「泰継さん!」

文机の前に座り、いつもの如く陰陽道に関する書物を読み耽っていた泰継は、庭から突然聞こえて来た声に顔を上げた。訝しげに庭に視線を向けるが、下ろされた御簾の向こうに声の主の姿は無い。

「泰継さん! ちょっと来て下さい!」

何だ、と問い掛けようとした時、再び外から名を呼ぶ声が聞こえて来た。どうやら花梨は、文机の置いてある場所からは死角になっている位置にいるらしい。
少し興奮気味な妻の声に、何か異変でも起きたのかと周囲の気を探ってみたが、そのような気配は全く感じられず、春を象徴する木気が穏やかに巡っているだけだった。
常であれば、泰継が書物を読んでいる時や呪符を書いている時に、花梨がこのように声を掛けて来ることはない。寧ろ邪魔をしないようにと、傍を歩く時も、衣擦れの音をなるべくさせないように気遣っているくらいなのだ。
その花梨がわざわざ庭から呼び掛けて来るということは、余程急ぎの用でもあるのか、それとも――…。

(退屈させてしまったか……)

泰継の表情が緩む。
京の一般的な女性とは違い、花梨は屋敷の中でじっとしていることがあまり好きではないようだ。それは、彼女が異世界の人間であるというだけでなく、彼女自身の性格も一因となっている。まだ龍神の神子として行動していた頃、その行動力故に供も連れず独りで外出してしまい、京の町中に式神を放って花梨を捜す羽目になったことは、一度だけではなかった。
だから、仕事が休みの日には、泰継はなるべく彼女を京の町に連れ出すようにしていたのだ。二人きりでのんびりと花を見たりして過ごすことを、花梨は心から楽しんでいるようだった。
ところが、昨年の秋、花梨の妊娠が判明してからは、花梨の身体を気遣う泰継の希望で外出を控え、屋敷の中で過ごすことが多くなったのだ。特にここ二ヶ月間は、月に一、二度、紫姫の館を訪れるだけだった。
初めての出産を来月に控え、外出することも儘ならなかった花梨が退屈するのも無理はない。
それなのに、久しぶりに取れた休みに、つい書物を手に取ってしまった。

――今日は書を読むのは諦めて、花梨と薬草の世話でもしながら過ごそうか……。

泰継がそんな事を考えていると――…

「や・す・つ・ぐ・さぁ〜ん!!」

今度はさっきより間延びした大きな声が聞こえて来る。
耳に届いたその声に、泰継の口からくすりと笑い声が零れた。
以前なら「騒々しい」と眉を顰めたであろうその声が、今では微笑ましく思えるのが不思議だ。

「今、行く」

庭に向けて声を掛けると、読んでいた書を文机の上に置き、泰継は静かに立ち上がった。







泰継が簀子縁に出ると、花梨は庭の片隅に植えられた桜の木の傍に立っていた。
「泰継さん、こっちです!」
泰継の姿を捉えた花梨が、ぶんぶんと手を振りながら呼んでいる。
その様子がまた微笑ましく思えて、泰継は無意識に顔を綻ばせていた。


「一体、どうしたのだ?」
花梨の傍に歩み寄り、泰継が訊ねた。
「調べ物の邪魔しちゃって、ごめんなさい。でも、どうしても泰継さんに見てもらいたいものがあったの」
「もう終わった」
本当は終わった訳ではなかったのだが、泰継はそう言って花梨に微笑んで見せた。
――だから謝る必要はない。
柔らかなその微笑みが、口数の少ない彼が敢えて口にはしない言葉を伝えてくれているように思えて、花梨の顔も綻んだ。
「それより、私に見せたいものとは何だ?」
「これです!」
頭上に枝を広げている桜を指差しながら、にこにこと嬉しそうに花梨が笑う。
花梨が指差した枝をよく見ると、つい昨日まで固く閉ざされていた蕾が綻び、薄紅色の花弁が僅かに顔を覗かせている。
「ああ。開き始めたのだな」
花梨がわざわざ自分を庭に呼んだ理由を悟り、泰継は笑みを浮かべた。


この桜は昨年の秋、安倍家の離れの庭からこの屋敷に移植されたものだった。泰継と花梨が此処に移り住む際、泰継が安倍家の当主、安倍泰長に頼み、譲り受ける約束をしていたのだ。
「桜が一緒に来たいと言っている」
――というのが、泰継が泰長に語った理由だった。
しかし、たとえ桜自身がそう望んだとしても、桜は元来移植を嫌う植物なので、最も移植に適した晩秋を待って、安倍家から桜を迎え入れたのだった。
本家の離れの庭の桜を新居の庭に移すと聞いて、花梨は喜んだ。あの桜には、特別な思い入れがあったからだ。
泰継から求婚された日も婚儀の日も、二人の傍に桜が在ったから……。
だから、桜が再び花を付けるのを楽しみにしていた。
桜の移植を晩秋に行うことにした理由を泰継から聞いていたので、ちゃんと咲いてくれるか心配していたのだが、杞憂だったようだ。花梨の心配を余所に、桜は今年もまた花開こうとしている。
それが嬉しくて、綻んだ蕾を見つけて直ぐに泰継の名を呼んでいた。



二人は言葉を交わすことなく、暫くの間桜の蕾を見つめていた。

「ねえ、泰継さん」
やがて、花梨が泰継に声を掛けた。
「何だ?」
「今日が何の日か覚えていますか?」
「今日?」
突然の質問に、泰継が僅かに首を傾げる仕草を見せた。

同じ質問を、今まで幾度か花梨からされたことがあった。
昨秋、花梨が京に召喚されて一年が経った日に同じ質問をされ、
「花梨が京に来た日だ」
と答えたところ、
「泰継さんと私が出逢った日ですよ」
と、透かさず花梨に訂正された。どうやら泰継の回答が気に入らなかったらしく、花梨は不満気に少し口を尖らせていた。泰継にしてみれば、花梨が京に来たその日に出逢ったのだからどちらも正解なのだが、花梨にとっては京に来た事より泰継と出逢った事の方が、より重要であるらしい。
その経験から、泰継は花梨のこの質問には、彼女が望む答えを返す必要があることを学んだ。
その数日前の重陽の節には、花梨の世界での重要な行事だという、“誕生日のお祝い”とやらをされたのだが、その際も、
「泰継さんが生まれた日は、私にとっては、とても大切な日なんです」
と懇々と説明された。
花梨と暮らすうちに、泰継は花梨が自分が“特別な日”と定めた日にこだわりを持っているらしいことに気が付いた。そして、花梨が「今日は何の日か」と訊ねて来る時は、決まって彼女が考える“特別な日”のことを訊ねているのだ。彼女のその質問にはいつも、“特別な日”を泰継と共有したいと願う気持ちが表れていることにも、泰継は気付いていた。
それ故、彼女が望む答えを返さなくてはならないのだ。

人になって一年余り。以前は知らなかった“忘却”というものを覚えた泰継であったが、それでもまだ記憶力は抜群である。花梨が泰継に言わせたがっている一年前の今日の出来事が何であるか、当然のことながらはっきりと記憶していた。

それは、一年前の今日が、泰継自身にとっても“特別な日”だったからだ。


「お前と私が夫婦の契りを交わした日だ」


美女も斯くやという微笑みを浮かべ、泰継が答える。
“結婚記念日”という答えを期待していた花梨は、泰継の返答を聞いて赤面してしまった。彼の言葉の意味は“結婚記念日”と同じなのだが、何故か無性に恥ずかしい。
「……花梨?」
自分で訊ねておいて頬を紅潮させた花梨を訝しく思ったのか、顔を覗き込むようにして泰継が訊ねて来た。間近で見つめられ、泰継を意識した花梨の鼓動は忽ち速くなった。
「気が乱れている。……具合が悪いのか?」
「ち、違います!」
心配そうな表情になった泰継を見て、花梨は慌てて首を横に振りながら否定した。妊娠が判ってからというもの、泰継は以前にも増して花梨を過保護に扱っているのだ。
否定してもなお心配そうな表情を崩そうとしない夫を安心させようと、花梨は努めて明るい笑顔を作った。
よく考えてみれば、誕生日を祝う習慣がないくらいだから、“結婚記念日”などというものは京には存在しないのだろう。
それにも拘らず、ちゃんと覚えていてくれたことが嬉しい。
そう考えた花梨の顔に、今度は自然と笑みが浮かぶ。
「もう一年経ったんですね」
「ああ」
笑顔で隣に立つ泰継を見上げて花梨が言うと、泰継は漸く表情を和らげた。

――早かったな……。

嬉しそうに笑う花梨の顔を見つめながら、ふと、そんな思いが頭を過ぎる。
今にして思えば、花梨と出逢うまでの長い歳月、北山の庵で過ごしたどの三ヶ月間よりも、花梨の八葉として過ごした三ヶ月半は過ぎるのが早かったように思う。そして、年が明けて花梨との結婚のために費やした日々と、花梨と結婚し、共に過ごした一年間は、あの三ヶ月半よりも更に早く過ぎ去って行った。
理から外れた存在であったが故に、時の流れを常に客観的に捉えることしか出来なかった泰継にとって、「時間があっという間に過ぎる」というのは初めての経験だった。

泰継の顔を見つめていた花梨が、桜の方に目を向けた。そのまま、開き始めた桜の蕾をじっと見つめている。
その横顔を見ていた泰継は、やがて視線を下の方に落とした。
来月誕生予定の赤子を宿した花梨の腹は、随分と大きくなっている。華奢な身体なだけに、その大きさが際立って見えるのだ。
泰継が人となり、花梨と結ばれた証――。
それは、夢のように思われるくらいに駆け足で過ぎ去って行った日々が、確かに存在していた証でもあった。
この幸せは夢ではないのだと、改めて確認し、そして安心する。


「この桜、今年は他の桜と同じ時期に開き始めたみたいですね」

不意に、花梨がそう呟いた。
その声に我に返った泰継が顔を上げると、ちょうどこちらを振り向いた花梨と目が合った。
「去年はこの桜だけ、この時期にはもう満開でしたよね?でも、今年は他の桜もそろそろ花が開き始めているみたいだし……」
話しながら、花梨は庭に目を向けた。花梨の視線の先には、別の桜の木が在った。紫姫が、四条の館の花梨の部屋が在った対屋の庭に植えられていた桜を、「神子様の慰めになれば」と贈ってくれたものだ。
花梨の視線を追うように、泰継もそちらに目を向けた。よく見ると、確かに花梨の言う通り、その木も既に蕾が開き始めているのが判る。
花梨が視線を泰継に戻した。
「きっと去年、いつもより早く満開になったのは、“早く咲いてね”って言った私の願いを桜が叶えてくれたから…ですよね!」
その言葉に、泰継は目を見開いた。
泰継を見上げる花梨は、満面に笑みを浮かべていた。明らかに同意を求めている表情である。
それを見て取った泰継が、僅かに口端を上げた。
「――いや……」
確かに、花梨が願ったことも原因の一つだろう。彼女は植物や動物だけでなく、京の守護神である龍神にまで愛される存在なのだから。
しかし、泰継には別の思いがあった。それは、一年前のあの日、花梨が指摘した事だ。
それを告げるため、花梨の言葉を訂正する。

「いや、“花梨の願い”ではない」

否定の言葉を口にした泰継に驚き、花梨の顔から笑みが消えた。昨年桜の花が通常より早く満開になったのは、きっと自分の願いが通じたからだと信じている花梨だったが、もしかしたら自分勝手な思い込みだったのかと心配になったのだ。何故なら、泰継が木と話すことが出来ることを知っていたから――。
花梨が不安げな表情を浮かべたのを見て、泰継は直ぐに言葉を継いだ。


「“私たちの願い”、だ……」


大きな緑色の瞳が見開かれた。
瞬時にその言葉の意味を捉えることが出来なかったのか、ぱちぱちと瞬きを繰り返す花梨に、泰継が微笑み掛ける。
「“早く咲いて欲しい”と願ったのは、お前だけではなかったのだから……」
いつも通りの優しい微笑みが、少し呆れたような悪戯っぽい笑みへと変わる。
「昨年、お前と私が願ったから早く花を咲かせたのだと私に言ったのは、花梨、お前のほうだろう。忘れたのか?」
「泰継さん……」
泰継が初めて見せた表情に一瞬だけ目を瞠った花梨の顔に、ゆっくりと蕾が開くように笑みが広がって行く。
嬉しそうな笑顔を見せた後、身体を預けて来た花梨の肩を、泰継は抱き寄せた。
ふと、顔を上げると、蕾を付けた桜の枝が目に入る。
それを見つめながら、泰継は昨年の出来事に思いを馳せた。


昨年の今日、婚儀に相応しいと占われた日にちょうど桜が満開になったのは、間違いなく自分がそう願った所為だと泰継は思っている。
何故なら、この木に宿る木霊に、そのように頼んだからだ。
その事を、花梨には話してはいなかった。
隠すつもりではなかったのだが――…。

『泰継さんの願いだけじゃなくって、きっと、私の願いも聞いてくれたんだと思うの。だって、“早く桜が咲いて欲しい”って思っていたのは、私も同じだもの』

花梨のその言葉を聞いて、そうであれば良いと思ってしまったのだ。
花梨が自分と同じ願いを持っていてくれることが、こんなにも嬉しいことなのだと知ってしまったから。
それは、北山の庵でたった独り暮らしていた頃には決して得ることが出来なかった、胸が温かくなるような感覚だった。


『幸せになりなさい。お前の神子が、お前を導いてくれるだろう……』


不意に、泰継の耳に、昨年この桜の傍で聞いた晴明の言葉が甦った。
泰継の顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。

(ああ……。私は、今、幸せだ……)

花梨と共にある限り、この幸せはずっと続いて行く。
だから――…


桜よ。
ずっと、ここから、私たちを見守っていて欲しい。


泰継は、花梨の肩を抱き寄せる手に力を込めた。







〜了〜


あ と が き
創作部屋にある「桜が咲いたら…」の一年後のお話です。「雪花」でプロポーズ、「桜が咲いたら…」で結婚と来て、その後の二人の幸せな生活を書いてみたくて話を作ってみました。
本家の離れの庭から移植された桜は、この後もずっと泰継さんと花梨ちゃん、そしてこの先二人の間に生まれるであろう子供たちの様子を見守ってくれそうですね^^
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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