07 二つの選択
大晦日を数日後に控えたある日のこと―――


内裏での朝議を終えた幸鷹は、常であれば検非違使庁を兼ねている左京六条にある自邸へと向ける牛車を、内裏の北方へ向けた。
目的地を告げると、従者は明らかに困惑した表情を浮かべた。「あの屋敷に一体何の用があるのか」と言いたげなその表情に、思わず幸鷹も苦笑する。
中納言の他、検非違使別当を兼務している幸鷹は、中納言として朝議に参加した後は、検非違使別当の職務に当たるため、真っ直ぐ自邸に戻る。「仕事の鬼」と噂される幸鷹が内裏からの帰りに寄り道をすること自体、珍しいのだ。しかも行き先は、何かと曰く付きのあの屋敷である。従者が困惑したのも無理はない。
「知人に話があるだけですよ」
訪問理由をそう告げると、幸鷹は困惑から驚きに表情を変えた従者に、一条へ車を遣るよう再度伝えた。

左京一条――。
代々陰陽師の家系として名高い安倍家の本家が其処に在る。
今日、幸鷹が安倍家に向かおうとしたのは、泰継を訪ねるためだった。八葉となる前、泰継は北山に庵を構え、隠遁生活をしていたと聞いている。しかし八葉に選ばれてからは、北山では何かと不便だからと、安倍本家の離れを仮住まいとしているのだ。
このところ、毎日のように花梨と散策に出掛けていた泰継だが、今朝出仕する前四条の館に立ち寄り、紫姫に聞いたところによると、今日は花梨は朱雀の二人と行動しているという。生憎、泰継は既に帰った後で、紫姫の館では会うことが出来なかった。しかし紫姫の話では、泰継は今朝「今日は休養を取るように」と、花梨にほぼ強制的に約束させられたらしい。ならば、彼は自室にいるはずだ。
(泰継殿が、神子殿との約束を破るはずはないですから……)
そう考えた後、幸鷹は微笑んだ。
二人の間に何があったのか詳しくは知らないが、彼らの間には既に他の者が入り込めないような強い絆が存在するようだ。神子と八葉という立場を超越したその関係は、幸鷹だけでなく既に八葉全員の知るところとなっている。
あと数日で終わる神子と八葉の役目――。
それを終えた後、彼らが一体どうするのかということに、現在他の八葉たちの注目が集まっている。
「幸鷹様。もう間もなく安倍の屋敷でございます」
車の外から、間もなく安倍家に着くことを知らせる従者の声が耳に届き、幸鷹は表情を改めた。
どうしても泰継に伝えておきたい事が、いや、伝えねばならない事があった。
紫姫の館ではない場所で彼に会おうとしたのも、誰かに聞かれる恐れの無い場所でそれを伝えたかったからだった。
表情を改め、気を引き締めた幸鷹は、膝の上に載せた手を無意識に握り締めていた。





安倍家の門前で、幸鷹は牛車を降りた。
貴族の屋敷であれば通常いるはずの門番が、この屋敷にはいない。しかし、門の前に幸鷹が立つのを見計らったかのように、固く閉ざされていた門扉が開かれた。中から出てきたのは、白い式服を纏った美しい人間だった。一見して、男か女か判断できない容貌である。
――これが、噂の式神だろうか……。
従者たちの誰もがそう考えながら主を見守る中、幸鷹は屋敷の中から現れた人物に来訪の目的を告げた。
「泰継殿にお会いしたいのだが……」
幸鷹の言葉を聞いた式神は、誰何することもなく無言のまま頷いた。幸鷹を邸内に招き入れると、再び門を閉じる。
その時、庭にバサバサッと鳥の羽音が響いた。幸鷹と式神が、同時にそちらを見上げた。
門柱の傍の木の枝に、白い梟が止まっている。幸鷹はその梟に見覚えがあった。泰継の式神だ。
梟が、式神の方に目を転じた。
『下がれ。私が案内する』
梟の口から泰継の声が聞こえた。白梟に向かって恭しく一礼した後、式神の姿が掻き消えた。
それを確認した梟が、幸鷹の方を向いた。
『付いて来るが良い』
短くそう促すと、梟は羽を休めていた枝から飛び立った。
庭の更に奥へと飛んで行く梟を見失わないよう、幸鷹は慌てて跡を追った。



決して手入れが行き届いているとは言えない広い庭を抜けた場所に、その建物は在った。質素な佇まいではあるが、小さいながらも趣のある庭も付いている。
母屋から完全に切り離された場所に存在する離れには、安倍家の者も殆ど足を踏み入れることがないらしく、まるで奥深い山に踏み込んだかのような静寂に包まれている。

離れに辿り着いた幸鷹を出迎えた泰継は、向かい合う形で置かれた円座の一方に座るよう幸鷹を促すと、自身ももう一方の円座に腰を下ろした。すると、二人が座るのを待っていたかのように、女房が白湯を運んで来た。
女房が白湯の用意をしている間、幸鷹は室内の様子を観察していた。
部屋の隅に置かれた文机と、多数の書物が整理して置かれている二階棚。そして燈台と火桶がある以外には、調度と呼べる物がない。仮住まいとは言え、余計な物が一切無く、一見殺風景に見える部屋の様子が、実に泰継らしいと思う。
「暫くの間、誰も此処に近付けるな」
二人の前に白湯の入った椀を置き、退出しようとした女房に、泰継がそう命じた。
衣擦れの音も足音も全くさせない女房に、この女人も式神なのだろうかと考えていた幸鷹は、はっとして泰継を見据えた。まだ用件を話していないのに人払いを命じた泰継に、幸鷹が訪ねて来た理由を、彼は最初から見抜いていたのではないかと思ったのだ。
女房が退出したことにも気付かず、幸鷹はじっと泰継を見つめていた。
それに気付いた泰継が、幸鷹の視線を真っ直ぐに受け止める。
何もかも見透かしているかのような琥珀と翡翠の瞳には、今は何の表情も浮かんではいなかった。
お互いを見据えたまま、二人の間に暫し沈黙が流れる。
室内に、火桶の炭が爆ぜる小さな音が、やけに大きく響いた。

「……それで、私に話とは?」
やがて、泰継が幸鷹を促すようにそう言った。一向に口を開こうとしない幸鷹に、このままでは埒が明かないと判断したのだろう。
泰継の顔を見つめたまま、彼が自分の話の内容を推察しているのであれば、何から話すのが良いかと考えていた幸鷹は、泰継の言葉に我に返った。
「お時間を取らせて申し訳ありません。ですが……」
幸鷹は一旦言葉を切ると、表情を改めた。いつもの正義感に溢れた検非違使別当の顔に戻ると、幸鷹は続けた。
「私が何を告げに来たのか、貴方には既にお判りなのではないでしょうか?」
「…………」
幸鷹のその言葉に、泰継は肯定することも否定することもせず、只無言のまま幸鷹を見据えていた。彼の沈黙が肯定を意味すると判断した幸鷹は、自分に向けられた異色の双眸を真っ直ぐに受け止めて、言葉を継いだ。

「私は、神子殿のお陰で、忘れられた過去を取り戻しました。まじないに封じられていた、元の世界での記憶を……」

単刀直入に結論から話した幸鷹は、泰継の反応を観察した。
幸鷹の言葉を聞いても、白皙の美貌は全く表情が動かない。八葉として初めて出逢った頃のような、人形めいた無表情な顔が、此方を見つめている。やはり、今日幸鷹が何を告げに来たのか、予測していたのだろう。
(初めて出逢った…か……)
ふと、そう思う。
三ヶ月程前のことだった。八葉を探すため、神泉苑を訪れた神子に同行していた泰継と、初めて言葉を交わしたのは。
あの時、初めて逢ったのだと思っていたけれど……。
(本当は、貴方と私は八年も前に出逢っていたのですね……)
神子の手に触れて取り戻したのは、元の世界での記憶だけではなかった。まじないが解けた当初は、この世界に引き摺り込まれた時の記憶だけが、まるで堰を切って水が溢れるように流れ出て来たようだった。しかし、時間が経つにつれて、他の事も思い出せるようになったのだ。
京に引き込まれ、記憶に混乱を来たしていた自分にまじないを施した陰陽師の中に、今向かい合って座っている人物の姿があったことも……。
あれから八年も経つというのに、目の前に座っている彼は、取り戻した記憶の中の姿と寸分も違わない。「北山に庵を構える安倍の方は何十年も姿が変わらない」という噂の通りに――。
そう考えた時、一瞬だけ視線を逸らして目を伏せた幸鷹だったが、直ぐに顔を上げて泰継の瞳を見つめ返した。

「私の両親に依頼され、私に記憶封じのまじないを施したのは――、泰継殿、貴方ですね?」

質問と言うより確認に近いその問い掛けに対しても、泰継は答えなかった。彼の沈黙は、答えるつもりが無いというより、取り敢えず最後まで話を聞こうということだろうと幸鷹は判断した。

「だから、貴方には、この事を伝えておきたかったのです」

――八葉の務めを終える前に……。

あと数日で、八葉の務めは終わる。
その時、彼はもう、京にはいないかも知れないから。
だから、今のうちに伝えておこうと思った。

一旦言葉を切った幸鷹は、泰継の表情に変化がないのを確認してから、話を続けた。

「記憶を取り戻したことは、先日、母にも話しました」
初めて泰継の表情が動いた。それは、軽く目を瞠るという、本当に僅かな変化ではあったが。
それを見ながら、幸鷹は数日前の出来事を思い起こしていた。
数日前、父が他界した後出家した母を久しぶりに訪ねた。仕事は忙しいのか、身体の具合はどうかなど、他愛無い世間話をした後、記憶を取り戻した事を話した。久しぶりに会った息子の顔を見て微笑んでいた母の顔が、その話を切り出した途端凍り付いた。母は話を黙って聞いていたが、話し終えた時にはその場に泣き崩れ、詫びの言葉を繰り返していた。
その時の母の表情が、今も脳裏を離れない。
何時の間にか、幸鷹は泰継から視線を逸らし、顔を伏せていた。

幸鷹が口を閉ざすと同時に、泰継は小さく息を吐いた。
確かに幸鷹が言う通り、八年前、幸鷹の両親に請われ、彼の元の世界での記憶を封じ、京で生まれ育ったという偽りの記憶を与えるまじないを施したのは、数年前に亡くなった先代の安倍家の当主と自分だ。その時、初めて会った彼が纏う異質な気から、彼がこの世界の者ではないと推測してはいた。
その推測が正しかったことを知ったのは、神子と出逢ったからだった。異世界から召喚された神子が纏っていた気が、幸鷹のそれと同質のものだったから――。
だから、八葉として幸鷹が神子の傍にいる時間が長くなれば、いずれまじないは解けるだろうと危惧してはいた。亡き幸鷹の父の達ての願いだったので、なるべくであれば解けることの無いようにと監視はしていたつもりだが、やはり理には逆らえぬということか――。
だが、かなり強力なまじないだっただけに、それを解く際にはかなりの苦痛を伴ったはずだ。
(神子は、一体どうやって幸鷹のまじないを解いたのだろうか……)
その答えも、泰継には容易に推測出来た。
恐らく、幸鷹は神子に触れたのだ。まじないによる封印が完全に解かれるまで、ずっと神子に触れていたのだ。
――ずっと……。
何故か、胸が疼く。
答えは解っているのに、無性に気になってならない。
その時二人に何があったのか確かめずにはいられなくて、泰継は口を開いた。

「『神子のお陰』と言ったが、神子は、どのようにして、あのまじないを解いたのだ?」

発せられた声は、いつもと変わらぬ冷たいくらいに落ち着いた響きのように聞こえた。しかし、それが微かな震えを帯びていたことに、考え事をしていた幸鷹は気付いてはいなかった。
掛けられた声にはっと我に返り、幸鷹は顔を上げた。自分を真っ直ぐに見据えていた泰継と目が合った。普段凪いだ泉の如く静かで感情を読み取り難い瞳が、複雑な感情を孕んで微かに揺れている。それを見て取った幸鷹は、軽く目を瞠った。
本当に、彼は変わったと思う。だが、何故かそれを好ましいと思っている自分がいるのが不思議だった。
――彼女を、奪って行く男なのに……。
幸鷹は口元に微かに自嘲を帯びた笑みを浮かべた。

「手を、握っただけです」
泰継の眉がぴくりと上がったのを見て、幸鷹は言葉を継いだ。
「この京にある自分の存在に違和感を抱き、その不安定さから消え行くような感覚に襲われた私を落ち着かせようとして、神子殿が手を握っていて下さったのです」
その時だった。
激しい頭痛と共に、封印されていた記憶が次々と溢れ出て来たのは――…。
「恐らく、八葉として神子殿の傍にいる機会が増えた所為で、記憶封じのまじないが解け始めていたのだと思います。私は、神子殿と同じ世界の人間でしたから……」
「――やはり、な……」
目を伏せた泰継は、溜息を吐きながら呟いた。
花梨の纏う気と幸鷹の纏う気。二つの気は、明らかに同質のものだった。泰継が推測した通り、同質の気を持つ花梨の近くにいることで、まじないに綻びが生じ、花梨に触れることにより、その綻びが広がって完全にまじないが解かれたということだ。
泰継は顔を上げ、再び幸鷹を真っ直ぐに見つめた。
「お前の推測通り、八年前、お前の両親の依頼を受け、お前の記憶を封じ、偽りの記憶に塗り替えるまじないを施したのは、安倍家の当主と私だ」
「…そうですか……」
まじないを施したことを認めた泰継の言葉に、幸鷹は床に置かれた白湯の入った椀に視線を落とし、只そう返しただけだった。その反応を意外に思った泰継が、怪訝そうな表情を浮かべた。
黙り込んでしまった泰継を不審に思い、幸鷹が顔を上げると、訝しげに自分を見つめている泰継と目が合った。その表情から、幸鷹は彼の疑問を察した。
記憶を塗り替えるまじないを施した泰継や、それを安倍家に依頼した両親を責めないのか、ということだろう。
そう思った時、先日会った母の表情が、再び脳裏を過ぎった。

「私は、両親に感謝しています。見ず知らずの私を引き取り、自分達の子供として育ててくれましたから……」
幸鷹の表情が柔らかいものへと変化した。
「安倍家にまじないの依頼をしたのも、記憶が混乱していた私のためを思ってそうしたのだと理解しています。だから、責めることなど出来ません」
呟くように漏らされた言葉に、泰継が目を瞠った。

『この八年間、お前が私たちの息子でいてくれて幸せだった……』

記憶が戻ったことを伝えた時、泣き崩れて詫びの言葉を繰り返していた母が、最後にそう言ってくれた。その言葉だけで十分だと思った。何故なら、自分も、彼らの息子でいられて幸せだったと思ったからだ。
もし、今の両親が引き取ってくれていなかったら、知る人もないこの京で、どうなっていたか判らない。
(神子殿も、京に来られた当初は、心細い思いをされたのでしょうね……)
知る人もない、この異世界に突然連れて来られて……。
恐らく、記憶喪失状態だった幸鷹よりも、遥かに混乱したことだろう。この余りにも違う世界に。
幸鷹は、表情を改めて泰継を見た。
京に召喚された花梨が最初に出逢ったのは、泰継だったと聞いている。以来ずっと傍にいた泰継に花梨が想いを寄せるようになったのも、当然の成り行きだったのだろう。
あと数日で大晦日を迎え、同時に京を救うこの戦いも終わりを告げるはずだ。
そして、花梨は龍神の神子としての務めを終え、元の世界に帰るのだろう。
その時、泰継はどうするつもりなのか――。
(やはり、泰継殿は、神子殿と一緒に行くことを選ぶのだろうか……)
彼なら、意外と直ぐに、あの世界に馴染むことが出来るような気がした。
幸鷹がそんな事を考えていた、その時――…
暫くの間沈黙していた泰継が口を開いた。

「お前は、元の世界に帰らぬつもりなのか?」

静かな問い掛けに意表を突かれた形となった幸鷹は、大きく目を見開いた。怜悧な瞳が、まるで幸鷹の本心を探ろうとしているかのように、じっと見据えている。
暫くその視線を受け止めていた幸鷹は、やがて視線を逸らし俯いた。

――元の世界に帰るか、それとも京に残るか――…。

記憶を取り戻してからずっと考えていたが、まだ結論が出ていなかった。
もし京に残ったら――…
行方不明のまま生死すら分からない状態となっている自分を、元の世界の家族はきっと捜してくれているはずだ。いつかきっと、帰って来ると信じて。
そんな家族を裏切ることになってしまう。
しかし、もし元の世界に帰ったら――…
この世界に迷い込んだ自分を引き取り、自分達の息子としてこれまで育ててくれた藤原の両親の恩に報いることも出来ない。
どちらを選択しても、必ず誰かを泣かせてしまう。
幸鷹にとっては、今や京も元の世界も自らの故郷であり、藤原の両親も元の世界の家族も、大切な家族だった。だから、なかなか決心出来ずにいたのだ。
数日後には、どちらかを選択しなくてはならないというのに――。
ぐずぐずといつまでも迷っている自分が、不甲斐なく思えた。

「…まだ、決めていません……」
長い沈黙の後、幸鷹は呟くように答えた。
「恥ずかしいことですが、この期に及んで、まだ決心出来ずにいるのです」
顔を上げた幸鷹の顔には、自嘲を帯びた笑みが浮かんでいた。
「そうか……」
泰継が小さく息を吐く。
「だが、恥じる必要はない。時間はまだある」
自嘲したように微笑む幸鷹に、泰継はそう告げた。幸鷹が迷うのも無理はない。彼がどちらを選ぶにしても、それが苦渋の選択となることは間違いないだろう。
泰継の言葉に軽く目を瞠った後、幸鷹は微笑んだ。以前の彼なら、今の自分のように揺れ動く心を持て余している者に対して、そのような言葉は掛けなかったのではないだろうか。
本当に、彼は変わったと思う。
(神子殿の力は、偉大なものですね……)
彼女の存在が、自分を始めとする八葉たちに如何に変化を齎したか――。だが、八葉の中でも最も変化が顕著なのは、泰継ではないかと思う。

「……泰継殿は、神子殿と一緒に、あちらの世界に行かれるのでしょう?」

誰もが気にしてはいても敢えて口にはしない疑問を、幸鷹は泰継にぶつけてみた。花梨の性格を考えると、彼女は泰継のために「京に残る」と言うかも知れない。しかし、幸鷹には泰継がそれを許すとは思えなかった。それは、泰継が陰陽師という、誰よりも理を重んじる立場にあるということもあるが、むしろ花梨が自分のために元の世界や家族を捨てることを、彼が良しとするはずがないと思うからだった。
幸鷹を真っ直ぐ見つめたまま、泰継が口を開いた。
「役目を終えた神子が元の世界に帰るのは道理。だが、出来る事ならば、ずっと神子の傍にいて、神子を守りたい」
真摯な瞳に、幸鷹は目を逸らすことが出来なかった。

「私は、神子と共に行く」

もし、自分が付いて行くことを花梨が許し、そして龍神が許してくれるのならば……。
他に望む事はない。
花梨の傍にいられるのであれば、どんな試練でも受ける。

自らの選択を、泰継ははっきりと口にする。その気持ちは、かなり前から固まっていたのだ。
愛する者のために、自分が生まれ育った世界を捨て、未知なる世界へ旅立つ決意をした泰継――。
その潔さに、幸鷹は未だどちらも選ぶことが出来ずにいる自分が情けなく思えた。

「私は……。泰継殿が羨ましい……」
思わず本音が漏れる。
もし、彼女が自分を選んでくれたなら、迷うことなく二人で元の世界に帰っただろう。
叶わぬ願いに、小さな溜息が零れた。それを見た泰継が、怪訝そうな表情を浮かべている。
「お前は、私よりしがらみが多いだけだろう。私には、京に無くして困るものが無いだけだ」
「…そうかも知れません……」
幸鷹は小さく笑ってそう答えた。自分の言葉の意味を泰継が取り違えていることを、幸鷹は敢えて訂正することはしなかった。

それきり、二人の間に沈黙が流れた。





「見送りは結構です」と言う幸鷹を式神に門まで案内させた泰継は、幸鷹の姿が庭木の向こうに消えるまで簀子縁から見送った。しかし、彼の姿が見えなくなった後も、泰継は簀子上に立ち尽くし、庭に視線を遣ったまま物思いに沈んでいた。

紫姫の館で毎日のように顔を合わせていたにも拘らず、幸鷹がわざわざ安倍家を訪ねて来たことから、彼の用件があのまじないに関する事だろうと思ってはいた。恐らく、まじないが解けたと伝えに来たのだろうと。
しかし、あれ程解けないようにと監視していたはずなのに、実際に幸鷹の口からまじないが解けたことを聞いた時、何故かほっとした自分に驚いた。それは、仕事の失敗を意味していたのに……。

冷たい、身を切るような風が、泰継の髪を撫でて行った。前栽に視線を落としていた泰継は、風が来た方向を辿るように顔を上げた。その時、白いものが落ちて来るのが目に入った。
―――雪だった。
空を見上げると、何時の間にか灰色の雪雲が垂れ込めていた。

恐らく、あのまじない自体が、理に反する行為だったからだろうと思う。幸鷹がまじないにより封じられた記憶を取り戻し、そして元の世界へ帰るのは当然の事だ。それこそが、理に従った自然な流れであるから。
それなのに、元の世界に帰るか、それとも京に残るか迷っていた幸鷹を、理に従い帰るように説得することは、泰継には出来なかった。
それは、泰継自身が理に反する願いを抱いていたからだった。
泰継の唯一の願い。それは、神子と共に、神子の世界へ行く事――…。
京で生を受けた泰継が神子の世界に行く事は、理に反する事に他ならない。
それでも、願わずにはいられなかった。もう、神子と離れることなど、耐えられそうになかったから…。
だから、幸鷹に「元の世界に帰れ」とは言えなかった。
(私には、そんな資格はないな……)
白皙の美貌に、自嘲を帯びた笑みが浮かぶ。
数日後には、幸鷹が出した結論を聞くことが出来るだろう。
どちらを選ぶにしても、幸鷹自身が選択したのであれば、それでいいと思う。彼自身の人生なのだから。

ゆっくりと舞い落ちて来る雪を、泰継はいつまでも見つめていた。





その夜―――…


安倍本家を辞し、自邸に戻った幸鷹は、検非違使別当としての職務に当たっていた。しかし、書類に目を通していても、いつものようには捗らなかった。
今夜は、これ以上仕事をするのは無理かも知れない。どうしても集中することが出来ないのだ。
ふう、と溜息を吐いた幸鷹は、読んでいた書類から顔を上げた。無意識に眼鏡に手を遣り、かけ直す。
文机に置かれた紙燭の炎が微かに揺れているのを眺めながら、幸鷹は何時の間にか物思いに沈んでいた。

『お前は、元の世界に帰らぬつもりなのか?』
『…まだ、決めていません……』

泰継の問いに対してそう答えたのは、正直な気持ちだった。だが、少し正確ではない。決めていないのではなく、決心出来ずにいただけだ。

――京に残ることを―…。

記憶を取り戻した当初は、元の世界に帰るか京に残るか、迷っていたと思う。京で責任ある立場にある自分が、全てを放り出して帰っていいのかと思い、また、元の世界で帰りを待っている家族を裏切ってもいいのかとも考えた。
どちらとも決めることが出来ず、揺れ動いていた気持ちが京に残るという選択肢に傾き始めたのは、母に会ったからだった。
八年間、息子でいてくれて幸せだった、と……。
そう言ってくれた。
その時、心から思った。
自分も、父と母の息子でいられて、良かったと。

『本当の両親の元へ帰る術があるのなら、帰りなさい』

不意に、母の言葉が脳裏に甦った。
母は、どのような気持ちで、その言葉を発したのだろう。
正妻でありながら、母はずっと子宝に恵まれなかったのだと聞いている。だから、何処から来た者かも判らない、血の繋がりのない自分を息子として迎え、慈しんでくれたのだろう。本当の息子以上に。
だからこそ、母を独りには出来ないと思う。
母の息子は、自分以外にはいないのだから。

幸鷹は目を閉じた。
記憶を取り戻してからというもの、こうして目を閉じると、元の世界の家族の顔が目蓋に映る。別れた時と変わらない姿の両親と兄弟の笑顔だ。
それだけで、目頭が熱くなる。二度と彼らの面影を忘れることはないだろう。
睫を微かに震わせ、幸鷹は目を開いた。
最初に目に入ったのは、文机の上の紙燭の炎。その炎が先程より揺れているように見えるのは、隙間風のせいではなかった。眼鏡を外して目を閉じると、目尻に溜まっていた涙が零れ落ちた。透明な雫が、仄かな明かりに照らし出された頬を伝い落ちて行く。

「お父さん、お母さん、申し訳ありません……」

目蓋に映る懐かしい面影に、何度も詫びの言葉を繰り返す。どんなに謝っても、許される事ではないことは分かっているけれど。

やはり、これまで自分を育んでくれたこの京と藤原の母を捨てることは出来なかった。もし龍神が許してくれるのであれば、此処に残りたい。神子と共に向こうの世界に行く決意をした泰継と交換でも構わない。
京に、残りたい――…。
今、心からそう思う。

閉じていた目を再び開いた時、幸鷹の瞳はまだ潤んではいたが、新たに零れて来る涙は既になかった。ふと、文机の上に置いてあった硯箱が目に入った。
その時、ある考えが閃いた。
泰継の言う通り、すべてが終わった後、もし神子が元の世界に帰るのであれば――…。
もし許されるなら、元の世界にいる家族に、自分が生きている事だけは伝えたい。
浅ましい願いだと分かってはいるが、そう願わずにはいられない。

暫くの間逡巡していた幸鷹は、やがて硯箱の蓋を開けた。
神子に託す文を認めるために――。


紙燭の小さな炎が、決断を下した幸鷹の横顔を、夜の闇の中に照らし出していた。







〜了〜


あ と が き
「二つの選択」というお題の意味を考えて先ず思い浮かんだのは、最終日の神子の選択でした。京に残るのか、それとも元の世界へ帰るのか――という選択ですね。
ただ、神子で書くと、ゲームのストーリー通りになってしまって面白くないと思ったので、同じ事を神子と同じ立場の幸鷹さんで書いてみようと思いました。そこでゲームでは触れられていない、幸鷹さんが泰継さんに記憶を取り戻した事を伝える場面を話にしてみたのが、このお話です。前述の、「京に残るのか、元の世界に帰るのか」という「二つの選択肢」という意味と、「幸鷹さんの選択と泰継さんの選択」という「二人の選択」という意味を、このお題に関連付けたつもりです。
創作部屋の「星月夜」と同じく、花梨ちゃんは帝側神子で泰継さんとエンディングを迎える予定、幸鷹さんは障害のある恋イベントを全て終えている、という設定になっています。「星月夜」の回想シーンの数日前、こんな事があったのではないかと思いまして……。
幸鷹さん、八葉の中ではどちらかと言えば書き易い人のようです。でも、彼の揺れる心が書ききれているかと言われると、笑って誤魔化すしかないですが(笑)。
恐らくあと一話、幸鷹さんと泰継さんのお話がお題で登場するのではないかと思います。そちらは院編の設定で、泰継さんの視点から書いてみたいと思っています。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
themes' index top