にわか雨
「あれ? 雨だ」

窓ガラスにぽつりぽつりと付いた水滴に気付いて、あかねが呟いた。
一時間ほど前、洗濯物を取り入れるため外に出た時は太陽が出ていたのに、一体いつの間に雨雲がやって来たのだろう。
そんな事を考えながら、あかねは窓辺に近付いた。
窓から外を覗くと、辺りはまるで夕闇に包まれたかのように薄暗くなっている。
最初は数滴だった雨粒が見る見るうちに増えて行き、やがて窓ガラスを叩くような本格的な降りになった。
「天気予報では『雨が降る』なんて、一言も言ってなかったよね?」
今朝見た天気予報が「晴れ時々曇り」だったことを思い出しながら、あかねは呟いた。誰かに同意を求めるような口調ではあるが、答えを返す者はいない。何故なら、今この家にいるのは、あかね一人なのだ。
窓ガラスの上を流れ落ちて行く雫を見つめていたあかねは、視線を空に向けた。濃い灰色の雲が吹き始めた風に乗り、速い速度で流れて行くのが目に入った。恐らくこの雨は、短時間で通り過ぎる通り雨だろう。
しかし、あかねの表情は外の天気と同じく晴れなかった。
「泰明さん……。傘持って行かなかったよね……」
心配そうにぽつりと呟く。
泰明は仕事の依頼主と会うため、昼過ぎから外出している。だが傘は持って行かなかったのだ。
京にいた頃、泰明が傘を差さずに雨の中を歩いていたことを、あかねは知っていた。こちらの世界に来てからも、放っておくと泰明は傘を使わない。そのため、特に彼と結婚してからは、天気予報をチェックして彼に傘を持って行くように言うのは、あかねの役目となっていたのだ。しかし今日は泰明が出掛ける時は晴れていたし、天気予報でも雨の話はしていなかったので、あかねも彼に傘を持って行くようにと勧めなかったのだった。

俄に酷くなった雨の所為で、ガラス越しには見え難くなった空を見上げ、あかねは小さく溜息を吐いた。
「失敗……」
呟いた後、窓辺を離れたあかねは、急いで外出の準備を始めた。駅まで夫を迎えに行くためだ。

“今から電車に乗る。”

たった一言だけのメールがあかねの携帯電話に届いたのは、つい十五分ほど前のこと。
泰明の出先からこの家の最寄駅までの所要時間は約三十分。
家から最寄駅まで歩いて十分――。
今から家を出れば、改札口で泰明を捕まえることが出来るだろう。

レインコートを羽織ったあかねは、傘を二本持って家を出た。





◇ ◇ ◇





(雨か……)

ドア付近に立って、車窓を流れて行く景色を見つめていた泰明は、ガラスにぽつりと付いた水滴に気付き、心の中で呟いた。ただ「雨が降って来た」という事実を認識したというだけの呟きである。
傘を持っていなかったのだが、「困った」とは思わなかった。京にいた頃から、雨に濡れながら歩くのは慣れている。自分のそういうところがあかねを心配させるのだと、泰明は最近になって漸く理解するようになったのだが、やはり習慣というものはなかなか抜けそうにない。
じっと車窓を見つめていると、初めは数滴だった雨粒は次第に数が増え、電車の進行方向通りに前から後ろへガラスを真横に横切るように流れて行くようになった。

「ねえ、雨が降って来たよ」
「やだっ。私、傘持ってないよ!」
「私もだよ。これじゃあ、びしょ濡れになっちゃう」
「駅に着くまでに止んでくれないかなぁ」

すぐ近くに立っていた女子高生たちが、そう話しているのが耳に入る。
その会話を聞きながら、泰明は無意識に口元を緩めていた。一年と少し前まで彼女たちと同じく高校生だった妻のことを思い出したのだ。



『泰明さんっ、びしょ濡れじゃないですかっ!!』

まだ京にいた頃、雨の中を歩いて土御門に向かったところ、顔を合わすなりあかねにそう言われたことを思い出す。

『傘も差さずに雨の中を歩くなんて、身体に毒ですよ?』

そう言いながら乾いた布で髪を拭こうとするあかねを、怪訝そうな目で見ていたと思う。
暖かい季節、多少体温を奪われはするが、雨に濡れながら歩くのは心地良いくらいだったのに、何故彼女が作り物の身体のことなど心配するのか解らなかったからだ。
泰明に理解出来たのは、あかねの言葉が胸に染み入って、何か温かいものを齎したという事実だけ――。
その温かさは、雨に濡れながら歩くより心地良いものだった。

人となり、あかねと共にこちらの世界に来てからも傘を差さずに雨の中を歩いたのは、もしかしたらあの温かさをあかねに与えて欲しかったからかも知れない。
彼女が自分の心配をしてくれるのが、ただ嬉しくて……。
我ながら子供っぽい感情だと思い、泰明はくすりと笑った。



『本日はご乗車頂きまして誠に有難うございます。次は――…』

次の駅を告げる車内放送の声が、泰明の意識を京から現代へと引き戻した。
あかねが待つ自宅の最寄り駅まで、あと一駅。
雨に滲む車外の景色をぼんやりと見ていた泰明は、空に視線を向けた。
濃い灰色の雲が速度を上げて流れて行くのが目に入る。雲が流れて来る先、西の空を遠く望むと、少しだけ明るくなって来ているのが判る。
典型的なにわか雨だ。駅で半時間も時間を潰せば、この雨は上がるだろう。
しかし――…

(久しぶりに雨に濡れて帰るのも良いかも知れぬ)

―――と泰明は考える。
何よりも、早くあかねの顔が見たい。
この電車に乗る直前、今から帰るとメールで伝えたから、恐らく家に着く頃を見計らって、いつものように玄関で待っているに違いない。そして、変わらぬ笑顔で迎えてくれるだろう。

“お帰りなさい、泰明さん”

いつもと変わらぬ言葉を掛けながら。
それが見たくて、帰途に就く前、必ずメールで連絡を入れることにしている。電話ではなくメールを使うのは、その方が帰宅してあかねの声を聞いた時、喜びの度合いが大きいような気がするからだ。
ふと空から目の前のドアに視線を戻すと、口端を僅かに上げた自身の顔がこちらを見つめていた。あかねの事を考えているうちに、無意識に笑みを浮かべていたらしい。
(まったく……)
ガラスに映った顔に、今度は苦笑いが浮かんだ。
あかねによって齎された“感情”という名のものは、あかねの事を考える時に最も大きく動くようだ。
今では、それが嬉しいと思える。

(早く、お前の元に帰ろう)

――私が帰る場所は、あかねの傍しかないのだから……。

そう思った時、車内に間もなく駅に到着するとのアナウンスが流れた。





ドアが開きホームに降り立った泰明は、ちらりと空を見上げた。電車の中で見た時よりも、雨は少し小降りになったようだ。これならば、傘がなくても問題ないだろう。
そう思いながら、改札口に向かう人の波に乗るように一歩踏み出したその時――
「……っ!」
泰明の感覚に、暖かい気が触れた。
間違えるはずがない。この清らかな気の持ち主を。
家で待っているはずの妻の気を感じ取り、泰明は軽く目を瞠る。

(あかね……)

――何故、此処にいる?

表情を改めた泰明は、人の波を掻き分けるように、早足で改札口に向かった。



改札口の向こうが見える場所まで来ると、果たしてレインコートを着たあかねの姿があった。
きょろきょろとホームの方を見回していたあかねは、泰明の姿を発見するとパッと破顔し、自分は此処にいると主張するかのように右手を振って寄越した。泰明がいつも使っている男物の大きな傘を左腕に掛け、手には濡れた傘を持っている。あかねの髪の色に似たパステル・ピンクの花柄の傘は、あかねの物だ。その姿を見て、泰明はあかねが傘を持たずに外出した自分を迎えに来たのだと悟った。


「お帰りなさい、泰明さん」
自動改札機を通り抜け足早に近付いて来た泰明に、あかねはいつも自宅の玄関で掛ける言葉を掛けた。いつもなら微笑みながら「ただいま」と返す泰明だが、呆れているのか答えがない。あかねはそれに気付いたようだが、気にした様子もなく続けた。
「突然雨が降って来たから、迎えに来ちゃいました」
えへへ、と悪戯っぽく笑うあかねに、泰明は複雑な表情を浮かべた。

まさか、あかねが駅まで迎えに来ているとは思わなかった。
その事実を嬉しいと思う反面、素直に喜べない自分がいる。
雨が降り始めた時間と家から駅まで歩いてかかる時間、そして今あかねが此処にいるという事実から、恐らくあかねは最も降りが酷かった頃に、駅までの道程を歩いて来たのだということが推測出来たからだ。

「何故、来た? しかも土砂降りの中を……。この雨がすぐ止む雨だと解ったのだろう? 何故そのような無茶をする?」
つい口を衝いて出たのは、京にいた頃にも無鉄砲な彼女によくしていたお説教だった。
捲し立てるような泰明の口調が珍しかったのか、あかねは一瞬きょとんとした表情を見せた。しかし、その表情をすぐに消し、わざと口を尖らせて泰明に反論する。
「無茶してないもん。ほらっ」
あかねは掛け声と共に両腕を広げ、モデルのようにその場でくるりと回って見せた。
「ちゃんとレインコートも着てるし、レインブーツも履いてるもの。平気です」
心配性の夫に、レインブーツを履いた足を少し前に出して見せながら笑った。
「それに、こんな機会でもないと、レインコートなんて着ないもの。折角買ってもらったのに勿体ないし……」
このレインコートとレインブーツは、まだあかねが高校生だった頃、ずぶ濡れになりながら自分のマンションを訪れた彼女を見兼ねて、泰明が贈った物だったのだ。今日のような雨の日は、あかねとしては泰明からのプレゼントを使える恰好の機会なのである。
レインコートに視線を落としていたあかねは、改めて目の前に立つ泰明を見た。
「泰明さんこそ、雨が止むのを待たずに、傘なしで帰って来るつもりだったんでしょう?」
あかねの言葉に泰明が目を瞠る。図星を指され、咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。
その反応を見て、あかねは「やっぱり」と言わんばかりに溜息を吐いた。
「私のことを心配してくれる泰明さんの気持ちは嬉しいけど、私も泰明さんの心配をしているんだってこと、忘れないで下さいね」
はい、と傘を手渡すと、あかねはにっこりと笑った。
複雑な表情を浮かべたまま、泰明は差し出された傘を受け取った。


受け取った傘の柄に、あかねの手のぬくもりが残っているのが感じられる。これを握り締めて、自分のためにあの酷い雨の中をこうして迎えに来てくれたのだ。短時間で通り過ぎる雨だと解っていただろうに。
それを嬉しいと思う反面、あかねに無茶をさせる原因を与えてしまったかと思うと、生涯彼女を守ると誓った身としては素直に喜べない。
湧き起こった相反する二つの感情を上手く表現出来なくて、ついあかねに説教してしまった。ただ、雨に濡れた所為であかねが風邪など引かないかと心配だっただけなのに。
しかし、何も言わなくてもあかねには伝わったようだ。

『私も泰明さんの心配をしているんだってこと、忘れないで下さいね』

自分があかねを思い、あかねの身を案じているからこそ出た言葉だったのだと伝わっているだけでなく、あかねも自分のことを思い、そして案じてくれていることが、あかねの言葉から伝わって来る。
それが、堪らなく嬉しい。

(言葉とは、不思議なものだな……)

呪として唱えた言葉ではなく、他愛無い言葉にも言霊は宿る。その証拠に、あかねの言葉を聞いた泰明の胸には、温かい何かが降り積もったようだ。
あかねの言葉が齎したその温かさが、心地良く感じられた。

(私の言葉にも、そのような力があるのだろうか?)

胸に湧き起こった感情を、なかなか上手く言葉に乗せられない不器用な自分の言葉にも、あかねに温かさを齎すことが出来るほどの力があるのだろうか。

もしそうならば、あかねに伝えたい。
雨が上がるまで待てずに、早く帰宅しようとした理由を――。


「じゃあ、帰りましょう」
泰明を促し、歩き始めたあかねは、彼が受け取った傘をじっと見つめたままその場から動こうとしないことに気付き、足を止めた。
「泰明さん? どうかした?」
あかねが振り向くと、泰明は漸く顔を上げた。
「――電車の中で、お前のことを考えていた」
「え…?」
「その所為か、早く帰り着きたいと……早くお前の顔が見たいと……、そう思って気が急いていた。だから、久しぶりに雨に濡れても構わないと思ったのだ」
思わぬ言葉に、あかねは一瞬瞠目して言葉を失った。
あかねに見送られ、泰明が仕事に出掛けたのは僅か数時間前の事だ。それなのに、まるで何日も会えずにいたかのように、「顔を見たい」と思ってくれたというのだろうか。そのために、雨に濡れても良いと思うほどに……。
「まさか、此処でお前に会えると思わなかった」
そう言って心から嬉しそうに微笑む泰明を見て、あかねは頬を染めた。
「もう、泰明さんったら……」

――歩いて十分かかる距離を、夏の終わりとは言え雨に濡れながら帰るなど身体に毒だ。風邪を引いたりしたらどうするつもりだったのか。
そう夫を諌めるつもりだったのだが……。

(そんな風に無邪気に微笑まれたら、何も言えなくなっちゃうじゃない)

――本当にずるいんだから。

わざとではないことは解ってはいるが、すっかり彼のペースに乗せられているようで、あかねとしては複雑な気分になるのだ。尤も、その思いはいつも“惚れた弱み”との結論に落ち着くのだが。
「仕方がないなあ」と言わんばかりに溜息を吐いた後、あかねは泰明に笑顔を向けた。

「もし泰明さんの帰宅時間とにわか雨が重なったら、私、必ず傘を持って駅まで迎えに来ますから。絶対に雨の中を傘なしで帰ろうなんて思わないで下さいね」

自分の健康管理には特に無頓着な夫に、あかねは釘を刺しておくことを忘れない。
一方、自分の言葉を聞いて薄っすらと頬を赤らめたあかねを見て、彼女も自分の言葉からあの暖かさを感じてくれたのかと内心喜んだ泰明だったが、あかねのその言葉を聞いて眉を寄せた。
――それでは、あかねが雨に濡れるではないか……。
「此処で会えて良かった」などと、彼女が無茶をする口実を与えるような言葉をうっかり吐いてしまったことに、泰明は漸く気が付いた。
だから、それは駄目だとあかねに告げようとしたのだが、泰明が口を開く前に、彼が眉を顰めた理由を悟ったあかねが言葉を継いだ。

「だって、そのほうが早く会えるでしょう?」

あかねの言葉に、今度は泰明が瞠目する。
目の前には出逢った頃と変わらず、見る者の心に暖かさを齎すあかねの笑顔があった。それを見た泰明は、妻を諌める言葉を発しようとした口をすっかり封じられてしまったことを悟り、あかねの笑顔から視線を逸らすと、小さく溜息を吐いた。

(本当に、お前は……)

泰明の口元が綻ぶ。
やはり自分は、あかねには敵わないらしい。

「……泰明さん?」

呆れられたかと考え、あかねが声を掛けると、泰明は俯き加減だった顔を上げた。緑の瞳と目が合うと、泰明の顔には自然に優しい微笑みが浮かんでいた。

『だって、そのほうが早く会えるでしょう?』

その言葉と笑顔が齎したものがどれほど大きいものか、きっと彼女は理解してはいないのだろう。
恐らく、自分の言葉があかねに齎すであろう暖かさより遥かに大きな暖かさを、あかねの言葉はいつも齎してくれている。
だから、彼女には敵わない。

「いや……。そろそろ帰ろう」
あかねを促すと、口端に笑みを残したまま、泰明はさっさと出口へ歩いて行く。
「あ、待って、泰明さん!」
彼の柔らかな微笑みに見惚れていたあかねは、一瞬遅れて慌てて泰明の跡を追った。





駅舎の外に出ると、雨はかなり小降りになっていたが、やはり傘は必要だ。
空を見上げ、それを確認したあかねが傘を開こうとした時、先に傘を開いていた泰明が傘を差し掛けて来た。
それに気付いたあかねが泰明の方を見る。物問いたげな表情を浮かべた妻に、泰明はこう言った。
「今日は、こうして帰ろう」
泰明はあかねに傘を差し掛けたまま、空いた方の手であかねの肩を抱き寄せた。泰明のその行動に、あかねは漸く彼がしようとしていることを理解した。
つまり、泰明は相合傘で帰ろうと言っている訳だ。
嬉しいと思う気持ちよりも恥ずかしい気持ちが先に立ち、あかねの頬はまたもや薄紅に染まった。
「…嫌か?」
不安げな声音で訊ねる泰明に、あかねは慌てて首を横に振る。
それを見て漸く安心したのか、泰明は顔を綻ばせた。


二人並んで歩き始めた時、あかねが口を開いた。
「そう言えば、さっきの返事、まだもらってないですよ」
「返事?」
首を傾げて問う泰明に、あかねはこくりと頷いた後、先程彼に告げた言葉をゆっくりとした口調で繰り返した。
「『傘を持って駅まで迎えに来るから、絶対に雨の中を傘なしで帰ろうなんて思わないで下さい』」
それを聞いた泰明は、一瞬目を見開いた後、フッと小さく笑った。
「思わない。これからは」
反対するかと思っていたのに意外にあっさりと承諾され、あかねは軽く目を瞠った。
「あかねとこうして帰れるのなら、今度からはお前が来てくれるのを待っていよう。――だから、傘は一本で構わない」
泰明の言葉の意味を悟り、驚きの表情を浮かべた後、あかねは笑顔で頷いた。
「じゃあ、今度からは泰明さんの傘を差して来ますね」
ふふふ、と笑うと、あかねは抱き寄せられるがまま泰明に身体を預けた。

ぴたりと身体を寄り添わせたまま、暫くの間言葉を交わすことなく家路を歩いた。時折あかねが泰明の方を見上げ、その視線に気付いた泰明が微笑みで応える。ただお互いの視線を絡ませるだけで、幸せを感じることが出来るのが嬉しい。今そう感じることが出来るのは、京で泰明と共に過ごした日々と、彼と共にこの世界に帰って来てから積み重ねて来た年月があるからだ。
(龍神様に感謝、だよね)
くすり、とあかねが笑いを零す。
その時、突然何かを思い出したらしく、泰明が呟いた。
「ああ、そうだ」
その呟きを聞き取ったあかねが、訝しげに泰明を見上げた。泰明がその場に立ち止まったため、あかねも足を止める。
「肝心な事を忘れていた」
「……?」
泰明が言う“肝心な事”が何を指すのか解らず、あかねは小首を傾げた。
すると、泰明はそれまで高い位置に持っていた傘を低めに持ち直すと、あかねの肩を支えにして傘を傾け、背後からの視線を遮った。そのまま傘の柄をあかねの手に握らせると、彼女に向かい合う。
「泰明さん、濡れるよ」
泰明が完全に傘の外に出ることになってしまったことに気付き、あかねは慌てて傘を差し掛けようとした。しかし、傘の柄を握るあかねの手を泰明の手が包み込んで制止する。
「泰……」
不満げに口を開いたあかねは、少し腰を屈めてあかねの顔を覗き込むように顔を近付けて来た泰明に驚き、大きく目を見開いた。あかねの目の前で、普段他人に冷たい印象を与えがちな表情の変化の少ない美貌が、誰をも魅了するような美しい微笑みに変わる。
その様子を、あかねはただ呆然と見つめていた。
あかねの瞳をじっと見つめていた泰明は、やがてあかねに告げた。

「迎えに来てくれて有難う」

あかねの瞳が更に大きく見開かれた。
駅で言い損ねた感謝の言葉。
本当は真っ先に言うべき言葉だったのに、つい説教の方が先に出てしまった。
そして、もう一つ――…。

「それから――…」

泰明は空いていた右手をあかねの顎に掛け、少し上を向かせた。
彼が何をしようとしているのかあかねが悟った時、近付いて来た唇があかねの唇に一瞬だけ触れた。

「ただいま、あかね……」

軽く口付けた後、泰明はそう言って再び微笑んだ。

一方、口付けられたあかねの方はと言うと、金縛りにあったように身体を動かすことが出来なくなってしまった。見る見るうちに顔が真っ赤になって行く。

「や、泰……」

(こんな所で一体何をするの〜〜〜っ!!)

そう抗議しようとしたあかねだったが、言葉が上手く出て来ない。
その声音から抗議の色を感じ取った泰明が笑みを消し、僅かに眉を寄せた。
「何だ? いつもしている事ではないか」
今更何を言っているのだと言わんばかりに泰明が言う。
「“いつも”って……。いつもは家の玄関じゃないですか!」
確かに泰明が仕事に出掛ける時はあかねから、帰った時は泰明から、お互い相手に挨拶代わりの口付けを交わすことは、結婚してから二人の儀式のようなものになっている。しかし、あれは他人の目の無い自宅の中での話だ。駅前の通りから外れると人通りが少なくなる自宅への道だが、誰が見ているか分からない。
「だから、こうして傘で目隠ししているだろう? それに、誰も見てなどいない」
周囲に視線を走られた後、泰明は再びあかねに視線を戻す。
あかねは、自分が持っている傘の位置を確かめた。言われてみれば、傾けられた傘はあかねの背後、先程角を曲がって分かれて来た人通りの多い駅前通りからは見えないように、視界を遮っているようだ。
「そう言う問題じゃ……」
言い掛けて、あかねはハッと気が付いた。泰明を雨の中に立たせたままだったのだ。見ると、泰明の髪も肩も、既に雨に濡れている。
あかねは慌てて傾けたままの傘を起こし、泰明に差し掛けようとした。しかしその前に伸びて来た手があかねの手から傘を奪った。
「あっ!」
傘を追うように泰明に視線を向けると、口端を上げてこちらを見ている夫の顔があった。次の瞬間、肩を抱き寄せられ、元のように相合傘の状態になる。
「さあ、帰るぞ」
泰明は抱き寄せたあかねの肩を押して、さっさと歩き始めた。
仕方なく歩き始めたあかねは、恨めしそうに隣を歩く夫を見上げた。
(もう、時々強引になるんだから……)
心の中で恨み言を呟いてみるが、結局彼のそういうところも好きなのだという結論に落ち着く。
それに、京の町を散策していた頃とは違い、今はあかねの歩調に合わせて歩いてくれている。些細な事だが、とても嬉しい。
(結局私、泰明さんには勝てないんだよね……)
ふう、と小さく嘆息した後、あかねは泰明に身体を預けた。


『あかねとこうして帰れるのなら、今度からはお前が来てくれるのを待っていよう』

歩きながら、あかねはさっきの泰明の言葉を思い出した。
「自分が迎えに行った方が、早く会えるから」と泰明に言ったのは、恐らく自分が雨の中駅まで迎えに行くことを良しとしないであろう彼を説得するための口実に他ならなかった。
それなのに、彼はあかねが嬉しいと思う言葉をごく自然に口にする。
(私も同じ気持ちだよ、泰明さん……)
泰明と腕を組んで歩くことは平気なのだが、相合傘はさすがに少し恥ずかしく思ってしまう。しかし、今日のようなにわか雨の日、傘を持たずに外出した夫を駅まで迎えに行った帰りなら、何となく許されるような気がするのが不思議だった。駅に、あかねと同じように家族に傘を持って来たらしい人がいたからだろうか。
(泰明さんと違って、キスはさすがに駄目だけどね)
あかねはくすりと笑い声を漏らした。
「どうした?」
「ううん。ただね……」
訊ねる夫に、あかねはふるふると首を横に振ると、笑顔で応えた。

「“にわか雨もいいな”って思ったの」

あかねの答えを聞いて軽く目を瞠った泰明は、次の瞬間表情を緩ませた。

「そうだな……」


あかねに微笑みかけた後、泰明は空を見上げた。
雨はまだ降っているが、空は随分と明るくなって来たようだ。
自宅まであと五分――。
その間、この雨が降り続けてくれれば良いと、泰明は思った。







〜了〜


あ と が き
泰明さんの誕生日記念に、「ラブラブな二人を書こう!」と書いてみたバカップルな話です。
私のイメージでは、継花より泰あかの方がバカップル度が高いのです。特に現代エンディング後の泰あかは(^^; ついでに言うと、泰明さんの方が天然度も高いイメージで書いています。
長さのわりにイチャイチャしているだけの話ですが、読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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