰継が言った。

「元気なのは良いんですけど、あまり蹴られると痛いんですよ?」
「……そうなのか?」

胎動が激しいのは赤ちゃんが元気な証拠と思い我慢しているが、夜眠れないこともあるので少し困るのだ。
花梨がそう告げると、泰継は花梨の腹に当てていた手を擦るように動かし始めた。

「どうした? 母が痛がっているぞ。大人しくするがよい」

花梨の腹を手で撫でながら、泰継が腹の中の赤子に向かって宥める様にそう話し掛けると、まるでその言葉が分かったかのように、それまで激しく腹を蹴っていた赤子が急に大人しくなった。

「わっ、すごい! 泰継さんの言う事が分かったのかな?」

泰継が言葉を掛けた途端大人しくなった赤子に花梨は驚いた。夜、激しく蹴られて眠れなかった時に花梨も赤子に話し掛けてみたのだが、こんな風に直ぐに胎動が静まることはなかったのだ。
――これも、彼が陰陽師であるからなのだろうか。
そう考えた花梨だったが、何となく、それだけではない気がした。

「生まれる前からお父さんの言う事をよく聞いて、良い子だね」

腹に触れながら花梨がそう話し掛けると、それに応えるように赤子が動くのを感じた。

「お父さんに似て賢いね」

「お前に似て元気な子だ」と言った泰継の言葉を意識して、花梨は腹の中の子にそう声を掛けた。花梨がこの子が父親に似て欲しいと考えていることを、そろそろ泰継に告げても良いだろうか。
花梨は自分の腹に向けていた視線を泰継の方に向けた。

「さっきね、皆に話していたの。『元気に生まれて来てくれるなら男の子でも女の子でもいいけど、出来れば泰継さんに似て欲しいな』って」

花梨のその言葉を聞いて泰継が目を瞠った。

「――何故?」

少しの間を置いて、泰継が訊ねる。
花梨が何故自分に似て欲しいと願っているのか、本当に判らないと言わんばかりの表情である。
やはり彼には花梨の気持ちをはっきりと言葉で伝えないと伝わらないようだ。
そう考えた花梨は、羞恥に頬を薄紅色に染めながらも、自らの想いを泰継に告げた。

「だって、やっぱり自分に似るより一番好きな人に似て欲しいと思うもの」
「…………」

羞恥心を抑えて思い切って理由を明かしたのに、どういう訳か泰継は一切の動きを止めたまま口を開くこともせず、ただ固まっている。
それを見て、花梨は戸惑った。

「えっと……。泰継さん?」

(何か反応してくれないと、恥ずかし過ぎるよ〜〜っ!)

「貴方が一番好きだ」と告白したも同然の台詞を無視されたのでは、せっかく奮ったなけなしの勇気が浮かばれない。
そう思った時、花梨の心の声が聞こえたのか、泰継が漸く動いた。

「花梨……」

甘い声で名を呼ばれると同時に肩を抱き寄せられた。普段であれば腕の中に閉じ込められるところだが、大きくなった腹がつかえるので、最近では抱き締める代わりに肩を抱き寄せられることが多くなったのだ。

「や、泰継さんっ!」

その時になって漸く勝真とイサトと紫姫がいたことを思い出した花梨が焦った声を上げる。泰継からの反応がなく、せっかくの告白が宙に浮いた状態になってしまうのも恥ずかしいが、子を宿した腹のおかげで肩を抱き寄せられるだけで済んだとは言え、この状態もまた恥ずかしい。紅潮しやすい花梨の顔は忽ち赤くなった。

「――嬉しい」
「え?」
「お前がそう思っていてくれるのなら」

一言だけぽつりと呟かれた言葉に顔を上げて夫の顔を見上げると、そう言葉を継いで泰継は微笑んだ。

「だが、私はやはりお前に似て欲しいと思う」
「どうしてですか?」
「お前が先程言ったのではないか。『一番好きな人に似て欲しい』と――」

そう言われて、花梨は大きく目を見開いた。

「私も、お前と同じ気持ちだ」
「泰継さん……」

パッと花開くような満面の笑みを見せた花梨は、先程までより強い力で抱き寄せられるのを感じた。
再び見つめ合った二人の目には、もう互いの姿しか映っていなかった。




目の前で繰り広げられる甘い夫婦の語らいに、完全に蚊帳の外となってしまった勝真とイサトは、呆れたような表情を浮かべて互いに顔を見合わせた。泰継にべた惚れの花梨はともかく、泰継が人前でこんな態度を見せるとは思わなかったのだ。もっとも、泰継の方も花梨しか目に入っていないのは事実であるが。

(こいつら、俺達の前でもこんな状態なんだから、二人きりの時って一体どんなだろうな)

人前にも拘らず、このまま口付けを交わしそうな勢いで見つめ合っている夫婦を前に、ふと興味が湧いた。
しかし、少し想像してみて、勝真はその先を想像することを諦めた。甘ったる過ぎて、頭が考えることを拒否してしまったのだ。それに、花梨のことを憎からず想っていた身としては少しばかり辛い。花梨の幸せを願う気持ちに偽りはないが、花梨への想いを完全に断ち切れない限り、この甘酸っぱい想いは続くのだろう。


「お二人とも、お座りになられたら如何ですか?」

立ち話を続ける泰継と花梨に、部屋の隅に積み上げられていた円座を一つ手に取りながら、紫姫が勧めた。
紫姫の声に、三人がいたことを思い出した花梨は、再び顔を赤らめた。だが、それでも泰継の手の力は緩まない。

「泰継殿がお見えになったのが五日ぶりで積もる話がおありだとは言え、立ち話も何でしょう」

紫姫は花梨の隣、泰継の前に円座を置くと、「白湯を持って参りますわね」と言い残して退出した。




「お前たち、来ていたのか」

花梨を促し、紫姫が差し出した円座に腰を下ろしながら、泰継は勝真とイサトに声を掛けた。今気付いたかのような口振りに、イサトが座ったまま思わずずっこける。
泰継の言い様に苦笑した後、勝真が応じた。

「ああ。九条の辺りでイサトと偶然会ったんでな。久しぶりに顔を見せに来たんだ」
「そうか」
「相変わらず忙しそうだな」
「然程でもない」

京職である勝真は、官位を持つ貴族とは言え、大内裏で職務に当たっているわけではない。そのため、陰陽寮での泰継の仕事ぶりについて詳しく知っているわけではなかった。しかし、大内裏に勤める元・八葉の仲間達から聞いたり、町を見回っている時に噂を耳に入れたりしていたので、寮の仕事以外にも泰継の元に次々と個人的な依頼が持ち込まれているらしいことは知っていたのだ。
仕事や役目には熱心な泰継のことだから、また自らの身を顧みず、花梨に心配を掛けているのではないかと思って訊ねてみたのだが、本人にはどうやら自覚がないようだ。
(まあ、どんなに仕事が立て込んだとしても、こいつは涼しい顔でこなしちまうんだろうが)
花梨に向けていた微笑みを消して、いつもの無表情に戻った端正な顔を見つめながら、勝真はそんな事を考える。
(有能過ぎるというのもある意味損だよな。自分の子を身籠った妻の元へも思うように通えないんだから……)
余計なお世話かもしれないが、泰継の代わりにそう思い、嘆息した。

「まあ、花梨を心配させるようなことはするなよな」
「無論だ」

言葉は短いが、一応花梨に余計な心配を掛けたくないという思いはあるようだと確認し、勝真は安心した。


「さて、花梨の顔も見たし、そろそろ仕事に戻るとするか」

言いながら、勝真は立ち上がった。それを見たイサトが不満気な顔を見せた。

「もう帰るのかよ、勝真?」

まだ来てそれ程経っていないだろうと言いたげなその表情に、勝真は苦笑する。

「お前も使いの帰りなんだろ? 僧正様に結果を報告しなくていいのか?」
「あ……。そうだった……」
「ほら、行くぞ」

東寺への使いの帰りだったことを思い出したイサトは、渋々立ち上がった。
立ち上がった二人を見て、花梨が声を上げた。

「えっ? 二人とも、もう帰っちゃうんですか?」
「五日ぶりなんだろ? 今日は夫婦水入らずで過ごせよ」

勝真が掛けた言葉に、花梨の顔はパッと赤く染まった。そのまま隣に座る泰継に顔を向けると、物問いたげな視線で見つめる。泰継はそんな花梨の視線に、微笑みながら頷くことで応えた。

(今日は一日お休みが取れるの?)
(ああ。今日はお前と過ごそう)

夫婦の視線のみの会話は、恐らくそんなところだろう。

「じゃあ、またな」
「うん。二人とも、また来てね」
「ああ」
「子供が生まれたら、見に来るよ」

そう言い残して、乳兄弟の二人は紫姫の館を後にした。





四条の館を出た二人は北に向かって小路を歩いていた。比叡山の麓に在る寺に戻るイサトに、見回りの仕事に戻る勝真が同道したのだ。
四条の館の総門が小さくなった辺りで、イサトが勝真に話し掛けた。

「花梨の奴、結婚しても泰継しか目に入ってないみたいだな。怒鳴られると思わなかった」
「お前、思った事を素直に口にし過ぎなんだよ。時と場所と相手を考えて発言しろ」

イサトの頭頂にこつんと軽く拳骨を落とす。

「痛っ! でもよぉ、勝真だって、オレと同じ事を考えたんだろ?」
「まあ、否定はしないが……」
「ほらみろ」

イサトが口を尖らせながら呟いた。同じ事を思っていながら、自分だけが花梨に怒鳴られたのが気に入らないのだ。
そんなイサトの反応を見て、相変わらずだなと考えた勝真は、口元を綻ばせた後、視線を前方に向けた。もう少し歩くと、泰継と花梨が暮らす三条の屋敷の近くに出るはずだ。
そんな事を考えながら歩を進めるうちに、ふと先程の花梨の言葉が耳に蘇った。

「『表情が“無い”んじゃなく、“控え目”』、か――」

突然呟かれた言葉に、イサトは勝真の横顔を見上げた。

「確かにあいつ、花梨と出逢って一緒に行動するうちに、少し印象が変わったよな」

花梨が京に来て最初に出会った人物は泰継だったのだと聞いている。その後数日間、花梨は泰継と二人で京の町を散策し、八葉を捜していた。勝真が二人と出会ったのは、その頃だ。
北山に庵を構える安倍家の陰陽師については、勝真も以前から噂を聞いて知っていた。その噂の人物と初めて会った時の印象を、勝真は今も鮮明に覚えている。それは、
――信頼出来そうな奴だが、ちょっと無愛想過ぎないか?
というものだった。北山に庵を結び、滅多に町に下りて来ることはないという噂の人物だけに、人付き合いというものをしたことがない所為なのだろうとは思ったものの、想像以上の愛想の無さだったのである。
しかし、そんな泰継も、花梨の八葉として共に行動するうちに、次第に柔らかな表情を見せるようになっていた。もっとも、彼がそんな表情を見せるのは、花梨の前だけだったのだが。
不意に、勝真がくすりと笑い声を漏らした。

「今のあいつに似た女の子だったら、少なくとも四六時中無表情ってことはないだろ。微笑みも見せるだろうと思うぜ」
「正直、さっきの泰継の態度には驚いたけどよ。あいつ、絶対オレたちのことなんて目に入ってなかっただろ?」

――人前でイチャイチャしやがって。
口を尖らせながら、イサトが言う。

「まあ、そう言ってやるなよ。所詮、似た者夫婦なんだからさ」
「確かにそうだな」

勝真の言葉に同意して、イサトは笑みを浮かべた。
花梨も泰継も、結局互いのことしか目に入っていない、傍迷惑な夫婦なのだ。

「でもさ、泰継の奴、あの調子じゃ、花梨に似た女の子が生まれて来て、将来その子のところに男が通って来たりなんかしたら、何しでかすか分からないな」
「何って……。足止めのまじないとかか?」
「それで済みゃいいけど。例えば、呪詛とか……」
「まさか。色んな意味で常人離れしたところのある奴だが、禁忌を破るような真似をするとは思えないな」
「そうかなぁ。花梨や子供のためなら、何でもやりそうだぜ?」

疑り深そうな表情を浮かべてイサトが言う。
そんなイサトに、勝真は呆れた表情を見せた。

「イサト。お前、花梨の前で言ってみろ。今度は怒鳴られるだけじゃ済まないぞ」
「怒鳴られるより、目の前でイチャイチャされる方が堪える……」

顔を顰めるイサトに笑いを誘われ、勝真は声を上げて笑った。
その晴れやかな笑顔を見て、イサトは思う。
こんな風に、昔のように勝真と笑い合えるようになったのは、花梨のおかげだ、と。
(勝真やオレもそうだけど、泰継や他の八葉達も花梨のおかげで良い影響があったもんな)
良い影響は特に泰継に表れたようだ。さっき勝真が言った通り、確かに泰継は出会った頃とは少し印象が違って来ている。今日、花梨に向けていたような優しい笑みを、他の者の前でも見せることが多くなったのだ。

「子供が生まれたらさ、また一緒に顔を見に行こうぜ」
「そうだな。どうせなら、皆も誘うか?」
「お、そりゃいいや。さすがに翡翠は無理かな?」
「さあな。知らせれば、伊予からすっ飛んで来そうな気もするが」

伊予の海賊の頭目も、共に戦った仲間達にかかれば形無しだ。
だが、あの三か月半余りの京を守る戦いの間に、花梨を中心にそれだけの絆を互いに結び合ったのは事実である。

「しかし、どっちに似た子が生まれるか楽しみだな」
「何なら皆で賭けでもするか?」
わくわくした様子で提案するイサトに、呆れたように勝真が言った。
「馬鹿。何言ってんだ。自分達の子供が賭けの対象にされたと知ったら、それこそ花梨に怒鳴られるだけじゃ済まないぞ」
「泰継に呪詛を仕掛けられたり、とか……?」
「馬鹿」

傍迷惑な夫婦を話の種にして、乳兄弟二人は笑い声を上げたのだった。







〜了〜


あ と が き
バカップルな継花のギャグが書きたくて作ったお話です。お笑い好きの関西人の血が騒ぐのか、時々ギャグを書きたくなるのですが、今回もやはりギャグになりきれず……。文章でギャグを書くのって難しいなと改めて思いました。
前回の犠牲者は安倍家の見習い陰陽師でしたが、今回はイサトくんです。彼、「はじめてのお食事」でも当てられ役をしているのですが、今回は思った事を素直に口にしてしまった所為で花梨ちゃんから怒鳴られる羽目になってしまいました。でも、泰継さん似の女の子に関する彼の想像は、当事者夫婦以外の誰もが一度は考えたのではないでしょうか。
イサトくんが泰継さんの真似をして言った「問題ない」の台詞は、CD「雪月花」収録のミニドラマ「とりかえばや物語?」を意識しています(笑)。あのミニドラマはタイトルからも判る通り人格入れ替わりネタなのですが、泰継さんはイサトくんの中に入ったことになっているのです。(ちなみに、泰継さんの中に入ったのは泉水さんだったり……)
イサトくんがご出演となれば、やはり乳兄弟好きな私としては、勝真さんにも登場してもらいたくて、一緒に出てもらいました。イサトくんと同じ事を考えながら、それを口にしなかった勝真さん。個人的なイメージなのですが、「遙か2」の八葉の中では意外と彼が一番常識人のような気がします。単に、八葉全員にギャグをやらせると、うちでは彼が一番まともな反応をするからなのですが(笑)。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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