03 文
「泰明様。龍神の神子様から文が届いておりますが……」

散策を終えた神子を左大臣邸に送り届け、安倍晴明邸の自室に戻った泰明の元に、女房姿の式神が文を持ってやって来た。

淡香色の薄様の結び文には、山吹の花が添えられている。
それを見た泰明の口元に微かな笑みが浮かんだ。
文の内容は、読まなくても判っていた。明日は神子の物忌みに当たるので、付き添いの依頼だろう。
式神から文を受け取った泰明は、文の内容を確認した後、左大臣家の使いに「必ず行く」と返答するよう式神に命じた。


誰もいなくなった部屋で、泰明はもう一度神子からの文に視線を落とした。
手習いを始めたばかりの子供が書くような文字で、「明日の物忌みに来てくれませんか」とだけ書かれた文から、微かに菊花の香りが漂ってくる。
淡香の紙、山吹の花、そして焚き染められた菊花香――…。
すべて泰明の好みのものばかりだった。
何故、神子が自分を呼んだのか不思議だった。
今まで二回あった物忌みでは、神子はいつも泰明を呼んでいたのだが、さすがに今回は呼ばれないだろうと思っていたのだ。
つい先日、「私は人ではない」と、神子に告げたところだったから……。


「泰明……」
名を呼ばれ、泰明は顔を上げた。視線の先に、一匹の蝶がひらひらと舞うように飛んでいた。
――泰明の師、晴明の式神である。
「神子殿から文が届いたのだろう?」
蝶は泰明が手にしていた山吹の花に止まり、ゆっくりと翅を動かした。
師の言葉に泰明が小さく溜息を吐く。この屋敷で起きた事で、晴明の耳に入らぬ事はない。先程文を持って来た式神を通して、すべてお見通しというわけである。
「明日の物忌みに呼ばれた」
「ほう」
式神を通して、晴明は泰明が手にしていた文を見た。
淡香の紙から微かに漂う香りは菊花香。そして添えられた山吹の花。いずれも泰明の好みのものである。
筆を使い始めたばかりのたどたどしい文字を見遣り、自然と笑みが零れた。
「寮の仕事のほうは心配いらぬから、八葉としての務めを果たしなさい」
龍神の神子の降臨については、内裏でも限られた人間しか知らされていない秘密事項である。もちろん泰明が八葉に選ばれたことは、陰陽寮内でも陰陽頭以外に知る者はいない。
北の札を探している現在、泰明はほとんど陰陽寮には出仕せず、毎日のように神子と共に行動している。元々晴明の命を受けて行動することが多い泰明は、出仕日数はそう多くないほうである。それ故、このところ出仕していないことも、陰陽寮内では晴明から命じられた仕事のせいだろうと思われているらしい。
晴明は陰陽頭に協力を仰ぎ、泰明が八葉の務めを果たしている間、寮の仕事よりも八葉の務めを優先できるように取り計らってもらっていた。
「無論、務めは果たす」
晴明の言葉に泰明はそう答えたが、その表情を見た晴明は怪訝そうな表情を浮かべた。
晴明の手によって作られてから、泰明の人形のように美しい顔に、表情と呼べるものが浮かぶことはほとんどなかった。
それが今、明らかに困惑したような表情が浮かんでいるのが見て取れるのだ。
「どうかしたのかね?」
訝しげに訊ねる師に、泰明は手にした文を見つめたまま、間を置いて答えた。
「何故神子が物忌みに私を呼ぶのか解らない」
「解らない……?」
鸚鵡返しに訊き返す晴明に、泰明は首を縦に振った。
「人が人ではないものを疎むのは当然のことだ。それなのに、神子は私が人ではないものと知っても、これまでと同じ態度で私に接する」
それが泰明には理解できないことらしい。
陰陽寮内でも、また兄弟子たちの間でも、人並み外れた力を持つ泰明を疎む者は多い。他人からそういう扱いを受けることに慣れてしまい、仲間として普通に接してくる神子や八葉たちのほうが、泰明にとっては奇異に映るのだろう。
特に神子には、自分が晴明に作られたものであることを明かしている。それなのに、これまでと変わらず物忌みの付き添いを依頼して来た神子の意図が、泰明には解らないのだ。
(やれやれ……。神子殿のおかげで、少しは感情というものが解って来たかと思ったが……)
神子は京に来てから何回かあった物忌みの前日、決まって泰明に文を送って来ていた。毎回、今夜送られて来たものと同じく、淡香色の紙に菊花香を焚き染め、山吹を添えて。
物忌みのたび、泰明の好きなものを揃えて文を送って来る神子の気持ちは、晴明には察しが付いていた。
「その答えを知るのは、お前にはまだ早いのかもしれぬな……」
「お師匠……?」
師の言葉の意味が解らず問い返す泰明には答えを与えず、蝶は翅を動かして山吹から飛び立った。しかしすぐには飛び去らず、まるで主の考え事が終わるのを待っているかのように、しばらくの間泰明の目の前に留まっていた。
師の沈黙を訝しんだ泰明が再び声を掛けようとした時、式神が晴明の言葉を伝えた。
「答えは自ずと知れよう。それまで、八葉として神子殿の力になりなさい」
それだけを伝えると、蝶は庭の方へ舞うように飛んで行く。
「お師匠……っ!」
師から納得のいく答えを得ることが出来なかった泰明は、飛び去ろうとする蝶に追い縋るように腰を浮かせた。しかし蝶は漆黒の闇に銀色の鱗粉を微かに煌かせた後、姿が見えなくなってしまった。
晴明にそれ以上の事を教える意思が無いことを悟った泰明は、溜息を吐いてその場に座り直した。
何故神子が物忌みのたびに自分を呼ぶのか解らなかった。
人ではないと告げたはずなのに――…。
しかし、泰明にはそれ以上に解らないことがあったのだ。

――さっき、式神が運んで来た神子からの文を見て、胸の辺りが温かく感じられたのは何故なのだろうか?

淡香の紙、菊花香、そして山吹の花――。
すべてが自分の好みのものだったからだろうか。

泰明は再び手にしていた文と山吹に目を向けた。
(違う――…)
それだけではない、と泰明は思う。
明日が神子の物忌みであることは、もちろん知っていた。
しかし、今回の物忌みには、神子は他の八葉を呼ぶものと思っていた。
それなのに神子は、泰明の好みのものを揃えて文を送って来た。
今までと変わらず――。
それを見た時、確かに何かを感じたのだ。
今まで感じたことのない何か――。
それが何であるのかを考えた泰明は、ある事に思い至った。
あの時――…。
届くはずがないと思っていた文を見て、思わず口元を綻ばせた。
その事実に、自分でも驚いたのだ。

(私は……、神子からの文を、待っていたのだろうか……?)

庭から入って来た心地良い風が、翡翠色の髪と色白で滑らかな頬を撫でるように通り過ぎて行き、その先にあった燈台の炎を揺らせた。
手に持っていた淡香の薄様が、風に煽られ小さな音を立てた。
それをじっと見据えたまま、泰明は考え事に沈んでいた。

この気持ちは何なのだろうか。
理解できない事があるということが、何故か落ち着かない。
こんなことは生まれて初めての経験だった。
これまでは、どんな疑問があっても、師に教えを請うなり書物で調べてみるなりして、必ずその疑問は解消することが出来た。
ところが今回は、晴明は疑問に答えてくれそうにない。今まで読んだどの書物にも書かれていなかったことだから、調べようもない。
「答えは自ずと知れる」と晴明は言ったが、泰明には自分にこの疑問に対する答えを導き出すことが出来るとは思えなかった。
泰明は空いていた手で無意識に首飾りを握り締め、再び嘆息した。


『お主、泰明に幸福を呼ぶかもしれぬな』

不意に、神子に自分の出生を告げたあの日、北山の天狗が言っていた言葉を思い出した。
「幸福を呼ぶ」と天狗は言ったが、「幸福を呼ぶ」どころか、あれ以来、今までと同じ態度で接して来る神子を見ていると、何故か胸が苦しく感じられるようになった。
神子の笑顔を見ているのが辛いのだ。
人である神子と、人ではない自分との間に存在する、壊すことの出来ない壁がそこにあるように思えて……。
いっそ、兄弟子たちのように、疎ましいと思ってくれたほうが楽だったかもしれない。
そうすれば今まで通り、神子の道具として、神子の役に立つことができるだろう。

『八葉として神子殿の力になりなさい』

無論、師に言われるまでもない。
そのために私は存在しているのだから――…。

泰明は手にしていた文と山吹の花を、傍に在った文机の上に置いた。

『答えは自ずと知れよう』

お師匠がそう言われるのならば……。
その時が来るまで、道具として神子の傍に在り続けよう。

風に煽られた文が、かさりと乾いた音を立てた。





自室で杯を傾けていた晴明は、俯き加減だった顔を上げ、御簾越しに外へ視線を向けた。
手入れが行き届いているとは言えない庭の漆黒の闇の中から、一匹の蝶がぼんやりとした銀色の光を放ちながら、晴明の元にひらひらと飛んで来るのが見えた。
杯を置き、こちらに近付いて来る蝶へ手を差し出すと、蝶は迷うことなく主の指先に止まった。次の瞬間、蝶の姿をした式神は一瞬にして符に姿を換え、晴明が返した掌に収まった。
手の内にある符をしばし見つめていた晴明は、小さく息を吐くとそれを膳の上に置き、再び杯を手に取った。それに口を付けようとして、ふと杯の中でゆらゆらと揺れている酒に映る自身の顔が目に留まり、手を止める。杯の中からこちらを見つめている自分の顔を眺めたまま、泰明のことを思った。

二年前、この屋敷の庭に桔梗の花が咲き乱れる頃、北山の天狗と晴明の力により生み出された泰明――。
それからずっと、彼の成長を見守ってきた。
生まれ出た瞬間から言葉を話し、晴明の力をそのまま受け継ぐ者として稀有の才能を持っていた泰明だが、その心は生まれてすぐの赤ん坊のように真っ新で無垢な状態だった。大人の身体を与えられ、豊富な知識を持っていても、ただ心だけは女人の腹から生まれたばかりの赤子のようだったのだ。稀代の陰陽師・安倍晴明の力を以ってしても、人が生きる過程で自ずから学んでいく感情というものは、生まれたばかりの泰明には与えることが出来なかったのだった。
しかし、それで良かったと晴明は思っている。泰明が人として生きていくためには、時間をかけて人と同じように自らの力で感情というものを学び取っていく必要があると考えたからだ。
その時こそ、泰明は人となり、幸せというものを知ることになるだろう。
それまで、泰明を生み出した父親として彼の成長を見守りたいと思う。

晴明は杯を口に付け、残っていた酒を一息に飲み干した。傍に侍っていた女房姿の式神が、差し出された杯に酌をする。
再び杯に満たされた酒を見つめた晴明は、先程愛弟子が見せた表情を思い浮かべた。

式神に手渡された神子からの文を見た時の微笑み。
そして、神子が自分を呼ぶ理由が解らず見せた、戸惑いの表情――。
いずれも、今まで全くと言っていいくらい泰明が見せたことのない表情だった。
八葉に選ばれてから、いや、神子と出逢ってから、泰明は確実に変わりつつある。

『晴明……。あの娘、泰明に奇跡を齎すかもしれぬぞ』

晴明と共に泰明を作った北山の天狗が、そう言った。
先日、天狗は「龍神の神子に会わせろ」と泰明に迫り、北山まで神子を連れて来させたのだ。
実はその時のことは、晴明も式神を通して見ていた。
元々、神子に会いたいと思っていたのは晴明のほうだった。しかし、左大臣家に式神を放てば、神子と接触したことを泰明に知られてしまう可能性が高い。それで天狗と相談の上、北山まで神子に来てもらうことにしたのだ。天狗の気に隠してしまえば、泰明に式神の存在を悟られることもないだろうから。
異世界からやって来たという神子は、まだ幼さの残る少女だった。
しかし、真っ直ぐに人を見つめる緑色の瞳の輝きに、芯の強さが表れているように思えた。
それでいて、泰明を見つめる瞳には優しさが溢れている。
――よい娘だ、と思った。
だから泰明も、これまで誰にも話したことがなかった真実を、彼女に告げたのだろう。
その結果、泰明の中に何かが芽生え始めていることを感じることが出来るようになった。
それは、神子への恋情なのだと晴明は思う。
泰明自身もそれが何であるのか理解してはいないようだが、自分の内に起きた変化には気付いているようだ。それは先程彼が見せた戸惑いの表情を見ても解る。
これから先、泰明は感情を持つことから生み出されるあらゆる苦しみを経験し、それを乗り越えて行かなければならないだろう。その手助けは、晴明には出来ない。それは泰明自身の力で越えなければならないことだ。
それを乗り越えてこそ、感情を持つことから生み出される喜びを知ることができるだろう。

晴明は酒を見つめたまま短く呪を唱えた。
すると酒の表面に、自室にいる泰明の姿が映った。どうやら、神子からの文を見つめたまま考え込んでいるようだ。

――神子のことを考えているのだろうか……。

北山で見た神子の面影が脳裏を過ぎる。

私でさえ成し得なかったことを、あの娘なら叶えられるかもしれない。
彼女こそ、泰明に「愛しい」という感情を齎し、私が彼に施した封印を解くことが出来る存在だと信じたい。


(願わくば、泰明に幸福を齎してくれんことを……)


晴明は、杯の中の酒を飲み干した。







〜了〜


あ と が き
「文」というお題を見て、「泰継さんの物忌みの話は書いたけど、泰明さんはどうだったんだろう」と思って書いてみました。
通常恋愛第二段階の直後の設定になっています。そのため甘さは全くなし(笑)。
この頃の泰明さんって、「神子と同じ人になりたい」と思い始める頃かなと思います。それで、あかねちゃんからの文を見て、自分のうちに芽生え始めた新たな思いに戸惑う泰明さんと、そんな泰明さんを見守る親バカお師匠を書きたかったのです。しかし、終わってみれば思っていたよりもシリアスな話に……。私にはシリアスは似合わないんだけどなあ(^^; でも、うちのお師匠、そのうち「八葉としてだけではなく、一人の男として神子殿を守りなさい」とか泰明さんに言いそうな気がします(笑)。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
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