迷惑
『泉水にも迷惑をかける』



北の札を入手した後、自らの出自を明かし、あの方はそう仰った。

何を“迷惑”などと仰るのだろう。いつも迷惑をかけ、助けて頂いているのは、私の方だというのに。

そう思ったものの、あの時、私は突然明かされたあの方の秘密に驚き、混乱しただけではなく、「嬉しい」と思ったのです。
京でも名高い陰陽師である方が、私などに今まで隠していた真実を話して下さったことを――。
いいえ、あの方自身は隠すつもりなど最初からなかったのかもしれません。ただ、話す機会がなかっただけなのでしょう。



――それでも、私には、とても嬉しい事だったのです。





◇ ◇ ◇





火之御子社での出来事があった翌朝のことである。



「……これは、泰継殿!」


早朝、突然自邸を訪ねて来た泰継に驚き、泉水は声を上げた。


この数日、色々な事があり過ぎて疲れていた所為か、泉水は昨夜いつもより早めに床に就いた。そのため今朝は早く目が覚めてしまい、かと言って再び寝る気にもなれず身支度を整えて庭に出ていたところ、総門の辺りから門番に当たっていた武士団の者の声が聞こえて来たのだ。その口調が誰かと言い争っているものに聞こえて、様子を見に総門に向かったところ、武士が応対していた相手が泰継だと判ったのである。
泰継がこれまで泉水を訪ねてこの邸に来たことはない。それに、泉水が八葉に選ばれたことなど、自邸に勤める使用人達が知っているはずもなく、ましてや泰継が対の八葉であるなど知る由もないだろう。名乗った泰継に対して、何も知らない武士が「安倍家の陰陽師が主の子息に何の用だ」と訝しんだとしても仕方ない。

「その方は、私の知己です。お通ししてください」

不審者を見るような胡乱げな視線を泰継に向けていた武士は、泉水の言葉に驚いたようだ。弾かれたように泉水の顔を見遣ると、驚きの表情を消して、本当に通して良いのか訊ねるような視線を向けて来た。
この邸の警護に当たっているのは、普段院御所の警備を担当している武士団の者達である。降嫁した異母妹を気遣う院の命令で派遣されているのだ。それ故、この邸にいる武士達は、帝側に立つ者達を快く思ってはいない。安倍本家は中立の立場を守っているとはいえ、泰継自身は院への批判を公言して憚らないため、周囲の者達からは帝に与する者と認識されている。武士の視線は、そのような者をこの邸に招き入れても良いのかと訊ねているかのようだった。
神子が院と帝を呪詛する怨霊を封印し、院と帝が和解へと歩み始めたとはいえ、一般貴族や庶民達の間には、未だ院側、帝側という対立が根強く残っているのだ。その事を、泉水は改めて認識した。

(かつては対立する勢力に属していた泰継殿と私も、今では神子を守る八葉として共に力合わせ怨霊と戦っている。あれほど反目し合っていた勝真殿と頼忠ですら、東の札を入手する任に当たるうちに、無二の友となったと神子から伺いました。大内裏の貴族達や市井の者達も、早く和解できれば良いのですが……)

そう考える泉水だったが、きっとそう遠くない未来に実現することだろうと確信している。
神子の存在が、すべてを良い方向に導いてくれているのだ。

そんな事を考えながら、泉水は安心させるように武士に微笑みかけた。

「私がご案内いたしますから……。泰継殿、どうぞ中へ」

泉水がそう言うと、武士は一応納得はしたのか、もう一度胡散臭げに泰継に視線を遣った後、漸く一歩下がって泰継に道を譲った。
武士のその態度に泰継が気を悪くしたのではと心配した泉水だったが、肝心の泰継は特に気にした様子はなく、いつも通り感情が読み取れない無表情である。
だが、いつもと変わらぬ彼の表情を見て安堵したのも束の間、続く泰継の言葉を聞いて、泉水はその印象を直ぐに取り消すことになった。

「朝早くからすまない。少し時間が取れるか?」

開口一番、そう訊ねた泰継に、泉水は驚いて目を見開くと同時に、泰継に対して抱いた印象から“いつも通り”という言葉を抜いた。

今朝の泰継は、どこか今までの彼とは違う。

――そう感じたからだ。
そして、それを何故か嬉しく思い、泉水は泰継に笑みを向けていた。

「はい、大丈夫です。後程、神子をお訪ねしようと考えておりましたから……。どうぞお入りください」

話しながら、泉水は泰継を自邸に招き入れた。





左京六条に位置する内大臣邸は、上級貴族の住まいらしい豪勢な屋敷である。
泉水の父親である内大臣は今上帝や東宮である彰紋の生母の兄であり、母親である女六条宮は院の異母妹であるため、皇族とも縁が深い。その高い身分に相応しい広大な敷地に立ち並ぶ対屋の一つに、泉水の居室はあった。

「どうぞ」

庇に設けられた来客用の一室に泰継を案内すると、泉水は彼に円座を勧めた。泰継が腰を下ろすのを見て、自らも彼の向かいに置かれた円座に腰を下ろす。

「今日は出仕しなくても良いのか? 新年を間近に控え、式部省は繁忙期なのであろう?」

泉水が座るや否や、泰継がそう問い掛けた。
年末年始は朝廷内でも儀式が多く、特に年明けにある除目に向けて、式部省に勤める官人は多忙を極めている。それを知っているが故の質問であることは、泉水にも分かった。泰継自身は出仕しているわけではないが、陰陽助であったという彼の師匠や舞楽が必要となる儀式には欠かせない雅楽寮の頭である泰長から聞いて、知っているのだろう。

「はい。神子が院と帝を呪詛する怨霊を封印して下さったおかげで、大内裏に出仕している八葉には、既に院からも帝からも八葉の務めを優先して良いとのお許しが出ておりますから」
「そうか。ならば良いのだが……」

微笑みを浮かべながら応えた泉水は、泰継が返した答えが彼らしくないと感じ、訝しげな表情を浮かべた。普段の泰継は発言に含みを持たせたり、語尾を曖昧なまま終わらせたりすることなく、端的に物を言う。それが時にきつい物言いと感じられることもあるが、彼の物言いはそうなのだと一度理解してしまえば、気にはならなかった。
それどころか、今では端的な泰継の物言いを羨ましく思うことも偶にあったのだ。特に、呪詛を行おうとする和仁を止めることが出来なかった時などは。
そんなことを考えていると、泰継はいつの間にか合わせていた視線を床に落とし、何事か考え込んでいる。
その様子もどこかいつもの彼とは違うと感じ、泉水は口を開いた。

「あの、泰継殿…? どうかなさいましたか? あ……、もしや、まだ体調が優れないのでは――!?」

昨日の出来事を思い起こし、腰を浮かせながら、泉水は訊ねた。
火之御子社で怨霊と戦い、倒れた泰継――。
気の流れが完全に停滞し、ぴくりとも動かなくなった彼の姿を見て、肝が冷える思いを味わった。
その後、短時間の眠りから目覚めた泰継は人になったのだと、彼の親代わりだという北山の大天狗から聞かされはしたが、いつにない泰継の反応に、昨日急激に起きた身体の変化の影響がまだ残っているのではないかと考えたのだ。
しかし、顔を上げて再び泉水と視線を合わせた泰継は、否定の言葉を口にした。

「いや、そうではない」
「そうですか。それならば良いのです」

泉水は浮かせていた腰を下ろし、安堵の息を漏らした。
北の札は既に入手済みであり、残る西と南の札を探す間、玄武の加護を受ける自分達の力は必要ではないのだが、それでも泰継に何かあれば、きっと神子が悲しむ。昨日、火之御子社で彼女が見せた涙も、心を何処かに置き忘れて来たかのように咽び泣く姿も、もう二度と見たくはなかった。
そんな泉水の胸の内を知ってか知らずか、泰継は真っ直ぐに泉水の瞳を見つめたまま、朝早く訪ねて来た理由を明かした。

「――それより、私はお前に礼を言うために来たのだ」
「え…?」

泰継が口にした意外な言葉に、泉水は目を瞠り、驚きの声を漏らしていた。

(泰継殿が私に礼とは……。もしや、昨日の……?)

だが、泉水は泰継から礼を言われるようなことをした覚えはない。突然膨れ上がった邪気を感じ、慌てて火之御子社に駆け戻ったものの、結局怨霊との戦いには間に合わず、天狗に頼まれて神子を安倍家に送り届けることしか出来なかったのだから。
昨日の火之御子社での自らの行動を思い返せば、泉水には後悔の念しか湧いて来ないのだ。それ故、驚きの表情を消した後、泉水は戸惑ったような表情を浮かべた。
しかし、そんな泉水の反応を気にした様子もなく、泰継は淡々と告げる。

「昨日はお前に多大な迷惑をかけた。いや、昨日だけではない。一昨日は泰長が神子と面会するためにお前の助力を得たと聞いている」

一旦言葉を切ると、泰継は泉水の顔を真っ直ぐに見つめたまま続けた。

「私が八葉の務めを離れていた間、お前には随分と世話をかけたようだな。すまなかった」

そう話すと、泰継は深々と頭を下げた。
彼の行動に、泉水は再び驚く。
当代一と言われる陰陽師である人が、まさか自分のような取るに足りない者に頭を下げてくれるとは――…。
呆然とする泉水の前で、泰継が顔を上げた。
次の瞬間、彼が浮かべた表情を見て、泉水は目を瞠る。
泰継が浮かべていたのは、恐らく今まで彼が神子の前でしか見せたことがないであろう穏やかな微笑みだったからだ。
思わず見惚れてしまうような美しい笑みを前に泉水が言葉を失くしていると、泰継はまた泉水が思いも寄らなかった言葉を口にした。

「それに、昨日はお前が戻って来てくれて助かった。礼を言う」
「そんな……。私の方こそ、もっと早く戻っていれば、神子と泰継殿のお役に立てたはずでしたのに……」

火之御子社に駆け戻った時、意識を失くした泰継の姿を見て、自分がもっと早く戻っていればと、どれほど後悔したことだろう。それなのに、間に合わなかった自分に、泰継は「助かった」と言ってくれる。結局、自分に出来たのは、神子を安倍家に連れて行くことだけだったのに……。

『――お前は何の役にも立たぬ子……』

母にすらそう言われ続け、ずっと目立たぬよう、他人に迷惑をかけないようにと努めて来た。だから八葉に選ばれた時も、「何故自分が」と思う気持ちが強かった。特に北の札を得るまでは、同じ玄武の加護を受ける八葉であるにもかかわらず、稀代の陰陽師と名高い泰継と自分の能力の差を思い知らされ、やはり母の言う通り自分は何の役にも立たないのだと落ち込むことも多かった。
しかし、花梨の八葉として、花梨や泰継を始めとする八葉達と共に行動するうちに、次第にその思いに変化が生じて来るのを泉水は感じていた。それは、いつも前向きな神子や、大して役には立てない自分を仲間として対等に扱ってくれる八葉達の影響だったに違いない。
そして、泰継の言葉に、泉水は自分が抱いていた思いに気が付いた。

――ああ、自分はずっと、誰かの役に立ちたかったのだ――。

とりわけ、最初から自分を仲間として受け入れてくれていた神子と泰継に。
だから、泰継の言葉を聞いて驚くと同時に、こんなに「嬉しい」と感じているのだろう。

――胸が温かい…。

泉水は胸の内に生じた熱を心地良いと感じ、身を委ねるように一度目を閉じた後、泰継に問い掛けた。

「泰継殿……。それを言うために、わざわざ……?」

紫姫の館を訪れれば顔を合わせる可能性が高いにもかかわらず、敢えてそうはせず、泰継が朝早くから自邸を訪ねて来た理由を、泉水は推測することが出来た。
彼がこのような早朝に訪ねて来たのは、繁忙期に二日連続で出仕出来なかった泉水が今日は出仕するものと思い、礼を言うなら早い方が良いと考えて、泉水が大内裏に出掛けてしまう前に会いたいと考えたためだったのだろう。
果たして、泉水の問い掛けに頷いた後、泰継が口にした言葉は、泉水の推測が正しかったことを示すものだった。

「ここ二日、私の所為で出仕出来なかったお前が今日は出仕すると思い、その前に、と思ったのだ。本来であれば、昨日のうちに言うべきことだったのだろうが」

昨日、泉水は泰長と共に庭で龍笛を奏でた後、彼と暫く話した。その後、紫姫に泰継が神子を送り届けてくれることを伝えるため四条の館に寄り、そのまま自邸に戻ったのだ。離れに残して来た泰継と花梨のことが気にはなったものの、彼らならきっと大丈夫だろうと考えたからだった。それに、二人きりで話し合う時間も必要だったろうから。
会わずに帰ったのは自分の方なのだから、泰継が気にする必要はないと思うのだが――。
それにしても、彼はこのようなことを気に掛ける人だっただろうか。
今朝は本当に泰継に生じた変化を感じる。

「そのようなこと……。それに、いつも泰継殿や他の八葉の皆様にご迷惑をおかけしていたのは、私の方ですのに……」
「私は、お前のことを迷惑だと思ったことなどない」
「泰継殿……」

きっぱりと告げた泰継に泉水は驚いた。彼は他の人間ならば言い難いであろう事もはっきりと言うが、その分偽りを口にすることもない。泰継がそう言うのだから、本当に自分のことを迷惑だと思ったことなどないのだろう。
何か温かい思いが俄かに湧き上がって来るのを感じた瞬間、泉水の口から感謝の言葉が零れ出ていた。

「……ありがとうございます……」
「何故、お前が礼を言うのだ?」

泉水から礼を言われたことに驚いたのか、泰継は軽く目を瞠った後、怪訝そうに訊ねた。
「判らぬ」と書いてあるような表情を浮かべた泰継に、泉水は告げた。

「泰継殿のお言葉を『嬉しい』と思ったから礼を申し上げたのです。それに――」

一旦言葉を切ると、泉水は泰継に微笑みかけた。

「泰継殿は以前にも私に『迷惑をかける』と仰いました。神子と共に北の札を取りに行ったあの日、北山で……」

意外な言葉を聞かされたかのように再び目を瞠った泰継を見つめながら、泉水はあの日のことを思い出していた。


『泉水にも迷惑をかける』

自分が人ではないことを明かした上で、泰継がそう話すのを聞いて、泉水は今感じているのと同じ嬉しさを感じたのだ。
共に戦うべき仲間であり対となる存在でもある泰継に、それまでよりもずっと近付けたような気がしたからだ。
それに、泰継が言うように、彼が人ではないことで神子や自分が迷惑を蒙ったことなどないと思う。泰継の秘密を聞かされ驚きはしたものの、それ以上にそんな大事なことを話してくれたことを嬉しく思う気持ちの方が強かったし、それまで北山に庵を構える安倍の方についての噂は聞いていたものの、共に行動する限り、泰継が自分達とは異なる存在だと感じたこともなかったので、彼の秘密を知った後も、彼との関係が変化するとも思えなかった。
実際、泰継から人ではないと知らされた後も、自分はもちろん花梨もそれまでと同様に彼に接していた。

(いえ、神子の場合、それまでよりもずっと親しげに泰継殿に接しておられたでしょうか)

北の札を得るため共に行動するうちに、花梨は泰継への想いを更に募らせたようだったから。そして、泰継もまた同様に――。
そう考えた泉水は、思わず笑みを浮かべていた。本当に、二人からは幸せな気持ちを分けてもらっていると思う。この温かな想いを抱いたまま、泰継に自分の想いを告げてみたいと泉水は思った。

「ですが、私は泰継殿が人ではあられなかったことで迷惑を蒙ったことなどございませんでしたし、今回の事でも、泰継殿に迷惑をかけられたなどと考えてはおりません。むしろ、私が泰継殿のお役に少しでも立てたのなら、とても嬉しいのです」

出逢った頃、能力の差に気後ればかりしていた所為か、視線すら合わせ辛いと考えていた相手だが、今は自然と微笑むことが出来る。泉水にとって、まだ対等に接することは難しいが、彼との距離がまた少し縮まったようで、そのこともまた嬉しいのだ。
しかし、泉水のそんな思いは泰継には理解出来ないようだ。それは、きっと、彼が最初から泉水のことを対等な存在と考え、そのように扱ってくれていたからだろう。

「お前が何故嬉しいと思うのか、私には判らぬが、お前が迷惑だと思っていないのならば良い」

少し怪訝そうな表情を浮かべながらも、泰継はそう言った。
泉水としては、そっけないその言葉が泰継らしく感じられて、何となく安心したのだが。
泰継は人になったのだと天狗から聞かされたが、彼の身には一見大きな変化は起きていないように見える。だが、実際に泰継とこうして向かい合って話してみただけで、やはりどこか今までの彼とは違うとの印象を受けた。
――一体、どこが今までの泰継と違うのか。
少し考えた泉水は、先程泰継が見せた柔らかな微笑みを思い出し、はっと気付いた。

(ああ、そうだ。泰継殿が私にあのような表情を見せてくださったのは、初めてのことでしたから……)

出逢った頃からずっと、泰継は表情の変化に乏しい人物だった。それを、彼自身は「人ではないから感情がないのだ」と説明していたというが、少なくとも花梨に対する時だけは、徐々に泰継の表情が柔らかいものに変化して来たことを、二人と共に散策に出かける機会が多かった泉水は知っていた。
花梨に対してのみ見せていた柔らかで穏やかな表情を、泰継は今日、泉水の前でも自然と見せるようになっている。
それを泉水は嬉しいと思っているが、泰継自身は自分の身に起きた変化をどのように感じているのだろうか。
彼の口から聞いてみたい気がした。

「泰継殿は人になられて少し変わられましたね」

考え事に沈んでいるうちに無意識に自分の口から零れ出た言葉に驚き、泉水は慌てて泰継に謝罪した。

「も、申し訳ありません。大変失礼なことを申し上げました」

恐縮する泉水を複雑な表情で見ていた泰継は、やがて小さく溜息を吐くと、ぽつりと呟くようにこう言った。

「昨夜、泰長にも同じ事を言われた。――私はそんなに変わっただろうか? 自分ではよく分からないのだが……」
「え…?」

その声音に何かを感じて泉水が顔を上げると、珍しく困惑したような顔で泰継が見つめている。
彼のこんな表情を、泉水は一度だけ見たことがあった。
昨日、なかなか泣き止まない神子にどうしていいか分からず、困り果てたように助けを求めて来た時の、あの表情だ。

(ああ、やはり、この方は変わられた)

自然と嬉しさが湧き起こり、泉水は顔を綻ばせていた。

「そうですね……。泰継殿が変わられたと私が思うのは、私などにも様々な表情をお見せくださるようになった所為でしょうか」
「表情……?」
「はい。ご自分ではお気付きでないのかもしれませんが、先程も泰継殿は優しい表情をなさっておいででした」

泉水の言葉に驚いて、泰継が目を瞠る。

「泰継殿は以前、『人ではないから感情がない』と仰ったと神子から聞きましたが、私にはそうは思えませんでした。北の札を探していた間、神子に対して柔らかな表情をお見せになる泰継殿を、私は何度もお二人の傍で見ておりましたから……」

泉水はその頃の事を思い起こし、目を閉じた。
北の札を探して神子と泰継と共に京の町を歩いてから、まだ半月ほどしか経っていない。それなのに遥か昔の事のようにすら思えるのは、あれから色々な事があり過ぎた所為なのだろう。
あの頃から、泉水は神子と泰継の互いへの想いを感じ取っていた。そして、互いにそれと気付いていない二人と共に行動しながら、いつか彼らの想いが通じ合えば良いのにと願っていたのだ。
思えば、泰継の神子への想いに気付いたからこそ、自分は心を持たぬ存在なのだと言う泰継に違和感を覚えたのだろう。仮に泰継が言う通り、彼が心も感情も持たぬ存在であったのだとしても、神子と出逢い、八葉として彼女の傍に在ることによって、少なくともあの頃既に人と同じ感情を持ちつつあったのだと思う。
しかし、泰継はその事に気が付いていないようだ。
泉水が目を開いて向かいを見ると、泰継は俯き加減に視線を逸らして何事か考え込んでいる。彼の顔からは既に困惑した表情は消えていた。
――もしかしたら、今、自分が思い起していた、神子と三人で散策した日々を思い出しているのかもしれない。
そう考えた泉水は、泰継の思索の邪魔をしないよう、彼が口を開くのを静かに待った。


暫くの間、無言のまま考えを巡らせていた泰継は、やがて顔を上げて泉水の目を真っ直ぐに見据えて言った。

「ひとつ、お前に訊きたいことがある」
「私に判ることでしたら……。何でしょうか?」
「あの日――北山で北の札を得た後のことだ。飽く迄も東宮位に執着する和仁親王の心持ちについて、『止められない気持ちというものもあるのではないか』と、お前は言った」

北の札を探していた時の話をした所為か、泰継は北の札を入手した日のことを持ち出した。

「はい、覚えております。確かにそう申し上げました」

泰継が和仁の話題を持ち出したことを意外に思い、泉水は戸惑いながらもそう応えた。
あの日、北の札を手に入れた後、呪詛返しを受けた和仁を先に帰した時朝は、花梨に「宮様を止めて欲しい」と依頼したのだ。
あの時、時朝が花梨に話した通り、和仁は物心ついた時からずっと、泉水の母である女六条宮に東宮に相応しいと言われて育てられ、自身も当然のように東宮になるつもりでいた。しかし、彰紋が東宮に立坊し、和仁は弾正尹という役職を与えられただけで、力ない親王として、世にかえりみられない日々を過ごすこととなった。
だからと言って何をしてもいいというわけではないと言った泰継の言葉に賛同しないわけではないのだが、泉水には母から寄せられた期待と現実との差に苦しみ続けた和仁の気持ちも理解出来た。
その苦しみから逃れるため、母の期待に沿えるよう、和仁が抱き続けたのが「東宮になる」という願いだったのだろう。そして、それはいつしか和仁自身にも止められない願いとなっていたのだ。
東宮位に執着する余り、和仁は親王でありながら京の各地で呪詛を行い、時朝を使って千歳が置いた怨霊を操り人を襲うまでになった。そこまで彼を追い詰めたのは、間違いなく母の過度な期待だったのだろう。母は、同腹の兄が東宮になれず、自らの血筋が主流から外れたことにこだわりを持ち続けていたから。

(思えば、母上も自分では止められぬ願いを抱いておられたのだ。だから、宮に……)

――人の業とはなんと深いものなのか。

和仁や母が囚われているのは、もはや妄執と呼ぶべき類のものなのかもしれない。人が人であるが故に抱く、理性で以って抑えることが不可能なほど膨れ上がった、邪なる願い。
二人を止めることが出来ない自分の不甲斐なさを思うと、泉水の表情は曇った。


「――あの時、私はお前の言葉が理解出来なかった。“止められない気持ち”とは一体どのようなものなのか。人は何故そのような思いを抱くのか……。私には分からなかったのだ――」

泉水が物思いに耽っている間も、泰継が話し続ける。
泰継が紡ぐ言葉をどこか上の空で聞きながら考え事に沈んでいると、

「人は何故そのような思いを抱くのか――お前には分かるのか?」

突然、泰継に問い掛けられ、泉水は我に返った。慌てて泰継の方を見ると、答えを求めるように色違いの目がじっと自分を見つめている。

(私は……、何をしているのでしょう。泰継殿が私に質問がおありだと仰ったというのに……)

だが、泰継の問いに答えるのは難しいことではなかった。たった今、泉水自身も考えていたことだったからだ。
一度大きめに息を吸って吐いた後、泉水は答えた。

「何故、というのは、私にも分かりません。ただ、自ら止めることが出来ない、いけないと思っても諦めきれない強い思いを抱いてしまうのは、人が人であるが故のことではないでしょうか」
「人が人であるが故……」

泰継は泉水の言葉を反芻するように呟いた。
暫し考え込むように黙した後、徐に口を開く。


「“止められない気持ち”とはどのようなものなのか、あの時の私には分からなかったのだ。だが、神子への想いを自覚して、私は初めてそれを理解したのだと思う。人ではないものがそのような想いを抱くこと自体、不可解な事ではあるのだろうが……」


あまりにさらりと告げられた言葉に、泉水は一瞬遅れてその意味を理解した。
つまり、泰継にとって神子への想いは“止められない気持ち”、すなわち決して諦めることの出来ない強い想いであるということだ。


『私がこの想いを捨てることはありません。諦めようと思っても、もう無理だって判っているから……』


不意に、一昨日安倍家を訪れた際、花梨が泰長に告げた言葉が耳に蘇った。

(ああ、やはりお二人は同じ想いを抱いておいでなのですね……)

それが、何故か我が事のように嬉しい。
もちろん、誰にも止められぬほど強く想う相手から同じように想われ、そしてその想いを相手のみならず他者にさえ告げることが出来る二人が羨ましいと思う気持ちがないわけではないのだが、それ以上に泉水の胸には嬉しいと思う気持ちが温かく湧き上がって来るのだ。
昨日から、神子と泰継から温かいものを貰ってばかりだ。
和仁と母を思い、沈みかけた気持ちが、忽ちの内に浮上する。
微笑みを浮かべた泉水は、恐らく泰継が思い至っていないであろう、自らが考えた仮説を話してみることにした。

「昨日、神子から陽の気を授かり泰継殿は人になられたのだと、天狗殿と泰長殿が仰いました。ですが、もしかしたら神子への想いを抱かれた時、泰継殿は既に人になっていた、若しくは人なりつつあったのではないでしょうか」

そう告げると、泰継は色違いの美しい目を大きく見開いた。
普段表情を変えることが少なかった彼の、心底吃驚したような表情を見て、泉水は慌てて「自分の勝手な解釈だ」と断りを入れた。

「人になられたのが先か、神子への想いを抱かれたのが先か、それは誰にも分からないことなのかもしれません。ですが、ただ一つだけ、確実に言えることがあると思うのです」
「確実に言えること?」
「はい」

鸚鵡返しに問い返した泰継に頷き掛けると、泉水は続けた。


「あの時、泰継殿は仰いました。『止められない気持ちを持つのは人だ』――と。泰継殿が止められない気持ちを抱かれたのなら、貴方は間違いなく人になられたのだと私は思います」

「泉水……」


泰継が珍しく吃驚した様子で自分の名を呟くのを聞きながら、泉水は穏やかに微笑みかけた。
あの日北山で和仁に言った通り、人であろうとなかろうと、泰継が高潔な魂を宿した存在であることに変わりはないと思う。だが、人ならぬ存在である限り、昨日のようなことがまたいつ起きるとも限らない。それに、泰継が人になったことを喜ぶ天狗や泰長の姿を見た今となっては、やはりこれで良かったのだという思いが強くなった。
無論、最も喜びを感じているのは、泰継自身であろうが――。


驚く泰継の顔を見つめながら、泉水は昨日、泰長から告げられた言葉を思い出していた。

『泰継殿は私が敬愛する大切な師匠です。ですから、泉水殿のような方が泰継殿の対の八葉で本当に良かったと、私は思っているのです』

北山の奥地で長い間隠遁生活を送って来たため、人付き合いというものをしたことがない所為か、誰に対しても同じ接し方をする泰継の人となりを誤解する者があまりに多く、傍で見ていてずっと歯痒い思いをして来たのだと泰長は話した。

『ですが、泉水殿は神子殿と同様、あの方の本質を理解して下さっているようだ。あの方が人であろうと人でなかろうと、そのようなことは関係なく……』

そう言って微笑んだ泰長に、親に褒められた子供のようにくすぐったいような思いを抱いたが、泰長の言葉が純粋に嬉しいとも思った。
何故なら、泉水自身も泰継に対して、泰長が話したものと同じ思いを抱いていたからだ。
つまり、自分を理解し、認めてくれた泰継に対する感謝の思いである。

(泰継殿が私の対であったこと、私も龍神に感謝いたしましょう)

今はまだ、その思いをそっと胸に仕舞う。
まだ、この思いを本人に告げることは出来ないけれど、八葉の務めを無事終えることが出来たなら、きっと――。




「――泰継殿、これから紫姫の館をお訪ねになるのでしょう?」

屋外から聞こえて来た鳥の声に我に返り、泉水は話の向きを変えた。
常であれば、泰継は誰よりも早く四条を訪れ、神子が朝餉を摂っている間に、屋敷の周囲に張られた結界に緩みなどが生じていないか見回っていると聞いている。己の務めを果たすことに直向きな泰継のことだから、この数日の間、結界の確認も館の清めも行っていないことを気にしているに違いない。そろそろ出掛けた方がよいだろう。

泉水が考え事をしている間、彼にしては珍しく言葉を失くした様子で茫然としていた泰継もまた、泉水の問い掛けに我に返ったように表情を改めた。

「ああ。そのつもりだ」

泉水の問いに頷いた後、泰継は言葉を継いだ。

「紫姫の占いによれば、西の札が出現するのは明日だ。ならば、今日、玄武の加護を受ける我らにも果たせる役目があろう」

泰継のその言葉は、泉水の耳に力強く響いた。
恐らく彼は五日間の不在を埋め合わせるべく、今日から八葉の務めにこれまで以上に励むつもりなのだろう。無論、想い人を自分の手で守りたいという思いもあるのだろうが。
泰継の胸の内を想像し、泉水は口元を綻ばせた。
できることなら、自分も神子の役に立ちたい。同じ玄武の加護を受ける八葉である泰継と共に――。

「では、ご迷惑でなければ、私も一緒に参ります」
「私はお前を迷惑などと考えたことはない――そう言ったはずだ」
「も、申し訳ありません!」

つい、いつものように「迷惑でなければ」という言葉を付けてしまった泉水は、泰継の返答を聞いて、これまた反射的に謝罪の言葉を口にしていた。
その事に自ら気付き、泰継の方を見ると、彼は僅かに眉を顰めてこちらを見ていた。

「何故謝る? 謝る必要などあるまい」
「あ……」

呆れたように紡がれた言葉に、泉水はまるで無意識に自分の口から零れ出る言の葉を押し止めようとするように、思わずぽかんと開けた口元に手を遣っていた。
以前にも、泰継から同じ指摘を受けたことを思い出したのだ。
人に迷惑をかけまいとするあまり、つい相手の表情の変化や顔色を窺い、相手が少しでも不快と感じているように見受けられた時には、直ぐに謝罪の言葉を発することで事無きを得ようとする習慣が、いつの間にか身に付いてしまっていた。泉水にとっては、己に自信が持てないが故に身に付いた処世術のようなものであるが、泰継にはそれが奇異に感じられるらしい。
初めて泰継にそれを指摘された時は、端的な物言いと相俟って、彼が自己卑下しがちな自分の態度を非難しているのだと考えてしまったのだが、共に過ごす時間を重ねるうちに、泰継が自分を仲間と認め、対等に扱ってくれているが故の言葉だったのだと理解するようになった。
母や母付きの女房たちに幼い頃から気味悪がられて来た、泉水が生まれ持った霊力も、泰継は出逢って間もない頃からその高さを認めてくれていた。
これまで泰継の能力の高さに気後ればかりしていたけれど、その泰継が認めてくれた自分の力を、これからは信じたいと泉水は思う。


「あの、泰継殿……。ありがとうございます……」


再び口を衝いて出た感謝の言葉に、案の定泰継が怪訝そうな表情を浮かべている。
何故自分が礼を言ったのか、きっと泰継には分からないだろう。彼が口にする言葉に、自分がどれほど励まされ、そして嬉しいと感じていることか――。泰継にとっては、思ったことを言の葉に載せているだけに過ぎないのであろうから。
彼は自分を信じることを教えてくれたのだと、泉水は考えている。


「では、そろそろ参りましょう」


無言のまま訝しげに自分を見つめる泰継に声を掛けると、泉水は静かに立ち上がった。





◇ ◇ ◇





内大臣邸が在る左京六条から紫姫の館までは、然程遠い距離ではない。
泉水と泰継は、短いその道中の間、殆ど言葉を交わすことはなかった。
泉水自身も口数が多い方ではないが、泰継は泉水以上に寡黙であるからだ。彼は本当に必要な事しか喋らない。
だが、以前ならば気まずく感じたであろう泰継の沈黙も、彼の人となりをよく知った今であれば、特に気にはならなかった。自身も饒舌な性質ではないし、静かな環境を好む方であるから、むしろ心地良いと言える。


自邸の総門を出て、泰継と共に小路を北に向かって歩き始めて間もなく、泉水はある事に気が付いた。
歩く速度を泉水に合わせ、泰継がゆったりとした速さで足を運んでいるのだ。

彼は元来歩くのがかなり早い。
二人きりで京の町を散策していた際、あまりに泰継が歩くのが早く、何度も置いて行かれそうになったことがあるのだと、笑いながら花梨が話していたことがあった。小走りで息を切らせながらついて来る花梨に気付き、それ以降は花梨の歩く速度に合わせてくれるようになったとのことだったが、彼の気遣いは神子に対してのみであり、八葉の仲間相手にそのような気遣いを見せることはなかった。――その必要がなかったからだ。
それ故、おっとりとした性格から歩くのも然程早くない泉水は、泰継と二人きりで行動する際、彼の背中を追い掛けながら目的地に向かうことが多かった。
それが、今日は泰継が自分の隣を同じ速度で歩いている。
泉水が普段通りに歩いているのだから、泰継が泉水に合わせてくれているということだ。

泉水は思わず隣を歩く泰継の顔を見上げた。
暫くの間、真っ直ぐに前を見据える端整な横顔を見つめていると、視線を感じたのか、泰継が泉水に目を向けた。

「どうした?」
「あ……いえ、何でもありません」

僅かに首を傾げる泰継にそう答えると、泉水は前を向いた。
新たに発見した泰継の変化が嬉しくて、自然と口元が綻んだ。
隣で泰継が怪訝そうな表情を浮かべていることを感じたが、彼はそれ以上何も言わず、やがて前方に視線を戻したようだ。

もしかしたら、以前は自分の方が泰継と並んで歩くことを無意識に避けていたのかもしれない。泰継に限らず、誰かと歩く際、相手の数歩後ろを歩くことに慣れていたから。
思えばそれも、他人に迷惑をかけるなと、幼い頃から母に言われて来たためだったような気がする。
何故だろうか。泰継の対として彼に認められたような気がして嬉しいと思う気持ちもあるが、自然に泰継の隣を歩いている自分の心持ちの変化がさらに嬉しく感じる。
もっと神子や八葉の仲間達の役に立ちたい――。
そんな思いが胸の奥から溢れるように生じた。


次の辻を東に入れば、間もなく紫姫の館の総門が見えて来るはずだ。
きっと、神子は泰継が訪れるのを待ちわびていることだろう。
泰継が紫姫の館を訪れるのは数日ぶりだから、花梨は今日の散策の供に彼を選ぶに違いない。

――できれば、今日、自分も二人と共に務めを果たせるように……。

心の中でそう祈りながら、泉水は歩き続けた。







〜了〜


あ と が き
「連理」の翌日の天地玄武のお話。泉水さん視点です。
「迷惑」というお題を見た時最初に浮かんだのは、「ご迷惑をおかけして〜」という台詞が多そうな永泉さんでも泉水さんでもなく、話の冒頭に書いた北の札を入手した後北山で泰継さんが泉水さんに言った言葉でした。初プレイでこの台詞を見た時、「やっぱり泰明さんとは違う人なんだな」と思ったことを、13年経った今でも覚えています。それだけ印象的な台詞だったのですよね。
泉水さんから見た泰継さんっていう話を以前から書いてみたかったので、泰継さんの第四段階の前後で泉水さんが色々と手助けして、より一層打ち解けた「連理」の番外編という設定で挑戦してみたのですが、難しかったです。ただ、実際に書いてみて、泉水さんは最初の内は泰継さんのことを「雲の上の存在」的な目で見ていて(能力的にという意味で)、常に気後れしている印象があったのですが、最終的には肩を並べて戦える頼もしい相棒になれたんだなと思いました。
またまたお題から少し外れた話になってしまいましたが、最後まで読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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