夕刻、花梨を紫姫の館に送り届け、数日間行っていなかった館の清めと結界の見回りをした後、安倍家の離れに戻った泰継は、ふと簀子縁の上で足を止めた。
庭に視線を遣ると、泰長が用意させたのか、普段離れの庭には焚かれていない篝火が焚かれている。そのため、いつもならば日が沈むと漆黒の闇に包まれる庭が、今宵は仄かに明るい。
泰継は花梨の物忌みの日の夜、独り物思いに耽ったのと同じ場所に座り、空を見上げた。澄んだ冬の空気の中、あの夜よりも満ちた月が、冴え冴えとした光を地上に落としているのが目に留まる。
冬の夜に外に居るというのに、何故か寒いとは思わなかった。
胸が温かかったからだ。
まだ、信じられない思いだった。自分が人になったということも、神子が自分の想いを受け入れてくれたことも。
“夢見心地”とは、このような心持ちのことを言うのだろうか。



「泰継殿!」

愛弟子の声に空から庭に視線を戻すと、泰長と天狗が此方に歩いて来るのが見えた。
普段は訪れる者のない静かな離れに、篝火が立てるパチパチという乾いた音と、降り積もった雪を踏み締めるサクサクという軽やかな音のみが響いた。
四条の館に花梨を送って行った泰継が戻るのを待ちかねたかのように、彼らが揃って離れにやって来たということは、何か用があるということだろう。しかし、泰長が手にした物に目を留めると、泰継は解せないという表情を浮かべた。泰長が持っていたのは、一本の瓶子と複数の杯だったからだ。

「何だ、二人揃って」
そう問い掛けると、小言を挟みながら、天狗が用件を明かした。
「そんな言い方はないじゃろうが。せっかくお主を祝ってやろうと思うて来たというに」
それを聞いて泰継が目を瞠った。
生まれてこの方、誰かに祝いなどされたことがなかったからだ。

「実は、昨日、大天狗殿と話していたのです。『泰継殿が人になられたら、三人で酒でも飲もう』、と――」
「酒?」
「ええ。泰継殿が人になられたことを祝い、ささやかながら宴を催そうと思ったのです」

そう言いながら手に持っていた瓶子を振って見せた泰長は、訝しげに眉を顰めた泰継の顔を見て、彼の疑問を感じ取った。
造られし者であった泰継は、三月ごとに眠りと目覚めを繰り返して来たこと以外にも、食事を一切摂らず、その身に気を蓄えることにより身体を維持するという、普通の人間とは全く異なる生理的特徴を持っていた。それ故、飲食というものをしたことがないのだ。泰長自身、泰継に弟子入りして北山の彼の庵で起居を共にしていた時期があるが、その間泰継が何かを飲んだり食べたりするのを見たことがなかった。
九十年もの長い歳月、それが当たり前のように過ごして来たわけだから、今日人になったとは言え、今までの習慣が直ぐに抜けないのは仕方のないことだろう。
ただ、泰継の場合、そもそも人になった自分が食事や睡眠を取ることが必要になったのだとは、認識していないように思われた。聡明なわりに、その出自と来歴の所為か、常識的な事が抜けていることが多い人であるから。
しかし、今後、今までと同様の暮らしをしたのでは、泰継は直ぐに身体を壊してしまうに違いない。
それを心配し、泰長は今日、泰継に実際に体験してもらうことにより、食事と睡眠の必要性を説くつもりで、三人きりのささやかな祝宴を催そうと考えたのだった。

冬の日は短く、酉の刻に入ったばかりだと言うのに、既に日が落ち月が昇っている。一般的に夕餉は申の刻に摂ることが多いので、少し遅めの時間帯だ。
――朝餉を摂らず間食もしていない泰継は、さぞかし腹を空かせているのではないか。
そう思い、泰長が訊ねた。

「泰継殿。腹は減りませぬか?」

泰長の問い掛けを聞いて、泰継は訝しげな表情を消して、目を瞠った。泰長が言わんとしたことを瞬時に察したのだ。
昼間、花梨の言葉に気付かされた。人になったからには、今後病を得ることも考えられるのだと。泰長は今後は食事することが必要なのだと知らせようとしているのだ。
師匠思いの弟子が自分を案じてくれているのだと嬉しく思う反面、泰長に何と答えれば良いのか、泰継には分からなかった。『腹が減る』というのがどういう状態を指すのか、未経験なので分からなかったからだ。

「……分からぬ…」

取り敢えず、正直にそう答える。
実に泰継らしい率直な返答だと思ったものの、少し困惑したような表情がいつもの泰継らしくないと、泰長は思った。「らしくない」というか、これまで彼が見せたことのない表情なのである。目覚めた後に見せた、神子に泣かれて心底戸惑った様子で助けを求めて来た時の表情も、これまでの泰継であれば考えられないものだった。
――人になり、泰継は変わりつつあるのかもしれない。
誰よりも敬愛する師の変化を嬉しく思い、泰長は口元を綻ばせた。

「まあ、直ぐに分からんでも良いじゃろ? 今後身を以って経験することになるのじゃからのう」

天狗が口を挟んだ。
泰継は今日から、人として様々な経験を積んでいくことになるだろう。言葉で説明されるより、自分自身で経験する方が理解しやすいはずである。泰明が人になれた理由を、自らも人になることで知ることが出来たように。

「それより、泰長。さっさと始めんかの?」

そう言うなり、天狗は泰長の手から瓶子と杯を奪うと、翼を広げて庭から飛び立ち、簀子縁に降り立った。そして、泰継の隣に遠慮なく腰を下ろすと、手にした杯の内の一つを差し出した。
差し出された杯をじっと見つめたまま、泰継がなかなか受け取ろうとしないので、痺れを切らした天狗は泰継の右手を取ると、無理矢理杯を押し付けた。

「儂はなぁ、こうしてお主と杯を交わす日が来ることを夢見ておったのじゃ。それが他ならぬ安倍の家で叶うとはのう。長い間待ち続けた甲斐があったというものじゃ」

話しながら、天狗は泰継が手にした杯に瓶子の酒を注ぐ。
杯に注がれた酒に視線を落とした泰継を見つめながら、天狗は百年以上前から今日までの出来事に想いを馳せた。


天狗と晴明は、妖しの存在と人間という異類ではあったものの、またとない親友同士だった。晴明が生きていた頃、酒好きの天狗は頻繁に安倍家を訪れ、彼と共に寝殿の濡れ縁で庭を眺めながら酒を酌み交わしたものだった。
しかし、晴明が亡くなった後、天狗が安倍家を訪れることはなくなった。この屋敷には彼との思い出が多過ぎて、何となく足が遠退いてしまったのだ。時の流れから取り残された存在であるが故、置いて逝かれることには慣れていたはずなのに、最も親しく交わった人間との別れが、思いの外辛かったのかもしれない。
それから二十年の歳月が流れた晩秋のある日、かつての親友の忘れ形見が北山に庵を結んだ。彼は晴明の陰の気を核として作られ、晴明の力を継いだ者だった。晴明の身体から陰の気を抜く際力を貸した天狗は、陰の気の塊を封じて作られた精髄だった頃から彼を知っていた。晴明の死後、その精髄に人型を与えたことを息子の吉平から聞いてはいたが、実際にその人型と会ったのは、彼が北山で暮らし始めた日が初めてだった。
以来、まるで子供の成長を見守る父親のように、誰よりも傍でずっと彼を見守って来たのだ。彼が、彼と同じ出自の泰明と同じ道を歩み、人になれるまで。

天狗の願いは今日叶い、泰継は無事人になった。
数百年生きて来た天狗にとっても、今日は忘れ得ぬ最良の日となったのである。
だから、天狗はこの喜びの日に飲まずにはいられなかった。
かつて晴明と共に杯を交わした彼の屋敷で、人になった彼の忘れ形見と直系の子孫と共に、百年の時を経て再び酒を酌み交わすことが出来ようとは、あの頃は予想もしていなかった。晴明が亡くなった時、もう二度と安倍の家に来る気にはならないだろうと考えていたから――。


「何をしておるのじゃ、泰長。お主も早う此方へ来んか」
泰継の隣に陣取った自分の隣を手で叩きながら、天狗は庭で式神に何やら告げている泰長に声を掛けた。
「直ぐに参ります」
天狗に早く始めようと急かされ、離れまで料理と酒を運ぶよう式神に指示していた泰長は、苦笑しながらそう返答した。こういう時、天狗は意外とせっかちなのだ。
命令を実行するため、式神達が厨に向かって飛び去るのを確認すると、泰長は漸く階に足を向けた。
「お二人とも、そのような場所で寒くはございませんか? 直ぐに火桶の用意が整うとは思いますが……」
「なに。酒が入れば、じきに暑いくらいになるじゃろうよ」
言いながら、階を上り歩み寄って来た泰長に杯を手渡す。
それを受け取った泰長は、天狗の隣ではなく、天狗とは反対側の泰継の隣に腰を下ろした。今宵の宴の中心は泰継だと考えたからだ。
腰を下ろすや否や、目の前に瓶子が差し出される。
「ほれ。早うせんか」
「はい。頂きます」
泰長が差し出した杯に、天狗は酒を注いだ。その後、自分の杯に手酌する。
酒を満たした杯に口を付けた天狗は、それを一息に飲み干した。
「こんな旨い酒を飲んだのは久しぶりじゃ」
はぁ、と満足気に息を吐きながら天狗が言うと、泰長が応じた。
「この日のために用意しておいた取って置きの酒ですから……。右大臣様より賜ったものですから、良い酒には違いないでしょう」
下級貴族に属する安倍家は決して裕福とは言えないが、出仕による収入以外にも、権門貴族から請け負った仕事による収入があった。この酒も、先日右大臣家で行った加持祈祷の報酬の一部として受け取ったもので、特別な日に飲もうと泰長が取って置いたものだったのである。
「なるほどのう」
言いながら再び手酌で酒を注いだ天狗は、泰継が先程から一言も発しないことに気付き、隣に目を向けた。泰継は杯を満たす酒に視線を落としたまま、固まったように動かない。
「どうしたのじゃ、泰継? お主もさっさと飲まんか」
「泰継殿。祝いの杯ですから、一口だけでもどうぞ」
幾分控え目にそう勧める泰長の言葉を受け入れ、泰継は漸く杯に口を付けた。
一口だけ酒を口に含み、物珍しげに舌の上で転がした後、それを飲み込んだ。
酒を飲むのは初めてなので、これが良い酒なのかどうかは分からなかったが、飲み込んだ酒が喉を通る時僅かに感じた熱さが心地良いと思った。
その様子を見ていた泰長と天狗が微笑んだ。
「ほれ、さっさと杯を空けんか」
二杯目を注いでやろうと、天狗が瓶子を泰継の前に差し出したまま、泰継が飲み干すのを待っている。
「大天狗殿。無理強いは良くありませんよ」
「そうは言ってものう……」
泰継を心配して窘める泰長に天狗が言い返そうとした時、簀子縁に三人の女房が現れた。普通の人間の目には只の女房にしか見えなかったであろうが、彼女らは泰長の式神である。
女房の姿をした式神達は、三人の前に高坏を置いて行く。
三人が姿を消すと、今度は離れの室内から別の女房が現れ、泰継と泰長の後ろ、丁度彼らの中間辺りに、炭をくべた火桶を置いて行った。
式神の姿が完全に消えるのを待って、天狗は口を開いた。

「実はなぁ、儂は泰明に酒を飲ませたことがあるのじゃ。晴明と一緒にのう」

泰継が弾かれたように顔を上げ、天狗の顔を見た。泰明の名に反応した泰継に、天狗はニヤリと笑いかける。
「あやつ、酒に酔わん体質のようじゃった。お主もきっとそうじゃよ。――だから、こやつの心配は無用じゃぞ、泰長」
言いながら、再び瓶子を差し出す。
急かすように目の前でゆらゆらと瓶子を振られ、泰継は観念したように小さく溜息を吐いた後、杯に残っていた酒を一息に飲み干した。
「おお、良い飲みっぷりではないか」
満面に笑みを湛え、天狗が言う。そして、泰継の杯に酒を注いだ後、今度は泰長に杯を空けさせ二杯目を注ぐと、瓶子を簀子の上に置いて自らも杯を空けた。
「雪景色に月――。良い景色じゃな」
「然様でございますね」
白い息を吐きながら感嘆の言葉を漏らした天狗に、泰長が相槌を打った。
彼らの遣り取りを無言のまま聞いていた泰継は、その言葉に誘われるように庭に目を向けた。
庭に焚かれた篝火の灯りが地面や前栽の木々の枝に残る雪に反射して、闇の中できらきらと輝いている。
空に目を向ければ、冬の澄んだ空気の中、まるで呼吸しているかのように瞬く星々と冴え冴えとした光を放つ月が見えた。
風に吹かれ、前栽の木々が微かに立てる葉擦れの音と、風に煽られ時折辺りに響く篝火の炎のパチパチという乾いた音以外に、耳に届く音はない。
静かに流れて行く時間に泰継が身を委ねていると、突然天狗が問い掛けて来た。

「どうじゃ? 答えは見つかったか?」

突然の問いに一瞬目を瞠った泰継だったが、直ぐに天狗の言葉の意味を理解した。

――泰明は何故人になれたのか。

そう問い掛けた泰継に対する天狗の答えはいつも、「その答えはお主が自分で見つけねば意味がない」というものだった。
つまり天狗は、泰継が人になったことにより、その問いに対する答えを得られたかと訊ねているのだ。

「ああ。見つけた」

今なら判る。泰明が人になった本当の理由が。
泰明は神子を守るために人になったのではなく、神子を愛したが故に人になったのだと。

そう話す泰継の顔には、これまで天狗にも泰長にも見せたことがない柔らかな微笑みが浮かんでいる。
――もしかしたら、神子のことを思い浮かべているのかもしれない。
自らの考えに泰長が笑みを浮かべた時、天狗が泰継に語り始めた。

「あれは、ちょうど百年前の春のことじゃった。京を支配しようと企む鬼の一族から京を守るため、異世界から龍神の神子が召喚されたのじゃ」

昔話をするように天狗が語り始めたのは、先代の龍神の神子と先代の地の玄武であった泰明のことだった。
語る天狗の顔には、いつもの揶揄うような表情はなく、ただ懐かしい人々が目の前にいるかのような柔和な笑みだけがあった。
それに気付いた泰継は、手に持っていた杯を簀子の上に置いて、天狗の話に耳を傾けた。

天狗が最初に話したのは、昼間花梨が天狗から聞いたと泰継に話したものと、同じ内容の話だった。つまり、天狗がこれまで泰継に隠していた、先代の神子の地の玄武に選ばれた泰明が、八葉の務めの間に神子と恋に落ち、神子を愛しいと思うその感情を得たことから人になったこと、そして、役目を終えて元の世界に帰る神子と共に異世界へと旅立ったことである。

「儂は、神子が現れさえすれば、お主も人になると信じておったよ」

だから、何度訊ねられても、今までこの話をしなかったのだと話した天狗に、泰継は思わず目を見開いていた。
恐らく天狗がそう考えていたのだろうということは、自分が人になった理由を知った時に、泰継も理解したつもりだった。
しかし、改めて天狗の口から聞かされると意外な気がして驚いてしまう。北山で暮らした七十五年間、天狗はそんな事を一度も口にしたことがなかったからだ。

「……しかし、神子が現れたからと言って、私が八葉に選ばれるとは限るまい」
「泰明が選ばれたというのに、お主以外の誰が選ばれるというのじゃ。お主も泰明も、晴明と吉平、そして儂の自慢の息子じゃというに」

天狗はさも当然と言わんばかりに、さらりと告げる。
天狗の言葉を聞いて、泰継は軽く目を瞠った後、視線を簀子の上に落とし、考え込む。

(何故だろう。胸が熱い……)

今のこの気持ちを何と呼べばいいのだろう。
天狗から息子扱いされることに反発していたはずなのに、今夜は違った。
――嫌な感じがしないのだ。
むしろ、嬉しいような、くすぐったいような、今まで感じたことのない心地がする。天狗の口調にいつもの揶揄うような調子がないからだろうか。それとも、人になり、今までと物事の感じ方が変わった所為なのだろうか。
もしかしたら、初めて飲んだ酒の所為なのかもしれない。天狗の言うように、泰明と同じく自分も酒には酔わないのかもしれないが、生まれて初めて感じたと断言できるこの高揚感は、酒に酔っているのとなんら変わりはないような気がした。
泰継がそんな事を考えていると、二人の遣り取りを黙って聞いていた泰長が口を挟んだ。

「泰継殿は、私の自慢の師匠でもあられますから」

口元に笑みを浮かべながらそう言うと、泰長は杯に口を付けた。
泰継が顔を上げ、隣に目を遣ると、ちょうど杯を口元から離した泰長と目が合った。目が合うと、彼は微笑みかけて来た。
二人とも、“自慢の”という言葉を使ったが、泰継には彼らが自分の何を自慢に思っているのか判らなかった。
だが、嫌な思いは生じない。
愛弟子に笑みを返すように、泰継はいつの間にか口元を綻ばせていた。
ふと、泰長の杯が既に空いていることに気付き、簀子に置かれた瓶子を手に取ると、泰継は愛弟子に杯を此方に差し出すよう促した。
「有難うございます」
礼を言いながら泰長が差し出した杯に酒を注いでやると、その様子を見ていた天狗が「ふぉふぉふぉ」と、しわがれた笑い声を上げた。

「お主とこうして酒を酌み交わすことが出来るとはのう。すべて神子のおかげじゃなぁ」

笑いながら、天狗は泰継の前に杯を差し出した。自分にも注げということである。
それを察して、泰継が天狗の杯に酒を注ぐと、瓶子がちょうど空になった。
「ほれ、泰長。酒がなくなったぞ。早う次を用意せんか」
「はいはい。分かっておりますよ」
泰継の手から奪うように取り上げた瓶子を振りながら催促する天狗に苦笑しながら応えると、泰長は一旦杯を置き、二回手を叩いた。すると、先程の女房姿の式神が何処からか現れ、酒を満たした瓶子を泰長の前に置いた。天狗から空になった瓶子を受け取った泰長がそれを手渡すと、女房は現れた時と同様に、衣擦れの音もさせずに何処へと消えて行く。
その姿を見送り、泰長が再び杯を手に取って天狗とほぼ同時に杯に口を付けた時、泰継が天狗に声を掛けた。

「天狗」
「何じゃ、泰継?」
「天狗は先代の神子に会ったことがあるのか?」
泰継の問いを聞いて軽く片眉を上げた天狗は、杯の中の酒を一口飲むと、
「――ある」
と、短く答えた。
「どのような娘でしたか?」
興味をそそられたらしい泰長が訊ねる。
「そうじゃなぁ。可愛い娘御じゃったよ。泰明のような朴念仁には勿体無いようなのう」
天狗の顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「あれは、まだ泰明が人になる前のことじゃったか。儂はあやつに神子を連れて北山に来るよう言ったのじゃ。神子と話をしてみたかったのでな」
泰継が驚きの表情を見せた。泰明が天狗の言う事を聞いて、天狗に会わせるために神子を北山まで連れて行ったことに驚いたのだ。当時は天狗はまだ京の町に下りて来ることもあったらしいので、てっきり安倍家で会ったか、京の町を散策途中の神子を見かけたか、どちらかだと思っていたのである。
「どこぞの馬鹿者は何遍言っても連れて来んかったがのう」
天狗がニヤリと笑うのを見て、泰継が顔を顰める。泰継自身も神子を北山まで連れて来るよう何度か天狗に言われていたのだが、ずっとそれを無視していたからだ。
しかし、珍しく天狗はそれ以上この件について触れることはなかった。そんな事よりも、泰継に話しておきたい事があったからだ。
「泰明の神子に会って、儂は確信したのじゃ。『この娘ならば、泰明に幸福を呼ぶことができるだろう』、とな。神子は福を呼ぶ相をしておったからの。もっとも、神子も泰明も、その時は自らの想いに全く自覚がなかったようじゃが……」
二人の様子を思い出したかのように、天狗は笑い声を漏らした。そして、一頻り思い出し笑いをした後、再び表情を和らげて言った。
「今日、お主の神子を見て、同じ事を思ったのじゃ。『この娘ならば、お主を幸せにできる』と……」
泰継は天狗を見つめた。こんなに優しく、穏やかな表情の天狗を見たのは初めてだった。

「――泰継。晴明も吉平も、亡くなる直前までお主の事を案じておった。それで儂に遺言したのじゃ。『泰継が人になり幸せを知る時が来るまで、見守って欲しい』とな……」

大きく見開かれる琥珀と翠玉の瞳――。
泰継のその反応を予期していた天狗は、柔らかな笑みを浮かべながら続けた。

「お主、泰明は直ぐに人型を与えられたのに、何故自分には与えられなかったのか、気に病んでおったろう? 吉平から聞いておるぞ」
「それは……。泰明の力が強すぎ、暴走する恐れがあったが故に人型に封じたのだと、お師匠から伺ったが……」

すなわち、晴明の身体から抜かれた陰の気の塊に過ぎなかった時から、自分には泰明程の力がなかったということなのだ。
吉平の言葉をそう受け止めた泰継は、今日までずっと泰明に対する劣等感に苛まれることになったのである。


「先に泰明に型を与えた理由は確かにあやつが暴れた所為じゃが、元々どちらか一方は精髄のまま保管することになっておったのじゃ。それが、晴明が龍神と交わした約束だったのでのう」


天狗の言葉に泰継が息を呑んだ。彼の隣に座り、二人の遣り取りに静かに耳を傾けていた泰長もまた、大きく目を見開いている。

「『晴明が龍神と交わした約束』、とは?」
「大天狗殿。ここまで話して隠し事はなしですよ」
「無論じゃ。泰継だけでなく、安倍家の宗主として知っておくべきじゃと思うから、お主もいる場で話しておるのじゃ、泰長」

そう言うと、天狗は杯に残っていた酒を飲み干し、はあ、と大きく息を吐いた。泰長が瓶子を差し出し、天狗の杯に酒を注ぐ。
「おお、すまんのう」
礼を言った後、天狗は空に懸かる月に目を遣った。
通り過ぎる薄い雲に時折その姿を隠しながらも、月は青白い光を地上に落としている。
その様子を見つめながら、天狗は語り始めた。


「お主らも知っての通り、晴明は人並み外れた能力を持っておった。その力故、魑魅魍魎との接触が多く、次第に陰の気をその身に溜めることになったのじゃ」

天狗は空から視線を戻し、隣に座る泰継の顔を見つめた。初めて人型を得た彼と会った時から既に七十五年の歳月が流れているにもかかわらず、泰継の外見はせいぜい四、五年分しか年を取っていないように見える。
改めてその事実を自らの目で確認した後、天狗は泰継に問い掛けた。

「人の身が大量の陰の気を蓄積したことによりどんな影響が起きるのか――。お主には判ろう、泰継?」

その問いに泰継が返答する前に、天狗は答えを明かした。

「陰の気が溜まり過ぎたことにより、晴明は人の理から外れた存在になりつつあった。――年を取らなくなったのじゃ」

天狗の言葉に泰継と泰長が揃って目を瞠る。
二人の脳裏を過ったのは、きっと泰継の事だろう。正確に言うと、今朝までの泰継だ。
極端に陰の気に偏ったことにより、人の十数倍の時を掛けて成長する型を持つことになった泰継と同じく、稀代の陰陽師と呼ばれた晴明もまた、人の身でありながら年を取らなくなってしまったのだと、天狗は言った。
そして、疾うに老年に達している年齢なのに、いつまでも壮年の年齢の姿のままでいる晴明を、彼の力に恐れを抱いていた人々が「狐の子」と噂するようになったのだという。
晴明自身はその噂を気にする様子はなかったが、このままでは良くないとの天狗の忠告に従い、晴明は天狗の力を借りて身体に溜まった陰の気を抜くことにしたのである。

「ちょうどその頃、鬼の一族が台頭しつつあってな……」

天狗は一口酒を飲んだ後、話を続けた。
当時、鬼の一族はかつてない強大な力を持つ若者を長に迎え、次第に京に勢力を伸ばしつつあった。その事実に危機感を抱いていた龍神は、近い将来神子を召喚することになるであろうことを予感していた。
神子を守る八葉には龍の宝玉が選んだ者がその任に就くことになるが、当代の鬼の首領の力があまりに強すぎるため、それに対抗しうる力を持つ者を龍神は欲していた。
そこで、龍神が白羽の矢を立てたのが晴明だった。彼ならば強大な鬼の首領の力に対抗出来るのではないかと考えたからだ。
しかし、見かけはともかく、晴明は既に老齢である。それに、鬼の一族が退けば一旦京から危機は去るが、また将来新たな危機を迎えるであろうことを、京の守護神であり時空を司る龍神は知っていた。
それ故、龍神は晴明の力を受け継ぐ者を所望したのだ。
そして、晴明の身体から抜いた陰の気に人型を与える術を授ける代わりに、京に危機が訪れた時、晴明の代理を務められるよう、その者を後継として育てて欲しいと彼に依頼した。

「龍神が晴明に依頼したのは二つじゃ。一つは、晴明の力を継ぐ者を複数、しかも一人は近々に、今一人は時を隔てて生み出すことが出来るようにすること。もう一つは、彼らがもし八葉に選ばれたら、晴明と同等の働きが出来るよう、晴明が知る限りの陰陽術を彼らと晴明自身の子孫に伝えて欲しいということじゃった」
天狗の話を聞いていた泰長が気色ばんで口を挟んだ。
「いかに京を守護する龍神と言えど、それはあまりに勝手な要求ではございませんか。まるで泰継殿たちを都合の良い道具のように――!」
「落ち着かぬか、泰長」
京の守護神に対して憤慨する泰長を、当の泰継が窘めた。
「しかし、泰継殿……」
「天狗に怒ったところで仕方あるまい。それに、私は気にしておらぬ」
人となり、神子への想いが叶った今、むしろ陰の気の塊に過ぎなかった自分に人型を与えてくれたことに感謝したいくらいだった。
その思いを泰継は口にはしなかったが、敬愛する師の考えは泰長にも直ぐ伝わったようだ。しかし、師の言葉に従い怒りを収めたものの、泰長は納得してはいないようだった。
「……泰継殿はお優しすぎるのです」
むすりとして顔を逸らした泰長が小声で呟くのを聞いて、天狗が苦笑した。吉平の死後、安倍本家が泰継を北山に追いやりながら、自分達の手に負えない仕事では彼を呼び出し、その力を借りていたことを、泰継を都合よく利用していると考え、批判していた泰長には、京のためとは言え、泰継と泰明だけでなく晴明の子孫をも利用しようとした龍神が許せなかったのだろう。
天狗は不満げな表情を崩そうとしない泰長の横顔を見つめながら言った。
「無論、晴明とて龍神の一方的な要求をそのまま呑んだ訳ではない。あやつ、一つだけ条件を付けたのじゃ」
逸らしていた視線を天狗に向け、泰長が問い掛けた。
「条件?」
「そうじゃ」
また一口酒を口に含んだ天狗は、味わうようにゆっくりとそれを飲み込んでから言った。
「『人型を与えられた者が役目を終えた後、幸せを得られるよう、人になれるようにすること。』――それが晴明が龍神の要求に応じる代わりに提示した条件じゃった」
二人が揃って目を見開くのを確認し、天狗は言葉を継いだ。
「龍神の返答は、『それはその者自身が自らの力で叶えること故、神と言えども手は出せぬ。しかし、人型が人になれる可能性は残す』というものじゃった。晴明はそれを呑んだという訳じゃ」
天狗の話を聞いて少しの間考え事に沈んでいた泰継が、ゆっくりと口を開いた。
「『自らの力で叶える』……。天狗がずっと『答えは自分で見つけなければ意味がない』と私に言っていたのは、その所為なのか?」
「まあ、そうじゃなぁ」
天狗は曖昧な答えを返した。
言葉を濁した天狗の態度から、泰継はきっと泰明も龍神と晴明の密約については知らされていなかったのだろうと推測した。ただ、晴明から条件を満たせば人になれるという事は知らされていたのかもしれないが。
泰継がそんな事を考えていると、天狗は思い出したように付け加えた。
「それから、龍神は晴明にこうも言ったそうじゃ。『八葉を選ぶのは龍の宝玉故、人型が八葉に選ばれるかどうか、龍神には判らぬ。だが、晴明の力を継いだ者が選ばれぬはずはないと考えている』――とな。宝玉がどのような基準で八葉を選んでおるのかは判らぬが、儂も龍神と同じ考えじゃった」
一旦言葉を切ると、天狗は杯に残っていた酒を飲み干した。

「そして、先代の神子が召喚される二年前の秋、晴明の身体から陰の気を抜いたのじゃ」

龍神が望んだ通り、晴明の身体から抜かれた陰の気は二つに分けられた。一つは人型を与えられ晴明の弟子となり、一つは未来の京のために精髄のまま封じられ、安倍本家で厳重に保管されることとなった。そして、その精髄については、封印が解かれる日が来るまで、安倍本家の当主にのみ伝えられる予定となっていたのだ。

「しかし、予定外の事があってのう。晴明の死後、吉平が保管されていた精髄に人型を与えてしまったのじゃ」

晴明の息子である吉平は、自身も優秀な陰陽師であったが、やはり『稀代の陰陽師』と称された父には及ばなかった。父と同じ道を辿って陰陽寮に出仕し、周囲の者から常に父・晴明と比較され続けて来た吉平は、偉大な父親を尊敬しつつも、父に対して複雑な思いを抱いてしまうことになった。
そんな時、突然現れたのが泰明である。吉平は次代の安倍家の宗主として、泰明の出自についても当然知っていたが、晴明の愛弟子として直ぐにその能力の高さを示した泰明に対しても、劣等感に近い複雑な感情を持つことになってしまった。
だからと言って、彼が泰明を疎んじていた訳ではないことを天狗は知っていた。
ただ、羨ましかったのだろう。父に次ぐ能力を持つ泰明と、自らが知る術のすべてを受け継がせることが可能な、高い能力を有する弟子を持つ父のことが。
そして、自分の息子の能力がそれ程高くないことを知っていた吉平は、父のように自らの知識と術のすべてを受け継がせるべく、第二の泰明を生み出すため、保管されていた精髄に人型を与えることにしたのだ。晴明が亡くなった後、精髄だけでなく、泰明を作った際の手順を記した記録の管理についても、晴明の跡を継いで安倍本家の当主となった吉平に一任されていたから、方法を把握するのは容易だった。

「あやつ、やはり晴明の遺言に反する行為をすることに後ろめたさを感じておったのか、儂にも隠しておってな。『力を貸せ』とは言って来んかった。代わりに吉昌の力を借りたものの、あやつらの力を合わせても泰明を作った時のようにはいかず、五年がかりで漸く成し遂げおった」
「……それが、泰継殿……」
「その通りじゃ」

茫然と呟いた泰長に、天狗が応えた。


天狗が語った自分の祖先の話に、泰長は少なからず衝撃を受けていた。
泰継が造られた時のことは彼自身から聞いてはいたが、裏にこのような話があったとは知らなかった。恐らく、泰継自身も、今の天狗の話を聞いて初めて知ったのであろうが。

(私の先祖はなんと業の深い事をしてしまったのか……)

泰長は泰継に対して申し訳ないと思った。
自分達の都合で泰継に人型を与え、これまでずっと彼の力を頼りにして、安倍家の為に彼を良いように利用して来たのだ。
――安倍家の現当主として、泰継に何と詫びれば良いのか。
考えているうちに、いつしか泰長は俯いてしまっていた。


泰長の表情から、彼が泰継に対して罪悪感を抱いたであろうことを察した天狗だったが、彼には敢えて何も言葉を掛けず、泰継に声を掛けた。

「泰継」

自らの師であった吉平が、泰明に対して自分と同じような思いを抱いていたことを知り、驚いた様子で言葉を失くしていた泰継は、名を呼ばれてはっとしたように天狗に顔を向けた。
天狗の顔には既に昔馴染みの人々を懐かしむ表情はなく、滅多に見せない真顔に変化している。
その表情に何かを感じた泰継も表情を改め、天狗の言葉を待った。

「吉平は儂に言っておったよ。『泰継に申し訳ない事をした』、と……」

天狗が伝えた師の言葉を聞いて、泰継は目を瞠った。師がそのような事を考えていたとは、思いも寄らなかったのだ。
天狗は、吉平が泰継には伝えることが出来なかった本当の思いを代弁すべく、言葉を継いだ。

「あやつ、ずっと気に病んでいたのじゃよ。『自分の力不足でお主に不完全な型しか与えることが出来なかった』、と。そして、『自らの欲求のために自分の代で人型を与えてしまったが故に、お主に泰明より遥かに長く険しい道を歩ませてしまうことになってしまったのだ』、と――」
「何故、お師匠が気に病まねばならぬのだ? お師匠が望んだような、泰明のような優秀な弟子になれなかったのは、私の力不足が原因だ」
「お主がそう考えて思い悩んでいたことを、吉平も知っておった。しかし、あやつは『もし晴明がお主の師であったら、違う結果になっていたに違いない』と言っておった。『力不足なのは自分の方だ』とな」

もし、『稀代の陰陽師』と呼ばれた父が教え導いていれば、泰明と同じ出自の泰継のこと、きっと今以上の力を持つ陰陽師になれていたことだろう。しかし、父に劣る自分では、泰継が生まれながらに持ち合わせた能力のすべてを活かすだけの知識と技術を伝えることが出来なかった。

――吉平は天狗にそう話したのだ。

意外な師の言葉を聞いて、泰継は驚愕の表情を浮かべている。
それを見つめながら、天狗は吉平が最後に残した言葉を思い出していた。

『私はあの子に対して、二重にも三重にも罪な事をしてしまいました。その罪滅ぼしのために私に出来るのは、泰継が人になれるまで見守ることと思い、これまであの子の親代わりを務めて来たつもりです。しかし、私には最後まであの子を見守ることすら許されぬようです』

――だから、自分の代わりに、人になれるまで泰継を見守ってやって欲しい。

亡くなる一ヶ月程前、自らの寿命を悟って別れを告げに北山を訪れた吉平は、天狗にそう遺言した。
泰継に人型を与えた経緯はどうあれ、彼が泰継にどれほどの愛情を注いでいたか、天狗は知っている。だからこそ、泰継にだけは彼の思いを理解してやってもらいたいのだ。

「儂は、お主には吉平の事を誤解してもらいたくないのじゃ。あやつも人の子故、己の感情や欲を制御しきれず、馬鹿な事をしでかしたかもしれぬ。しかし、吉平のお主への愛情は本物じゃったよ」

優しく諭すような声音で天狗はそう告げた。
しかし、天狗の心配は杞憂だったようだ。

「天狗」

そう呼び掛けて来た泰継の顔には、柔らかな笑みが浮かんでいたからだ。

「私はお師匠を恨んだことなどない。むしろ、言葉では表せないほど感謝しているのだ。陰の気の塊に過ぎなかった私に人型を与え、持てる知識と技術を伝えて下さった。お師匠が亡くなって安倍の家を出てからも、こんな私に愛情を持って接して下さったことを忘れたことなどない」

泰継はこの屋敷で師と共に暮らした時間に思いを馳せた。
生まれた直後、泰明との違いを知り、師は一度だけ落胆の気持ちを面に出したことがあった。
しかし、それ以後は人と同じ暮らしの出来ぬ、年すら取らない人型を、息子同然に扱ってくれていた。
忘却を持たなかった泰継が、それを忘れることはない。いや、忘却することを覚えても、師がくれた愛情を忘れることなどないだろう。当時は気付いていなかったが、師に見守られながら暮らしたあの頃、自分は確かに幸せだったのだ。

「それに、人型を与えられてからの九十年間は、私にとって必要な時間だったのだ。もし、私が泰明と同様に人型を与えられて二年で八葉に選ばれたとしても、泰明は疎か、彼に劣る今の私にさえ及ばぬ働きしか出来なかったことだろう」

壊れる時が来るまでただ存在し続けるだけの自分に、果たして生まれて来た意味があるのか。ずっと、そう思い悩んで来たが、あの日々は決して無駄な時間ではなかったと、今なら言える。
何故なら、それは、花梨と出逢うために必要とした準備期間だったからだ。
花梨の八葉として、彼女のために力を尽くすことが出来るよう、知識を蓄え、技を磨き、経験を積むために必要だった時間――。
そう思えば、龍神の思惑通りの道を歩まされたことにも、腹立たしい思いは一切生じなかった。
花梨が、すべてを良い方向に導いてくれたのだ。
恐らく花梨本人は全く自覚していないのであろうが……。

今頃、夕餉を終えて自室で寛いでいるであろう恋人に思考が及ぶと、泰継の口元は自然と綻んだ。
その様子を見て、天狗が安堵したように頷きながら口を開こうとした時、泰継が笑みを消して泰長に視線を向けた。それを見て、天狗も開きかけた口を閉じ、愛息子の弟子に視線を遣る。
泰長は先程から一言も発することなく、何事か考え込んでいるようだ。
子供の頃から泰長を見て来た泰継には、彼が考えている事を推察することが出来た。
元々、楽人になりたいという夢を認めてくれなかった父と本家に対して批判的だった泰長だが、泰継と出逢い、師事するようになってから、更に本家への非難を強めていた。それは、彼が自分の家が敬愛する師匠を都合良く利用していると思い込んでいたからだった。
そんな彼が自分に対してある種の罪悪感を抱いていたことを、泰継は知っていた。天狗の話を聞いて、泰長は更に罪悪感を募らせてしまったのだろう。現在安倍家の宗主である自分は、安倍の家が利用し続けて来た泰継に対して、どのように許しを乞えば良いのか、と――。
しかし、そのような心配は無用だ。何故なら――…。
泰継は目元を和らげて愛弟子を見た。
外見だけならば既に泰継自身を十歳程度上回って見える泰長だが、泰継にとって彼は未だ幼い頃から変わらぬ可愛い弟子である。元来明るい性格の泰長に、このような憂い顔は似合わない。彼が顔を曇らせている原因の一端に自分の事があると思い、泰継はそれを解くため口を開いた。

「私は、私のような者を一門の者として受け入れてくれた安倍の家にも感謝している。――だから、そのような表情をするな、泰長」

天狗と泰継の遣り取りを聞くとはなしに聞きながら、考え事に沈んでいた泰長は、突然泰継に声を掛けられ、弾かれたように顔を上げた。隣を見ると、泰長が誰よりも敬愛する師匠が、いつになく優しい表情を浮かべて自分を見つめていた。
「泰継殿……」
「お前が昔から『本家が私を利用している』と考え、反感を抱いていたことは知っている。だが、それは誤りだ」
「しかし、泰継殿……!」
泰長が反論しようとするのを遮り、泰継は続けた。
「お師匠が亡くなった後、私がこの屋敷を出て北山に庵を結んだのは、私の意志だ。本家の者達が私を追い出したわけではない」
反駁しようとした言葉を封じられ、泰長はそのまま言葉を飲み込んだ。この師に論戦を挑んで勝てた例はないのだ。
「お師匠がまだご存命でいらっしゃった頃、私から相談を持ちかけたのだ。人ならぬものが人のように動くと広く知れて、本家に迷惑をかけることは、私の本意ではなかったのでな」
当時、泰継が人の手により造られた者であることを知っていたのは、安倍家でも本家の中枢にいるごく一部の者だけだった。それに、泰継が人型を得たのは泰明が京から姿を消して僅か十年後だったため、彼のことを覚えている者もまだ多数存在していた。その者達が泰明に瓜二つの容貌を持つ泰継を見れば、きっと泰継の出自を色々と詮索することになるだろう。それ故、泰継は一族以外の者の目に触れぬよう、屋敷から出ることも許されず、ずっと師を中心とする一族の者達に守られて暮らしていたのだ。
しかし、いつまでもそのような生活が続けられるわけはない。屋敷の中のみで生活していても、屋敷には使用人や弟子など、一族以外の者も出入りする。
やがて、彼らが何年経っても年を取らない泰継を、「気味が悪い」と噂し始めたのだ。
それを知った泰継は、自分が此処に居ては迷惑になるのでは――と、吉平に訊ねたのだった。
吉平も、自分が亡き後、泰継を天狗に託したいと考えていたので、北山の奥深い場所に在る、安倍一門の者達がかつて北山での修行の際に使用していた庵に移ってはどうかと、泰継に提案したのである。
「だから、お師匠と相談し、北山に居を移すことにしたのだ。お師匠が亡くなられて間もなく北山に移ったのは、『自分が存命の間は傍にいるように』と、お師匠から言われていたからに過ぎぬ」
泰継は表情を改めて泰長を見つめた。彼の目を真っ直ぐに見据え、唯一の弟子に告げる。

「――泰長。お前は安倍家の宗主だ。一族の者を守り、家を守ることが宗主の役目であろう。守るべきものに対して悪感情を抱いていては、守ることなどできぬ。だから、安倍の家の批判はするな。お前が為すべきことは、優秀な陰陽師を育て、都の陰陽道と天文道を司る安倍家を守り、お前の子孫に継がせていくことだ」
「泰継殿……」

泰継が告げた言葉に驚き、泰長は大きく目を瞠った。
子供の頃から泰継に師事して来たが、これまで彼が本家の事に口を出すことはなかった。一門に属する者としては最古参であるにもかかわらず、泰継はずっと、本家に対して傍観者としての立場を崩したことはなかったのだ。
それなのに、今、敢えて彼が安倍家の宗主としての心得を説いた理由を、泰長は瞬時に理解した。

――ああ、この方はもう決めていらっしゃるのだ。八葉の務めを終えた後、京を離れ、神子の世界へ旅立つのだと――。

まるで遺言のようなその言葉に、泰長は唇を噛んで顔を伏せた。
泰継が人になればそうなるであろうことは予期していた。だが、覚悟していたつもりなのに、子供の頃から憧れ、常に目標として来た師を失うことが、想像していた以上に辛く感じられた。
しかし、これまで本家のために力を尽くして来た泰継が自分自身の幸せを掴むことを、天狗と共に待ち望んで来たのも事実である。
それが現実のものになろうとしている今、自分に出来るのは師の教えに従う事だけだ。
そう考えることで自らの葛藤に決着をつけた泰長は、顔を上げて泰継を見た。
初めて会った時、あまりの美しさに精霊と見間違えた美貌が此方を見つめている。
泰長はその色違いの瞳を真っ直ぐに見つめ返し、
「はい。肝に銘じます」
と、はっきりとした声で返答した。
それを聞いて、泰継が頷いた。
「それで良い」
愛弟子の返事に満足し、泰継は笑みを浮かべた。それを見て、泰長も漸く笑顔を見せたのだった。


手酌をしながら師弟の遣り取りを黙って聞いていた天狗もまた、泰継の決意を感じ取っていた。だが、それには触れず、自分の昔話からしんみりしてしまった雰囲気を壊すため、わざといつもの明るい調子を作って泰長に話し掛けた。
「お主、ほんに師匠思いの弟子よのう、泰長。じゃが、もし吉平のやつが晴明の遺言を守っておったら、今とは反対にお主が泰継の師匠になっておったやもしれんのう」
「は?」
一瞬何を言われたのか解らなかった泰長は、間の抜けた反応をしてしまっていた。しかし一瞬後には天狗の言葉を理解し、慌てて否定する。
「有り得ません! 私が泰継殿の師匠になどと……」
「何故じゃ? 神子の召喚が今年であったことを考えれば、龍神が現当主であるお主に『精髄に人型を与える時が来た』と告げに来ても、おかしくはあるまい。……まあ、『晴明がおらんことだし泰明の時より余裕を持って』、と龍神が考えたのであれば、有行にその任が与えられたかもしれんが……」
数年前に他界した泰長の父の名前を出し、真面目に考え込むふりをして天狗がそう言うと、泰長は眉を跳ね上げて捲し立てるように反論した。
「それこそ、絶対に有り得ません! 後世に名を残している吉平ですら晴明のようにはいかなかったというお話なのに、人型を与えるばかりか泰継殿を指導することなど、父上には到底無理な話でございましょう!」
珍しく声を荒げた泰長に、泰継が目を丸くして驚いている。その様子を観察していた天狗は、予想通りの反応を示した泰長を見て苦笑した。
「父上にお任せなどしたら泰継殿にどんな型を与えていたことやら……。想像しただけで恐ろしい……」
実の父に対するあまりな言い様に、天狗は苦笑を浮かべたまま呆れたように言った。
「お主、相変わらず有行には手厳しいのう」
仮にも安倍本家の先代当主であったのだから、有行とて無能だったわけではない。だが、陰陽師としての能力の高さにおいて、歴代当主と比較していささか見劣りするのは否定できない事実であった。
その息子である泰長は、吉平に比肩するとも言われる才の持ち主であり、子供の頃から次期当主として将来を嘱望されていたのだが、当時は彼自身に陰陽師となり家を継ぐ意志がなかったため、よく父親と衝突していた。業を煮やした父の命令で北山に行くことになり、そのおかげで泰継というかけがえのない師に巡り合えたので、その意味では父に感謝してはいるが、それ以外のことに関しては、泰長は未だ亡き父に対して反抗心を抱いているのである。
「事実を言ったまでです」
ばっさりと一言で切り捨てた泰長に、天狗は苦笑いを堪えることが出来なかった。
そんな天狗から泰継に視線を移し、泰長は渋面を崩した。
「それに――」
荒げていた語気を抑え、泰長は付け加えた。
「それに、もし泰継殿が私の師匠でなかったら、私は陰陽師になどなっていなかったことでしょう。ですから、仮に吉平が晴明の遺言を守っていたとしても、泰継殿が私の弟子になるなど、有り得ないことなのです」
そう言って、泰長は微笑んだ。
「泰継殿がいらっしゃらなかったら、今の私はありません。そして、私の師は泰継殿以外、考えられません。ですから、貴方にはどんなに感謝しても感謝しきれないのです、師匠」
泰長の言葉を聞いて、ニヤニヤ笑いながら天狗が揶揄する。
「お主、ほんに『師匠馬鹿』じゃのう」
「そう言われる大天狗殿こそ、『親馬鹿』ではございませんか」
揶揄う天狗にむっとした様子で泰長がそう切り返すのを聞いて、泰継は溜息を吐いた。
「よさぬか、二人とも」
これが彼らの交流方法なのだと心得てはいるが、目の前で自分のことを話題にされるのはこそばゆい思いがして、居心地が悪いのだ。
そんな泰継の思いを察していながら、気にする素振りもなく天狗が言った。
「なに、泰長も儂も、お主のことを大切に思っているということじゃ」
天狗の言葉に当然と言わんばかりに泰長が頷く。
それを見て、これ以上言っても無駄だと悟り、泰継はもう一度溜息を吐いて口を閉ざした。

「いずれにせよ、何か一つ欠けていたとしても、お主らの師弟関係は有り得なかったということじゃな。すべての事象は納まるべきところに納まるようになっておる。だから人の世は面白いのじゃ」
話しながら、天狗は酒を呷った。そして、はたと気付く。
「ほれ、お主ら箸が進んでおらんぞ。――特に泰継! お主は今までとは違うのじゃから、まず食事することを覚えんといかんぞ。何も食べずにいて今朝のように倒れてみぃ。同じ屋敷に暮らしておる泰長だけでなく、親代わりたる儂まで神子に恨まれてしまうではないか」
泰継が顔を顰めるのを見て、泰長が取りなすように声を掛けた。
「さあ、泰継殿。大したものはございませんが、どうぞお召し上がりください」
諦めたように小さく息を吐いた泰継は、箸を手に取り、強飯を一口だけ口に運んだ。それを見て、泰長が嬉しそうに微笑む。
二人の様子を横目で見ていた天狗も、口元を綻ばせると、瓶子を手に取り自分の杯に酒を注ごうとした。――が、杯の半分にも満たないところで、瓶子は空になってしまった。
「泰長、酒が無くなったぞ。早く用意せんか!」
「はいはい、ただ今……。大天狗殿、飲み過ぎではございませんか?」
「何を言う。儂はこれくらいの酒では酔わんぞ!」
「酒がお好きなくせに、いつも直ぐに酔いが回って寝てしまわれるではないですか」
呆れた表情で泰長が言う。泰継の庵に逗留して修行していた頃、夜に天狗が酒を持って庵に現れ、書を読む泰継の傍らで独り酒盛りをした挙句、そのまま庵で眠り込んでしまい朝を迎えるということが何度もあったことを思い出したのだ。
「む…、酒を飲んで身体が熱くなると眠くなるんじゃ!」
むっとした様子で天狗が言い返す。一瞬言葉に詰まったのは、自覚があるからだろう。
「お主、爺をもっと大切にせんか」
「はいはい。泰継殿の義父上として、大天狗殿のことは私も大切に思っておりますよ」
「なんじゃ、その心のこもらん言い方は!」
騒がしい声が庭に響く。


再び手にした杯に口を付けながら、泰継は天狗と泰長の会話を聞いていた。
いつの間にか笑みを浮かべている自分に気付く。
寒空の下にいるのに、何故か胸に熱いものが満ちているように温かく感じる。
天狗が初めて話してくれた自分が生まれる前の出来事と師が抱いていた葛藤を知り、改めて師の深い愛情を感じた。師だけではない。直接会ったことのない晴明も、泰明同様に自分の事を愛し、行く末を気に掛けてくれていたのだ。
そして、目の前で戯れている親代わりと愛弟子からも、彼らと同じ愛情を感じる。

(ああ、私は多くの愛情に見守られ、支えられていたのだな……)

人となった今、改めてそう思う。


「泰継殿? どうかなさいましたか?」
くすりと軽い笑い声を漏らした泰継に、泰長が怪訝そうに問い掛けた。
「いや……。どうやら私は酔っているらしい」
「え?」
今までになく楽しげに話す泰継に驚き、泰長は声を上げた。こんなに愉快そうな彼の笑顔を見たことがなかったのだ。
そんな愛弟子の反応を気にした様子もなく、泰継は続けた。
「天狗の言を信じるなら、酔うと気分が良くなるのであろう? 眠気を誘う程に……」
泰継は空に懸かる月を見上げた。
あの夜、人である花梨と人ではない自分とを重ね合せ、いつになく遠く感じた月が、今宵は近く感じられる。
泰継は杯を置き、右手を月に向けて差し出して、月を掴む仕草をして見せた。
「こうすると、あの月を手に入れられそうな心地さえするのだ」
「泰継殿…?」
泰継の言葉を聞いて、泰長は目を丸くした。泰長の知る限り、出逢ってからこの方、いつも冷静なこの師の口から、戯言など飛び出したことなどなかったからだ。
泰継の顔は仄かに赤みを帯びているように見えなくもないが、とても酔っているようには見えない。しかし、普段の泰継からは考えられない、楽しそうでもあり嬉しそうでもある言動は、確かに彼が言う通り「酔っている」と思えなくもなかった。
それは酒に酔った所為ではないのかもしれない。人になったこと、そして神子と想いが通じ合ったこと――願いが叶っただけでなく、天狗が初めて話してくれた生まれる前の話から、晴明や吉平の愛情を感じることが出来たこと。それらのすべてが、酒に酔わない体質だと天狗が断言する泰継を、酒の代わりに酔わせているのかもしれない。
子供の頃からずっと敬慕する師の幸せを願って来た泰長には、それが嬉しい。

「泰継殿。今夜は離れで休ませてもらっても良いでしょうか? 私もすっかり酔ってしまったのか、今宵は師匠と離れ難い気分なのです」
自らの言葉を面白く感じ、泰長はくすくすと笑った。昔話をした所為だろうか。今宵だけは子供の頃に帰ったように、大好きな師匠と過ごしたいと思ってしまったのだ。
「折角の機会ですから、本当は一晩語り明かしたい気分なのですが、泰継殿は明日から八葉の務めに戻られるのでしょう? 昼間少し休まれたとは言え、あまり遅くならないうちに床に就かれた方が良いですね」
泰長の言葉に、泰継は改めて気付かされた。人になったからには、食事だけでなく、毎日睡眠を必要とするのだと。
「では後程、褥の用意をさせましょう。私は泰継殿の隣に褥を用意させますから」
泰継の返事を待たず、並んで寝る気満々な様子で泰長が言うと、それを聞き捨てならないと考えた天狗が横槍を入れた。
「こら、泰長! お主、儂を除け者にするつもりか!?」
「おや? 大天狗殿は夜のうちに北山にお帰りになるのではなかったのですか?」
既にほろ酔い加減の天狗が帰るはずがないと判っていながら、揶揄うつもりで泰長は言ってみる。
「儂は今夜は帰らんぞ! この喜びの日に、何故儂だけ山へ帰らねばならんのじゃ?」
天狗は泰長に不機嫌そうに言った後、泰継に笑顔を向けた。
「のう、泰継。今宵は父と一緒に寝るじゃろう?」
泰継の肩をポンポンと叩きながら天狗が言うと、泰継は忽ち顔を顰めた。
「はいはい。親子水入らずのところに邪魔者が割り込んで、申し訳ございませんでしたね」
泰継が何か言うより早く、泰長が口を開いた。拗ねたような口調だが、わざとである。齢数百年の天狗と生まれて三十年余りの泰長は、こうして言葉遊びを楽しみながら異類との交流を深めて来たのだ。
「…………親子などではない……」
ぽつりと泰継が呟くのが耳に届き、泰長が笑った。
「では、今夜は泰継殿を挟んで三人で眠ることにいたしましょうか?」
「おお、それが良いぞ」
泰長の提案に、天狗が賛同した。

自分抜きで勝手に話を進められ、泰継が小さく溜息を吐く。
しかし、次の瞬間、泰継の顔には笑みが浮かんでいた。
八葉の務めを終えた後、先代の時のように龍神が花梨と自分の願いを聞き入れてくれたなら、こうして彼らと共に過ごせる時間はあと少ししかない。ならば、残された時間を大切に使いたいと泰継は思うのだ。特に安倍家の当主である泰長には、今のうちに自分が知る限りの知識や術を伝えたいと思う。
(お師匠も私の指導をする際、このような気持ちになったのだろうか……)
そうであれば嬉しいと思う。
何故なら、自分の弟子に知識や技術を伝えられることが、幸せなことだと感じたからだ。そして、泰継にはすべてを伝えるに相応しい能力を持つ弟子がいた。
泰継は天狗と何やら言い合っている愛弟子に声を掛けた。

「泰長。お前は大晦日まで、毎夜この離れで過ごすが良い」
「え…、宜しいのですか?」
「ああ。お前が言った通り、明日から私は与えられた役目に戻らねばならぬ。だが、時間の許す限り、お前に伝えておきたいのだ」

泰継の言葉に泰長ははっとする。
泰継は「何を」とは言わなかった。しかし、泰長は師の言わんとするところを瞬時に理解した。

――ああ、やはりこの方はもう決めていらっしゃるのだ。

淋しい、と思う気持ちが湧き上がり、泰長は俯いた。――が、直ぐに顔を上げて泰継と視線を合わせる。
自分も、まだこの師から学びたい事がある。それに、安倍家を守っていくことを、泰継が自分に望んでいるのならば、師の意向に従い、必ずそれを叶えたい。今の自分があるのは、この師のおかげであるから――…。

「はい。分かりました」

左右色の違う泰継の瞳を真っ直ぐに見つめ、泰長は言った。
真顔で答えた泰長に対して、泰継は無言で頷く。二十数年間、師弟として過ごして来た二人には、それだけで充分だった。
暫くの間、二人は無言のまま見つめ合った。

「お主ら、何をしとるんじゃ。早く食べんか」

酔いが回って来たのか、天狗の呂律は少し怪しい。
それに気付いた師弟は、互いの顔を見つめ合ったまま、笑みを零した。

「はい。早く食べないと、大天狗殿だけ先に寝てしまわれるかもしれませんしね」
「何を言うか! 儂は酔っとらんぞ、泰長!」
「はいはい、分かりましたよ」

天狗を揶揄いながら、泰長は箸を手に取った。
そして、ふと思い出したように、泰継に話し掛けた。

「そう言えば、泰継殿。今日、泉水殿とお話したのですが、とても良い方ですね」

泰長が持ち出した話題が意外なものに感じ、泰継は目を見開いた。
泰継が泉水と知り合う前から仕事を通じて彼と知り合いではあったのだが、飽く迄も仕事上の付き合いのみで、個人的な事を話したりということは今までなかったのだと、泰長は話した。

「泉水殿が泰継殿の対の八葉で良かったと、私は思いました」

泰長の言葉を聞いて、泰継は微笑みを浮かべた後、頷いた。

「ああ、私もそう思う」

そう答えた泰継の表情が、神子に対した時とは別の意味で幸せそうに見えて、泰長は安心する。
北山の奥地で長い間独りで暮らして来た泰継は、八葉の務めを通じて生涯の伴侶となるであろう存在だけでなく、かけがえのない仲間を手に入れたようだ。

「明朝、四条に向かう前に、内大臣邸を訪ねようと思う」
「それが、ようございましょう」

泰継の言葉に、泰長が嬉しそうに微笑みながら答えた。
あの後、会うことなく帰った泉水に礼を言うため訪ねて行くことなど、以前の泰継ならば、きっと思い付かなかったことだろう。

「では、早く食事を済ませて今夜はもう休みましょう。――大天狗殿、起きていらっしゃいますか?」
「う……まだ起きて…おるぞ……」

杯を持ったまま舟を漕ぎ始めた天狗に泰長が声を掛け、それに対して寝ぼけた様子で天狗が答えるのを見て笑みを浮かべたまさにその時、泰継は胸の内に僅かに痛みが生じるのを感じた。
まだ神子への想いすら自覚していなかった頃、務めを終えた神子は自分の世界に帰るのだということに改めて気付いた時、これと同じ痛みが生じたことを思い出した。
後に、その痛みこそが“淋しい”という感情なのだと教えてくれたのは、他ならぬ花梨だった。

(ああ、私はこの二人と別れることを、“淋しい”と感じているのだな……)

吉平亡き後、ずっと見守って来てくれた天狗。
そして、安倍本家を継ぐに相応しい陰陽師となるよう、幼い頃から指導して来た、唯一人の弟子である泰長。
二人が自分に対して愛情を示してくれるのと同様に、自分も彼らに対して親愛の情を抱いていたのだと、今更ながらに気が付いた。
それは、花梨に対して抱く想いとは異なるものだが、人となった泰継にとって大切なものだった。

――彼らが生きるこの京を守りたい――。

これまで、京を救うことを、『誰かのため』と考えたことはなかった。ただ、神子を守り、神子と共に京を救うことが八葉の務めなのだと認識していただけに過ぎなかったのだ。
だが、今ははっきりと思う。
大切な者達が生きるこの世界を守りたい、と――。


泰継は再び杯を手に取り、それを目の高さまで掲げた。
夜空に懸かる月が酒で出来た水面に浮かぶ。
まるで杯の中に閉じ込められたかのような月を見ると、あの夜、手に入れることは叶わぬと思い、諦めようとした月を手にすることが出来たような錯覚に陥る。
花梨を守り、彼女や仲間達と共に京を守ることが出来た時こそ、愛しい存在をこの手にすることが出来るのだ。


大切な者達を守るため、改めて京を救うことを決意しながら、泰継は水面に映った月ごと杯の中の酒を一息に飲み干した。







〜了〜


あ と が き
「連理」と同日の夜、「理由」の最後で天狗さんと泰長さんが話していた「人になった泰継さんと酒を酌み交わす」という約束を果たすお話です。当初、酔っ払い天狗のギャグになるかも……などと予想していたのですが、天狗さんが昔話を始めてしまって、意外に真面目なお話になりました。
二次創作をするにあたり、ゲーム本編で触れられていたり設定資料集に記載されている事柄については、公式設定からなるべく外れないようにしている私ですが、どうしても納得できずにMy設定を作ってしまった部分がありました。それが、今回天狗さんが話した晴明様が泰明さんを作るくだりだったりします。「天狗さんの力を借りたとはいえ、陰陽師に人と同じように動いて将来人になれる人型なんて作れるのかなぁ」という疑問があって、それを解決するために妄想した結果が今回の天狗さんの昔話部分になります。龍神様に力を借りたのなら無理がないかなと……。そんなわけで、『八葉全書』に書かれていた「晴明の妻が北山の天狗に頼んで〜」という部分は完全に無視した形になってしまっています。ついでに言うと、公式設定の「晴明は二十一歳から年を取っていない」という部分も変えていて、うちでは四十代前半から半ばくらいのイメージで書いています。昔、遙かなる50のお題の「文」で初めてお師匠を書いた時、「泰明さんと見掛け年齢が同じだと、師匠としての威厳が保てないかなぁ」と思った所為なのですが、泰継さんと泰長さんの見掛け年齢を考えると、あまりこだわる必要はなかったかなと、今になって考えています。見掛け年齢を追い越されても、泰継さんはちゃんと泰長さんのお師匠をしているようだと、この話で判りましたし……。泰長さんも、泰継さんを師匠と慕う気持ちは、子供の頃からずっと変わらないようです。
番外編と言いつつ、詰め込み過ぎていつもながらダラダラと長くなってしまったお話ですが、最後まで読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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