41 禁忌
川沿いに植えられた枝垂れ柳の木が、若葉に覆われた枝を垂らしている。
間もなく日が暮れようとしている刻限、夕風が柳の枝を揺らしている様は、この場所が持つ独特の空気や此処に纏わる伝説も相俟って、何処となく不気味とも言える不思議な雰囲気を醸し出していた。
それ故、夕つ方此処に近付く者はいない。
両岸を柳の木で守られた然程幅広くない川に架かるこの橋を、人々は一条戻り橋と呼んでいる。



師から命じられた仕事を終えた帰り道、泰明はふと通り掛かった一条戻り橋の上で足を止めた。
八葉の務めを終えて龍神の神子、あかねと結ばれ、師の屋敷の離れを借り受け彼女と暮らし始めてからもうすぐ一年になる。
常ならば、仕事が終わればすぐに愛妻の待つ我が家へと急ぐ泰明が珍しく足を止めたのは、この場所に異変を感じたから、という訳ではなかった。
ただ、独りで考え事をしたかったから――だったのかもしれない。

泰明は橋の真ん中で止めた足を欄干の方に向けた。川の両側に植えられた柳の枝が、風に吹かれて揺れているのが見えた。
既に日が傾きかけているこの刻限、昼間と違い道を行き交う人の姿はない。
欄干に手をついた泰明は、小さく息を吐くと、橋の上からぼんやりと川の流れを眺めた。昼間降ったにわか雨のせいか、いつもより水が少し濁っているのが見て取れる。
川面を渡って来た風が、泰明の艶やかな長い髪を梳いて行った。目に覆い被さって来る前髪を無造作に払い除けながら、泰明は端整な顔を顰めた。普段は心地良いと感じられる夕風が、今の泰明には煩わしいものでしかなかったのだ。


『泰明殿は稀代の陰陽師と呼ばれる晴明殿の愛弟子。どうかこの子を……!』

柳の葉が立てる微かな葉擦れの音を捉えていた耳に、先刻の主の必死の叫び声が甦った。
加持祈祷の依頼を受け、然る貴族の別荘を訪れた泰明を待っていたのは、今し方儚くなったばかりの幼い姫君だった。
遠方だったため、間に合わなかったのだ。
年の頃は、丁度藤姫と同じくらいだったろうか。褥に横たえられた亡骸が余りに小さい。まだ完全には血の気が失せていない幼い顔は、青ざめてはいたが眠っているようにしか見えなかった。
もっとも、陰陽師である泰明には、既に姫の魂が身体から抜け、自分の亡骸の上方に浮かんでいるのが見えていたのだが。
長い間子供が出来ず、ようやく授かった愛娘に先立たれた両親の悲嘆は大きい。それ故、姫の魂は悲嘆に暮れる両親を置いて去ることが出来ず、未だ此処に留まっているようだ。助けを求めるような物言いたげな眼で、泰明の方を見つめている。
その事を彼女の両親に告げ、彼女の御魂を黄泉の国へと送ろうとした泰明に、その屋敷の主が縋るように口にした言葉――。

『どうか、反魂の術で、娘を甦らせて欲しい……』

――稀代の陰陽師、安倍晴明殿の愛弟子である貴方なら出来る筈……。

主のその言葉に、泰明の柳眉が跳ね上がった。

『反魂の術は禁忌以外の何ものでもない。一度死んだ者を再び甦らせるなど、理に反する行為だ――』

以前にも同じような依頼をされた事があったが、その時はそう言い捨てた。子供を亡くしたばかりの親には、恐らく冷酷とも取れるであろう声音で。
だが、今日は違った。
小さな亡骸に縋り、泣きながら懇願する両親の顔を見ているうちに、泰明の表情が苦しげなものに変わった。禁忌とされる術を使う事は出来ない旨を伝え諭し、幼い姫の御魂を黄泉の国に送り届けて、逃げるようにその屋敷を後にしたのだった。


後味の悪い仕事だったと思う。
同じような結果になってしまった例は今までもあったが、以前はこのような後味の悪さを感じた事はなかった。
あかねと出逢い、心を得る以前は……。

(感情を持つとは……、人になるとは、こういう事なのだろうか……?)

橋の上から流れ行く川を眺める泰明の脳裏を、先程の主の必死の表情が過ぎった。
今の自分なら、彼らの気持ちが解るような気がする。
俯いた泰明の前髪を、涼やかな夕風が慰めるように梳いて行った。

『大切な人に何時までも生きていて欲しいと願うのは、いけない事ですか?』

不意に、あかねの言葉を思い出した。
まだ八葉だった頃、この場所で、そう問い掛けられた。

(あれから、もう一年以上も経つのか……)

泰明はあかねと二人で此処に来た日のことを思い起こした。





◇ ◇ ◇





それは、あかねが天真、詩紋と共に京に召喚されてから、まだそれ程日が経っていない頃――。
東の札を入手し、今度は北の札を探すために、あかねが主に玄武の二人と行動していた頃の事だった。
その日は永泉が来られなかったため、泰明はあかねと二人きりで散策に出掛けることになったのだ。
その散策の途中、一条戻り橋に立ち寄った。泰明がこの場所を好きらしいと気付いたあかねが、彼を此処に連れて来たのだ。
あかねが泰明と一条戻り橋に来たのは、先日此処で彼の心のかけらを拾って以来のことであった。

一条戻り橋では土地の力を上げることもせず、ただ二人で川を眺めながら話をした。話をした、と言うより、あかねの質問に泰明が答えていたと言ったほうが正しいかもしれない。
風変わりな装束を着た髪の短い少女と、美しい顔の半分を痣のようなまじないに覆われた陰陽師。
余りに目立つ二人連れに道行く人々の視線が集まったが、本人達はまるで気にした様子も見せず、長い時間その場で立ち話をしていた。
上賀茂神社に気を整えに行って以来、二人きりで話す機会がなかったことを、あかねはずっと残念に思っていた。だからこの機会に彼と様々な事を話したいと思ったのだ。そんなあかねの気持ちを、泰明はもちろん知る由もなかった。
京のこと、鬼の一族のこと、怨霊のこと……。途切れることなく繰り出されるあかねの質問に、「神子は質問ばかりだ」と言いつつも、泰明はいつも通りの淡々とした口調で一つ一つ答えてやっていた。
そんな中、この場所に纏わる言い伝えが話題に上ったのだ。

「以前、イノリくんから聞いたことがあったんです。此処には不思議な言い伝えがあるんだって……」
ふと思い出した事を口にしたあかねは、言ってしまった後で少し後悔した。
この合理的で現実主義者の陰陽師が、伝説や言い伝えのような確証の無い事を話題にするのを好むとは思えなかったのだ。
余計な事を言ってしまったかもしれないと、恐る恐る隣に立つ泰明の方に顔を向けたあかねは、てっきり眉根を寄せているだろうと思った美貌に何の表情も浮かんでいないことに気付き、少しほっとした。
自分を見つめるあかねの視線に気付いていないかのように、泰明はじっと川の流れを見据えたまま、一条戻り橋に纏わる一つの言い伝えを話し始めた。

遠方で父の死を知らされた息子が急ぎ京に戻り、丁度この一条戻り橋で父の葬列に出くわした。棺にすがり神仏に祈ったところ、短時間ではあったが父が蘇り、息子は最期に立ち会えなかった父と話すことが出来た――。
――その話から、この橋は戻り橋と呼ばれるようになったのだという……。

「じゃあ、その人は少しの間だけでもお父さんとお話できたんですね」

じっと泰明の横顔を見つめながらその話を聞いていたあかねは、泰明が話し終えて口を閉ざしたのを確認した後、視線を足下に流れる川に戻してそう言った。そして小さく安堵の息を吐いた。

――良かった……。

あかねがぽつりと漏らした言葉に、泰明が目を瞠る。
「何が良いのだ?」
明らかに詰問口調で吐かれた言葉に驚いて、あかねは泰明の方を見た。先程まで川面を見つめていた双色の瞳が、真っ直ぐにあかねの視線を受け止める。
何か彼の気に障る事を言ってしまったのだろうかと不安になったあかねは、おずおずと口を開いた。
「え…、だって……」
じっと見つめて来る綺麗な瞳に浮かんでいる表情が少し非難めいたものに見えて、あかねは思わず言い淀みながらも自分の考えを泰明に話した。
「その人が遠方に行っていたということは、きっとお父さんが亡くなったのは突然の事だったと思うんです。だからお父さんには最期に息子さんに伝えたかったのに伝えられなかった事があったはずだし、息子さんもお父さんの言葉を聞きたかったはずだと思うんです。だから、それが伝えられて良かったなって……」
余計不機嫌にさせてしまったかも知れないと思い恐る恐る泰明の顔を覗き込んだあかねだったが、あかねの考えを聞いて泰明が浮かべたのは訝しげな表情だった。
「……神子の言いたい事がよく解らぬ」
暫く無言のまま考え込んでいた泰明が呟く。
「反魂は理に反する行為だ。故に反魂の術は陰陽道では禁忌とされている。何故神子は反魂を肯定する?」
「『反魂』って、何ですか?」
泰明の言う『反魂』という言葉の意味が解らず、あかねは逆に泰明に問い返した。その反問に泰明が小さく息を吐く。どうやら呆れられたらしいことを悟り、あかねは軽く目を伏せた。
「『反魂』とは、死者の魂を呼び返すこと。延いては死者を蘇らせることだ」
その言葉に、あかねは弾かれたように顔を上げた。琥珀と翡翠の双色の瞳が、先程と変わらず真っ直ぐに見つめている。
「天寿を全うして逝った者を再びこの世に呼び返すなど、自然の理に反する事だ。何故、神子は理に反する行為を肯定するのだ?」
あかねが自分の方を向くのを確認してから、泰明は再度同じ問いを口にした。


川面を渡って来た風が、泰明の長い髪をさらりと梳きながら、戻り橋の上で向かい合った二人の間を吹き抜けて行った。
問い掛けに対する応えを求めるように向けられた美貌を、あかねは瞠目したまま見つめていた。
陰陽師である泰明が理を重んじていることは、あかねも知っていた。あかね自身、死者を蘇らせることが良い事だとは思ってはいない。しかし、もし突然大切な人を亡くしたとしたら、恐らく自分も伝えられなかった事を伝える猶予を与えて欲しいと思ってしまうだろう。
そして、もし、それが心から愛する人だったとしたら――…。
きっと願ってしまう。
禁忌と言われる行為であったとしても、叶うものならずっと傍で生きていて欲しいと。
恐らく、誰もが思うことだろう。

(泰明さんは、そうは思わないの? それとも、大切と思う人がいないの?)

ふと心の中で思ったことに、あかねは胸が疼くのを感じた。

――泰明さんが大切に思う人って、誰だろう……?

「……神子?」
黙ったまま答えないあかねに泰明が声を掛けた。その静かな声に、考え事に沈んでいたあかねの意識がこの場に戻った。

「大切な人に何時までも生きていて欲しいと願うのは、いけない事ですか?」

不意に口を衝いて出た問い掛け。
その言葉に泰明が目を見開いたことが見て取れた。

「私も死んだ人を生き返らせることが良い事だと思っている訳じゃないです。でも、もし大切な人が死んでしまったら、きっと夢でもいいから会いたいって思ってしまう……」
あかねは泰明の瞳を見据えたまま言葉を継いだ。
「もしずっと一緒にいる術があるのなら、それに縋りたいと誰もが思ってしまうだろうと思うんです」
「……それが理に反する事だと解っていてもか?」
泰明の問いに、あかねは頷いた。
それを見た泰明は、口を閉ざしたまま何かを考え込んでいるようだった。あかねは彼の考え事の邪魔をしないよう、黙って見守ることにした。
不意に泰明があかねから視線を逸らした。まじないのない側の半顔を向けたまま小さく溜息を吐く。先程の呆れを帯びたそれとは異なる溜息であることは明らかだった。
「私には解らない……」
ぽつりと泰明が呟いた。
端整な横顔が何故か少し淋しげに見えて、あかねはさっき感じた胸の疼きが強くなるのを感じ、無意識に胸の辺りの水干を掴んでいた。
「でも、泰明さんだって、もし大切と思う人が……、えっと、例えば晴明様が…って考えたら、そう思うでしょう?」
泰明が大切に思う人は誰であるかを考えたあかねは、以前藤姫から聞かされた彼の師匠であり同じ屋敷で暮らしているという晴明がそうなのだろうと思い、その名を出した。
すると、それを聞いた泰明が逸らしていた視線をゆっくりとあかねの方に戻した。真正面から見つめて来る人形のように整った顔には、既に先程の淋しげに見えた表情はなかった。
光の加減か何かの原因でそう見えていただけなのだろうか――。
そんな事を考えていたあかねに泰明が言う。

「お師匠は稀代の陰陽師と呼ばれる方だ。何よりも理を重んじる方が、そのような事を許される筈がない」

泰明のその言葉に、あかねはそれ以上何も言えなくなってしまった。
何故だか解らないけれど、悲しいと思った。
彼が自分の考えを理解しようとしてくれないからだろうか?
それとも、彼には禁忌を犯しても良いと思える程大切と思える人がいないらしいという事を知った所為だろうか?
不意に湧き起こった悲しみに、あかねは水干を握り締めた。

悲しげな表情を浮かべて俯いてしまったあかねを見て、泰明は胸に痛みを感じた。
こんな事は生まれて初めてだった。
何故、胸に痛みを感じるのだろう?

(神子の悲しげな表情を見た所為だろうか……)

他に原因は思い当たらなかった。
彼女がそのような表情をしたのは、恐らく自分の言葉の所為だということは理解出来た。
だが、事実だ。
神子の言うように、仮に晴明亡き後その魂を呼び戻そうとしたとしても、稀代の陰陽師と名高い師が反魂のような禁忌とされる行為を許す筈はない。

そう考えた泰明は、不意にある事に思い至った。
無表情だった顔が、驚愕の表情に変わる。

理に反すると言えば、自分の存在自体が理に反する事だ。
女人の腹から生まれ出た者ではないモノ。
そう、泰明は晴明によって作られたものなのだから。

(お師匠は、何故、私を作られたのだろう……?)

陰陽師が何よりも重んじる自然の理に逆らってまで。
考えてみれば、陰陽道の大家である師の行為とはとても思えない。

(何故――…?)

考えてみたが、泰明には晴明の真意は解らなかった。

考え事に沈んでいた泰明の耳に、微かな衣擦れの音が届いた。
驚きの表情を消し、神子の方を見た。
あかねがこちらを見つめていた。黙り込んでしまった泰明が気になり、顔を上げたのだ。
暫く無言のまま見つめ合った後、先に口を開いたのはあかねの方だった。

「誰よりも大切だと思う人が出来たら、きっと泰明さんにも解ると思います」

澄んだ緑色の瞳が真摯な表情を宿し、真っ直ぐに見つめて来る。
その瞳に魅入られたように視線を逸らすことが出来ないまま、泰明はふと思った。

泰明がその師、晴明により作られたものであることは、晴明と北山の天狗、そして泰明自身の他は誰一人として知る者はいない。

もし、神子が知ったら――。
誰よりも理を重んじる立場にある自分が、もし理に反して生まれて来たものだと知ったら――…。

――それでも、お前は私を受け入れることが出来るのだろうか?
   戻り橋に纏わる言い伝えを有りの儘に受け入れたように……。

何時の間にか微笑みを浮かべていたあかねに、泰明は心の中でそう問い掛けた。
近い将来、彼女が自分の出自を知るであろう事を予感しながら――。





◇ ◇ ◇





柳の枝が風に吹かれて揺れている。

一条戻り橋の上から川の流れ行く方を見つめていた泰明は、先程まで乱れていた自身の気が落ち着いていることを感じた。

『私には解らない……』

あの時はそう答えた。
だが、今なら解る。大切な者を亡くした者の気持ちが。
今日、それを自覚した。

あの頃は、誰かを大切だと思う心が自分には無かったのだと思う。いや、あかねなら、気付いていなかっただけだと言うだろうか。
そう考えた泰明の表情が緩む。
冷たく凍て付いた心を溶かしてくれるのは、あの頃も今もあかねだけだ。
そして、彼女はいつも泰明に何かしら齎してくれる存在だった。

大切な者――。
現在の自分にとって掛け替えの無い大切な者は、あかねと、そして………。

川の流れを見ていた泰明が、突然弾かれたように顔を上げた。
川沿いに続く道の向こうから近付いて来る人影が見えた。川岸に立ち並ぶ柳の木にその姿が隠されていても、泰明があの優しく暖かな気の持ち主を見誤る筈はない。

「あかね……」
今まさに心の中で想っていた人物の登場に、泰明は呆然とした面持ちで思わずその名を呟いていた。
既に薄暗くなりつつあるこの刻限、此処に近付く者はいない。いや、一条戻り橋でなくとも、夕刻以降京の町を一人で歩くのは危険なことだ。
「泰明さ〜ん!」
橋の上に佇む泰明に気付いたあかねが、嬉しそうに手を振りながら泰明の名を呼んでいる。
恐らく自分の帰りを待ち切れず、此処まで迎えに来たのだろう。一条戻り橋には晴明の式神がいる。つまり此処で考え事をしていたことは、彼らを通じて晴明に伝わっていた筈だ。自分が此処にいることを晴明があかねに喋った、と言う所だろうか。
(お師匠め。余計な事を……)
小さく溜息を吐くと、泰明は自分の方に歩いて来るあかねに走り寄った。
「お帰りなさい、泰明さん。お仕事、お疲れ様でした」
「何故来た?もう暗くなるというのに独りで出歩くなど、危険ではないか」
笑顔で迎えるあかねに、泰明はつい説教をしてしまう。彼女の無鉄砲なところは、龍神の神子だった頃から全く変わっていない。
「だって……。夕方までには戻るって言ったのに、泰明さん、中々帰って来ないんだもの」
悪びれた様子もなくそう言うあかねに、泰明は再び溜息を吐いた。確かに昨夜仕事に出掛ける前彼女にはそう言ったが、まだ約束の時間にはそれ程遅れていない筈だ。
「晴明様が泰明さんが此処にいるって教えてくれたから、待ち切れなくて迎えに来ちゃいました」
ふふふ、とあかねが笑う。
「それに、晴明様が式神さんを連れて行きなさいって言ってくれたから。独りで来た訳じゃないですよ?」
あかねの言葉に同意するように、彼女の足元で白い猫が鳴いた。
笑顔で自分を見上げるあかねに、泰明は自らの敗北を悟る。
やはり、自分は彼女には勝てない。
微笑みを浮かべた泰明は、あかねを抱き寄せた。華奢な身体が抱き付いて来るのを感じる。
「余り私を心配させるな。もう、お前一人の身体ではないのだから」
腕の中のあかねから伝わって来る気は、彼女のものだけではない。あかねの内に宿った小さな命が発する気が、あかねの身体を通して泰明には感じ取ることが出来るのだ。
泰明は腕の力を緩めて、あかねを見下ろした。先日の戌の日から岩田帯を着けているあかねの腹は、漸く妊婦らしく目立って来たところである。
こうして、女人の腹から生まれ出ることのなかった自分に子供が持てるとは、思ってもみなかった。

(今の私にとって掛け替えの無い大切な者は、あかねと、これから生まれて来る赤子だ……)

泰明は先程考えていた事を、再度確認するように繰り返した。
あかねが見つめている。
泰明は咲き誇る桜を思わせるあかねの髪を愛しげに梳いた。柔らかいその感触を暫し楽しむ。
すると、あかねが右手を上げ、泰明の頬に触れて来た。突然のことに、泰明が軽く目を瞠る。
「もう、大丈夫みたいですね……」
微笑みながらあかねが漏らした呟きに、泰明が小首を傾げる仕草を見せた。彼女が言わんとしている事が解らなかったのだ。翡翠色の髪が、その動きに合わせてさらりと流れた。
物問いたげな表情を浮かべた泰明に、あかねは彼の頬を撫でるように手を動かしながら言葉を継いだ。
「泰明さん、今日のお仕事で何かあったんでしょう?」
その言葉に泰明の瞳が大きく見開かれた。
「本当は私、少し前から泰明さんを見ていたの。でも、泰明さんが何だか辛そうに見えて、声を掛けられなかったの……」
橋の上から川を眺めながら物思いに耽る泰明を、暫くの間柳の陰から見守っていたあかねは、泰明が口元に微かに笑みを浮かべるのを確認してから、今来た振りをして彼に近付いたのだ。
いつもの泰明なら、近くにいるあかねの気に気付かない筈がない。しかし全く気付いていなかったということは、それ程までに彼の心を乱す出来事があったのだろう。

泰明は呆然とあかねの言葉を聞いていた。近付く彼女の気に気付かなかったとは……。
頬に触れていたあかねの手が、ゆっくりと離れて行く。
「でも、もう大丈夫みたいですね。安心しました」
あかねはそう言って微笑んだ。
今日彼に何があったのか気になったけれど、あかねは泰明に訊ねるつもりはなかった。彼が自分から話してくれるのを待つことにしたのだ。もし話してくれなくても、泰明は既にいつもの泰明に戻っているようだから、それでも構わないと思う。
笑顔で見つめて来るあかねに、泰明も笑みで応えた。
「ああ。お前のおかげだ」
泰明の言葉に、あかねがきょとんとした表情を浮かべた。
「え? 私、何もしていないですよ?」
彼が辛そうな表情を浮かべていた時、声を掛けることも出来ず、物陰からただ見守っていただけなのだから。
何が何だか解らないと書いてあるような顔でこちらを見つめているあかねに、泰明は彼女の疑問には答えず、ただ微笑み掛けただけだった。

「さあ、帰るぞ。夜風は身体に障る」
辺りが既に夕闇に包まれていることに気付き、泰明はあかねを促した。日中は随分と暖かくなってきたが、まだ夜風は肌寒く感じられる。身重の身体に障っては事だと思い、泰明はあかねを庇うように彼女の肩を抱き寄せた。
「もう。泰明さんってば、過保護なんだから」
その言葉とは裏腹に身体を預けて来たあかねに、泰明の口端が僅かに上がる。


『誰よりも大切だと思う人が出来たら、きっと泰明さんにも解ると思います』

不意に、あの日のあかねの言葉を思い出した。

――もし、あかねやこれから生まれて来る子供に何かあったら――…。

あかねの歩調に合わせ、ゆっくりと足を運びながら、泰明は思う。

(私は、禁忌を破ることになるかも知れぬな……)

あかねも子供も、泰明が生まれて初めて得た、失いたくない大切な者だから……。

「泰明さん…?」
何時の間にか硬い表情を浮かべてしまっていたらしく、それに気付いたあかねが気遣わしげに呼び掛けて来た。
こういう時、彼女は意外に敏い。
「いや。何でもない」
泰明は、あかねを安心させるように微笑んだ。

自らが、禁忌を破る日が来ないことを祈りながら――…。







〜了〜


あ と が き
「禁忌」というお題から思い浮かんだのが、泰明さんの出自についてでした。晴明様が泰明さんを作ったのって、ある意味「禁忌」を破る事だったのではないかなあと…。それに死者を甦らせるという反魂のお話も絡めて、泰明さんに人の生と死について考えてもらおうかなと思って作ったお話です。
ダーク系のお題にも拘わらず、あかねちゃんが登場した時点で甘系に(苦笑)。うちらしいと言えなくもないですが、このお題でラブラブを書いたのって、もしや私だけではなかろうか……。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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