物忌み

「元通り北山の庵で暮らしていくことになるだろう。――あとは、このまま消えるまで在るだけだ」



泰継がそう答えた瞬間、花梨は瞠目したまま、凍り付いたように動けなくなった。







崇道神社に置かれていた御霊を封印し、京を分断する結界の要の一つを壊したことにより、京の町に遅い初雪が降ったのは、つい数日前のことである。
残されたもう一方の要を壊すため、今度は西の札を探そうと行動し始めた矢先、花梨の物忌みの日がやって来た。怨霊を封印する力を得てからこちら、以前より物忌みすべき回数が増えたのだ。
早く残る西の札と南の札を探し出したいと考えていた花梨にとって、外出することが出来ない物忌みの日は、本来であれば退屈なだけの一日である。実際、京に来た当初はまだ八葉達とはあまり親しくなく、しかも龍神の神子と認められてもいなかったので、どちらかと言えば気まずい時間を過ごさなければならない、嫌な一日であった。
しかし、日々神子の務めに忙殺されるようになった今となっては、想いを寄せた人物と丸一日二人きりで過ごせる数少ない機会なのだ。
だから、今回の物忌みにも泰継に付き添いを依頼する文を出し、こうして朝から来てもらったのだった。
八葉の務めに熱心な泰継のことだから、文を出せば必ず来てくれると分かってはいるのだが、実際に姿を見せてくれるとやはり嬉しい。しかも、初めて文に添えてみた石蕗の花を気に入ってくれたらしく、滅多に見せない柔らかな笑みを浮かべた泰継を見て、花梨の頬は朝から緩みっぱなしだった。

ところが――…


「泰継さんは、八葉の務めが終わったらどうするんですか?」


何気なく、ふと頭に思い浮かんだその疑問を泰継に問い掛けてみたところ、返された答えがそれで……。





泰継の答えに言葉を失った花梨は、顔を曇らせ俯いてしまった。
視線を落とすと、膝の上に置いた自分の手が水干の裾を握り締め、微かに震えているのが目に入る。

何故か無性に悲しくて、泰継の顔を直視することが出来なかった。
押し寄せて来る悲しみに胸が押し潰されそうな、そんな感覚に囚われそうになる。


――どうして、こんなに悲しいのだろう?


泰継の言葉が、まるで矢となって突き刺さったかのように、胸がキリキリと痛んだ。




「どうした、神子。何故そのような顔をするのだ?」

悲しげな表情を浮かべて俯いてしまった花梨を不審に思ったのか、泰継がそう訊ねて来た。その問い掛けが、更に花梨の心に影を落とす。
気を抜くと潤みそうになる瞳を隠すため、花梨は俯いたまま首を横に振った。俯いていても、自分を見据える泰継の視線が感じられた。
恐らく、気を探られているに違いない。
そう考えた花梨は、意を決して顔を上げた。

「何でもないです」

明るい笑顔を無理に作り、花梨は何とかそう答えた。偽りを口にした所為か、鼓動が少し速くなる。

「…………」

普段であれば、「気が乱れている」と即座に指摘する泰継だが、口を閉ざしたまま、花梨の心の内を探るようにじっと見つめている。
泰継と視線を合わせた瞬間、花梨は胸の奥に疼きを覚え、笑みを消した。
自分を見据える泰継の表情が、出逢った頃の彼がそうだったように、誰をも寄せ付けないような無表情だったからだ。

「そうか……」

やがて小さく溜息を吐くようにそう答えると、泰継は花梨から逸らした視線を庭に向けた。
昨夜降り積もった雪が融けずに残り、庭木が薄っすらと雪化粧している。四条の館を訪れた頃には止んでいた雪が再び降り始め、その上にさらに化粧を重ねるように舞い落ちて行くのが見えた。


その様子を見つめたまま、それきり泰継が口を開くことはなかった。







夕刻になり泰継が帰るまでの間、結局花梨と泰継は殆ど言葉を交わすことなく、まるで出逢った頃のような気まずい時間を過ごした。
こんなことは、泰継が花梨を神子と認めてからこちら、一度としてなかったことだった。
もうすぐ、花梨の龍神の神子としての務めも、泰継の八葉としての務めも終わる時がやって来る。それまでに、少しでも長い時間彼と過ごしたくて、今日の物忌みにも来てもらった。
だから何か話さなくては――と思った花梨だったが、舞い落ちる雪をじっと見つめる泰継の横顔を見て、話し掛けることが出来なくなってしまった。無言のまま外を眺める泰継と自分との間に、まるで目に見えない壁のようなものが存在しているかのように、彼を遠く感じてしまったからだ。
つい先日まで、北の札を探すために、毎日のように泰継と共に散策に出掛けていたが、その時はそのような距離を感じたことはなかった。崇道神社の御霊を祓いに行った際にも同行してもらったが、その時も特に変わった様子はなかったと思う。
だが今日は――…。

(私……。もしかして、泰継さんに避けられてる?)

頭をもたげて来た考えに、花梨の表情が曇る。
京に来て最初に出逢った人物が泰継だったこともあり、彼は常に花梨に最も近い位置にいた。それ故、常に傍にいて守ってくれる泰継に、花梨はいつしか淡い想いを抱くようになっていた。
しかし、自分の中に芽生えたその想いを、花梨が口にすることはなかった。京を守るため神子として行動している現在、他の誰よりも八葉の務めに熱心な泰継に、想いを告げる勇気が無かったからだ。
だからこそ、神子の務めで毎日のように共に行動するうちに、少しずつ泰継との距離が縮まって来たことを感じることが出来るだけで、花梨は嬉しく思っていた。特に神子と認めてくれてからは、彼自身の事や彼と同じ出自であるという泰明の事など、言わばプライベートな事も話してくれるようになった。そして、北の札を探している間に、急速に泰継との距離が縮まったことも、花梨にははっきりと感じられたのだ。
だから、泰継が一度縮まった自分との距離を再び広げようとしているらしいことにも、ずっと彼だけを見つめて来た花梨には、敏感に感じ取ることが出来たのだった。

――何故今になって、泰継は自分との間に一定の距離を保とうとしているのだろうか。

泰継が態度を変化させた原因を考えた花梨は、ふと一昨日の出来事を思い出した。





一昨日は、本来であれば西の札を探すために白虎の二人と出掛けるつもりだったのだが、幸鷹が急用のため来られなくなり、翡翠と泰継と共に散策に出掛けることになった。
いつものように、怨霊を封印したり土地に宿る五行の力を高めたりしながら洛北を中心に歩き、最後に訪れた船岡山で、泰継の最後の心のかけらを取り戻したのだ。

「全部取り戻せて良かったですね、泰継さん!」

花梨が京に来て泰継と出逢った日、帝を支持する八葉達の心の中に何かが侵入し、奪って行ったという心のかけら――。
それは深苑が言った通り、生きて行く上では無くても特に支障はないものらしいが、勝真の、彰紋の、翡翠の、そして泰継の一部であり、大切なものであるはずだ。そう思ったからこそ、花梨は怨霊退治や土地の力を上昇させるという神子の務めの合間に、出来るだけ奪われた心のかけらを取り戻そうと努力していた。
だから、最後のかけらが戻って来たと話す泰継に、湧き起こって来た安堵の気持ちから、自然とその言葉が零れ出たのだ。
しかし、心のかけらを取り戻すことは、必ずしも八葉達にとって喜ばしいというだけではないらしい。それは、心のかけらを奪われた四人の中でも、泰継の反応に最も強く表れていた。
初めて心のかけらが戻って来た時も、二つ目の時も、三つ目の時も、泰継だけは他の三人とは違い、毎回辛そうな表情を見せたのだ。しかも、心のかけらが戻った後は、殆ど口を開くことが無かった。元より口数が少ない人物ではあるが、心のかけらを取り戻した日の泰継が普段以上に寡黙だったことは、誰の目にも明らかだったのである。

その事を思い出した花梨は、笑みを消して泰継の表情を確認した。
最後のかけらを取り戻した泰継は、案の定辛そうな表情を浮かべていた。それも、今まで花梨が見た事もないような、苦しげな表情を――。
それを見て一瞬目を瞠った後、花梨は忽ち表情を曇らせた。
彼にこんな表情をさせたくて、心のかけらを取り戻そうとした訳ではなかったはずなのに……。
花梨は無意識に胸元に遣った手を、ぎゅっと握り締めていた。

花梨の言葉から少しの間を置いて、泰継が口を開いた。

「神子がそう言うなら、これは良いことなのだろう。それなのに……」

自分に向けられた花梨の視線から逃れるように目を逸らすと、泰継は独り言のように呟いた。

「――何故、私は喜べないのだろう?」

ぽつりと呟くように吐かれた言葉。
その声音が苦しげに耳に響き、花梨は掛ける言葉を失ってしまった。

泰継はそれきり口を閉ざしてしまい、館への帰り道もずっと無言のまま、何事か考え込んでいるようだった。
心のかけらを得た後の彼は、いつもそうだった。
いつものこと――そう、納得しようとした。


実際、泰継は昨日もいつも通り早朝に館を訪れ、白虎の二人と共に散策に出掛ける花梨を見送ってくれた。散策中もその後の泰継の様子が気になり、館に帰ってから紫姫に訊ねたところ、彼はいつも通り館の清めを行って帰ったと教えられた。
特に変わった様子は見られなかったと聞いて安心したこともあり、今朝此処にやって来た泰継を見て、一昨日感じた不安は、花梨の内から一瞬にして消え失せてしまったのだ。
今まで通り、前夜送った文に応えて来てくれた。
そして、「石蕗の花が良い」と――、そう言った泰継の顔には、いつも通り優しい微笑みが浮かんでいたから……。
だから、彼が一昨日見せた辛そうな表情や苦しげな声音を忘れて、つい、あんな事を訊ねてしまった。


『泰継さんは、八葉の務めが終わったらどうするんですか?』


思い掛けない質問だったのか、泰継は珍しく双色の目を見開いていた。


――その後からだ。

泰継がはっきりと花梨を避けるような態度を取り始めたのは――…。





薄暗い室内で、燈台の炎がゆらゆらと揺れている。
そちらに視線を向けてはいたものの、物思いに沈んでいた花梨の目は、揺れる炎を捉えてはいなかった。すぐ傍に置かれた火桶の炭が爆ぜる音さえ、耳に届かない。
次第に形を取り始めた自らの疑問に対する答えに、花梨は虚空に視線を遣ったまま、ただ呆然とすることしか出来なかった。




一体、自分はどんな答えを期待していたのだろう?

八葉として龍神の神子を守ることが自らの存在意義なのだと、はっきりとそう言った泰継に――…。


泰継の八葉の務めが終わる時――。

それは同時に、花梨の龍神の神子としての務めが終わる時でもある。
務めを終えた神子は、恐らく元の世界に帰らなければならないのだろう。
龍神の神子は、京に危機が訪れた時に現れる者。
それ故、京から危機が去れば、最早此処に留まる理由がなくなるのだから。
“天へ帰った”と言い伝えられている百年前の神子も、恐らく務めを終えた後、元の世界へ帰ったに違いない。

もし、花梨が元の世界に帰ったら――…。
神子という存在を失った泰継は、再び自らの存在意義を失うことになるのだろうか。
九十年もの長い間探し求めた末、やっと手に入れた、自身が造られた意味を。
その後、彼は一体どうなるのだろう?


『このまま消えるまで在るだけだ』


泰継が口にした言葉を思い出した瞬間、まるで電流が走ったかのように、身体がびくっと震えた。きつく締め付けられたかのように、キリキリと胸が痛む。あまりの苦しさに、花梨は胸元を手で押さえ、ぎゅっと水干を握り締めていた。


(私……、馬鹿だ……)


訊いてはいけない事を訊いてしまったのだと悟った。
泰継が長い歳月をかけて漸く見出した、自分という存在が在る意味。
それを失った後、自分がどうなるのか、彼が考えていないはずはない。
一度手にした長年の思索に対する答えを再び失うことを最も恐れているのは、彼自身であるに違いない。
だからこそ、泰継にあんな事を言わせてはいけなかったのだ。
彼は、偽りを口にすることが出来ない人なのだから。

自分の迂闊さに気付き、花梨は強く唇を噛み締めた。


泰継が自分を避けようとするのも無理はない。
―――そう思えた。


血が出るのではないかと思われるほど強く噛み締められていた唇が、やがて小刻みに震え始めた。


『元通り北山の庵で暮らしていくことになるだろう』


彼がそう答えた時、何故あんなに悲しかったのか、花梨は漸く理解した。
何気なく発した問いは、泰継の答えを介して、今まで花梨が無意識に目を背けていた事実を、花梨自身に突き付ける結果となったのだ。

すべてが終わった後、花梨は元の世界に帰り、泰継はこれまで通り、京で生きて行くことになる。
何もかも、花梨が京に来る前と変わらず――。

そんな事は、初めから解っていたはずだった。
それなのに……。

いつの間にか強く望んでいる自分がいる。


すべてが終わった後も京に留まり、泰継の傍にいることを――…。


『泰継さんは、八葉の務めが終わったらどうするんですか?』


泰継にそう訊ねた時、自分がどんな答えを期待していたのか、花梨は漸く気が付いた。

“神子は、私が守る――”

そう言って、いつも傍にいてくれた泰継。
最近になって以前よりもさらに近い存在となった泰継に、神子と八葉の務めが終わった後も「傍にいる」と言って欲しかったのだ。
もし、京に残ることが出来たら、ずっと彼の傍にいたいという願いが叶うかも知れないと、心の奥底で淡い期待を抱いて――…。


(馬鹿だ……。泰継さんがそんな事言うはずがないのに……)


泰継が今、傍にいてくれるのは、自分が龍神の神子だからだ。
八葉の務めを終えた泰継に、役目を終えた神子を守る義務はない。
それに、泰継が必要としているのは“龍神の神子”だ。自らの存在意義を八葉の務めに見出している彼が、どうして“高倉花梨”という平凡な少女を必要とするだろうか。神子という役目を終えて、怨霊を封印する力も五行の力を操る力も失くしてしまった、ただの少女を。
もし仮に、京に残りたいという我儘な願いを龍神が叶えてくれたとしても、泰継は花梨が此処に残ることを反対するだろう。
彼は陰陽師。
他の誰よりも自然の理を重んじる立場にあるのだから――。



「……あ…っ…!」


胸が張り裂けそうな強い痛みを感じた時、今まで抑え続けて来た想いが涙となって溢れ出た。
堰を切ったように止め処なく流れ落ちる涙が、それを拭おうと目頭に添えた指先を伝い、瞬く間に手の甲を濡らして行く。
肩を震わせた花梨は、部屋の外に声が漏れないよう、必死に嗚咽を堪えた。

(泰継さん…、泰継さん…、泰継さん……っ!)

悲しみに押し潰されそうな胸の痛みに耐え兼ね、縋るように何度も繰り返し想い人の名を呼ぶ。


ずっと傍にいたいと願った、そして、ずっと傍にいて欲しいと願った、唯一人の人。
いつからなのか、自分でも分からない。
もしこの想いが届くことがなくても、二度と会えなくなるよりは良いと思い、元の世界を捨てても此処に残りたいと強く願うようになっていた。

彼が生きる、この京に――…。



『あとは、このまま消えるまで在るだけだ』


心の中で泰継の名を呼びながらその姿を思い描いた時、昼間の彼の言葉が耳に蘇り、花梨はぴくりと肩を揺らせた。
涙に濡れた瞳が大きく見開かれる。
瞬きした瞬間、瞳に溜まっていた雫が頬を伝い、流れ落ちて行く。
それを拭うことも忘れ、花梨は視線の先にある燈台の炎が隙間風に揺れる様をじっと見つめていた。


“消える――…”


泰継が口にしたその言葉が、まるで木霊のように頭の中で繰り返し響いた。

(泰継さんが、消える……?)

儚げに揺らめいていた燈台の炎が目の前でふっと消える様が、花梨の脳裏を過ぎった。
消え去った炎の幻影と泰継の姿が重なった瞬間、ぞくりと背筋に悪寒が走るのを感じ、花梨は自分自身を抱き締めた。
彼がこの世界の何処にも存在しなくなったらと想像するだけで、両肩を抱いた手ががくがくと震えた。


『私は人ではない。
 それ故に、八葉の任半ばで前触れもなく消えはしないかと、心配なのだ』


――消えてしまっては、神子を守ることができなくなってしまうから――…。


あの日、二人きりで出掛けた糺の森で、そう語った泰継。
龍神の神子を守ることが自らの存在意義なのだと話していた彼が最も恐れているのは、八葉の役目を果たせないまま消滅することなのかも知れない。

(でも……)

花梨の内に疑問が湧き起こる。

彼は本当にそう思っているのだろうか?
本当に、ただ神子の道具として、八葉の役目を全うするだけで満足なのだろうか?

確かに八葉の務めに自らの存在意義を見出している泰継は、他の誰よりも務めに熱心だった。院を狙って仕掛けられた呪詛を祓うために、院に与する八葉と共に行動していた数日間以外、毎日のようにこの館に来てくれていた。物忌みの日も、毎回花梨が送った文に応えて来てくれていたのだ。
だから、泰継が現在最も力を尽くしていることが、八葉の務めを果たして京を救うことであることは明らかだ。

その役目を終えた後、再び北山で隠遁生活を送ることで、彼は満足なのだろうか。
自らの存在が“消える”、その日まで―――。


そこまで思考が及んだ時、花梨はふるふると首を横に振っていた。

(――違う。泰継さんは……)

花梨はあの日、糺の森で泰継が話していた事を思い出した。
彼はこう言っていたのだ。

『心のかけらを得て、先代のようになりたいと願っていたことを思い出したのだ』、と――。

先代――泰継と同じ出自である泰明は、八葉の任を経て人になったのだという。
それならば、彼の本当の願いは……。


(泰継さんは、泰明さんのように人になりたいと願っているの?)


泰継自身がどう思っているのかは、確かめた訳ではないから分からない。
しかし、泰明の事を話す時、普段あまり感情を表に出さない彼の言葉の端々に、明らかに羨望の気持ちが表れていたことを、花梨は確かに感じ取っていた。
泰明が残した書付けから推測できる、彼が持っていた強大な力。
そして、神子を守り、神子と共に京を守るという、泰継自身にも現在課されている八葉の務めを無事に果たし終えたこと。
それらに対してだけでなく、泰明が八葉の任を経て人になったということに対しても、泰継は憧憬と羨望の気持ちを抱いているのではないだろうか。
同じ出自であるからこそ―――。

そう考えた時、花梨はある可能性に思い至り、大きく目を見開いた。

(そうだ。泰継さんは晴明さんの陰の気を泰明さんと分け合って造られたんだって、そう言ってたじゃない……)

どうして今まで気付かなかったのだろう。

もし、安倍家で語り継がれて来た言い伝えが真実であるのならば――…。



――もし、泰明が人となることが出来たのであれば、彼と同じ出自である泰継にも、その可能性があるということではないだろうか?



花梨は自分自身を抱き締めていた手を放し、居住まいを正した。
膝の上に載せた手を無意識に握り締め、燈台の炎を真っ直ぐに見据える。
花梨の心の内を反映するかのように不安げに揺れていた炎は、いつの間にか真っ直ぐに立っていた。その様子からは、先程花梨が見た、炎が消える幻影を思い浮かべることは出来ない。
思い浮かべることが出来るとすれば、それはむしろ想い人の背筋を伸ばした美しい立ち姿――。
凛として燃える炎の姿は、まるで一瞬前まで目の前すら見えないくらいの闇に閉ざされていた花梨の心に灯された、唯一の希望の灯のように感じられた。


(もし、泰継さんが人になれたら……)


もし泰継が人になれたら、人として生まれ変わった彼は、人としての生を生きて行くことが出来るのだろうか。
今までのように、三ヶ月ごとに目覚めと眠りを繰り返すこともなく、また、周囲の人間から年を取らないことを気味悪く思われたりすることもなく――。
そして何よりも、ある日突然その存在が消え去ることに怯えることもなく、一人の人間として幸せな人生を送ることが出来るのだろうか。


――私は泰明より力がないから人になることは出来ない。


泰継自身はそう考えているのかも知れない。だから、八葉の務めを終えた後どうするのかと問われ、あのように返答したのだろう。
しかし、花梨にはそうは思えなかった。


生まれてから九十年という長い歳月の殆どを、たった独り北山の奥深くで過ごして来たという泰継。
それを淋しいと思うことさえ知らずに生きて来た彼に、幸せになって欲しい。
彼に消えて欲しくない。
彼を、失いたくない―――。


そう考えることは、自分勝手な我儘な願いなのだろうか?


自分自身の考えを振り切るように首を横に振ると、花梨はきりりと眉を上げて灯影を見据えた。
その面には最早迷いはなく、決意に満ち溢れていた。


我儘でも構わない。
自分勝手と言われようと、この願いだけは消し去ることが出来ない。


―――ただ、泰継さんに生きていて欲しい――…。


泰明のように人になることが、泰継が消えずに済む唯一の方法であるなら、花梨に出来る事は唯一つ――。
泰継が泰明と同じ道を辿れるよう、手助け出来るのならばするだけだ。


(でも、一体どうしたら良いんだろう……?)


花梨は小首を傾げて考え込んだ。
どうして泰明が人となれたのか、その理由が判らないことに、今更ながら気が付いたのだ。
「泰明は八葉の務めを経て人になった」と、泰継は言っていた。
しかし、そう話していた泰継自身、泰明が人となれた理由については知らない様子だった。理由は判らないが、泰明が人となったのを目の当たりにしたはずの泰継の師は、彼にそのことを伝えなかったのだ。そして、恐らく泰明が残したという書付けにも、それについては触れられていないのだろう。

八葉の務めを終えて――ということは、まず無事京を救うことが不可欠であることは言うまでもない。
他に何が考えられるのだろうか。

(泰継さんの心のかけらは、一昨日戻ったのが最後だって言っていたし……)

あれから二日経つが、見たところ泰継の身に何か変化が起きたようには思えない。
だから、心のかけらを取り戻すことは、泰継にとって必要な事ではあっても、必ずしもそれが造られた存在である彼を人とならしめるために不可欠なものという訳ではないのだろう。


灯火を見つめたまま、花梨は思考を巡らせる。
そして、ふと気が付いた。

(そうだ。もしかしたら、安倍家のご当主が何か知っているかも知れない)

泰明の書付けにも記されていないことであれば、資料として目に見える形では残されてはいないのだろう。
だが、安倍家の歴代当主が口伝としてそれを伝えている可能性は零ではない。
泰明が人となり、京を去ったということは、安倍家では現在まで言い伝えられているのだから。
泰明が京を去って百年――。
現在の当主は、泰明の師、晴明の子であり、泰継の師であった吉平の曾孫に当たるのだと聞いている。
泰継本人には伝えなかった吉平も、次代の当主となるはずの我が子には、伝えているのではないか。
一縷の望みをかけて、花梨は安倍家の当主に会うことを決意した。







花梨が龍神の神子の務めを、そして泰継が八葉の務めを終えた時――。


その時、待っているのは、愛する人との別離なのかも知れない。



(――それでも、泰継さんに生きていてもらいたい―…)




ただ、泰継を失いたくないという思いだけが、花梨を突き動かしていた。







〜了〜


あ と が き
第四章前半の物忌みを題材にしたお話です。
初めて「遙か2」をプレイした時、泰継さん狙いでプレイしていたため、物忌みには毎回泰継さんを指名していました。そして大切な恋第三段階を済ませて迎えた第四章前半の物忌み。50のお題の「思い出」のあとがきに書いた通り、火属性神子でプレイしていた私は、物忌みが第四章が始まって三日目だと知り、明王の課題を放り出して二日目に泰継さんを連れて逢坂山に向かい、苦手な蹴鞠演技でロードしまくりながら、なんとか泰継さんの好きな石蕗を入手しました。ところが翌朝、泰継さんの笑顔を見て喜んだのも束の間、「八葉の務めが終わったらどうするんですか?」の質問に対する彼の答えがあれで……。「恋愛イベント進行中なのに、継さん、冷たすぎ」と思ったものです(^^;
そこで、「彼がそう答えた理由は何だ」と考えて作ってみたのがこのお話と、これの対になる泰継さんサイドのお話でした。(冷たい泰継さんが受け入れられず、話を捏造したとも言う(笑)。ちなみに、うちの花梨ちゃんは私と同じく火属性神子の設定なのですが、ここでは話の都合上、物忌みは三日目ではなく四日目という設定になっています。)
花梨ちゃんは前向きなので、「なんとしても泰継さんを人にするぞ!」と決意したようです。当初の予定と全く違う展開だったりするのですが……(^^; それにひきかえ泰継さんは……。泰継さんサイドのお話は、お題「嘘」になる予定です。
また、このお話の続き、花梨ちゃんが安倍家の当主に会う話も、お題「理由」として書く予定です。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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