13 逢瀬
符を書き終え、泰継は静かに筆を置いた。静寂に包まれていた和室に、かたり、と小さな音が響く。
元の世界に帰る花梨と共に現代に渡って来た泰継がこうして筆を手に取り文机に向かうのは、今ではこちらの世界に来てからも続けている陰陽師の仕事で使う符を書く時のみとなった。
現代に来て一年近くの月日が流れ、こちらの世界にも慣れはしたが、やはり藺草の匂いが仄かに香る畳の上に正座して文机に向かっている時が最も落ち着き、力が研ぎ澄まされるような気がするのだ。だから最も集中力を必要とする符の作成には、リビングの一角に設えられたこの和室を使っている。
今、泰継が書いていたのは、今回の仕事の依頼人に渡す護符だった。本来であれば、符を書くのは深夜もしくは夜明け前の方が望ましいのだが、一刻も早く依頼人に護符を持たせる必要があったのである。護符を作成し、市内のホテルに宿泊している依頼人に渡せば、今回の仕事は終了だ。


書き終えた符を黒塗りの角盆の上に置くと、印を結んでもう一度精神を集中し、符に入魂する。
泰継が祓詞を唱え始めると、盆の上の符が薄っすらと白い光に包まれた。

「臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・前!」

最後の仕上げに符に対して九字を切ると、符を包んでいた光が一瞬目映いばかりに輝いた後、急速に収束する。
紙切れに過ぎなかった符に護符としての力が宿ったのだ。
それを確認して印を解くと、泰継は小さく息を吐いた。

(これで、あの者が怪異に悩まされることはあるまい)

そう考えながらふと盆の上の符から視線を逸らすと、硯箱の横に重ねて置かれた短冊が目に入った。
青、赤、黄、白、黒の五色の色紙で作られた短冊――。
それは符を書くため和室に篭もる直前、訪ねて来た花梨から手渡されたものだった。


『泰継さんも、これに願い事を書いて下さいね』


そう言いながら微笑む花梨の顔を思い描くと、自然と口元が綻んだ。

(―――願い事、か……)

短冊を手に取り、泰継は目を閉じた。先程の花梨の笑顔が目蓋の裏に浮かび上がる。
その瞬間、胸の奥がじわりと熱くなり、甘い疼きが生じるのを感じた。


(私の願いならば、既に叶った……)


かつて何かを願うということがなかった泰継が、花梨と出逢い、生まれて初めて抱いた願い。
それは、花梨と共に在るため、彼女と共に異世界に渡ること。
決して叶えられることはないと考えていたその願いは龍神により叶えられ、神子の務めを終えて元の世界に帰る花梨と共にこちらの世界に渡って来ることが出来た。
あれから約一年――。
京とは全く違うこの世界で、神子と八葉であった頃と変わらず花梨の傍に在ることに、今、この上ない喜びと幸せを感じている。

――これ以上の何を望めるだろうか?

そう思うのに、その願いが叶ってしまうと、今度は別の願いが湧き起こって来る。

(本当に、いつの間にこのように貪欲になってしまったのだろうな……)

泰継は秀麗な顔に自嘲を帯びた笑みを浮かべた。
ゆっくりと目蓋を開くと、手の中の五色の短冊が目に入る。


もし、これ以上の何かを願うことが許されるのならば……。


泰継は再び筆を取ると、花梨から渡された短冊のうち一枚に、流麗な文字で願いを書き認めた。







符を書くため泰継が和室に篭ってから、花梨はリビングのソファに座り、紅茶を飲みながら泰継が仕事を終えるのを静かに待っていた。泰継の同居人である泰明は、泰継の帰宅と入れ違いに仕事に出掛けてしまったらしく、現在この家にいるのは泰継と花梨の二人だけである。
泰継が仕事から帰ったばかりと知りつつ、放課後一旦家に帰った花梨が彼の部屋を訪ねて来たのには、二つの理由があった。
まず、今夜は二人で天体観測をする約束であったこと。
泰明の師であった晴明が、それまで賀茂家が独占していた天文道を賀茂保憲から伝授されて以降、安倍家では天文道を専門としていた。そういう事情もあって、泰継は京にいた頃から眠りが訪れない時期には、月や星の運行を観測しながら夜を過ごすことが多かったのだという。
そんな彼は、現代にやって来てから天体望遠鏡に興味を持ち、陰陽師として生計を立てられるようになると、迷うことなくそれを購入した。以来、時折自宅で花梨と共に天体観測を楽しんでいたのである。
もう一つの目的は、自分が用意した笹飾りに飾るため、短冊に彼の願い事を書いてもらうことだった。泰継に現代の風習に少しでも多く触れてもらいたくて、高校生となった現在では行わなくなった行事も、まるで子供の頃に帰ったように行うようにしているのだ。
ガラステーブルの上には、花梨が持って来た笹飾りが置かれていた。それには、色紙で作った鎖や網飾り、吹き流しなどが既に吊るされている。ティーカップを口元に遣り、ふと視界に入ったそれを見ているうちに、花梨はいつの間にか先程の泰継との遣り取りを思い起こしていた。





「花梨。それは何なのだ?」

花梨が持って来た笹飾りを見て、泰継が不思議そうに訊ねた。
「今回の仕事に行く途中通った商店街でも、これより大きかったが同じような物を見掛けた。何かのまじないなのか?」
泰継の言葉を聞いて、花梨は笑みを浮かべた。“まじない”という言葉が出て来るあたり、現代に来ても彼はやはり陰陽師なのだなと思ったのだ。
(でも、似たようなものだよね?)
星に願いを託すために飾るものだから、まじないの一種には違いない。
泰継が京からこの世界にやって来たのは、昨年の初秋のことだった。そのため、笹飾りを見たことがなかったのだ。花梨が京で過ごしたのも秋から年明けにかけてだったので、京に七夕祭りがあったのかどうかは知らないが、泰継の反応から恐らくなかったのだろうと推測し、花梨は簡単に説明することにした。
「これは、七夕祭りで使う笹飾りなの。今日は七夕だから……。あ、こっちでは七月七日は“七夕”と言って、短冊に願い事を書いて、笹に飾って星に願い事が叶うように祈るんです」
「星に祈るのか?」
「うん。……あっ、そうだ!」
突然声を上げたかと思うと、花梨は鞄の中をごそごそと掻き回し、何かを探し始めた。
何をしているのかと思い、泰継が近付くと、花梨は目的の物を見つけ出し、泰継に差し出した。
それは、色紙で作られた短冊だった。青、赤、黄、白、黒の五色ある。その五色の意味するところは、泰継には馴染み深いものだった。恐らく陰陽五行説に基づくものだと推測出来たからだ。
「泰継さんも、これに願い事を書いて下さいね」
「願い事?」
「そう、泰継さんの願い事、です」
願い事を書けと言われ、泰継が困惑した表情を浮かべる。
泰継が長い年月を生きていながら、これまで何かを強く望んだ事がほとんどなかったことを、花梨は知っていた。恐らく、花梨とこちらの世界に来ることを望んだことくらいだろう。泰継はあまりにも無欲なのだ。
――泰継さんは、もっと貪欲になってもいいくらいなのに……。
花梨は常にそう思っていた。余計なお世話かもしれないが、何でも良いから彼に願いを持ってもらいたかったのだ。それが、もし自分と同じ願いなら、とても嬉しいと思う。
「別に難しく考えなくても良いんですよ。私は思いつくまま、いくつも書いちゃいました」
微笑みながらそう話す花梨の瞳から視線を逸らし、彼女の手の中の笹飾りに目を遣ると、確かにそこには既に花梨が吊るしたと思しき短冊が見え隠れしている。そのうちの一つがちょうど泰継の方を向いていて、そこに書かれていた花梨の願い事が読み取れた。
「――“英語の成績が上がりますように……”」
「泰継さん! 声に出して読まないで下さい!」
忽ち真っ赤になって花梨が制止する。
英語が苦手科目だった花梨は、試験前になると、現代に来てから間もなく独学で英語をマスターしてしまった泰継に、家庭教師として教えてもらっていた。泰継に教えてもらうようになってから、彼に呆れられたくないと思う気持ちが良い方に作用しているのか、英語の成績は上昇の一途を辿ってはいるが、完全主義者の泰継が設定した目標は高く、それに応えるため、できればもう少し上がって欲しいというのが花梨の本音だったのだ。
だから、それを願い事の一つとして短冊に記したのだが、当の泰継に声を出して読まれるというのは、やはり恥ずかしい。
「これが、花梨の願いなのか?」
短冊に手を触れ、顔を紅潮させた花梨を見つめた泰継は、訝しげにそう問い掛けた。
「私の願い事のうちの一つですよ」
諦めたように小さく溜息を吐きながら花梨が答える。恥ずかしいので彼には知られたくなかったのだが、見られてしまった以上、仕方ない。恐らくその願いの裏にある、泰継の期待に応えたいという花梨の思いは、彼にも伝わったことだろう。
「この願いならば、星に願わずとも私が叶えるが……」
何となく面白くない気持ちが胸に湧き起こり、泰継が言う。
言葉にした後、花梨が自分以外のものを頼ったことが面白くないと思ったのだと気が付いた。
彼の表情と声音からそれを感じ取った花梨は、思わず笑みを浮かべた。
「もちろん、次のテストもよろしくお願いします」
花梨はちょこんと頭を下げた。数日前に終わったばかりの期末考査の前も、泰継から英語の特訓を受けたのだ。結果はまだ出ていないが、今回は少し自信があった。
その言葉に微笑みを浮かべて泰継が頷く。
泰継の微笑みに自分も笑みで返し、花梨は短冊を泰継に手渡した。
「泰継さん、これから呪符を書くんですよね?」
普段開け放たれている戸襖の向こうに見える文机に目を留め、花梨が訊ねた。文机の上には、既に硯や筆が用意されていて、直ぐに使える状態になっていたのだ。
「私、泰継さんのお仕事が終わるまで待っていますから。それ、後で良いから書いて下さいね」
そう告げて和室に篭もる泰継を見送り、花梨はリビングのソファに腰掛け、彼の仕事が終わるのを待っていたのである。





(泰継さん、ちゃんと願い事を書いてくれるかな?)

現在の時間に意識を戻した花梨は、笹飾りを見つめながらそう思った。少し視線をずらすと、自分の願い事を書いた短冊が目に入る。
花梨はテーブルの上に置いてあった笹飾りを手に取った。
先程泰継に読まれてしまった『英語の成績が上がりますように』の他、『料理の腕が上がりますように』、『京の皆が幸せでありますように』、などと書かれた短冊が笹の枝にぶら下がっている。
そして、最後の一枚――…。

――『ずっと泰継さんと一緒にいられますように』

その短冊を手に取り、暫くの間見つめた後、花梨はそれを胸に当てて目を閉じた。京で経験した出来事が次々と脳裏に蘇り、胸に温かいものが宿ったように感じる。
泰継と共に現代に帰還した今、これが、他のどの願いよりも花梨が叶えたい願い事だった。あれから一年近くの月日が流れたが、花梨の願いは今のところ叶えられている。
(これからもずっと、この幸せが続きますように……)
心の中でそう祈った。
閉じていた目を開け、ふと視線を窓の外に遣ると、ベランダの向こうに雲のない空が見えた。この分であれば、雨の心配はないだろう。

「このお天気だと、織姫と彦星は無事に会えそうだね」

空を眺めながら、思わず呟いていた。

一年に一度だけの逢瀬。
自分だったら、泰継と一年に一度しか会えなくなったら、淋しくて辛い。
しかし本来であれば、龍神の神子としての務めを終えれば、泰継とは一年に一度どころか二度と会えなくなるはずだったのだ。
だから、京を捨てて現代に来てくれた泰継と、それを許可してくれた龍神に感謝している。


「――この世界にも、二星会合の伝説があるのか?」


突然掛けられた声に驚き、花梨が和室の方に視線を向けると、泰継が戸襖を開けて立っていた。

「泰継さん……」

泰継は和室からリビングに降りて来ると、花梨が座っているソファに近付き、隣に腰を下ろした。
泰継がじっと花梨を見つめる。先程の質問に対する答えを待っているのだと、花梨は気付いた。
「こっちの世界では、『七月七日の夜、天の川に隔てられた織姫と彦星――織女星と牽牛星が、年に一度だけ会える』という言い伝えがあるんですけど、京にもあったんですか?」
七夕祭りはてっきり現代だけのものと思い込んでいたので、泰継が頷くのを見て花梨は驚いた。
「京では、七月七日には宮中で乞巧奠の儀式が行われていた。貴族の屋敷でも宴を開いて二星会合を眺めたりしていたらしい。もっとも、私はその時期は眠りの時期だったから、実際に見たことはないのだが……」
泰継は一旦口を噤み、花梨が手にした笹飾りを見つめた。
「だが、京にはこういう風習はなかったはずだ」
「そうなんですか?」
問い返す花梨に頷き返すと、泰継は持っていた短冊を一本の枝に結んだ。
「書いてくれたんですね!」
花梨が破顔する。しかし、泰継が書いた短冊を見て、うっと言葉を詰まらせた。
どうやら泰継は、彼にとっては長年慣れ親しんだ筆記用具である筆で願い事を記したらしい。ちょうど符を書くために筆と硯を使ったからなのだろうが、達筆すぎるその文字は、何と書いてあるのか花梨にはさっぱり読み取れなかった。
「……泰継さん。なんて書いたんですか?」
三か月も京で過ごしたにもかかわらず、結局最後まで、花梨は流れるように崩された文字を読み取ることが出来なかったのだ。現代に来て間もなく英語をマスターしてしまった泰継と自分を比べると、己の不甲斐無さに恥じ入るばかりである。
だから、おずおずと問い掛けた花梨だったのだが、泰継は美しい笑みを浮かべ、
「内緒だ」
と、言っただけで、願い事の内容を教えてくれなかった。
「え〜? ずるいですよ、泰継さん! 私のは見たくせに!」
ぷうと頬を膨らませ、花梨が抗議するが、泰継はその表情に笑いを誘われたかのように、くすりと声を漏らしただけだった。


「さて……」
ちらりと時計を見て時刻を確認した後、泰継がソファから立ち上がった。
「花梨。私はこれから符を届けに行かなければならないのだが、お前はどうする? 一緒に来るか?」
京にいた頃は、加持祈祷の仕事を終えた後、護符を依頼人に渡す必要がある場合は北山から式神を遣わせていたのだが、現代ではやはりそういう訳にはいかなかったのだ。遠方の場合は現地で仮の符を作成して渡しておき、帰宅後作成した符を速達郵便で送る。今回のように依頼人がこちらに出向いて来た場合は、最寄駅まで取りに来てもらうか、宿泊先まで出向いて手渡すことにしていたのである。
「一緒に行ってもいいの?」
泰継の仕事場に、これまで花梨が同行したことはなかった。それに、現代に帰り徒の女子高生に戻った今、自分がいても泰継の仕事の邪魔になるだけだと考えていた。だから、彼が外出から帰るまで、部屋で待たせてもらおうかと考えていたのだ。今夜は二人で天体観測をする約束だったから。
だが、泰継からは「構わない」との答えが返って来た。
「ホテルのロビーで符を渡すだけだ。すぐに終わる。――少し早いかもしれないが、街に出たついでに夕食を済ませて来よう」
泰継の提案に、花梨は笑顔で頷いた。
笹飾りをベランダに飾り付けた後、二人は依頼人の待つホテルへと向かったのだった。







依頼人に符を届けた後、ホテルに隣接する駅ビル内のレストランで夕食を済ませて帰宅した泰継と花梨は、早速ベランダに天体望遠鏡を設置して星の観測を始めることにした。

「わぁ、今夜は星がとても綺麗ですね!」

ベランダに出て夜空を見上げた花梨は、思わず感嘆の声を上げた。
日が沈むと建物の中も外も区別なく真っ暗闇となる京の夜に比べ、現代では繁華街のネオンや街灯、そして家々の窓から漏れる明かりの所為で、肉眼で見える星の数が圧倒的に少ない。それは、比較的郊外と言える場所にある泰継達のマンションでも同じだった。しかし、それでも今夜のように雲のない夜には、星々は美しい姿を見せてくれる。
花梨の素直な感嘆の声に、土星に向けた望遠鏡を調節していた泰継が笑みを浮かべた。
この部屋のベランダは南向きのため、北の空を観測するのには向かないが、今日は土星を観るだけなので問題はない。

天体望遠鏡を買って初めて観測に使った際、泰継は現代科学に驚いたものだった。専門機関で使うような高度な性能のものではなく、個人で買える程度に安価なものでも、月面のクレーターだけではなく、土星の環や木星の縞模様まではっきり見えたからだ。
京での天体観測と言えば、角盥に水を張り、水面に夜空を映して行うものであった。当然、そこに拡大という要素はない。
現代においても肉眼で夜空を見上げるだけならば、数の上では遥かに少ないとは言え、見た目は京で見た星々となんら変わりはなく、漆黒の夜空に光の点が散りばめられているだけにしか見えない。しかし、望遠鏡を使えば、それらが徒の光の点ではないことが判るのだ。肉眼で見れば光の点に過ぎない星々が、実際にはこんな姿をしていたのだということを知り、泰継は大いに驚かされた。
その時、ふと、この科学が進み便利な世界から、ただ一人京に召喚された花梨のことを思った。
この世界と余りにも違う京に無理矢理連れて来られた花梨の驚きと戸惑いは、如何ばかりのものだったろう。北山で初めて出逢った時の花梨の心細そうな様子と、その時の自分の対応を思い出す度に思う。
――こちらの世界を知った今なら、花梨の戸惑いを理解出来ただろうに……。
そうであれば、もっと別の対応が出来たはずだ。花梨を不安がらせないような。
済んでしまったことは仕方ないとは言え、泰継は後悔していた。
望遠鏡の調整を終えて花梨の方を見ると、花梨は夜空に瞬く星に負けないくらいに目を輝かせて空を見上げている。好奇心旺盛な彼女らしい表情だ。
そんな花梨の生き生きとした表情を見る時、泰継はいつも、二度とあの時のような心細そうな表情を花梨にさせてはならないと思うのだった。


「花梨。準備が出来た。土星を観るのだろう?」
泰継が声を掛けると、手すりから身を乗り出すようにして星を見ていた花梨が、漸くこちらに視線を向けた。
「いつも泰継さんに全部させてしまって、ごめんなさい」
望遠鏡に近付きながら、花梨が詫びる。
多くの女性がそうであるように、花梨もまた機械類の扱いが苦手だった。特に光学機器など、カメラ以外だと理科の実験で顕微鏡を使ったことがあるくらいで、さっぱり使い方が判らない。この世界とは全く異なる京から時空を越えてやって来てまだ一年足らずの泰継の方が詳しいことを、情けなく思うばかりである。
(泰継さんって、器用過ぎるんだよね。世話の焼き甲斐がないというか……)
現代に来た当初こそ、分からないことがあれば花梨に訊ねていた泰継だが、今では日常生活には全く支障がないようだ。それどころか、この世界で生まれ育った花梨より彼の方が詳しいことが、徐々に増えて来ているのだ。英語に至っては、今では彼に教えを乞うているくらいである。
京で泰継に世話になりっぱなしだった花梨は、自分の世界では彼の世話が出来るだろうと考えていただけに、泰継の器用さに感嘆しつつも残念な気持ちで一杯だったのである。
だが、当の泰継は花梨のそんな気持ちには全く気付いていない。今も、「問題ない」といつもの台詞を口にしながら、優しく微笑んでいる。
小さく溜息を漏らしかけた花梨だったが、泰継の微笑みを見て思い止まる。
今、こうして二人で過ごせることが、どれ程幸せな事か――。
短冊に書いた願いを思い起こし、こうして泰継と過ごせる時間を大切にしていきたいと改めて思う。

「土星って、綺麗ですよね。何回見ても見飽きないです」
接眼レンズを覗き、視界からゆっくりと出て行く土星を、フレキシブルハンドルを動かして視界内に戻しながら、花梨が呟く。
初めて泰継に土星を見せてもらった時、理科の教科書やテレビなどで見た姿そのままだったことに驚いた。そして、最も驚いたのは、土星が動いていたことだ。地球が自転しているから当然なのだが、普段意識していなかっただけに、花梨は驚くと同時に感動したのだった。
暫くの間、望遠鏡で土星を見ていた花梨は、泰継の方を振り向いた。
「京にいた頃、泰継さんはよく星を観測していたって言っていましたよね?」
「ああ」
現代で初めて花梨と望遠鏡を使った際、そのような話をしたことがあった。京には望遠鏡のような物はなかったから、角盥に水を張ってそこに夜空を映して行うのだと説明したのだ。
「だが、今のお前のように夜空や星を見て“綺麗だ”などと思ったことはなかったな」
泰継の言葉を聞いて、花梨の顔が曇る。
その表情を見て、泰継は彼女に誤解を与えてしまったことに気が付いた。花梨はきっと、泰継の言葉が、『人ではなかったからそう感じる心がなかったのだ』という意味なのだと受け取ってしまったのだろう。
「陰陽寮で行われていた天体観測は、主に異変の有無を確認することに目的があったのだ。月食等の天文の異変は、京の存亡、延いては支配者である帝に影響を及ぼすと考えられていた。私自身は陰陽寮に出仕してはいなかったが、天文道を事とする安倍家に属する者として、寮で行われていたような観測は、常日頃から行っていたのだ」
京においては観測結果は極秘扱いとされるくらい、天体観測は政治的な意味合いが強かった。北山で隠遁生活を送っていた泰継が行っていたのも、観測結果から異変を予測し、本家に知らせることであって、決して月や星の美しさを観賞するためのものではなかったのだ。
しかし、現代に来て花梨と気ままに行っている“観測”というより“観賞”といった方が良い天体観測は、今では泰継も気に入っている。
そう、花梨に告げると、
「えぇ? 勿体無いなぁ。京の方が夜が暗くて高い建物がない分、よく見えて綺麗だったのに…」
と、驚いた表情で返され、泰継は苦笑する。
観測対象でしかなかった天体を見て“美しい”と感じる心をくれたのは、花梨だ。彼女と同じ物を見て同じように感じられるようになったことを嬉しいと思う。ただ、それを花梨に告げると、先程のような沈んだ表情をさせてしまうことが多いと気付いたので、泰継は別の事を口にした。
「庶民や陰陽寮に属さない貴族たちの間では違っただろう」
話しながら、泰継は背後に飾ってあった笹飾りにちらりと目を遣った。
「昼間、二星会合について話しただろう」
その言葉に、彼の言わんとするところを察した花梨が、「あっ」という表情を見せた。
そんな花梨を愛しげに見つめた後、泰継はベランダの端に近付くと、先程まで花梨がしていたように手すりに凭れかかり、ベランダの向こうに広がる夜空に視線を向けた。
この部屋は五階建てマンションの最上階に在り、しかも建物の南側には高層建築がないため見晴らしが良い。
泰継の隣に並ぶと、花梨は彼に倣い、手すりに手を置いて空を見上げた。
「七月七日の夜、京の貴族たちの間で催されていた宴は、今私たちがしているように、星々を観賞するためのものだったのだろう」
空を見つめながらそう語る泰継の横顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。その美しい横顔に、花梨の目は釘付けとなる。
視線に気付き、泰継が傍らに立つ花梨に視線を戻した。
互いに見つめ合ううちに、花梨は徐々に落ち着かない気持ちになって来る。泰継の優しい微笑みは大好きで、いつまでも見ていたいと思うものの、彼に間近で見つめられることにまだ慣れないのだ。
「あ、あの、泰継さん」
「何だ」
顔を紅潮させ、明らかに平静さを失い狼狽えた様子の花梨を訝しく思いながら、泰継が訊ねる。好きな人に見つめられてドギマギする乙女心は、まだ泰継には察することが出来ないものだったのだ。
恋人と見つめ合っても全く動じていない泰継を少し恨めしく思いながら、何となく居心地の悪いこの状況を何とかしようと考え、花梨はふと思ったことを彼に問い掛けた。
「織姫と彦星って、どの星なんでしょう?」
その質問を口実に、花梨は泰継から視線を逸らし、きょろきょろと夜空を見回した。
花梨の問い掛けに、泰継は軽く目を瞠った。七夕飾りをわざわざ此処に持って来たことから、当然花梨は二星について知っていると思っていたからだ。
(どの星が牽牛と織女か知らずに、星に願いを託そうとしていたのか……)
泰継はそう驚き呆れたが、何とも花梨らしいと思い直した。自然と笑みが零れる。
「まだ八時前だ。牽牛星と織女星は昇ったばかりでよく見えないぞ」
しかも、昇るのは東の空だ。南西寄りに当たるこの部屋のベランダからでは見えないだろう。
そう花梨に告げると、「えーっ」という驚きの声が返って来た。
「旧暦の七月七日であれば、この刻限でも天頂近くに見ることが出来るであろうが」
月遅れで七夕祭りを催す地域も多くあると聞くが、その所為なのかもしれない。祭りを行うにしても、対象となる星が見易い方が良いのだろう。
「せっかくの七夕なのに、なんだか残念だな」
「花梨が帰る頃には見られるだろう。帰り道で見られるだろうから、その時教えてやる」
本当に残念そうな顔で笹飾りに目を遣る花梨を見かねて、泰継は花梨を家まで送り届ける道中でも見られると告げる。その言葉を聞いて、花梨は漸く笑顔を見せたのだった。



「――泰継さん」

暫くの間、言葉を発することなく星空を見つめていた花梨が、視線を空の一点に向けたまま、小さな声で泰継に声を掛けて来た。

「何だ」

花梨の声音に何かを感じ、泰継は傍らに立つ恋人に顔を向けた。
その視線を横顔で受け止めながら、花梨は手すりに置いた自らの手の上に視線を落とし、俯いた。そして、何かを決意したかのように一度小さく頷く仕草を見せた後、顔を上げて泰継の方を振り向いた。

「――この世界に来てくれて、ありがとう…」

泰継が目を瞠る。
それは、こちらの世界で花梨と再会してそれ程経っていない頃、彼女から言われたことがある感謝の言葉だったのだ。
珍しく驚いた表情を見せた泰継に、花梨は微笑みかけた。
「昼間ね、泰継さんがお仕事している時、考えたの。『私だったら、一年に一回しか泰継さんに会えなかったら辛くて淋しいな』って……」
花梨が異なる時空に生まれ育った相手と恋に落ちた自分達を、年に一度、七夕の夜にしか会うことが叶わないという二星会合の伝説に準えているのだと、泰継にはすぐに分かった。
「もし泰継さんがこの世界に来てくれなかったら、私たち、一年に一回どころか二度と会うことが出来なくなっていたもの。だから、私、龍神様と泰継さんに感謝しているの……」
もし、泰継とあのまま別れて二度と会えなくなっていたら、今頃自分はどうしていただろうか。彼のことが忘れられず、毎日泣き暮らしていただろうか。
そうならなかったのは、こちらに来る決意をしてくれた泰継のお陰だ。だからこそ、現在の幸せを得るために、彼が犠牲にしたものがあることを決して忘れてはいけないのだと、花梨は改めて思った。
「お前が私に感謝などする必要はない。私は自分自身の望みを叶えようとしただけだ」
――だから、気にするな。
そう言って、泰継は微笑む。
その微笑みに甘えてはいけないと思いつつ、結局花梨はいつも甘えてしまうのだ。“力ある者の言の葉には力が宿る”というのは、京にいた頃他ならぬ泰継から教えられたことだが、花梨はいつも彼の言葉だけでなく、微笑みにも言うべき言葉を奪われてしまう。
(泰継さんってば、優し過ぎるよ。そう言われてしまったら、何も言えなくなるじゃない……)
こちらの世界で共に生きるため、泰継に何もかも捨てさせてしまった。その事に対して花梨が罪悪感を抱いていることに、きっと彼は気付いているのだろう。だから、「気にするな」と優しい言葉を掛けてくれる。泰継の優しさに、花梨は思わず涙ぐみそうになった。
泰継に気付かれたらまた心配をかけてしまうかも、と思った花梨だったが、彼は既に正面を向き、何事か考え込んでいるようだった。思索が趣味だという泰継は、花梨と一緒に居ても時々こんな風に考え事に耽ることがある。花梨も既に慣れているので、泰継の思索を邪魔せず、静かに彼が口を開くのを待った。

「お前と一年に一回しか会うことが出来なかったら、か……」
横顔を見つめる花梨の前で、先程の花梨の言葉を反芻するように、ぽつりと泰継が呟いた。
「以前の私なら、一年に一度とは言え、必ず会えるのであれば良いではないかと思っただろう。私はお前と出逢うまで九十年かかったのだから」
泰継の過去を思い、花梨の表情が翳る。
それを感じ取り、泰継はすぐに言葉を継いだ。
「誤解するな。人ならぬ身だったお陰で九十年という歳月を過ごすことが出来た。だから、お前と出逢うことが出来たのだ。お前を得るために必要な時間だったと思えば、あの日々も悪くはなかった」
もちろん、当時は泰明のように神子と出逢えるという確信はなかったから、そう考えることは出来なかったが、花梨と出逢い、恋に落ち、京を捨ててこの世界に渡って来た今、泰継は京で過ごした九十年という長い年月を、懐かしい思い出と捉えることが出来ている。
「そう思えるようになったのは、お前と出逢うことが出来たからだ」
そう言って泰継が微笑みかけると、花梨はやっと表情を和らげた。
「だが、お前と次に会うのに一年も待たされるのは、今の私には耐えられぬな」
現代に渡って来られたとは言っても、花梨には学校があるし、こちらに来た当初とは違い、今は泰継にも果たすべき仕事があった。遠方の仕事で数日間留守にするだけでも、花梨と会えず辛いと思うのに、一年などとても耐えられそうにないと泰継は思う。
「私だって、嫌だよ。一年も泰継さんと会えないなんて」
少し口を尖らせながら、花梨が自分もそうだと主張する。今だって泰継が遠方での仕事に出掛けている間、淋しくて仕方がないのに、次に会えるのが来年の今日だとか絶対無理だ。牽牛と織女は天帝に文句を言わずによく命令に従っているものだ、聞き分けが良すぎるよ、と花梨は考えてしまう。
――どうやら自分は牽牛と織女のように従順ではいられないようだ。
自分の考えに、花梨はくすりと笑い声を漏らした。
不満げに口を尖らせていたかと思うと、笑い声を零した花梨を、泰継が訝しげに見つめている。
それに気付いた花梨は、笑い声を収めて今考えていた事を言葉にした。

「でも、もしそうなってしまったら、私、『泰継さんに会わせて』って毎日龍神様にお願いします。龍神様が根負けして、泰継さんに会わせてくれるまで」

花梨の言葉に泰継が目を瞠った。

「だからね、泰継さんにもう二度と淋しい思いはさせないから……」

彼が独りで過ごした九十年間は、もうやり直すことが出来ないけれど、未来は自分達の力でどのようにでも変えることが出来る。「生まれ育った世界が違う」という最も大きな障害さえ、龍神を味方に付けて乗り越えることが出来たのだから。

「『ずっと一緒にいよう』って、あの時約束しましたよね?」

左手を手すりに預けたまま身体ごと自分の方を向いた泰継を、花梨はじっと見つめた。
もちろん、京で交わしたその約束を泰継が忘れるはずはない。

「そうだな……」

口元を綻ばせながら相槌を打つと、泰継は笹飾りに目を向けた。
花梨が書いた短冊がこちらを向いている。

「お前の願いは私が叶えたい。特にあの願いは……」

彼の視線を追って、笹飾りに目を遣った花梨は、「あっ!」と声を上げた。
文字が小さくてよく見えないが、白い短冊に書いた願いは、花梨が最も叶えたいと思うものだったことを思い出したのだ。

「もう、泰継さんってば、ずるいよ! 自分の願い事は教えてくれないくせに!」

頬を紅潮させて花梨が抗議する。
それを見て再び笑いを誘われた泰継は、忍び笑いを漏らした。

(花梨は本当に分かっていない。私が願う事など一つしか有り得ないのに)

泰継は花梨の肩に手を伸ばすと、華奢な身体を抱き寄せた。
泰継が声を殺して笑っているのに気付き、再度抗議しようとした花梨は、突然抱き寄せられ驚いている間に、彼の腕の中に閉じ込められてしまった。益々頬が赤くなり、仄かな熱を帯びて来るのを感じた。

「――お前と同じだ…」
「え?」
「私の願いは、お前の願いと同じだと言ったのだ」

耳元で囁かれた言葉の意味を直ぐには理解出来ず、ぽかんとした表情を浮かべた花梨に、泰継は繰り返し告げた。

「だから、私の願いも花梨にしか叶えられぬ」

花梨の世界にやって来ることが出来た今、泰継が望むことはただ一つ――。
――人としての生を終えるその時が来るまで、花梨の傍にいたい。
ただ、それだけだ。

緑色の大きな目を見開いて、花梨は泰継の腕の中から恋人を見上げた。泰継の目の前で、その瞳が潤みを帯びて行く。

「泰継さんの願い事、絶対私が叶えるから。だって、それは私の願いでもあるもの」

泣き笑いのような表情を浮かべた花梨が、泰継を見つめて言った。

「二人で叶えましょう」
「ああ、必ず」

微かな笑みを浮かべた泰継は、自分を見上げる花梨の唇に口付けを落とした。



――『ずっと泰継さんと一緒にいられますように』



そう書かれた短冊が、二人の想いを載せて夜風に揺れていた。







〜了〜


あ と が き
継花好きとして、一度は書いてみたかった天体観測もの。ありがち過ぎる七夕ネタとの混合になってしまいましたが、ついに書いてしまいました。現代エンディングのスチルのシチュエーションって、色々と想像を掻き立てられるのですよね。
安倍家は賀茂家から天文道を承継しているので、泰明さんもきっと京にいた頃から天体観測していたのでしょうが、どういうわけか個人的にそのイメージがなくて…。泰明さんの仕事は加持祈祷と調伏が中心だったのではないかな、などと妄想していたりします。それに対して、泰継さんはやはり現代エンディングのスチルの影響が大きくて、きっと京では一晩中星を眺めたりしていて(寝なくていいので夜が長いでしょうし)、現代に来てから天体望遠鏡に興味を持って即購入したのではないかなと思いました。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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