初夏の夜―――


疾うに日が落ち、暗闇に包まれた庵の中で、燈台の灯りを頼りに書物を紐解いていた私の元を訪れる者があった。
北山の奥深くに庵を構え、独りで暮らす私を訪ねて来る人間はいない。来るのは安倍本家から送られて来る仕事の依頼内容を知らせる式神か、北山に棲む動物達だけだ。
その夜やって来たのは、一匹の蛍だった。

書物を繰る手を止めて、暗い庵の中、光を発しながら蛍が飛ぶ様を、暫し眺めた。
恐らく、庵の裏手にある沢から迷い込んで来たのであろう。
蛍は、澄んだ水の傍でしか生きられぬというのに……。


「ここはお前が来るべき場所ではない。在るべき場所へ帰れ」


一頻り私の周囲を飛び回った後、文机に広げた書物の上で翅を休めた蛍にそう告げ、沢へ帰るよう促した。


漆黒の闇に僅かに光の軌跡を残しながら、蛍は在るべき場所へと帰って行った。
その姿を濡れ縁の上から見送りながら、私は思う。



―――私の在るべき場所は、一体何処なのだろうか、と――…。





◇ ◇ ◇





いつものように二人きりの夕餉を終え、安倍家から依頼された仕事のために、泰継が文机に向かい符を書いていた時のことである。


「あっ!」

突然声を上げた花梨に、何事かと思い泰継が振り返ると、小さな光が一つ、ゆっくりと瞬きするように点滅しながら花梨の周囲を飛び回っていた。

思いがけぬ訪問者に、花梨は大きく見開いた目で光が作る軌跡を追った。
既に日は落ち、僅かな燈台の明かりしかない室内の暗さは、現代人の花梨にとっては外と大差ない。そんな中に紛れ込んで来た小さな灯火は、花梨の目には燈台の明かりよりも明るく輝いて見えたのだった。
薄暗い庵の中、点滅する光がまるで暗闇に輝く宝石のように思えて、花梨は思わず顔を綻ばせていた。
そっと掌を上にして両手を差し出すと、黒っぽい虫が掌の上に止まる。
蛍だった。

「花梨、どうした?」
掌の上で強くなったり弱くなったりする光を見つめていた花梨は、声を掛けられて初めてこちらを見ている泰継に気が付いた。
「これ、蛍ですよね? 窓から入って来たのかな?」
花梨は掌の上に止まった蛍が見えるように、泰継に向けて手を差し出した。居心地が良いのか、蛍は花梨の掌から飛び立とうとしなかった。
花梨の手の上で点滅する光を見て取り、
「もうそんな季節になったのだな」
と泰継が呟く。
かたり、と小さな音をさせて筆を置くと、泰継は改めて花梨に向き直った。
「恐らくお前の神気に惹かれ、裏の沢から迷い込んで来たのだろう」
泰継の言葉を聞いて、花梨はちらりと窓の方に目を遣った。
耳を澄ますと、窓の外から微かに水が流れる音が聞こえて来る。二人が暮らす庵から少し山道を登った先に霊水が湧き出る泉があり、そこから溢れ出た水が小川となって、ちょうど庵の裏手を通り、麓まで流れているのだ。
澄んだ小川のほとりを蛍が飛び交う光景が、花梨の脳裏を過ぎった。
現代では蛍が好む清流は数少なくなっていたので、そんな光景はテレビでしか見たことがなかった。しかし、京では町中でも蛍が見られる場所は沢山あるらしい。だから、人の手がほとんど加えられていないこの北山の奥地で蛍が見られるのは、当然と言えば当然の事なのだろう。

初めて間近で見る蛍が珍しいのか、掌を目の高さに上げて嬉しそうに笑う花梨を見て、泰継が伏し目がちに呟いた。
「その蛍は、沢に帰してやった方が良いだろう。……蛍は、水辺でなければ生きられぬ」
「えっ…?」
泰継の言葉に、花梨は大きく目を見開いた。
思わず手を下ろして泰継を見ると、視線を感じたのか泰継が顔を上げた。
文机の傍に置かれた燈台の炎が、薄暗い室内の中に泰継の顔を浮かび上がらせる。光の加減の所為か、花梨の目にはその表情が僅かに翳りを帯びているように思えた。

――蛍は、水辺でなければ生きられぬ……。

泰継の言葉を反芻しながら、花梨は視線を膝の上に載せた手に落とした。掌の上にはまだ蛍が止まっていた。
水辺でしか生きられないのであれば、沢を離れて迷い込んで来た蛍をこのまま庵に留め置けばどうなるのか、容易に想像出来る。
花梨は瞬時に決断した。
「私、沢に帰して来る!」
言うなり、花梨は立ち上がった。無事沢に帰すまで逃げないよう、両手で作った即席の虫籠の中にそっと蛍を閉じ込めると、急いで戸口へと向かう。
それを見て、泰継は軽く目を瞠った後、双眸を細めた。
窓から放してやれば良いと思うのだが、わざわざ沢まで送って行こうとするところが如何にも花梨らしい。思えば、龍神の神子だった頃もそうだった。
しかし、庵のすぐ裏とは言え、既に日が落ちた山の中を灯りも持たずに歩くつもりなのだろうか。
少し呆れたように小さく息を吐いた後、泰継は花梨に声を掛けた。
「待て、花梨」
呼び止められ、戸口に向かっていた花梨が振り返った。
「外はもう暗い。私も行こう」
文机の上に置いてあった手燭を手に取ると、泰継は静かに立ち上がった。
泰継が戸口の近くで待っていた花梨に追い付き肩を抱き寄せると、花梨は泰継を見上げて嬉しそうに笑った。





「さあ、行って!」
沢に群れる蛍を遠巻きに見られる場所まで近付くと、花梨は手の中に閉じ込めていた蛍を沢に向けて放った。
「もう庵に来ちゃ駄目だよ」
花梨の手から放たれた蛍は、二人が見守る中、沢に向かって飛び去った。
沢のそこかしこで、無数の小さな光が漆黒の闇を彩るように飛び交っているのが見える。花梨が放した蛍は、やがてその一つとなり、見えなくなった。
それを確認した花梨の口から、安堵の溜息が零れた。



蛍を見送った後、花梨は泰継と言葉を交わすことなく、暫し目の前の幻想的な光景に見惚れていた。
生い茂る木々に遮られ、月の光も届かない北山の夜闇の中――。
そんな暗闇に灯された蛍火があまりに儚げに見えて、声を発することや身動ぎすることさえ躊躇われたからだ。

「綺麗……」

やがて、花梨の口から嘆息と共にその一言が零れ出た。
清流のある場所でしか見られない蛍。都会育ちの花梨が間近に蛍が飛び交う様を見たのは、当然の事ながら今日が初めてだったのだが、想像していた以上の夢幻的な美しさだった。
光の乱舞に目を奪われていた花梨は、同意を求めるように数歩後方に立っていた泰継の方を振り返った。
「こんなに近くで蛍が見られるなんて、思いもしませんでした」
嬉しそうに話しかけた花梨だったが、飛び交う蛍をじっと見つめている泰継の表情を見て笑みを消し、訝しげに小首を傾げた。先程から泰継が無言だったのは、てっきり自分と同様、蛍火に見惚れているからだと思い込んでいたのだが、どうやらそうではなかったらしいことを悟ったからだ。
手燭の仄暗い光が照らし出した美貌には、一見無表情に見えて、それでいて他人に本心を読み取らせないような複雑な表情が浮かんでいた。

「……泰継さん…?」

名を呼ぶ声も聞こえていないかのように、泰継の視線は軌跡を残しながら飛び交う蛍の光に固定されている。
心配になった花梨が近付こうとした時、漸く泰継が口を開いた。


「――蛍は、成虫となってから長くて十日くらいしか生きられぬ……」


独り言のように呟かれた言葉を聞いてはっとした花梨は、踏み出そうとした足をそのままに、その場で立ち止まった。泰継の声音に何かを感じ取ったからだ。
それが何なのかは分からなかったが、ここは口を挟まず泰継の話を聞いた方が良いだろうと判断した花梨は、開きかけた口を閉ざし、彼の言葉を待った。

「その間は水しか飲まず、あのように毎夜の如く乱舞する。子孫を残すために、つがいとなる相手を探す。――だから、水辺でしか生きられぬのだ」

泰継が初めて蛍から視線を逸らし、目を伏せた。長い睫が琥珀色の瞳に影を落とす。
それを見た花梨は、漸く先程感じたものが何であったのかを悟った。
今の泰継の声音は、彼が人となる前、泰明のことを語っていた時の声音と同じだったのだ。
そのことに気付いた花梨は、一度止めた足を再び踏み出し、泰継の傍に歩み寄った。
花梨が隣に立つのを待っていたかのように、泰継が言葉を継いだ。


「……お前と出逢う前、私は蛍が羨ましいと思っていた」


泰継が漏らした意外な言葉に驚き、花梨は目を瞬かせた。
顔を上げた泰継は、花梨の顔をちらりと見ると、再び蛍に視線を向けた。その横顔を手燭の炎が照らし出し、端整な輪郭を闇に浮かび上がらせている。
その様子に思わず見惚れながら、花梨は泰継の言葉の意味を考えていた。


花梨が知る限り、泰継が羨望を抱いていた人物は一人だけ。
――先代の地の玄武、泰明だ。
泰継と同じ出自でありながら、泰継より優れた力を持ち、人となった泰明――。
彼と比較し、泰継が自らのことを泰明に劣る“不完全なモノ”なのだと語るたび、花梨は常に泰継が泰明に対して持つ羨望の気持ちを感じていた。それは恐らく花梨と出逢うまでの長い歳月、泰継が無意識の内にずっと心の奥底に抱え込んで来た気持ちだったのだろう。
しかし今や泰継自身も人となり、そして花梨を得たことで、彼を苦しめ続けて来たその感情は既に泰継の中では解決しているようだった。
だから、花梨が泰継のこんな声音を聞いたのは久しぶりだったのだ。

(「蛍が羨ましかった」って、どういう意味なんだろう……?)

花梨はその答えを読み取ろうと、泰継の横顔を見つめた。
手燭の炎が仄かに照らし出す表情が、彼が泰明のことを語る時よく見せた自嘲を帯びた表情でも苦しげで辛そうな表情でもないことを確認し、少しだけ安心する。
しかし、琥珀色の瞳は目の前の蛍を見ているようでいて、何処か遠くを見つめているようだ。
こんな時の泰継の心の内は、花梨にはいつも読み取ることが出来ない。袖が触れ合うほどすぐ近くにいるのに、彼との間に距離を感じてしまう。それが、少しだけ淋しい。
ふっと表情を曇らせた花梨は、視線を泰継が持つ手燭の炎に落とし、小さく息を吐いた。

(私……、きっと泰継さんのこと、まだまだ分かってないんだよね……)

炎が揺らめく様を見つめながら、花梨はぼんやりとそんな事を考える。


毎年この時期に庵のすぐ近くに現れる蛍を見て、泰継は何を思っていたのだろうか。


ふと視線を感じて顔を上げると、いつの間にかこちらを見ていた泰継と目が合った。
彼の感情が最も表れると花梨が信じて已まない琥珀色の瞳が、先程までは深い泉のような底知れぬ色を宿していたのに、今は少しだけ揺らいでいるのが見て取れた。
手燭の炎が僅かに起きた夜風に煽られ、ゆらゆらと揺れる様が、花梨の視界の隅に入る。
無言のまま見つめ合ううちに、風に揺れる手燭の炎のような泰継の瞳の揺らぎが自分を心配してのものだと気が付いた。恐らく、また気の変化を読み取られたのだろう。

なんだかずるい、と思ってしまう。
自分には泰継の考えている事が全て分かる訳ではないのに、自分が考えている事はいつも彼に見抜かれるのだから。

――もっともっと、泰継さんの事を知りたいと思う。
   私と出逢う前、彼が何を考え、どんな生活をして来たのか。

泰継と結ばれ、この北山で共に暮らし始めてから、その一端を垣間見ることはあった。

彼には天狗と言う親代わりのような存在がいたこと。
北山を棲み処とする動物たちに頼りにされ、好かれていること。
自分と出逢う前の泰継が決して孤独だった訳ではなく、北山の木々や動物全てが彼の家族であったこと――。

――それでも、愛する人のことをもっと知りたいと思うのは、我が儘な願いだろうか?



「……どうして?」

自らの口から自然に零れ出た問い掛けに少し驚きながら、それを顔には出さず、花梨はじっと泰継の瞳を見つめたまま答えを待った。
その視線を真っ直ぐに受け止め、泰継は暫くの間無言で花梨の顔を見下ろしていたが、やがて再び視線を沢に戻し、口を開いた。

「以前、お前に話したことがあったな。『お前と出逢う前、私はずっと自らの存在の意味を探し続けて来たのだ』、と……」

泰継が返した答えに、花梨は一瞬きょとんとした表情を浮かべた。
確かに、泰継と二人で出掛けた糺の森で、そう告げられたことがあった。必要以上に自分のことを話さない泰継が、自分にだけ打ち明けてくれたことだから、忘れるはずがない。
ただ、彼が何故今その話を持ち出したのか、花梨にはその意図を推し量ることが出来なかったのだ。
少し戸惑ったような表情になった花梨に気付いているのかいないのか、泰継は真っ直ぐに前を見つめたまま続けた。

「人型を得てから九十年間、私は自らの存在意味を持たず、ただこの世に在るだけだった……」


何故、自分は作られたのか
何のためにここに存在するのか
ただ存在し続けることに、一体何の意味があるのか


存在にはすべからく意味がある。


―――では、私が存在する意味は?


泰明の存在の意味は、先代の龍神の神子の八葉であることだった。そして、その任を果たし人となった。
しかし九十年を経てもなお人ならざる身のままの私は、きっと己がこの世に生み出された意味さえ知ることも出来ず、この作り物の身体が朽ち果てる日が来るまで存在し続けるしかないのだろう。
私には、ここに存在する意味も、在るべき場所すらないのだ。
私は、泰明に劣るモノなのだから―――。


「何度考えても、いつもその結論に至った」

伏し目がちにそう話すと、泰継は小さく息を吐いた。


「だから、蛍が羨ましいと思っていたのだ。短い生涯であれ、蛍は己自身の存在の意味と在るべき場所を持っていたから……」


たった一年――。
その短い一生の終焉に、最も輝く時を持つ蛍。
そして、次代に生命を繋ぐという目的を果たし、輪廻の輪の中へと還って行く。
無意味に長い歳月を過ごすのではなく、短くとも意味ある生を全うすること。
それが、どれほど羨ましかったことか――…。


「万物に存在意義があるのならば、私に人型を与えて下さったお師匠が亡くなった後もこの身が消えず、私がこの世に存在し続けていることにも何か意味があるのかも知れぬ――。ずっと自らの存在の意味を探し続けて来たのは、そう自分自身を慰めるためだったのかも知れぬな」


そう話す泰継の顔には、愁いを帯びた淋しげな笑みが浮かんでいた。



『お前が来るまで、私には意味がなかった。ただ存在するだけだった』


かつて泰継が言っていた言葉が花梨の耳に甦った。

作られた存在であった泰継が、どれほど切望していたかを知っている。
自分が何故この世に生み出されたのか、その理由を知ることを……。

それは誰かに必要とされたい、またそれによって自分の居場所を得たいという思いだったのではないだろうか?

京に来たばかりの頃、自分も同じような思いを抱いていたことを思い出し、花梨は胸元に当てた手をぎゅっと握り締めていた。
暫くの間逡巡した後、花梨はかつての自分の思いを泰継に告げることにした。


「……私も……、京に来たばかりの頃、似たような事を考えていた時期があったの。『京にはもう龍神の神子がいるって言うのに、私がここに呼ばれた意味があるんだろうか』って……」


泰継の身体がぴくりと反応した。
微かな空気の動きが、彼が息を呑んだ気配を伝えて来る。
その横顔を観察するようにじっと見つめる花梨の前で、泰継がゆっくりとした動作で花梨へと視線を戻した。
恐らく予想外の言葉だったのだろう。目を見開いたまま見下ろしているその顔には、明らかに驚きと戸惑いの色が浮かんでいた。
それを真っ直ぐに見つめ返した花梨は、京に来たばかりの頃を思い出しながら話し始めた。

「最初の頃は散策に出掛けてもすぐに穢れの影響を受けちゃって、その度に紫姫に心配をかけていたし、一緒に行動してくれていた泰継さんにも迷惑をかけていたでしょう?」
「迷惑など……」

――迷惑などと思ったことなどない。むしろ、神子を守るべき八葉たる私の力不足だったのだ。

そう続けようとした泰継だったが、その前に花梨が言葉を継いだ。

「だから、皆に龍神の神子と認めてもらえないのも当然だって思ってた。本当に私なんかが神子なんだろうかって、自分でも信じられなくて……」


何故龍神に選ばれたのが自分だったのか
院の元には既に力ある龍神の神子がいるというのに、神子として何の力も無い自分がここにいる意味があるのか
皆に迷惑をかけてばかりなのに……?

誰からも必要とされていないように思えて、早く元の世界に帰りたいとばかり考えていた。
八葉を揃えようと行動し始めたのも、正直なところ龍神の神子としての務めを果たすためと言うよりも、元の世界に帰るために必要なことだと言われたからだった。
あの頃は――…。


「でもね……」

花梨は一旦言葉を切った。
出逢った頃、花梨のことをすぐに神子と認めなかったことに対して未だ自責の念にかられているのか、泰継が顔を曇らせている。それに気付いた花梨は、そんな事を気に病む必要はないのだと言うように、夫に微笑みかけた。

「でも、ある日、『私にも出来ることがあるんだ』って気付いたの」

皆の力を借りながら、京の各地に出没していた怨霊を祓うこと。
土地に宿る五行の力を強めること。
最初は上手く行かなかったことも、少しずつではあったが上手く出来るようになっていった。
――すぐに結果は出なくても、自分に出来ることを一つ一つやって行こう。
次第に、そう思えるようになっていた。

「そう思えるようになったのは、泰継さんのおかげだったんだよ」

その言葉に、琥珀色の瞳が大きく見開かれた。
はっきりと驚きの表情を浮かべた泰継に、花梨はにっこりと笑いかけた。

八葉を四人しか見つけることが出来なくて、深苑に力不足の所為だと責められた時、「限られた状況で最大の努力をしていた」と庇ってくれたのは、ずっと散策に同行してくれていた泰継だった。
京の五行の力を上手く上昇させることが出来た時、優しい笑みを浮かべて「良くやった」と褒めてくれた。
――嬉しかった。
すぐに龍神の神子だと認めてはくれなかったけれど、慣れない京で神子として努力していることを認めてくれたのは、紫姫を除けば泰継が初めてだった。

(きっと貴方は気付いてなかっただろうけど、その頃から私は泰継さんしか見てなかったよ……)

目を瞠ったまま、まだぽかんとこちらを見ている泰継を見て、花梨はふふふ、と小さく声を上げて笑った。

「応天門で帝を呪う怨霊を祓った後、泰継さんは私にこう言ってくれたよね。『自分を信じろ』って。『お前は本当に龍神の神子なのだから』って……」
「………ああ……」
少し間を置いて小さく頷きながら答えた泰継は、初めて花梨のことを「神子」と呼んだ日のことを思い起こした。


『お前も迷っていたな。だが、自分を信じろ。お前はまこと、龍神の神子だ』

五行の力を上手く扱えず、花梨自身が自分が龍神の神子だということに対して疑いと迷いを持っているらしいことは、毎日散策に同行していた泰継は早くから気が付いていた。あの頃は泰継自身も花梨が神子だという確証が持てずにいたのだが、彼女が常人ならざる神気を纏っていたことは初めて会った時から認めていた。確証が持てずにいたのは、院の元にいるという神子を直に見たことがなかったからに過ぎなかった。
だからあの日、神子として立派に務めを果たした花梨に告げたのだ。
お前は確かに龍神の神子なのだから、迷う必要はないのだ、と。

そして、同時に泰継も得ることが出来たのだ。
長い歳月、ずっと探し求めていた、自らの存在の意味を――。

『私は万物に感謝しよう。お前という龍神の神子を得たことを』

その時彼女に告げた言葉は、心からそう思って零れ出た偽りのない言葉だった。


泰継が何事か考え込んでいるのを察して暫くの間黙っていた花梨は、泰継の意識が自分に戻ったらしいことを確認してから、続きを話し始めた。

「泰継さんの言葉に励まされて、京にいる間は龍神の神子として自分に出来ることをやって行こうと思ったの」

彼は決して言葉を飾らない。
だからこそ口先だけの言葉ではなく、心からそう思ってくれているのだと信じることが出来た。
自分が京に召喚されたことには意味があったのだと、そう思えるようになったのは、泰継の言葉がきっかけだった。
だから――…。


「泰継さんが、私が京にいる意味を教えてくれたんだよ」


再び大きく見開かれる琥珀色の瞳。
言葉も無くじっとこちらを見ている泰継を見ているうちに、花梨の頭の中にもう一つ彼に伝えたいと思う言葉が浮かび上がって来た。少し恥ずかしいが、ちゃんと伝えておきたいと思う。
意を決して花梨は口を開いた。

「それと…ね……」
俄かに赤く染まった頬を見られるのが恥ずかしくて俯いた花梨は、もじもじとしながら何とか言葉を紡ぎ出した。
「神子の務めを終えた後も、私がここにいてもいいんだって思えるのも、泰継さんが私の気持ちを受け入れてくれたからだし……。だから、『きっと私は泰継さんと出逢うために京に来たんだ』、『泰継さんは九十年間私が来るのを待っていてくれたんだ』って…思ってる…から……」
「…………」
思い切って想いを口にした花梨だったが、羞恥心から徐々に小声になり、最後には言葉を詰まらせてしまった。
真っ赤になった顔を隠すように俯いたまま、花梨は泰継の反応を待った。しかし、泰継は先程から黙り込んだまま一言も喋らない。
あまりにも都合の良い解釈に呆れられたのかと気になり、少しだけ顔を上げて上目遣いに泰継の表情を盗み見た花梨は、彼と目が合った途端、目を瞠ったまま視線を逸らせなくなった。何故なら、泣き出しそうな、それでいて嬉しそうな笑みが泰継の満面に浮かんでいたからだ。
トクンと胸が高鳴るのを感じた次の瞬間、花梨は伸びて来た腕に強く抱き寄せられてしまった。

「花梨……」
片腕で華奢な身体を抱き寄せたまま、花梨の耳元で泰継が告げる。
「私も、お前と出逢うために、人ならぬ存在のまま九十年という歳月を過ごして来たのだと……、そう信じても良いだろうか?」
花梨の身体を解放し、泰継は愛する妻の顔をじっと見つめた。
「お前という龍神の神子に巡り合い、私はずっと探し続けて来た自らの存在の意味を与えられた」
泰継は右手を花梨の頬に当てると、手燭の明かりしかない暗闇の中で、その形を確かめるようにゆっくりと、そして愛しげに花梨の頬を撫でた。

「それだけではない」

「何だろう?」と言わんばかりに小首を傾げる仕草を見せた花梨に、泰継が優しく微笑みかける。


「私は、伴侶を手に入れた。決して手に入れることが叶わないと思っていた、生涯共に歩むべき愛しき存在を――…」


一瞬ぽかんとした表情を浮かべた花梨の顔に、やがて花開くように笑みが広がって行く。

「泰継さん!」

突然胸に飛び込んで来た花梨を抱き留め、泰継はふと花梨と出逢うまでの歳月に思いを馳せた。


時の流れから取り残されて過ごして来た九十年という長い歳月。
その間に、安倍家の当主は三度替わった。
変わらないのは北山の風景と人ならぬ身の私だけだった。
恐らく、この身が消えるまで、何人もの見知った人間が逝くのを見送ることになるのだろう。私と共に在ることが出来るのは、やはり私と同じく人ならぬ身の天狗だけなのかも知れない。
――そう、思っていた。
花梨と出逢うまでは、それが淋しいことなのだと思ったことなどなかったが――…。


背中に腕を回し、ぎゅっと抱き付いて来た花梨の身体を、泰継は片腕で抱き締め返した。左手に手燭を持っているため、両腕で抱き締めることが出来ないことが、もどかしくてならない。

(温かい……)

花梨を抱き締めるたび、花梨の気の温かさに包まれているような心地がする。
この温かさを失うことが“淋しい”ということなのだと教えたのは、他ならぬ花梨だった。
一度覚えたこの心地良い暖かさを、二度と手放すことなど出来ないだろう。


目を閉じ、暫くの間花梨の気の暖かさに身を委ねていた泰継は、やがて花梨を抱き寄せていた手を緩め、茶色の髪を愛しげに梳き始めた。指の間を流れて行く柔らかな髪の感触が心地良い。

“蛍は、水辺でなければ生きられぬ”

不意に自らが花梨に告げた言葉が脳裏に浮かび、泰継は花梨の髪を梳く手を止めた。指先に纏わり付くように絡まる髪に視線を落としたまま、泰継は思う。

(……私も、蛍と同じなのかも知れぬ……)

――蛍が水辺でなければ生きられないように、私も、もう花梨の傍でしか生きられないのだから。

庵に迷い込んで来た蛍が沢に帰って行くのを見送りながら、いつも思っていた。
ここに存在する意味がないのであれば、自分が在るべき場所は一体何処なのだろう、と。
だが、今なら迷うことなく言える。

(――私が在るべき場所は、お前の傍だったのだな……)

以前は意味ある生を送れるのであれば、蛍のような短くとも太い生で充分だと思っていた。
しかし、得難いものを得た後、人はどこまでも貪欲になれるものらしい。
今では一日、いや一刻でも長く、花梨の傍にいたいと願うようになってしまったのだから。

そう告げたなら、お前は何と言うだろうか?
嬉しそうに笑ってくれるだろうか。
それとも――…。


「泰継さん…?」

物思いに耽っていた泰継は、自分の名を呼ぶ妻の声に我に返った。
いつの間に身体を起こしたのか、花梨がじっと見つめている。

「何考えていたの?」

訊ねながら小首を傾げる花梨。
その可愛らしい仕草に、泰継の胸は湧き起こる愛しさですぐに満たされてしまう。
胸を満たす温かさに、自然と微笑みが零れ出た。

問い掛けに答えることなく、突然美しい笑みを浮かべたかと思うと、熱を帯びた瞳でじっと見つめて来た泰継に驚き、花梨は瞬きを繰り返した。
それを見て再び笑みを零した泰継は、花梨の耳元に顔を寄せた。


「後で話す。今は……」


――ただ、お前の温もりを感じていたい……。


そう囁くと、泰継は頬を薄紅に染めた花梨の唇に口付けを落とした。







〜了〜


あ と が き
「蛍」というお題は、最初は単に二人で庵の裏手の蛍を見に行くだけの話でした。庵に迷い込んで来た蛍に導かれて…というのは、当初の予定通りだったのですが……。
でも、「泰継さんが独りで暮らしていた頃も庵に蛍が迷い込んだりしていたのかな」、などと想像してみたところ、泰継さんが自分自身を蛍に重ね合わせて、自らの存在意義やら存在場所について考え始めてしまったので、そちらの路線で話を組んでみました。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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