「泰継さんは、八葉の務めが終わったらどうするんですか?」


突然の花梨の問い掛けに虚を衝かれ、泰継は左右色違いの目を見開いた。
思い掛けない質問に、咄嗟に答えることが出来ず、花梨から視線を逸らして目を伏せる。

今まで、八葉の務めが終わった後のことを考えたことがなかった訳ではなかった。むしろ、終わりが見えて来た所為か、最近になってよく考えるようになったと言える。
実際、昨夜も大晦日まで続くであろう戦いの今後について考えているうちに、いつの間にか京が救われた後の事にまで思索が及んでいた。
しかし――…。

幾度となく思索の対象とした事柄であったにも拘らず、花梨の口から零れ出た問いは、まるで水面に落ちた雫が波紋を広げるように、泰継を動揺させた。
ふと気が付くと、膝の上に載せた手を、関節が白く浮き出るほど固く握り締めていた。それに視線を落としたまま、泰継は目を瞑った。

昨夜の思索から得た結論を、今、神子に話すことは出来ない。
それは、言うなれば自分自身の願望に過ぎないのだから――。

そう考えた泰継は、閉じていた目を開くと、顔を上げて花梨に向き直った。自らの内で起きている気の乱れを花梨に悟らせないよう平静を装い、この戦いが終わった後の自らの在り方について、次のように答えるだけに留めた。


「元通り北山の庵で暮らしていくことになるだろう。――あとは、このまま消えるまで在るだけだ」


それを聞いて、吃驚したように一瞬目を見開いた花梨の表情が忽ち曇る。
その表情を目にした瞬間、泰継は自らの内に生じた漣が大きな波となって自分自身を掻き乱し始めたことを、はっきりと感じ取ったのだった。








夕刻、神子の元を辞し安倍本家の離れに戻った泰継は、簀子縁に面した柱に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。左膝を立て、右肢を前に投げ出した姿勢のまま、自分自身を抱き締めながらゆっくりと上体を折る。
立てた膝に額を付けると、泰継は大きく息を吐いて目を閉じた。

酷く気分が悪かった。
未だかつて無かったくらいに、身の内の気が大きく乱れているのだ。それは、まるで嵐の海のようなうねりを帯びて、泰継の内を駆け巡っている。

(一体、どうしたというのだ……)

神子の言葉を聞いてから、どうもおかしい。
今まで経験したことのない激しい気の乱れに、内側から粉々に破壊されそうな感覚を覚えた泰継は、少しでもそれを抑えようと自分自身を抱き締める手に力を込めた。
気が乱れているだけではなく、陰陽の力が急速に抜け落ちて行くのが判る。八葉に選ばれ、玄武の加護を受けるようになってから、これまで以上に身の内に漲っていた陰陽の力が、まるで亀裂が入った壺から零れ落ちる水のように、次々と流れ落ちて行くのだ。
しかも、どうしてもその流れを止めることが出来なかった。
三つ目の心のかけらを取り戻した頃から、その兆候はあったように思う。
しかし、はっきりとそう感じるようになったのは昨日からだ。幸鷹と翡翠と共に、西の札の手掛かりを求めて散策に出掛ける神子を見送った後、いつものように館の清めを行おうと呪を唱え始めた時、陰陽の力が湧いて来ないことに気が付いたのだ。
その事実に愕然とし、結んでいた印を解いて己の掌を見つめたまま、呆然とその場に立ち尽くしてしまった。

こんな事は生まれて初めての経験だった。


(一体、何故――…?)


心当たりは、唯一つ――。


恐らく、四つ目の心のかけらを得たからだろう。





泰継は自分自身を抱き締める手に、再び力を込めた。関節が白く浮き出るほどに力を込めると、腕に鋭い痛みを感じた。
痛みを感じることで、自分がまだ、此処に存在していることを確かめる。

(だが、いつまで持つものか――…)

泰継は再び息を吐いた。
身の内の気の乱れに引き摺られるように乱れ始めた呼吸を整えようと、右手を胸元に遣った。


吉平の手により造られた存在である泰継は、京の各地を巡り、五行の力をその身に蓄えることにより、消耗した気の補充を行う。それは泰継にとって、人が食事や睡眠を取ることにより疲れを癒すのと同じ行為であった。
だから、昨日、紫姫の館を辞した後、泰継は五行の力の補充を行うため、京の各地を訪れた。これまで神子と共に巡り、五行の力を強化した地を中心に。
しかし、そうして補充した気は、気の乱れと共に次々と抜け落ちて行く。

このまま五行の力が抜けて行き、身の内からすべての気を失った時、この器は抜け殻となり、「安倍泰継」という存在は消えることになるのだ。
それが、自然の摂理――。
理を曲げて存在する、造られし者の宿命だ。
そんな事は、この器を与えられた時から理解していたことだった。
理解していたはず、だったのだが……。


『泰継さんは、八葉の務めが終わったらどうするんですか?』


神子のその質問に、偽りを答えてしまった。


(そうだ。私は、事実ではないことを神子に伝えたのだ……)


その事実に愕然とする。
嘘とは、理を歪める言の葉のこと。
陰陽師は自然の理を整え、その力を操る。それ故、泰継が事実に基づかない言葉を発することはなかった。
今日までは――。

その場に倒れ込みそうなくらいに全身を襲う倦怠感を何とか堪え、泰継は考えようとする。
気の乱れの影響か、思考が散漫になっているのが判る。
それでも、何か考えていないと、このまま意識を失くしてしまいそうに思えたのだ。


『元通り北山の庵で暮らしていくことになるだろう。――あとは、このまま消えるまで在るだけだ』


花梨の質問に返した自らの言葉を思い起こし、泰継は立てた膝に額を付けた姿勢のまま、再び息を吐いた。呼吸するたびに、全身から力が抜けて行くような感覚に襲われる。

このまま力が失われていけば、恐らくこの身体は大晦日まで持たないだろう。
このような経験は初めてだが、自分の身体のことだから、大方の予測は付く。
そうなれば、年が明けて、北山の庵で暮らしていくことなど有り得ない。

仮に力の消失が止まり、新年を迎えてまだこの器が存在していたとしても、八葉の務めを終えた後、果たして私は元のように北山で暮らして行けるのだろうか。
神子と、自らが存在する意味を失って――。


――無理だ。


自らに投げ掛けた疑問に、心の中で即答する。
もし、この器が失われずにいたとしても、もう、以前のようには生きて行けまい。


――神子と出逢う前のようには――…。


それなのに、心にも無い事を口にしてしまった。
神子に伝えたかったのは、本当は別の事だった。
ただ、それが泰継自身の願望に過ぎなかったため、それを花梨に告げるのを避けただけだ。
現在、花梨は残る西の札と南の札を得るため行動している。
龍神の神子としての花梨の力が増して行くのと呼応するように、対峙する怨霊も次第に強い力を持つものが増えて来ている。余計な事で、神子としての務めに集中している花梨の心を乱したくはなかった。
だから、本心を偽った言葉を返したのだ。


自らのその考えに驚き、泰継は閉じていた目を見開いた。立てた膝に付けた額をゆっくりと離し、替わりに左腕を載せて上体を支えると、俯いたまま小さく首を振った。


(心を偽る……? 馬鹿な……。私に心などあるはずがない。私は造られたモノなのだから……)


では、胸の内に生じて離れない、この想いは何なのか――。


三つ目の心のかけらを得た時、泰継は自らの欲していたものを思い出した。
先代のようになりたいという願い。
八葉の任を経て、人になったと伝えられている泰明。
神子を守るために人となった泰明のように、自分も神子を守るために人になりたいと、そう願っていたことを思い出した。

そして、四つ目の心のかけらが齎したもの。
それは、泰継が心の奥底でずっと抱き続けてきた願いを、彼自身にはっきりと突き付けたのだった。
人となって、神子の傍にいたい。
八葉の務めが終わった後も、ずっと――。

消えたくない、泰明のように人になりたいと思うようになったのは、道半ばで消えてしまっては神子を守るという八葉の務めを全う出来ないと考えたからではなく、務めを果たし終えた後も神子の傍にいたいと願ったからだったのだ。



泰継は気怠げに上体を起こすと、柱に背を凭せ掛けた。その動きに、胸に当てていた右手が簀子縁に投げ出すように落とされる。
柱に背を預けると、自然と視線が空に向いた。
日は既に落ち、辺りは暗闇に包まれている。仄かな月明かりに照らし出され、前栽の木々が影絵のように空に映し出されているのが視界に入った。
ぼんやりとそれを見つめながら、泰継は考える。


一体、このような想いを抱き始めたのは、いつからだっただろうか。
いつの間に、自分の中で、神子の存在がこんなに大きくなっていたのだろうか。

京を救うため、龍神により異世界から召喚された少女――高倉花梨。
出逢った頃は、ただ八葉の務めとして守護するだけだと考えていた彼女の存在が日増しに大きくなっていくのを、泰継はこのところずっと感じていた。特に北の札を探すため毎日共に行動する間に、神子の存在は急速に泰継の中で大きな位置を占めるようになっていたのだ。
そして、気が付けばいつも神子のことを考えるようになっていた。
ずっと彼女の傍にいて、あの輝きに満ちた緑色の瞳が見つめるものと同じものを見、自分の名を呼ぶ彼女の声を聞いていたい。
――いつの間にか強くそう思うようになっていた。
だから、『消えたくない』と――、『人になりたい』と、願うようになったのだ。


「……っ!」

神子のことを考えた途端、忽ち生じた激しい気の乱れに、泰継は思わず呻き声を漏らした。
酷い眩暈に襲われ、めまぐるしく揺れ動く視界に吐き気を覚えて、固く目を瞑る。


―――怖い――…。


生まれて初めて、そう思った。

これまで、この器が壊れ、自分という存在が消え去ることを、何の感慨を抱くこともなく受け入れていた。人ならぬものの摂理として、当然の事と受け止めていたのだ。
それなのに、神子と出逢い、八葉として神子の傍に在るうちに、泰継の中で変化が起きた。
消えたくないと――、ずっと神子の傍にいたいという、人ならぬものが抱くには大それた望み――。
身の程知らずな願いだと理解していながら、それを捨てることも諦めることも出来ず、今自分の身に起きている、もうすぐこの器が壊れるのだという現実を、以前のようにありのままに受け入れることも出来ず――。
この身体が消えた後、自分は一体どうなるのか。
その時、神子は何を思うのか。
そして、自分がいなくなった後、神子はあの笑顔を誰に向けるのか――…。
そう考えた時、泰継はこれまで感じたことのない、激しい気の乱れと共に胸が張り裂けるような痛みを感じた。
それは、初めて抱いた『怖い』という感情が齎した痛みなのだと、泰継は理解した。
気の乱れが生じるのと同時に、流れ落ちる水の如く力が抜け落ちて行くのが判る。

これはやはり、龍神が選んだ斎姫に邪な想いを抱いた者に対して神が下した罰なのだろうか。
それとも、人ではないものが身の程知らずの想いを抱いてしまった所為なのか。
それでも、この胸に溢れる想いを止めることも諦めることも出来なかった。


『自分でも止められない気持ちというものも、あるのではないでしょうか』


不意に、北の札を得たあの日、北山で泉水が言った言葉が脳裏に蘇った。
東宮という位と強い力を欲して止まない和仁について、泉水が口にした言葉である。

『止められない気持ち――それが人、ということか。』

――その時は、そう思った。
人であればこそ、自分自身ですら持て余すような想いを抱くのだ。人ではない私にはそのような想いを抱くこともなく、だからこそ止めらない気持ちとやらも理解できないのだろうと。
だが、今の私も和仁と同じではないのか。


泰継はゆっくりと目を開いた。
空には相変わらず薄い月が懸かり、仄かな光を地上に降らせている。

(止められない気持ち――…)

この身が壊れる時までずっと、自分はこの想いを抱き続けるだろう。
止めることも諦めることも出来ぬのならば、自分という存在が消え去るまで抱き続けるしかない。
ただ――…

(このままでは神子の役に立てない)

三つ目の心のかけらを取り戻した頃から生じていた気の乱れは、四つ目の心のかけらを取り戻して以降、頻繁に生じるようになり、時折発作のような激しい気の乱れも起きるようになった。
そして、今日、「八葉の務めが終わったらどうするのか」との神子の問い掛けに対する自分の答えを聞いて、神子が見せた暗い表情を目の当たりにして、激しい気の乱れに襲われる頻度が高くなった。
気の乱れを鎮めることが出来なければ、陰陽の力を上手く使うことは出来ない。
陰陽師としての力を揮うことが出来ないのであれば、八葉として神子の役に立つことも出来ない。

――役に立たない道具は壊れるしかない。


「……っ!」

胸に走った痛みに、泰継は再び上体を折り、苦悶の声を漏らした。忽ち呼吸が荒くなる。胸の上に手を遣り、苦痛を堪えようと衣を掴んでいた。
目を瞑り、上体を折った姿勢のまま、痛みが去り、乱れた呼吸が落ち着くのを待つ。


――私は八葉だ。
神子を守るため、神子の剣となり盾となるためだけに存在する。
それ以外に、私が造られ、今も此処に存在する意味はない。

それなのに、役目も果たせず消えなければならないのか。
神子と出逢うまでずっと探し求めて漸く手に入れた自らが存在する意味さえも、私から奪おうというのか。
ならば、私は何のために生まれて来たのだ。


泰継は、最後まで神子の役に立てず、消えて行かねばならない己の運命を呪った。



やがて荒かった呼吸が静まり、泰継は細く長い息を吐いた。
ゆっくりと上体を起こすと、再び柱に背を預ける。
冴え冴えとした月光を浴びながら、身を切るような冬の冷たい空気に身を晒していると、散漫になっていた思考が次第に纏まっていくのを感じた。

己が宿命を受け入れた後、泰継が願うのは、ただ一つ――…。
この身が壊れ、消え去るのが避けられぬ宿命であるのなら、せめて消えるまでの間は花梨の八葉として彼女の傍に在り、八葉の務めを果たしたい。
他には、もう何も望まない。
ただ、最期の時まで、神子の傍にいたい。

(そのために、この身に陰陽の力を行使しうるだけの、最低限の五行の力を蓄えなければならぬ)

神子のことを想うだけで気の乱れが生じるのであれば、神子への想いを抑え、神子の道具に徹するしかないだろう。それに、気の乱れを鎮めるだけでなく、気を整え、養う必要もある。
それでもなお力が抜け落ち、それを止めることが出来ないのであれば、抜け落ちて行く力以上の力を補充して行く以外に方法はない。
今の自分の状態で出来るかどうか判らないが、一縷の望みに賭けてみるより他に選択肢はなかった。


泰継は天空に懸かる月に視線を向けた。
陰陽道と同等、もしくはそれ以上に天文道に造詣の深い泰継は、この安倍本家で暮らしていた頃から、そして北山の庵で独り暮らすようになってからも、眠りが訪れない三月の間、月や星の運行を観察するため夜空を見ることが多かった。それ故、今視線の先に在る月も、生まれてからこの方見慣れたものであるはずだった。
しかし、今宵は何故か、いつもより月を遠く感じる。
天空に懸かる月と地上に在る自分までの距離は、まるで人である神子と人ではない自分との間に存在する距離のように、遠く感じられた。

決して手に入れることの叶わぬ月に焦がれることの愚かさを知りながら、諦めることの出来ぬ思慕の念を抱く。

『自分でも止められない気持ちというものも、あるのではないでしょうか』

あの時とは違い、今なら泉水の言う通りだと思える。
神子と出逢い、自分の内にもそのような想いが存在しうるのだと知った。

(だが、この想いが神子を守る妨げとなってはならぬ)

神子を守れないのであれば、この想いには意味がない。
まず、神子を守り、神子と共に京を救うことが先決だ。
残された時間は、決して多くはないのだから。


止められぬ想いを抱きながら、泰継はその想いを封印することを決意する。
ただ、決して自分のものにはならない月を、誰よりも近くで守るために――…。







〜了〜


あ と が き
いろはのお題「物忌み」の、泰継さんサイドのお話です。
泰継さんしか出て来ない話を書いたのは初めてだったりするのですが、実に書きにくかったです。しかも、「気の乱れの所為で思考が散漫になっている」という設定の泰継さんだったので、余計に……。花梨ちゃんと一緒だと、話がどんどん進むのに……(時々、思ってもみなかった方向に行っちゃったりもしますが(^^;)。 やっぱり、泰継さんには花梨ちゃんがいないと!と改めて思いました。
このお話は、お題「水」に続きます。花梨ちゃんサイドの「理由」と同日の、北山での泰継さんと天狗さんの会話になる予定です。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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