24 まどろみ
「泰継さん、食事の準備が出来ましたよ」

少し早めの昼食の用意を終えて、花梨はリビングにいる夫に声を掛けた。
しかし、泰継から応えはない。
いつもなら「ああ」とか「すぐ行く」とか、短いながらも泰継は必ず言葉を返して来るのだ。

「――泰継さん…?」

もう一度名を呼んでみるが、やはり応えはなかった。
よく見ると、キッチンから見渡せるリビングに、夫の姿が見当たらない。
つい先程まで、リビングのソファに腰掛けて新聞を読んでいたはずだが――…。
不審に思った花梨は、ソファに歩み寄った。



南側に位置するリビングは、この家の中で最も明るく暖かい場所である。南側一面を覆う大きなガラス窓から季節を問わず太陽の光が差し込み、まるでサンルームのように陽光に包まれるからだ。
冬でも暖かいこの場所は泰継も気に入っているらしく、こちらに来てからの唯一の趣味である読書も、書斎ではなくリビングのソファで行っていることが多い。但し、それが忙しく家事に勤しむ花梨の気配を傍に感じていたいと考えてのことだとは、花梨だけが知らない。


パタパタと小さくスリッパの音を立てながら、花梨は広い室内を移動した。
少し開かれた窓から入って来る微風が、泰継の好きな淡香に似た薄い色のカーテンを揺さぶっているのが目に入る。京の建物に慣れていた泰継は、室内の気が澱まないよう、窓を開け放していることが多いのだ。
ふと、ガラステーブルの上に無造作に置かれた新聞が、風に煽られカサカサと乾いた音を立てているのが耳に届いた。さっきまで泰継が読んでいた朝刊だろう。
テーブルを囲むようにコの字を描く形で置かれたソファにゆっくりと近付いた花梨は、そこで夫を発見した。
泰継はいつの間にかソファに横になり、静かな寝息を立てていたのだ。

(眠ってる……)

日溜まりの中で微睡む泰継を見て、花梨は思わず笑みを零していた。
彼がベッド以外の場所で眠り込むのは珍しい事だ。
穏やかな寝顔を晒している夫の傍らに膝をつき、花梨は暫くその眠りを見守ることにした。いつもなら、僅かな気配でも感じ取ってすぐに目を覚ます泰継だが、花梨が近付いても目覚める気配はない。

(疲れてるんだね……)

無理もない。
遠方での仕事を終えて彼が帰宅したのは、つい半時間前なのだ。泰継は仕事のことは詳しくは話さないが、恐らく昨夜は徹夜で仕事を片付け、一睡もしないまま今朝一番の飛行機で帰って来たのだろうと、花梨は推測している。
そして、外出先では食事を抜くことが多い泰継のことだから、間違いなく朝食を摂っていないはずだと考えた花梨は、既にお昼に近い時間だったこともあり、急いでブランチの用意を始めたのだった。
手伝いを申し出た泰継だったが、徹夜明けの夫の身体を気遣う妻に丁重に断られ、仕方なくいつものソファに座り、手持ち無沙汰そうに新聞を読んでいた。しかし、花梨が食事の準備をするのを待っている間に、初夏の暖かな日差しと心地良い微風に誘われて、つい転寝をしてしまったのだろう。

普段隙のない彼がこうして無防備な姿を見せるのは、自分の前だけ――…。

そう思えることが、何となく嬉しい。
それだけ心を許してくれているのだと、自分といることで安らぎを感じてくれているのだと、そう信じられるから……。


微風に揺さぶられ、目に覆い被さっていた泰継の長い前髪を、花梨は愛しそうに指で梳き上げた。指の間をさらりと流れて行く絹糸のような髪の感触が心地良く感じられた。癖の無い真っ直ぐなさらさらの髪が、女としては少々羨ましい。
見る者に怜悧な印象を与える端整な顔は、目を閉じると少し幼く見える。しかし、澄んだ瞳が目蓋の下に隠されていても、それが彼の美しさを損なうことはないようだ。
綺麗な人だな――と、改めて思う。
尤も、本人にそんな事を言えば、
「作られたもののどこが美しいのだ」
――そう言うに違いないのだが……。

「……泰継さんは、最初から人だったよ……」

眠っている夫を起こさないよう、小さな声で花梨が呟く。



自らの意思に拠らず連れて行かれた異世界で出逢った、何よりも大切な人――…。
三ヶ月ごとに目覚めと眠りを繰り返すのだと聞かされ、細身の身体には似つかわしくない超人的な力の強さを見せられても、花梨にとって泰継は誰よりも純粋で繊細な心を持つ“人”だった。
だが、確かに人となって、彼は変わったとも思う。
例えば、こんな風に微睡むことなど、あの火之御子社での出来事以前には考えられなかったことだろう。
彼の傍にいて、彼に起きる変化を見ることが、花梨には何よりも嬉しいことだった。
それは、泰継が京からこの世界に来て、四年の歳月が経とうとしている現在も変わらない。



開け放した窓から入って来た風が、再び泰継の髪を梳くように揺らせた。
それでも尚、泰継は心地良い眠りに身を委ねている。
ゆっくりと上下している胸が、その眠りの安らかさを物語っているようだ。
自分の方に穏やかな寝顔を向けて微睡む泰継を見ているうちに、花梨はふと以前彼が言っていた事を思い出した。


それは、花梨が泰継と結婚し、この家で共に暮らし始めて間もなく――。
今日のように仕事帰りで疲れていたのか、珍しく泰継が花梨より遅くまで眠っていた時のことだった。
その時も、やはり花梨は暫くの間夫の寝顔を見守っていたのだが、ふとある事に気が付いたのだ。
(そう言えば泰継さんって、いつもこっちに顔を向けて眠っているよね?)
普段は泰継の方が先に目覚めるので、寝顔を見守られているのは花梨の方である。しかし、夜中に目を覚ましてしまった時に泰継を見ると、いつも花梨の方に顔を向けて眠っているのだ。
癖なのかと思い本人に訊ねてみたところ、思いも寄らない答えが返って来たのだった。

「“目覚めて最初に目に入るのがお前の顔であるように”と思ううちに、お前の方に顔を向けて眠るのが癖になっていたのかも知れないな」

また、毎朝花梨が目を覚ますまで寝顔を見守っている理由については、

「一日の始まりに、お前の瞳に映るのが私であって欲しいと……、そう思ったのだ」

柔らかな微笑みを浮かべて話す泰継に、紅潮し易い花梨の顔が忽ち真っ赤になったのは言うまでもない。


本当にこの人は、無自覚な殺し文句で何度私を殺すつもりなのだろう。
「ずるい」とさえ思ってしまう。
きっと、彼が想ってくれているより深く、自分の方が彼のことを想っている。
――彼を、愛している。
もちろん、全てを捨ててこの世界に来てくれた泰継の気持ちを疑ったことなどないが……。

(でも、これだけは自信があるよ……)

口元を綻ばせた花梨は、再び泰継の髪を梳いた。
薄い雲が通り過ぎたのか、少しの間だけ翳っていた陽の光が、再びリビングに差し込んだ。
陽光に照らされ、色白の肌が透き通って見える。


いつも全身全霊を懸けて守ってくれた人――。
こちらの世界に帰って来てから、花梨は京に召喚される以前と同じく、平穏な日々を過ごしている。そのため、自分を守る背中を見る機会も、めっきり少なくなった。それを少し淋しく思う気持ちはあるが、自分のために大切な人に怪我などして欲しくないから、それで良いと思っている。
しかし、こちらに来てからも以前と同じ職に就いている泰継は、今も危険と対峙することが多い。
向こうでは守ってもらってばかりだったから、こちらでは自分が――…。
そう思っていたのに、元の世界に帰り、龍神の神子ではなくなった花梨には、既に泰継の仕事を手伝う力は無くなっていた。それを口惜しく思う。

だから、せめて、彼がくつろぎ、安らげる場所を守りたい。
危険と隣り合わせの仕事に従事するがために、恐らく常に神経を張り詰めているであろう彼が、自分の傍でゆっくり休めるように。
今の自分に出来ることは、それくらいしかないから……。


『目覚めて最初に目に入るのがお前の顔であるように……』

泰継がそう思ってくれているのなら、目を覚ますまで傍にいよう。
彼が目覚めた時、琥珀色の瞳に最初に映るのが自分の笑顔であるように――…。

眠り続ける泰継に顔を寄せた花梨は、閉じられた唇に軽く口付けた。自らの行動に、薄っすらと頬が染まる。


「おやすみなさい……」


安らかな眠りを妨げないよう、花梨は小さな声で呟いた。







〜了〜


あ と が き
珍しく転寝してしまった泰継さんの寝顔を見守りながら、物思いに耽る花梨ちゃんでした。
うちは泰継×花梨中心のサイトなので、お題創作もどうしてもこのカップリングが多くなってしまうのですが、このお題に関しては最初から泰継×花梨で書こうと決めていました。泰継さんのまどろみには、他の人とは全く違う意味があると思うからです。
三ヶ月起きていて、次の三ヶ月は眠り続けるという生活を九十年間も続けていた泰継さんにとって、毎夜眠ることも転寝することも人となって初めて経験したことだろうと思います。そんな泰継さんを見て、花梨ちゃんは嬉しかっただろうな。きっと彼が寛げる場所を守りたいと思うだろうな――そう思って書いてみました。
泰継さんが目覚めるバージョンもあったのですが、キリリクで書いてしまったので、今回泰継さんは最後まで眠ったままです。でも気配に敏い彼のことだから、花梨ちゃんの気配に気付かないとは思えないので、もしかしたら狸寝入りかも知れません(笑)。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
themes' index top